第 4 章
ISLAMIC ARCHITECTURE in CHINA
中国 西部イスラーム建築

神谷武夫

中国西部の地図
中国西部のイスラーム建築地図

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01 西安 (シーアン、長安)***
  XI AN  陝西省

化覚巷清真大寺 ***
HUAJUEXIANG MOSQUE
全国重点文物保護単位 (国指定の重要文化財)

西安   西安

 西安(せいあん)の化覚巷 清真大寺については、すでに「世界の宗教建築」の第 19回に書いているので、そちらを参照。ここには、多少の重複はあるが、別のことを記す。
 北京の牛街礼拝寺と並んで、中国で最も名高いモスクであるが、南海沿いの古モスクのような 固有の名では呼ばれていない。しかし歴史的には いくつもの名称をもった。 1392年、太祖洪武帝5年に創建された当時は 聖教寺と呼ばれ、次いで 唐明寺、回回万善寺、そして 清修寺とも呼ばれた。西安には現在 14のモスクがあり、東部には やはり古刹の大学習巷 清真寺があるので、それを東大寺、こちらを西大寺とも呼んだ。
 現在の清真大寺(チンジェン・タースー)というのは 大モスク、あるいは金曜モスクのことで、これに前面道路の名をつけて呼ばれている。巷(シャン)は路地を意味し、西安の主要な大通りではなく、L字形に曲がった狭い「化覚巷(ホアチュエ シャン)」に 東側正面と北側側面が接している。大通りに 麗々しく面していなかったことが、文化大革命でも破壊されなかった原因の一つかもしれない。現在は化覚巷に露天の店が建ち並んでいて、浅草のような賑わいを見せている。通常の清真街のような清真食品の店よりも、土産物屋が多い。 しかし一歩モスクの境内に入ると、そこには静謐さが支配する 整然とした中庭(進院)が連続していて、古都の宗教空間としての 風格を見せている。

西安

 各進院は 低い塀か生垣で ゆるやかに仕切られ、順次 中国式の門をくぐって 奥へ進んで行くのが特色である。そればかりか、第1進院の中央には木造の門(木牌楼)、第2進院には石造の門(石牌坊)が建っている。これらは 進院間の仕切りとは関係がなく、またモスクの機能とも関係のない、中国に特有の 独立した記念門である。特に 清代初めの木牌楼は雄大で、屋根を支える斗栱は、西方のムカルナス装飾の代用を思わせる。
 したがって、中庭といっても 中東のそれとは大いに違っていて、広いスペースを 建物が囲みとるのではのではなく、スペースの中央に 建物をシンボリックに建てるために 中庭をつくっている感がある。第3進院の中央には ミナレットの役割をする 省心楼 、第4進院の中央には 一真亭 (両翼を拡げたような形から 鳳凰殿とも呼ばれる)を建てる。礼拝大殿の前の 月台と呼ばれるテラスに来て、はじめて 中央に建物のない 広々としたスペースに出るのである(集団礼拝で、信者が堂内に入りきれない時には、西方のモスクの中庭と同じように、ここも礼拝スペースとなる)。
 これら一連の中庭を、中国の伝統的住居の 四合院形式と言うのには賛成できない。建物で きっちりと囲まれた 四合院の中庭とは、あまりに違っているからである。

西安   西安

第2~第4進院には それぞれ左右一対になった碑亭があり、このモスクの修復記録などが記されている。しかし 唐代に修建したという碑文のある「勅賜重修清真寺碑」などは 明代の偽造である。碑亭は 磚(せん、レンガ)による組積造なので、開口部は半円アーチとなっているが、頂部には瓦屋根が載り、木造を模した斗栱が彫刻されている。
 最奥に位置する 礼拝大殿 は7間の堂々たる木造建築で、面積は約 1,300㎡に及ぶ。奥行きが深いので2棟を並列し、さらに それに直交する形で 後窰殿を後部に突出させている。前面は 一棟の半分をオープンな前廊とし、天井の高い 半外部空間としている。1,000人以上の信者が いちどきに礼拝できるので、雨天時に下足を脱いだり 傘をたたんだりするスペースとして有効である。
  後窰殿 は 礼拝室からの入口の幅が絞られているので、いっそう独立性が高く、この部屋だけで、ミフラーブを備えた小モスクのような印象を与える。部屋の幅が3間と小さいので、左右の窓からの光によって、礼拝室よりも ずっと明るい。逆に礼拝室は、天井が植物紋によって華麗に彩色されているにもかかわらず、その幽暗さが 静謐な聖性を もたらしている。


