ウル・ジヤーミ (大モスク) |
神谷武夫
7世紀にイスラーム教が成立すると、それは軍隊を組織して、またたくまに周辺地域を征服し、エジプト、シリア、トルコ、ペルシアにまたがる広大なアラブ帝国を建設した。イスラーム教徒は毎日5回神を礼拝するのが務めなので、征服地にはどこでも ただちにモスクが必要とされた。戦場においては 建物を建てる暇はないので、地面に線を引いて 礼拝スペースを区画し、メッカの方向を指示しただけの「戦場のモスク」が設けられもしたが、征服した都市においては、既存の建物を利用するのが 一番手っ取り早かった。
![]() ![]() ウル・ジャーミの中庭と、中庭を囲む回廊の柱
トルコにおける 最も古いモスクのひとつ、ディヤルバクルのウル・ジャーミ(大モスク)もそのような経過をたどった。かつてはアミーダと呼ばれたこの都市は 紀元前に遡る歴史をもつ古都であったが、地理的に絶えず外敵の攻撃にさらされる位置にあり、ローマの植民地、ペルシア領、ビザンチン帝国領、アラブ帝国領と、有為転変をけみした。 当時は まだトルコ族が東方から移住する以前であったから、むしろシリア圏の都市であったと言える。
ウル・ジャーミは、堅固な市壁で囲まれた町を 南北に貫く メイン・ストリートに面しているが、しかしその長さはわずか 30mぐらいで、モスクの全外周 約 320mの1割にも満たない。あとの部分は すべて町並みの建物に埋もれているので、ほとんど外観というものがない。外にモニュメンタルな偉容を誇ろうとはしない、イスラーム建築の性格をよく表している。
![]() ウル・ジャーミ 平面図 道路側の あっさりした石の壁面には大きなアーチ開口があり、これをくぐって階段を降りると 広い長方形の中庭に出るが、この南側の長辺に面するのが 主たる礼拝室である。敷地幅いっぱいの礼拝室は 奥行きがごく浅い代わりに 極端に幅が広い長大な部屋で、メッカに面するキブラ壁がたっぷりと とられている。中央部のみ スパンが大きく、天井も高くなっていて、その両翼に2列のアーケード(連続したアーチ列)が伸びている。
こうした独特なモスク形式には、実はモデルがあった。シリアの首都の ダマスクスにある大モスク(8世紀)がそれで、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝を代表するがゆえに ウマイヤのモスクと呼ばれている。そこにも かつてキリスト教の聖ヨハネ聖堂があったが、それを解体して、その4列のアーケードを中央部の両翼に並べて 長大な礼拝室を作ったのである。
![]() ![]() 礼拝室のミフラーブとミンバル、木製天井
ダマスクスと異なる点は、礼拝室の中央が ドーム屋根でないこと、アーケードの柱が 円柱ではなく太い角柱であること、中庭の周囲に モザイク装飾がまったくないことで、それだけ こちらの方がイスラーム建築らしい 質実剛健な印象がある。 ダマスクスに倣ったこの建築形式は シリアのアレッポやハマ、その他で実現されたが、しかし世界のモスク建築の主流となることはなかった。特にトルコでは オスマン朝の時代になってから 巨大なドーム屋根でモスクを覆う方法に転換し、アラブ型とは はっきり異なったモスク形式を確立することになるのである。 ( 2004年6月「中外日報」) |