風
40号

2004.10.6

デモ申請始末記

水田ふう


初めてデモというものをしたのは19歳のとき。ベトナム戦争反対のデモを、人口10万の米子の商店街を7、8人ほどでデモをした。しかし、公安条例なんてもんがあることもしらんから、デモをするのに警察に届けたり、許可を得たりしたおぼえはない。ま、もっとも7、8人ほどやから名古屋市公安条例の例でいくと、そんな必要もなかったやろ。

1968年に京都国際会議というのがあって、米子から1人でかけていったとき、最終日に大きなデモがあった。京都の繁華街を道いっぱい(もちろん右車線も左車線も)にひろがってのフランスデモや。機動隊もいっぱいでてきてたけど、デモ隊の方が圧倒的に多い。もう街中を何千人何万人? のデモ隊でうめつくしたようやった。いつも7、8人ほどのデモしか経験のないわたしは、すごく感激して興奮したのを覚えてる。でも、このときは、誰がどんなデモ申請をしてたんやろ。

69年に東京にでてきて、デモがあるというと出かけていってたけど、盾を持った重装備の機動隊にことごとく行く手をはばまれたり、囲まれたり、催涙ガスで目が開けていられなかったり……機動隊に殴られて頭から血を流してる人もいた。いまでも、号令一つ、無表情な鎧兜よろいかぶとの機動隊が盾を持ってドタドタ走る不気味な音を思い出す。

東京にいた6年間、幾度もデモにいったけど、べ平連主催やったり、共同行動やったりのそれに参加するというかたちやから、自分でデモ申請をしたことないし、そのことについて考えてみたこともなかった。

74年、大阪にきてから、反原発女グループや死刑廃止や東アジア反日武装戦線救援の虹の会で独自にデモをするようになって、デモの申請にいくようになった。これももうずいぶん前のことでほとんど覚えてないんやけど、なにしろ簡単やったようにしかおぼえてへん。もちろん1日で済んだ。警備もまあ、こちらはいつも10人20人、最大で50人ほどの申請やし、女・こども・老人のデモやし、交通課のおまわりさんが10〜20人?くらいついてくるというかんじや。(スリーマイル原発事故のとき、女たちだけのデモで、「おしめタイム」いうて、突然デモをストップして、ゴザしいて、いっせいにあかちゃんのおしめを取り替えたときは、おまわりさん困りはてて……おもろかったなあ。)

でも、このときかて何列縦隊かを書かせられたとおもうんやけど、とんと記憶がない。

というような多少経験のある、というわけで、今回の名古屋サウンドデモの申請に「付き添いでいくよ」って手を挙げたんやけど、気安く考えていた。ところが……

5月17日月曜(中署初日)

まず、中警察署玄関入り口正面の受付で「こんにちは。デモの申請にきました」いうて、7階の警備課に上がって行く。と、すぐ横の小部屋にとおされた。鈴木・永井、も1人計3人が応対に出てきた。鈴木はちょっと得体の知れない顔つきやけど、あと2人はまだ若く、まあふつうのおまわりさんってかんじ。

「デモを企画するのは始めて」というと、親切そうに和やかな応対。いろいろ聞いてくるけど、まあ、適当にかわしながらこちらも様子を伺う。じゃあ書類にというまでにこ1時間かかる。

Aくんが申請者。主催者・連絡責任者として申請書類に住所氏名を書く。それからデモの予定時間は、2時から4時。参加団体名称はLOVE and PEACE。「……その通過する路線」のとこは、こちらで地図を持って行ったけど、それを全部文字で書かなアカンのや。(そんな必要あんのかなあ?)デモコースが同じいうことで警備が「見本」として出してきたのが「名古屋ピース・ネット」主催のデモ申請書。それを見ながら、「会場南東出口出発東進〜矢場交番北交差点横断右折何進〜」というようにデモコースを書き写す。(これけっこうめんどくさい)

問題はここから。

予定人数――「100人」

目的――「戦争やめろ」

と、ここまではええんやけど、この書き写すという作業の続きのままに「示威運動の形態」のところで、「見本」どおりのまま、Aくんは「4列縦隊」と書き入れた。(わたしはせっかく付添い人で行ってるのにこのことにうっかり気付かないまま。)

