水の上
雨は今日も降り続いている。
* * *
   急に空が暗くなり雨が降り始めたときに、傘を持っていないと言った僕に、彼女が少しいらついたように見えたのは気のせいではないだろう。でも、それを隠そうとしているのもよく分かった。彼女と僕は、手近なビルに駆け込むことにした。テナントをひやかしている間に、雨はあがるにちがいない。
      ビルの中の店舗で傘を買えれば一番よかったのだが、あいにくそううまくはいかなかった。五、六階建てのビルの上の階のほとんどは、どうやら会社の事務所に使われているらしく、ビルの中で営業している店はほんのわずかだった。若い女性向けの服を売っていたり、雑貨屋であったり、とにかく僕には場違いな感じがした。 
      ビルの奥まったところにある展示物のコーナーに目を留めたのは彼女が先で、「行きましょう」と言うと、ハンカチでもう一度髪を押さえながら歩き出していた。わずかなスペースに数枚の絵が並べられ、買い物の途中で覗けるようになっていた。時間つぶしにもちょうどいい。 
      もちろん今は僕たちの他に人はおらず、展示スペースの横にある自動販売機の近くの椅子にも、誰も座っていなかった。 
      絵はぱっと見た感じどれもくすんだような色彩で描かれていて、もしかしたら彼女の目を引いたのは、それが理由かもしれない。 
      雑踏の中から見上げる形で描かれた空、異国の農場、花が咲き乱れる庭、何の変哲もない対象がカンバスに塗りこめられている。 
      僕がその一枚の前で立ち止まったのは、他の絵と一つだけ違ったところがあったからだ。 
    
       「歩いている 
少女は歩いている
水の上を
どこへ?」
   僕の背の高さぐらいの広さのカンバスに描かれているのは、水の上に浮かぶただの植物だった。あの有名なモネの作品で名前だけはよく知っている睡蓮の葉がそこにある。あのどこか仏壇を連想させる花もないし、少女の姿などもちろんあるわけもない。
 
  暗い夕暮の時間に、目の届く限りどこまでも広がる睡蓮の葉。それだけだ。 
    
    思わせぶりな詩をつけることで、何か複合的な効果を狙っているのかもしれないが、それだけとは思えなかった。その詩は事実を語っているようにしか、僕には思えなかったのだ。 
      後ろ姿の少女が、しばらく待っていれば僕の方を向いてくれるような気がした。それが錯覚に過ぎないことを僕はよく分かっていたのだけれど。 
    
    「ねえ、いつ雨あがるかな?」 
      暗い海の絵の前に立つ彼女の言葉に、僕は振り向いた。 
* * *
  それからだ。 
      僕の夢の中に少女はいつも現れた。 
      まだ幼い姿で、いつもすその長いワンピースを着ている。肩よりもはるかに長い栗色の髪はもちろん結われておらず、暗い夜の中でかすかな光を放っているようだった。かぼそい肩や腕はひどく白く、くつを履いていない足はそれでも前へと足を進めている。 
    
      少女がすでにこの世のものでないのは、すぐに知れた。 
      水の上をすべるように、少女は歩く。 
      僕は少女に手を差し伸べる。その手はいつも少女の体をすり抜ける。 
      後ろ姿のままの少女は、いつも僕の方を向いてはくれない。 
   *  *  *
   僕は少女を描いた。
     
    赤い屋根の古い屋敷にある庭。小さな池は緑で覆われている。まばゆいはずの光は、池の周りの木々にほとんどが遮られて、わずかな光を落とすだけだ。 
      水の上。緑の葉が影を落とす。 
      後ろ姿の少女。 
      あの時見た絵に描かれていたのは、緑の葉だけだったのに、僕の頭には次々とイメージが浮かんだ。 
      毎朝、少女は庭の近くを散歩するのだろう。そして、庭の緑に目をやり、少しだけ花を摘む。それは、少女の部屋を飾るに違いない。赤い屋根の屋敷は古めかしいが、由緒ある建物で多少の風雨にはびくともしない。 
      風の強い日、少女はいつものように庭をめぐる。それが少女の最後の散歩になってしまう。少女がなぜその池の近くまで歩み寄ったのかは分からない。何かを見つけたのかもしれないし、理由などないかもしれない。 
      ただ、少女は水にのまれ、帰って来なかった……。 
「最近、何をしてるの。全然連絡してくれないねー」 
    コンビニ袋を片手にした彼女に、僕の静寂はあっさりと破られた。カチャリとバッグに収まる鍵は、僕が彼女に渡したものだ。冷蔵庫を開ける音がした。 
  「なーに、それ?」 
    ジュースを片手に彼女は僕の手元を覗き込む。机の上に散乱した少女のスケッチの山を見回した。僕は一瞬ぎくりとした。彼女は自分の絵を描いてくれと、しつこく僕に言っていた時期があったのだ。
  「大学の課題?大変ね」 
    僕の返事は関係なかった。いつも彼女は、彼女の中にいる「僕」と会話をし、完結してしまう。「あなた、これ好きでしょう?」(別に好きじゃない)「この絵、私好きなんだ」(絵に関心もないくせに) 
  「分かっているなら、帰れよ」 
  「機嫌悪いんだー。冷蔵庫の中にご飯入れておいたから、食べたほうがいいよー」 
    栄養バランスを考えてだの、ご飯はしっかり食べたほうがいいだの、「僕」を心配する言葉が続いた。普段ならもっとやさしく対応できるはずなのに、今日は何故かいらいらがつのるばかりだった。 
  「じゃあ、帰る」 
    彼女はそう言って、バッグから鍵を取り出した。そして、机から少しも動かない僕を見てつぶやいた。  
  「雨の日に見た絵に似てるね。あの葉っぱばっかり描いてた風景画」 
    僕は自分の表情が変わったのをはっきりと知った。 
    彼女は愚かしい生き物だが、それでも僕の少女と出会うきっかけをくれた人間ではある。僕は出来るだけ優しく聞こえるように言った。 
  「鍵置いてけよ。もう来なくていい」 
    しばらくして彼女がドアを閉める音がした。郵便受けに鍵を投げ込む音。 
  
    僕は机の上のスケッチに目をやった。 
    そうして、僕は今日も少女に会いにいく。