訪いを待つ女神
「暇。」
「暇よ。」
「暇だわ。」
「あー、もう、暇だってばっ!!」
静かな湖畔に声が響いた。玲瓏たる声の持ち主以外、ここには誰もいない。
誰にともなく不満をぶつけた、声の主は、盛大な溜息をついてぼやく。
「…暇よぅ。」
『昔々、あるところに、それは綺麗な泉がありました。そこは、朝夕の一瞬にしか出来ない天の階と、蔦の梯子、それから、大樹が時折繋ぐ洞のトンネルからしか辿り着く事の出来ない泉でした。
そこでは女神が一人、旅人が来るのを待っています。旅人の願いを叶えるためです。願いは、何でも叶えました。王様に攫われた娘を取り返し、金銀財宝を与え、死んでしまった息子を取り戻しました。
ですが、泉に辿り着くには、大変な苦労がありました。多くの旅人は辿り着けずに、半ばで挫折し、息絶え、引き返しました。
今では、もう、誰も泉の女神のことを知りません。
それでも、今も女神は、そこで旅人の訪れを待っているのです。』
「誰か、来なさいよ。」
女神は、ぶう、と端正な顔を膨らませると、泉の上に寝そべった。
辺りは、神々しさと清々しさと、そして静寂を保つ森だ。時折、鳥が囀り、時に鹿や兎が顔を見せ、一角獣や天馬が水を飲みに来るが、彼らは誰も人語を解さない。いや、理解はするが、口に出来ない。畢竟、女神は独り言を呟く羽目になる。
「昔は良かったわ。人間は、ちょくちょくやってきて、妙な願い事を口にしたし、彼らの旅を助ける妖精がいたし、こっそり他の神様が遊びにいらしていたし。今じゃ、どう?人間は、だぁれも来ない。妖精も自力でここまでは来られない。神様たちの多くも、住処を失って天にお戻りになったというじゃない。」
風の噂、風が運んでくる情報だけが、女神と外界を繋ぐ綱だ。時折、女神も、風に乗せて、昔話を運ぶ。
あたしはまだ待ってるのよ、と。
でも、誰も来ない。
「つまんなーい。」
駄々を捏ねる子供のように、女神は寝そべったまま足をばたばたと動かした。薄衣から伸びる美しい脚を惜しげもなく晒して、水を跳ね飛ばした。
どうせ、誰も見る者はない。
「世の中には、誰もいない山の奥で、木が倒れたら、その音は存在するのか、っていう話があるらしいわ。なんか、人間が、小難しいことを言ってるわ、くらいで、あんまり覚えてないけど、もし、その音は存在しないというなら、あたしはどうなのかしら。」
女神は、森の中、泉の上だけに広がる青空を見上げながら呟いた。それこそ、誰も聞いてなくても。
「あたしは、誰もいない山の奥に存在する、誰かのための女神。この泉は、誰かを待つための女神のための、泉。流れ込まないし、流れ出ない、収束した、あたしのためだけの泉。」
じゃぼ、と音を立てて、水を蹴り上げる。
「誰も訪れないまま、何百年も過ぎて。あたしは、じゃあ、ここにいるのかしら。いないのかしら。」
女神は、自己存在の有無を呟く。
あなたはここにいるよ、と誰かに言って欲しくて、それを風に乗せて運ぶ。
寂しいし、哀しいし、退屈なのだ。
いっそ、ここを去ってしまえばいいのだろうけど、そうしてしまうと、本当に自分の存在意義を見失ってしまいそうで、それは出来ない。
かくして、ここで、今日も女神は人間の訪れを待つ。
「あー、退屈。暇。つまんない。」
今日も、女神はぼやく。流れ落ちる長い髪を指に絡めて、くるくると捻る。泉の縁に腰掛けて、足先で蹴上げた水を水晶に変えてみる。飛んできた蝶を真似て、鮮やかな色の衣装を身につけてみる。
それでも、退屈は紛れない。
「いてっ。」
その声がするまでは。
あまりに長いこと、自分以外の声を聞いていなかったから、迷い込んだ獣かと思った。
あまりに長い間、誰かを待ちわびていたから、これが幻聴というものか、と思った。
頭をさすりながら出てきた、少年の姿を見るまでは。
少年は、不思議な格好をしていた。見たこともない服装。手のひらの中でぱっくり開いた銀色の小箱。何の革で出来ているのか判らない、やけにぴかぴかした袋。
「電波届かないじゃん。」
少年は呟いて、開いた小箱を閉じると、泉の方に歩いてきた。きょろきょろと物珍しげに辺りを見回している。
「都内の公園、つうわけでもなさそうだし。」
女神は、こほん、と咳払いをしてみた。少年の目が、女神を向く。しげしげと眺めて、軽く溜息をついた。
「ここが日本なら、俺、お姉さんを通報してもいいところだと思う。」
「は?」
久々の人間との会話の第一声にしては、間抜けた言葉が出たが、仕方がない。
「わいせつ物陳列罪?あんまり、露出度の高い服はどうかと思うよ。俺の好みじゃないし。」
年端も行かない少年に、えらそうに言われたくないわ。あたしの美貌に対して、何てこと言うのかしら、この子。
そう思ったが、口にはしない。こうみえても、彼は、苦難を乗り越えてきた旅人なのだ。
「あなたの願いを叶えましょう。何でも、お言いなさい。」
