アナキズムFAQ


J.6.4 子供が何も恐れないのなら、どのようにして子供たちは善良になることが出来るのか?

罰の恐怖に基づいた服従など、この世であってもあの世であっても、真の善良さではなく、単なる臆病である。真の道徳性(つまり、他者と自分を尊重すること)は、経験に基づいた内的確信から生じるのであって、恐怖によって外部から押し付けることはできない。また、賞賛だとか天国の保証といった報酬(これは単なる賄賂でしかないのだ)で鼓舞することも出来ないのである。前セクションで記したように、生まれた時から出来るだけ多くの自由が子供に与えられ、両親の期待に無理やり拘束されていないならば、子供たちは、清潔さや礼儀など基本的な社会行動諸原理を自発的に学ぶのである。だが、子供たちは、自然な成長の時期に、自分自身のスピードでそれらを発達させることが出来るようにされていなければならないのであって、それらが発達していなければならないと親が考えたときにではないのだ。「自然な」タイミングは、期待に基づいて先験的に定義することによってではなく、観察によって発見されねばならないのである。

子供は、汚くすることについて罰せられることなく、自分で清潔にすることを本当におぼえるのだろうか?多くの心理学者によれば、そのようにすることは、可能なだけでなく、子供の精神的健康にとって絶対に重要なのだ。なぜなら、罰は、子供の肉体機能に固着的で抑圧的な関心を持たせるからである。例えば、ライヒとロゥエンが示しているように、強迫神経症と妄想神経症の様々な形態は、排泄訓練で受けた罰にまで遡ることが出来る。犬・猫・馬・牛は、排泄物に関して全く強迫観念を持っていない。人間の子供にある強迫観念は、その指導方法から生じているのである。

ネイルは次のように述べている。『母親が下品だと言ったり、汚いと言ったり、チッと舌打ちしたときでさえも、善悪の要素は発生する。問題は道徳的なものになるのである−−身体的なものであり続けねばならないはずのときであっても。』ネイルは、排泄物で遊ぶことが好きな子供に対処する間違ったやり方は、その子供に汚くなると告げることだと示唆している。『正しいやり方は、泥や粘土を与えて、排泄物に対する関心を実現出来るようにすることなのである。このようにして、子供は、自分の関心を抑圧抜きに昇華させる。その子供は、自分の関心を通じて生活し、そうすることで、その関心を殺すのである』(サマーヒル、174ページ)

同様に、懐疑論者は、罰の脅しなしに子供たちが健康的な食品を食べるように誘導できる方法を疑問視するだろう。その答えは、簡単な実験を行うことで発見できる。キャンディからアイスクリームから全粒小麦パン・レタス・芽キャベツなどあらゆる種類の食べ物をテーブルに並べて、子供に、望んでいるものを選択し、お腹が空いていないときには全く食べなくても構わないという完全な自由を与える。一週間もすれば、親は、禁止された食べ物や制限された食べ物への欲望が満足された後に、平均的な子供がバランスの取れた食事を選び始めることを見出すだろう。これは、「自然を信頼する」と呼びうることの一例である。どのようにすれば適切に食事を取るように子供を「訓練する」のかという問題を問題にさえしなければならないということが、子供の自由という概念が我々の社会でいかに受け入れられていないのか、もしくは、理解されてすらいないのかを莫大に物語っているのだ。残念ながら、この分野や他の大部分の分野で「訓練」という概念はいまだに幅を利かせているのである。

子供はモノを大切にするよう強制されねばならない、という懲罰主義的主張も問題がある。なぜなら、それは、いつも、子供の遊び人生を犠牲にしなければならないからだ。幼児期は、「成人期への準備」にではなく、遊びにあてられねばならない。なぜなら、遊びこそが、子供が自発的に行うことだからである。子供は、自分自身の自由選択から価値観に到達せねばならない、これがリバータリアンの見解である。つまり、物を壊したり傷つけたりしたからといって、子供を叱ったり、罰したりしてはならないのである。モノに対して無知な思春期前の段階から成長するとともに、子供たちは自然にモノを大切にすることを学習するのである。

「だが、子供は少なくとも盗みを働いたら罰せられなければならないのではないか?」こう問われるかもしれない。もう一度言うが、答えは自然を信じるという考えにある。「私のもの」とか「あなたのもの」という概念は大人のものであって、子供がそれを自然に学ぶのは、成長するにつれてであって、成長する前にではない。つまり、正常な子供ならば「盗む」のである−−ただし、子供はそのように考えてはいないのだが。子供たちは、自分の欲深い衝動を満足させようとしているだけのことなのである。さもなくば、友達と一緒である場合には、冒険をしてみたいだけのことなのである。我々の社会のようにモノを大切にするという考えにどっぷり浸かっている社会では、「盗みをはたらいた」ために子供を罰するという社会的圧力に親が抵抗するのは間違いなく難しい。だが、そうした信頼には、子供が健康的な青年へと成長し、罰を臆病に怖がるからではなく、自身の自己の気質から他者の持ち物を尊重するようになる、という報酬が与えられるであろう。

J.6.5 だが、罰・禁制・宗教的教育がないのに、子供たちはどのようにして倫理を学習できるというのだろうか?

