第 5 章
ISLAMIC ARCHITECTURE in CHINA
新疆ウイグル自治区建築

神谷武夫

新疆ウイグル地図
新疆ウイグル自治区のイスラーム建築地図

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01 ハミ 哈密 (ハーミー)**
  HAMI 新疆ウイグル自治区

哈密回王陵複合体 **
HUI WANGLING (MONARCH MAUSOLEUM)
全国重点文物保護単位

ハミ   ハミ

 中国内地から西方へ向かうと、広大な新疆(しんきょう)ウイグル自治区の入口にあたるオアシス都市が 哈密(ハミ)である。天山北路・南路への「大きな門」を意味する古代ウイグル語のハミが、都市名の起源と も言われている。この自治区は広大といっても、中央部には巨大なタクラマカン砂漠が横たわり、東側はクムターグ砂漠、南のチベット自治区側には崑崙山脈と、居住に適さない地域が過半を占めるので、ウイグルの都市は北部から西部にかけて鎖状に連なっている。東端のハミから西端のカシュガルまで、かつてのシルクロードには鉄道が通り、道路もよく整備されているので、空路とあわせ、現在は交通に不便な地域ではない。
 ハミは、甘粛省の敦煌から北山山脈を越えると現れる ハミ盆地の中心都市で、かつては昆莫(クンモ)、次いで伊吾(イーウ)と呼ばれた。紀元前から続く重要な東西交易都市だったが、現在は人口約 50万の中都市である。清朝の領土となったのは 17世紀末で、以後中央アジアの文化と中国文化が混交した。清朝に服しながら、康煕 36年 (1697) から民国 19年 (1930) に至るまで 233年間にわたって ここを統治したイスラーム政権が、ハミ王国である。
 ハミ市の西南2kmの地に 現在復元されつつある回王府の宮廷地区が すべて中国式の木造建築であるのに対して、隣接する回王陵(フイ ワンリン)とモスクの地区は ずっと中央アジア的であり、レンガ造のアーチやドーム、そしてタイル仕上げが用いられている。この地区は 1709年に 初代ハミ王がこの地に埋葬されて以来、王家の歴代の王墓が建てられたが、今ではレンガ造の廟が 1棟と、レンガと木造の混構造の廟が 2棟、それに木造モスクの 4棟のみが残る。墓廟は 拱北(ゴンベイ)あるいは 拱拜(ゴンバイ)と呼ばれ、王のほかに王妃、および その家族も同じ堂内に葬られた。
 最大の拱北は 1868年に建立された 7世・伯錫爾(博錫爾)(ボシル)王のもので、8世王と 両王の家族 40人の墓も納められている。 ペルシア・中央アジア型のレンガ造建築で、間口 15mに奥行 20mの矩形プランに壁を立ち上げ、すべてタイルで覆った。ファサードはイーワーンをなし、両側のミナレット状の円筒内部の螺旋階段で屋上に上れる。ところが このイーワーンの開口は円形アーチではなく切妻のような三角形をしている。イーワーン内や両側の壁に描かれたパターンも三角アーチなら、内部の各壁面の浅いニッチも、さらにはドーム天井を支える抹角(スキンチ)さえも三角アーチである。天井(屋根)は円錐形ではなく、内径 9mの半球状ドームになっているので、なぜ その下部が三角形に固執したのかは不明である。こうした三角アーチは新疆地方にしばしば用いられ、トゥルファンやクチャ、コルラなどのモスクに見られよう。
 外壁だけでなく、内壁もドーム屋根も正方形の彩釉タイルで覆われているが、ここに限らず、新疆地方のタイル・デザインはペルシアや中央アジアのようには精緻にならなかった。またムカルナス装飾がまったく用いられていないのも、新疆のイスラーム建築の特色である。

ハミ   ハミ

 この南側には、かつては5棟の拱北が並んでいたが、現在は2棟のみ残る。 手前が最後の9世王とその妻子の墓で、後方がその他の歴代の王の墓である。これらもまた不思議な作り方をしている。どちらも 重檐(チョンヤン)(二段重ね屋根)になっていて、上階の壁が すべて繊細な格子細工で、奥が透けて見える。ところが中に入ると、手前の廟では水平に天井が張られ、後方の廟ではドーム天井となっていて、上階が トップライトの役割を果たしているわけではないことに 驚ろくのである。2階に上る階段もないから、部屋になっているわけでもなく、上階は単なる飾りであろうか。
 さらに、手前の廟では レンガ壁に 太い二段重ねの火打ち梁を架け、その上に立てた束柱に 矩形の水平天井を架けて壁から浮かせ、そこから周囲に 下屋(柱廊)の屋根を架けるという、複雑な構法をとっている。また後方の廟では 外壁の開口部が半円アーチであるのに、抹角(スキンチ)は三角アーチである。どちらも仕上げにタイルは用いず、後方の廟では壁紙を貼っている。なぜ かくも 北側の7世王の拱北と、構造もデザインも変えたのであろうか。

ハミ   ハミ

 これらの拱北と向かい合うのが 18世紀に第4代 玉素甫(ユースフ)王が建立した大規模なモスクで、巾が 36m、奥行が 60mもある。名前の艾提卡(アッティカ)大礼拜寺というのは、カシュガルの同名のモスクと同じく エディガールとも言い、ペルシア語の イードガーの音訳である。カシュガルの項で詳しく述べるが、イスラームのイードの祭りに 全市民が集団礼拝できるような大規模な礼拝場所がイードガー・モスクである。ハミの大礼拝寺では、1,800人が同時に礼拝できるという。
 内部には 108本の木造柱が立ち並び、中央アジア式の列柱ホール型モスクとなっている。つまり中国式のように寄棟や入母屋の大屋根を 雄大な小屋組みが支えるのではなく、どこまでも連続する フラット・ルーフの列柱空間である。雨の多い内地では 勾配屋根にする必要があるが、ほとんど降水量のない新疆地方では、フラット・ルーフの上に 土を踏み固めれば済むのである。
 内地の中国式モスクでは 柱の頂部に特別な意匠を施すということはないが、中央アジア式では、列柱の柱頭が 葡萄の房のように 上が膨らんだ装飾的なデザインとなる。そして新疆における ムカルナス装飾 は この部分にのみ現れるのである。
 外壁は耐震性を受けもつために 開口部を設けず、天井を数箇所持ち上げて 採光をしている。その藻井(そうせい、ザオチン)には 極彩色の植物紋が施されていたが、その過半が剥落してしまった。中国式とちがって後窰殿は設けず、その代わりに ミフラーブまわりを 幾何学紋とアラビア語のカリグラフィーで装飾している。




蓋斯麻扎(ガイス・マーザー)*
GAISU MAZA

ハミ   ハミ

 「麻扎(マーザー)」とは アラビア語のマザールの音訳で、スーフィー聖人の墓廟をさす。 瑪扎とも書く。マザールの本来の意は「参詣場所」であるから、建築的用語であるよりは宗教的用語である。「拱北(ゴンベイ)」 はドームを意味するペルシア語のグンバドの音訳であるから、これは建築用語である。したがって前項のハミ王陵は 拱北 であるが、聖者廟ではないので 麻扎 とは言わない。それに対して、ハミ市の西郊外にある蓋斯の墓廟は 拱北 と呼んでも 麻扎 と呼んでもよい。内地では聖者廟も ゴンベイ と呼ぶことが多いが、新疆地方では マーザー の語が好まれた。
 では 蓋斯(ガイス)とは誰かというと、中国南部の 広州の項で書いた 斡葛斯(ワンガス)と関連のある、伝説上の人物である。ことは、中国へのイスラームの伝来を ごく初期のことにしようという、17世紀の作為的な書『回回原来』の記述に由来する。唐の貞観2年 (628) に ムハンマドが3人の布教者を唐に遣わしたが、2人は途中で没し、1人だけが中国に来て布教した というのである。それは該思(蓋斯 カイス )、呉哀思(吾外斯 ウアイス )、挽個子(斡葛斯 ワッカース )の3人ということにされ、そのワッカースに結び付けられた墓が 広州の 斡葛斯墓である。
 それに対して、中国に布教したのは カイス(カーシムの転訛?)であったとして、新疆と甘粛省の境の星星峡にあった 宣教師の小墓と結び付けられ、ハミ王が その上にドーム屋根を架けて麻扎(マーザー)とした。さらに 1939年に ハミの信徒たちが それを改葬して、ハミに建てたのが この廟である。ドーム屋根が緑色の瑠璃タイルで覆われていることから、「緑拱北」(ルー ゴンベイ)とも呼ばれている。
 カイス麻扎は レンガ造の墓室にドーム屋根を架け、周囲に木造の回廊をまわしたシンプルな建物である。ただ 回廊は巾が広いので、土壁にも柱を添わせて 外周の柱との間に梁を架け渡し、その上に屋根架構を載せている。ドーム屋根の高さは 15mである。
 廟の脇には管理人の住居があり、背後には墓地が広がっている。


