La Nigreco

n-ro.1 2000.7.1


コルイマの陣営

鹿島拾市


ナチスの弾圧を逃れて、多くのドイツ人共産主義者がソ連に亡命した。だが当初は英雄として迎えられた彼らは、その数年後には「社会的危険分子」として、あるいはこともあろうに「ファシストのスパイ」として、強制収容所に送られていったのである。

一九三九年八月、独ソ不可侵条約が電撃的に結ばれ、スターリンと独外相リッペントロープがモスクワで固い握手を交わす。ロシアの図書館からは反ファシズムの本が姿を消し、かわりにナチスドイツの出版物が並べられるようになった。

マルガレーテ・ノイマンは、カザフ共和国のカラガンダ収容所に入れられていたが、この時モスクワの監獄に呼び戻され、GPU将校の礼儀正しい面接を受けた。将校は尋ねる。「外国にご親戚はいますか」。ノイマンは、パリに姉がいること、フランスのビザを持っていることなどを勢い込んで訴えたが、将校はこれをさえぎって言った。「いや、そうじゃないんです。ドイツにご親戚はいますか、という意味なのです」。ノイマンは矯正労働五年の刑から即時国外追放に減刑され、他のドイツ人亡命者たちとともに、窓のない貸切列車に押し込められた。数日後、列車が止まり再び扉が開かれた。ノイマンはそこが中立国リトアニアであるという期待を最後まで捨てきれなかったが、目に飛び込んできた駅の名はブレスト・リトフスクであった。

トラックで運ばれた橋のたもとで待っていると、国境にかかる橋を黒い軍服の男たちが渡ってきた。制帽にドクロの紋章――ナチス親衛隊であった。敬礼をかわすGPUとナチスの将校たち。ノイマンたちは橋をわたり、この日から終戦まで、今度はナチスの収容所で暮らすことになる。

同じ頃、フランスでは共産党のあらゆる出版物が発禁となっていた。独ソ協定によって、フランス共産党もナチスの潜在的同盟者になったとみなされたのである。かって人民戦線内閣の一翼をになった共産党は、一夜にしてファシストの仲間となり、労働者の離反と憤激にさらされることとなった。だが党の活動家たちにとっても、モスクワからのニュースは全く青天のへきれきであった。彼らはこの「有りえない」「説明不可能」な事態に動揺し、意気消沈しながらも、地下に潜行する以外なかった。党本部は警察の厳重な監視下におかれ、パンフレットを配布する党員は次々と逮捕され始めていたのである。自宅にも近よれないアジトぐらしが続いた。

他にない重要さを持ちながら、全く世に知られていない本というものがある。『裏切り――ヒットラー=スターリン協定の衝撃』は確かにそうした一冊だ。先に紹介した二つのエピソードだけでなく、独ソ不可侵条約の締結によって、いくつもの国家権力に打ちのめされ殺されていった無名の人々の記録を集めている。

歴史学者たちが集まって「五〇年代東アジアにおける白色テロル」について検証することになったという記事を何年か前に読んだ。だが、ナチスに追われ、スターリンに小突き回され、フランス警察にけちらされたマルゲリーテ・ノイマンたちにふりおろされたテロルは、一体なに色と形容すべきなのか。その色は誰の目に映ったのか。

お決まりの反スタ談義、左翼は共産主義の犯罪を直視していない、といった絶叫に加わろうとしているのではない。そうした人々は、声高に叫ぶほど冷戦的な党派図式を逆に内面化してしまう。果ては党派性(オマエは敵なのか味方なのか!)の森の中で、自らの足場すらも見失う。だがそれでもやはり問題は残されている。

「ソ連」の破綻があきらかになった時から、様々なソ連批判やマルクス主義刷新の試みがなされてきた。トロツキーの復権、ブハーリンの復権、ローザの復権、市場原理の評価に党内民主主義や複数政党制の尊重。そんな「但し書」のようなものを煩雑に残しながら「ソ連」消滅から日が経つにつれ、問題そのものが忘却されていくように見える。