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02 閬中 (ランチョン)***
  LANG ZHONG 四川省

巴巴寺 **
BABA MOSQUE

閬中   閬中

 閬中(ろうちゅう)は 嘉陵江がU字形に大きく湾曲した内側にある都市で、河に囲まれているために 風光明媚であるとともに、軍事的には守りが堅い。この古都に、かつての京都のように平屋の黒い瓦屋根の町並みが続いていて、唯一の塔である華光楼から見下ろすと、実に美しい。この保存都市域は 中国の「国家歴史文化名城」に指定されているだけでなく、「全国保存最完好的四座古城」のひとつに数えられているにもかかわらず、「ロンリー・プラネット」にも「地球の歩き方」にも載っていない。ここへ行くには、成都からバスで南充(ナンチョン)経由、4時間半を要する。
 閬中は古代には 「巴」(バー、今の四川省東部)の国の首都だったこともある。三国時代には 蜀の武人・張飛が活躍して没した地なので、町には「張飛廟」(漢桓侯祠)もある。清初には 17年間だけ、四川省の臨時省都であった。現在の人口は約 90万、観光都市として発展し、ユネスコ世界遺産への登録をめざしている。

閬中   閬中

 古都の保存街区からは 少し離れた山の手、盤龍山(パンロンシャン)の麓に、イスラーム建築の 巴巴寺(バーバー スー)がある。下の道路に面して、かなり派手な大門がある。一種の石牌楼だが、中央部分の屋根が高くあがり、大きく反り返った庇を カラフルな斗栱が支え、両脇には彫刻をほどこした 磚の控え壁を備える。この奥の参道は園林のような墓地となっていて、ムスリムの墓が三々五々並んでいる。
 小門をくぐると 巴巴寺の前面に出て、まず磚彫のみごとな 照壁 があり、ここからすべて中軸上に建物が並んでいる。照壁と向かいあうのが やはり磚造の二門で、これに連なる塀が奥の境内を囲んでいる。二門の次には これも見事な木牌楼。中庭をはさんで木造の礼拝大殿があるが、左右に講堂はない。ここは実は 聖廟の地、つまり「拱北」(ゴンベイ)であって、あとから 廟の前に礼拝室が加えられてモスクとなったのである。

閬中

 廟本体の屋根が、日本では見ることのない、ほとんど垂直に盛り上がったような形をしているのは、西方の廟のドーム屋根を 木造瓦屋根に置きかえた形式なのである。廟はアラビア語で「クッバ」、ペルシア語で「ゴンバド」と言うが、どちらも 本来はドームを意味する。中東では 墓の上に屋根をかけるにはドームをもってするので、廟をもその名で呼ぶようになった。これを中国語にしたのが 「拱北」(ゴンベイ)、 あるいは「拱拝」(ゴンバイ)で、それを造形的にも表現しようとしたのが、こうしたドーム的瓦屋根である。
 巴巴(バーバー)というのは、アラビア語で 祖先、祖師 の意で、スーフィズムの四大教団のひとつ、嘎徳忍耶(カーディリー)門宦の 阿ト董拉希(ワジール・アブド・アンナーシル)(西来上人)の墓である。清代に布教に来て、1689年に閬中で没した。廟は 康熙帝 28年 (1689) に建立され、のちに礼拝室が加えられた。しかしモスクの命名には、かつての「巴」の国とも関連があるのかもしれない。




西清真寺 *
WESTERN MOSQUE

閬中

 閬中の保存都市域内にあるモスク。 清の康煕8年 (1669) の創建で、これも四川省の「文物保護単位」に指定されている。木造の立派な門の奥に緑豊かな中庭が伸び、左右に講堂、正面に前廊を備えた礼拝大殿がある。門を含め すべて切妻屋根で、大殿は巾 5間、床面積は 628㎡、棟の高さは 27m、という。後窰殿はなく、キブラ壁にミフラーブが設けられている。道路が東側なので、すべてが西(マッカ)に向けて定石どおりに配され、シンプルにつくられて破綻がない。


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03 成都 (チョンドゥ)***
  CHENG DU 四川省