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02 トゥルファン 吐魯番 (トゥールーファン)***
  TULUFAN 新疆ウイグル自治区

蘇公塔 礼拝寺 ***
SUGONGTA MOSQUE
全国重点文物保護単位

トルファン   トルファン

 ハミ盆地に続くトゥルファン盆地の中心をなすオアシス都市が 吐魯番(トゥルファン、トゥルパン)である。ここからシルクロードは天山北路と天山南路に分かれる。現在は人口 25万の中都市で、その7割がムスリムのウイグル人だという。この東方2km郊外の木納村にあるのが 中国で最も名高いミナレット、蘇公塔(スゴン ター、そこう とう)で、建立者の名前から 額敏塔(エミン ター Emin Minaret) とも呼ばれる。高さ 44m という中国一の規模もさることながら、その表面のレンガ積みの装飾効果の見事さから、ブハラ(ウズベキスタン)のカラーンの塔(ミナレット)と並んで、世界で最も優れたレンガ造ミナレットと見なされる。そのために、本来ミナレットはモスクに付属するものだが、ここではあたかもモスクがミナレットに付属するかの如き観を呈し、大堂を含めた全体が「蘇公塔礼拝寺」の名で呼ばれるようになった。
 清の乾隆帝が東トルキスタンを征服して「新疆」(シンチャン、新しい土地 の意)の名で領土とするのに貢献した ウイグル族の和卓(ホージャ、宰相)の額敏(エミン、アミーン)は、トゥルファン郡の王に任ぜられていた。 彼は皇帝への感謝の意を込めて、83歳の時に このモスクの建設に着手したが、その途上に世を去った。そこで息子の蘇公、すなわち蘇来曼(スライマーン)が王位を継ぐとともに、翌年の 1778年に塔を完成させたので、「蘇公塔」の名がついた と伝えられる。 ホージャ額敏が皇帝への恩に報いるために建てた という意味で、「額敏和卓報恩塔」とも呼ばれた。建築家の名前は 伊不拉欣(イブラーヒーム)という。

 アッバース朝の首都であったバグダードから 中央アジアまで続くペルシア文明圏は砂漠的風土に属し、樹木の不足と良質の石材の欠如から、主要な建設材料を 土 とせざるをえなかった。ペルシア建築は、土を天日に乾かした「日乾しレンガ」と、土を焼いた「焼成レンガ」を基本とする。 13世紀以後のペルシアは カラフルな彩釉タイルを発展させていくが、それまでは 建物表面もレンガで仕上げた。その方法はレンガの積み方によって さまざまな幾何学パターンを生じさせることで、時には彫刻の手も加えることによって アラビア語のカリグラフィーまでも表現した
 中国では 日乾しレンガを「坯」(ピー)、焼成レンガを「磚」(チュアン)という。「せん」は土を材料とするという意味では「塼」と書くが、石のように硬いという意味で「磚」と書き、瓦の一種として「甎」とも書いた。現代では 磚 と書くのが一般的である。
 蘇公塔礼拝寺は、礼拝大堂が坯造で、ミナレットが磚造である。高層のミナレットは 日乾しレンガだけでは崩壊の危険性があるし、また表面に彫刻的効果を出すには 硬い材料が必要だったのである。本来ミナレットは礼拝の呼びかけをするための塔だから、これほど巨大である必要はない。底部の直径が 14m、頂部の径が 2.8mという 高大でモニュメンタルな塔を建てたのは、あるいはデリーのクトゥブ・ミナールのような「勝利の塔」という記念性か、さもなければ 物見塔のような軍事的意味が意図されたはずである。実際 このモスクは 全体がまるで要塞のような趣をしているので、劉到平は『中国伊斯蘭教建築』において、宗教施設の名の下に軍事的な役割が与えられていたのであろう と推測している。
 塔の外観は巾の違った 15の層に分けられ、それぞれに異なった幾何学パターンがタイルの化粧積みで描かれている(三角紋、四弁花紋、団花紋、水波紋、菱格紋等)。中で目を引く花模様が八弁形ではなく、作図の難しい九弁形をしているのは、彼らの幾何学への探究心をうかがわせよう。内部には 75段の螺旋階段があり、頂部の部屋に通じている。

平面図
蘇公塔礼拜寺 平面図 (From "中国伊斯蘭教建築" by 劉致平, 1985)

 ミナレット以外にも、このモスクは 他に例を見ない独特の構成をしている。まずモスクの前庭は道路より 1m以上高い基壇状となり、低い塀で囲まれている。礼拝殿の入口である ペルシア型のピシュターク(イーワーン状の楼門)は このテラスに突出していて、これ以外には モスクの外壁に開口部はない。すべては土塗り壁で、ほとんど色彩も装飾もない。ピシュタークの入口を抜けると ドーム天井のホール(門庁)になっていて、ここから右の部屋に行くと 屋上に上る階段があり、左には ミナレットの階段に導く廊下がある。屋上から ピシュタークの最上階の部屋に上ると展望ホールになっていて、ここだけ周囲に窓がめぐっている。まるで、外敵に攻囲されたときには、ここから応戦するとでもいうように。
 1,000人以上が同時に礼拝できる礼拝殿は約 45m×53mの矩形で、平面図を見ると 一見 ペルシア型の中庭型モスクのように見える。ところが実際は、この中庭にあたるスペースが木造の列柱ホールになっているのである。ペルシア型のレンガ造モスクと、中央アジア型の木造モスクの重合といえよう。間口5間、奥行9間の幽暗な礼拝室は、小屋組みのない、フラット・ルーフである。年間を通してほとんど雨が降らないので、土を踏み固めた陸屋根で問題ないのである。
 架構はポプラの細い柱と梁によるもので、これは『イスラーム建築』で述べた、列柱ホール型イスラーム建築の特色をよく表している。つまり、外周壁をレンガ造や石造で堅固にして耐震性をもたせ、内部の列柱はピン柱にして鉛直荷重のみを負担させるという方式である。この蘇公塔モスクのように、外周をレンガ造、内部を木造にすれば、その性格は一層鮮明になるだろう。さらに ウズベキスタンなど 中央アジアの木造モスクでは、柱頭と柱脚をしぼって、ピン柱のデザインを一層際立たせることになる。

