アナキズムFAQ


J.6.8 十代の性の解放についてアナキストはどのような立場をとっているのか?

青年期最大の問題の一つは、親と社会一般による性の抑圧である。十代は、性のエネルギーが最高になる時期である。それなのに、何故、十代の若者たちに、セックスを活発に行うようになる前に、「結婚するまで待て」とか、少なくとも家を出るまで待て、などというバカげた要求をするのだろうか?何故、米国のような「先進」諸国に、19歳の「男の子」が17歳の彼女とセックスをすると、彼女の親(!)によって「法定強姦」だとして逮捕されることを条文化した法律が存在するのだろうか?

そうした疑問に答えるためには、支配階級が、民主主義・自立・商品からは得られない快楽に向かう大衆的諸傾向を促したいと思っておらず、その代わり大衆の服従・従順さ・依存・無力感・権威への尊敬に寄与するものなら何でも支持している、ということを思い出しておこう−−こうした所得性が、支配階級の権力と特権が依存しているヒエラルキーを維持しているのである。

先にも記したように、セックスは最も大きな快楽(親密さと人の繋がりにとって最も重要な引き金の一つ)であり、身体と感情の生命エネルギーを伴っているため、性行為の抑圧は、人を心理的に壊滅させ、服従的・権威主義的性格構造を創り出す(人々をお互いに疎外し合うようにするだけでなく)最も強力な手段である。ライヒが主張しているように、そうした人格には『性的不能・無力感・愛着欲求・指導者へのノスタルジー・権威の恐怖・臆病・神秘主義』が混在している。また、彼は次のように指摘している。『このような構造を持つ人々は、民主主義を実行できない。本当に民主的方向を持った組織を構築したり維持したりしようとするあらゆる努力は、こうした人格構造に出会ったときに、悲嘆に終わる。それらが、民主的に選ばれた指導者の独裁的奮闘と官僚主義的諸傾向を発達可能にする大衆の心理的土壌を形成する。(中略)(性の抑圧は)権威を恐れ、人生を恐れる従属者を生み出し、その結果、権力を持つ一握りの人々による大衆支配という新しい可能性を一貫して創り出すのである。』(性の革命:自己統制的人格構造に向けて、82ページ、強調は付加)

確かに、支配エリートの大多数は、自身の権力と特権がセックスに否定的な大衆の永続的態度に依存していることを十全に意識してはいない。だが、無意識的にはそれを感じている。性の自由は最も基本的で力強い性質のものだ。全ての保守派・反動家は、本能的に、性の自由が放つ「社会的カオス」−−つまり、性の自由が育成する叛逆的で権威否定型の人格−−という考えにゾッとしている。「家族の価値観」や「宗教」(つまり、懲罰と強迫的な性道徳)が保守・反動の政治課題の大黒柱となっている理由は、これなのである。したがって、アナキストにとって、社会における性の抑圧の全側面を扱うことは非常に重要なのである。そして、このことは、青年期の人々が無制限のセックスライフを送る権利を肯定することを意味しているのである。

十代の性の解放については数多くの論議がなされている。例えば、十代には自殺が多く見られるが、これは青年期の性行為に対する制限を除去することで防止できるだろう、と言われている。性を抑圧されていない「原始的」民族に関する人類学諸研究によって、このことは明らかにされている。

宣教師によるものであれ、学者によるものであれ、「野蛮人」の「道徳的堕落」について当然の憤りを示していようといまいと、全ての調査報告は次のように述べている。思春期の儀礼が、性生活へと直接若者を導いている。こうした原始的諸社会の中には性の快楽を大きく強調しているものもある。思春期の儀礼は重要な社会イベントである。原始的民族の中には、青年期の性生活を隠さないだけでなく、例えば、性的交わりを享受できるようにするために思春期の始まりに青年が住むコミュニティハウスを手配することで、あらゆる面で性的交わりを奨励している民族もある。厳格な一夫一婦性の結婚という慣習が存在している原始的諸社会であっても、青年は、思春期の始まりから結婚まで、性の交わりを享受する完全な自由を与えられている。こうした報告の中に、報いられない愛情に苦しんでいる青年たちによる性に関する苦難や自殺の兆候は一つもない(もちろん、自殺はみられるのだが)。性的な成熟と、生殖器の性的満足との矛盾は存在しないのである。(前掲書、85ページ)