皇城寺 *
HUANGCHENG MOSQUE

成都   成都

 成都(せいと)は四川省の省都であり、人口 600万の大都会である。2008年の 5月に起きた四川大地震の震源地は成都から 50kmの地であった。都市の名は紀元前の周の時代に遡るというが、同じ古都の西安とちがって、中世の成都にはムスリムのコミュニティがなかったらしく、モスクの創建は明代と伝えられる。蜀藩(明蜀)の王宮の地に建てられたので皇城寺の名がついた。現在は前面道路の名が皇城街なので、皇城街清真寺というのが正式の名称であるが、その略称として、今も 皇城寺(フアンチェン スー) と呼ばれている。
 大規模に建て直されたのは 咸豊年間の 1859年のことで、1919年には重修理が行われた。周囲に回民街があり、四川一の規模を誇る中国式モスクであったが、市の中心となる天府広場を拡大整備するにあたり、1990年代に古寺は解体された。現在のモスクは、1998年に道路を隔てた隣地に鉄筋コンクリートで再建されたものである。寺院の解体や移設というのは、インドでは宗教の重要性からきわめて困難であるが、中国では実にたやすく行われるという印象が強い。
 模型写真でわかるように、以前よりも狭くなった敷地の有効利用のために、モスク全体は矩形の人口地盤の上に載せられ、下部は駐車場や店舗、その他の用途に充てられている。ここから階段を上ると、門から礼拝大殿にいたる建物群が軸線に沿って 左右対称に配置されている。階段を上りきったテラスの端部に壁を立ちあげて、照壁としている。
 2本のミナレットを戴く2層の事務関係の建物の手前が前庭、奥が中庭である。巾いっぱいの中庭は渡り廊下風の回廊で中央部と左右に仕切られている。この奥が階高の高い2層の礼拝大殿で、下が女子用、上が男子用である。 すべての建物は伝統様式を鉄筋コンクリートで造り、瓦屋根を載せているので、吉田五十八風であるが、しかし礼拝室のインテリアはあっさりとしていて、木造モスクのような雄大さを 見せてはいない。十分な予算が得られなかったのだろうか。


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02 永寧 (ヨンニン)*
  YONG NING 寧夏回族自治区

納家戸清真寺 **
NAJIAHU MOSQUE

納家戸   納家戸>

 永寧(えいねい)と 次の同心が位置する 寧夏(ニンシア)回族自治区は、中国で最も回族の多い地域で、自治区の人口の約3分の1、190万人が回族であるという。黄河の水に恵まれた寧夏平原は 古来肥沃な地として知られ、回族は西方から移住してきて、宗教の点以外は 漢族に同化した。19世紀後半には、回族に対する 清朝の抑圧政策に対抗した西安などに連動して、寧夏でも「回族蜂起」があったし、文革時代には多くのモスクが破壊されたものの、現在は安定した平和を享受している。
 区都の 銀川(インチュアン)では 最大のモスク、南関清真寺が文化大革命で破壊され、今は新しいドーム型のモスクに建て替えられているし、銀川北方の石嘴山の清真寺も破壊されてしまったので、古モスクを求めるには、銀川の南 約 20kmの永寧(ヨンニン)に行く。この地に回族が定着したのは、元の時代という。
 納家戸(ナジアフ)村は 永寧のすぐ近くで、人口は 4,000人強、97%は回族で、しかも その6割以上が 納(ナー)という姓なので この名がついた。モスクは 牧歌的な場所に、8,000㎡という 広い敷地を有している。文革時代の 10年間は 閉鎖の憂き目にあったが、幸いにも破壊は されなかった。80年代からは 修復のみならず、礼拝室や付属施設の増築、拡張が続いている。
 納家戸清真寺の創建は、明の嘉3年 (1525) といわれる。境内の入口には、照壁と向かいあって堂々たる門が建っているが、これは 近年の宗教政策変更後の建造になる。磚と木の混構造で、通路は3連のアーチとなり、上部が3層の木造楼閣、その左右に 磚塔を従える。大殿よりも造形的に目立つので、近年は これが納家戸清真寺のシンボルとなっている。

納家戸清真寺   納家戸清真寺

 礼拝大堂は 前面に独立的な前廊を備えているが、これは前巻棚ではなく、礼拝室と同様の 切妻屋根である。幅は 5間、20mで、礼拝室のほうは その外周に柱廊をまわしているので、構造体としては7間となる。礼拝室は 増築によって棟の数を増して、床面積を拡大してきた。私が訪れた 2005年も 最奥に4つめの棟を増築中であり、ミフラーブが移設されていた。これによって 奥行きは、現在では 60m近くになる。
 外観上は、切妻屋根(歇山)相互間を単なる谷とせずに、小さな巻棚屋根を設けているので、全体の棟数が9棟のように見え、側面からの姿は きわめて印象的である。こうした連棟式の建物を「卷棚歇山勾連搭式」と呼ぶ。

 それにしても、ここでは 1,500人が一度に礼拝できるというが、大都会でもない この村に、これほど大きなモスクが必要なのだろうか。今では 文化財としての役割の方が 大きいのかもしれない。