で、さあ、これで全部終わり、と思いきや……

「荷台乗員の許可は交通課が出すんやけど、今聞いてきたら、荷台に人は乗せられないといってる」「その許可がもらえないと申請の受理はできない」というんや。

「ええっ!?」「じゃあ、交通課に直談判に行くよ」

ということで警備につれられて、交通課に行く。わたしらを外で待たせてなにやらゴチョゴチョ相談してる。「課長がいないので帰ってくるまで待て」ということに。

40分ほど待って、森川課長が帰ってきた。

「デモで音楽機材を積み込むトラックと、その荷台に人が乗り込む許可申請というのは、許可を出したことがない。いままでにそれを許可した例は、伝統的なお祭以外ない。しかもそれも1人だけ」という。そこをなんとかと頑張ると「機材と人が座るための椅子が、しっかり固定されているかどうかが問題やから、それが確認できる図面を提出せよ」という。「じゃあ、さっそく図面を作って、持ってきますから」いうて、その日は帰った。

まあ、図面さえ作ればあとは問題ない、しかし荷台に1人しか乗れないというのは困ったなあ……

5月18日火曜(中署2日目)

ところが翌日、中署からデモの内容について聞きたいという呼び出しがきた。

次回には図面を提出して、申請書にAくんの判子をつけば、もうそれでOKということやったのに。そして、警察の受付時間は六時までといってたのが、Aくんの勤めが終わってからでいいという。これは、あきらかに事情聴取や。こちらとしては、それに応じるつもりはなく、あくまでデモ申請に行くということで急きょ、図面を作成してくれたFくんも加わって3人で出向く。

この日、事情聴取に出てきたのは前日にはいなかった警備課長代理の安藤(なるほど公安の顔つき、態度)。前日に引き続いての永井、鈴木、他1名も居並ぶ。

こちらが図面をもってきたから「申請の続きを」というのに、そのまえにききたいことがあるいうて1時間半くらいなんだかんだのやりとり。その挙句に、仕方ないという顔つきで安藤が「ざっくばらんにいきましょう」といって、おもむろに取り出して見せてきたのが、「怒りを吐き出せ6・6」のビラ。「これおたくらのビラでしょ」ときた。「ええ、まあ」……(ホームページからビラを印刷した日付は5月12日とあった。)

東京・大阪・京都でのサウンドデモの情報をすでに聞き及んでいた上のほうからの指示によってのことやろう。

ビラに書かれた、路上解放・直接行動・騒乱有理・一斗缶・車道で踊りだそう・爆音・そして共同企画としてならんでいる団体?名、特に大酒のみ旅団の下に線が引いてあって、それについて執拗にきいてくる。

「騒乱有理って書いてあるけど、騒ぎを起こすことを目的にしてるのか?」

「路上解放って、道路で何をしようとしてるのか」

「直接行動いうのはどういう意味か」

「一斗缶で何をするんや」

「大酒飲み旅団って、デモしながら酒飲むのか」

とまあ、えらく執拗にきいてくる。そして県外からの参加者はどれくらいか、デモの沿道に呼びかけるのか、もし沿道から人が入ってくる場合、どうやってデモの許可条件を途中参加の者に徹底させるのか、それがあんたに出来るのか……ということを、かなり心配して(警備上)問い詰めてくる。

結局、この日も、交通課がもういないということでデモ申請は受理されず、後日電話をするという。しかし、図面は渡したんやし、次回にはかならず申請を受理するようにいいおいて帰る。(火曜・夜7時〜9時半)

翌日の水曜、こちらから中署に電話する。「来週の水・木はこちらの都合が悪い、それ以後やと準備の関係もあるから、おそくとも火曜までには手続きをすませたい」

中署からは木曜にAくんとこに電話があって、月曜の4時に行くことに返事したということやった。

5月23日月曜(中署3日目)

「今日で全部終わりにしたいので、いいですね」と午前中に中署に念おしの電話をすると「自動車を運転するものの運転免許書のコピーと、車の車検証のコピーをもってくるように」という。Aくんとは昼間連絡がつかないし、車はレンタカーやし、まだ借りてもいない車の車検証なんかコピーできるわけない。それにそんなもんを提出する必要があるんやろか。

