GARDENS of ISLAM

イスラームの庭園

< 過酷な風土が求める地上の楽園 >

神谷武夫


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傑作は イスラーム圏の辺縁の地に生まれた

 イスラーム建築として 世界に最も名高いのは、西は スペインのグラナダにある『アルハンブラ宮殿』、東は インドのアーグラにある『タージ・マハル廟』であろう。イスファハーンやダマスクスにある大モスクを知らない人でも、この二つだけは名前を知り、写真を見たことがあるはずだ。
 けれども スペインとインドというのは 広いイスラーム圏の中心でもなければ発祥の地でもなく、むしろ西と東のはずれ というべき地である。イスラーム庭園もまた同じように、スペインとインドにおいて最も豊かな発展をとげた。アルハンブラ宮殿のパティオ(中庭)群や その近くの『ヘネラリーフェ庭園』、そしてインドはカシュミールにある『シャーラマール庭園』や『ニシャート庭園』など、幾何学的な造景の中に 園路や水路、園亭や噴泉が配置されたイスラーム庭園は、まさに地上の楽園というべき 香気と安楽さに満ちている。

 では、イスラームの建築や庭園の傑作が、なぜイスラーム圏の辺縁の地に生まれたのであろうか。スペインのイスラーム王朝は ダマスクスのウマイヤ朝の支流が移植されたものであり、インドのムガル朝は ペルシャ圏のカーブルからやって来た文人皇帝 バーブルが創始した帝国である。
 したがって スペインのイスラーム庭園の源流をたずねるなら 現在のシリアに、そしてインドのムガル庭園の源流をたずねるなら 現在のイランに行き着くのであるが、しかし そうした中東の庭園よりも スペインやインドの庭園のほうが名高いのはなぜであろうか。

 
シュリーナガルの シャーラマール庭園と ニシャート庭園


細部まで幾何学的に構成された 中東庭園

 イスラーム庭園の起源は 中東、特にペルシアにあるとされる。乾燥した砂漠的風土においては、自然は人を守るよりも 敵対する要素としてはたらいた。酷暑や熱風、砂嵐や炎天といった 厳しい自然から身を守り、また快適な環境を得るためには、外界の自然から隔離された 避難所(サンクチュアリー)を作らねばならなかった。
 こうして 塀や建物で囲まれ、涼しい木陰と水とを配した庭が求められ、これを「パイリダエーザ」と呼んだのである。それは 7世紀にイスラーム教が生まれるよりも 以前からの伝統であって、イスラーム教は これを受け継いだのであるから、この形式はむしろ「中東庭園」と呼ぶべきだったかもしれない。

 イスラーム教を創始したムハンマド(かつては マホメット と表記された)は『コーラン』の中で 敬謙な信者に約束された来世の庭園、すなわち天上の楽園について 繰り返し語っているが、それは こうした中東庭園をモデルにしたものだった。この「パイリダエーザ」がヨーロッパに伝わって、楽園を意味する英語の「パラダイス」の語源となったのである。

 砂漠においては 当然ながら植物が少ないので、むしろ 水が庭園の主役となった。近くに川があれば 水路を造って水を引く。なければ イランの「カナート」に代表されるように、水は遠くの山から はるばると地下溝を通じて引いてこられたりもする。この水によって 乾いた土地を灌漑し、木や花を植える。それはヨーロッパ人や日本人から見れば ずいぶんと貧弱な植物かもしれないが、砂漠の民にとっては 塀や壁で外界から守られて 水と緑と日陰のある庭園(バーグ)は、まさに楽園だったのである。

 灌漑を最も効率よくするには、碁盤目状に規則正しく水路を通すことである。 ここからイスラーム庭園を代表する形式である「チャハルバーグ」が生まれた。それは「四つの庭園」という意味であって、つまり正方形の庭園を水路によって田の字形に分割する形式で、これを「四分庭園」と訳す。

四分庭園(チャハルバーグ)

 一方で イスラームでは偶像崇拝が厳しく禁じられていることから、生き物の姿を写す彫像や壁画が発展せず、建築は アラベスクなどの幾何学紋や唐草模様で飾られた。これが庭園にも影響して、細部まで幾何学的に構成された庭園が発展し、中東庭園の特徴となるのである。


