君が信じるのならば

「昔、杞の国に、天が落ちて来るのではないかと心配した人がいるんだってさ。」
ヒワは、空を眺めながら、ぽつりとそう呟いた。
「杞の国って、どこさ。」
アトリは、同じように空を見上げて首を傾げた。
「さあ。天が落ちてこない時代の国だろ。」
ヒワは、揺らめいた空を見つめて、そう言った。

地球の温暖化が進み、まず南の島々が沈んだ。それから、徐々に、島国が、大陸が、海に呑まれていった。首脳陣や財界人を残して、人々は海底に居住を移した。丈夫な、新素材の厚い樹脂が、ぐるりとエリアを包む。歪な球体の中に、土を盛り、木々を植え、家を建て、そこに住んだ。地上と繋がる数本のチューブ以外、閉鎖した環境。循環は、すべて球体の内部で起きているといってもいい。小さくて大きな、バイオスフィア。
そんな世界の話。


「ヒワは、この空が落ちてくると思うの?」
「アトリは、落ちてこないとでも思っているのか?」
「落ちないよ。みんな言ってるもの。」
「みんな、の言うことなんてあてになるものか。誰も、本当のことなんて知らないくせに。」
アトリは、寝そべっていた身体を起こして、ヒワを見下ろして、再度首を傾げた。
「ヒワなら、知ってるの?本当のこと。」
ヒワも、身体を起こす。二人のいるのは、家畜小屋の屋根だ。臭気のもとになる汚物は、集められて、燃料になるから、昔のように臭くはない。家畜の鳴き声だけが、僅かに聞こえてくる。
「俺だって、知らないよ、本当のことなんて。でも、あれは、嘘ものの空だ。それは知ってる。」
「あれが空じゃないの?」

エリアで生まれてくる子供達は、新しい生活環境のことについてだけ学ぶ。かつて、海底だった場所が、陸地と呼ばれ、樹脂で覆われた天井が空と呼ばれた。空の向こうを横切るものは、魚で、空のこちらを横切るものが鳥。だが、その違いは、知らない。

「あれは、膜だよ。俺達のいるのは、海の底なんだ。海の上の、さらにさらに上に空があるんだって。おじいが。」
アトリは、頷いた。おじいは、二人の生まれるずっと前、このエリアの長だったことがある。あの、立ち入り禁止区内のチューブを通ったこともあるはずだ。
「じゃあ。空って、どんな感じ?」
「広かったって。青くて、広くて、色とりどりで、高くて、遠い。」
アトリは、眉を潜めた。青いのに、色とりどり。おじいは、何でも知っているけれど、そろそろ年だし、ボケて来たんだろうか。
「太陽も月も丸くて。」
「太陽と月が丸いの?」
太陽と月は知っている。空のはるか上に光っている、あれだ。丸くはない。ゆらゆらとして、歪んだり、分裂したりする。
「雲も雨もあるんだって。」
「雲?雨?なに、それ。わかんない。」
アトリは、もう一度寝転がった。遠くに見える空は、エリアの中央部にある搭からだと、すぐそこに見えることを、学校の見学授業で行った時に知った。その空の上を、大きな魚が飛んでいくのも見た。
でも、あれは空じゃない、とヒワは言う。じゃあ、空って何。
「俺もよく分からない。」
ヒワも、寝転んだ。

「本当に、何も知らないのね、ここの子供は。」
不意に、下の方から、そんな声が聞こえてきた。
「だれ?」
二人は驚いて身を起こす。ヒワが屋根の端まで歩いていって、声の主を探した。
小屋の横の樹に寄り掛かるようにして、ヒワを見上げたのは、同じ歳くらいの少女だった。
「誰だ、お前?」
「人に名前を尋ねる時は、まず自分が名乗るものよ。」
アトリが、遅れて、上から少女を見下ろす。見たことのない顔。その顔が二人を見上げている。静かな表情。
「ここじゃ、だれも、知らない人なんて、いないんだよ。」
そう言うと、少女は、ああ、そうか、と、合点がいったように頷いて、呟く。
「そうか、そういうところよね、ここ。じゃ、仕方ないわ。」
それから、再度二人を見上げて、肩を竦めて見せた。
「とりあえず、降りてこない?首が疲れたわ。」

