第 2 章
ISLAMIC ARCHITECTURE in CHINA
中国 北部イスラーム建築

神谷武夫

中国北部の地図
中国北部のイスラーム建築地図

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01 長春 (チャンチュン)**
  CHANG CHUN 吉林省

清真大寺 **
GREAT MOSQUE

長春

 中国東北部の遼寧省に回族が移住してきたのは遅く、17世紀末からであって、 19世紀以前のモスクは現存しない。長春(ちょうしゅん)の清真大寺は最も名高いが、吉林省の省都である長春自体が 20世紀になって発展した町であるから、伝統的なスタイルをとっているとはいえ、このモスクもまた 20世紀の新建築であると言える
 1932年に日本が満州国を建国して植民地とすると、この町を首都にして新京(しんきょう)と名づけ、多くのコロニアル建築を建設した。都市が発展するとともに 回族のムスリム人口が増え、立派な清真大寺の建立につながった。現在のムスリム人口は約3万で、清真大寺は吉林省の「文物保護単位」(重要文化財)に指定されている。
 ラスト・エンペラー 溥儀の住んだ宮殿(現・偽満皇宮博物館)にも近い市街地でありながら、大通りから奥へ引き込んだ閑静な敷地に、極彩色の清真大寺が配されている。この場所に創建されたのは 1862年であるが、現在の規模に拡張されたのは 20世紀のことである。礼拝大殿は切妻3棟の連棟から成り、その手前に巻棚屋根の前廊がつき、さらに一番奥の後窰殿(こうようでん、ミフラーブ室)が独立的な三重塔のような姿をとる という、規模の大きなものである。外壁が磚造であることを除けば、すべては木造で、とりわけ前面ファサードと塔状部が 朱色を主とする極彩色に塗装されている。特に斗栱の部分は華やかで、絵画的である。

長春   長春

 ところが内部は打って変わって、白を主とする控えめな彩色で、朱色は使われていない。ミンバルが目を引く以外は、むしろ簡素な印象を与え、内外のデザインが まったく異なったモスクである。
 このモスクで最も際だっているのは、後窰殿の塔であろう。中国北部ではミフラーブ上部を吹抜けにして 六角形または八角形の塔状にすることがよく行われるが、その行き着いた最後が このミナレット状の三重塔である。1階を磚造の基壇のごとくになし、その上に高く軽快な丹塗りの望月楼を建てたシンボリックな姿は、これが単にミフラーブ室であるとは、外観からは想像しにくい。こうしたミフラーブ・タワーは、中国以外、世界のいかなる地域のイスラーム建築にも見出すことがない 独特のものである。


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02 瀋陽 (シェンヤン)**
  SHEN YANG 遼寧省

清真南寺 **
SOUTHERN MOSQUE

瀋陽   瀋陽   瀋陽

 遼寧省の省都、瀋陽(しんよう)は漢代からの都市であるが、瀋陽の名がつけられて発展したのは元代の 1296年から。後金の時代には 盛京と呼ばれ、国号が清となって北京に遷都されるまで首都であった。日本の満州侵略時には その軍事、経済上の基地とされて 奉天(ほうてん)と呼ばれた。回族は元代末の 14世紀から流入し、「回回営」と呼ばれるムスリム集落を形成していった。現在は市内に約3万人ものムスリムが住み、最近は 東アジアにおけるイスラーム金融の拠点を目指しているという。
 清朝初期の王宮である 瀋陽故宮の近くに位置する清真南寺は 南清真寺とも呼ばれ、1636年の創建である。1927年と 1944年に増改築されて現在の規模となった。7ヘクタール以上の広大な敷地なので、大門の次に前庭、二門 をくぐると第1の中庭、さらに塀の奥に大殿に面する第2の中庭があり、建物群はゆったりと配置されている。すべては中軸線上に左右対称に配される典型的な中国式寺院形式である。 中庭の左右には 講経堂や教長室などがあり、さらに奥には遼寧省の伊斯蘭協会の事務所や学校などが建ち並び、1999年には 女礼拝寺も建てられた。
 遼寧省の「文物保護単位」に指定されている大殿は3間の巻棚式前廊の奥に、2棟から成る5間の列柱ホール式の礼拝室がある。長春とちがって手前は大型の入母屋造り、奥は奥行の浅い切妻屋根である。おそらくは増築の結果、そうなったのであろう。内部でも2棟の仕切りに木造のアーチ状の仕切りをつけて 空間を分割している。さらに長春とのちがいは磚造の外壁の窓がアーチ開口であること、内部がより装飾的であることである。
 最も目立つのは、やはり後窰殿(ミフラーブ室)の上部が2層の望月楼となっていることで、梁には極彩色の風景画なども描かれている。独特なのは、長春と同じように 柱が壁の外側に独立して立っているだけでなく、1階のミフラーブ室内部にまで達していることである。ミフラーブ室を後方に突出させるのが中国のモスク建築の大きな特色であるが、その内部に6本の柱を巡らせたモスクは、これ以外にない。


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03 北京 (ベイジン)***
  BEI JING 直轄市

牛街礼拝寺 ***
NIUJIE MOSQUE
全国重点文物保護単位(国指定の重要文化財)

牛街

 西安の化覚巷清真大寺と並んで、中国で最も有名なモスクである。首都の北京にある代表的なモスクであるだけに、中華人民共和国成立後もたびたび改修され、さらに 2008年のオリンピックを前に手入れをされて、まるで新築の建物のように色鮮やかな姿を見せている。西安のモスクと同様、観光名所にもなっているので、入場料をとって異教徒にも自由に境内を開放している。両者とも文化大革命で破壊されずに無傷で残ったので (10年にわたって閉鎖の憂き目にはあったが)、一般人が 中国式のイスラーム建築を知る上での、最良の建築遺産であると言えよう。
 北京には約 20万人もの回族が住み、なかでもこの牛街地域に約 1万人が集中するコミュニティとなっている。 牛街(ニウジエ)というのはモスクの前面の道路の名前で、地方都市によくある清真街(回民街)にあたる。そこにはムスリムが住み、ムスリム用の食品(清真食品)などが売られるバーザールでもあり、モスクへの参道ともなる。ムスリムは迫害されることも多かったので、そこは下層階級の住区とも なりがちだった。北京の牛街も 1980年代まではそうした狭い通りで、周囲を古い街並みで囲まれていたが、新しい都市計画のもとに 90年代に4車線の副幹線道路に拡幅された。さらにこの地区のスラム・クリアランスが行われ、伝統的な四合院住居も取り壊され、大々的な再開発のもとに、高層ビルが建ち並ぶ商業地区に生まれ変わりつつある。

牛街   牛街

 北京には 60以上のモスクがあるが、牛街礼拝寺は最も古く、規模が大きく、また華やかな存在である。東院と清真女寺を併せて敷地面積は 9,200㎡に及ぶ。ただ後述のように、道路に西面していることが、モスクを偉大に見せるには不利に働いた。おまけに 道路の拡幅によって歩道が敷地を侵食し、大門前の影壁(照壁)が車道と歩道の境の壁にされてしまった。
 モスクの創建は北宋時代、遼の統和 14年 (996) にアラビアからの使節、納蘇魯丁(ナスレッティン)によってなされたと伝えられる。規模はずっと小さかったろうが、泉州のモスクのように 中東のイスラーム建築の姿が伝えられていたかもしれない。しかし明代の正統7年(1442年)に建て直され、清代の康熙 35年 (1696) には規模が大幅に拡大され、いつしかスタイルも中国式となった。
 中国のモスクは清真寺と呼ばれることが多いが、このモスクは明の成化 10年 (1474) に憲宋皇帝から「礼拝寺」(リーバイ スー)の名を賜ったと、門の扁額に書かれている。しかし明代にはむしろ礼拝寺の呼称のほうが一般的であった。「清真寺」の呼称が普及するのは明末からである。

平面図

北京、牛街礼拝寺の平面図
(From " Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, Springer)

 平面図に見られるように、伽藍配置は中国の伝統的な院落式(中庭型) 配置で、中心軸上に影壁、木牌楼、望月楼、大殿(礼拝殿)、中庭、邦克楼(ミナレット)、対庁(集会室)と並べている。 道灌や仏教寺院の場合には 礼拝方向の制約がないので、大門から中軸上を奥へと進むにつれて大殿に達する。しかしモスクの場合には 必ずマッカの方向(中国からは西方)に向けて礼拝するよう配置しなければならないので、牛街のように 道路が西側にある場合には、モスクの背後から進入する形となる。
 西安の場合には 図式どおりに、幾つもの中庭(進院)を通って奥へ奥へと進んで大殿に達するので、大寺院の印象を参詣者に強く与えるのに比して、牛街では 奇妙な進入路となる。木牌楼(これが大門となる)の脇の小門をくぐると、礼拝殿を囲む塀と水房(体を清める沐浴施設)との間の通路を進み、横に曲がると回廊に出て、斜め方向から中庭を覗き込むことになる。そして礼拝殿の前廊を回り込むようにして入口に達する。これでは各建物を正面から眺めることもなく、邦克楼を二門として潜りぬけることもなく、継起する中庭の空間体験をすることもないままに 礼拝に赴いてしまうことになる。6,000㎡もの広さの敷地をもつ せっかくの大伽藍が、その雄大さをほとんど発揮することがないのである。こうした西入りの敷地の場合には、もっと別の配置計画が工夫されるべきだったろう。
 さらに配置の欠点としては、邦克楼が中庭の中央に建っているので、これと大殿の間にはさまれた空間しか 通常の中庭の機能を果たさず、これは大殿の規模に比して狭すぎる。おそらくは 前廊が あとから増築されたことによって、こうした結果になったのだと考えられる。