トルファン   トルファン

 日乾しレンガ造の外郭部はというと、これはモスクというよりもマドラサ(学院)のようなプランをしている。回廊が一列まわって、その周囲に 個室が並んでいるのである。これらは教長(アホン)の住居や巡礼者の宿泊室、用具室や倉庫などに用いられているという。すべての付属機能が ひとつの堅固な建物にまとめらて便利ではあろうが、これでは礼拝室の静粛が保ちにくい。これも、モスクというより 要塞のような建設意図を 示唆しているように見える。
 最奥部は ドーム天井の後窰殿(ミフラーブ室)となっていて、門庁のドーム天井に対応している。すべて土塗り仕上げで、装飾はほとんどない。スキンチの上に 16角形のドラムを立ち上げて、各面に窓を穿っている。
 回廊もまた すべてのスパンがドーム天井で、ここでもドーム下部に小窓がとられているので、暗くはない。奇妙なのは 連続するアーチが円弧状ではなく、浅い三角アーチになっていることである。おそらく 日乾しレンガのアーチではドームの荷重を支えきれず、木材で補強しているのだろう。そのことを よく示すのは ドームの下部で、スキンチを入れるべき所に 水平の梁がはいっている。正方形から八角形への移行部に 木の火打ち梁をいれて ドームの荷重をもたせたのだろう。こうして まこと珍しい視覚の回廊ができあがったのである。


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03 ウルムチ 烏魯木斉 (ウールームーチー)**
  WULUMUQI 新疆ウイグル自治区

陝西大寺 *
GREAT MOSQUE OF SHANXI

ウルムチ   ウルムチ

 新疆ウイグル自治区の首都は、古来 天山北路の要地であった 烏魯木斉(ウルムチ)である。ウルムチとは「美しい牧場」を意味するモンゴル語に由来するとも言われるが、現在は人口 150万の大都会で、中心部には高層ビルが建ち並ぶ。標高が 700~900mの高原なので 砂漠地帯ではなく、温帯で 山と森林に囲まれている。そのせいもあり、資金源が回族であったこともあって、市内最大のモスク、陝西大寺(シャンシー タースー)は中央アジア式のレンガ造ではなく、中国式の木造建築である。
 創建は清の乾隆帝 (1735-1796) の時とされるが、嘉慶帝 (1796-1820) の時とも言う。下って明の光緒帝の 1906年に改築、拡張された。文化大革命では相当破壊されたものの、近年 政府の資金援助で修復され、よみがえった。新疆ウイグル自治区の 重点文物保護単位に指定されている
 モスクの境内全体は塀で囲まれていて、市街地の古モスクが多くそうであるように、側面道路側に穆斯林洋品店や清真食品店が並んでいる。これらは一続きの瓦屋根の棟に納まり、その裏側が 大堂に面した回廊となっている。この棟の切れ目に磚造の大門があり、アーチの入口をなしている。中東において、スークの店の並びに モスクの入口があるのと同様である。

ウルムチ

ビルの谷間、中央の緑色屋根が陝西大寺
(From "EDUSHI.COM、E都市、烏魯木斉")

 大堂は一棟の礼拝室と 奥の後窰殿から成り、前殿はない。全体は地面から 1mほど上がった石造の基壇の上に建ち、前面は広いテラスになっている。通常の礼拝は 大堂内で約 100人を収容するが、イードの大祭時には テラスを含めて約 1,000人が同時に礼拝できる。テラスの北には講堂、南には水房、東には教長(アホン)の進修所を備える。
 礼拝室は単檐歇山式(単層の入母屋造り)の屋根で覆われ、四周が回廊状になっている。棟の分節がないので、棟の高さは 10mを超える。全体は木造だが、外壁は磚造なので、混構造ともいえる。間口は5間で、左右に回廊があるので(スパンの大きさはは約半分)、前面には 8本の円柱が並ぶ。石の礎石の上に立つ丹塗りの大柱が 極彩色の斗栱を戴いて整列するさまは壮観である。
 後窰殿は3間3間の広いもので、礼拝室とはスクリーンで仕切られているので 独立性が高い。ミフラーブ室というよりは、これだけで独立した小モスクの観が強い。磚造の外壁の外側には 回廊の柱が並ぶ。 巾は狭いので、回廊を意図したというよりは、柱を外に出したという印象がある。後窰殿の左右には別棟のL字形の外回廊があって、礼拝殿との間を 中庭のように見せている。 L字形の庭をダブルの円柱の回廊が囲むことによって、錯綜した魅惑的な外部空間を生んだことが、このモスクの特色である。
 しかも後窰殿の外観は重檐式(二段重ねの屋根)の「八角楼」で、反り返った屋根の造形が 大きなアクセントとなっている。この塔は望月楼を兼ねているので 周囲にバルコニーが巡り、ここから アホンが月の満ち欠けを見て斎戒を宣告した。内部はミフラーブ前の大きな吹抜けとなり、きわめて装飾的な藻井天井の下に窓が並んで、ミフラーブ前への採光をしている。


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04 イーニン 伊寧 (イーニン)**
  YI NING 新疆ウイグル自治区

陝西大寺 (回族大寺)**
GREAT MOSQUE OF HUIS

イーニン   イーニン

 新疆ウイグル自治区の最西北端にある 伊犁(イリ )盆地のオアシス都市が、伊寧(イーニン)である。モンゴル語では グルジャ、あるいはクルジャという。この地方は 旧ソ連邦のカザフスタンに隣接し、ウイグル族のほかに カザフ族なども多く住する地域なので、伊犁哈薩克(イリ カザフ)自治州と呼ばれ、イーニンはその州都をなす。人口は約 40万で、天山山脈とコキルチャン山脈に挟まれているため 降水量が多く、樹木が豊富なので 木造建築も多い。
 ウルムチと同名の 陝西大寺(シャンシー タースー)はのどかな地方都市に 6,000㎡という広い敷地を占め、中国式の木造建築の諸堂をゆったりと配置している。古くは寧固大寺と呼ばれ、現在は回族大寺とも呼ばれる。他に寧夏の固原地区から多数のムスリムが来たことから寧固寺,大殿を俯瞰した姿が鳳凰に似ていることから鳳凰寺とも呼ばれた。
 創建年代には諸説あるが、清代の乾隆 25年 (1760) に着工され、徐々に建設していったので 最終的に竣工したのは乾隆 46年 (1781)、というのが代表的な説である。現在は人口の大多数がムスリムであるが、建立当時は少数派であったので、陝西、甘粛、寧夏、青海の回族からの募金で建設したため、「回族大寺」と呼ばれることにもなり、諸堂は内地の中国式で建てられた。特に伽藍配置は陝西省の西安の清真大寺に倣ったせいか、「陝西大寺」というのが正式の名称となった。新疆ウイグル自治区の文物保護単位に指定されている。
 店舗が並ぶ賑やかな清真街の奥の 閑静な境内には東西に入り口がある。メインの東の大門は宣礼塔(邦克楼)、すなわちミナレットを兼ねた3層の木造建築で、最上階は六角堂となり、反りあがった屋根がシンボリックな造形をなしている。(市内の 拝都拉大寺には同形式の、より大きな邦克楼が残っている。それは磚造の基壇の上に建っていて、基壇の中央が通り抜けの入り口となっている。)こちらの邦克楼は 普段は門として使われず、左右の小入り口から境内に入る。

イーニン

 西安の清真大寺をモデルにしているといっても、中庭が いくつかの進院に区切られているわけではなく、緑豊かな中庭の左右に 講堂や経房(図書館、現在は展示室)、学院(マドラサ)があり、中心軸上に礼拝大殿がある。大殿の間口は 7間で、奥行が約 40mもある大規模な列柱ホールをなす。おそらくは 増築によって次第に大きくなったもので、礼拝室は3棟からなり、中央が歇山式(入母屋造り)、前後が巻棚の瓦屋根で、その奥に後窰殿がある。全体の面積は 600㎡を超える。周囲には柱廊がめぐり、前巻棚の前面は開放前廊となっていて、ここで下足を脱ぐ。

イーニン

 外観からも内部空間からも、最も目立つのは後窰殿の塔で、4層をなす。その4層がすべて吹き抜けていて、壮大な採光塔となり、2階にはバルコニーがまわっている。中心に柱を立てずに 複雑な架構で層を積み上げ、華やかに彩色しているさまは、この形式の後窰殿の中でも 白眉のものと言えよう。