だが多くの人が希望を託し、一方で人類の少なからぬ部分の人々が苦しめられ、殺されていった「ソ連」が終わったのである。もっと積極的な教訓がなければオカシイではないか。もちろん「但し書」の中には、最近よく耳にするアソシエーション論のように、あるいはと思わせる理論がないではない。しかしどうしても仏つくって魂入れずという気がしてならないのだ。革命や社会主義の美名のもとに、数千万の人々を殺し、支持し、黙認してきた歴史に、それだけで応えられるのであろうか、一方で、そのソ連で抵抗してきた人々の語る声は、断片的でもどかしく、その意味がスッとは私たちの胸に入ってこない。それはどういうことなのだろうか。

話は変わる。私が国家とか戦争について考える時に思い出す「Uボート」というドイツ映画がある。八一年に公開された時、ドイツがはじめて自らの戦争を語り始めた、といったような宣伝文句がつけられていた記憶がある。本当はドイツ製作の戦争あるいは反戦映画というのはそれ以前にもあるのだが、この映画にはそうしたコピーが決して不当ではないと思わせる内容があった。

Uボートとは、アメリカからイギリスへの海上補給線を断つために、ドイツ海軍が大西洋に放った潜水艦の名称である。突然浮上しては艦船を襲う神出鬼没の活躍から「海の狼」と恐れられたといわれる。だがその実態は、制海権を米英海軍に完全に奪われたドイツの苦肉の挽回策であり、進歩した索敵技術の前に次々と発見されては撃沈されてゆくだけの、ほとんど玉砕戦術であった。実際、出撃した乗組員四万人のうち、再び地上に戻ることができたのは一万人弱だったのである。

映画「Uボート」について、監督のウォルフガング・ペーターセンは「誠実なやり方で戦争と対決することを可能にする類いまれな素材を得た」と語っている。まさにUボート作戦という題材を描くことで、この映画は民衆の「総力戦」体験そのものを映し出すことになった。

物語は、ほとんど狭い潜水艦の中だけで展開される。赤い非常灯に照らされた薄暗い艦内。頭上を通り過ぎる敵艦のソナー(索敵)音。水圧にきしむ艦体。いつ終わるとも知れぬ酸欠。乗組員たちにとって、戦争の意義や国家の戦略といったものは存在しない。彼らが経験するのは、六メートル×六〇メートルの世界での緊張と恐怖であり、顔を見合わせる数十人の共同体である。

絶望を受け入れることが即、死を意味するような空間の中で、気の遠くなるような執念によって彼らは生き延びようとする。もはや大破したかと思われたエンジンが再び起動し、ガチャリガチャリとピストンが上下しはじめるシーンは、彼らのギリギリの生命力を象徴するようで、重い感動を与える。生きようとする力というのは、ここまで絞り出されるものなのか。生き延びるためには、ここまで苦しまなくてはならないのか。

にもかかわらず――船壁の外から苦しみを強制してくる「戦争」そのものに対しては、彼らは無力であり、運命として受け入れるだけなのだ。深海から驚異の復活を遂げ、一路港へと向かう途上で、ベッドに身を休める艦長はこう呟く。港まではまだ遠い。だがなんとかなるだろう、今までもそうだったんだから。

この映画には、ナチスドイツの戦争の意味を俯瞰する視線もないし、はっきりとした反戦的言辞も出てこない。ただ地獄をひき回される人々の現実だけが提示されている。だからこそ、見終わって怒りとやりきれなさに心を揺さぶられるのだ。なぜこの人たちはかくも酷い仕打ちを受けなくてはならないのかと。

ヒトラーの侵略戦争とその敗北に動員された人々を、いかなる国家や正義の理念においても顕彰することはできまい。しかしどのような恣意的な理念によっても救済されない海底のドイツ軍兵士たちを主人公にすることで、そして彼らの経験した現実という相に視線をすえることで、この映画はかえって民衆の戦争体験という普遍的なテーマを持つことができたのである。

このことは「ソ連」経験を考える上でも示唆的ではないだろうか。一つのエピソードから話を本筋にもどしたい。

 