牛街   牛街

 大殿は 1,000人が同時に礼拝できる 大規模なものであるというだけでなく、中国のモスクの中でも 際だった印象を与える。まず色彩性、赤を基調としながら 金のカリグラフィーや植物紋で飾られた 柱と多弁形アーチ状のスクリーンが 幾重にも継起して 礼拝室を前後に区切っているので、青を基調とした梁の細緻な装飾塗装と相まって、実にカラフルである。
 歓門(フアンメン)と呼ばれる これらのスクリーンは、建物が増築を重ねて規模を拡大したことによって、多数の棟が連結していることと関係がある。端部の軒が一直線に揃えられているので わかりにくいが、奥行2間の寄棟の大屋根が2棟と、その前後 および中間に1間の入母屋屋根が挿入されていて、それらの境が柱列 およびスクリーンとなっているのである。中国式のモスクは 基本的に木造の列柱ホール型であるが、これほど多くの仕切りスクリーンを備えた大殿は 他に例がない。
 最奥には 後窰殿(ミフラーブ室)が明代に増築された。他の宗教の寺院では 堂内に所狭しと偶像彫刻が並べられているのに対して、モスクでは 何もないホールとなっているのが 大きな特徴であるが、さらに祭壇のような扱いをされた 米哈拉布(ミフラーブ)に、ひたすら古蘭経(クルアーン)から引用されたカリグラフィーのみがあるというのも、中国では異質であろう。
 床は一段高く、またしても2本の柱と多弁形アーチを模したスクリーンが 後窰殿の独立性を高め、6角形プランに六角錐の天井をかけ、微細な植物紋様を描いている。このミフラーブは、祭壇以外の何物でもない。生き物の姿こそ とっていないが、単なるマッカへの方向指示器としての機能を超えた 偶像的な扱いで、イスラームの精神から逸脱している。祭壇を別としても、この豪華なミフラーブ室に匹敵するのは、コルドバのメスキータしか ないのではあるまいか。

牛街   牛街

 この背後(道路側)に、やはり六角形の望月楼が建っている。多くのモスクでは 望月楼がミナレットの役割をしているが、ここでは中庭に ミナレットとしての邦克楼があるので、文字通り月を眺めるため、というよりは 伽藍の飾りのための塔なのだろう。しかし本来 ミナレットというのは地域の人々に礼拝の呼びかけをする塔なのであるから、奥まった中庭よりは 道路側にあるべきなのだが。
 喚礼楼とも呼ばれる 入母屋作りの 邦克楼 は、1273年の創建。元代に布教したアラビア人(烏哈木?)が経典を納めた、尊経閣という堂が その前身だというが、現在の堂は 通り抜けの二門を兼ねたミナレットとしてつくられている。磚造の壁の 1階が低く、柱を外に出した丈の高い2階が載る姿は、ややプロポーションが悪い。
 中庭の左右にある一対の 碑亭 は 実に愛らしく、まるで竜宮城のようである。 単に石碑に屋根をかけるためだけに これほど凝るのは、やはり中国的逸脱である。




清真女寺 *
WOMEN'S MOSQUE

牛街   牛街

 もともと モスクは成年男子の礼拝場所であった。大きなモスクでは、女子用の席を 礼拝室の後方や中2階に設けたり、側方をカーテンで仕切ったりすることもあった。しかし中国では 革命以後男女同権が進んだため、それまでのモスクとは別個に、女子用のモスクの建設が進められてきた。敷地に余裕があれば、男子用モスクのすぐ隣に建てられるが、離れた場所に建てられることもあり、また 敷地の狭い都市型モスクでは、上下階に重ねられることもある。 現在では中国全土に2万以上の清真女寺があると言われ、今も増え続けている。女性の教長(アホン)がいるのが普通だが、男子用の清真寺に付属している場合には、清真女寺の堂内に ミフラーブも ミンバルも ないことがある。
 牛街では 男子用礼拝寺の東北側に約 1,000㎡の土地を得て、民國 14年(1925年)に建てられた。20世紀のモスクであるが、磚造の塀で囲まれた境内に 伝統的な中国式木造で建てられ、北京市・宣武区の重點保護文物にも指定された。 近年すっかり改修されて 真新しくなっている。
 牛街礼拝寺とちがって 東側に門を構え、西のミフラーブに至る中軸状に、完全にシンメトリーに配置されている。門を入ると 中庭の左右に講堂を備え、正面に礼拝大殿の3間巾の前廊。ホールは5間巾だが 奥行の小さい一棟で、その奥に後窰殿を備える。いずれの屋根も巻棚にしているのは、女性的な柔らかさを出そうとしたのだろうか。この左右には沐浴水房などがある。




東四清真寺 **
DONGSI MOSQUE

北京

 故宮に近い東四南大街に面しているので 東四清真寺(トンスー・チンジェン スー)と呼ばれているモスクは、文革以前には東四牌楼清真寺と呼ばれた。創建当初は牛街のモスクと同じように礼拝寺と呼ばれたが、数年後に清真寺となり、また法名寺の名も持っている。敷地面積は約1万㎡もあり、牛街礼拝寺よりも広い。創建は元代末の 1356年であるが、明の正統 12年 (1447) に、軍事長官であったムスリムの陳友の資金によって、典型的な明朝のスタイルで建て直された。北京市の重点文物保護単位に指定され、オリンピックを前に 2006年に全面的に改修されて、新築のような姿を見せている。

北京   北京

 前面道路は東側なので、伽藍は西のマッカの方向へ直進する配置をとる。 西安のモスクのように奥行が長いので、全体は3つの進院に分かれて格調が高い。大通りに面している門にしては 珍しく古風な大門は 1920年の改築である。第一の中庭には樹木がなく、左右の建物が洋風な上に、照明ポールの列が立てられているので、洋風の街路のようになってしまった。大殿の前の中庭には古樹があり、回廊で囲まれて趣があるが、やはり この照明ポールが不調和である。
 この中庭の手前の邦克楼(ミナレット)は明代 1486年のもので、19世紀末に地震で被害を受けて再建。牛街のミナレットに似ているが、こちらの屋根は十字脊、つまり交差型入母屋造りである。中庭の左右には講堂、正面に礼拝殿の3間巾の前廊(前巻棚)、この左奥に図書館がある。
 大殿の列柱ホールは間口5間で、奥行3間を 一棟の寄棟の大屋根で覆っている。したがって堂々たる小屋組みを見せている上に、内部のデザインは牛街に劣らず華やかで、目を奪う。金と赤を基調にした極彩色の空間に、3台のシャンデリアまで吊られている。古蘭経(クルアーン)からの引用の 金文字のカリグラフィーの梁 と、その上部の植物紋様とが 強い印象を与える。

北京   北京

 ところが、間口を3間にしぼった接続部の奥の、3連アーチで仕切られた後窰殿(ミフラーブ室)には 一変して装飾がなく、壁一面が白く塗装されている。というのは この後窰殿のみが元代のもの、あるいは元代のスタイルを伝える明初の建造部分で、すべて磚造である。杭州の鳳凰寺などと同じ形式の 組積造によるアーチ構造であるため、天井は例によって、四隅を持ち出し式のペンデンティヴ(三角形扇面拱)にしたドーム天井で(無梁殿)、その頂部のみを 円形に彩色している。牛街のモスクは宋代の創建と伝えるから 東四よりも古いが、建築的には 東四のモスクのほうが 古式の西方的な構法を残しているのである。ただし屋根は、ドームの上に 木造風の瓦屋根を載せている。
 ここには清真女寺がないので、列柱ホールを衝立で仕切って、女子用礼拝スペースを区画している。




花市清真寺 *
HUASHI MOSQUE

花市清真寺   北京

 北京駅の近くの東花市大街に面する 花市清真寺(フアシー・チンジェン スー)は、北京で最も古いモスクのひとつで、明代初め、1414年の創建という長い歴史をもつ。現在は周囲を高層アパートで囲まれているが、モスクの側面と後部が 広場状になっているので、外観がよく見える。 文革時にひどく破壊され、以来閉鎖されていたが、オリンピックを前にして改修され、すっかりきれいになって再開された。北京市・崇文区の重点保護文物にも指定されている。
 前面道路に面するのは 新しい ガッカリするようなファサードだが、中の境内には木造の伝統的建物が建ち並ぶ。 道路は北側なので、進入方向の正面ではなく 右側に(直角方向に)礼拝殿が配されている。前巻棚(前廊)の奥の列柱ホールは間口3間、奥行3間であるが、中の2列はペア柱となっていて、奥行を深めている。この奥に後窰殿があるが、牛街のモスクのように垂れ壁のスクリーンで仕切られていないので、列柱ホールと一体化している。しかし屋根は別棟で、列柱ホールには棟があるが、後窰殿は丸い巻棚である。これらの小屋組みには 塗装が薄れた古拙な古材が用いられていて、朱塗りの新しい柱と対照をなしている。
 後窰殿の棟には 中央に八角形の大きな吹抜けのトップライトが設けられ、その彩色天井が このモスクのハイライトになっている。こうした吹抜け状の装飾天井を、「藻井」(そうせい、ザオチン)という。この光を受けるミフラーブがキブラ壁とゾロに作られていることからも、この棟は後窰殿(ミフラーブ室)だと言えるだろう。とはいえ、この棟は もともとは増築部だったのかもしれない。あるいはまた、ミフラーブの内側が観音開きのドアのようなデザインになっているのは、かつては この奥に部屋があったことを暗示しているのかもしれない。
   奇妙なのは 小さな望月楼(ミナレット)が礼拝殿の背後に押しやられ、中庭の中央を 1729年に世宋皇帝が建てた 碑亭が占拠していることである。このヴォリュームのために 境内が狭苦しく感じられる。碑亭は方形の重檐(二段重ね屋根)の入母屋造りで、牛街の碑亭に比べるとプロポーションが悪い。


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04 天津 (ティエンジン)**
  TIAN JIN 直轄市

清真大寺 **
GREAT MOSQUE

天津

 天津(てんしん)は 北京や上海と並ぶ政府直轄地で、渤海湾に面した港湾都市である。北京中心部から天津の中心部までは 直線で 40km、連続してしまった両市域の人口を合わせると 2,000万にも及ぶ。このうち天津には、北京よりも やや少ない 16万人の回族がいて、多くのモスクを かかえている。
 市の北部に位置する清真大寺(チンジェン タースー)は、清代はじめの順治元年 (1644) の創建とも、康熙 18年 (1679) の創建とも伝える。その後 18世紀に何度か修築し、さらに嘉慶6年 (1801) に大規模に拡大して、現在の規模になった。天津の最も由緒ある古刹だが、文化大革命の 10年間は モスクが閉鎖され、建物は破壊されなかったものの、1万余冊あったという蔵書の大部分が灰燼に帰した。1979年からの宗教開放政策によって復活し、建物が修復されるとともに、南側に経学院 (マドラサ) も建てられた。