十代の性的抑圧は、犯罪とも密接に関連している。親密な性関係を追求する場所を持たない十代の若者たちが数百人近所にいるとすれば、そうした若者たちは、いつも警戒しながら、自分たちが発見されるのではないかと不安になりながら、車やヴァンのような暗い隅の方で性行為を行うであろう。そうした条件下で、十全な満足は不可能であり、緊張・欲求不満・生命エネルギーの停滞(性的停滞状態)を導く。つまり、若者たちは不満を感じ、お互いに邪魔をしあい、嫉妬深く怒りっぽくなり、喧嘩をし、満足いく性生活の代わりとしてドラッグを頼みにし、「精力」(抑圧された激情)を解放するために器物を壊したり、殺人を犯したりしさえするようになる。ライヒは次のように述べている。『少年犯罪は、子供と青年の生活において隠れている性的危機のはっきりした表現である。従って、社会が、セックスに肯定的なやり方で子供と青年の性生活を調整するために勇気を奮い起こし、知識を獲得しない限り、いかなる社会であってもこの問題、若年者の精神病理の問題をうまく解決することはない、と予測できるのである。』(前掲書、271ページ)

これらの理由から、「ギャングの問題」に対する解決策が青年期の性の解放に依存していることは明らかである。我々は、無論、ギャングそれ自体が、性的活動を抑圧していると述べているわけではない。実際、ギャングが十代の若者にとって大きな魅力となっている理由の一つには、確かに、ギャングのメンバーになればセックスする機会が多くなるという期待がある。だが、ギャングに典型的な、乱交・ポルノ・サディズムといったセックスの「影の」側面は、ギャングエイジに近づく時までに、子供たちは、自分が育ってきた概ねセックスに否定的で抑圧的な環境のために、不健全な二次的動因を既に発達させていることを示している。そうした動因の表現方法は、アナキストが「性的自由」ということで意味していることとは違う。むしろ、十代の解放に関するアナキストの提言は、幼少期の無制限の性行為は青年期の健全な性の自由にとって必要条件だ、という前提に基づいているのである。

我々自身の社会にこうした洞察を適用すると、次のことが明らかである。十代の若者たちは、セックスパートナーと一緒にいるときに邪魔されることのない個室を充分に利用できるなければならないだけでなく、親は、子供の健康と幸福のためにそうした行動を積極的に奨励しなければならない(もちろん、その一方で、関係を持っている相手を尊重することだけでなく、避妊薬の使い方と安全なセックス全般についての知識も促すが)。この最後の点(相手を尊重すること)が大切である。モーリス=ブリントンが指摘しているように、性を解放する試みは、既存社会からの二種類の反応に出会うことになる−−遠慮のない反対意見と回復努力(attempts at recuperation)である。二つ目の反応は、次の形態をとる。『最初には性行為を疎外し、具象化する。そして、商業的目的のためにこの抜け殻を熱狂的に搾取する。現代の青年たちは、権威的家父長制家族の二重の締め付けから抜け出すに連れ、自由な性行為の投影像に出会うが、実際には、その像は操作的に歪められているのである。』このことは、セックスが広告に利用されていることから、セックスの大規模消費産業への発展が成功していることまでに見ることができる。

だが、そうした発展は、アナキストが望んでいる健全な性衝動とは反対のものである。『セックスが消費されるものとして示されている』からだ。『だが、性本能は他の本能とは違う。(中略)思考・行動・苦悩できる他の人間(だけが満足させることができるからだ)。近代資本主義諸条件下での性衝動の疎外は、実に、一般的な疎外プロセスの一部なのである。そこでは、人間が物体に(この場合、性的消費の対象に)変換させられ、諸関係から人間的内容が抜き取られている。無差別的で強迫的な性行動は、性の自由ではない−−時として、その準備段階となる(抑圧的道徳では絶対そうなり得ないが)かもしれないが。疎外されたセックスが性の自由だという幻想は、完全解放の道程にとって、もう一つの障害物となる。性の自由は、他者の自律の実現と理解を意味しているのだ。』(政治における不合理、60ページ、61ページ)

