ヒビクオト
  
 私は今、ここにいる。きっとあのとき貴女に出会ったから。 
  
     ◇ 
「せんせい?」 
鈴木真由は、小首をかしげながら隣に立っている人物を見上げた。 
栗色の柔らかそうな髪の毛はゆるいウェーブを描き、後ろで一つにまとめられている。すっきりした色白の顔。優しげな目元。子供ながらにいつもセンスがいいなと思える洋服。 
好きなところをあげるとキリがないけれど、一番は手だ。細く、すっと長い指先。 
それが奏でる美しい音楽。 
母親の趣味と意向で近所のピアノ教室に連れてこられたのは3ヶ月前。 
芹澤恵美子と名乗った女性がそこの講師だった。母親よりも若くて綺麗な人で、真由は見惚れた。 
そして彼女の弾くピアノを聴いて、真由はすっかり夢中になってしまった。頬が紅潮した。 
「まゆもピアノ、ひく!」 
その場で教室に通うことが決定した。 
「せんせいってば。どうしたの?」 
真由は再び尋ねた。 
土曜日の午後。ぴかぴかのグランドピアノの前に真由はいる。椅子を思い切り高くして座り、慣れない手つきで先週の復習をした直後である。 
いつもなら「良く出来たね」とすぐに褒めてくれる彼女が、今日に限ってなにやら微妙な表情で口をつぐんでいる。 
「えみこせんせいっ」 
「……あ。真由ちゃん、ごめんなさいね」 
三度目の呼びかけにようやく答えが返る。 
「良く出来てるわ。……あのね、真由ちゃん。これは真由ちゃんだから言うんだけど」 
真由は目を見開いた。先生に褒められると嬉しい。彼女に憧れてここに通い始めたのだから当然嬉しい。 
しかしその日の褒め言葉には続きがあった。 
もしかしたら怒られるのだろうか、自分は何か間違ったことをしてしまっただろうか、と真由は急に不安になった。 
「真由ちゃんは本当に先生ビックリしちゃうくらい飲み込みが早くてすごいなと思っているの。だから、今日はもっと素敵に弾くためにアドバイスを一つするね」 
「……うん」 
怒られるのではないらしいと知り、真由は少し不思議に思いながらも大きく頷いた。 
ポーン! 
「わっ!」 
真由の目の前のドの音が押された。大きな音に思わず声が出た。 
「驚いた?」 
長い指先が離れて、先生はにこりと笑いかける。 
真由はがくがくと首を振った。 
「まだ真由ちゃんは小さいから指の力がないし、無理をすると骨にも悪いから今まで言わなかったんだけどね、ピアノっていうのはこれくらい大きな音も出せるのよ」 
ポーン。 
今度は同じドでも消え失せそうなくらい小さい音だ。 
「ピアノっていうのはそういう楽器なの。イタリア語でピアノフォルテ、それを省略してピアノって呼んでいるのよ」 
「ピアノフォルテ?」 
「そう。ピアノっていうのは今みたいなすごく小さな音のことで、フォルテっていうのはその前の大きな音のこと。どちらも自由に奏でることが出来るからピアノフォルテっていうのね。ピアノだけじゃないのよ本当は」 
「……。うん」 
真由は神妙な顔で頷いた。 
「あっ、ごめんね。難しい話しちゃったわね。さ、今日のお勉強しようか!」 
      ◇ 
今思うと、四歳児に言うことじゃないのが良く分かる。 
それでも、あのとき言われたことは私の今にしっかりと息づいている。 
ピアノフォルテ。自由自在に奏で、広がる世界をもっと見たくて、私はここまできた。 
音大に入るのは実力以外にほとんど賄賂みたいなお金まで沢山必要で、正直華やかなだけの世界ではないことも知ってしまった。 
だけど、まだまだこれからだ。 
この音がやっぱり大好きだから。     ――fin.