納家戸清真寺

 前面の庭の左右には講堂があり、四合院形式をとっている。閑静な庭の老樹が 大きく枝をひろげて、ファサードを隠すほどである。柱群は 建物の主調色の緑で塗装され、前廊の梁と斗栱には 極彩色で華々しく植物紋が描かれている。内部も同様であるが、増築のミフラーブまわりは、全面的に彫刻がほどこされているとはいえ、まだ白木のままで未塗装なのが、逆に すがすがしく感じられた。後窰殿(ミフラーブ室)として独立的に扱わず、仕切り壁も設けていないのは、西安の清真大寺との大きな違いである。


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05 同心 (トンシン)*
  TONG XIN  寧夏回族自治区

清真大寺 **
GREAT MOSQUE
 全国重点文物保護単位

同心   同心

 寧夏回族自治区の同心県は 人口 37万人で、その8割が回族である。同心(どうしん)の南西の廃城近くにある清真大寺は、明代の万歴年間 (1573 -1620) に創建されたと伝えられ、中国の 10大古老清真寺の ひとつに数えられる。碑文には、清の乾隆 56年 (1791) と清末の光緒 33年 (1907) に 重修理されたとある。一説によれば、清の朝廷が同治年間の「回族蜂起」を鎮圧して 寺院を破壊したので、清末に 現存モスクが再建されたのだという。また 1936年には、中国工労農紅軍が征西したとき、中国史上 初の、回民自治政府を成立させた大会の舞台ともなった。そのこともあってか、西安の清真大寺などと並んで、国の全国重点文物保護単位に指定されている。日本でいえば、重要文化財か国宝というわけである。

同心

 モスクの構成は きわめて特異である。中庭を含む全体が 高さ 7mの磚造の基壇の上に載っているので、要塞のように見える。そして、高くそびえる 邦克老(パンケーロウ)の真下の3連アーチに続く トンネル状の通路を通り、次いで 大階段を上って、基壇状の境内に出るという、ドラマチックなアプローチをとる。こうした立体的な演出が なされたモスクは、私の知るかぎり、シナンが設計した イスタンブルの ソクルル・モスク (1571) だけである。けれども、基壇の下の一部に 沐浴室などが組み込まれているとはいえ、イスタンブルとちがって斜面の敷地でもないのに、全体を これほど高く上げた理由は不明である。

平面図

同心の清真大寺 平面図
(From " Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, 2003, Springer)

 モスク全体の敷地面積は 約 3,500㎡で、3連アーチの向かい側には 磚造の照壁(チャオビ)がある。ここから邦克楼、大階段と 軸線が通っているものの、マッカに向く 礼拝大殿の向きは逆なので、北京の牛街礼拝寺のように Uターンしなければならず、中庭へのアクセスが 建物のすきまから なされるのが 欠点である。かつては 南側に主進入路があったが、戦乱で焼失したという。しかし 北京の項で指摘したとおり、中国式の(四合院的な)モスクは、東側から進入しない限り、外部空間のシークエンスに破綻をきたす と言える。

 二門の上の邦克楼は2階建ての 「四角攢尖(スーチャオ・ワンジェン)」、すなわち方形造りで、望月楼を兼ねる。柱の数が多く、屋根は派手に反り上がり、細部も装飾的で、このモスクの シンボルとなっている。日本の寺院の塔と似ているが、心柱はなく、天井を張らずに 小屋組みを見せている。
 全体構成の特異性は 中庭にも表れる。左右を 経講堂やアホンの住房で、西側を大殿の前廊で囲まれた中庭が、東側は オープンな見晴台に なっているのである。
 礼拝室の前廊は 単独の前巻棚で、大殿は「単檐歇山(タンヤン シエシャン)式」、すなわち 一層の入母屋造りである。約 800人を収容できる大ホールだが、前後の2棟から成る。手前は5間の幅、といっても 内部に立つのは4本の大柱なので、東西方向の柱の列は ずれている。奥の後窰殿は、やや狭まって3間であるが、仕切り壁がないので、手前の棟と一体化している。したがって、外観的にも堂々たるこの後窰殿は、独立的なミフラーブ室というよりは、礼拝室の後ろ半分と見る方が妥当である。

 同心の清真大寺を訪ねるには、中寧(チョンニン)で宿泊して、車で日帰りするのがよい。私が訪ねた 2005年には、モスクは修復工事中であった。また 同じ同心県で、ここから 120kmの 韋州(ウィートゥ)にも 14世紀の重要な清真大寺があったが、文革で破壊され、現在は新しいモスクが建っている。