少女の言うとおりにするかどうか、暫く渋ったヒワも、素直に降りていくアトリを見て、さらには、好奇心に勝てずに、降りていく。
少女は、二人を目の前にして、にっこりと作り笑いで微笑むと自己紹介をした。
「はじめまして。私は、セリン。EJ=セリン、よ。それで、あなた方は?」
「僕はアトリ。こっちは、ヒワ。きみ、だれ?」
アトリはそう自己紹介をした。ヒワは、黙っている。セリンは、そんな二人を交互に見つめると、おもむろに天を指差した。
「あなた方の言う、あの空の上から降りてきたのよ。」
ヒワもアトリも、目を見開いた。

そうね。どこから話そうかしら。あなた方は、あれが空じゃない、って言う話をしてたわね。そう、そのとおり。あれは海よ。いまや、この世界のほとんどを覆っている液体ね。私は、残った、わずかな土地に住んでいる、数少ない人間。
セリンは、そう切り出した。
「なんで、そんな人間が、降りてくる?あのチューブは、下の人間を呼ぶためのものだと思ってたけど。」
「おあいにく。あれは、別に乗る人を選んだりしないわよ。上の人間は、下に降りてきたがらないだけ。だって、閉塞的だし、なんか、息苦しいし、圧も違う気がするもの。同じように、ドームに覆われていても、感じが全然違うしね。」
「ドーム?」
アトリが、訊き返す。
「上もここも、似たようなものよ。通常環境では生きていけないくらい、世界は汚れちゃってる、ってことね。オゾン層が薄くなっちゃったから、紫外線防御のためのシールドがいるのよ、上も。」
「へえ。」
ヒワが、ぽつりと呟く。おじいに聞いて、ある程度知ってるつもりでいた。本来、ここの子供は、成績の優秀な者のみ、高等教育を受ける頃に、ようやく上の世界のことを習う。差別というのではない。上に住む人間の数は限られているから、そうでもしないと、不必要な好奇心は抱くだけ無駄だ。
ヒワは、たまたま、そういうことを知っている少年だ。まだ、高等教育を受けるには早いが、いずれ、上に行ってみたいと思っている。だから、おじいからも、雑談のようにして情報を得ているのだが、それでも、まだまだ知らないことが多い。
「ねえ、空は?」
アトリが、わくわくしながらセリンに訊ねる。上に行こうと思ったことはなかった。そもそも、このエリア以外の世界があることにあまり思いを馳せたことがない。だが、知ってしまえば、話は別だ。
「空、ねぇ。確かに、ここの天井よりは、青くて広くて、高くて遠いわね。」
セリンは、そう言いながら、上を見上げた。厚い合成樹脂は、透明度こそ高いが、それでも、はるか頭上にある水面を見極めることは難しい。そして、照っているはずの太陽も、光を弱め、分散し、拡散している。空なんて、全くここからでは想像もつかない。
「昔はもっと青かったんですって。今は、少し赤っぽいわね。地軸も変化したし、磁力もおかしくなってるから、頻繁にオーロラが見えるし、確かに色とりどりかも。」
先ほどまでとは違って、セリンは少ししんみりした口調でそう言った。
だから、人間は、そろそろ地球を見捨てようと思ってるんですって。
そんな言葉が喉元まで出たけれど、やめた。

