第 1 章
ISLAMIC ARCITECTURE in CHINA
中国 伊斯蘭教建築特質

神谷武夫

瀋陽の南清真寺の二門

(このページは 未完です)

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 中国には伊斯蘭(イスラーム)教を信仰する人が約 2,300万人もいて、全国に分布している。したがって イスラーム建築も中国全土に分布していることになり、モスクだけでも その数は 3万 5,000以上という統計がある。
 中国ムスリムを構成するのは、その約半数が回族で、あとの半数近くがトルコ系のウイグル族であり、残りを カザフ族などのトルコ系、イラン系、モンゴル系の少数民族が占めている。トルコ系のムスリムは中国西方の新疆ウイグル自治区と それに隣接する省に居住していて、その建築も 西隣りの中央アジアからイランにかけての建築と 親近感がある。
 これに対して 「内地」のムスリムは、もともとはアラブ、ペルシア、トルコからの外来民族であったにせよ、漢族と通婚して混交し、中国語を母語にするので、信仰以外には 漢族と区別がつかない。しかし 中国政府は民族政策として「五族共和」(漢・満・蒙・回・蔵)のたてまえから、内地のムスリムをひとくくりにして(民族固有の言語をもたないにもかかわらず)、「回族」という独立民族に定めている。

 歴史的には イスラーム帝国が中国を征服したことはなく、元の時代にウイグル族が「色目人(しきもくじん)」として優遇されたことを除けば、回族は常に漢族に支配されてきた。中国へのイスラームの浸透は 貿易活動などを通じて、「下から」平和的に行われてきたのである。「上から」のイスラーム化が行われなければ、西方の建築スタイルが強制的に移植されることもないわけで、国家事業としての モニュメンタルなモスクや廟が 大々的に建設されることもない。
 内地のイスラーム建築は、民衆の建築の方法、すなわち中国の伝統的な構法と様式に同化して実現されるほかなかった。またそれが砂漠的風土の中東とは異なった、雨多く緑豊かな中国の風土に適したイスラーム建築であったとも言える。したがって内地のモスクは、外見的には 儒教の廟や 道灌、そして仏教寺院などと 区別がつかない。こうして世界のイスラーム建築のなかでも 特異な、木造・瓦屋根のモスク建築が普及したのである。

建築構成

中国寺院の木造架構。 仏教、道教、儒教、イスラームの間に区別はない。
西洋のようなトラス構造ではなく、あくまでも水平に梁を何重にも架け渡し、
その上に束を建てて桁を架け、その上に垂木を並べる。 したがって
桁の高さによって屋根勾配が自由になるので、反りをつけるようになった。
(Fig. from "Chinese Architecture" by Laurence G. Liu, Academy Edition)

 中国へのイスラームの伝来は、陸路と海路によってなされた。 陸路は、主にシルクロードの隊商路を通じて もたらされた。軍事的にも小国の侵入や征服があったものの、これらは 新疆(しんきょう)ウイグル地方に限られている。 海路のほうがむしろ早く発展し、東海岸の貿易港を通じて ムスリムの商人が来住し、各地にムスリム・コミュニティをつくり、蕃坊(ばんぼう、外国人居住区)を形成していった。
 中国とイスラームとの最初の接触は、651年に 当時の 大食(タージー)国(アラビアのこと)から、唐の皇帝・高宗のもとに使節が送られてきた時である。651年といえば ムハンマドが没して約 20年後のことであり、正統ハリーファ(カリフ)の時代、第3代ウスマーンの在世時であるから、ずいぶんと早い。ウマイヤ朝が始まる 10年前である。 といって、この時代にイスラームが中国に布教されたわけではなく、唐代には外来ムスリムの居住区に、礼拝のための ささやかなモスクが建てられたに過ぎないだろう。
 歴史に名を残す最初期のモスクは そうした南海沿いの貿易港に建てられ、特に有名な四大寺が、動物の名をつけた愛称で呼ばれている。すなわち 泉州の麒麟寺、広州の獅子寺、杭州の鳳凰寺、揚州の仙鶴寺である。これらは唐代の創建と伝えられるものもあるが、実際には宋代から元代の創建である。

 このサイトで 中国のイスラーム建築を紹介するにあたり、全土を3つの地域に分け、1回目の今回は それら南海の四大寺を含む、回族の「中国南部」とする。次回には中央アジア式の新疆ウイグル地方を含む「中国西部」、そして 3回目に中国式の北京を中心とする、回族の「中国北部」である。その上で、総論と 中国のイスラーム建築の特質を明らかにする章を 加えたいと思う。