 施設は 大照壁と門楼の奥に 中庭を囲む伽藍が展開し、中心軸上に 左右対称に配される、典型的な中国式のモスクとなっている。ただし 軸上の大門は祭事の折にしか開けられないので、普段は右脇の通用門から入る。こちら側に寺務所があり、左側には アホンの住居がある。
 中庭は 奥行きが比較的に浅く、その代わりに 完全には閉じられずに、左右の講堂の手前から 庭が奥へ伸びている。この中庭も 樹木が多く茂り、広場的な感覚は薄い。礼拝殿の手前左右に古木が相対して、まさに「宮殿式」の配置である。奥行きの深い礼拜殿は 前面にオープンな前廊を備えていて、これが堂に奥行き感をもたらしていたのだが、近年 ぐるりと木製サッシュが嵌められて 室内化してしまったのは残念である。また 門楼と背中あわせの対庁の庇の一部が壊れたままなのに、どの建物も 外観は木部が 鮮やかすぎる朱色に塗り直されている。

天津   天津

 内部は 典型的な木造の列柱ホールで、2棟並ぶ小屋組を 雄大に見せている。腰壁と柱脚の緑以外は すべてクリーム色に塗装されているので、外観よりも ずっと落ち着いている。 柱とキブラ壁の上部には アラビア語のカリグラフィーによる扁額が掲げられている。キブラ壁には5連のアーチがミフラーブをなしているが、これらの朱色の壁は扉になっていて、この奥に磚造の後窰殿がある。この開口部の方式は 磚造の大門にも踏襲されていて、灰色の壁に朱色のアーチ開口が並ぶのは 鮮やかである。
 堂内の木造のミンバル(説教壇)は 厨子のような優美な六角円堂で、この地方に特有のスタイルである。しかし厨子の中に 像が祀られているわけではない。厨子型のミンバルというのは、イスラーム圏広しといえども、中国にしか見られない
 奥の後窰殿には採光の尖頂屋根が5つ並び、中央が八角式で、両端が六角式、他のふたつが四角錐という 華々しい屋根造形をしている。それらは西方のドーム屋根の代りと考えられるが、しかしこの姿は裏側の遠くからしか見ることができない。南の六角式が望月楼で、北が喧峙楼、すなわちミナレットとされている。



清真南大寺 *
SOUTHERN GREAT MOSQUE

天津

 天津旧城南部の ムスリム居住区にある大モスクが、清真南大寺である。 市の主要路のひとつである 西馬路から西へ 参道のような道をとる、その入り口に 石牌楼(シパイロウ) が立つ。瓦屋根の木造風のスタイルだから、本来は 木牌楼(ムパイロウ) だが、現在はコンクリート造なので、石牌楼と呼んでおく。「参道」の入り口に立つ門という意味で、また形の上でも、日本の鳥居に相当すると言えよう。周囲がアパート群となっているだけに、こうした門の存在は 宗教建築にとって有用である。しかし、おそらく そのように目立つことによって、文革時には奥まった清真大寺が破壊を免れたのに、こちらは大きな被害を蒙った。
 もともとは 明の万暦2年 (1575) に 小モスクが建立されたというから、天津で最古のモスクということになる。大規模なモスクとなったのは、清代の道光2年から 25年(1822-45)、アヘン戦争(1839-1842) の時期と重なり、天津が国際港として発展していくとともに、ムスリム・コミュニティも繁栄した。モスク建設が盛んになり、その外見に派手さが求められ、屋上に採光塔を いくつも立ち上げることが流行した。その数が最も多かったのが この清真南大寺で、8基の小塔が立ち並ぶ さまは壮観だった。
 ところが 華北有数のこのモスクは 文化大革命で破壊されてしまい、開放後の再建による現在のモスクには、3基の採光塔しかない。その代わりに 大門に続く中庭が広くなり、左右の講堂は RC造2階建ての建物となった。

天津   天津

 礼拝殿は奥行きが深く、中庭に面した前巻棚の前楼に続いて、3棟が平行に連なっている。手前の棟に2基の採光塔が左右に立ち、次の棟の中央には六角形の採光塔がある。次の最奥の棟との境が、清真大寺と似た アーチ開口の連なるスクリーンとなり、後窰殿と仕切っている。こちらは 林立する柱が淡い緑色に塗装されていて、まだ新しい アラビア語の扁額の金文字と 強い対比をなしている。清真大寺と同様、清真女寺が近くにないので、一隅をカーテンで仕切って 女子用の礼拝スペースとしている。厨子型のミンバルもまた、新しく制作された。


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05 宣化 (シュアンフア)*
  XUAN HUA 河北省

清真南大寺 **
SOUTHERN GREAT MOSQUE

宣化   宣化

 現在の宣化(せんか)は 行政上は独立した都市ではなく、張家口市に属する人口 30万の宣化区である。といっても物理的には、バスで張家口から 30kmも行ったところの、のどかな独立都市であって、河北省の歴史文化名城にも指定されている。宣化にはモスクが4院あり、特に清の康煕 61年(1722)に創建されたという清真北寺が建築的には最も重要であったが、これは文革で破壊されてしまった。現存のものとしては、それと同形式の南大寺(清真南寺)があり、宣化区の歴史遺産として、近年 その保存と改修に力がいれられている。筆者が訪れた 2007年には、北京オリンピックを前にして、門や邦克亭が修復工事中であった。

 清真南大寺は 明の永楽初年(1403) に創建され、清の道光元年(1821)に宣化の現・廟底街に移転したという。したがって 19世紀の建築であり、宣統3年(1911)には大改修された。現地の石碑には清真南寺とあるが、今では清真南大寺と呼ばれている。近世の中国では モスクに固有の名前をつけなくなってしまったので、単に都市内の位置によって呼ばれることが多く、前項の 天津のモスクと同じ呼び名になっている。
 文革前に現存していた北大寺を 劉致平が実測した平面図があり、南大寺は これとほとんど同じ構成をしているので、このプランをもとに説明していこう。全体の配置は、最も形式の整った、典型的な中国式モスクの構成をしていて、道路が東側にあるので、何の妨げもなく、中軸上に 左右対称の四合院形式を実現している。ということは、宗教の別を問わずに踏襲されてきた、中国の寺院建築の 最も基本的な形式である。イスラーム教ほどに厳密な方向性を要求されない他宗教の寺院では、敷地条件に影響されずに そうできた。特に大寺院では、この四合院形式の中庭が 中軸上にいくつも連なり、切妻 または入母屋の大殿舎が、入口から奥へと一列に連なるのである。

清真北大寺平面図
清真北大寺の平面図、宣化
(From " Ancient Chinese Architecture" by Qiu Yulan, Springer)

 宣化(シュアンフア)の清真南大寺と清真北大寺は そうした大寺院ではないが、まず前面道路に面した大門があり、多くのモスクと同じように、これは主として儀礼的な門なので、左右に脇門を備えている。大門からマッカに向かう西へと 中心軸が伸び、諸施設は この軸に沿って左右対称に配される。
 まず前庭に面して、中央に2層の邦克楼 (ミナレット) としての六角円堂が建っている。造形的には これがモスクのシンボル的存在で、街の人びとにに呼びかけるミナレットの位置としても適切である。これは二門を兼ねているので、1階を通り抜けると中庭に出る。整形な中庭の正面に礼拝大殿、左右に講堂を配し、中央の一段高くなった石の舗装の「参道」の左右に樹木を植えている。どの建物も前面に柱廊を備えているので、回廊で囲まれた ヨーロッパのクロイスターに やや近い印象を与える。

宣化

 大殿もまた定型どおり、巻棚屋根の前廊、主殿、後窰殿の三部構成で、3棟から成る。北大寺の場合には その左右に礼拝室が増築されて、大きな十字形プランとなっていた。このように増築が容易なのが 木造モスクの特徴で、左右にいくら延びても、ダマスクスの大モスクのように、キブラ壁が長くなることに何の問題もない。ただ、奥に棟数を増していく方が普通なので、北大寺の場合には 奥に敷地の余裕がなかったからと考えられよう。
 後窰殿の中央には 採光を兼ねた小堂が載っていて、これが望月楼となる。 北大寺では矩形の堂だったが 南大寺は六角円堂で、屋根が大きく反り返って 派手な造形をしている。




清真中寺
MIDDLE MOSQUE

宣化

 清真大寺に次ぐ主要なモスクを 清真中寺(チンジェン チョンスー)ということがある。宣化の清真南大寺が修復工事中のため 境内にいれてくれないので、賑やかな店の並ぶ清真街の 清真中寺に行って頼みこんだら、ここの若い教長(アホン)が南大寺に電話をし、一緒に行って 中の取材をさせてくれた。謝謝。
 近年の建設になる清真中寺は規模が小さいが、やはり東入りで、中庭を囲んで 正面に礼拝室、右側にアホンの住居、左側に講堂がある。中庭には樹木が多く、礼拝室は前巻棚と大殿の2棟。 内部は、小屋組みを見せずに 水平に低く天井を張っているので、本当の木造では ないのかもしれない。


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06 定州 (ティンチョウ)*
  DING ZHOU 河北省

