2003年8月16日
向井孝追悼会報告 ソウルより
これは、昨年8月16日、ソウルの仲間たちによる向井さん追悼会の報告です。追悼会は、反戦デモ会場の片隅で行われました。
【案内】向井孝追悼会及び8月16日の行動について
20世紀 戦争と暴力の時代を全身を投げうって生き、亡くなった向井孝先生を追悼する集いを行おうと思います。8月16日反戦ソウル大会で準備する“反戦平和行進”があるが、ここに行って別途向井孝先生を追悼する集いを持てばどうでしょうか。
何よりも戦争に反対し、積極的に平和を熱望しながら、非暴力直接行動の重要性を教えようと苦労された向井孝先生を記憶する所となるでしょう。
マニックさんが向井先生の遺影を準備することになりました。
この外に他の準備物があれば、各自準備してくることにしましょう。反戦平和パレードもあるので、戦争反対と軍隊反対の声を思いっきりあげられるでしょう。
- 時間:8月16日午後2時
- 場所:ソウル新村現代百貨店裏
たくさんの参加をお願いします。
* 反戦平和パレードと反戦平和コンサートは場所が変更になりました。
ソウルジョンモ公園―大学路マロニエ公園ではなく、ソウル新村―梨花女子大であり、コンサートは梨花女子大法学館で開かれます。
誤解のないようにして下さい。(ドープヘッド)

故人の冥福を祈ります。
「暴力論ノート」の著者であり、生涯アナキストの道を歩んできた向井孝が去る8月6日世を去りました。
去る2001年の夏大阪でお目にかかったのに、話は長くできなかったけれど、満足げで余裕があり、知的でありながらも平凡なおじいさんにふれたような感じでした。
最初キム・ウオンシク翁からこの知らせを聞いたとき、びっくりして言葉が出ませんでした。すぐ私がプアンに言ってきた話をし、セマングムの話をとうとうとまくしたて、不覚にも涙がどっと溢れてきました。
そうです。わたしが過ごしてきた過去何ヶ月間その行動の節目節目に向井孝の思想にとらわれていない場所がなかったのです。
だからプアンを考え、セマングムを考え、サムボイルベを考え、パレスチナを考え、戦争反対と軍隊反対を考え、向井孝が非暴力直接行動のモデルとみなしたインドの“塩行進”を考え、それとともに向井孝を考えていたようでした。
アナーキーには師も弟子も位もないとは言うけれども、私の巨大な師のおひとりだと言わざるを得ません。
穏やかに眠るように逝かれたとおっしゃるキム・ウオンシク翁の声も涙にかすれていました。
簡単な追悼会をもってその方の冥福を祈れたらと思います。 (マニック)
向井孝さんの冥福を祈ります。 (ウフム)
皆さんとともに拙速でも追悼会を開きたいと思います。一緒にしたい人は文字を残して下さい。向井さんは逝ったけれど、彼の著書「暴力論ノート」は永遠です。(ドープヘッド)
故人の冥福を祈ります。その方が最後まで望んでいたのはなんだったのでしょうか……という気がします。追悼の集いが決まったら、知らせて下さい。(Neoneo)
星が消えたなあ…… (Anida)
冥福を祈ります……向井孝さんが亡くなったと…… (蔵香)
向井さんの冥福を祈ります。暴力論ノートの小冊子作業に参加しながら、お会いすることはなかったけれど、本当に気さくな方だと感じていたんだけど……
私も追悼の集いを一緒にしますから。 (灯台2)
胸がぐさっとつぶれました。
なにかやるせなくて。 (スンヒ)
その方をよく存じ上げていないけれども、お会いしたこともないけれども、胸が痛みます。故人の冥福を祈ります。 (Xu)
人間が死んだ後の次の世界は、いかなる暴力もない“無”の世界であることを祈り、故人の冥福を祈ります。 (ジェルソミーナ)
向井氏の冥福を祈ります。 (クソルス)
幸せな方だなあ〜さようなら〜 (thesia)
いつか忘れられるだろう。それでもいつか。 (ジョタロ)
私も謹んで故人の冥福を祈ります。 (第3レール)
- * かれらのホームページ↓
- http://www.anarclan.net/
向井さんとソウルの仲間たち
中島雅一
向井さんは、ここに集ったソウルの仲間と2001年の8月5日から6日にかけて、1度だけ会ったことがある。