「私はね、ここを見学に来たの。ここは、他のエリアと違って、よほどのことがない限り、循環機能で賄っているでしょう?」
酸素や水分は、周囲の海水から取り込むこともある。魚介類もだ。だが、概ね、確かにこの中だけで生活は可能だ。他の海底エリアは違う。同じように、人の出入りは少ないが、もう少し、陸上エリアとの連系も密だし、食料もここほど自給自足ではない。
「私の親は、宇宙開発事業に携わっているの。私もその一員として、こうやって、ここに見学に来たというわけ。」
「ね、宇宙って、何?」
アトリは、ヒワにこそっと耳打ちした。何でも、疑問を口にしていたら、セリンに呆れられるのではないかと思ったからだ。
だが、ヒワも、宇宙のことは知らない。この世界の外は、結局、ほとんど何も知らないのだ。
「太陽や月がある空間のことよ。この地球も、宇宙の中に位置してるの。んー、言葉で言っても難しいわね。そもそも、太陽と月もわかんないんだっけ…。かといって、ここ、端末機能も不十分だものね。ある意味、前時代的だわ。」
セリンは、考え込んだ。その表情は、同じくらいの女の子とは思えないほど大人びていて、アトリは少しどきどきした。
ヒワも、時折、こんな表情を見せる。格好良くて、見惚れてしまうけれど、自分一人、置いていかれているようで、ちょっぴり哀しい。そんな気がする。

「いいわ。二人とも、今夜、おうちを抜け出せる?」
暫く、考えたあとで、セリンはそう言うと、二人を見回した。ヒワもアトリも、すぐに頷く。本当は、夜、外に出るのは、怒られることだけれど、二人とも時折こっそり抜け出しては、ここに来て、寝そべってるから。
揺らめいた、海月のような月明かりの下で、二人で、こっそりおやつを食べながら、どうでもいいことを話す。彼ら二人だけの秘密。
「じゃ、また、夜に会いましょう。」
セリンは、にっこり微笑んで、身を翻すと、駆け去っていった。
「変なヤツ。」
ヒワがぼそりと言うと、アトリは首を傾げて、それから、ヒワを覗きこんだ。
「そう?可愛かったよ。ヒワはそう思わなかった?」
「変と可愛いは、対極じゃないよ。」
「じゃ、可愛かった?」
「しつっこいなぁ。もう、いいよ、帰ろう。」
ヒワは、ずんずんと歩き出した。その後ろ姿を見て、アトリは、素直じゃないなぁ、と呟いてにっこり笑うと、ヒワを追いかけていった。


その日の夜。
エリアの灯りも落とされ、ほとんど真っ暗な中を、人影が二つ走った。二つの影は、ぶつかるようにして、出会うと、大きく頷いて、同じ方向へと走り出す。
一本の木の前で、二人は立ち止まると、忍び笑いを洩らした。
「早いね。」
「そっちこそ。」
二人は、淡い光を放つガラス玉を置いて座った。ガラスの中は、水で満たされていて、燐光のようなほの青い光を発する魚が泳いでいる。振動を察知して光るこの魚は、暫くすると、光を弱めていった。辺りには、暗闇が広がる。
「遅いな、あいつ。」
「出てこられないのかも。」
「言い出したのは、あいつの方だよ。出て来れないわけがないさ。」
「とにかく、もうちょっと待ってみようよ。」
「もうちょっとだけな。」
その時だった。

ぽ、と音がしたような気がした。
本当は、無音だったのだけれども。
光が、辺りを包んで、一瞬にして、明るくなった。瞬間、二人は、夜の外出を見つかったのかと、身体を強張らせ、恐る恐る光のほうを向いて、さらに硬直した。
「あれ、なに?」
「…さあ。」
空に、大きな光があった。
光量は、そう強くなく、柔らかいが、辺りが暗い分、とても明るく感じられる。大きな、丸い丸い光。銀とも、金とも、蜂蜜色ともつかない、不思議な色合いの光が、二人の頭上に輝いている。
それは、ただの無味乾燥な丸い光球ではなく、濃淡で色塗られていた。
「あれ、セリンの言ってた、月かな…。」
アトリが、見上げたまま、呟く。ヒワも見上げたまま、答えた。
「月って、あんなかたちなのか?」
「だって、丸いよ。」
「丸いけど、なんかぼこぼこしてるじゃないか。」
「でも、綺麗だよ。」
ヒワは、その言葉に、昼間言われた言葉を言い返した。
「ぼこぼこと綺麗は対極かな…。まあ、…綺麗だけどさ。」
二人の上を、丸い月が音もなく滑っていく。

