戦争がやってきた

ボストン・アナキスト酒飲み旅団


アメリカの軍隊が死と破壊の雨を降らせてから数年……。

イラクとユーゴスラヴィアで、人びとがくぐりぬけなければならなかった日々をアメリカ人は現在経験している。11日の世界貿易センター(WTC)では、残酷なハイジャックと破壊によって無実の何千もが殺され、負傷した。そして、数千人が愛しい人を思い、悲しみにつつまれている。これは悲劇というほかない。

しかし 近年におけるアメリカの軍隊とその同盟国の手による異常な出来事のなかでは、これ以上の悲劇が無実の何千もの人びとをとらえてきた。世界中の人びとが、アメリカの政府と軍隊を憎み、恐れてきたのだ。今回の攻撃は、これまで、けっして歓迎されることのない地域でアメリカが行った干渉、武力行使その他に対する回答だろう。政治家たちとニュースメディアは、ニューヨークで起きた自爆テロの実行犯の名前を呼びかわしている。それならば、パナマ、バグダッド、ベオグラードにおける人びとへの急襲爆撃はいったい何だったというのか。それは、テロリズムではない、とでもいうのだろうか。

ジョージ・ブッシュは、ハイジャック犯を卑怯者という。しかし、無防備の人びとを爆撃し、イラクにおける「進行中の実行行為」だから、として領空内を安全に飛行すること以上に卑怯なこととは何か? そして、コリン・パウエル(最初の湾岸戦争のさい、その徴集兵焼却を含む惨劇をイランでつくりだした)は、大胆にも道徳の高邁さをうたい、犠牲者面を演じている。

アメリカ合衆国の官僚は、WTC攻撃を戦争行為といった。彼らにとってはまさにそうだろう。しかし、これはその戦争において最初の行為ではなく、おそらく最後でもない。

いま進行中の戦争は、アメリカ合衆国とその同盟国によって始められようとしている。それは、アメリカの軍隊が、かつてパナマ、イラクとユーゴスラヴィアで、無謀にも一般人を殺害した、まさにその戦争のつづきである。日常的に、イラクの上空でアメリカとイギリスの軍用飛行機によって行われ、パレスチナの地上でイスラエル軍によって戦われている戦争(アメリカの支援と励ましなしには続けることができなかった)のつづきである。

そしていま、その戦争の一局面が、アメリカ合衆国における自国民の大量殺人へと帰結した。

ニューヨーク、ワシントン、ペンシルバニアで無慈悲に殺された人びととは誰か。どのような戦争においても、それは一般の人びとにもたらされてきたことなのだ。アメリカ政府と軍隊に対抗する攻撃者の深い悲しみがどのようなものであれ、これらの殺人に公正はありえない。ペンタゴンへの攻撃さえ、アメリカの戦争機械をあやつる司令官ではなく、従業員と技術者の殺害に終わった。だがアメリカ政府が今回の件を恣意的に考慮するとき、その軍事的見せ物はアメリカ軍の遠征による一般人の犠牲者を無視することを許容させてしまうのだ。

大統領のスポークスマンと彼の行政機関のメンバーは、他の国々では即座に死亡した人びとについて言及している。「副次的損害」として。つまり、死者たちは、アメリカの政治家と市民一般の「正義」を邪魔だてする者たちに対する、戦略上の犠牲者として位置付づけられてしまった。

アメリカ政府の「非戦闘員」に対する感覚の欠如は、イラクとの持続的な軍事的、経済的戦闘のさい、十二分に示されたものだ。そしてそれは、国家を動かし、さらに民衆を虐待する官僚に対する効果ではなく、一般のイラク人の殺害と苦悶としてのみ結末することとなった。

いま、アメリカ政府と多くのアメリカ人が、彼らの考えを明らかにしている。それは、さらなる戦争と「報復」が、これ以上の流血を防ぐ方法である、というものだ。

しかし、そのような行為は、他国の無実の人びとのさらなる殺害、アメリカ政府と海外に駐留しているアメリカの軍隊へのさらに増殖した憎しみ、そしておそらくは、アメリカ人が国内外で攻撃にさらされる結果しか導きださないだろう。

高まる「安全保障」への関心は、アメリカの自由を制約することに至る。政府の権力をより広範なものとすることによって、私たちの交流関係、やりとりは盗聴され、私たちの活動と運動は制御されてしまうだろう。それは、暴力の犠牲者のために悲しんでいる彼ら自身を、さらに深く気落ちさせるものではないのか。なぜなら、より広範な国際的殺害と、より狭量な国内の不自由が、その唯一の回答なのだから。

私たちは理解する必要がある。私たちは、この国の巨大な軍隊が除去されたときだけ、そしてアメリカ合衆国の権力機構にいる人間たちが、もはや他の世界を脅すことができなくなるときにはじめて、現在進行している恐怖の終焉がくるのだ、ということを。

2001.9