よびもどし
  
鉄琴のようなフルートのような、金属的で透明な音が聞こえる。 
  もうずっとだ。 
きぃ…ん。…ぃぃん。
旋律はぎこちなくて、だけどどこか規則性がある。 
  早く眠りたいのに、これではいつになっても眠れない。 
  この音が聞こえるようになったのはいつからだったろう。随分昔のような気もするし、最近のことのような気もする。 
  真っ黒に塗りつぶされた空間の中で、私はゆっくりと目をこらす。 
  ぐるりと寝返りを打って、「天井」を見上げた。 
見えない。
何も。 
  蛍光灯の影も、壁の染みも書棚も机もクローゼットもぬいぐるみも、扉も、――何も。 
  目が暗闇に慣れていないのだろう。それに私はひどい近視だし。…メガネ、いつ外したっけ? 
けれど、見えないという事実は意識した瞬間に小さな恐怖を呼び起こした。 
  首筋がぞわり、と粟立つ。 
きぃぃ…ぃん。…ぃん。
音自体は、ささやかで澄んでいて綺麗なものだと思う。 
  なのに、急に怖くなった。真っ暗闇に私がひとりきり、出どころ不明の音を聴いている。 
外からだろうか。 
  そう考えて、途方もないほどの違和感を覚える。 
  外。 
  そんなもの、ないじゃないの。 
「……えっ」
思わず声が出ていた。上半身を起こした。 
  違和感を確認する。確信する。私は一体…どこにいる? 
  手をついて起き上がったのに、そこに感触はなかった。ふんわりとした、当たり前の弾力がない。 
  身体を覆っているはずのタオルケットの感触も、ない。 
  腕を思い切り横に伸ばしてみても、そこにあるべき段差がない。 
  私は自室のベッドの上に――いない? 
何、これ?
立ち上がる。足の裏に感触がない。 
  そもそも…私に「足」ってあるのか。暗闇に紛れた私は、私自身を見失いそうだった。 
  
※ ※ ※ ※ ※
きぃん。きぃぃぃぃ…ん!……ぃぃぃん。きぃん!
音が増幅した。 
  音、いや音階。音程。 
  確かにそこにはメロディーがあった。あるはずだ。どこかで確かに聞いた。ううん。そんなに前のことじゃない。 
  むせかえるような熱気。頭上には太陽がぽっかり浮かんでいて、空は青い。 
  人の波の中に私はいて、大きな大きなスピーカーに増幅された音が大音量で流れ出す。 
「ああ。…そっか」
こんな闇は嘘なんだ。私がいたのは、いや、いるべきなのは夜の闇の中じゃあない。 
    
  ――真っ昼間の音楽の祭典。屋外の巨大なライブ会場のはずだ。 
◇
「なんで夜なの」 
  目を覚ました第一声がそんなものだったことに、友人は呆れかえっていた。この話はしばらく私をからかうネタになった。 
  
  「あんた、倒れたんだよ。日射病だってさ。ま、軽くてよかったね。昨日寝てなかったんでしょ。回復してるはずなのに寝続けてたってさ」 
  友人が説明してくれた。音はまだ響いていた。闇の中で聞いたものと同じ音楽だった。 
  「ライブ…まだ続いてるの?」 
  「聞こえるでしょ」 
  「うん」 
  「もうすぐフィナーレの花火が上がるんじゃないかな」 
  「うそ」 
  8時間に及ぶ夏の巨大音楽イベントの終わりは、私がぶっ倒れている間にすぐそこまで近づいていたらしい。 
  「い、行かなきゃ…っ!」 
  目当てのバンドの大好きなサウンドが響いている。遠いけれど、間違いない。きぃんと高い金属音が特徴的な最近リリースされたばかりの新曲だ。 
  「コラコラ。休んでなさいよね」 
  応急救護室に私たちの言い合いする声が響きわたった。 
  
  そして、 
  ――ドン、と祭の終わりを告げる地響きが届く。