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06 蘭州 (ランジョウ)*
  LAN ZHOU  甘粛省

西関清真大寺 *
WESTERN GREAT MOSQUE

蘭州  橋門外   解放路
現在の西関清真大寺と、破壊された橋門街清真大寺および 解放路清真寺
           (劉致平「中国伊斯蘭教建築」1985 より

 蘭州(らんしゅう)は 甘粛省の省都で、古名は金城、隋の時代に 蘭州となった古都である。現在は人口 300万人を超える大都会で、その 10%ほどが回族だという。市内を貫く黄河が、経済的にも景観的にも大きな役割を果たしてきた。モスクの数は多く、開放路清真寺と 橋門外清真大寺という2つの重要なモスクがあったが、いずれも文革で破壊されてしまった。これほどまでに徹底して古建築を破壊した文化大革命の精神構造というのは、今となっては まったく理解できない。この「文化虐殺」運動というのは、ユダヤ人虐殺や アルメニア人虐殺と同類の蛮行と言える。中国全土で、いかに多くの古建築が消失したことか。

 宗教復興後の 1983年に計画が始まり、1990年に新しいモスク、蘭州 西関清真大寺が、破壊された 開放路清真寺に代わって建てられた。外資系の企業(客商 )が資金援助したことから、「客寺」とも呼ばれている。設計は回族の 王鴻烈に委託された。中国式ではなく、ドーム屋根の「阿拉伯(アラビア)式」で、地上4階、大階段によって1階床を高く上げているので、この下に半地下の信徒室がある。ドーム屋根といっても、現在の中国に瀰漫している 中東やインドのドームのイミテーションではなく、RC造の現代建築としての風格を保って、むしろ UFOのような印象を与える。高さは 37m。
 内部には礼拝殿のほかに 図書室や教室、そして女礼拝室を備えている。礼拝室は外周が 16角形、その内側に 8本の円柱が並び、2層吹き抜けの折り上げ天井が載る。

蘭州   馬明心

 さて 中国では、唐代に始まるイスラームの浸透と流布が ひとつの伝統を形成し、この中国化した主流派・カディームは「老教」あるいは「旧教」と呼ばれた。これに対して、18世紀に直接 中東の地で学んできた者らが 中国にスーフィー教団を打ち立てていったので、これを「新教」と呼んだ。中でも馬明心(マー ミンシン)が始めた ジャフリーヤは、弾圧と反乱の悲劇的な歴史に彩られている。1781年に殉教した馬明心の聖廟(ゴンバイ)は ここ蘭州にあり、この派の精神的よりどころに なっていたが、1958年に文革によって破壊され、現在のものは宗教復活後の 1980年代の再建である。廟は RC造で、尖頭アーチのアーケードの上に、球根形のドーム屋根を戴いている。西関清真大寺のデザインは、この廟のイメージを 取り入れたのかもしれない。


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07 臨夏 (リンシア)**
  LIN XIA  甘粛省

老王寺 *
LAOWANG MOSQUE

臨夏   臨夏

 甘粛省におけるイスラームの拠点は、人口 22万の 臨夏(りんか)(かつての河州)である。甘粛省の 臨夏回族自治州にあり、海抜 2,000mに位置する。かつては 都市の南門外に「八坊(バーファン)十二寺」と呼ばれた、典型的な回族の中庭型住居(四合院)の建ち並ぶ市街地に、12の中国式モスクがあった。しかし 1928年の「河州の乱」による回族の八坊地区への攻撃、それに文革によって ほとんどのモスクが破壊されたり遺棄されたりした上に、都市開発によって伝統的な住区も失われて、他の都市と あまり変わらなくなった。宗教復興後、大華寺(ターファ スー)をはじめ 数十のモスクが建てられているが、建築的に質の高いものは少なく、飾りドームの「阿拉伯(アラビア)式」のものが 多くなった。中国式のモスクの中では、老王寺(ラオワン スー)が興味深い。

 創建は明代の初め、洪武元年 (1368) と伝えられ、その後いくたびも被災、修復を繰り返した。現在は、小さめの入口の門のすぐ内側に、五重塔のような邦克楼(ミナレット)が二門を兼ねて建ち、大殿、講堂、経堂(マドラサ)などの施設が 中庭を囲んでいる。巻棚屋根の前廊を先立てる大堂は 入母屋造りの伝統様式ではあるが、実際は大スパンの鉄骨造の屋根であって、礼拝室の内部は 列柱ホールというよりは、柱の少ない 広大なホールとなっている。小屋組みは木造でないので、天井を張って隠している。モスクもミナレットも 1968年に文革で取り壊され、復興後の 1980年から 84年にかけて 再建されたのである。

