さよならのカウントダウン
  
 透が帰ってきた。 
当たり前のような顔で。 
「ただいま。」 
そう言って。 
なんてタイミングで。 
「ただいまじゃないよ。ばかたれ。」 
あたしのぼやきに、飄々とした顔をしてみせる。それもいつもの顔だ。怒られると思ってない顔。 
その顔が、あたしの背後を見て、軽く傾げられる。 
「あれ?引越し?」 
ダンボールが並ぶリビング。 
「結婚するのよ。三日後に。」 
あたしは、透にそう言ってやった。 
「なんで?」 
「なんで、じゃないわ。」 
きょとんとした顔の透を見て、あたしは、思わず笑い出した。 
透は、あたしの恋人だった。奔放で、わがままで、自由で、強い。自分の夢を追いかけて、追いかけすぎて、あたしのことなんかきっと忘れてしまうような人だ。 
「だって、俺、お前にプロポーズしたじゃん。」 
鼻の横を掻きながら、こちらを見る仕草は、以前のまま。 
でも。 
「返事聞く前に出て行ったのはそっちでしょ。あれから、何年経ったと思ってるの。」 
あれから、もう七年が経つ。 
「相手は?どんな男?」 
「透も知ってる。真人。」 
「あいつか。昔から、花緒のこと好きだったもんな。」 
「何だ、知ってたのか。」 
「知ってるさ。花緒のことなんて。」 
嘘つき。 
「で、今夜は来ないのか、真人は。」 
「来ない。三日間、お互い接触せずに過ごそうって決めてるから。」 
あたしがそう言うと、透は、凄く不審な顔をした。 
「なんだ、それ?」 
「本当に、この相手で良いのか、二人とも、距離を置いて、最後の最後に確かめるんだよ。」 
「なんでそんなことをするんだ?」 
さも不思議そうに、そして、他人事のように透が訊くのが可笑しくて、あたしは、笑いながら、透を睨みつける。 
「あんたがいたからよ、透。」 
「失踪宣告って知ってる?」 
「なんとなく。」 
「あたしはね、あんたが毎回出て行くたびに決めてた。七年。七年が限度。あんたが生きてようが死んでようが、七年。それで区切りをつけようって。」 
「うん。」 
「でもね、七年って長いんだよ。思うわけ。なんで、そこまでして待ってやらなきゃならないのかな、って。」 
透は、ふんふんと頷きながら、キッチンへ立って、流しの下の扉を開ける。ずっと不在だったくせに、ここはあたしの部屋なのに、なんて我が物顔。 
そこにあるのは、透の好きな、ジンだ。 
グラスを取り出し、氷を投げ入れると、透は、あたしも真人も苦手なその酒の封を切って、グラスに注ぎいれる。長い指で掻き混ぜたそれを一気に流し込んでから、あたしを見た。 
「で?」 
「なにが。」 
「七年は過ぎたのか?」 
あたしは、肩を竦めて見せる。 
「三日後が、七年目よ。」 
「なんだ、じゃ、問題ないじゃないか。」 
「なにがよ。」 
「まだ、間に合うってことだろ。」 
しゃあしゃあとそう言って笑う透に、あたしも笑う。 
透だ。 
ちっとも変わらない。 
「馬鹿言わないで。あたしは七年待つと決めたんじゃないの。七年経ったら、どうであろうと、すっぱり忘れてしまおう、と思ってただけよ。それを、今頃帰ってきて、よくもまあ。」 
「いいじゃないか、帰って来たぞ?」 
「生憎だけど。あたしがプロポーズされて承諾したのは、真人だよ。」 
ふん、と鼻を鳴らした透は、グラスをテーブルの上に置いて、あたしに近付いた。指を三本立てて見せる。 
「花緒、お前まだ、独身だろ。この三日、おれにくれよ。それから決めりゃあいいじゃないか。」 
「何を決めるって言うのよ。」 
「結婚さ。」 
困ったことに、そんなことを言って、さっさと奥の部屋へと歩いて行く透を見ながら、あたしはちっとも困ってないのだ。 
あたしは溜息をついて、透の後に付いていった。 
あと二日。 
「相変わらず、寝坊だな、花緒は。」 
翌朝目覚めると、透が驚くほど近距離で、あたしを見下ろしていた。もうあたしは、あの頃の若さなんて持っていないから、肌の衰えも、疲れも、透に分かってしまっただろう。それでも、笑いながら起き上がる。 
「朝食の用意がしてございますよ、奥様。」 
大仰な台詞と仕草で、覚醒しきらないあたしの腕を引いて立ち上がらせると、リビングへと向かう。ダンボールだらけのリビングの中央に、朝食が並んでいた。 
