La Nigreco

n-ro.1 2000.7.1


刊行までの経緯(1)

中島雅一


『向井孝の詩』がでてすこしたった頃、向井さんと東京で会った。ガサ国賠の集会か、コスモス忌だったかもしれない。そのあと、数人の友人たちと話しに行った。近くの喫茶店に入ることになって、店の在りそうな方向へ歩いた。坂の途中で私はきいた。

今度は運動論集をつくりませんか? 

――というのも、私が向井さんの名前を印象深く覚えたのは、なんといってもあのいっぷうかわった、リズムと笑いのある運動論だったからだ。しかし、こたえは素っ気ないもので、いやだ、面倒くさいということだった。

それで、コーヒーを前にして、ちょっとだけくいさがってきいたその理由は――

  1. 加筆訂正の必要がある。昔のままではあらたに出す意味がない

  2. 運動論はそのときどきの状況に即応して書いた。時間空間をこえて、本に編集するのはむずかしい

  3. 運動論は、すくなくとも何か運動をしていながら発表するのがすじ。いまはあまり何もやっていない

私はすぐ納得してしまうたちなので、それきりになった。

それから三〜四年後。

私は《日本アナキズム運動人名事典》をつくる計画に参加した。おおげさにいえば、自分なりの〈アナキズム運動史〉を引き寄せたいと思い、その思いで事典に参加したのだった。

事典の計画を軌道にのせるため、自分にできることは何かと考えて、私は水田ふうさんとニュースをつくることにした。はじめは載せる原稿がすくなくて困り、思いついたようにふうさんが「無名の人びと」というタイトルで二回書いた。その後、原稿を書く人がほかにいなくて……と向井さんにいうと、それなら――と同じタイトルで、だんだんと本格的に書き始め、毎回二〇枚以上のヴォリュームになった。

それは向井さんが七〇年代に試みた〈アナキズム運動史〉の四半世紀後の飛び石の継続だった。また、〈アナキズム運動史〉をどう書くか。どう記録するか――という方法論的な点で、少なくとも私にとってはひとつのやり方を示唆するものだった。

私は「無名の人びと」の原稿を入力しながら、「リキさん伝」で感じたことを思い出した。「リキさん伝」には、たとえば秋山清さんや小松隆二さんの書いたものとは別の〈アナキズム運動史〉が見える。大杉没後アナキズム運動は終焉した。負の部分としてのリャク屋……これまで活字になった〈運動史〉ではこうした見解が一般的だ。しかし、「リキさん伝」は違う。何が違うのか……。たぶん、眼のそそぎ方が異質なのだろう。

アナキストたち。仲間。恋人たち。家族。運動をやめて田舎へ帰った友人。右翼に、あるいはボルシェビキに転じたかつての同志。そしてそれら個々の生の連鎖、ひろがりとして浮かび上がるものとしての〈運動史〉。そのようなものが可能であるならば、不完全にでも、というよりはむしろ、不完全なままに、その〈運動史〉を引き寄せてみたい……と、私はニュースをつくりながら考えていたのだと思う。

結局、私はニュースだけではなく、事典への参加をやめた。向井さんの「無名の人びと」の連載も、中断することになった。

そして、昨年末から今年始めにかけてのこと。

犬山をたずねるといつもそうするように、「イオム」や姫路版「自由連合」などの閉じられたファイルをながめていた。そういえば、編集者の年上の知りあいが「イオム」のアンソロジー、あったらいいな、「家について」って連載、よく覚えているって、いってましたよ……。

たとえば「イオム」を読むと、たしかにそのときどきにあったことについて書かれている。そのまま収録してならべたとしても、製作の意図や意志をはっきり伝えられる本にはならないかもしれない。しかし、およそ三〇年近く、向井さんがくり返し語ってきたことは、表現こそ違うけれどもすでにそこにかかれていた。

まず独特の方法論的な運動論。その方法的な価値を、別の誰かへ伝達することができればおもしろい。また、話すたびまだ完成していない、という「暴力論ノート」――擬似非暴力体制という表現に納得がいっていない、とのこと――も、この間補稿が断片的に発表されている。あらたな読み手がいるはずだと思う。

それでその日、「イオム」主要記事目録を一〇〇号までつくって帰った。さらに、今年の一月、奥村悦夫さんら数名で犬山へ集まり相談に加わってもらった。東京へ帰り、数日後、おもに「イオム」記事から自分なりにテーマをいくつか決めてピックアップした原稿でパンフレット・シリーズの案をたてた。

向井稿は原則的にそのまま、その原稿に対する意見/反応を含む解説を付して小さな冊子にまとめる。こんなごく単純な方法で、一冊一冊、つくってみたい。

九号まで出した「アナキスト・インディペンデント・レヴュー」も、今つくっている一〇号で終える。これを機に、その計画を少しづつ実行に移してみたい。

そこで、パンフをつくる前に、意見や反応を集める――階段でいうと踊り場のような場所が欲しい。

――というようなことで、

  1. 「無名の人びと」の連載を継続する場所として

  2. 事典参加の中断で頓挫した、〈アナキズム運動史〉を考えたり、見返してみたりする場所として

  3. 運動論パンフ準備、前段階的な意見交換ができる場所として

  4. そのほか、できれば自称他称の彼、彼女ら――〈アナ族〉の思いや表現の場所として

飾らず要約すれば以上四点。

このような未整理の動機、複数の数年ごしの伏線にそって、「黒」を実験的に刊行します。


刊行までの経緯(2)

