夏の記憶

 

 その館のことを知らない小学生なんて、当時はいなかったに違いない。
 僕ももちろん知っていたし、夏休みになると、誰それの兄ちゃんがそこに忍び込んだだの、女の子が見学中に行方不明になっただの、あやしげなうわさでいっぱいだったのだ。
 でも、今考えてみると、小さな「家」と呼ぶほうがいい建物だったようにも思う。背の高い木々に囲まれていたために、暗い印象を受けたけれど、よく考えてみるとちっぽけな大きさでしかなかったはずだ。
 そこは、たくさんの人形が展示されていて、「人形館」というたいそうな名前がついていた。小学生のころ、僕も両親に連れられて行ったことがあって、小さな女の子の人形から等身大の人形まで、実に様々なサイズの人形が「展示」されているのを見たことがある。
 ふつう人形の展示といったら、棚に並べたり、ガラスケースに入れたりと、とにかく飾るもののように思われるが、「人形館」では、部屋の中の椅子に座って読書をしていたり、料理をしているのか鍋をかき混ぜるポーズをしていたりと、とにかく薄気味悪かったのだ。遠くから見ている分にはまだいい。しかし、触れられるほど近くでそれを見ると、はっきり言って怖い。まるで、時間の止まった他人の世界にうっかり足を踏み入れてしまった感じといったら、わかってもらえるだろうか。
 だから、僕にとって「人形館」は鬼門だったのだ。

* * *

 あの日、僕は友達と一日中遊んでいた。長い夏休みの最初の日で、ひどく暑かった記憶がある。
 友達どうしで話しているうちに、どうして人形館に夜中忍び込もうという話になったのかは分からない。ただ、はっきりと覚えているのは、僕がそこに行ったことがあるのを知って、みんながその冒険に余計乗り気になったことだ。特に吉田が「お前だけずりぃ」とうるさかった。
 結局僕らは、夏休みの宿題をみんなでするために、藤田の家に集まるとウソをついて親に外泊許可をもらった。藤田の家は親がたいてい出張でいないので、口実に使われることが多かった。もちろん、今思えば親たちは勉強での集まりではないと感づいていただろうけれど。
 一応夏休みの宿題を少しだけ片付けて、僕らは人形館へと向けて出発した。
 ペンチやドライバー、ロープに非常食など、僕たちは色々なものをバッグに入れて下準備したのだけれど、みんなの関心を一番引いたのが、藤田が気をきかせて僕たちにくれたペンライトだった。わざわざこのために買ったらしく、一人一人色が違う。ちなみに僕の色は、グリーンだった。
 どうしようもなく困ったときには、これを振り回して助けを呼べ!誰がどこにいるのかも、分かる!というのが藤田の言い分だった。

 夜中に見る人形館は、電気が消えているせいもあって、昼間よりもずっと恐ろしげに見えた。しかし、今さら引き返すわけにもいかない。僕たちはわずかな星明りをたよりに、閉まっていない窓を探した。
 ほとんどの部屋に窓があると僕がいったとき、一つぐらいは開いている窓があるはずだと主張したのはやっぱり藤田で、窓が開かない場合は、ガラスを割って侵入する計画になっていた。
 窓から入れたのは本当によかったと、僕は安堵したものだ。
 僕たちはペンライトを薄い布で覆い、出来るだけ光がもれないようにして、館の中に侵入した。もちろん、先頭に立たされたのは僕で、最後尾が中村だった。あいつが一番後ろにいれば、仲間がばらける心配はないだろう。そうして、昼間でも気味の悪い、人形だらけの部屋の中を僕は一つずつ案内するはめになった。
 居間、台所、お手洗い、寝室、子ども部屋……後ろのやつらのびくびくした様子を感じて、逆に僕は落ち着いてきた。特におびえている様子が伝わってくるのが、意外なことに吉田で、僕はどこに何の人形が置いてあるのかあらかじめ分かっているので、あまり恐怖感を感じなかったのだ。
 それに、人形の気配と人間の気配の違いは、はっきりと分かる。
 みんなの様子をうかがいながら館の中を一巡りして、帰ろうとしたときだ。僕のすぐ後ろにいた西野が、急に立ち止まって何かをがたがたさせはじめた。
 僕が戻って見てみると、物置らしい扉を開けようとしている。
(おい、何してるんだ。帰るぞ!)
 僕がささやくと、何だか気になってと西野が言った。
 ガチャリと音を響かせて、扉が開く。
 5色の光を向けてみると、中には……。
(ひいっ)
 誰かの息をのむ音がした。狭い物置の中に放置されているといった感じで、人形が数体置かれていたのだ。予備のものらしかった。きちんと服を着ているのに、手足の向きが奇妙なところが気持ち悪い。大人の人形、子どもの人形、赤ちゃんの人形……。
(帰ろう)
 僕がささやいたとき、