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05 ホルコス 霍爾果斯 (コルゴス)*
  KHOR GOS 新疆ウイグル自治区

吐虎魯克・鉄木尓汗 麻扎(トゥグルク・ティムール・マーザー) *
TUHULUK TIMUR MAZA
全国重点文物保護単位

ホルコス   ホルコス   ホルコス

 イリ・カザフ自治州で、イーニンから さらに北西に約 90km行くと、カザフスタンとの国境近くに ホルコス(ホルゴス)の町がある。漢字で 霍爾果斯と転写したので、略して霍城とも呼ぶ。その近く、霍城県・麻扎村に残るのが、吐虎魯克・帖木児(トゥグルク・ティムール)の 瑪扎(マーザー)である。
 ティムールといっても、中央アジアのティムール朝の創始者ではなく、チャガタイ・ハーン国の後継である モグリスターン・ハーン国をつくった、トゥグルク・ティムール・ハーン (1331頃~1363) で、漢字では 吐虎魯克・鉄木尓とも、吐黑鲁・帖木儿 とも書く。汗(ハーン)は、君主の称号であって、モンゴル帝国以降では成吉思汗(チンギス・ハーン、1167-1227)の子孫でなければ ならなかった。トゥグルクは チンギスの 7世代後にあたる。さらに その 6代あとの子孫が、インドのムガル朝を始めたバーブルであって、モグールもムガルも モンゴルの意である。

 トゥグルク・ティムールは果敢な生涯を送り、新疆のイスラーム化に大きな役割を演じた。わずか 16歳で汗国の王となり、18歳でイスラーム教徒となると、その4年後には 16万の臣民を 仏教からイスラームに改宗させたという。
 彼の死後 1363年に、レンガ造の廟が建設された。イラク出身の建築家が設計したとも言われるように、新疆で最初のペルシア風建築であり、アーチとドームの構造による「無梁殿」である。尖頭アーチのイーワーン風のファサードは、青を基調とする彩釉タイルで飾られた。といっても 大きなタイル板ではなく、26種の形の小片による、古拙な陶片モザイクである。色は青緑、藍、白、黒の4色で、幾何学紋の中に植物紋が加えられた。イーワーンの左右とアーチには アラビア語で、トゥグルクを称える頌文が組み込まれている。

 規模は後の王侯の廟のような巨大なものではなく、総高 14m、 幅 10.8m、奥行き 15.8mである。正面以外の外壁と屋根はレンガの上に白いプラスターが塗られた。墓の入り口にはアラビア文字で「イスラームの光」とある。壁厚は2mほどあり、壁内に組み込まれた階段を上ると、2階の壁内に通路がまわっていて、さらに ここから階段で 屋上に上れる。
 廟の内部にはトゥグルクと その息子の墓が安置されている。ドーム天井は壁と 四隅のスキンチの上に載っているが、ドーム技術が十分でなかったのか、スキンチで八角形にしぼったあと、16角形への変換には、隠された木製の火打ち梁が使用されている。

 これは 新疆に現存する 唯一の元代建築であり、ブハラ(10世紀初めの「サーマン朝の廟」)の流れを汲む、数少ない初期イスラームの廟建築として、はなはだ貴重である。
 隣に並んで建つ、ほぼ同形で小さめのアーチ型の陵墓は、トゥグルク・ティムールの妹(娘ともいわれる)女性の墓である。こちらの小廟には内部階段がないので、屋上には 外に梯子をかけて上る。


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06 クチャ 庫車 (クーチョー)***
  KUCHE 新疆ウイグル自治区

庫車大寺 *
GREAT MOSQUE

クチャ   クチャ

 庫車(クチャ)は天山山脈の南麓の都市で、かつては亀茲(キジ)国などと表記され、南のホータンと並んで栄えた重要な古城だった。古代には仏教が支配的宗教で、玄奘の『大唐西域記』にも 百余の仏教寺院と5千人の僧徒がいたと書かれている(7世紀)。現在では 大多数がムスリムのウイグル族である。

 大モスクは、16世紀に依禅派のスーフィーである伊斯哈格 吾里(イスハク・アリ )が クチャに布教して滞在していた時に創建したとも、明末の崇禎 11年 (1638) の創建とも伝える。拡大・改築されたのは清代であったが、1931年に火災で焼失し、翌年、クチャの富豪の哈里木・阿吉の出資で再建が始まり、1934年に竣工した。 現在の寺域は、新疆では カーシー(カシュガル)のエディガール・モスクに次ぐ広さで、約2万㎡あり、モスク、経学院(マドラサ)、果樹園より成る。

 雄大な門楼はレンガ造で、ペルシア・中央アジア型のピシュタークに範をとり、大きなイーワーンと、その両側に2本のミナレットを備えている。ただしイーワーンは上部のみが 深く くぼみ、下部は手前にドアが設けられているので、本来の半外部空間には なっていない。この方法は新疆地方の特徴で、後出のホータンの門楼もそうであり、他のモスクのイーワーンの場合も 凹所の奥行きが浅い。その代わりに クチャでは、ドアの奥にドーム屋根のエントランス空間がある。ミナレットの高さは約 16mである。
 不思議なのは、門楼の左右の側面のファサードが違っていることで、右側は低い壁の奥にドーム屋根が見えるのに、左側は正面と同じように 高い壁が立ち上がり、奥のコーナーに第3のミナレットが添えられていることである。おそらく、左側は礼拝大殿の壁が大きく後退していて、門楼の側面が 外部として見られるためであろう。

 一方、礼拝大殿は フラット・ルーフの木造建築である。 幅が9間に奥行きが9間の列柱ホールで、64本の柱が立ち並ぶ。柱は紅く塗られ、柱頭には ムカルナス装飾が施されているものがある。

クチャ

 中央の幅広のスパンは 一部の天井が採光のために高く上げられ、その部分だけ 巻棚の屋根が架けられている。また この吹き抜け部の梁にだけ、曲線を描く方杖が 取り付けられている。
大殿の北側には 小モスクのような空間があり、かつては「宗教法廷」の役割を果たしていた。祭政一致による裁判所が モスク内設けられていたのである。こうした施設が保存されているのは珍しい。




黙拉納額什丁(モラナ エシディン)清真寺 *
MOLANA ESHIDING MOSQUE

クチャ   クチャ

 14世紀に、先述のホルコスに廟のある トゥグルク・ティムール、および 16万のモンゴルの王侯、大臣、民衆をイスラーム信仰に導いたという スーフィー聖者、モラナ・エシディンを祀る廟とモスクである。廟としては、毛拉 阿児沙都丁 和卓 麻札(モナ・アルシンディン・ホージャ・マーザー)ともいう。モナあるいはモラナというのは聖者に対する尊称で、和卓(ホージャ)は新疆におけるスーフィーの名門家系である。祖先はチェコのプラハの出身といい、13世紀にチンギス・ハーンがプラハを征服した際に流刑にされて新疆にたどりつき、布教を始めたのだという。
木造のモスクは宋代の創建ともいうが、現存する建物は すべて 19世紀の再建である。廟は土壁の周囲に木造の柱廊をめぐらせ、陸屋根を架けている。
 大門はレンガ造で、下部は緑色の瑠璃タイルで飾られている。イーワーンも左右の壁のニッチも、すべて円形アーチではなく 三角切妻にしているのは、ハミの回王陵の拱北と似た 珍しい作例である。
 新疆維吾爾自治区の 重点文物保護单位に指定されている。


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07 アトシュ 阿図什 (アートゥーシー)*
  ATUSHI 新疆ウイグル自治区