大部分の親は、子供の身体的欲求を大切にすることの他に、倫理的・道徳的価値観を教えることが自分の主たる責任であり、そうした教育が無ければ、子供は、他者に対する配慮なく、気まぐれに行動する「小さな野獣」に育ってしまうと信じている。この考えは、我々の社会にいる大部分の人々が、少なくとも消極的に、人間は生来悪いものであり、善良になるよう「訓練」されない限り、ぐうたらに、意地悪に、暴力的に、殺人的にさえなってしまうと信じている、と言う事実から主として生じている。もちろん、本質的に、これは「原罪」という考えである。それが幅広く受けいれられているため、ほとんどすべての大人が、子供を「改善する」ことが自分の仕事だ、と信じているものである。

だが、リバータリアン心理学者たちによれば、原罪などというものは存在しない。実際、「原徳」なるものはないと述べた方がもっと適切であろう。すでに見たように、ライヒは、外的に押し付けられた強迫的な道徳性は、実際には、残酷で屈折した二次的動因を生み出すことで、不道徳的行動を引き起こすことを発見した。ネイルは次のように述べている。『不良少年が受けてきた道徳教育を粉砕すれば、その少年は善良な子供になると思われる。』(サマーヒル、250ページ)

何らかの形態で原罪という考えを無意識的に受けいれることは、先にも述べたように、組織的宗教の信者集めの主要道具である。「罪人」として生まれたと信じている民衆は、強い罪の感覚と救済の必要性を感じるためである。だからこそ、ネイルは、『あなたは善良に生まれた−−生まれつき悪いのではなく−−のだと子供に話すことで、救済の必要を取り除く』よう親にアドバイスしている。このことが、子供たちを、この世を否定した宗教(これは健康的な性格構造の成長に有害である)の影響下に落ち込まないようにさせる手助けとなるだろう。

ライヒが指摘しているように、『教会は、青年の性衝動に対する影響のため、健康に対して極度に害的な影響を持つ機関である。』(未来の子供たち、217ページ)民俗学の研究を引用しながら、ライヒは次のように記している。

原始的民族の中では、満足でき損なわれもていない性的生活が導かれており、男女の間に性犯罪も性的倒錯も性的残忍さも存在しない。レイプなど全く考えられないのである。なぜなら、その社会では不必要だからだ。その性的活動は、聖職者がみれば憤りと恐怖でいっぱいになるほど、正常で秩序だった道筋で流れ込む。なぜなら、青白い禁欲主義の青年とゴシップ好きで子供を叩いている女性は、こうした原始的社会には存在しないからだ。原始的民族は、若い男女がなぜその性行為を楽しんではならないのかを分からない。だが、その生活が、搾取・アルコール・梅毒とともに「文化」をもたらす禁欲的で偽善的な泥沼と教会によって侵害されると、我々と同じ不幸に見舞われ始める。原始的民族は「道徳的」生活に従い(つまり性行為を抑圧し)始め、そのときから、性的抑圧の結果である性的苦悩の状態へと次第に落ち込むのである。と同時に性的に危険にもなるのだ。配偶者の殺害・性病・あらゆる種類の犯罪が出現し始めるのである。(前掲書、193ページ)

リバータリアン子育て実践が広く理解されるようになると、我々の社会のそうした犯罪は大きく減少するだろう。アナキスト社会で犯罪がどのように予防できるのかを説明して欲しい、と頻繁に質問されているアナキストにとって、これは明らかに重要な考察である。民衆が子供時代に抑圧されていなければ、犯罪は遥かに少なくなるだろう、これが回答である。あらゆる種類の反社会的行動を導いている二次的動因構造が当初から創り出されないのだから。言い換えれば、いわゆる犯罪問題に対する解決策は、警察でもなければ、法律でもなく、保守派の人々が主張しているような「伝統的家庭の価値観」が持つ懲罰主義に戻ることでもなく、主として、そうした価値観を排除することに依っているのだ。