ボーン、ボーン、ボーン……。

 今ではめったに聞くことのできない、古びた振り子時計の音が静寂を破った。
僕たちは、息を殺して、我先に部屋から飛び出していた。

* * *

 弟と家に帰ると、僕はめちゃめちゃに説教をされた。冒険の翌日のことだ。
人形館に忍び込んだことはすっかりばれていて、親たちはそこの持ち主に謝りに行くはめになったらしい。
 外出禁止令も出されて、僕と弟はテレビをぼんやりと見ていた。今日は面白い番組がない。

「いいなー、それ、僕も欲しい」
 また始まった。夕食までもう少し間があった。いつもなら弟は母さんにまとわりついている時間のはずだが、今日はお目当てのものあるらしく、僕のそばから離れない。弟は僕が持っているものを、とにかく欲しがる傾向がある。そして、もらえないとなると、母さんに泣きつくのだ。せこいったらありゃしない。だいたい一緒に人形館に行ったのに、弟だけ怒られないなんてずるすぎる。
 ちょうど電話が鳴って、僕は話をうやむやにしたまま電話に出た。
「おー!どうしたんだよ?」
 電話をかけてきたのは、さっきまで一緒にいた藤田だった。電話口でなにかもごもごとしゃべっているのが聞こえてくる。よほど「人形館」が怖かったのだろうか。
 何度か話しかけると、藤田は思いがけないことを言った。
「お前に渡したの、何色だったけ?」
 ペンライトを返せということだろうか。僕は少しだけむっとした。藤田はそんなけちなことを言うヤツではないとは分かっていたのだけれど。
「俺が持っているの紫なんだよ」
「だから、何なんだよ!」
「俺さあ、みんなに渡すときに、全員違う色のライトだ。ちょうど5色あってよかったって言ったんだ」
僕もそれは覚えていた。何ておおげさなやつ、5人だからといって戦隊ものじゃないんだから……って。
「でも、6人いたよな、帰るときにさあ。お前ペンライト渡すときに落としただろう?だから、お前に渡したのは覚えているんだよなあ」
 僕は弟がいるはずの部屋の方を振り返った。
 まさか、そんなことは。

「お前さあ、ちょっと疲れてんだよ。考えすぎだって。ほら、俺のあとを弟追っかけてきたんだしさ」
 僕は出来るだけ、明るい調子で言った。まるで、それが本当のことのように。
「そうだったかな……そうだよな、俺たちが窓から入っていくとき、お前の弟がついてきたんだっけな」
 藤田はしばらくそうつぶやいたあと、俺のせいで人形館に行ったのがばれてごめんと謝った。
 いいやつだと思う。ただ、今の電話はかけてきてほしくなかった。

 電話を終えて居間に戻ってくると、弟が母さんと話をしているのが見えた。
 母さんの台詞も想像がつく。まるで、何度も聞いたことがあるように。
「お兄ちゃんでしょう?それぐらい譲ってあげなさい」
 僕はペンライトを持っていない「弟」を見た。
「じゃあ、やるよ」
「わあー、兄ちゃんありがとう。僕だけもらえなかったんだもん」

* * *

 その日から、「弟」は僕たちのそばにいる。