ひと思案した末、東京の救援連絡センターに電話する。Bさんが対応に出てきて、いろいろ親切に話を聞いてくれた。「そんなもの出す必要はないと思うよ。当日になって運転者が変わるということもあるんだし」と教えてくれた。そして名古屋で相談に乗ってくれそうな弁護士を紹介してくれた。で、すぐにその弁護士に電話。しかし、「忙しいので」と断られてしまった。しかたが無いので中署に「弁護士に相談したら、そんなものを出す法的根拠はないはずだということですよ」というと、「ちょっと待ってくれ」という。しばらくすると「じゃあ、それはいいです。Aさんの判子だけ持ってきてください」となった。ほんまに警察いうとこは油断もスキもないわ。

「Aくんと連絡がとれないから今日いけるかどうかわかりませんから」いうて、とりあえず電話を切る。

Aくんと約束の4時半に中署前で3人と落ち合う。まだ車も確定できていないし、そのことでまた足を運ばされるから、今日はやめようと提案。でも、せっかく早引けして申請するつもりできていたAくんは行くという。その気持ちを尊重して、FくんとAくんの2人で申請に出向いた。(犬山からそうたびたび行けないと中署に強く言ったてまえ、わたしは顔を出さなかった)

Aくんは新しく勤めを始めたばかりなのに、デモ申請のために1日休みをとり、3時間の早引けをとった。名前を出すということでは、それなりに彼は覚悟をしていた。でももうそれ以上会社をやすむことはできなかったし、おまけにというより、あろうことか、Aくんの会社への行き帰りに公安の尾行がつくようになって、電車のなかでも露骨ないやがらせをうけるようになったんや。それで、次からはわたしが申請者として中署にいくことにした。

木曜に警察から電話があって、金曜にいくと返事をする

5月27日金曜(中署4日目)

名古屋の市会議員で、さいとうまことさんという人がいる。ピース・ネットのデモではよく見かけるし、「黒」の読者でもある。6・6のビラを送る時に弁護士を紹介してもらえないやろか、とたのんでたら、木曜にさいとうさんの方から電話があった。明日3時、時間をつくって、いっしょに行ってC弁護士を紹介してくれるという。

その夕刻、Fくんと中署に。

中署の手前で「あっ、テープレコダー忘れた」と大声をだしたら、Fくんが、「ダッシュします」いうて、大須までひとっ走りして買ってきてくれた。6時半。

今日こそケリをつけてやる。

場所は警備課ではなく交通課。申請書類は一応書き終えているので、のこっているのは荷台乗員の問題だけということで。

だけど、そこには交通課の森川の他に警備課のいつもの永井、鈴木、あと新顔4人の計6人もいる。気味の悪い安藤はいなかったけど、このひとたちほんまに暇らしい。わたしらふたりのたかがデモ申に6人もや。

Fくん、まず机の上にテープを置く。

わたし、まず、「こんなに何度も足を運ばせて、申請受理を拒否するようなら出るとこに出るから」と。すると「このまえの自転車デモ?では7回ほどきてもらってるし、あんたがたに特別いじわるしてるわけではないです」と平然とした顔つき。

「とにかく荷台には2人の乗車が必要なんや。1人は機材の操作をするし、もう1人が機材が落ちないように見てなあかん。それが必要最小限の人数や」

「弁護士に相談したら道路交通法では2人までいいといってる」。すると森川課長はあちこちに赤線やら青線やらが引いてある「六法」を持ち出し一生懸命めくりながら、「どこにかいてある? 第何条ですか?」「必要最低限というなら2人と限定して書くのはおかしいです。必要なら3人でも4人でも必要となる場合もあるわけでしょ?」と真面目にいってくる。内心、それもそうやと思いながら「たしかに2人までOKと書いてあった気がする。でも、何条までとは覚えてないから、ちょっと弁護士に電話して聞いてくる」とわたしは席をたった。あいにく弁護士さんが留守で、あとで電話してもらうことにしたといいつくろい机の上にわざと見えるようにC弁護士の名刺をおいた。