過酷な自然が 天上の楽園への憧れを強くする

 けれども、単に幾何学的に分割されて 塀で囲まれただけの庭園よりも、もっと 水と緑が豊富で、「せんせんと流れる」水路に 多くの噴泉が吹き上げ、亭々と樹木が茂り、花々が鮮やかな色彩で咲き乱れる庭園のほうが、天上の楽園のイメージに近づくことは 言うまでもない。中東では 自然が過酷であるだけ、よけいに そうした天上の楽園に対する憧れが強かったのである。
 アッバース朝に滅ぼされた ウマイヤ朝の分枝が逃れたスペインのアンダルシア地方は、中東に比べれば ずっと水と緑に恵まれた地であったから、中東庭園の理念と この自然を結び付けて、より快適な庭園を造ることができた。
 また、カーブルからインドにやって来て ムガル朝を始めたバーブルは 中東の幾何学庭園を伝えたが、その後継者たちは 治世が安定するにつれ、酷熱のインド平原の夏を逃れて ヒマラヤのカシュミール地方に避暑に出かけるようになる。そこは 日本の北海道ぐらいの気候なので、彼らにとって 雪山に囲まれた澄んだ水のダル湖周辺は まさに地上の楽園であり、湖に面した斜面に山から水を引いて水路を設け、緑豊かな幾何学庭園の傑作を いくつも造営したのである。
 そうなってくると、アンダルシアやカシュミールにある こうした庭園を 中東庭園というわけにはいかない。イスラームの支配地の拡大とともに もたらされた庭園形式の発展である以上、これは「イスラーム庭園」と呼ぶしかないのである。

 
アレッポの バシール邸と ワキール邸の中庭

 一方、イスラーム圏の中央部では ペルシアの庭園が豊かな発展を見せたが、シリアやエジプトの都市住宅における庭も 忘れがたい。たとえば シリアのアレッポの街並みは黄土色の塀が建ち並ぶ 索漠とした景観をしているのに、一歩 塀の中に入ると そこには植物や矩形の池、噴水といった装置で彩られた中庭があり、日本とはまた異なった「家と庭」の融合がある。
 外界から切り離され、水盤の水音が響く 囲われた庭の中で、円柱の立つ半外部の空間で お茶を飲みながら語り合う人々の姿には 深い安らぎが満ちているのである。

( 1998年 9月 "TRADEPIA")



『 楽園のデザイン(イスラムの庭園文化)』の序文
M・A・ザキー・バダウィー( ロンドン・ムスリム学院・院長 )

「楽園のデザイン」の表紙写真

 イスラム世界の芸術的発展に、イスラム教が 深く影響を及ぼしたことには 疑問の余地がない。もともと 芸術は宗教の宣揚として発生した。詩歌管弦、彫刻や建築は、ことごとく人類の宗教生活に 源泉をもっているのである。イスラム教は そうした芸術的能力を育んだばかりでなく、その方向付けにも影響を及ぼした。それは、天上に属すべき権威を 彫像に与えてしまうような旧習に 人びとが陥らぬよう、生きものの姿を 石の上に、(識者によっては画布の上にさえも)写すことを禁じたのである。
 そのために イスラム芸術の発展は、西洋の芸術とは異なった方向に進んだ。美しさの視覚的な表現は、この上なく典雅にして精緻な 幾何学的なデザインによってなされた。それはまた 数々の壮麗なイスラム建築においても表現され、世界各地の建築の発展に影響を与えてきている。また 書(カリグラフィー)は、西洋でも知られるように、絵画の代りを つとめて余りあった。イスラム芸術の こうした面は広く認識され、学問的にも深く探求されている。

 自然の美しさへの ムスリム(イスラム教徒)の貢献の中で、今まで あまり注意が払われてこなかったのは、造景(ランドスケーピング)と造園(ガーデニング)の芸術であろう。おそらく これが軽視されてきたわけは、イスラムの美術と建築に関わってきた人びとの大部分が、概して 考古学者や歴史家であって、建築に対する彼らの感受が素早く、また知的であったにしても、散在する植物や花々の魅力とか、庭園における色彩の配合の魔術、といった 造景美に対する感受能力は甚だ限定されていた という点にある。
 けれども ムスリムの造景芸術から世界が学ぶべきものは多い。ちょうど イスラム建築が独自なものであるのと同じく、ムスリムの造園や造景もまた独特なのである。イスラム建築は 光と空間を強調しているが、一方 イスラム庭園では、ここかしこから流れ落ちる水音が嘆賞され、植込みや樹木は、自然をそこなわずに美化すべく 細心の注意をもって配置され、自然を制圧するよりも、その息吹き(スピリット)を強調している。この自然との調和の精神(スピリット)こそが、イスラム庭園の 最大の特質なのである。

 本書において ブルックス氏は、イスラム文化の中で軽視されてきた この分野に、生き生きとした照明を与えた。 彼は多くの文献を渉猟し、また造園家(ガーデナー)として 世界各地の数々のイスラム庭園を訪れて 達人の眼で調査し、それらを 間然するところない巧みさで描写している。
 イスラムの造景と造園の芸術について、造園の専門家が、いつもは 珍しい植物のために用意している細心の手さばきをもって そのテーマを論じた書物を読んで、私は ひとりのムスリムとして 誇らしく思った。本書は、イスラムの芸術と文化への、偉大な貢献である。


● 『 楽園のデザイン ー イスラムの庭園文化
ジョン・ブルックス著、神谷武夫訳、鹿島出版会


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