清真寺 *
MOSQUE

定州   定州

 元代に 定州(ていしゅう)と呼ばれた都市は その後長く 定県(ていけん)の名になっていたが、近年になって県級市として、再び定州市になった。この中規模の のどかな都市の回族居住区に、元代のモスクが残っている。境内に、漢文で書かれたイスラームの碑文としては 最も古い石碑のひとつである「重建礼拝寺記」があり、元の至正8年 (1348) に このモスクが再建されたことが記録されている。創建年代は不明とあり、あるいは宋代に遡るのかもしれない。当時 ムスリム・コミュニティがあり、このモスクは「礼拝寺」と呼ばれていた。その後明代には「清真礼拜寺」、清代には「清正寺」の名を得、定県時代には「城関鎮清真寺」、そして現在は「定州清真寺(ティンチョウ・チンジェンスー)」または「清真礼拝寺」と変遷してきた。
 中国南部の章で見たように、元代のモスクは 磚(せん、レンガ)造の「無梁殿」であることが多く、ここでも一番奥の後窰殿の部分がそうで、組積造のドーム天井となっている。これは中国の 磚造イスラーム建築の 現存最古のもののひとつだが、外観上、この上に高くレンガを積んで2階建てのように見せ、瓦屋根を載せたのは 明代か清代のことであろう。まるでインド建築のような、彫刻的建築の方法である。この後窰殿の室内は あまりにも狭いので、信者数の増加とともに 増築を繰り返して規模を拡大してきた。現在の伽藍の ほとんどは木造である。

断面図

定州清真寺の断面図 (From "中国伊斯蘭教建築" by 劉致平, 1985)

 道路は南側なので 大門は中軸上にはなく、大門をくぐって前庭にはいると、90度方向転換をし、二門を通って西側の中庭に出る。大門は2階建てで、1階の3連アーチの磚造の上に木造の矩形の広間がある。これが邦克楼(ミナレット)を兼ねていたのだろう。
 中庭の両側に 講堂と教長(アホン)の住居、正面に一段高いテラスを設けて礼拝大殿の オープンな前廊を面させている。この四合院風の配置は、明の正徳年間 (1506-22) の改修によると碑文にある。清代の大殿は単棟で、比較的規模が小さく、近くの正定の仏教寺院と同じく、礼拝室の小屋組みが 極彩色に塗装されている。特異なのは ここから磚造の半円筒形ヴォールト天井の通路部分によって 後窰殿に接続していることである。杭州の鳳凰寺でも見られたように、異種構造の建物の連接方法だといえる。
 後窰殿の聖龕(ミフラーブ)は 部屋の幅いっぱいに 木製で装飾的につくられ、紅地に金色のアラビア語カリグラフィーの帯が 何重にもまわっている。最も興味深いのは、矩形の部屋から円形ドーム天井への移行部である。 ここでは 通常の持ち出し式のスキンチではなく、磚造の斗栱を用いているのである。
 杭州の鳳凰寺や広州の斡葛斯(ワンガス)墓とならんで、元代の磚造のドーム架構を伝えるものとして、貴重な遺構である。このモスクは、河北省の文物保護单位に指定されている。


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07 滄州 (ツァンチョウ)**
  CHANG ZHOU 河北省

清真北大寺 ***
NORTHERN GREAT MOSQUE

滄州   滄州

 滄州(そうしゅう)には 回族が多く住み、大小十数のモスクを擁している。その多くが四合院、あるいは三合院形式の配置をとり、礼拝室が<前巻棚+大殿+後窰殿>の三部構成を とるのが共通している。清真北大寺は回族居住区の中心にあり、市の幹線道路である 解放中路に面している。広い道路に沿った長い建物が 境内を囲む外周壁の役割を果たし、ここに入っている店の列が「清真街」になっている。
 滄州(ツァンチョウ、あるいはツァンジョウ)の町並みの 航空写真 を見れば わかるように、この解放中路は 近代の都市計画道路であって、かつては細い道の、清真食品や衣料品を売る回民街であった。そのことは、同じ写真で 近くにある もうひとつの大モスク、清真南大寺の ありようを見ればわかる。西安の化覚巷清真大寺が 今もそうであるように、近代の都市計画道路が 通される以前は、イスラームが 中国の支配者の宗教ではないが故に、どんなに大きなモスクであっても、主要道路ではなく 細街路の清真食品街に接しているのが 普通だったのである。

Changzhou

   北大寺は 幹線道路に面するようになったために、その存在が目立つこととなり、文化大革命の折には 却って大きく破壊されることとなった。それを 旧状どおりに再建する工事が始まったのは 1980年で、1991年に竣工し、礼拝大殿は 新築のように美しくなった。モスクへの主要な入口が 本来の東側から解放中路側に変更になったので、東側の旧二門は撤去されて、劉致平が 1936年に実測した時よりも 中庭の面積が倍増し、華北有数の広さをもつ礼拝大殿とのバランスが良くなった。清真南大寺 が 擬似ペルシア・トルコ風の「様式借用型」モスクとなってしまったのに対して、北大寺は伝統的な内地の中国様式を保っている。

Changzhou   Changzhou

 『滄州地名誌』によれば、北大寺は 明の永楽 18年(1420)の落成である (創建は 明初の建文4年 (1402) とも言う)。その後 何度も改築されているが、現在の大殿の形となったのは 清の初期、あるいは中頃であろうと考えられている。現在の境内へは、中軸線とは直角方向の、解放中路に面する 大門の階段を上ってアプローチする。中庭の対向面には RC造2階建ての 講堂や清真女寺のはいった建物が建てられ、その屋上に、瓦屋根の邦克楼が載せられた。華北では、西部の臨夏に見られたような 塔状のミナレットが建つことはない。敷地面積は 7,400㎡である。
 礼拝大殿は大規模で、その屋根造形が目を惹く。まず前巻棚の前廊があり、次いで寄棟屋根が2棟並んだ大殿があり、そして後窰殿には3連棟の尖塔屋根が高く立ち上がっている。すべては新しい緑色の瑠璃瓦で葺かれ、大通りに威容を投げかける。特に後窰殿の 採光塔を兼ねた中央の八角堂屋根と、両隣の方形重層屋根との取り合いは、日本では見ることのない眺めである。

Changzhou   Changzhou   Changzhou

 しかし内部は 逆に装飾が少なく、すべてが白一色に塗装されていることもあって、質実で清浄な印象を与える。九九八十一( く.く.はちじゅういち)間の大殿と謳われたが、実際には 7間× 7間の 49ベイから成る、ほぼ正方形の列柱ホールである。2棟の雄大な小屋組みが顕しになっていて、1,200㎡に及ぶ力強い内部空間をつくる。ミフラーブは簡素だが、その手前の 藻井(そうせい)天井は ラテルネンデッケの架構を見せ、頂部天井にのみ ほどこされた彩色が効果的である。こうした抑制された装飾も好ましく、総じて これは、中国の最優モスクのひとつ と見なされる。
 また特筆すべきは 厨子型の敏拝尓(ミンバル)で、そのプロポーションの良さと 繊細な工芸的細工によって、中国で最も美しい ミンバルとなっている。


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08 泊頭 (ボートウ)*
  BO TOU 河北省

清真寺 **
BOZHEN MOSQUE
全国重点文物保護単位

泊頭   泊頭

 泊頭(はくとう)は 地級市としての滄州市に属する 県級市で、滄州からは 40kmほどの小都市である。旧名は 泊鎮(はくちん)。市内を通る大運河(北京~杭州)による交通の便により、古来産業が栄えて寺院建設も盛んだった。清真寺は大運河の西岸、清真街南端にあり、近年まで 泊鎮清真寺(ボーチェン・チンジェンスー)と呼ばれていた。敷地面積は 11,200㎡、現在は清真寺の北隣に清真女寺もあり、モスクの前面は大きな広場として整備されている。
 『滄州地名誌』によれば、清真寺の創建は 明の洪武年間 (1368-98) に遡るが、永楽2年 (1404) という説もある。明末の祟禎年間 (1628-45) に拡大して 現在の規模になったらしい。建築的に現在の姿になったのは、清初の康煕帝の時代(1662-1722)と考えられ、大殿には 康煕 41年(1702)の扁額が掲げられている。清真女寺は 清末の設立であろうと言われる。

広場に面する 单檐歇山(単層入母屋)屋根の大門は 北京紫禁城の午門様式で、両側に便門(通用門)を従えている。この左右対称をつくる中軸線は ここからマッカに向かって真っすぐに伸び、清真大寺と呼ばないのが訝しい大規模な伽藍が、これに従って シンメトリカルに展開していく。中庭の奥行きは深く、前後いくつもの進院に区画されているのが、西安の清真大寺を思わせよう。
 第1進院の左右には 南北の義学堂があり、中軸上には 班克楼という名の邦克楼(ミナレット)が シンボリックに建っている。頂部の高さは 20m近くになり、望月楼を兼ねている。1階は二門であり、上階の広間には重檐(二段重ね)屋根が載る。 全部で3層の瓦屋根は 上にいくほど屋根の反りが大きくなり、全体として特異なプロポーションをしている。
 第2進院には 南北に陪殿(配殿)が建ち、1mばかり高くなった 次の第3進院との間に「花殿閣」という名の門を建てているのが、また特異である。 劉致平によれば 清の中葉以後のものとされるこの門は「屏風門」とも呼ばれ、深い軒の斗栱をはじめ 色彩性と装飾性に満ちている
 第3進院は礼拝大殿前の月台であり、南北に講堂(南が小学校で北が大学という)を従えている。さらにこの北側に アホンの住居と沐浴室、そして清真女寺がある。

泊頭

 礼拝大殿は 滄州の大殿と似た規模と造りをしている。まず前巻棚の前廊(前抱厦)があり、連続した2棟の大殿があり、後窰殿へと続く。全体の広さは幅が 26mに奥行きが 44m、一度に 1,200人が礼拝できるという。
 この規模が 順次増築されたことによる結果だということは、屋根の造形を見るとわかる。2棟から成る大殿は、手前の入母屋棟のほうがスパンが大きく、棟が高い。奥の入母屋は 重檐になっていて 端部の扱いも異なるから、明らかに後代の増築である。さらに後窰殿は 正方形プランで独立性が高く、これもまた後の増築であることをうかがわせる。
 従って ミフラーブは何度も移設されてきたわけだが、面白いことに 現代の正方形の後窰殿には 龕としてのミフラーブがなく、単にキブラ壁に 彩画とアラビア語のカリグラフィカリグラフィーが施されている だけである。

