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 輪廻転生、カルマの法則

 前世を知る、永遠の命の輝き

● 輪廻転生、カルマの法則

前世の因縁、因果応報。
自分の成した行為は自分に返ってくる。これがカルマの法則である。

しかし、ほんとうを言えば、「カルマの法則」は存在しない。
現実として「カルマの法則」はありますが、それを信じている人に当てはまる法則です。それを信じない人には、効力が及ばないでしょう。

もし、カルマを信じることを選ぶなら、その信念に力を与えることになり、自分が信じた法に支配されることになる。その考え方を受け入れたとき、カルマを背負ってしまうことになる。その結果、現実の中で効力として力を発揮し、それに支配されることになる。

「カルマ」というものを、こんなふうに考えたら分かると思います。
もし、ほんとうに「カルマの法則」があるなら、何かの行いをすれば、必ず何かのカルマが付きまとうことになる。たとえ、それが良い行いであれ、悪い行いであれ、それによって別のカルマが生まれることになる。一つのカルマを解消するための行為が、同時に新たなカルマを作ることになる。カルマがカルマを生み、そんなふうになって、人間はその輪から永遠に抜け出ることができなくなる。

カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。そうであれば、私たち人間は、この際限のない繰り返しの中に生きていくことになる。なんと悲しいことだろう。

「過去の償いによってこうなった」、「前世のカルマによってこうなった」、そのような捉え方が長い長い間、私たちの意識を支配し、それが心の奥底に記憶されて固定観念となり、それが「カルマという現象」を作り上げてしまったのである。私たちの意識が作り上げてしまった「現象世界」である。

そのような記憶があれば、魂は輪廻するという法則を思い出す。それが「輪廻転生」という現象なのだ。 魂にくっついた「残留想念」である。そしてこの世に何度も戻ってきてしまう。実際、そうなったのが私たちであり、人間が「輪廻する人々」と呼ばれる理由なのだ。

カルマを信じている人は大勢いる。ひとつの人生でしたことは、どんなことでも次の生に戻ってきて、その代償を払わなければならないと信じている。そして自分の人生で起きることは前世の因縁、「カルマを償うため」になってしまう。ああ何と悲しい、無益なことよ。。

★カルマは存在しないが、「魂の欲求」は存在する。
「あれをしておくべきだった」。「あのとき、こう言うべきだった、こうすべきだった・・・」。
「あの人と結婚すべきだった、あの人に愛を告げるべきだった・・・」。
こうした後悔、満たされない思いが、この世に舞い戻させるのである。


もし、ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの辛い状況が待っているでしょう。自分の犯したことに向き合うことになり、強烈な罪悪感に見舞われ、辛苦の苦しみを覚えるだろう。だからといって、来世では、「命を奪われる側」に身を置くとは限らない。そのような法は存在しない。

もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を愛し、その生涯を捧げるかもしれない。すべては魂の選択である。 運命として定められたものではない。

たとえ、自分が侵した大きな過ちであっても、自分の行為を心から反省し、悔い改めれば因果は解消する。悔い改めた者を、なんで再度罰する必要があろうか!カルマの法則は「神の法」ではない。それは人間が作り上げたものであり、それを信じる人たちの法である。

輪廻転生を繰り返す必要はない。真実はこうである。
魂はより多くの経験を渇望する。自分の知らないことを、もっともっと体験し、成長し進化したいと願う。その結果、さまざまな事柄を体験する。そして、ときには苦難の道も選ぶかもしれない。どのような人生であれ、たとえそれが苦難の人生であっても、それは自分の魂の選択である。

そして、一つの人生で、やり残したこと、自分ができなかったことがあったり、もう一度やり直したい事があれば、魂はそれを選ぶ。「魂の欲求」である。カルマの債務はない、あなたには償いをしなければならないものは何もない。すべては自分の選択であり、魂の決定である。

大事なことは、どのような人生であれ、それがあらかじめ決められたとか、強制されたというのではなく、この人生はより成長を願うために、自分の意思によって選ばれたということである。何度も何度もこの世に生れ、輪廻転生を繰り返し、自分を進化させていく、それも成長のための「一つの選択」にすぎない。自分で選ぶだけだ。前世の因縁である必要はない。前世の行為の帳尻を合わせるために、この世に戻ってくるのではない。




知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。
その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武士を襲い、金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。そんなことを全部覚えているという。

そして今、勤めている病院に、その人たちが診察を受けに来ることがあると言う。
前世で足が切られた人が、足の不自由で入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が背中に傷跡が残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、すぐ分かる」という。

そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、
ただひたすら心の中で詫びるという。

他の看護婦さんが、あの患者さんは我がままで、扱いにくいと言う人もいるけど、自分のやったことを考えたら、とてもじゃないけど、そんな事はいえない」という。今は出会うすべての人にありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいと願う。そして休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。




だから、前世を知る、前世を思い出すということは、きれい事ばかりではなく、時として、罪悪感にさいなまれるような、辛い出来事にも直面しなければならないのだ。過去世をさか登れば、誰でも「極悪残忍な自分」に出会う。

過去世を振り返れば、人を殺(あや)めたことがない人はいないだろう。
人の命を奪ったことのない人はいないだろう。人は誰でも”善人”であったし、”悪人”でもあった。争いで人を傷つけ、命を奪い、その犠牲者にもなった。遠い過去に、そのすべてを体験し、そのような経験をして今の自分になったのである。

「悪」を見て、あなたが責める他人は、「かつての自分」なのだ。
『人を憎まず罪を憎む』、なんと意味深い言葉だろうか。。
そして、来世で何をするかは、自分の選択、「魂の選択」である。カルマではない。

人生の目的、生れてきた目的とは何でしょうか?
それは何か特定の使命があるとか、運命を生きるというのでなく、この「生」をまっとうすること。「生きることを体験」して、そこから「学ぶ」ということである。死が近づいたとき、それが分かる。この世に別れを告げるとき、それが分かる。やりたいことを悔いなくやり、この生を精一杯生きることである。

あえて言えば、生れてきた目的とは「体験の蓄積」である。魂が強く求めることを体験し、その体験を通じて「未知」だったものを「既知」(きち)にしていくことである。魂は自分の知らない事を、もっともっと体験し、成長・進化したいと願う。自分の理解できないこと、明確に理解できない想念については、それを体験するよう 魂の叫びとなって人をつき動かす。それは新たな冒険であり、時として、辛い体験であるかもしれない。

体験によって得られものは、叡智となって魂に記憶される。「叡智」とは体験によって得られる感情の蓄積であり、私たちがこの世を去るとき持っていける”ただ一つのもの”である。そして魂がここでの体験を終えると、次の体験に向けて進んでいく。それが私たちの成長進化であり、生まれてきた目的でもある。

★幸せであること・・・
人が幸せを感じるとき、あらゆるカルマの法則、トラウマも越えていく。
幸せであるという”至福感”によって、カルマもトラウマもすべてが消えていく。消え去る。幸せになること、喜びに溢れること。それこそ人生の目的、生れてきた目的である。

今回の人生が、あなたにとってすばらしい旅でありますように!




★前世療法に関心がある人は、以下の本がお勧めです。

『前世療法』@−米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘−
『魂の伴侶』−ソウルメイト、傷ついた人生をいやす 生まれ変わりの旅−
『未来世療法』−運命は変えられる−

         
         
         
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