そして、「電話を待ってる間に申請書の方を書きます」いうて、わたしは改めて一から申請書を書き出したんやけど……

(またデモコースを一からかくのが面倒やから、「Aくんの名前の上に線引いて訂正印をおしてそこだけ書き直したらええやんか」と主張したんやけど、アカンという。もし、「それでいい」ということやったら初日のうっかりに気付かんままやった)

Aくんが書いたのをみながら、申請者の名前を私にして(戸籍名でないとアカンらしい?)、時間はそのまま、デモコースをやっと書いて、参加予定人数もそのまま、目的もそのまま……

で、「示威運動の形態」のとこにきて、「示威集会及び4列……」と書きながら「あれぇー」と手が止まった。ここではじめて「4列というのはあくまで申請者が4列と申請した」という体裁を取ってるんや、ということに気がついたんや。1字1句を見張るように覗き込んでる警備課の面々に「最初から最後まで4列を崩さずに行進するなんて軍隊の隊列じゃあるまいし、子どもと手を繋ぎながらの人もいるやろし、後ろを振り返って話ししながらも歩くやろし、4列きっかりなんて無理や。4列〜5列というふうに幅があるもんや」(4列〜6列にしとけばよかった)というと、「通常4列というふうにしてもらってる」としつこく言ってくる。

「これはあくまでこちらの申請やねんから。申請は自由なはずや。それを公安委員会が判断すればいいやんか」とつっぱねる。

この間のやりとりを、憮然とした表情で見ていた森川課長が、唐突に「その理屈でいけばそちらの申請の自由ということで、荷台に乗せる人員も2人とかいていいことになります。じゃあ、ここに2人とかいてください」といってきたんや。

ヤレヤレ、と思ってるとどこかに(たぶん上司のとこやろ)行ってた鈴木がもどってきて、いままでそれについては言わなかったのに、「行進の時間が2時〜4時というのは長すぎる、これは1時間のデモコースだ。せめて1時間半にしろ」「4列〜5列」を「4列に」と執拗にいってくる。「これはあくまでこっちの申請なんやから、不許可にするんやったらすればいい」とこちらも強気。

6月4日金曜(中署5日目)

デモ「許可証」をFくんととりにいく。「許可証」を見ると、こちらの申請どおり「4列〜5列」、時間も訂正なしの数字が書き込まれているやんか!

そして、問題の「荷台乗員」の「許可申請書」は、6月6日デモ当日に手渡されたけど、運転者が事実として間際まで決まらなかったし、レンタカーも当日にならんと車両の種類・ナンバーもわからないし、そこを空白のままで申請書を受け付けるいうことは前例のないこと、といってたけど、朝、森川課長に車両の種類・ナンバーを電話連絡することで成立。これも申請どおり「2人」で許可が下りた。

「やったー!」

結局、今回のデモ申請のことでは中署に5回も通うことになったんやけど、このことを通して思ったことは――

(1)1949(昭和24)年につくられた「集団示威運動に関する条例」によると、

・デモは予め公安委員会の許可を受けなければならない。〔但し五百人未満(名古屋市は五十人未満)・葬儀・祭礼・スポーツ競技等体育運動・学校官公庁が慣例として催す行事については、許可を要しない。〕

・申請は管轄する警察署長を経由して公安委員会にしなければならない。

・公安委員会は……これを許可しなければならない。

そして、

・公安委員会は、公共の安全又は公衆の権利を保護するために必要と認める場合には、……必要な条件を付することができる。

となっているんやけど、要するに〔デモは申請をしたら許可しなければならない〕、いうことや。そやのに申請の段階で警察が予め、その時間や形態に規制を加えてきて、警備をやりやすくするための指導をしてくる。

名古屋ではいつごろからそうなったのかは知らないけど、警察の規制をそのままに受け入れ、申請者(自分たちの主体を主張せず)が指導どおりに、例えば「四列縦隊」と書き入れ、それが慣習化されてきたよう。