重々しく、荘厳な響きを心がけて、女神はそう言った。
「は?なにそれ?お姉さん、頭もちょっと、イっちゃってる人?」
少年は、鼻にかけた丸い硝子の枠を指で修正すると、怪訝そうな顔で女神を見つめる。
「は?なにそれ?は、こっちの台詞だわ。」
おかげで、女神も地が出てしまった。
「あんた、あたしに会いに来たんじゃないの?」
「はあ?」
ちぴぴ、と頭上で鳥が鳴く。良い天気の昼下がり。
女神は、自己紹介をした。記憶にある限り、こんなことは初めてだ。
少年は、気のない様子で聞き終わると、礼儀として、という程度に経緯を説明した。
「塾が始まるまでの間、誰にも邪魔されずに本を読もうと思って、神社の御神木の陰にいた。神木には、大きな穴が開いてて、そこに入ったら誰にも気付かれないんだ。うっかりそこで眠っちゃって、気付いたらここ。」
「へえ、そう。」
別に苦労して辿り着いたわけでもないのね。人恋しすぎて、あたしが招んじゃったのかしら。
「そろそろ塾の時間になると思うんだけど、そもそもこれが、良くある異世界の話なら、ちょっと時空軸も変わってるんだろうな。俺のいた時間は夕方だったから。」
知らないわ、そんなこと。
女神は、ぷ、と頬を膨らませた。
ありがたがらない。
願いを言わない。
冷静だし、なんか、妙に慣れてる。
たかだか10かそこらのくせして、あたしを手玉に取ろうなんて、生意気。
「戻してあげてもいいわよ。その前に、願い事を仰いな。」
「俺、高飛車な大人嫌いなんだよね。」
即答。
思わず、女神も、ぎ、と少年を睨みつける。
「あたしも、小生意気な子供は嫌い。」
「あ、そ。」
むうう、と女神が頬をいっぱいに膨らませて黙り込んだのを見て、少年は、く、と喉の奥で笑った。やけに大人びた仕草。
でも、笑顔は、子供の陽気さが滲んでる。
「悪いけど、叶えてもらうほどの願いって、ないんだよ。」
「え?」
「有名進学校に入るのは希望だけど、自分の学力は分かってるし、余裕だ。それに、そんなもの叶えてもらっても、それ以降が困るだけだろ。俺は、自分の力で入るし、自分の力で伸し上がる。新しいパソコンも欲しいけど、金なんて、苦労せずに手に入れたって、使い方誤ることが多い。それに、手に入れていく過程が楽しいじゃん、金儲けなんてものは。つか、手に入れる過程がなくちゃ、なんだって面白くないね。」
「じゃあ、あたしの存在意義はどうなっちゃうの。」
泉の上に浮遊して、少年を見下ろしていた女神は、すとん、と落ちて、水面に座り込んだ。願い事を叶えられない願いの女神なんて、山の中の、倒木の音の存在よりもあやふやなものでしかない。
「そんなに誰かの願い事を叶えたいなら、自分の願いでも叶えたら?」
少年が、気の毒そうに、そうして、面白そうにそう言う。
「あたしの願いは叶ったわ。誰か来てくれないかな、て、ずっと思ってたんだもの。ずっとよ、ずぅっと。」
澄んだ水音を立てて、涙が湖面に吸い込まれる。
暇で。暇で暇で暇で。
誰かの訪いをずっと待ってた。
その結果がこれなんて。
「仕方ないなぁ。」
少年は大袈裟な溜息をついた。
「じゃ、こうしよう。」
涙目で自分を見つめる女神に、少年は人差し指を突き立てて、説明しだした。
「俺は、若いし、意欲もある、前途有望な少年で、現代社会の荒波を越えて行ける、えーと気概もばっちりだ。見てのとおり顔もいいし、頭もいいし、生憎とスポーツもそれなり。人も羨む人間なんだよね。」
「うっわー、えらそう。」
女神のぼやきを無視して、さらに続ける。
「ただ、環境は良くない。どこもかしこも賑やか過ぎて、落ち着かないんだ。もちろん、社会性もばっちりな俺はそんなこと、あくび、じゃなくて、おくびにもださないけど、たまにはゆっくりしたい。」
「大変そうね、うん。」
賑やかなのはちょっと羨ましいけど。
「だからさ、俺の気の向いた時に、ここを俺の休憩場所として使わせる、てのはどう?」
「それが願い事なの?」
「そう。別に交渉でもいいよ。対価として、金を支払ってもいいし、何かものと交換でもいい。ここの話を広めてやってもいいし。」
ぱちん、と瞬きをして、女神は目に残っていた涙を振り払った。そして、微笑む。
「分かったわ。それを願い事として、叶えましょう。」
「じゃ、そういうことで、成立な。」
「ただし。」
女神は一つ付け加えた。先ほど少年がしたように、人差し指を立てて見せる。
「ただし?」
少年が面白そうな顔で見返した。
「たまには、あたしの話し相手をして。たまにでいいわ。あたしは、ずっと話し相手が欲しかったの。」
少年は、に、と笑った。いたずらっ子の表情は、ちゃんと子供っぽかった。
「了解。」
空からの階段、蔦が作る梯子、大木の陰の洞からしか辿り着けない、その泉には、女神が住んでいる。
暖かい昼下がりには、そこに少年の姿を見ることが出来る。
二人は、たまに話して、たまに笑って、たまにケンカする。
それが、願いの泉。