MASTERPIECES of ISLAMC ARCHITECTURE
ダームガーン(イラン)
ターリク・ハーネ・モスク

神谷武夫

ダームガーン


BACK     NEXT


イランの最古のモスク

 イスラーム暦の元年は、開祖である預言者ムハンマドが メッカからメディナに移住した年で、西暦の 622年にあたる。メッカにおける迫害を逃れてメディナに迎えられたムハンマドは、妻子とともに住む家を建てた。そこには広い矩形の庭があり、信者たちはここに集まって集団礼拝をしたので、砂漠地帯の強い日差しを避けるために、一部に椰子の木で柱を立て 棕櫚の葉で屋根を葺いた。これがモスクの始まりであり、こうしてできた列柱ホールが中庭を囲むタイプを アラブ型モスクと呼ぶことは、カイロのアムルのモスクを紹介した時にも書いた。

 アラビアに始まったイスラームは 宗教と軍事が一体となって、最初の王朝であるウマイヤ朝(661-750)と、その次のアッバース朝(750-1258)の時代に 周辺諸国を たちまちのうちに征服していった。それらの地には、こうしたアラブ型のモスクが建てられていったのだが、そのほとんどは失われたり 建て直されたりして、今は あまり残っていない。

ミナレットからターリク・ハーネ・モスクを見下ろす

 ササン朝ペルシア(現在のイラン)も7世紀半ばにイスラーム軍に征服され、その後2世紀にわたってウマイヤ朝の首都ダマスクスと アッバース朝の首都バグダードの支配を受けた。かつてのペルシア帝国の栄光はついえ去り、7、8世紀はペルシアの「沈黙の世紀」と呼ばれる。ウマイヤ朝時代のモスクは すべて失われたが、アッバース朝時代のものは、わずかにひとつ、ダームガーンのターリク・ハーネ・モスクのみが残っていて、これがイランに残る最古のモスクである


ターリク・ハーネ・モスクの平面図
(From K.A.C. Creswell "A Short Account of Early Muslim Architecture" 1989)


モスクとミナレットの対比

 このモスクには碑文がないので 正確な建設年代は不明だが、ミンバル(説教壇)が設置されていることから 750年以降、尖頭アーチが まだ全面的には用いられていないことから 789年以前の建立であろうとされている。しかし このミンバルがオリジナルであるとの確証もないことから、あるいは もっと古く ウマイヤ朝時代の創建ではないか という説もある。いずれにせよ、かつてのペルシアの国教であった ゾロアスター教が滅ぼされ、人々は すっかりイスラーム教の信者となっていたから、そこには新しい宗教の建築を確立しようという熱情が こめられていたにちがいない。

 プランは完全なアラブ型で、約 25m角の ほぼ正方形の中庭を、太い円柱が並ぶ列柱ホールが囲んでいる。すべてはレンガで造られ、表面に土のプラスターが塗られているので、土の色一色であり、しかも円柱の太さは 1.6mもあり、周囲の壁の厚さは 1.5mと、はなはだ簡素にして 雄渾な建築である。柱にも壁にもアーチにも一切装飾がなく、謹厳きわまりないが、それは必ずしも装飾を拒否したわけではなく、黎明期のモスクとして、まだ 装飾には手がまわらなかったのだろう。

11世紀のミナレット

 モスクの脇には、かつて建っていた四角いミナレットの跡があるから、これも無飾の厳しいものだったにちがいない。しかし これは崩壊してしまったらしく、後の 1026年に建てられた 円形ミナレットが現存している。これはモスクと打って変って、レンガの積み方をさまざまに工夫して 幾何学的パターンをつけ、アラビア語によるコーランの章句を刻んで装飾としている。

始源の宗教建築

 ペルシアの造形の歴史を見ると、かつてのペルセポリスの建築のレリーフ彫刻にせよ、後のイスラーム建築の華麗なタイル装飾にせよ、表面を華やかに飾ることを好む性向が うかがわれる。アラブに征服されて萎縮した造形意欲が、次第に本来の民族性を取り戻していく過程が、ダームガーンの モスクとミナレットとの相違の間に垣間見られる。

  
ターリク・ハーネ・モスクの内部

 しかしモスクをよく見ると、礼拝堂の中央列のスパンのみが他よりも幅広く、その半円筒形ヴォールト天井の前面には、ササン朝ペルシアの伝統を引く 背の高いイーワーン(大きなアーチ開口の奥の半外部空間)となっているし、またレンガの積み方も 小端立て積みと平積みを交互に繰り返す イランの伝統的なものであるから、プランの形式こそアラブ型だが、技術や造形の上では ペルシアの伝統を守り続けていたと言える。
 そして、後のイランの きらびやかな彩釉タイルで覆われるモスクに比べるとき、この虚飾のない、単純で力強いモスクは、他民族による支配下で一時的につくられたスタイルだとはいえ、かえってここには 始源の宗教建築のもつ、燃え上がるような意欲と信仰心が 表現されているとも見えるのである。

( 2005年8月 「中外日報」 )


BACK      NEXT

© TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ
kamiya@t.email.ne.jp