 ところで 「回族」および「回教」の語の起源であるが、唐代のウイグル族は音韻で「回鶻(ウイグル)」あるいは「回紇(ウイグル)」と書かれ、転じて「回回(フイフイ)」となった。当時のウイグル族は マニ教を信仰していたということだが、後に 10世紀頃から イスラーム化していった。それにつれて 回回 の語は、広く イスラーム教徒や 西方の諸地域をも さすことになった。ところが元代になると、回回 というのは イスラーム あるいはムスリムの全体を示す呼称になり、アラビア人やペルシア人も 回回と呼ばれた。明代からは イスラーム教を「回回教(フイフイ ジアオ)」、 あるいは略して「回教(フイ ジアオ)」と呼ぶことになり、ムスリムは 近年まで「回民(フイ ミン)」と呼ばれた。
 今では本来のウイグル族のほうが、回族とは別のムスリム(穆斯林)の民族とされ、「維吾爾(ウイグル)」と表記される。 新疆ウイグル地方には ムスリムの地方政権が打ち立てられたこともあったから、トルファンやカシュガルなどの諸都市に、隣の中央アジアにおけるのと同じスタイルのイスラーム建築が建てられもした。こうして中国のイスラーム建築は、大きくウイグル族による西方的なものと、回族による 内地の中国式のものとに二分されることになったのである。

清真北寺平面図

典型的なモスク平面図 宣化(せんか)の清真北寺
(From "Ancient Chinese Architecture" by Sun Dazhang, 2003)
中国の都市計画や伽藍配置は基本的に南北軸に基づくが、モスクは東西軸である。

なお、このサイトの平面図や航空写真は、
すべてマッカの方向(西)を上にしている。

 さて「回教」というのは「回民が信仰する教え」の意であるから、キリストの教えをキリスト教、仏陀の教えを仏教、という名づけ方とは異なっている。しかし、インドのジャイナ教というのが「ジャイナが信仰する教え」、シク教というのが「シクが信仰する教え」、というのと同類であって、必ずしも誤った呼称というわけではない。「清真教」という呼び方も好まれたが、回教の語はイスラーム教を表す代表的な語として浸透し、日本にも伝わって広く用いられた。けれども中華人民共和国成立後、ウィグル族と区別された内地のムスリムを「回族」と呼ぶことになってからは、回教の語は イスラーム教全体を表すには不適切な呼称となった。 そこで 1952年に中国のムスリムを統括する団体が設立されたときに「伊斯蘭(イスラーム)」の語が採用され、「中国伊斯蘭教協会」と名づけられた。ムスリムが差別された歴史をもつことから、「回教」や「回教徒」という語は 時に蔑称としても用いられたので、今では使用が禁じられている。

 一方 モスクの方は、他の宗教における施設と同じように「寺院」とみなされたので、すべて「○○寺」と呼ばれる。宋代、元代には「回回寺(フイフイ スー)」という一般名称もあったが、前述の四大寺のごとく(泉州の清浄寺、広州の懐聖寺、杭州の真教寺 や その愛称のように)自由な名がつけられることが多かった。明代になると「礼拝寺(リーバイ スー)」の一般名称が普及したが、明末からは 西安のモスクに影響されてか「清真寺(チンジェン スー)」の呼称が一般的になった。大モスク(金曜モスク)は「清真大寺(チンジェン・タースー)」と呼ばれる。
 なぜか 固有名詞をつけることが避けられ、都市内の位置の方向から「東大寺」や「南大寺」、前面道路の名前をつけて 北京の「牛街礼拝寺」や西安の「化覚巷清真大寺」のように呼ばれることも多い。

 かつては数万のモスクが中国にあったが、宗教のいかんを問わずに、王朝が変わるごとに 寺院を拡大して建て直す習慣や、戦乱などによる消失、共産革命による宗教の軽視、さらに 文化大革命による徹底的な破壊 などによって、広大な領土の中国でありながら、今に残る 古建築としてのモスクは 驚くほど少ない。
 以下の各章に 東から西の順に 中国のイスラーム建築を紹介していくが、各章の冒頭の地図には番号をつけて 地名と対照できるようにし、各項の地名と建物名に『インド建築案内』におけるのと同じように星印をつけて、建築的重要性 および魅力度の等級を あらわすことにした。


