エジプトのイスラーム化
エジプトの首都カイロは、古代エジプト文明の時代から存続した と思われがちであるが、実際は もっとずっと後の 969年にイスラーム都市、アル・カーヒラ(勝利の都)として建設された町であって、そこは イスラーム建築の宝庫と言われるほどに 多くの建築遺産をかかえている。
その中で 最も古い「アムルのモスク」は、実は アル・カーヒラの建設よりも さらに古く、カイロ南部の、今はオールド・カイロと呼ばれる地区に建っている。
イスラーム軍がエジプトを征服したのは、前回紹介したソハーグの白修道院が建てられた 200年後の 640年で、将軍(後のエジプト総督)アムル・ブン・アルアースは、その統治のために フスタートという軍営都市を建設した。その翌年 フスタートに創建されたモスクが、彼の名をとったアムルのモスクである。
このフスタートの隣には、さらに古い地区、バビロンがあり、あわせて オールド・カイロと呼ばれているが、それは古代ローマ時代の 96年に作られた城砦都市で、今もキリスト教の聖堂や修道院が残っている。
アムルのモスクの外壁窓
アムルのモスクは エジプト最古のモスクであるが、しかし当初の建物が現存しているわけではない。記録によれば、アムルが建てたのは 29m x 17m という小規模なもので、後のモスクの特徴である ミナレットも ミフラーブも 中庭もなかった。
それは イスラーム教の開祖 ムハンマドが初めて神の声を聞いた 610年頃から、わずか 30年しか経っていない時であり、まだモスクの建築形式というのは 確立されていなかったのである。当時のアラビアやシリア、イラクに建てられていたはずの 最初期のモスクと同じく、日干しレンガの壁で囲まれ、ナツメヤシの幹を柱とし、シュロの葉と土で葺かれた、最も素朴な 砂漠地帯の建築であったろう。
アラブ型モスク
モスクの原型は、メッカの町で迫害されてメディナに逃れた(622年)ムハンマドが 自宅の庭を礼拝所にしたことに求められる。それは塀で囲まれた矩形の広い庭で、当初は ムハンマドが兄弟宗教と認めていたユダヤ教とキリスト教の聖地である エルサレムに向って礼拝していたので、庭のエルサレム側(北側)に ヤシの木とシュロの葉で屋根をかけて日陰をつくり、日常の礼拝スペースとした。
ところが次第に先行宗教と対立するようになって、礼拝方向(キブラ)をメッカのカーバ神殿の方向(南側)へと 180度転換することになる。今度は メッカ側に同様の屋根を架けて日陰を作ったので、ムハンマドの家の庭は、陸屋根の列柱ホールが中庭を取り巻く 長方形のスペースとなった。
アムルのモスクの中庭
これが イスラーム圏の拡大とともに各地に建てられるモスクのモデルとなり、メッカ側の壁(キブラ壁)にはメッカの方向であることを示す 半円形のくぼみ(ミフラーブ)が作られ、中庭の中央には 礼拝の前に手足を洗い清める泉が設けられて、「アラブ型モスク」が成立するのである。
アムルのモスクがそうした形をとるのは、創建から 32年後の 673年であった。しかも、そこには初めて ミナレット(そこから礼拝の呼びかけをする塔)が建てられた。現在のミナレットは 後のトルコ時代のもので、当初は キリスト教の鐘楼にならった 角型であったらしい。
アムルのモスク 平面図 827年
(From " Architecture of the Islamic World", George Michell (ed.), 1978)
建築的成熟への道のり
このあとも アムルのモスクは何度も拡大や改築をされてきたので、現存の 120m x 110m の大モスクの姿は、長い歴史的変遷の結果である。それでも、これは最初期の アラブ型モスクの特徴をよく保持している。
その第一は、礼拝室が陸屋根の列柱ホールであることで、古代ローマの神殿やキリスト教聖堂から取ってこられた円柱が林立し、その上に連続アーチが架けられた、森のような空間である。
アムルのモスクの礼拝室内部
ムハンマドが望んだのは、虚飾のない、実用性と構造的必要から成る、いわば 機能主義の建物であったから、建物の外観が シンボリックな彫刻的形態をとることはなかった。ただメッカの方向に向って礼拝をするための日陰のスペースをつくることを目的とした。
こうした、モニュメンタルでない宗教建築を生んだ原因が「偶像的なものの拒否」にあったのだとすれば、アラブ型のモスクは、信仰と建築との一致の 模範的な結果であったと言えるだろう。
しかしながら、建築というのは 宗教的熱意だけでは成立しない。周到な設計と着実な建設技術を欠いては、その後の長い年月を もちこたえることはできない。アムルのモスクが 何度も改築されねばならなかったのは、数十年が経つたびに アーチが歪んだり、柱が斜めになったりして 荒廃したからである。
そもそも、これら数百本の細い円柱の上に 連続アーチを架け渡すだけで建物を造る ということには無理があった。要所に強固な壁なり 太い剛柱なりを配さなければ、耐震性をもつこともむずかしいし、アーチの 絶えず開いてしまおうとする推力(すいりょく)を抑えることもできない。その弱点に対処するために、最終的には すべての柱の頭どうしを 木の細い梁で相互に結んで安定をはかることとなり、純粋な石造建築として存続することはできなかったのである。
( 2004年5月「中外日報」)
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