泊頭   泊頭

 ここでの見ものは、滄州とは まったく異なった後窰殿のあり方である。滄州では幅広のミフラーブ室に3連の吹き抜け天井がとられていたのに対して、こちらでは 正方形の室に 大きく六角形の吹き抜けがとられていることで、外観上も独立性の高い六角円堂となっている(高さ34m)。その最下層は 採光用の窓列であるが、上部は六角形を順次小さくしながら積み重ねた、ラテルネンデッケの構造を見せている(六角九層叠障式攢尖藻井)。中央アジアからジョージアにかけて、民家の 吹き抜け天井 に見られる方法である。起源は石造建築なのであろう。ここでは鉄釘を用いずに、木の ほぞだけで作られているという。

 文化大革命では 大きな被害にあい、1982年から 国務院宗教局や省文化局によって再建が行われた。2005年に 歴史的国家重点文物保護单位に指定されているが、これには解放前に 清真寺が中共の地下党組織の活動場所に用いられ、党の「貧民夜校」や「工人夜校」として民族幹部を養成したことも 与っているらしい。 筆者が訪ねた 2007年には、オリンピックを前にした 修復工事の最終段階であった。


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09 済南 (ジナン)*
  JI NAN 山東省

清真南大寺 *
SOUTHERN GREAT MOSQUE

済南   済南

 済南(さいなん)は 山東省の省都で、市区の人口は 250万を数える。古代から栄えた町で、日本軍が占拠した 済南事件の舞台ともなった。旧城は 内城と外城の二重に 城郭と堀で囲まれていたが、その西側の外城に 清真南大寺と清真女寺、そして清真北大寺が 同じ道路(永長街)に面して、近くに位置している。

済南

 南大寺のほうが古く、境内の「礼拝寺重修碑」によると、創建は不明だが、別の場所にあったモスクが 元代の元貞元年 (1295) に、この地に移されたとある。明代の 1495年に拡大修築されて、現在の四合院的配置になったらしい。清の同治 13年 (1874) に重修理したのが 現在の形であると考えられる。

 敷地面積は 6,330㎡。前面道路が東側なので、大門から 中軸線が一直線に大殿のミフラーブへと進む。高さ5mの大照壁(影壁)と向かい合ったこの大門は、伝統的でない 磚造2階建ての上に瓦屋根を載せた奇妙な造形で、ミナレットを兼ねている。幅が8mに奥行きが 6mの長方形プランで、周囲と必ずしも調和せず、文革後の建物のようにも見えるが、実際は民国 1914年の建造である。
 ここを抜けると前庭で、両側に沐浴室、教長室等を配している。前庭の正面に、やはり2階建ての二門を兼ねた望月楼があり、磚造の1階の上に 木造の 2階が載る。屋根は大門と同じく 廡殿(寄棟造り)である。民国 25年(1936)重建落成という。大門ともども 純粋な中国式モスク建築ではなく、多分に コロニアル建築の影響を受けている。大殿の外周を 密な柱でまわる回廊にも、それは言えよう。磚造と見える部分は、実は鉄筋コンコリート造なのである。
 こうして さまざまな時代の様式が混在して、伽藍の 全体的な統一感を欠く結果となってしまった。

 境内全体は東斜面なので、両側に講経堂をしたがえる中庭は 前庭よりも3m高く、さらに大殿は 4.2mの高さの基壇の上に建つので、見晴らしがよい。礼拝大殿は 抱厦と前殿、后殿の3棟から成り、床面積は約 1,200㎡、間口5間に奥行きが 10間と たいへんに奥行きが深く、1,000人が同時に礼拝できる。
 抱厦(前廊)は卷棚で「単檐歇山」(単層入母屋屋根)、清代の付加である。本殿の方は「単檐廡殿」(単層寄棟)で、外周四面に回廊を加える。前殿と后殿の間には、例によって 連続アーチ型スクリーンの「歓門(フアンメン)」があって、礼拝殿を 軽く前後に仕切っている。
北大寺とも、後部に突き出す後窰殿をもたず、ミフラーブは フラットなキブラ壁に描かれるのみである。
 (注記: 済南では フィルムが巻けていなくて、すべての撮影がフイになり、手持ちデジカメの わずかなスナップ写真しか残らないのは まことに残念。)




清真北大寺 **
NORTHERN GREAT MOSQUE

済南   済南

 清真北大寺は 南大寺とともに、済南市の西関(回民小区)に位置する。この濼源回民小区には約 3万人が住み、その3分の1強が回族という。ふたつの大寺が これほど近くに位置するのは、この町にイードガーがないために、イードの祭礼に2院が必要となったのかもしれない。それほど、済南には ムスリムが多かったと言える。両者の間にある清真女寺は 清代の創建というが、現在の「アラビア式」ドーム屋根のモスクは 1994年の落成である。敷地面積は 600㎡で、礼拝室は 400人を収容できる。女性用のモスクを各地に建てるのは 中国の特徴だが、その中でも これは大きな規模である。
 北大寺の創建年代には 2説あり、ひとつは 明の弘治7年(1495)、もうひとつは 清の乾隆 30年(1765)である。清の道光、嘉慶、光緒、そして民国初年に 再建もしくは重修理をしている。南大寺とは 立地条件も伽藍の構成もよく似ている。大殿の規模は やや小さいながら、2002年に敷地の最奥に2階建ての学校も建てられ、今ではこちらが 山東省のイスラーム文化・学習センターとなっている。

 南大寺と同じく、前面道路(永長街)が東側なので、照壁と大門から 中軸線がまっすぐマッカに向かって伸び、航空写真に見られるように、すべての施設が左右対称に配されている。こちらは すべての建物が 伝統的な中国宮殿式建築なので、伽藍全体に はるかに統一感がある。構成要素と配置は同巧で、大門、二門、南北講堂、礼拝大殿(巻棚+前殿+中殿+后殿 )の間に 前庭と中庭を配する2院式である。違っているのは 邦克楼がないことと、望月楼が二門の上ではなく 大殿の中殿上に立ち上がっていることである。ただし、これらのほとんどは 文革で破壊され、1989年以降に再建されたものである。筆者が訪れた 2007年には、大殿の外郭まわりで 最後の修復工事を行っていた。

済南

 道路から十分な引きをとった大門は 式典時のみに用い、普段は 両側の傍門から出入りをする。それぞれの傍門の奥には 円形開口の月門(月亮円門)があり、これをくぐると前庭に出る。二門は小門で、この奥が広い中庭となり、南北の講堂は各5間あり、2間の配房が続く。
 礼拝大殿は巻棚屋根の「抱厦」(前廊)を先立てて、3棟が連続する 大礼拝室となっている。 南大寺よりも さらに奥行きが深く(増築を重ねた結果であろう)、その結果、やはり 後窰殿がない。面積は約 900㎡で、1,000人が同時に礼拝できる。屋根は「重檐歇山式」(二重重ねの入母屋屋根)で、外壁は磚造。
 大殿の3棟のうち 中央は巻棚屋根になっていて、ここに望月楼が載るが、採光塔ではないので吹き抜けてはいず、天井がフラットに張られている。40本の大円柱は すべて深い緑色に塗装されて、天井の赤との強いコントラストをつくっている。


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10 済寧 (ジニン)*
  JI NING 山東省

東大寺 ***
EASTERN GREAT MOSQUE
全国重点文物保護単位

済寧   済寧

 済寧(さいねい)市は 山東省の地級市で、行政区画としては、孔子の故郷である曲阜(きょくふ)市や 孟子の故郷である鄒城(すうじょう)市も属する 広領域をさすが(日本で言えば 県のようなもの)、都市としての済寧の市区人口は 現在約 100万である。済寧を特徴づけるのは、なによりも大運河の通り道であることで、それは元代の 1286年から 93年にかけて、都の大都(北京)から 海河、黄河、准河、長江、銭塘江の五大水系を結んで杭州に至る 南北の大海運路であった。運河に面する済寧は 水陸交通の要衝となり、物資の集散地となって繁栄し、蘇州に比肩されて「江北小蘇州」とも称された。元代から多くのムスリムが来住して商業活動に従事し、また多数のモスクを建造した。解放前には男寺が 7院、女寺が2院あったという。
 しかし済寧は 中国のムスリムにとって、文化大革命による被害を最も大きく受けた都市のひとつである。4大寺のうち 西大寺、北大寺、南大寺が破壊され、最も古い東大寺のみが生き延びた。とりわけ重要な 北大寺 は 東大寺よりも規模が大きく、大殿内で同時に 5,000人が礼拝できたといい、これが失われたのは 中国のイスラーム建築史にとって 甚大な損失である。済寧におけるムスリムの数も 移住によって大幅に減り、現在残るモスクは 東大寺と 柳行清真寺の2院のみである。

済寧

 東大寺は 済寧市南関の 回族居留地区にあり、中国の最大級のモスクの ひとつである。文革で大きな被害を受けたが、1980年以後 大々的に修復がなされた。 正面が大運河(古運河)に面することから、順河東大寺(シュンヘ・トンタースー)とも呼ばれた。その運河側の東側が 正面入口だったが、今は背後の道路の清平巷が 市のメイン・ストリートのひとつなので、こちら側から出入りをすることが多い。
 創建年代については諸説あり、清代の碑によると、元代の天順年間に 棉花街に創建されたモスクを、明代の成化年間 (1465-88) に 現在地に移築したという。他にも、明代の洪武年間 (1368-99) や 宣徳年間 (1426-1435) の説もあるが、現在の規模になったのは 清代の康煕年間 (1662-1723) らしい。
 敷地は約 6,200㎡で、運河側から中軸線に沿って 石碑坊(日月坊)、大門、邦克亭、碑亭、南北講堂、礼拝大殿、アホン住居、水房、望月楼(后門)が並ぶ。劉到平は、大門のみが明の遺構で、あとは造形上、清代の乾隆年間の建設と見なしている。
 伽藍配置としては、これほどの大寺院にしては 敷地の奥行が いささか不十分で、西安の化覚巷清真大寺に比べて 庭院の奥行が浅く、また多くの門の相互間隔も小さすぎる。おそらく 何度も増築や改築をを重ねたにもかかわらず、運河と道路とによって東西の長さが限定されていたために、敷地の拡張ができなかったのだろう。