蘇里唐 麻扎(スーリタン マーザー)
SULITANG MAZA (SULTAN MAUSOLEUM)
全国重点文物保護単位

アトシュ   アトシュ

 阿図什(アトシュ )は、カシュガルから 直線でわずか 30kmの地にある小都市である。かつては アルトゥシュと呼ばれていたが、1935年にアトシュ設治局が置かれてから この名になった。この町の南西の郊外にある蘇里唐麻扎(スーリータン・マーザー)は 国の 全国重点文物保護単位に指定されているが、現在の建物の価値ではなく、中国で最初のイスラームの廟という 歴史的な意義に基づいている。
 蘇里唐というのは スルタンの音訳で、蘇丹とも 素丹とも書く。このスルタン・マーザーに葬られているのは、9世紀から 13世紀初頭まで 中央アジアから新疆西部を支配した、トルコ系 カラハン朝の第3代ハーンであった、スルタン・サトゥケ・ボゲラ・ハーン (蘇里唐・薩図克・波格拉汗、あるいは蘇丹・沙図克・波格拉汗) である。彼は 10世紀に庇護を求めてきた サーマーン朝の王族、マンスール・ブン・ナスルによって教化され、トルコ族として初めて イスラーム教に改宗し、これをカラハン朝の国教にして スルタン(イスラーム国の君主)となった。彼が 12歳で改宗したのも、955年に没したのも アトシュであり、ここに廟が建てられた。 息子のムーサーの時代の 960年には、20万張(天幕の数)のトルコ人が イスラームに改宗したと伝えられている。
 サトゥク・ボグラ・ハーンは 死後、次第に崇拝の対象となり、ここは 中央アジアのムスリムにとっての聖地となった。しかし建物は 何度も改修や改築が行われ、おそらく文化大革命でも破壊されたのであろう、現在のものは 1996年に再建されたものである。この廟と相対して、マンスールが創建したとされる 清真大寺があるが、これも近年の再建である。

アトシュ

 現在の廟は正方形プランで、各コーナーに 小ミナレット、入口部の両脇にも小ミナレットを立てている。この前方に建つモスクは 高大なミナレットを立てていて、あたかも 廟への大門のように見える。どちらもレンガ造であるが、モスクが レンガをそのまま見せているのに対して、廟は ドーム屋根の頂部から足元にいたるまで、青を基調としたタイルで覆われている。しかし壁面は 基本的に平滑で、それほど装飾的ではない。またタイルも、新疆の多くのタイル建築がそうであるように、ペルシアや中央アジアのもののような緻密なものではない。あたかも既製品のタイルを無造作に並べたかのように見える。タイルによる カリグラフィーも一切ないし、イーワーン状の部分に ムカルナス彫刻をほどこすということもない。つまり 現代中国のムスリムが 中国式ではなく 中東式のモスクを建てようとするとき、ドームや尖頭アーチには頼っても、カリグラフィーやムカルナスが必須とは 思わないのである。


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08 カシュガル 咯什 (カーシー)***
  KASHI 新疆ウイグル自治区

艾提尕尓(エディガール)礼拝寺 **
AIDIKA'ER (Id Kah) MOSQUE
全国重点文物保護単位

カシュガル   カシュガル

 咯什(カーシー)は 中国の最西端のオアシス都市で、人口は 35万ほどの中都市であるが、多数のイスラームの建築遺産を抱えるという点で、建築的には 新疆ウイグル自治区で 最重要の都市である。標高が 1200mで 温和な気候に恵まれることから、古来 交通の要衝として栄えた。7世紀には 玄奘がインドからの帰途に立ちより、「仏教伽藍が数百、僧徒は1万余人」と記している。その仏教都市も 10世紀ごろからイスラーム化し、東カラハン朝の首都ともなった。現在は人口の8割ほどが トルコ系のウイグル人である。
 12世紀以後は さまざまな王朝の支配を受けて 政治的重要性は失ったが、その代わりに ウイグル族の宗教上の中心地として発展し、多くのモスクや廟、学院などを残しているので、「国家歴史文化名城」にも指定されている。1931年に ウイグル族が蜂起して、カシュガルで「東トルキスタン・イスラーム共和国」を建国したこともあるが、これは わずか数ヶ月で滅ぼされた。ここでは今も、漢族支配に対する反感がくすぶり続けている。現在の都市名は、喀什噶尔(カシュガル)の短縮形の 喀什(カーシー)が、正式名となっている。

 喀什の大モスク (金曜モスク)は、艾提卡(アッティカ)礼拝寺、艾提尕尓(エティカル)礼拝寺、艾迪卡爾(エイティガール)大清真寺 などと綴られるが、現在の発音は「エディガール」である。これは後述のように「イードガー」のなまったもので、この新疆最大のモスクの 特異なプランの由来を物語っている。
 一説には、1798年に パキスタンへの途次にあったムスリマが この地で病没し、その残された路銀が モスクの改修に使われたので、彼女の名をとって 艾提卡尓(エディガール)モスクになったのだという。そうだとすれば、このモスクがイードガー的になったのは 19世紀以降ということになるので、疑問である。
 創建は 明の正統 7年 (1442) といわれ、このときの小モスクが 1524年に大規模に建て直された。18世紀末にも拡大され、19世紀には付属の建物が建てられるとともに 庭園が整備されて現在の規模になった。1937年には モスクの前面広場が整備され、1955年と1981年にも 大規模な改修が行われて、現在の姿になった。

平面図

艾迪卡爾礼拝寺 平面図
(From " Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, Springer)

 全体の広さは 南北 140mに 東西が 115mあり、総面積は 13,800㎡という大規模なもので、中庭と前面広場をあわせ、イードの祭には 数万人が集団礼拝をするという。この規模は、サーマッラーの大モスクには及ばないながら、エジプトで最大のモスク、カイロのイブン・トゥールーン・モスク(120x140m)に匹敵する。
 さらに興味深いのは、礼拝大殿のプランである。内殿と外殿に分けられ、外周部をレンガ造の壁とし、内部には 木造の柱を 136本立ち並べて、木造のフラットルーフを架けている。
 なぜ内殿と外殿に分けたかというと、おそらく 初期のモスクの大きさが内殿にあたり、その後左右と前方に増築をしていったのであろう。そしてまた、パキスタン北部の木造モスクにも見られるように、冬のモスクとして 壁で囲って暖房をする部分と、夏のモスクとして 外気に開放された列柱ホールとに 役割分担するのである。そのために、内殿の中庭側の外壁には ミフラーブが設けられている。

カシュガル

 それにしても、この 37間もある幅の広さは 尋常でない。すぐに思い出されるのは ダマスクスのウマイヤ・モスクで、ほぼ同じ長さである。しかしダマスクスに比べて 喀什では、閉じられた内殿以外の 奥行きの浅い列柱ホールが、壁や戸で仕切られることなく、すべて 広大な中庭に開放されている。そのために、これはイードガーのように見え、また そのように機能していたと考えられるのである。

 イスラームでは 年に 2度の大祭(イード)があり、断食月(ラマダーン)明けの祭を イード・アルフィトル、巡礼月 10日に行われる犠牲祭を イード・アルアドファーという。これらの日の朝は 都市民全員が野天の礼拝場に集まって集団礼拝をするので、これをペルシア語でイードガーという。こうした礼拝場に必須なのは キブラ壁とミフラーブ、そしてミナレットだけであって、必ずしも全体が壁で囲まれる必要はない。
 喀什の大モスクは 屋根のある礼拝室をもっているが、全体のプランはイードガーに近い。中庭は四分庭園のように扱われて 多くの樹木が茂っているが、かつては 何もない更地だったのであろう。そして、通常のイードガーは 都市の郊外にあるのに、ここは都市の中心地であるので、金曜モスクと イードガーと 学院の機能を兼ね備えた、宗教センターとなったのである。