トーストと、牛乳と、くし切りのオレンジ。 
「パン焼いて、オレンジを切っただけじゃないの。ちっとも、上達してないのね。」 
「俺からすりゃ、これも立派な朝食だぞ。」 
「はいはい。」 
「それで、今日は何をするの。」 
「なにしようか。」 
「なあに、それ。あと二日よ。」 
「なんだ、花緒。お前、結婚、止めて欲しいのか?」 
「べつに。」 
太陽は高く昇って、部屋の中は、程よくあたたかい。あたしはたっぷりの氷の入ったミントジュレップを、透はマティーニを飲みながら、窓から見える景色をぼんやりと眺めている。 
真人は、今頃、何をしてるんだろうか。 
「真人は、何をしてるんだろうな。」 
まるで、心が読めたかのように、透がそう言う。どこも似てないのに、こういう時に思考回路が同じになるのは、付き合いが長かったからだろうか。 
昔は何でも言葉にした。 
一緒に観た映画や一緒に食べた食事、通りすがりの人やビル、一人で読んだ本や、今日あった出来事。怒っているということ、哀しんでいるということ。 
大好きだということ。 
だからこそ、言えなかった言葉もある。 
行かないで。 
透の夢を知っていた。追いかける姿勢を知っていた。だからこそ、言えなかった。 
言えたなら変わっていたかもしれない。 
けれど、言ってもやはり、行ってしまっただろう、透は。 
それもまた、よく分かっていたから、言えなかったのだ。 
「真人に会ってこようかな。」 
結局、二人でひたすら酒を飲んで、日暮れた頃、透がそう言いだした。 
「悪趣味よ。」 
「なんでさ。俺の恋人と結婚しようってヤツだぞ。喧嘩のひとつも売ってくるべきだろ。」 
「なんで喧嘩なの。あんたが帰ってこないのが悪いんだから。真人に迷惑かけないで。」 
「花緒はあいつの味方か?」 
拗ねた言い方が可笑しい。 
「味方も何も。いい?あたしは、明後日には真人と結婚する予定なの。割り込んできたのは、あんたの方でしょうが。」 
「割り込んだのは真人だろ。」 
「…あんたが、帰ってきてたら。ううん。連絡のひとつも寄越していたら、そうかもしれないけど。」 
出て行ってから二年で、消息が断たれた。それっきり。ほんとうにそれっきり。 
今になって帰って来たって、もう遅い。 
アルコールのせいで、少し泣けた。 
静かにそれを見ていた透は、 
「寝るか?」 
と、一言そう言って、グラスに残った液体を飲み干した。そうして、座り込んだままのあたしに近付いて、見つめてくる。 
説明できない苦しさに目を閉じれば、乾きかけた涙の筋に、透の唇の感触がした。 
あと一日。 
七年経つのに、あたしはまだ覚えていた。 
透の匂いも、仕草も、温度も、癖も。 
目を閉じたままでも、髪も唇も指も肌も全部、それが透のものだと分かった。 
それは、本当に自然にあたしの中に押し入ってきて、あっという間にあたしを満たしてしまう。 
そして、満たし尽くすだけじゃ足りなくて、あたしから、いろんなものを引き出してしまう。 
声も、涙も、愛しく思う心も、感情の震えも、身体中を駆け抜けていくいろんなものも。 
あたしはそれで、ああ、透だ、と思った。 
本当に自然に、あっという間に、あたしを乱してしまうもの。 
それが、透なんだ、と。 
全身で、透を感じながら、そして、少しだけ、真人のことを思った。 
優しくて、穏やかな、海にたゆたってるような、真人とのことを。 
あっという間に、透に飲み込まれてしまったけれど。 
翌朝は、痛いくらいの朝日に起こされた。 
カーテンの開いた窓から、高く昇った太陽が射し込んで来る。 
あたしは、透の腕の中にいた。身じろぎすると、透は驚くほどの速さで眼を開けてあたしを抱きしめると、キスをした。 
「おはよう、花緒。」 
「おはようじゃないよ。もう少し寝かせてよ。」 
あたしが文句を言うと、透は寝起きの低く掠れた声で笑った。 
「花緒が先に起きたんだろ。」 
「あんたが、あんなことするからよ。あいかわらずカーテン開けて寝るのが好きね。」 