 運河側には 木柵にはじまって いくつもの門が重なり合う。特に石造の碑坊は珍しく、大門の石柱ともども彫刻で飾られているが、龍をはじめとする さまざまな動物の彫刻は中国的ではあっても イスラーム的ではない。大門以外が実用的ではない記念門であるのは、西安と同様である。
 中庭の二層の 邦克亭も 珍しい形をしていて、オープンなあずまや風の 1階の上に 六角堂が鎮座している。ここが周辺の信者に礼拝を呼びかけるのに相応しい位置とも思えないから、これも飾りの性格が濃い。この両側には 瓦屋根の碑亭がある。いずれも 橙色の瑠璃瓦を 緑色の瓦で縁どっているのが いっそう装飾的である。
 礼拝大殿は <前巻棚+大殿+後窰殿> の3連棟、面積が 1,050㎡で 2000人を収容する。木柱が 40本に石柱が 12本の大列柱ホールは、分棟せずに 入母屋の大屋根を架けているので、実に巨大である。 幅が 7間の 28mに 奥行が 6間の 23mなので、棟の高さは 18mにもなる。天井を張らずに小屋組みを顕しているので、壮大な内部空間となる。

済寧   済寧

 この列柱ホールの奥の 後窰殿も大きく、内部に2本の柱が立っている。本来は両者の空間は一体なのに、ガラスのドアを すべて嵌めてしまったのは、通常の礼拝が後窰殿だけで足りるかららしい。列柱ホールに下足のまま上がるというのも意外だった。
 後窰殿のデザインは見事で、ミフラーブ、アラビア語のカリグラフィー、扁額、そして豪華な厨子式の宣喩台(ミンバル)のアンサンブルが 目を奪う。不思議なのは、彩色された天井が フラットな格天井であることである。というのは、後窰殿の上部は 3層の塔になっているのに、ミフラーブ前への採光塔ではないために 天井が吹き抜けていないのである。そして、こここそ 市中に礼拝を呼びかける邦克楼(ミナレット)の位置にふさわしいのに、高さ 30mのこの塔には何の用途もない。つまり この東大寺は、装飾的な要素に満ちているモスクなのである。
 大殿の背後には さらに后門があり、その2階が望月楼になっている。大門と同じように彫刻をほどこした石柱があり、これだけでも立派な建造物である。
 現在、このモスクにはアホン(イマーム)が3人いて、ムアッジンを兼ねているという。済寧のイスラーム・カレッジで学んだという、英語をしゃべる若いアホンが案内をしてくれた。


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11 フフホト 呼和浩特 (フーホーハオトー)**
 HUHEHOTE 内蒙古自治区

清真大寺 **
GREAT MOSQUE

フフホト   フフホト

 内蒙古(内モンゴル)自治区は、中国の最北部に位置し、新疆ウイグル自治区とチベット自治区に次いで3番目に大きな面積を占める行政区画である。モンゴル国(外モンゴル)に接する地域で、モンゴル自治区と銘うってはいるが、モンゴル人は自治区の全人口の 17%を占めるにすぎず、大部分は漢族で、回族は1%未満である。
 その回族の拠り所となる清真大寺がある 区都の呼和浩特(フフホト)は、モンゴル語で「青い城」を意味し、16世紀にアルタン・ハーンによって築かれた古都である。現在は 古都のイメージと反対の近代的な商業都市となり、大幅員の幹線道路、通道南街に面する清真大寺は、えらく目立つ存在になった。市内には清真寺が8院あって、そのうち最古最大なので 清真大寺と呼ばれている。

 創建は清の康熙 32年 (1693) とされ、ごく小規模で簡素なモスクであったのを、清代の乾隆 54年 (1789) に 新疆その他から ムスリムが大量に移住してきて、本格的なモスクに建て替えたらしい。その後も順次 建物が付加され、20世紀にはいって 1923-25年に回族が大々的に募金して、全面的に修復、再建して現在の伽藍を作りあげた。さらに 1939年に望月楼が建設されて、モスクが完成したのである。
 こうした歴史的経緯から、ここには さまざまな民族や時代や様式が混交するので、中国の蒙、漢、藏、回、満の 五族協和を象徴するモスクであると見る人もいる。

航空写真     フフホト

 敷地面積は約 4,000㎡で、東西軸に沿って伽藍が配置されている。ところが、本来の東側入り口よりも、西側の通道南街が幹線道路となるにつれ、西側に門がつくられ、道路に面して清真店舗が並ぶ広場も整備され、境内への進入口が逆転してしまった。中国式のモスクは東入りの中心軸による 四合院的配置のみを発展させてきたので、西入りに適した布置案を開発してこなかった。フフホトの清真大寺は 東西の奥行きが深く、西安の化覚巷清真大寺のように いくつもの進院(中庭)をもつにもかかわらず、北京の牛街礼拝寺のように、脇の細道から進入することとなり、東側の進院は あまり活用されないこととなってしまった。水房(沐浴室)の位置なども、東から来る信者が まず体を浄めて、それから礼拝大殿に向かうのに適しているのであって、その逆ではない。
 東山門から入れば 第3進院にあたるところが モスクの中心となる中庭で、南北に講堂、西に大殿、その向かいには2階建ての大きな建物が建ち、モスク側の資料には「閲覧室」とある。これは下が食堂、上が図書室であるらしく、東側の教学楼や二楼と合わせて、ムスリムの教育施設(マドラサ)を形成している。今では大殿の北側に 清真女寺が鉄筋コンクリートで建てられ、学校を併設して、清真大寺と密接につながっている。
 中庭の東南隅には 近代の5層のミナレットが立つ。ここでは邦克楼ではなく 望月楼と呼んでいる。道路側ではなく、中庭の奥に位置するいせいだろうか。中国に特有の望月楼というのは、斎月(ラマダーン)に毎晩、月を見て斎戒明けを確認して 告げ知らせる塔であるが、礼拝を呼びかけるミナレットを兼ねることが多い。塔は、螺旋階段のはいった六角形プランの 下4層が磚造、頂部に木造の凉亭(パビリオン)が載る。西方式と中国式の折衷で、この姿は西寧の東関清真大寺における 二門の邦克楼 とよく似ている。

フフホト   フフホト

 礼拝大殿は 済南や済寧の大寺に比べると それほど大きくなく、同時礼拝できるのは 500人という。そのせいか、プランは単純な長方形で、抱厦(前廊)もなければ 後窰殿もない、シンプルな列柱ホールである。にもかかわらず 屋根は平行する4棟からなり、しかも各棟に採光塔が立ち上がって、堂内に光を導いている。外見的には これらが瓦屋根の小塔となり、5塔も林立するさまは壮観である。
 そのファサードのデザインがまた 表現派風で驚きを誘う。一見、これがモンゴル風なのかと思ってしまうが、実は西洋建築の影響であるらしい。劉致平はこれを、民国時代の「植民地的色彩」と評している。付け柱(ピラスター)でファサードを区切っているのもそうだし、バロック的な装飾過多も そうかもしれない。入口は3連アーチの開口だが、その両脇の窓はアーチではなく 楣(まぐさ)式。おそらく 外壁はRC造なのだろう。内部の5間×5間の長方形も、奥行き方向のスパンが大きく、屋根が鉄骨造なのかもしれない。木造なら、水平天井を張らずに 小屋組みを見せるはずだから。
 大殿の内部では4本×4列の列柱が規則正しく並び、キブラ壁との わずかの間隔をミフラーブの立体的な意匠に用いて 華やかにしている。梁と格天井、そして吹き抜け部の彩画が印象的である。モスクは古い漢訳「古蘭経(クルアーン)」を 30卷所蔵していて、中国イスラーム史を研究するのに貴重な資料となっている。


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12 大同 (ダートン)**
  DA TONG 山西省

清真大寺 *
GREAT MOSQUE

大同   大同

 大同(だいどう)は 山西省最北部にある都市で、市区人口は約 110万。その都心ではあるが、屋台の店がならぶ清真街から 細道に折れていった所に、大同城内唯一のモスクである清真大寺が ひっそりと建っている。道路に面しているのは 民国時代の半洋風の建物で、その中央が 境内への入口になっている。大同市の北部は内モンゴルに接していて フフホトにも近いせいか、フフホトの大殿のファサードと似ていて、ピラスターによる壁面の分節や 高い曲線状のパラペットがある。
 道路が東側なので、ここから一直線に 中軸線が西に向かい、諸堂が一列に並んでいる。境内の「勅建清真寺碑記」には、福州の南門兜(ナンメントウ)清真寺などと同じく、唐初の貞観2年(つまり唐の第2代皇帝・太宗の治世、628年)の創建と書かれている。しかし田坂興道氏によれば、これは西安の「創建清真時碑記」を模倣し、中国にイスラームが伝来したのが貞観2年だという謬説を当てはめた、後世の偽作である。
 ここには碑文が 14もあり、ある碑文には明の永楽年間 (1403-24) の創建とあり、これが信憑性が高い。その規模は小さかったので、明の成化年間 (1465-87) 初めに増広したと見られている。しかしモンゴルに近いこの地は 元代にムスリムの集住地をなしていて、この清真大寺よりも早くから 礼拝寺(モスク)が建てられていたらしい。ウイグル人のムスリムたちは「色目人」(しきもくじん)としてモンゴル人の次に優遇されていたから、モスクの数も多かったことだろう。 現在の清真大寺は明代、清代の再建である。

 伽藍は ごく小さい大門の次に、明の天启元年(1621年)の修建とされる、二門を兼ねた 方形宣礼塔(ミナレット)があり、この奥が中庭である。2階建ての宣礼塔は 四方に開かれていて通り抜けられるので、この種の堂を「十字穿心楼阁」という。アーチ式の磚造と 木造の混構造であるが、現在木造部分がかなり荒廃していて、修復を必要としている。
 左右に講堂のある中庭には、かつては池があって、礼拝大殿には石造のアーチ橋を渡って行った。中国の宮殿建築にはよく見られるこの方式は、モスクにおいては珍しい。池は埋められてしまったが 橋の欄干は残っていて、その両側が植込みになっている。