従って、アナキストは、十代の性の解放を、性の抑圧が持つ悪い効果(記しておかねばならないが、性的抑圧は、他者の対象化と、家父長制社会においては特に女性の対象化を促すことで、個々人を非人間化する手助けにもなっている)を減じると同時に自由な個人を発達させる手段だと見なしているのである。

J.6.9 だが、十代の性の解放に関するこうした懸念は、経済の再構築のようなアナキストがもっと懸念すべき諸問題から関心をそらしてしまうのではないか?

性の自由が十代の若者の唯一の関心事である、とか、そうあるはずだ、と述べることは、十代の若者に対して失礼であろう。多くの十代の若者たちは、充分発達した社会意識を持っており、経済搾取・貧困・社会崩壊・環境悪化などの諸問題に鋭い関心を持っている。

だが、マルクス−レーニン主義諸政党は、若者の性の諸問題に関して自発的に論議することは「階級闘争から目をそらす」ことになる、という姿勢をよく示す。この姿勢を警戒することが、アナキストにとって大切である。こうした態度は経済優先主義的である(暗に禁欲主義的であることは言うまでもない)。なぜなら、経済が、社会変革に向かうあらゆる革命的努力の焦点でなければならない、という前提に基づいているからだ。経済を再構築することは疑いもなく重要であるが、大衆の性の解放なくして、労働者階級革命が完成することはない。いわゆる自由社会には、永続的な労働者管理型経済の創造に必要な人格諸構造を持つ人々が−−つまり、責任を伴う自由を受け入れることのできる人々が−−充分いないかもしれない。逆に、その成長に必要な心理的土壌を用意することなく、そうした経済を無理矢理創り出そうという試みは、何らかの新しいヒエラルキー・搾取形態にすぐさま逆戻りしてしまうであろう。

それ以上に、大部分の十代の若者にとっては、心理的に欠陥を創り出す恐れのある性の抑圧から解放されることこそ、その生活の中で重大事なのだ。従って、アナキズムの解説者が、剰余価値・労働疎外などのような無味乾燥な論議に限定して話をすると、アナキズムの「自由」運動に引きつけられる若者はそれほど多くはいなくなるだろう。逆に、性に関する疑問や諸問題を扱うことを優越的支配の全システムに対する多面的攻撃に取り込まねばならないのである。十代の若者たちは、アナキストが性的快楽を肯定しており、「革命のために」自己否定を求める革命的禁欲主義ではないことを確信するはずである。それどころか、十全なセックスを楽しむ能力は、革命の本質的部分だと強調されねばならない。実際、『セックスに関する権威と強迫的家族が持つ権威を絶え間なく疑問視し挑戦することだけが、他の領域(例えば、労働プロセスを支配しようとしている人々−−もしくは労働の目的そのもの−−に関わる権威)における権威を疑問視し挑戦することを補完できるのだ。どちらの挑戦も、個々人の自律性を強調し、自分の生活の重要な諸側面を自分で支配することを強調している。どちらも、合理的だと見なされ、我々の思考と行動の非常に多くを支配している疎外された諸概念を暴露しているのである。意識的革命家の課題は、これら二つの挑戦を白日の下にさらけ出し、その深遠な破壊的内容を指摘し、その相互関係を説明することなのである。』(モーリス=ブリントン著、前掲書、62ページ)