カシュガル   カシュガル

 中庭内には2基の原始的な ミナレットのような小亭 があり、南北の棟には講経堂、学生の宿舎、そしてアホンの住居が組み込まれている。かつては 400人の学生が居住していたという。

 境内への入口の大門とミナレットは、ペルシア・中央アジア式のレンガ造であるのに、モスクの中心軸上に位置しないのが 新疆の特徴である。四イーワーン型のモスクをつくらない せいもあり、新疆のモスクでは 大門が礼拝大殿と直角方向に置かれていることが多い。北京や西安の中国式モスクとの違いである。
 喀什ではさらに、大門自体が対称形でなく、右側のミナレットが左側よりもずっと大門に近く、形態も相違している。高さは、大門が 12m、ミナレットが 13.5mで、ミナレットには幾何学紋と植物紋の装飾帯が めぐらされている。
 一方礼拝大殿は、緑色に塗装された柱に柱頭がなく、台輪を直接受けている。そのかわりに 諸所に藻井(そうせい)天井があり、幾何学パターンの上に 花や唐草が、時には写実的に描かれている。




玉素莆麻扎(ユースフ マーザー)*
YUSUF MAZA

ユースフ廟   ユースフ廟

 カシュガル市内に残る有名な廟は、1070年頃に創建されたという ユースフ・マーザーである。これは カラハン朝の大侍従を勤め、詩人・学者でもあった 玉蘇甫・哈斯 哈吉甫(ユースフ・ハース・ハージブ) (1019 -1085?) の陵墓とされる。彼はウイグル人で、現存するトルコ・イスラーム文学最古の作品とされる『福楽智恵』(クタドゥグ・ビリグ)を書いた。これは 1万3000行を超える長詩で、君主の徳育の書でありながら、11世紀のトルコ・ウイグル社会の百科全書ともなっている。カシュガルで宮廷生活を送って没した後、巴迪哥(バディゲ)に葬られたが、トゥマン川の氾濫による 洪水の危険があったため、現在の地に移された。
 しかし もう一説では、これはカラハン朝のスルタンで、和田(ホータン)国を征服した、優素福・本・哈桑・卡迪尓汗(ユースフ・ブン・ハッサン・カディル)の廟であるという。1032年の創建というが、後にユースフ・ハース・ハージブと同一化されたのかもしれない。

 いずれにせよ、1874年に改築されたという 廟とモスク、それに小墓群の複合体は 文革で破壊され、現在のものは 1987-88年に コンクリートを用いて再建されたものである。基本的に廟自体は かつての姿を踏襲しているが、付属施設や境内の配置計画は 大きく変更している。特に楼門の位置が かつての実測図と正反対の位置になったのは 不可解である。
 この楼門をはじめとして、廟や外周壁に ミナレット状の小塔が立ち上がり、全部で 10を超えるのは華やかである。廟は 全体が彩釉タイルでくるまれ、ファサードは 淡い青紫のタイル、ドーム屋根は青緑色のタイルが 用いられている。ファサードは 新疆地方の定型であるが、ここではイーワーンを囲む四角い枠取りに、『クルアーン』の一節を書いた カリグラフィーの帯をまわしている。
 内部は、墓の台にのみ タイルが貼られ、壁は すべて白く塗られている。四方の開口部の幾何学紋による格子は、インドのジャーリーを思わせる。




阿帕克和卓 麻扎(アパク ホージャ・マーザー)複合体 ***
AFAQ KHWAJA MAZA COMPLEX

アパク ホージャマーザー複合体 配置図

アパク ホージャ・マーザー複合体
(From " Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, 2003, Springer)

 13世紀初めに 中央アジアにおこった スンナ派スーフィーの ナクシュバンディー教団は、教団の長が ホージャと呼ばれたので「ホージャ派」としても知られている。ホージャ(フワージャ)は トルコ語あるいはアラビア語で、本来 貴人や賢人への一般的な敬称であり、漢字では 和卓、和加、夥加、霍加などと綴られ、いずれもホージャと読む。この一派が 14世紀に新疆に伝道すると、次第に カシュガル地域で宗教的権威を獲得し、16世紀後半からは 政治的権力も握るようになった。この一族が「カシュガル・ホージャ家」で、前述のクチャの モラナ・エシディンも この家柄に属するスーフィー聖者だった。
 17世紀には 黒山派と白山派に分裂するが、ハミに生まれた白山派の ホージャ・アーファーク(1625-94)は、中国内地で布教した父のあとを継ぎ、1670年代に 北のジュンガル地区や 内地の西寧、蘭州、臨夏などで「巡遊伝教」をした。その弟子たちが 中国のいくつかの門宦(スーフィー教団)の創始者となっている。
 ホージャ・アーファークは 本名を 希達葉図拉(ヒダーヤトゥラー)といい、アーファークは その尊称で「世界の主」を意味する。音訳は 阿帕克(アパク)なので、中国語では 阿帕克 和卓(アパク ・ホージャ)、あるいは 阿巴 夥加(アバ・フオジャ)と呼ばれた。

 阿帕克和卓はカシュガル地域において、政治的支配者であるスルタンよりも 強い権力を握るようになり、黒山派との闘いで死に至るまで、祭政両面にわたる支配と抗争を続けた。支配地は カシュガルからホータン、ヤルカンド、アクス、クチャ、トルファン、タリムにおよび、17-18世紀には 白山派の信徒が 30万人に達したという。
 このアーファークと その一族の墓地が、カシュガルの北東 5kmの村にある 阿帕克和卓麻扎(アパク・ホージャ・マーザー)である。父のムハンマド・ユースフが ここにマドラサを建て、次いで 1640年に自身の廟を建てたのが始まりで、アーファークの廟を初めとする 他の施設が順次建設されて、新疆で最大規模の 2.7ヘクタールにおよぶ「陵園」になった。ここは今も、中国ムスリムの巡礼地である。

 現存の麻扎(マーザー)は、池のある庭園に面する大門、高低礼拝寺、経講堂、アホンの住宅、阿帕克和卓墓(香妃墓とも呼ばれる)、緑頂礼拝寺、大(加満)礼拝寺と墓碑群から成る。それぞれ マッカに向ける必要から、全ての建物が平行配置となっているが、大門から始まる空間のシークエンスに 計画性がない。すでに 17世紀であるから、シャー・アッバースによる イスファハーンの新都市計画は すでに完成していた。広場と軸線を使った 印象深い地区計画は、ここでも可能だったであろうに。実際には どの建物も単独に存在し、相互関係を意識することがない。
 全体としては、中央アジア風の 組積造ドーム建築から、中国風木造建築、およびその混合建築が散在して、新疆ウイグル地方の文化と建築の特色、様態をよく示していると言えよう。




高低礼拝寺 **
HIGH-LOW MOSQUE

アパク・ホージャ

 高低モスクというのは、二つの小モスクが接合した 不整形のプランをしていて、一方を 高礼拝寺、もう一方を 低礼拝寺と称することから、併せて こう呼ばれる。低礼拝寺は 18世紀の建立で レンガ造、床が掘り下げられて 半地下状を呈している。ほとんど装飾のない シンプルな建物であるが、内院と外院に分けられたうち、内院には ドーム屋根が架けられている。
 この東壁をキブラ壁として 接して建てられているのが、床面が地面よりも 1mばかり上った 高礼拝寺なので、低礼拝寺にはほとんど窓がなくて暗く、また夏には ひんやりと涼しい。
 高礼拝寺は、奥のレンガ壁で囲まれた内院(冬のモスク)が 1873年の建立で、木造のオープンな列柱ホールである 外院(夏のモスク)は 20世紀になってから、1926年の増築である。低礼拝寺の裏手には 中庭式の教経堂(マドラサ)が連接し、一方 高礼拝寺の右手には 境内全体への入口たる大門が コーナーで接し、さらに その右手には 教長(アホン) の住居がある。こうした 東西に続く一連の施設は 接しあっていながら 内部では まったくつながっていず、また何の軸線も通っていない。近代のプランニングの観点からは、不可解としか言いようがない配置計画で、それぞれが時間的経過をへだて、付け足すようにして出来上がった結果である。

