浅草海苔と浅草紙

海苔といえば『浅草海苔』
この『浅草海苔』の名前の由来にはいくつかの説があるようである。
  1. 浅草先の入り江で採取した
  2. 浅草の門前で売り出した
  3. 「浅草紙」の紙漉技術を取り入れた
どれにも理があり、どれが正解というものではないでしょう。
賑わう浅草・浅草寺の門前市で売り出され「全国区」の名称となったと思われます。
ここに出てくる『浅草紙』とは? 「紙漉技術」と海苔の関係は?
こんな疑問を調べてみました。

浅草紙
寺田虎彦の随筆に「浅草紙」という作品があります。
『片側は滑(なめら)かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵(あらむしろ)のような縞目(しまめ)が目立って見える・・・赤や青や紫や美しい色彩を帯びた斑点ある。・・・普通の白地に黒インキで印刷した文字もあった。大概やっと一字、せいぜいで二字くらいしか読めない・・・』
このあと先生は科学者らしい推論に展開しています。
この『浅草紙』とは、昔、便所の「落とし紙」として使われていた、あの黒くてゴワゴワした紙のことです・・・覚えている方もおられると思います
江戸時代に浅草・紙漉町(今の田原町)あたりでは古紙を、どろどろにして漉き直した再生紙を造って売っていました。それで「浅草紙」と呼ばれていました。
脱色技術等の進歩で幾分は白くなった「鼠色の浅草紙」は戦後も売られていました。(写真)

浅草海苔と紙漉技術
海苔は『常陸國風土記』にも出てくるほど古くから食べられていました。
大宝律令(701年)にも年貢の対象として「紫菜(ムラサキノリ=海苔の古称=中国語・現代でも海苔の意)」名前が出ている程です。
当時は大変貴重な食べ物でしたが、岩のりを採りを干しただけのもので、椀に入れて吸い物にしたり、焙って食べたようです。
江戸・寛永年間に浅草の植木職人が牡蠣・流木に張り付いた海苔を掻きとって乾し、売り始めました。その後、海苔の養殖を大森方面に拡大させ、浅草の店でこれを販売しました。
これが『浅草海苔』の始まりとされています。
売られていたのは、海苔をそのまま乾しただけのたものだったようです。
松尾芭蕉の句に「おとろえや歯に噛みあてし海苔の砂」がある。
乾海苔の中に砂粒があった様子が伺える。

この頃、海苔商の野口某氏が、浅草川上流で見た紙漉を取り入れた乾海苔を造る製法を開発した。
生海苔を洗い細かく刻み、漉いて乾して板海苔とする方法で、現在の手法の原型にもなっています。
今までの干しただけの海苔より味も良くなり、形も一定で扱い易くなったため、よく売れたようです。
浅草紙職人のなかには儲かる海苔漉きに転業するものも多たようです。
元禄・宝永(1688〜1710)の頃には江戸浅草のヒット商品となり『浅草海苔』の名は不動のものとなりました。

余談:浅草海苔 復活
以前の浅草海苔は「アサクサノリ」という原種の海苔で造られていました。
海の汚染に伴いこの原種は2000年藻類レッドリストで“絶滅危惧1種”に指定され、絶滅の危機に瀕しています。
今の乾海苔の殆んどは「スサビノリ」という原種が使われており、「アサクサノリ」は全く在りません。
「スサビノリ」は、育成が早く、病気に強い、見た目が良いと云った理由からです。

『浅草海苔復活』に奔走している方がいらっしゃいます。
木更津の漁師、金萬 智男(きんまん のりお)氏です。
氏は、海苔養殖等の傍ら、NPO法人『盤州里海の会』を立ち上げて『里海』『浅草海苔』の復活に賭けておられます・・・現在は『盤州里海の会』が主業?
その熱き思い、活躍ぶりをご覧ください

           


参考文献
 『加工海苔入門』(食品知識ミニブックシリーズ 日本食料新聞 平成13年11月発行)