同時に、組織的宗教に教えられている道徳主義には他の諸問題もある。その一つは、子供を、憎悪する人にしてしまう、ということである。『子供が、ある種の物事は罪深いと教えられると、人生への愛は憎しみに変わってしまうに違いない。子供が自由ならば、他の子供を罪人だなどと考えることなど絶対にない。』(ネイル著、前掲書、245ページ)足を一歩踏み出すだけで、ある種の人々が罪人だという考えは、ある種の階級や人種が他のものよりも「罪深い」という考えになりうる。抑圧された怒りとサディスティックな動因−−そもそも、子供時代の早い時期に道徳的訓練を受けることで創り出される動因−−のはけ口として、マイノリティに対する偏見・差別・迫害が導かれるのだ。ここでも、アナキズムとの関連性は明らかである。

宗教的教育が持つもう一つの危険は、人生に対する恐怖の発達である。『子供にとって宗教は、ほとんどいつも、恐怖しか意味していない。神は力強い男で、その目には瞼はない。彼は、君がどこにいようとも、君を見ることができる。子供にとって、これは、布団の中で行っていることを神が見ることができる、ということを意味しているものだ。子供の人生に恐怖を導入することは、最悪の犯罪である。永遠に、子供は人生に対して否を言うようになる。永遠に、子供は下劣になる。永遠に、臆病者になるのだ。』(前掲書、246ページ)死後の地獄の恐怖におびえている人々は、この世での安全について神経症的な恐怖から完全に解き放たれることはない。そして、そうした人々は、容易く、物質不安につけ込んでいる支配階級プロパガンダのターゲットになる。例えば、帝国主義戦争は「仕事を確保する」ために必要だという合理化(これは、湾岸戦争の理論的根拠として、当時米国務長官だったジェイムズ=バーカーが使っていた)などがそれである。

J.6.6 だが、そもそも自由な子供はどのようにして利他性を学ぶのだろうか?

自己統制に対するよくある反論のもう一つは、子供たちを利他的にするためには罰と訓戒を使うしかない、というものである。だが、ここでも、そうした見解は自然の不信から生まれており、これは自然は人間が人間の意志で形作る単なる「原料」だという一般的考え方の一部である。リバータリアンの考え方からすれば、利他性は適切な時期に発達する−−つまり、それが発達するのは子供時代ではないのだ。子供たちは、一般に思春期の始まりになるまで、まず第一にエゴイストであって、そのときまで、子供たちは他者と一体感を持つ能力を持っていないものなのである。したがって、

子供たちに利他的になるように要求することは間違っている。全ての子供はエゴイストであり、世界は自分のものなのだ。子供がリンゴを持っているとき、子供の唯一の願望はそのリンゴを食べることである。母親がリンゴを弟と分け合うようにその子供に働きかけたとしても、その結果は、その子供が弟を憎むようになるだけのことである。子供が利他的になるように教えられていなければ、利他主義は後年生じる−−自然に生じるのだ。子供が無理矢理利他的にさせられれば、多分全く生じないであろう。子供の身勝手さを抑圧することで、母親は永久にその身勝手さを固着させているのである。(ネイル著、前掲書250ページ〜251ページ)

実現されていない願望は(あらゆる「未完の仕事」同様に)無意識の中に寄生する。従って、利他的になるようにあまりにも強くプレッシャーをかけられた−−「教えられた」−−子供たちは、親の要求に表面的には従いながらも、自分の本当の利己的な願望の一部を無意識的に抑圧し、そうした抑圧した幼時の願望がその人を生涯わたって利己的に(そして多分神経症的に)するであろう。さらに、子供の行いが「間違っている」とか「悪い」とその子供に伝えることは、その子供自身を憎むように教えることと同じである。自分自身を愛していない人が、他者を愛することはできないというのは良く知られた心理学原理である。つまり、道徳教育は、実際には、自己破滅的であり、正反対の結果しかもたらさないのだ。

それ以上に、「利他的」子供たち(その結果、大人もだが)を作るという試みは、実際に、子供の個性の発達と自分自身の能力(特に、その批判的思考能力)を発達させる能力の発達とに対して逆の働きをする。エーリッヒ=フロムは次のように述べている。『利己的ではないということは、自分がそうしたいと思っていることを行うことではなく、権威的立場にいる人々のために自分自身の願望をあきらめることを意味する。(中略)その明らかな意味合いだけではなく、「自分を愛すな」、「ありのままの自分でいるな」、そのかわり、自分自身よりももっと重要なこと、外的権力やその内面化、「義務」の命令に従え、ということを意味しているのである。「自分勝手になるな」は、自由な人格発達と自発性を抑圧する最も強力なイデオロギー手段の一つとなる。このスローガンの圧力の下で、人は、あらゆる犠牲を求められ、完全服従を求められる。こうした行為だけが「利他的」なのだ。自分に仕えるのではなく、自分以外の誰かや何かに仕えるのである。』(独立した人間、127ページ)

