丸い月
 「宵闇にとろりとろける月を食ふ」 
 
  わずかに紫がかった夜空に、ぼんやりと丸い月が浮いている。 
  私はその月を今日も見上げた。そして、これまでの年月を思い出す。 
(長かった……) 
「何寝言を言っているんですか?」 
  無粋な声が、私の思考を妨げた。手元にある茶碗の中身がこぼれかける。 
  顔を見ずとも分かる。 
  私の創り上げた芸術を、寝言と呼ぶような輩はただ一人しかいない。 
「俳句に決まっている!」 
  私はいつものように声をはりあげた。私の座る縁側に小さな影が飛び乗り、私を見上げてくる。 
  私は強いて彼に視線をやらず、空を見上げた。 
  流れる雲の合間から見える月は、どこか哀しげで、それに加えて―― 
「月見うどんが食べたくなったんでしょ。今日の月は、橙の色味が強いですからね」 
  ぐうの音も出ないとはこのことだ。 
  私が無言でいるのに調子をよくしたのか、彼の長話がはじまった。 
「この前は、パンケーキの上のバターみたいだって、わけのわからないことをおっしゃっていたんじゃなかったですっけ。せっかくのお茶会が、だいなしだったんですよね。変な短歌をご披露された方がいたおかげでですね」 
  確かに、先日の茶会の件は我ながら失敗したと思う。 
  黄みの強い丸い月が、どうしてもパンケーキの上のバターと重なってしまったので、つい歌を詠んでしまったのだ。あれは、西洋風の茶会とは似合わない。今日のように、緑茶を啜りながら詠むべきだった。 
「月には、たくさんの人が住んでいるんでしょう。もう流行らないんじゃないですか。いつもいつも月を見上げては一句、一首なんて」 
  彼はニュースで流れる、月面都市の光景を私に早口で説明を始めた。 
  昔とはあまりにも違う、「月」の姿がそこにある。 
* * * 
「ふと見れば今宵もまろし冬の月」 
  私が返事をせずにいると、彼がぼそりと言った。 
  もちろん私の句に決まっている。決まっているのだが……。 
「この句は結構好きなんですよ。当たり前のことを詠んでいるのがあなたらしい」 
  雲が流れて、再び月が顔を出した。毎日変わることのない永遠の満月。 
  彼は何か知っているのだろうか。 
「昔、月は――」 
  ふいに呼び鈴が鳴った。彼は途端に近所に住むただの猫に戻る。ニャオーンと鳴く、彼の猫らしさもずいぶん板についてきているようだ。 
  だが、かつて月は満ち欠けをしていた、彼にそう言う機会を、私はまた逃してしまった……。