冷戦時代のある日、モスクワで開かれた作家大会で、当局側の人物が出席者たちをこう問いつめた。

「君たちは結局、どちらの側に立つのかね。資本主義陣営か、それとも共産主義陣営か」

重苦しい沈黙を破って誰かが叫んだ。

「我々はコルイマ陣営に属する!」

コルイマとは、ソ連で最悪といわれた強制収容所の名前である。囚人たちは毎日十四時間の苛酷な労働を強いられ、その平均的寿命は到着から四週間と言われた。くり返し反乱がおこったが、その度に囚人たちは戦車によって文字通り踏み潰された。

このエピソードで、私達が誤読してはならないのは、この作家は決してコルイマの囚人に連帯するといった選択を表明しているのではないということだ。自分たちは「コルイマ陣営」に属しているのだという現実を明らかにしているのだ。「選択」を迫る権力に対して、選択しえない「現実」を対置することで拒否しているのである。

今日の私たちにとってUボート乗組員たちがそうであるように、コルイマの囚人たちもまた、いかなる国家からも理念からも見限られた人々であった。彼らはソ連においては言うまでもなく「反革命」であり、西側(憶えてますか)においても、体制権力の側からは「ソ連の脅威」の好例として気まぐれにつまみ上げられ、左翼からは「反共宣伝」として放り投げられた(推定無罪の原則は彼らではなくソ連国家権力に向けられた)。

しかしだからこそ、モスクワの作家は、恣意的な幻想ではなく、選ぶことのできない唯一の現実の上に自分が立っていることを理解できたのである。そしてそれはソ連以外のどこであれ、権力の前に立たされた人民の普遍的な現実ではないだろうか。時に気まぐれな理念、死者に階級的、愛国的、革命的、進歩的、民主的、道徳的といった顕彰を捧げようが、権力に殺される人々はみな「コルイマ陣営」に属する他に現実を選びようがないのだ。

それは殺される人が脳髄の中で何を考えていようが変わりはしない。マルクス主義思想家ベンヤミンは、ナチスドイツから亡命する途中に雪山で自殺したが、ナチスを賛美したハイデッガーも、大戦末期には老人防衛隊の一兵士としてベルリン郊外で毎日ざん壕を掘らされていたのである。この今世紀最大の哲学者は、あるいは土砂に埋もれて窒息死していたかも知れないのだ。ダッハウでもコルイマでも、共産主義者から王党派、エホバの証人まで、あらゆる思想の持ち主たちが、同じ現実を生きていた。

恣意的な理念から出発して、収容所や虐殺がここまでは見えてあそこは見えなくなるといった倒錯に陥るのではなく、国家や理念によって持ち上げられようがおとしめられようが、一回かぎりの生しか持たない人民(つまり私たちだ)という選択の余地のない「現実」を、何度でも価値と想像力の根拠とすること。それが国家と理念の結びつきの極致としての「ソ連」経験から私たちが第一に学ぶべきことではないか。そう思った時、例えばソルジェニーツィンの「せめて嘘を認めることだけはやめよう」といったシンプルな言葉が、はじめて私たちの胸に迫ってくる。

さて、私がこんな文章を長々と書いてきたのは、九〇年代東アジアのひとつの現実を伝えておきたかったからだ。(これがなに色のテロルかなど、もはやどうでもよい)。最後にそれを置いて結びとしたい。

二〇〇〇年四月十八日。北朝鮮との国境に近い中国の密入国者収容所には、八十人近い北朝鮮難民が、飢餓の祖国への送還を待っていた。うち六十人は女性であり、妊婦も含まれていたという。この日、二人の脱走兵が、送還されれば必ず処刑されると送還中止をこん願していたが、聞き入れられないためについに銃器を奪って、看守を人質にとった。騒動はあっという間に拡大し、とうとう収容所は「送還反対」を叫ぶ難民たちに制圧されてしまった。

二日後、「腰から下への発砲」を許可された警察部隊が収容所に突入、激しい抵抗を排除してこれを鎮圧した。負傷した三十人をのぞく難民たちは即座に北朝鮮に送還された。三十人もまた、治療が終わり次第、送還される見通しである。収容所を制圧した二日間、難民たちは南北朝鮮を通じて愛されている「我らの願いは統一」を唄っていたという。


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