こうした「利他性」は「モデル市民」と自発的賃金奴隷を創り出すためには理想的であるが、アナキストを創り出す手助けにはならず、個性を発達させることの手助けにすらならない。バクーニンが、叛逆への情熱を賞賛し、それを人間的進歩の鍵だと見なしたのは驚くべきことではないのだ!フロムは、さらに、次のように述べている。利己性と自己愛は『同じではなく、実際には反意語である』そして、『利己的な個人は、他者を愛することはできない(中略)し、自分自身を愛することもできないのだ。』(前掲書、131ページ)自分自身を、従って他者をも愛せない個々人は、自分自身を愛し、自分のそして他者の幸福に関心を持っている人々よりもヒエラルキーに服従しようとするであろう。従って、利己的行動と利他的行動に対する矛盾したアピールを持つ資本主義の矛盾した性質は、自己愛の欠如を、子供時代に促された欠如を、リバータリアンが意識し戦うべき欠如を基盤にしていると理解することができるのだ。

実際、「子供が利他的になるように教育する」衝動の多くは、大人の権力への意志の表明なのである。親がその子供に命令を押しつけようという衝動を感じているならば、親は、自分自身に、その衝動は自分の権力動機や自分の利己性から来ているのではないか、と問うことが賢明であろう。我々の文化は他者に対する権力を求めるように我々を強力に条件づけているため、自分の権力への意志に抗うことのできないちっぽけで弱い個人を手近においておくこと以上に便利なことはないのではないだろうか?命令を下す代わりに、リバータリアンは、社会的行動が自然に発達するままにさせておくことを信じる。社会的行動は、その子供にとって他者の意見が重要になったときに発達するのだ。ネイルは次のように指摘している。『誰もが隣人に良い意見を求めている。外部の力が非社会的行動を強制的に子供に押しつけていない限り、子供は自然に自分が良く見なされるようなことを行おうとするものだ。だが、他者を喜ばそうというこの願望は、子供の成長のある段階で発達する。親と教師が人工的にこの段階を急速に発展させようと努力することで、子供に取り返しのつかない損害を引き起こすのである。』(ネイル著、前掲書、256ページ)

従って、両親は、子供が「利己的」で「ケチ」であることを容認すべきであり、子供時代には子供じみた関心に従うようにさせておくべきなのである。子供の個人的関心が社会的関心(例えば、隣人の意見)と衝突するときには、個人的関心が上位になければならない。個人間の関心の衝突は、いかなるものであれ、一方では尊厳の練習の基盤となり、他方では思いやりの基盤となるはずなのだ。このプロセスによってのみ、子供は自分の個性を発達させることができる。そうすることで、子供は、他者の個性を認識するようになるであろう。これが倫理的諸概念(これは他者とその個性に対する相互尊敬に依存している)を発達させる最初のステップなのである。

J.6.7 「リバータリアン子育て」と呼んでいるものは、単に、子供を甘やかす方法の別名なのではないか?

違う。この異議は自由と我が侭の違いを混同している。子供を自由に育てることは、子供が人のことなど何も考えずに人を傷つけるがままにさせておくことではない。「ノー」と言わないことではないのだ。自由な子供たちが罰・不合理な権威・道徳主義的警告の対象にされないことは真実である。だが、子供たちは他者の権利を侵害する「自由」を持ってはいない。ネイルは次のように述べている。『懲罰的家庭では、子供に権利はない。甘やかしている家庭では、子供はあらゆる権利を持つ。適切な家庭とは、子供と大人が平等の権利を持っている家庭である。』さらに次のように述べている。『子供に自分の思い通りにさせておくこと、他人を犠牲にして自分がやりたいことを行わせておくことは、子供にとって良くない。それは甘やかされた子供を創り出し、甘やかされた子供は悪い市民になるのである。』(サマーヒル、107ページ、167ページ)

両親と子供との意志の相違は必ずある。それを解決する健全な方法は、ある種の妥協的合意に到達することである。不健全な方法は、権威的懲罰に訴えるか、あらゆる社会的権利を与えることで子供を甘やかすかのどちらかである。リバータリアン心理学者たちは、自分の個人的権利を主張しても子供にとって害はないが、道徳主義、つまり、善悪の概念や「行儀が悪い」・「ダメ」・「汚い」といった罪の意識を生み出す言葉を持ち込んだときには害がある、と主張している。