 大門はレンガ造で、全面的に 淡い藍色の瑠璃タイルで仕上げられているのは、前項のユースフ廟と似ている。不思議なのは、この奥にある施設は すべてこの門をくぐらなければ行けないのに、この門に接する建物は いずれも 大門の手前の庭園から別個に入ることである。1811年の建立というから、高低礼拝寺はまだ無く、建立者の意図としては 境内への門であるよりは、単に 阿帕克和卓墓への導入部だったのかもしれない。

アパク・ホージャ   アパク・ホージャ

 最も装飾的なのは 高礼拝寺の外殿で、コーナーにはレンガ造のミナレットが2本立ち、列柱はムカルナスの柱頭を戴き、柱も天井も華やかに彩色されている。 柱頭の彫刻パターンには、ひとつとして同じものがない。こうした木造の彩色ムカルナス柱頭は 中国内地にはなく、新疆から中央アジア、トルコのアナトリアに分布している。柱脚まで最も見事に彫刻されるのは ウズベキスタンで、アナトリアでは 下部はスレンダーである。木造のムカルナス柱頭は、ペルシアの木造ターラールが起源で、西のアナトリアと東の中央アジアに伝播したと考えられるが、確証はない。




阿帕克和卓(アパク ホージャ) ***
AFAQ KHWAJA MAUSOLEUM
全国重点文物保護単位

アパク・ホージャ   アパク・ホージャ

 阿帕克和卓麻扎(アパク ホージャ・マーザー)複合体で 中心をなす、最大の建物であり、最も重要な建築作品である。アパク・ホージャ廟と呼ばれているが、実はその父親の ムハンマド・ユースフが 1670年に、自身の廟として創建したものである。その時アーファークは まだ 45歳であったが、父の死後に跡を継ぐと 彼の方が有名になり、1694年に世を去ると 拡幅した同じ廟に葬られたので、これは アパク・ホージャ廟と呼ばれるようになった。彼の一族もここに葬られたので、その総人数は5代にわたる 72人、堂内に 現在残る墓碑は 58を数える。
 この地方では 香妃墓(シアンフェイ・ムー)とも呼ばれているが、墓碑の一つが、清の第6代皇帝、乾隆帝の妃であった 容妃と混同されたためである。容妃は肌に棗(なつめ)の花の香りがあったので、詩的に「香妃」とも呼ばれたが、実際には 彼女は河北省の清東陵、裕妃園に葬られているので、ここには衣冠のみが祀られている ともいう。

 建築的には まったく中央アジア式で、中国的な要素はない。規模は 幅が 36mに奥行きが 29m、四方のコーナーに ふくらみ(エンタシス)をもった塔を立て、内部階段を設けたミナレット状にしている。これは純粋な廟建築であるから、本来 ミナレットは必要ない。タージ・マハル廟と同じく、飾りとしてのミナレットである。こうした装飾要素は 入口のイーワーンの上にも インドのチャトリのように添えられ、さらにドーム屋根の上にも 頂華として載る。頂部の高さは 24m。また4本のミナレット頂部は、この建物で 最も装飾的にデザインされている。

断面図

皮膜的建築としての アパクホージャ廟 断面図
(From " Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, 2003, Springer)

 構造的には かなり特異な構成をしている。外壁はドームの支持に関わらず、内部通路で外壁と隔てられた4本の壁柱に4基のアーチを架け渡し、ここに直径 16mのドームを載せた。その四方には半ドームの天井をかけて 大きな連続した内部空間とし、半ドームの足元は3連アーチで支えている。他に類例のない構造形式である。
 内部では ドームの足元に1列 タイル帯が回っているほかは、すべて白く塗られているのに対して、外壁はピラスター(付け柱)で区画された内側のみを白く塗り、あとは すべてをタイルで覆っている。緑と淡い藍を基調とするが、長い間に剥落したタイルを 茶色やオレンジのタイルで補修したために、統一性に欠ける色彩計画となってしまった。しかし 入口のイーワーンは、中国としては かなり立派につくられている。全体としては、トゥルファンの蘇公塔と並んで、中国で 最も西方的なイスラーム建築であると言えよう。これは 1874年の改築によるともいうが、1948年にも地震で大きな被害を出し、修復したという。




緑頂礼拝寺
GREEN TOP MOSQUE

アパク・ホージャ

 アパクホージャ廟の西奥の、ほぼ同時代、清代はじめの 17世紀に建設された小モスクが、緑頂礼拝寺である。建物は奥のレンガ造ドーム屋根の棟と、手前の木造陸屋根の棟とからなり、ドーム屋根が アパク・ホージャ廟にならった緑色の瑠璃瓦(タイル)で葺かれていることから、この名がついた。アパク・ホージャが『クルアーン』を読むのに、このモスクを用いたという。
 原理的には 高礼拝寺と同様で、レンガ造の 閉じられた冬のモスクである内殿と、木造の オープンな夏のモスクである外殿が 対比的に連なり、全体はシンメトリーのプランをとらない。つまり外観から予想されるのとは違って、内殿は 奥というよりは マッカに向かって右側であり、外殿は左側であって、それぞれに マッカ側にレンガ造のミフラーブを備える。
外殿は、このミフラーブ側と内殿側 以外の2面が開放されていて、幅は4間に奥行きが3間である。柱はムカルナスの柱頭を戴いているが、高礼拝寺よりもシンプルで、すべて ドームに合わせた緑色に塗装されている。かつては 梁が華やかに彩画されていたというが、今は あとかたもない。
 内殿は 小モスクとはいいながら、ドームの内径が 11.6mと かなり大きく、高さは約 16mある。方形の部屋から円形ドームへの移行部は、各コーナーにスキンチをかけて8連アーチとし、その上に 16連アーチ、さらに小さな 32連アーチを積み重ねて、その上にドームを架けている。




大礼拝寺(加満 ジアーマン*
GREAT MOSQUE

アパク・ホージャ

 アパク・ホージャ廟複合体の一番西側(マッカ側) にあるのが、大礼拝寺である。金曜モスクを意味するジャーミは、中国語で 加満(ジアーマン)と音訳する。
 現在の新疆地方は、19世紀半ばに清朝に対して反乱を起こした。その渦中の 1865年に カシュガル・ホジャ家の末裔 ブズルグ・ハーンの将軍として新疆に侵入し、ついには自らイスラーム政権を樹立したのが 阿古柏(ヤークーブ)・ベク (1820~77) である。彼は アパク・ホージャ廟の境内を整備し、多くの建物を新設した。そのひとつが、この 1873年の大礼拝寺である。彼の死後、この地方は全面的に清朝の領土となり、新しい土地を意味する「新疆省」となる。
 モスクは 三合院形式というべき凹型のプランをしていて、中庭を包み込むような印象を与えるが、実際には 何列もの樹木が植えられ、西方のモスクの 何もない中庭とは大いに違う。礼拝場であるよりは 逍遥庭園の色彩が濃いのである。これは中国のモスク中庭の特性であって、中東との気候風土の違いを示している。このこともあり、モスク全体はカシュガル市内の エディガール・モスクに倣った、一種のイードガー・モスクであると考えられる。

アパク・ホージャ   アパク・ホージャ

 構造的には 他のモスクと同じように、レンガ造の閉じられた内殿と、木造のオープンな外殿とから成る。内殿の内部は トルファンの蘇公塔礼拝寺と似ていて、塗り仕上げのマッシブな壁で囲まれ、中央に大ドームのミフラーブ室がある。 中央と書いたが、実際には中央でなく、1スパン北に寄っている。左右対称の軸線に あまり頓着しないのも、中国の特性である。凹字形の左右に伸びた棟には 低い小ドーム屋根が連続している。
 外殿は 柱やミフラーブ前の天井が 高礼拝寺と同じように派手に彩色され、ムカルナスの柱頭が その形を競い合っている。