ゆっくりと、天井に沿って、東から西へ。
二人の上を。世界を照らして、滑っていく。
それは、エリア中心部の搭を横切り、そうして、西の端へと消えた。
ヒワもアトリも、知らず詰めていた息を吐くと、肩の力を抜いた。
「凄いね。」
アトリがヒワの方を向いて、にっこりと笑う。その顔は、月明かりに慣れた瞳では、判別付かなかったが、それでもヒワには微笑んでいるのだと分かった。
「凄かったな。」
ヒワも、素直に呟く。
「あれが、月、よ。偽物だけどね。」
そこに、声が降って来た。

昼間、二人が昇っていた、家畜小屋の上に、セリンがいた。
「いたのか。」
「いたわよ。それより、ど?月を見た感想は?」
「偽物なんだろ。」
セリンの声に、ヒワがふてくされて言う。本当は、感動したのだけれど、それを素直に言える性格じゃない。
「あなた方が信じてくれるなら、これは本当の月にだってなるわよ。つくりものだって、本当にする力がなけりゃつまらないわ。」
セリンは、ちょっと、むっとして言い返した。
「凄かった。」
アトリは、その点素直だ。それで、セリンも、少し恐縮して言いなおす。
「ありがと。でも、これ、ヒワが言ったように偽物なのよ。ここの拙い端末を使って、上の情報取り込んで、私の手で修正したやつだから。本物は、もっと綺麗かも。」
「ううん。これもとても綺麗だよ。上の世界には、こんなやつが毎晩浮かぶんだ?」
アトリは、嬉々として訊ねる。知らない世界の話を聞くのは、まるで、おじいにお伽話を話してもらうときのようにわくわくする。
「ちょーっと違うかな。月はね、自分では光らないの。太陽の光を浴びて光ってるのね。鏡みたいなもの。だから、間に地球が入ってしまうと、丸じゃなくなってしまうの。」
「ふうん?」
「口で説明しても、分かりづらいかもね。見せてあげられたらいいんだけど。」

「俺は、いずれ、上に行くよ。」
ヒワは、セリンを見上げて、そう言った。
「月も太陽も、他のいろんなものも、本物を見に行く。」
「歓迎するわ。私でよければ、いろんなところ案内してあげる。あなたが、びっくりする姿も見てみたいし。」
「見せないよ。」
「へぇ?」
二人のやりとりを、黙って聞いてたアトリは、ぽつり、と声を洩らした。
「僕は…。」
途端に、ヒワが、アトリの方に向き直る。
「アトリも、行くだろ?」
「え?」
「アトリがいなくちゃ、つまらないよ。本当の太陽も、本当の月も。本当の空も、本当の世界も。アトリと見たいよ、俺。そうでなくちゃ、そんなもの、ニセモノと変わらない。」
ヒワは、そう言って、アトリをじっと見つめた。やっぱり、暗いせいで、はっきりと顔は見えないけれど、本気でそう思ってるのは、今までの長い付き合いで分かる。
「うん。僕も、上に行くよ。」
ヒワは、大きく頷いて、セリンを見上げた。
「待っててね。案内してくれるんでしょ。約束ね?」
セリンも、上から大きく頷いて見せた。
「もちろんよ。そっちこそ、ちゃんと来なさいよ。」
三人の、密やかな笑い声が、辺りに満ちた。

「もっかいくらい、月見る?」
セリンは、下の二人にそう尋ねる。
「本当の月は、一日に二度も出るのか?」
「出ないわね。」
「じゃ、いい。信じれば、それだって本当の月だろ。」
「今度見るのは、上に上がってからだね。」
示し合わせたように、三人とも、頭上を見上げた。膜の上、揺らめく海水越しに、分散した月の形が揺れる。あれも、本当の月の光だけれど。
いつか、水越しではない、月を見に行こう。

先ほど見た、丸い丸い月を思い出して、目を閉じる。
瞼の上に降り注ぐ、月の光を浴びながら。