大同

 大殿は面積が 490㎡あり、<抱厦 +前殿 +后殿 +後窰殿> の4棟から成る。 抱厦は巻棚式の屋根、前殿は歇山頂(入母屋屋根)、后殿は硬山頂(切妻屋根)、後窰殿は小さいにもかかわらず、硬山頂の巻棚屋根に 円形攢尖頂(円錐屋根)の小塔が載るという、変化に富んだ構成をしている。しかし敷地に引きがないので、外観は ほとんど見ることができない。また抱厦以外は フラットな天井が張られているので、堂内で屋根造形を意識させられることもない。
 ところが 前殿と后殿とは3連アーチの、一種の歓門(フアンメン)で仕切られていて、冬の防寒のためか、ここにガラス・スクリーンが嵌められている。その柱が太く、これは木造ではなく コンクリート造であることを示している。小屋組みを見せないのもそのせいだろう。木造のままの抱厦の荒廃ぶりを見れば、修建は必須といえるが、オリジナルのままの復元が望ましい。大殿の天井には 繊細に彫刻された 藻井 があり、堂内に華やぎを与えている。


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13 太原 (タイユエン)*
  TAI YUAN 山西省

清真古寺 **
OLD MOSQUE

太原清真古寺   太原清真古寺

 太原(たいげん)は山西省の省都で、古代から続く 政治経済の中心地である。現在の市区人口は約 260万の大都市で、その中心部に清真古寺(チンジェン クースー)が位置する。
 太原清真古寺は、かつては清修寺、あるいは崇真寺とも呼ばれた。創建年代について 境内の 19世紀の碑文には、唐の貞元年間(785-805)の創建と記載されているが、これも前項の 大同清真大寺の創建が唐の貞観2年というのと同様で、信憑性に乏しい。貞元年間というのは アッバース朝の第5代ハリーファ(カリフ)、ハールーン・アッラシードの時代 (786-809) にほぼ一致する。この時代に ダマスクスから使節は送られていたが、とても布教などの段階ではない。安史の乱の平定に「回紇」(ウイグル)勢 数千の援軍があったのを、「大食」(ターシー、すなわちアラビア)の「回回」(フイフイ、すなわちイスラーム)兵と誤伝したのが もとになっているのだろうが、当時の回紇族は まだムスリムではなく、マニ教徒であった。
 創建年代は不明であるが、現在のモスクの形になったのは、清代の初期であろうと言われている。文革では かなりの被害にあったが、宗教復興後に すっかり修復された。
 このモスクの入り口は、本来 東側の道路・南牛肉巷に面する大門であったが、西側に少し離れた解放路(かつての大南門街)が 1958年に大々的に拡幅されて都市の主要路になると、こちら側に通路を設けて 大門と木牌房を建て、メインの入り口に変更をした。東側の門は后門となり、北京の牛街礼拝寺と同じように 細い脇通路からの、高揚感に乏しいアプローチとなってしまった。しかもその折に、西側にあった邦克楼(ミナレット)は 通路のさまたげになるとして、取り壊されてしまったのである。

平面図         後窰殿の柱
太原 清真古寺の平面図と 後窰殿の柱
(Plan from "Ancient Chinese Architecture" by Qiu Yulan, Springer)

 現在の進入路を別にした 本来の伽藍構成は、モスクの原理にきわめて忠実でありながら、実際にとられた方法は特異であり、はなはだ興味深い。現在后門となっている 本来の大門は東に面するので、ここからマッカに向かう軸線が まっすぐに通り、プランは完全な左右対称形となる。全体は二院式の配置、つまり2つの進院(中庭)が継起するのであるが、今まで見てきた多くのモスクのような、複数の進院がゆるやかに連続するのではなく、完全に切り離されて、片方の進院から他方の進院を見ることはできない。惜しむらくは敷地の奥行きが短かったために、それぞれの進院の面積が十分にとれなかったことであろう。敷地面積は約 2,800㎡である。

 第1進院(前庭)のほうが広く、后門の両側には回廊があり、東西には講堂と水房がある。中央に建つ2層の堂は西安の化覚巷清真大寺と同じく、省心楼と呼ばれている。これは意味からいえば「教民の懺悔の場」ということになるので、必ずしもイスラーム建築の構成要素とは言えない。しかし建築形式上は 邦克楼や望月楼と区別がなく、大殿の後方にあった邦克楼が取り壊された今となっては、これをミナレットとみなすことができる。とはいえ、現在はスピーカーによって 礼拝の呼びかけをするのが一般的であるから、機能的には 今さらミナレットを必要としてはいない。現代のミナレットは、イスラームの礼拝施設の シンボリックな役割を期待されるのみであるから、省心楼もまた そうしたものと解される。屋根は重檐歇山頂、つまり2段重ねの入母屋造りである。

太原清真古寺

 この左右後方には それぞれ六角堂の碑亭があり、奥には講経堂があるので、やや窮屈である。講経堂は『古蘭経』(クルアーン)を講ずる部屋ということだが、これは通り抜けができ、第2進院(中庭)へと通じる。普段は開け放しの扉に鉄板が張ってあり、防火戸となっているのが特徴である。というのは、ここから奥は 全体が磚造の厚い壁で囲まれていて、中庭を囲む壁には 高くパラペットが立ち上がっている。つまり 防火区画をして、たとえ前庭側から火の手があがっても、延焼をくいとめようというわけである。寺院建築における こうした防火施設は、中国では きわめて珍しい。

 このことが 中庭をずいぶんと閉鎖的なものにし、しかも面積が小さいので、他に例を見ない細長い中庭となった。しかも防火壁の高さを柔らげるためか、回廊ををまわして屋根をかけているので、開空率がさらに小さくなった。大殿への採光は もっぱら中庭側からとっているので、ここは「光井戸」といった趣がある。
 礼拝大殿の面積は約 500㎡で、約 500人を収容する。前殿と后殿から成り、例によって 前殿は巻棚屋根、后殿が切妻屋根である。プランの形式は「真珠倒巻簾式」というが、意味不明。堂内はやや暗く、柱や梁のすべてにほどこされた彩画が 幽暗に浮かび上がる。とりわけミフラーブまわりは 赤と金で華やかに飾られ、その枠取りには アラビア語でクルアーンの章句が刻まれている。その上部のミニ斗栱の列も 繊細を極める。この右側にはまた、かなり背の高い 13階段の宣講楼(ミンバル)がある。
 ミフラーブの手前の柱列には5連の木造アーチが 一種の歓門(フアンメン)となっている。中央3スパンを欄干で囲って、後窰殿としている。コルドバのメスキータのマクスーラのような印象である。このモスクのムスリム、特に女性が保守的、排他的なので、撮影は困難であった。


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14 沁陽 (チンヤン)*
  QIN YANG 河南省

北大寺 ***
NORTHERN GREAT MOSQUE
全国重点文物保護単位

沁陽北大寺   沁陽北大寺

 沁陽(しんよう)は河南省の省都・鄭州の北西約 70kmのところにある小都市で、現在は地級市としての焦作(しょうさく)市に含まれる。晩唐の詩人、李商隠の出生地である。 河南省は寧夏回族自治区と甘粛省に次いで ムスリムの多い省で、元代と明代に多くの回族兵士が移住してきたことによる。とりわけ開封と沁陽に回族が多く居住し、かつては多数のモスクが建設された。
 河南省で最古のモスクは沁陽の北大寺で、その創建年には諸説あって確定しない。一説では元代末の 至正年間(1341-1370)に創建、明の嘉靖 4年(1526)に重建、清代に増建したという。磚造の後窰殿は 定州と同様の「無梁殿」で、組積造のアーチやドームが元代の様式を伝えている。しかし清代に地震で破壊され、清末の光諸 13年(1887)に再建されたという。現在は北側に 清真女寺が設けられている。
 伽藍配置は、前面道路が東側なので、大門からまっすぐにマッカに向かう軸線の上に 諸堂がシンメトリーに並ぶ 理想的配置となっている。かつての敷地の幅が狭かったらしく、中庭の幅も 大殿の幅も、約 10mと小さい。その代りに 奥行きがきわめて深く(約 80m)、2つの中庭を継起させる 二院式の構成である。

沁陽北大寺断面図
沁陽北大寺の断面図 (From "中国伊斯蘭教建築" by 劉致平, 1985)

 大門は 廈殿とも称し、清の嘉慶 4年 (1799) に建設されたが、文革で破壊されたのか、近年の 1987年に再建されている。劉致平の本では、磚造の壁に3つの浅いアーチの開口部が並んでいるのに対し、現在のものは木造となって、左右のスパンに石碑を安置している。しかし単檐歇山(単層の入母屋作り)の屋根の形や規模、そして八の字型に広がる 左右の磚造の照壁などは変わらない。中央の入口からは 30m奥の大殿までが見通せる。
 第一進院の院子(外院)を前庭と呼んでおくが、この両側の廂房は 客庁とアホン住居に用いられている。モスクの本来の中庭である 第二進院(裏院)との間に建つのは、二門ではなく過庁と呼ばれている。通り抜けできる建物という意味で、大門よりシンプルな造りである。内地のモスクでは、ここが2階建てとなって邦克楼を兼ねることが多いが、この過庁は平屋であり、外の鉄骨造の塔が ミナレットとなっているのには驚いた。臨時であろうか。
 中庭には定式どおり、巻棚切妻屋根の古式な南北講堂、正面が礼拝大殿であるが、大門以来、これらすべての建物が 間口3間につくられている。中庭は 10m角の ほぼ正方形をしていて、この中央に泉さえあれば 西方のモスクに近づくが、中国式モスクには 決して水盤をもった泉が見られない。四合院の中庭が そうだったからであろう。

沁陽北大寺   沁陽北大寺

 礼拝大殿は 10mの幅に対して奥行きが 36mもあり、抱厦(巻棚)、前殿、后殿、後窰殿の4棟から成る。前項の太原の 圧縮されたような短い奥行きとは正反対の、異常に長い奥行きである。巻棚入母屋屋根の抱厦は ここでは客庁とも呼ばれ、半外部の接客スペースともなっている。まるで中東の中庭住居における イーワーン(アイヴァーン)のようである。
 前殿の屋根が入母屋、后殿が切妻と、異なっているのは、順次増築していった結果なのだろう。内部では 両者のあいだに近年の無造作なスクリーンが嵌められ、遮断されている。小屋組みは清初のものだが、明代の作風を示し、周囲には繊細な斗栱がまわされ、また すべての木部に彩色・彩画がほどこされている。窓が少なく暗い大堂から 奥の磚造の後窰殿への眺めは 神秘的な印象を与える。
 このモスクで最も興味深いのは、磚造の後窰殿である。木造の大堂からは3連の半円アーチ開口で連接し、ここからキブラ壁に向かって 幅広のアーチをかけて、3つのベイに仕切っている。各ベイは高く吹き抜けて 磚によるドーム天井となり、その上に 三彩の瑠璃瓦による華々しい屋根をかけているのである。内部の構成はアルカイックな印象ではあるが、すべて論理的に、明快に組み上げられていて 破綻がない。