臨夏

 再建ではあっても、世界に例を見ない ユニークな形のミナレットは 見ものである。 広州の項で書いたように、ミナレットは アラビア語でマナーラといい、中国語では「密那楼」と音訳し、「光塔」と意訳した。その後、機能面から 「宣礼塔 」、「喚醒楼」、「喚礼楼」、「邦克楼」と種々の訳語が作られ、それぞれに用いられた。それらの間に 意味の差異はない。
 老王寺の喚醒楼(フアンシン ロウ)は、日本にはない六角形プランの 五重塔のような姿をしていて、これが甘粛における伝統的なスタイルである。上述の蘭州の開放路清真寺に かつてあった 四重塔の形式を受け継いでいて、老王寺のものも 本来は四重塔であったのが、再建時に五重塔にされたのである。一見、純木造のように見えるが、実際は かなりの部分が RC造である。臨夏には、ここのほかにも 水泉寺や老華寺、真北寺 などに、もっと小型のものがある。




大拱北 (ターゴンベイ) ** 
GRAND GONGBEI

大拱北

 臨夏は ムスリムの回族が多く住み、いたるところに モスクが建ち、そして スーフィズム信仰の聖地としての大拱北に 巡礼者が絶えないことから、「中国の麦加(マッカ)」と呼ぶ人たちもいる。
 初期イスラームでは、墓を立てて参拝するのは、偶像崇拝につながるものとして 禁じられていた。しかし、本来は墓を立てない仏教が 日本に伝わると、先祖崇拝の習慣をもつ日本人が 墓を立てるようになってしまったように、イスラームも 各地に伝播するにつれて、聖者信仰と合体して 立派な墓を立てるようになった。 ひとつには、モスクが男子の礼拝場所であったので、女子は聖人の墓所に さまざまな祈願をしに行くようになったことがある。スーフィズムの発展につれて 聖者墓は参詣用に作られるようになり、廟建築を発展させた。木の少ない中東では、これに レンガ造や石造のドーム屋根を架けるのを常としたので、ペルシア語では ドームを意味する「ゴンバド」が、廟 をも意味するようになった。この ゴンバドを中国語に音訳したのが「拱拝(ゴンバイ)」あるいは 「拱北(ゴンベイ)」である。

 中国で最も規模が大きく、また名高いのは、臨夏の西北地区にある 大拱北である。もともとは蘇菲(スーフィー)の カーディリー教団(北門宦)を中国で始めた祁静一(キー チンイー、1656-1719) の聖墓を中心に、康煕 59年 (1720) に建設が始められたので、当初は「祁家拱北」の名だった。のちに第6代の 祁道和が規模を拡大したので、大拱北と呼ばれるようになった。門宦(もんがん)というのは スーフィー教団のことで、中国では このカーディリー教団に、フフィー教団、クブラヴィー教団、そして上述のジャフリー教団が4大教団と呼ばれる。カーディリー教団は この拱北をもつが故に、「大拱北門宦」と呼ばれることもある。
 大拱北は 1928年に 戦火により破壊されて古文書も焼失したが、1932年 馬家により再興された。磚と木の混構造で「三層八卦亭」の墓廟のほか、花亭院や東北院が建設された。しかし 文化大革命では、国中の大半の拱北と同様に破壊され、ようやく 1981年になって 馬家によって再建された。

大拱北   大拱北

 境内は たいへん広く、大門と東西の門に続いて8基の拱北、礼拝殿、静修室、客庁、アホンの住宅、学生宿舎、後園 などが展開する。しかし 全体計画というものはなく、全体を貫く中軸線も想定されていない。院落の付加を繰り返して、できあがったものである。劉致平は、こうした曲折的な経路が、拱北の神秘感と重要性を 増しているのだと主張するが、しかし その平面図を提示していない。
 建築的に なによりも興味深いのは、いくつもある 三重塔のような廟本体である。六角または八角形のプランの壁面は磚で作られ、細密な彫刻がほどこされている。斗栱で持ち出された軒は大きく反り返り、頂部の屋根は 閬中(ランチョン)の巴巴寺で見たように、ドームのような丸い瓦屋根をしている。「拱北」が言語の翻訳であったとすれば、こちらは石造から木造への 建築的翻訳であった と言えるだろう。