 このサイトは、拙著『イスラーム建築 』の続編として書かれている。しかしながら その本は マフィアの圧力のために、出版社(彰国社)が 出版契約も無視して、平然と出版拒否をしているので、読んでもらえない。わが国における イスラーム文化の普及のために不幸なことであるが、マフィア系の企業と癒着しているジャーナリズムも 学会も これを不問にしている状態では、いかんとも なしがたい。こうした言論の抑圧を許さない 一般世論の高まりを 願うばかりである。



「中国伊斯蘭建築の特質」を脱稿するのは、まだ しばらく先になりそうです(締切がないと、なかなか進まないのです。)これが健全な国ならば、建築関係の出版社の 編集者が、『中国のイスラーム建築』を出版したいと 言ってくるはずですが、どこの出版社も マフィアが怖くて、私の本は(たとえ 私が書いたのが その本の一部であるに すぎないとしても(『新潮世界美術辞典』など)出版できず、根本的なイスラーム建築の概説書である『イスラーム建築 』でさえも 出版拒否しているくらいですから、その続編である 中国のイスラーム建築の本を出版する勇気のある出版社など ありません。イスラーム建築に興味のある方は、このサイトが閉鎖されない内に、これをDVDなり プリントなりで保存しておくことを お勧めします。   ( 2012 /12/ 01 )


1. 中国におけるイスラーム建築の歴史
2. 新疆ウイグル地方のモスクと 内地のモスク
3. 清真寺の伽藍配置
4. 清真寺の建築的特質
5. 廟建築(麻扎、瑪扎、拱北、拱拝)
6. 回教から伊斯蘭教へ

 「イスラーム建築はドーム屋根」 というイメージが広く流布しているが、イスラーム世界でも 勾配のある屋根(つまり多雨地帯における木造屋根)を 瓦で葺くということが 行われなかったわけではない。それは気候に基づいているから、木造の瓦屋根は ペルシア、アラビアから遠ざかるほどに 頻出する。最西はモロッコで、最東は中国で。
 文化大革命のおかげで中国ムスリムは伝統的なモスク建築の形から解放されて、世界の大勢である ペルシア、トルコ式の建築形式へと転換したように見える。これもまたグローバリゼイションと言うべきか。いや、実は 20世紀になって スタイルが変わったのである。ハルピンの 擬似ペルシア型モスクは、1935年の建設と書いてある。「回教」から「伊斯蘭教」への表記法の変化が、建築のスタイルの変化でもあったらしい。

 文革のあとの宗教復興後に、中国ムスリムは 教義のオーセンティシティを求めるばかりでなく、建築にも それを求めるようになった。そして 正統的なモスクはドーム屋根をもつべきだ、という固定観念に導かれて、近年再建された多くのモスクが 中国の伝統スタイルではなく、ドーム建築となった。
 しかし、西方のモスクは、その出発点から ドーム屋根を戴いていたわけではないこと、もっと後のペルシア型やトルコ型が、その風土と可能資材と技術的条件によって ドーム建築を発展させてきたのだということ、それとは異なった風土においては、ドーム屋根の必要は まったくないということ、内部の主空間と関係のない ハリボテのドーム屋根を載せるよりは、その地の 伝統的な建築形式を応用したほうが、ずっとイスラームの精神に適うのだということを、現代の中国人に知ってほしい。瓦屋根の木造モスクは、何ら恥じるべき建築ではない ということを知ってほしい。世界中のイスラーム建築は、地域ごとに異なった風土と伝統技術の上に、異なった建築様式を生んできたということ、多様な人々が 神の前に平等であるように、さまざまな様式のイスラーム建築の間に、価値の優劣はない ということを 知ってほしい。単に外観の形だけを真似た建物は、「いかもの」に過ぎないのだ ということを。

 しかしまた、伝統的中国式がよいからといって、これを本来の木造ではなく、鉄骨やコンクリートでつくり、表面に伝統的な化粧をした だけのものは、やはり「はりぼて」である。かつてとは 全く異なった資材を用い、異なった技術で建てるのなら、形もまた おのずから別物にならねばならない。現代にふさわしい技術と材料で 新しいモスクやマドラサの形が造られれば、それを「現代建築」と呼ぶのである。

 私の書いた『イスラーム建築』は、中国語に翻訳されて 中国の人々にも読んでもらいたい。上に述べたようなことが、明瞭に認識されるはずであるから。しかし、残念ながら、この本は 日本においてさえも、マフィアの妨害によって 出版されていないし、どこの出版社も 言論の自由を守ろうとは しないのである。(念のため言っておきますが、「イスラーム」に関する記述や紹介そのものが、忌避されたり妨害されたり しているわけでは ありません。)


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中国語の扁額

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