沁陽北大寺   沁陽北大寺

 外部の楼閣式の 3連屋根構成は 中央が高く、左右がやや低くなっていて、滄州の北大寺 の後窰殿に似ている。滄州 が木造で、採光塔も兼ねていたことが、磚造の沁陽とは違う。沁陽の 交差入母屋による十字形屋根の造形と色彩は、滄州よりも はるかに派手である。しかし この屋根造形を外部から見ることは ほとんどできず、近隣の建物の屋上に登らないかぎり、これを十全に味わうことはできない。では、一体何のために コストと労力をかけて、モニュメンタルな造形をしたのであろうか。本来のイスラーム建築の、外部の造形よりも内部空間を重要視する「皮膜的建築」の原理から逸脱して、インドのイスラーム建築のような「彫刻的建築」に近いのではあるまいか。
 創建当時、あるいは 明代の姿が どのようであったのかが分明でないので、これは あくまでも推測だが、当時は この後窰殿がモスク本体であって、その手前の木造礼拝室は、時代とともに 徐々に増築されていったのではないだろうか。そう考えれば、かつてはこの屋根造形が 正面からはっきりと眺められ、インド的な彫刻的建築としての シンボリックな役割を果たしていたのだろう。それでもなお、この高さが あまりにも高いことを考えると、当初から 前面に小さな礼拝室ないし前廊があったのだろう。通常とちがって、後方に増築していったのではなく、前方に増築していった例である。


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15 鄭州 (ジョンジョウ)*
  ZHENG ZHOU 河南省

北大清真寺*
NORTHERN GREAT MOSQUE

鄭州北大清真寺   鄭州北大清真寺

 鄭州(ていしゅう)は河南省の省都で、現在は市区人口 250万の工業都市であるが、3,500年の歴史をもち、国家歴史文化名城に指定されている。 旧市街の東部には 黒川紀章の設計による 50万人の新都市も計画されている。
 市内の多くのモスクのなかで 最も古い北大清真寺は、市の中央部でありながら、大通りからは離れた 閑静な回族地区にある。 寺域は広く、全体が4列平行に並ぶ施設群となっている。中央の東西軸上にあるのが清真寺で、その北側の列が付属の水房や配殿であり、南側にあるのが 鄭州伊斯蘭教学院(マドラサ)、さらにその南側に 清真女寺が設けられている。中国経済の発展にあわせるように、新しい施設として 総合楼の建設が計画されている。北大清真寺は 内地の純然たる中国式モスクなので、新棟も西方的なドーム屋根を模するのではなく、伝統様式を生かしつつ近代化を図っている。しかしその瓦屋根が 内部空間と無関係に載せられているだけならば、飾りとしてのドーム屋根と変わることはないだろう。

鄭州北大清真寺

 北大清真寺の創建は、唐代という伝説もあるが 根拠はない。明代に創建され、清代(1759年)に改築された というのが信憑性が高い。文革で だいぶ破壊されたようだが、1983年から礼拝大殿、望月楼、大門等が修復されて、その容貌を一新した。
 鼓楼街から北に清真街を入った所にある。伽藍配置は 例によって、中軸上に大門、前庭(第一進院)、二門(望月楼と邦克楼を兼ねる)、中庭(第二進院)、南北講堂、礼拝大殿が並ぶ 標準的な四合院タイプである。一番目立つ望月楼は 明代の作(乾隆 24年に重修?)と見なされている。小規模ではあるが、両側に磚造の傍門を従え、彩色斗栱の列で支えられた入母屋屋根には 大きな屋根飾りが載り、各 降り棟には動物の列があり、かなり派手な造形をしている。1階は 磚造の壁の外側に石の柱列を立てて 内部を豊かに彩色し、その上に 木造の2階を上げている。

鄭州北大清真寺

 礼拝大殿の面積は約 500㎡で、<巻棚+大殿+後窰殿>の三部構成をとる。巻棚の抱厦には、相対する望月楼と同じく 石の柱列を立てて、印象をそろえている。大殿は2棟から成り、梁が白を基調に 繊細な植物紋が彩画されているのに、柱が朱色に塗られているのが、ややアンバランスである。垂木を受ける母屋桁は すべて2段重ねで、それぞれに斗栱をかませているのなどは、芸が細かい。
 木造の後窰殿は 礼拝室の延長ではなく、独立的につくられていて、礼拝室とは 繊細な透過彫刻の 「花罩(フアチャオ)で仕切られている。全体としては、手がかけられている割には、今ひとつ迫力に乏しい 中規模モスクであると言える。


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16 開封 (カイフォン)**
  KAI FENG 河南省

清真東大寺 **
EASTERN GREAT MOSQUE
全国重点文物保護単位

開封清真東大寺   開封清真東大寺

 開封(かいほう)は 紀元前の春秋時代から連綿と続く都市で、北宋時代には国の首都であった。現在は河南省の直轄市で、鄭州の東 約 70kmにあり、中華人民共和国成立後の 1954年に鄭州に移るまでは、河南省の省都であった。今は人口約 80万の歴史的小都市で、中国六大古都(西安、洛陽、北京、南京、開封、杭州)の一つであり、歴史文化名城にも指定されている。
 北宋時代に 通商貿易の一大中心地であった開封は 国際都市であり、北宋末には 大量のムスリムが来住して商業に従事した。そればかりでなく、猶太(ユダヤ人)のコミュニティもつくられ、宋代から 19世紀まで存在したことでも知られている。ユダヤ人とムスリムとが 混同されていたこともあったので、ユダヤ人の「礼拝寺」(シナゴーグ)が、モスクと同じように「清真寺」と名づけられることもあった。シナゴーグは現存しないが、モスクは 宋代には3院があったと伝えられ、現在では 14院のモスクが市内に散在している。

 清真東大寺は、清真東寺、また回族東大寺とも言い、明代の古名は 大梁清真寺だったと言う。大梁(だいりょう)というのは、開封が 戦国時代の魏の首都だった時代の呼び名である。当初は東の宋門外にあったが、明代に現在の地に移されたという。その時期は不明であり、また もともとの創建年代も不詳であるが、明初の永楽5年(1407)に重修し、また清の道光 26年(1846)にも重修した という碑文がある。近年では、文革後の1989年から大々的に修復された。
 敷地は 鼓楼街から北へ 回族食品街(旧清真街 )を進んでいった所にある。そのために鼓楼街の拡幅の影響を受けず、河南省で最大のモスクであるのに、閑静な環境にある。前面道路は東側で、伽藍配置は3進院の構成をとり、軸線上の前庭、中庭とも 実に広々としている。

 大門は5間で、かつては向かいに大照壁があったが、現存しない。前庭の南北の堂は、民国初年には 名徳小学校として用いられたが、現在は 東大寺武術館となっている。それぞれの前面には走廊(回廊)がまわり、広い第一進院は 筆者が訪れた 2007年には まだ庭園として整備されていず、近隣の子供たちの遊び場、ないし運動場となっていた。

開封清真東大寺   開封清真東大寺

 大門よりシンプルな二門は3間で、ここから伸びる塀が 次の第二進院と完全に遮断しているので、西安のような ゆるやかな庭園の連なりにはなっていない。二門の両側には立派な傍門があり、その内部には 楽園としての山水画が描かれている。
 これもまた広い中庭の南北には 講経堂と水房、配殿(北配殿は伊瑪目(イマーム)の住居、南配殿は 教長の住居とアホンの講経所)、武学屋と経学堂が連なっている。かつては望月楼があったが、今はない。これだけの大モスクなのに 邦克楼(ミナレット)がないのは寂しい。
 その代り というわけではないが、中庭には大殿の前に月台がつくられ、石で仕上げられて、欄干がめぐらせられている。周囲に樹木があり、背後に配殿の緑色の瑠璃瓦の屋根が見える月台(テラス)というのは、広州や西安のような 大モスクにのみ見られるもので、中東のモスクとは ちがった 独特の中庭を形成したと言える。(この月台の中央に泉を設けるという発想が、なぜ生まれなかったのだろうか。)

 礼拝大殿は、道光 26年(1846)に抱厦(卷棚)を増築したという。したがって 月台もそれ以後ということになる。抱厦は大殿と同じく5間もあり、奥行き方向のスパンも大きいので ゆったりしている。
 大殿は2棟からなるが、空間的には一続きで、仕切られてはいない。また鄭州とはちがって、独立した後窰殿はなく、キブラ壁に聖龕(ミフラーブ)のニッチが設けられているのみなので、この礼拝殿は 列柱ホールの一室空間となっている。幅が 20mに奥行き 40mの空間に あまり装飾はなく、質実剛健につくられている。色彩も 白い壁以外はすべて漆の赤褐色に統一されていて、厳格な印象を与えよう。ただ ミフラーブまわりだけは アラビア語のカリグラフィーをはじめ、きわめて豊かに装飾されている。上部に屋根の意匠を置いて ミフラーブを一つの建物に見立てているのは、特異である。
 大殿の屋根は硬歇山頂(妻部がふさがった入母屋造り)で、面積は 700㎡を超える。この両側には大耳房がある。

開封清真東大寺

 大殿の背後に 第三進院(后院)があり、かつては ここに清真女寺があったが、現在は前面の道路を隔てた場所に「開封市清真女学」として移されている。北大寺は教育熱心なので、后院には小中学校 + 宗教教育の場としての マドラサもつくっていた。
 開封の南 20kmに朱仙鎮があり、全国重点文物保護単位に指定されている清真寺があるが、筆者未訪。

(2009/10/01)


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