魔法の呪文

 

昔、私は魔法が使えた。
中学生のころだ。

『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』

始まりはいつだろう。
夢を見がちな中学生の私の中に、そんな呪文が浮かび出た。
それは、実際効力を発揮した。
唱えながら願えば、風が吹いたし、雲が晴れたし、星が流れた。
唱えながら祈れば、痛みが遠のき、緊張が解け、落ちつくことが出来た。
唱えながら望めば、片恋の相手と擦れ違い、話せたし、恋が実った。
私にとって、それはとても重要な魔法の呪文だった。

本当は知っていた。
偶然に過ぎないこと。
気休めに過ぎないこと。

本当は信じてた。
魔法の力があることを。
呪文に威力があることを。

夢見がちで、それでいて、現実を知っていた、あの頃の私は、疑いつつも信じていて、信じながらも疑っていた。
だから、誰にも言わなかったけれど。

『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』

それは、私の大事な呪文だった。


大きくなって、私は、ちょっとした企業の、ちょっとした役職に就く身になった。
忙しい日々。
慌ただしい毎日。
「菜波さん。あと30分で、プレゼンです。」
「分かった。ごめんなさい、コーヒー淹れてもらえる?」
「はい。いつものように、うんと濃く?」
「そ。うんと濃く。」
最終チェックで、資料に目を通しながら、コーヒーを飲む。
そして、プレゼンの前には、お腹に軽く手を当てて、自分の体温を感じながら、唱えるのだ。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
無意識に近い、儀式。

恋人とのデート。
忙しくて慌ただしい毎日の中で、息抜きのように、ほっと出来る一瞬。
「仕事忙しい?」
「まあまあね。菜波もだろ。」
「まあまあねぇ。」
「お互い、難儀な身だなぁ。次、いつ逢える?」
「再来週の週末はお休みの予定。」
「俺の方はっと…。」
恋人がスケジュール帳を開こうとしているのを見ながら、無意識に心の中で唱える。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
「あ。俺もその辺り暇かも。」
「じゃ、次は再来週ね。」

こどもっぽいのだろう。
分かっていても、私は未だにその呪文を捨てきれなかった。
毎日の生活の中で、それは忘れ去られ、ほとんど記憶の片隅に押しやられてさえいるのに、ふと何かに縋りたくなる時、それでいて、縋るべきものが何もない時に、つい唱えてしまうのだった。
そう。大きくなればなるほど、縋るものを見失っていって、けれど、唱える回数は減っていった。それだけは、大人になっていった証だったかもしれないけれど。
叶うとか、叶わないとか、そういうことでもなかった。もう、私は、魔法を信じて生きていられる年齢ではなかったから。

ただ、生きていく上で、何かが欲しかったのだ。


そんなある日。
真夜中に、電話が鳴った。
深夜の電話は、心をざわめかせる。

母が、倒れた。

すっぴんに、手当たり次第に着た服、そして突っ掛けで、取るものも取りあえず病院へ向かった。タクシーの中、バックミラーに映る自分を見つける。
今の私を、職場の部下が見ても、きっと私だとは分からないだろう。
そんなことを考えて、少しだけ落ち着く。
落ち着いた、気分になった。

「予断を許さない状況です。」
病院で、いきなり告げられた言葉に、二の句が継げない。
「最善は尽くしましたが、今夜が峠になると思います。付いていてあげてください。」
白いベッドの上に寝た、母親の顔が青白く、脇に置かれた機器類は、恐怖心を煽る。
「お母さん…。」
私の声が、リノリウムの床に落ちた。

温度も、脈動も感じられない程に弱い、母の手を握り締める。
「大丈夫だよね。」
声をかける。
「元気になるよね。」
答えはない。
「私、ここにいるから。」
傍らの椅子に座って、母の手を握り締めて。
私は、ただ、ひたすらに、母の顔を見つめている。
どれだけの時間が過ぎただろう。

『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
私は、いつのまにか、心の中で、いつもの呪文を唱えていた。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
何度も。
何度も何度も。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
母の顔を見つめながら、心の中で、ひたすらに祈っている。
まるで、敬虔などこかの信者のように。
私は、ただひたすらに繰り返した。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
何度も何度も。

何度も何度も。

気付いた時、母が私を見つめていた。
いつのまにか、夜が明けて、白い病室に、柔らかな朝の光が差し込んでいる。
「おはよう。」
母が、そう言って微笑んだ。
「おはよう、じゃないわよ。」
私はそう言って、苦笑した。
医師が来て、診察をして、そして告げた。
峠は、越えたのだった。

「可笑しくって。」
母は、私を見ながら、そう語りだした。
「なにが?」
「言わなくちゃ、と思って、帰ってきちゃった。」
「だから、なにがよ。」
「菜波が、あの呪文を覚えていたことが。」
私は、母の顔を見返した。口に出していただろうか。
「アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ。」
母は、そう言うと、ふふ、と声を出して笑った。

「小さい頃ね。菜波、痛いの痛いの飛んでいけ、が効かなかったのよ。」
母は、そう語りだした。
「母さん、困っちゃって。秘密の呪文を教えたの。」
いつのまにか、私の中に生まれていた呪文は、母がその昔、私に教えたものだったのだ。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
「まだ、私が若い頃にね。といっても、もう、きっかけなんて覚えてないけど。少なくとも、母さんにはね、効き目のある呪文だったの。泣き虫の菜波にも、良く効いたものよ。ふふ、とうに忘れてしまっていたのに、受け継がれてたのね。」
もしかしたら、私もおばあちゃんに教わったのかもしれないわねぇ。と母は、笑った。
「私にも、効力があったわよ。お母さんだって、呼び戻せちゃうんだもの。」
私は、おどけたようにそう言って見せた。


母は、あのあと、すっかり元気になった。
あれだけ何度も繰り返していたのだから、当然よ、と、気恥ずかしい私は子供のように拗ねてみせながらそう言う。
忙しい日々。
慌ただしい毎日。
それでも、充実した、楽しい、そんな毎日の中。
私は、今でも折につけ、無意識に、あの呪文を唱えている。
『アークトゥルテアンタルテ スピッリペルラ ディネッヴェガ』
何度も。
何度も。