既に記したように、原始共産制の社会秩序を基盤としていた家父長制以前の社会では、子供たちは完全な性の自由を持っていた。だが、母親中心の氏族社会が、経済と社会構造において家父長制に向かうとともに、子供時代の禁欲主義という考えが発展したのである(セクションB.1.5を参照)。子供時代の性行為に対するこの社会的姿勢の著しい変貌が、それまでの非権威主義的人格構造に代わって、権威志向的な人格構造の発達を可能にした。民族学の研究が示しているように、家父長制以前の社会では、集産集団における労働生活の全般的性質は、子供と青年の自由な性行為に対応していた−−つまり、子供や青年に特定形態の性生活を押しつけるルールなど存在しておらず、このことが、仕事における集産的で自発的な規律を任意的に統合する心理学的基盤を創り出すのである。この歴史的事実は、セックスに肯定的な姿勢が広く行き渡ることが、実行可能なリバータリアン社会主義の必要条件であるという前提を支持しているのである。

また、心理学も、親・教師・行政機関による幼児期と青年期の性行為に対するあらゆる妨害は止めねばならない、とはっきり示している。アナキストとして、我々は、妨害を止めさせる方法として直接行動が望ましいと思っている。従って、我々は、十代の若者たちが、自分自身の生活を構築するあらゆる機会を持っていると感じるように勇気づけねばならない。このことは、確実に、アナキズム運動に十代の若者たちが参画することに対する障害になりもしなければ、その参画から意識をそらすことにもなりはしないだろう。逆に、若者たちが、(例えば)自分の部屋を持つという問題を段階的に解決できるならば、大きく増加する喜びと集中力を持って、他の社会的プロジェクトでも活動するであろう。なぜなら、フロイトとは逆に、ライヒ学派の心理学者たちは次のように主張するからである。いったんある線を越えると、過剰な性的エネルギーは、労働など目的を持った活動では昇華することはできず、実際には、その人は落ち着きがなくなり、空想癖を持つようになるために、集中力を欠くことになり、仕事ができなくなる。

直接行動を行う以外に、アナキストは、幼児と青年の性行為を法的に保護することをも支持できるだろう(狂気じみた法定強姦法の撤廃はその一例であろう)。丁度、アナキストが、労働者のストライキや家族休暇などの権利を保護する法律を支持しているのと同じである。だが、ライヒが述べているように、『いかなる状況下であれ、性生活の新しい秩序が、中央強権の法令によって確立されることはない。』(前掲書、279ページ)これはレーニン主義者の幻想だったのだ。むしろ、ボトムアップで確立されるのである。性の抑圧が持つ有害な個人的・社会的効果に関する知識をさらに広く普及させるという段階的プロセスによって、確立されるのである。このことで、リバータリアン子育て・教育方法が、大衆に受け入れられるようになるだろう。

人々が性的幸福を感じることができる社会は、人々が『戦争ではなく、セックスを』を望ましいと思う社会であろうし、一般的な安全保障を最も保証する社会であろう。そのときには、経済・政治システムを再構築するアナキストの計画が、憎しみと復讐ではなく、喜びの精神に基づいて自発的に進められるであろう。そのときに初めて、アナキストの計画を反動的脅威から防衛できるようになるだろう。なぜなら、大多数の人々が、自分たちに何を行えばよいかを話してくれる権威主義の父親的人物を無意識に切望するのではなく、自由の側にいて、責任を持って自由を行使できるからである。

従って、十代の性の解放(もしくは子供の養育一般や、リバータリアン教育)に対する関心と行動は、社会闘争と社会変革の鍵となる部分なのだ。それは、一部の「真面目な」革命家が主張したがっているように「重要な」政治的・経済的諸問題から「目をそらす」ものだと見なすことなどできないのである。マーサ=A=アッケルスバーグは(スペイン革命中のムヘレス=リブレスグループによる実践的活動に関連して)次のように記している。

子供たちを尊重し、十全に教育することは革命的変革プロセスにとって大いに重要である。無知は、弾圧と苦難に対して人々を非常に脆弱にしていた。もっと重要なことだが、教育は民衆に社会生活の覚悟をさせたのだ。恐怖を基盤とした権威主義的学校(や家族)は、人々に権威主義的政府に対して(もしくは、資本主義の仕事場内部で)服従する覚悟をさせていた。支配なき社会で人々が生活する覚悟をするためには、別種の学校と家族が必要となろう。(スペインの自由な女性、133ページ)

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