平面図
大礼拜寺 平面図 (From "中国伊斯蘭教建築" by 劉致平, 1985)


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09 ヤルカンド 莎車 (シャーチョー)*
  SHA CHE  新疆ウイグル自治区

阿勒屯魯克(アルトゥンルク)複合体 *
ALTUNRUK COMPLEX

ヤルカンド  ヤルカンド

 葉爾羌 (ヤルカンド)は タクラマカン砂漠の西端、カシュガルの南 210kmにあるオアシス都市で、漢代の莎車(さしゃ)国のあった地なので、現代でも莎車(シャーチョー)が 行政上の正式名称とされている
 9~11世紀にイスラーム化し、1514年には モグリスターン・ハーン国をつくったトゥグルク・ティムールの後裔であるサイード・ハーンが、カシュガルを占領して ヤルカンド・ハーン国(カシュガル・ハーン国ともいう)を建国し、この都市を首都とした (1514-1680)。
 市の北東部に、このサイード・ハーンの陵墓と、第2代スルタンのアブドラ・ラシッドが建設した清真寺、そしてその妃であるアマニシャーハンの廟を含む複合体があり(かつては王宮もあったが 文革で破壊されてしまった)、これを 阿勒屯魯克(アルトゥンルク)と呼んでいる。アルトゥンとは 阿爾騰とも書いて「高貴な」を意味し、この麻札(マザール)の美称として用いられている。
 創建は いずれも 16世紀、明末清初であるが、19世紀に修復されて 境内の規模も拡大した。しかし現存する建物は、すべて近年の再建である。

 ホージャ一族の墓を含む アルトゥン墓群は、低い丘の上に広がっている。 その中心にある木造の廟が、蘇里担・塞依徳(スルタン・サイード)の墓である。正方形プランの四方に柱を立てて 華やかなムカルナス柱頭を載せている。構造的には この 4本柱だけで屋根を支えたパビリオンであって、四面の壁は インドの石造ジャーリーを木造にしたような 繊細な格子のカーテン・ウオールである。イランの廟建築の中にある、メインの墓を覆う大理石の小堂を 木造にしたような意匠で、視線と風とを通しているのが興味深いが、どこまで旧建築を 継承しているのかは不明である。

ヤルカンド   ヤルカンド

 阿曼尼 汗(アマニシャーハン)は、優れたウイグルの女流詩人であり 音楽家であったスルタン妃 アマン・イーサー・ハーン (1526-60) で、34歳で早世したという。スルタンの廟よりも ずっと規模が大きく、レンガ造のドーム屋根を戴く本体の周囲を 木造のコロネードが囲んでいる。外観は2階建てのように見えるが、中は平屋で スキンチの上に載るドーム天井が きれいに架かっている。建立は 16世紀だが 1933年の再建であるので、あるいはRC(鉄筋コンクリート)造なのかもしれない。外観上も 伝統的な廟建築とは ずいぶんちがっており、再建前の姿を どれだけ踏襲しているのかは不明である。

阿勒屯魯克清真寺   阿勒屯魯克清真寺

 阿勒屯清真寺(アルトゥン・モスク)は、カラハン朝の 10世紀に創建されたという説もあるが、おおよそ 15世紀の建立であろう。現在のものは 19世紀の再建で、さらに近年、大幅に修復された。
道路に面した広場からアプローチするための門は、近年のものだが 立派につくられている。完全にペルシア風で、レンガの積み方で装飾パターンをつくり、一部にはタイルを貼っている。両側にはミナレット風の飾りがある。
 門をはいると 奥行きの深い中庭で、その長辺側に 長大な礼拝室がある。 両端部にミナレットを立て、外壁はレンガ造である。これは あきらかにカシュガルの エディガール・モスクをモデルにしていて、中央部の小さな内殿(冬のモスク)を囲んで、木造柱が立ち並ぶ外殿(夏のモスク)が南北に伸びる。そして同じように、中庭には多くの樹木が生い茂っているので、ほどんどファサードが見えないほどである。中庭の東側がブドウ棚になっているのも珍しい。
 外殿は一番外の列の柱が 派手なムカルナス柱頭をもち、天井の各所が幾何学紋や植物紋で カラフルに塗装されている。ミフラーブの脇に ミンバルがないのは、どういうわけだろうか。新疆地方の重要なモスクの中では 唯一、このモスクだけが撮影禁止で、異教徒に対して排他的である。


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10 ホータン 和田 (ホーティエン)*
  HE TIAN  新疆ウイグル自治区

加満(ジアーマン)清真寺 *
JIAMAN MOSQUE

ホータン

 和田(ホータン)は 新疆ウイグル自治区の南端に位置する都市で、古代には仏教国であったが、11世紀頃からイスラーム化し、現在の人口の大半はウイグル人である。ここには 金曜モスクと 大モスクと エディガール・モスクが別々にあるが、ここでは金曜モスクを見る。
 全体の構成は、前項の ヤルカンドやクチャの大モスクなどと同じで、これは 天山山脈以南の 新疆型モスクということができる。その特性は、第1に 道路あるいは広場に面して中央アジアないしペルシア風のレンガ造の大門(ピシュターク)をもち、大門の両サイドには ミナレット風の尖塔を備える。第2に 大門の尖頭アーチのイーワーンは南向きなので、ここを入ると 奥行きの深い中庭となり、礼拝室は正面ではなく、左手(西側)に位置する。つまり、大門は中軸線上に位置しては いない。第3に 中庭には多数の樹木が植えられ、広場風であるよりは 庭園風である。第4に 礼拝室は奥行きが小さく幅の広い「幅広矩形」をなす。第5に 礼拝室は、奥の レンガ造の壁で囲われた内殿(冬のモスク)と、手前の 庭園側に開かれた 木造の外殿(夏のモスク)の2部構成をとる。第6に 外殿の木造柱は ムカルナスの柱頭を戴き、カラフルに彩色される。第7に 内殿のミフラーブ前には ドーム屋根を架ける。

ホータン   ホータン

 レンガ造の大門は 近年の再建で、隅々まで 破綻なく つくられている。特に レンガの積み方で さまざまな幾何学パターンを生み出しているのは 見事である。ところが 裏にまわると、これがRC造であることが知れる。レンガ積みではなく、コンクリートに モルタルを塗って、レンガを貼り付けているのにすぎない。これなら、いくら繊細なパターンも つくれるだろう。こうした方法が、文革以後の 中国の再建モスクの 典型的な方法なのである。
 中庭には 2列のポプラの木が 整然と規則的に植えられていて、スペインの コルドバのモスクの中庭を思い起こさせる。 これに面する礼拝室は、まず 非常に細い柱の木造のコロネードがあり、その奥に 白く塗られた太い柱のコロネードの外殿と、壁で囲まれた内殿がある。この白塗りの部分は すべて RCのラーメン構造なので、アーチではなく 水平の梁を基本にしている。




 こうして 新疆ウイグル自治区のイスラーム建築を見てきて、かつては町々が ウズベキスタンのサマルカンドや インドのシュリーナガル(どちらも 地図上では驚くほど近い)と 同じような町並みであったのが すっかり現代風に変わってしまったように、宗教建築も、見かけ上は伝統的でありながら、また再建時には 中東のイスラーム建築を範としながら、実際には かなり ハリボテ風の建物となってしまった。本当の歴史遺産を ほとんどすべて失ってしまった最大の原因は、1960年代後半から 70年代前半の「文化大革命」であった。その文化的損失は、中国にとっても、世界の建築界にとっても、計り知れない。

( 2009 /07/ 01 )

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中国語の扁額

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