水田ふう


いま、『日本アナキズム運動人名事典』というのがつくられようとしてる。私は中島くんとその「編集委ニュース」(月刊)を十三号までやってた。そして降りたんやけど、その「ニュース」には、毎回、向井さんが「無名の人びと」を連載した。

実のところ、もともと私はそれまでアナキズム運動史なんてもんに、ひとつも関心をもってなかった。いままでずーっと向井さんと一緒にいろんなことをやってきたから、人からは私もアナキストと思われて、それは、決してええ意味で云われてないねんけど、まァ自分にとってはあたりまえでふつうのことやった。そんなことで、家にようけあるアナキズム関係の本や資料なんてもんは、いままでまったく開いたこともなかった。

ところがこの一年あまり、「ニュース編集人」として私は向井さんの連載を読むことになった。そしてその「無名の人びと」は、文字どおり名前もわからない人、名前がわかっても通称だけで出生地もその死没もはっきりしない人、警察の調書に名前があって、それ以外にはどこにも名前が見あたらへん人、名前だけが分かっているけど、今となっては、それ以上しらべられへん人たちやから、書くに書かれへん。それで私も本を読んだり、資料を探したり、その人名索引づくりをしたり、手伝っているうちに、ちょっとだけアナキズムとかアナキズム運動史とかについて考えるようになった。

つまり、実際の運動のなかにはいってみるとすぐわかるけど、そのときどきの運動は、たとえば「事典」では書き記すほどのことがほとんどない無名、ふつうの人によって支えられ、創られているわけやんか。

向井さんが、数行の記述も書きあぐねてしまいながら、一人ひとりの個人史のなかの、ほんの一点のようなもの、あるいは特別に記述するほどのことでないことの一部分や空白がいくつもいくつもかさなり、組みあって、ぼんやりでてくるもののなかからこそ運動史が見えてくるんや、っていっていた意味が、このごろ私は、「無名の人びと」を読むことで具体的に少しだけわかってきた気がする。

わたしは、「事典」づくりとは縁が切れてしもたけど、アナキズムとかアナキズム運動史とか、いままではそれと意識はしてなかった問題を、もっと自由に、「ニュース」を共に出してきた中島くんと、もおちょっといっしょに考えたいとおもって、「黒」をだそうと思い立ったんや。

これまで、ま、いまでもそうかもわからんけど、こちこちのわからずやの私が、このごろアナに居直ってえらく楽に生きられるようになった、という感じのなかで、アナキズムいうのは、なんも特別なもんやない、そこ、ここにあるもんで、それをもう一度意識的にとらえ直し、自分の生き方、体と心の動かし方、つまり方法としていく「作業」「場」に、この「黒」がなったらいいなと思ってる次第です。

そこで、向井さんの「無名の人びと」を再開してもらうんやけど、わたしがこの連載を「黒」に掲載したいゆう理由をあらためて書いておきたい。

七十三年頃、「現代の眼」に十五回? ほど連載して、しばらくたって「直接行動」(三号雑誌になってしまったけど、七十六年五月に創刊)に向井さんが「墓標のないアナキスト群像・続」を書いてから四半世紀たった。

その「続」をつづけるときの、書き出し部分の文章に、運動を「お御輿担ぎ」にたとえて云っているところがあって、わたし、そこのところがすごく気に入ってる。アナキズムとか運動史ゆうたら、誰も関心ないと思うけど、ようするにふつうの私らみたいな人びとがふつうに生きた。それが「時と場所と状況」と「役割」みたいなことで、「ついちょっとだけ」「もののはずみで」運動に関わったら、えらいことになったり、結果としてなにもなかったり、つまりわたしらとあんまり変わりない、人びとのことの話しなんや。

一般にアナキズム運動は、大杉が殺されたあと、一ぺんに力を失っていったとか云われたり書かれたりしてる。向井さんはむしろ、大杉が死んだあと、そういう指導者がいなくなった後、ふつうの人たちが運動を引継ぎ担ったときこそかえって、またアナキズム運動の特質が出てるっていうねん。

云うたら、生きていたときにさえほとんど知られなかった、無数の無名の人たちの存在のことを見逃したら運動は見えてこないって。

「墓標のないアナキスト群像・続」から引用すると、

「何ひとつむくいを得ることなく、貧苦の果ての窮死の生涯をあっけなく終っていった人たちの――、またひととき激しく燃え上がるほのほのように、ひたすら運動に殉じつつ、いつしか力尽きて消えていった人たちの――無数でさまざまな生涯のなかでの運動へのかかわりが、いまはその子細をほとんどたしかめられないとしても、たしかにその時そのときとして存在した。そしてその時の彼らこそが、その時の運動をつくり、支え、運動そのものとして生き、運動をいま私達へとうけ渡した担い手であったのである」

そしてとくに運動史のなかの、むしろ「負」でもある部分を含めての、こういう視点を欠落しては、アナキズム運動史は成立しないということを向井さんはいいたいんや。

「風」に連載した「女略屋リキさん伝」を読んで、あるときTさんが「なんでこんな人をとりあげるのかネ」と、略屋に否定的な感想を云われた。そりゃ……全肯定はでけへん。けど、リキさんや小松さんや村上さんや……向井さんからきく人に私はずーっと親近感をもつ。そして、これは、ひょっとしてわたしや――と思ったりする。

それと向井さんの文章には「こよない人びと」とか「こよない関係」とか、ほんまにこよないばっかりようでてくる。

その向井さんのこよない思いのなかに、アナ族の思いが受け継がれていて、さらにまた次の人に手わたすものとして、この連載を再開する。


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