富田 昌吾  (2期)  1954年卒業 


    「ジミー時田を偲んで」
2017年 5月 掲載 
* ジミー時田  --  時田圭介(悦朗)2期   

コミュニケーションが発達している今日では外国の音楽に興味を持つキッカケにはテレビあり、CDあり、ライブあり、いろんな手段がありますが、昭和20年の中頃に外国の音楽に初めて興味を持ち始めた多くの方々のキッカケは映画主題歌が多かったのではないかと思います。

私も同様でジョン・ウエインの「黄色いリボン」やベティ・ハットンの「アニーよ銃をとれ」の「シークレット・ラブ」エロール・フリンの「サン・アントニオ」の「サム・サンディ・モーニング」など今でも口ずさんでいます。
 

左が筆者、右は高校生のジミー時田さん(学校の傍にあった筆者の自宅玄関前にて)

青学・中等部の2年の頃、三村くんという二世の友人ができました。

彼のお父さんは当時新東宝のカメラマンとして活躍しており、池部良・山口淑子さん主演の「暁の脱走」では毎日映画コンクール撮影賞を受賞しています。

そしてお母さんがアメリカ人でしたので彼もアメリカ国籍を取得していました。

その彼は映画が好きで当時日本人は入れなかった日比谷のアーニーパイル劇場(多分現在の宝塚劇場)には自由に出入りすることが出来ました。

私もアメリカ映画が好きでしたのですぐに三村くんと仲良くなり、彼からは日本で封切りされる1年以上も前にアーニーパイル劇場で公開されているアメリカ映画の話題を聞いて楽しんでいました。

そうこうしているうちに映画主題歌やポップス、カントリーの話になり、いつしか彼に頼んで劇場内の書店で当時アメリカで流行していた曲の歌詞が載っている雑誌を度々買って来て貰うようになりました。

同時に私の遠い親戚が渋谷で小さなレコード店を営んでいましたので少しずつお気に入りのレコードを買い集めるようになりました。

そんなことでアメリカン・ポップスやカントリーについてほんの少しの知識ができ始めた頃、彼は自分の進路を選ぶためにハワイ経由でロスに帰国してしまいした。

その当時はアメリカまでの航空便など無くハワイまでは横浜からクリーブランド・インデアンス号という貨客船で8日間の船旅でした。

その後、20年程前に彼が取材旅行で日本に立ち寄った折、私の会社を尋ねてきたことがありましたが今はどうしているか分りません。

もし元気ならば今でもロスでカメラマンとして活躍していると思います。

時田に初めて出会ったのは三村くんがロスに帰ってから数ヶ月程あとのことでした。




私が時田と初めて顔をあわせたのは青山学院高等部1年の時でした。

初めて教室に入ると机の上に名札が置いてありました。

男女共学ですから男子生徒はどうしても隣に誰が来るかが気になります。

一年間席が替わらないのですからどうせなら可愛い女生徒の隣の方が勉学に熱が入りそうです。
 


前列真ん中が筆者、右で格好をつけているのがジミーさん(後ろの少年も、他の仲間も精一杯パフォーマンスしているようです)
私も頭文字がS・T・Uで可愛い人がいるから多少の見込みはあるな、などと思っていましたが隣に来たのは時田でした。

今では私もいろいろな方とお話が出来ますが、その頃はよく人見知りして自分からは知らない人とはなかなか交わらない方でした。

授業が始まっても数日間は時田とは必要なこと以外は殆ど口を聞かなかったと思います。

そんな期間があったからか私と時田は生涯お互いに名前を呼んだことはありません。

親しくなってからも名前を呼ぶのが照れくさく「よう!」とか「おい!」とか或いはいきなり話題に入るなどで過ごしてきました。

冷戦のような何日かが過ぎましたが親しくアプローチしてきたのは時田の方でした。

ある日、英語の授業が終わりに近づいた時、隣の席の時田がちょっと微笑んで私にメモ用紙を渡しました。

「これの意味わかるかよ?」メモには「To be to be ten made」と書いてありました。

一つずつの単語の意味は分っても文章の意味は分りません。

「何かを10個つくったのかな?」などと考えていると、時田がこれは「飛べ飛べ天まで」と読むんだ、と苦しそうに笑っていました。

バカバカしくて本当に開いた口が塞がりませんでしたがそのとき私と時田の間にあった垣根が外されたような気がしました。

でも、この文章は時田が考えたのか、或いは誰かに聞いてきたのかは未だに分りません。




時田の人生60余年のうち私が彼と親しかったのは高校時代の3年間と亡くなる前の10年間程でした。というのも、高校時代の私はサッカーに熱中しており3年の時には東京都で2度優勝し、当時正月に西宮で行なわれていた全国大会にも出場しています。

3年の後半から大学時代はサッカーの練習も厳しく、時田たちと付き合っている時間も徐々に少なくなってきました。

また社会人になってからも暫くは仕事に追われ、時田とは同窓会やたまのコンサートなどで顔をあわせる程度でした。
 


前列左からジミーさん、真ん中で横になっているのが筆者(筆者のこのポーズは芸者が旦那に西陣の帯や一竹辻が花の着物をねだる格好ににていやしませんか?)

時田と私がお互いに「音楽が好き」ということを認識したのは新学期が始まって間もなくの昼休みのことでした。

昼休みには野球やバスケットボールを楽しむこともありましたが私は校内をブラブラ歩くのも好きでした。

大学の正門から連なる銀杏並木や蔦の絡まるチャペルの側を目的もなく歩いて昼休みの時間を調整していました。

ある小春日和の昼休み、何も考えずに校内をブラブラ歩いていると後から澄んだ声で「バラ色の人生」を口ずさみながらついてくる奴がいました。

「時田かな?」 と思いましたが振り向くこともないのでそのまま知らん顔をして歩いていると私に追いついて歩調を合わせました。

横を見るとやはり時田でした。

「何だ おまえか」「あぁ 天気がいいんで出てきたよ」「おまえ歌が好きなのか?」     「好きだよ」「じゃあ今度俺の家へ来いよ レコードやギターもあるし すぐ近くだから」   「あぁ 行くよ」

その時から時田との交友関係が始まり、同時に何人かの学友が私の家に集まるようになりました。

ただ私の家に遊びに来る学友で本当に音楽が好きだったのは私と時田ともう一人時田にギターの弾き方を教えたNくんの3人であとは音楽を聴きながら時間つぶしや学校では禁じられていた麻雀を楽しむ人たちでした。





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