Linxia   Linxia

 境内には 磚造の照壁や区画塀が 諸所にあり、廟の壁面と同様、磚彫が ほどこされている。磚の彫刻は、伝統的な木彫の延長であり、繊細に 草花や山水、器物や伽藍などが描かれていて、これらは中国の磚彫を代表するものと言われる。


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08 西寧 (シーニン)**
  XI NING  青海省

東関清真大寺 **
EASTERN GREAT MOSQUE

西寧   西寧

 青海省の省都、西寧(せいねい)は標高 2,300mの高原都市で、チベット名はシリン、あるいは シニンという。人口 220万(市区はその半分)は、漢族と回族、チベット族、モンゴル族が共存している。 閑静な都会だが、中心となる 東関(トン クヮン)清真大寺は大規模で、西安、蘭州、カシュガルと並んで 中国西北地区の四大清真寺のひとつに数えられている。
 創建は 明の洪武 12年 (1380) というが、現存する建物は すべて 20世紀の再建である。寺院の敷地は約 1.7ヘクタールあり、中央の大院(大きな中庭)の面積が約 4,500㎡もある。イードの祭礼には、ここで2万人が集団礼拝できるという。取り壊しや修理、再建、拡張は数多く行われてきたが、1976年に 全面的に修理・再建が行われて現在の伽藍が完成した。しかし、それにしては建物のスタイルが一貫せず、最も古式の礼拝大殿から 外へ行くほどに西方的な様式、デザインとなる。そこに モスクの規模の拡張と、それぞれの建物が初めに建設された時代が 反映しているのだろう。

航空写真    平面図

西寧の東関清真大寺 航空写真と平面図
(From Google Maps and "Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, Springer)

 都市のメイン・ストリートである 東関大街に面した大門は、基本的には 広場を先立てた3階建ての近代的なビルであり、その屋上に、「サイン」としての中東風のドームと、2基のミナレットを載せている。 内的な必要からドームができたわけではないから、かつての日本の「帝冠様式」の同類だと言える。 1998年の建設で、ビルの中には事務所と学校があり、中国西部地域における イスラーム教育の中心的役割を担っている。
 この1階を門としてくぐり抜けると、都会の喧騒を離れた静謐な境内となり、今度は5連アーチの二門が迎える。その両側には六角形の 宣礼楼(ミナレット)、あるいは望月楼が立ち、4層目の頂部に 木造瓦屋根の中国風 六角堂が載っている。「中阿折衷」ないし「中阿共存」のデザインである。
 この奥の大院の左右には 中国式の講堂が建ち、蔵経室や会議室、接待室、講経教室、学員宿舎などに用いられている。

西寧   西寧

 敷地に高低差があるので、二門でも1mばかり床面が上がるが、中軸正面の大殿は、さらに高さ2mの基壇の上に建つ。大殿の床面積は 1,100㎡と広く、1,500人が同時に礼拝できる。磚造の壁と丹塗りの列柱の上に「単檐歇山頂式」(屋根が一層の入母屋造り)の屋根が架かり、瑠璃瓦で葺かれている。棟には チベット風の金メッキの宝瓶がついているのが、ここの地理的位置を示している。

 大殿は 前巻棚と正殿と後窰殿の、典型的な「三合一」制式であるが、今は、本来オープンな前廊に、アルミサッシュでガラスが嵌められてしまった。修復によって 鮮やかな彩色・彩画が甦っていて、さらに軒の斗栱が「如意斗栱」であるのが目を引く。これは、斗栱の ひとかたまりごとに 腕木が中心から左右 45度方向に迫り出すもので、構造的な効率はやや落ちるが、形態的にはダイナミックな印象を与える。主に青海省で 見られる方法である。
後窰殿の棟は 西安と同じように、礼拝室の棟と直角である。内部は かなり独立性の高いスペースで、入口の幅も しぼり、内部の柱をなくして 外部の周囲に列柱をまわしている。この特異な形式は 済寧や湟中、ウルムチなど 少数のモスクに見られよう。


INDEX


 

09 湟中 (フアントン)**
  HUANG ZHONG  青海省

洪水泉清真大寺 ***
HONGSHUIQUAN MOSQUE

湟中

 西寧から 25kmの湟中(こうちゅう)は 西海省 西寧市の湟中県に位置する。チベット仏教の六大僧院のひとつとされる 広大なタール寺(チベット語では クンブム寺)があることで名高いが、ここには回族も住み、立派なモスクもある。洪水泉(ホン シュイ チュエン)清真大寺がそれで、清真巷の丘の上の斜面に建っている。
 明の永楽 8年 (1410) という説もあるが、おそらくは 清の乾隆年間 (1711-99) の創建であろうと言われる。ここの信徒の寄進によって 少しずつ建てられたせいか、13年を要したと言う。敷地は山の斜面なので、高低差があり、大殿内にさえ 床の段差がある。