透は、いつでも、いつのまにかカーテンを開けてしまうから、夏は眩しさで、冬は寒さで、よく目が醒めた。そうして、目覚めた時には大抵透は起きて行動していた。時折、あたしの方が早く目覚めた時には、
今朝のようにあっという間に覚醒して、あたしを抱き寄せるのだった。 
「こんな街でも、やっぱり空は綺麗だな。」 
あたしの文句を無視して、透は仰向けになると窓を見た。あたしも、その胸の上に頭を置いて、空を見上げた。空は晴れ上がって、秋空特有の青色を見せている。 
「花緒がいる街だから、空も綺麗だ。」 
「くっさいセリフを、思い出したように吐かないでよ。」 
あたしのいない街の空を見に、飛び出したのはどこの誰。 
続けるかどうか迷った台詞は、抱きしめられた腕の中で、留められてしまった。あたしは大きく息を吐いて、身体の下にある透を抱きしめ返すと、顔を埋めて、それを忘れることにした。 
どちらから言い出したのでもなく、あたしたちは、一日中ベッドの中にいた。 
カーテンを開け放したままの部屋で、健康的な太陽の光を浴びながら、運動のように、儀式のように、挨拶のように、習慣のように、触れ合い、交わり合い、混ざり合った。 
語るべきことなんか、いざとなってみれば、何一つなかったし、埋めるべき過去なんてものも、やっぱり、存在しなかった。 
本当はそこから目を逸らしていただけだとしても、真実みたいなものなんて、あたしには不要なものだった。透にもきっと。 
窓の外から太陽が消えて、夕暮れが押し寄せてくる。怖いくらいの夕焼けが、部屋の中にまで溢れかえって、あたしたちは、ぼんやりと外を見ている。 
「本当に、一度も連絡も何も寄越さないんだな。」 
「真人のこと?そういう取り決めだからいいのよ。それに、あんたが言う筋合いじゃないわ。何年ものあいだ、連絡も何も寄越さなかったのは自分じゃない。」 
「そうだなぁ。」 
遠いビルの広告塔に反射する夕日を見つめながら、透は黙った。 
分かっていた筈の言葉を、あたしは口にしてみた。 
「ねぇ、行くな、って言ってたら、行かなかった?」 
「それでも、行っただろうな。」 
即答で返す透に、あたしは笑った。 
あの時、あたしも、止める手立ても、咎める言葉も、とめどなくあふれそうな涙も持たなかったのだから、おあいこなのだ。 
「そっちこそ、もっと早くにプロポーズしてたら、一緒に来たか?」 
透が訊いてきた。お互いに、七年前になんて戻れないことを知っていての質問だった。 
「それでも、行かなかったかもしれないね。」 
だから、あたしも笑顔で即答した。 
潔く落ちていった太陽が消え、呆気なく暗くなっていく部屋の中で、あたしたちは笑うと、静かにキスをした。 
明日にはもう。 
次の朝。 
カーテンが開かれたままの部屋で、あたしは目を覚ました。 
今日も秋晴れの空が、あたしを見下ろしている。 
透はいなかった。 
ベッドを抜け出して、あたしはキッチンへと向かう。冷蔵庫の中から、ミネラルウォーターを取り出して、飲みながら、流しの下の扉に目をやった。それから、窓の外の景色を眺めた。 
太陽は、ちょうどあたしと同じ高さにいて、手にしていたボトルの中で、くすぐったそうに砕けていく。 
いつものように顔を洗い、いつものように朝食を取り、いつものように身支度を整えて、あたしは家を出た。 
エントランスの郵便受けには、三日間の新聞が詰め込まれている。 
あたしは無造作にそれを引っこ抜くと、手にして目を閉じた。 
もしかすると、これには、四日前、中東でテロに巻き込まれた東洋人の「トール」の安否の続報が書かれているのかもしれない。身元も判明したかもしれない。 
でも。 
あたしは、目を閉じたまま、静かに呼吸をした。そのまま、ゆっくりと、数を数える。 
胸の中に、何かを決断するときには、後戻りできないよう後悔しないよう、ゆっくりと数える間に心を固めるんだ、と教えてくれた声が聞こえる。 
「3、2、1、0。」 
目を開ける。 
エントランスの向こうには、朝の光が眩しい。 
ここからはまだ見えないけれど、きっと、今日もこの街の空は綺麗だ。 
手にしたそれを、エントランスのゴミ箱に投げ捨てた。 
三日分の重さは、鈍い音を立てながら、あっけなく銀色の中に飲み込まれる。 
そしてあたしは歩き出す。 
答えの方へと。