かれらが日本の社会運動家たちとの交流を目的に、男女十数名で来阪したときのことだ。その主な目的が向井さんへのインタヴュー。天王寺の13階には、ご近所の坂口さん、旅行途上の檜森さん、ふうさん、そして私も同席していた。扇風機だけの蒸しぶろ状態。冷蔵庫なし。汗ばんだ畳。ピザの釜に囲まれているような感じ。
インタヴューは、どちらかといえばアナキズムの原理原則論に終始した。アナキズムとは? 非暴力直接行動とは? ブクチンvsブラックの論争について、といったようなこと。
話はインタヴュー後の方が面白かったと思う。夕食の時間となり、かれらが持参した生のエゴマの葉や青とうがらしやチャンジャ、真露などが卓に並びだし、座もリラックスした頃から、笑い声の端々に生真面目な質問が向井さんに飛ぶようになったから。
自分は教師だけれど、学校側に求められる教育と自分のやりたい自由な教育とのギャップで悩んでいる……。私は非暴力直接行動を考えるにつけて、やはり農民をやるほかないのではないかと思うようになったが……。ソウルのアカデミシャンの称揚する「民族主義」アナキズムへの強い違和感がある。かれらへの敵対感をどうすればよいか……。
ソウルの仲間には、20代から70代、フリーター、農民、教師、北米出身のアナキストまで、さまざまな人がいた。自分が運動や仕事で直面していることを語り始め、それをどう思うか? どうすべきか?
向井さんはそんな質問に応じて、話が脱線しすぎるほど話した。あまり脱線しすぎて、向井さんに怒る人もあったほどに。
原理原則をつよくたしかめたいと思う一方で、自分自身の日常との格闘、葛藤にそれ(だけ)では答えが出ないということ。かれらもまた、自分が考えるアナキズムを、自分の生き方の地面とつなげようとジタバタとしていた……。
そこで向井さんが具体的にどう応えたのか、私の記憶にはもうない。かれらの方が向井さんの雰囲気を感じたかはマニックの文章にある通り。
今年の8月、マニックからメールが来た。集会場の隅で追悼会をやる、だから何か写真を送ってくれ。私はそのときはじめて、みんなと会ったちょうど2年後のその日に、向井さんは空へ行ったということを知らされたのだった。
昨年、かれらは韓国語版「暴力論ノート」を刊行した。それは大学近くの喫茶店やデモや集会のさい、道ばたで売られた。ソウルだけで日本の倍くらい売れた。
海外の仲間とは、たいてい1回限り会っておしまいになってしまうものだ。しかし、私は昨年末ソウルでかれらと再会することができた。
かれらはかわることなく、英語と日本語をマスターしたり、若干太ったり大人びたり、農民はいよいよ顔と腕を黒く焼いていた。そして10代の若い学生の仲間のなかにいた。
70代の年長の仲間が、50年代はここに入って警察をまいた――という迷路のような路地を抜けて入った喫茶店で、私は向井さんの安らかな顔とふうさんの心境について話した。年長の仲間は、泣きそうな顔をしながら耳を近付けてきいていた。
お酒と「質問」の夜。テーブルやカウンターにはさんで、向井さんはどれだけの仲間たちとそんな時間を過しただろう。何百人、いや何千人。
13階でのソウルの仲間たちとの1日は、向井さんにとっては何千夜のうちの1夜でしかなかったかもしれない。でも、あの夜の、ソウルの仲間たちと向井さんの1回だけの出会いの風景は、幸せなものとして、私の中にずっと残る。
「非暴力直接行動いうのは、なにも特別なことやない。それは生きるということと同じ意味や。生きるために必要な食べ物を手に入れたり、そのためのいろんな創意工夫、人とのいろんな共同作業や遊び。モノを創ったりする楽しみ。誰でもしてることや。その誰でもしてる、その誰でもがもってるその本来の力を自覚することや。そういう自分にとってかけがえのない日常のくらしを誰かが妨害したり、邪魔したりしたら、どないする? 目にゴミが飛んできたら思わず手で払いのけるやろ。それと同じや。自分らのくらしを妨害するものや邪魔するものがあったら抵抗するし闘うのが当然や。それが生きてるいうこっちゃ。それが非暴力直接行動や……」
この日のどの場面だったかさだかではないけど、もうだいぶお酒がはいってたと思う。向井さんは、ソウルの若者の質問に答えてこういったことだけなぜかよくおぼえてる。中島くんの文の補足として。 (水田ふう)
(04-03-09up)