 坂道を登ってきて 階段を上ったところに 大門が建っている。これは かなりの時代を閲(けみ)している。ところが この門も、そして奥の礼拝大殿その他も、1960年代前半に 劉致平氏が実測した図面(『中国伊斯蘭教建築』1985) との食い違いが大きい。何よりも 邦克楼としての三重塔が現存しないし、大殿は かなり新しく きれいである。ところが どの文献にも、このモスクが文化大革命で破壊されたとは 書いてない。

湟中   湟中

 破壊による再建なのか、老朽化による修築なのか、一部の増築や改修なのか、すべてが不分明である。そもそも 中国人には、古式の保存や復元に それほど価値を置かないように見える。文革後に再建する場合でも、たとえ 以前の図面や写真が残っていても、旧来の姿を完全に復元しようとはせずに、規模を拡大したり、新しい姿に変えたりする傾向がある。それは 古代より、王朝が変わるごとに 重要な建物を取り壊して、規模を拡大し、より豪華に建て替えてしまう という習慣があったようである。碑文は たくさん残っていて、いつ 修復、重修、再建が行われたかを記しているが、工事の前と後の 図面や写真があるわけではないので、その内容は分明でない。まして 公権力によって建設された儒教や仏教の寺院とちがって、少数派のムスリムのモスクは、その建設年代を言うのが きわめて困難になるのである。

平面図
湟中の洪水泉清真大寺 架構平面図

 礼拝大殿は 以前の姿や技法を ある程度 踏襲してはいるが、建物自体は 再建に近いと思われるので、撮影してきた写真をもとに作図したのが、上図の「架構平面図」である。基本的には 前廊+正殿+後窰殿 の標準的な三部構成であり、3つの棟から成る。前廊といっても、一棟全部を占めるのではなく、面積的には その半分以下である。しかも西寧の東関清真大寺のように、前面が開放されずに 内部化されてしまった。屋根も巻棚ではなく、切妻である。

湟中   湟中

 正殿(礼拝室)は、かなりの面積を一棟の屋根にしているので、顕(あらわ)し にした小屋組みは堂々たるものとなり、しかも 他の宗教の寺院のような彫刻が置かれていないので、実に雄大な空間となっている。純木造の列柱ホールとして、これは 特別に優れた建築作品である。 後窰殿との つながりもよく、外壁をすべて窓にしているので、堂内が明るい。古いモスクのもつ 幽暗さがないのは、この大殿が 近代の産物であることを示している。

 後窰殿では 西のキブラ壁が すべて木彫のパネルで構成されていて、花鳥風月や アラビア語のカリグラフィーで覆われている。しかも 文字に金色が使われている以外は すべて白木である。このモスクには 一切彩色がほどこされていない (外部の斗栱においてさえ)。さらに注目すべきは、聖龕(ミフラーブ)前の藻井(ザオチン)天井である。「天落傘」状と形容された装飾天井は 実に華やかで、この後窰殿は コルドバのモスクの「マクスーラ」を彷彿とさせる。モスクは 1986年に青海省の重点文物保護单位に指定された。




魯沙尓上街 清真寺
ROSAESHOGE MOSQUE

湟中   湟中

 湟中のもう一つの古寺は、魯沙尓上街(ロサエ ショゲ)清真寺である。 創建は清の同治年間 (1856-75) という。かつては中庭式で 四進院だったというから、西安と似た構成だったのだろう。第1と第2進院は経堂が小学校と中学校をなし、第3進院が礼拝大殿であったという。しかし これも文化大革命で破壊されたのか、あるいは老朽化による建て直しなのか分明でないが、私が訪れた 2005年には 再建工事の真っ最中であった。
 新モスクはかつてのものとは全くちがって、敷地はそれほど広くなさそうなのに、建設中の大殿の規模がきわめて大きく、これでは 中庭はとれないのではあるまいか。
 木造架構は洪水泉清真大寺とよく似ていて、中央部は堂々たる吹き抜けの上に二段重ねの大梁を架けている。大柱は周長が 1.2~2mの太さで、高さは 10mを超える。外周の桁の上には、軒を支える斗栱が載るが、それらは繊細すぎて、構造的役割であるよりは 装飾的役割のほうが強い。如意斗栱が多いのは、この地方の特色である。職人の多くはムスリムで、白い回帽をかぶっていた。


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中国語の扁額

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