警察官も「申請」という意味は、あくまで申請者に主体があることを忘れ(初めからないかも)、警察官が主導権を握って日常業務をこなしているわけや。特に若い警察官などは「親切に指導」してくる。50代半ばと思える森川課長にしても、あくまで法律を守ってやっているつもりなんや。いつもやっている警察にとって便利な事務手続きとして、「免許証のコピー・車検証のコピー」を要求してきながら、そんな法的根拠がないというと取り下げたし、彼の方から「1人とかけ」といってきた。

東京のChance!の一部の人たちが、警察にデモでありがとうというとかご飯をいっしょにするいうようなことがあったけど、「親切に指導」してくれる警察官を、ほんとうに自分たちを守ってくれる存在と勘違いしてしまう経緯がわかったような気がした。

(2)デモ申請のことに限らず、警察もお役所なので、すべてが「細則」による日常業務として習慣化している。それがあたかも法律であるかのようにひとりひとりの警察官がわたしらに権限的に対応してくる。なにしろむこうにとってはあたりまえになってる日常業務手続を変えさせるのはたいへん。こちらもそれなりに準備して、調べておかないとやられる。

(3)これからデモ申請にいくときは、条例施行規則のなかに「様式」というのがのっているから、「日本工業規格A4」の用紙に様式を整えて、こちらであらかじめ必要事項を記入し、それを警察署に持っていけばいいと思う。そしたら経験がなくても誰でも出来るんちゃうか。

(3)今回かろうじて「4列」を「4列〜5列」と書き入れたけど、東京のサウンドデモに参加した時のことを考えたら、申請書にたとえ4列〜7列と書き入れようが、もうぐじゃぐじゃに列は乱れることは必至。警察が規制してくるのは必定となる。しかし、こちらがそれを規制することはしたくない。まあ、その時はしかたがない「逮捕」「ガサ」を一応覚悟した。

「許可条件」には「うずまき行進、蛇行進、またはことさらに隊列の巾を広げ、若しくは遅足行進、停滞、その他一般の交通に障害を及ぼすような形態にならないこと、と記されている。大阪からわざわざこちら側の「デモ守備」にきてくれたGさんに(法律事務所に勤めている)「ことさらってどういう意味」ときくと、「わざと、故意に」いうことやという。「そうか、自然にそうなったんなら、しかたないもんな」。

そして東京の救援連絡センターからHさんにきてもらえたことは心強かった。Hさんの警察とのやりとりをみていると、さすが「プロ」というかんじやった。東京の「戦争抵抗者の会」の若い仲間たちもさすがデモ慣れていて頼もしいかぎりやった。

(5)Aくんに公安がついた――ということから、いっきょに「逮捕」「ガサ」の心配がでてきて、少なからず、みんなの気持ちを不安にしたり、緊張したりしたやろと思うけど、当日のデモはかえってその緊張感が、参加者ひとりひとりを主催者のような気持ちにして、デモを盛り上げ、規制をかわし、指揮者や誰かが逮捕されないようにみんなが配慮し、そのことでよけいにデモが一つのものとして一体感をつくりだしたんやないか。そのことからくる充実感・高揚感の共有。まさに「表現・発散・解放」としてのデモやった。そして、なにより音楽の力は大きかった。いままでの名古屋のデモやったら街行く人が参加したり、デモにずっとついてきたりなんてことはなかった。あーんと口をあけてびっくりしたように、めずらしそうに、うれしそうにみていた。

ほんと、あとあとまで、ひとりひとりに「やったー」「おもろかった」という思いがのこったデモやった、と思う。(各地から6・6デモのホームページに、こんなおもろいデモ初めてというメールがたくさんよせられていた)

しかし……

(6)号令で動く警察官は、初めてのことに対しては、どう対応していいかわからない。事実当日のまだ若い交通課のおまわりさんは、どう規制してよいやらオロオロとしているふうやった。でも次回からはキッチリと学習してくるのはまちがいない。東京でも1回目はデモ隊の遣り放題が、2回目、3回目になるに従い厳重な規制が行われて、逮捕者がでてる。

同じことはやれない、やらない。これが非暴力直接行動のゲリラの鉄則。次回もサウンドデモをやるとしたら、どうしたらいいか。かなりの工夫が必要と思う。

以上、長くなったけど、わたしの報告です。

(05-01-04up)

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