従って、自由な子供たちが、「好きなことを行う」自由を持っていると考えるべきではない。自由とは、人が、他者の自由を侵害しない限りにおいて、好きなことを行う、という意味である。例えば、子供が他者に向かって石を投げないようにさせることと、子供に無理矢理幾何学を学ばせることには、大きな違いがある。石を投げることは他者の権利を侵害するが、幾何学を学ぶことはその子供しか巻き込まない。同じことが、子供に、指ではなく、フォークを使って食べさせるように強いること・「お願いします」とか「ありがとう」と言わせること・自分の部屋を整理整頓するようにさせることなどにも言える。行儀の悪さと部屋の乱雑さは、大人を不快にさせるかもしれないが、それは大人の権利を侵害してはいない。もちろん、大人の「権利」を、子供が行うあらゆることから不快にさせられないことと定義することもできるだろう。だが、これは、権威主義の免罪符でしかなく、子供の権利という概念を全く無意味にしているのである。

既に述べたように、子供に自由を与えることは、子供を物理的に危険にさらしたままでいることを意味してはいない。例えば、病気の子供に、外で遊びたいか、処方された薬を飲みたいか決めるように問うべきではないし、疲労困憊している子供に、眠りたいかどうかを尋ねるべきでもない。だが、こういった必要な権威の諸形態を課すことは、子供にその年齢で対処できる限り多くの責任を与えるべきだ、という考えと両立する。このようにして初めて、子供は自信を発達させることができるのだ。そして、ここでも、どれほどの責任を子供に与えるべきなのかを決めるときに、親が自分自身の動機を吟味することが重要なのである。例えば、子供の服を選んであげようと言い張っている親は、トミーちゃんが親の社会的立場を悪く見られかねない服を選ぶのではないか、と心配していることが多いものなのである。

家庭での「規律」を「服従」と同じだとしている人々に関して言えば、後者は、大人の権力願望を満足させるために子供を必要としている。自己統制は、子供と行われる権力ゲームが存在しないことを意味しており、「私がやれと言ったのだから、やるんだよ。さもないとどうなるか分かっているだろうな!」といった大声のないことを意味している。だが、リバータリアンの家庭には、この非合理的で権力追求型の権威は存在しないが、ある種の「権威」と呼べるものがそれでも存在する。つまり、自分自身の権利を主張することだけでなく、大人による保護・世話・責任が存在するのである。ネイルは次のように主張している。『そうした権威は服従を求めることもあるが、服従をすることもある。例えば、私は自分の娘に対して次のように言うことができる。「応接間に泥まみれで入ってはいけないよ。」これは、娘が私に次のように言うのと同じである。「私の部屋から出ていって、お父さん。今はお父さんにここにいてほしくない。」もちろん、私は一言も言わずにこの要請に従うのである。』(前掲書、156ページ)従って、リバータリアンの家庭にも「規律」は依然としてあるだろうが、それは、個々の家族メンバーが持つ個人的権利を保護する類のものになるであろう。

子供を自由の中で育てることは、同時に、多くの玩具やお金などを与えることを意味してはいない。ライヒ学派は、子供が求めるもの全てを子供に与えるべきではなく、余りにも多くのものを与えるよりはほとんど与えない方が良い、と主張してきた。コマーシャル広告キャンペーンの継続的な爆撃の下で、今日の親たちは、子供に余りにも多くのものを与える傾向にあり、その結果、子供たちはプレゼントをありがたく思うことを止め、滅多に自分の所有物を大切にしないものだ。これと同じことがお金にも言える。多く与えられすぎると、子供の創造性や遊び生活に有害になりかねない。あまりにも多くの玩具を与えられていなければ、子供たちは、手元にある素材で自分の玩具を作ることから創造的な楽しさを引き出すであろう−−甘やかされすぎると、この楽しみは剥奪されてしまうのだ。心理学者たちは、多くのプレゼントを与えすぎる親は、愛情をほとんど注いでいないことを補おうとしている場合が多い、と指摘している。

子供たちを罰するよりも、報酬を上げる方が未だ危険は少ない。だが、報酬も子供のやる気を損なう可能性を持っている。まず第一に、いくつかの心理学研究が示しているように(セクションI.4.10を参照)、報酬は余計なことであり、実際、動機と創造性を減少させることが多いからである。創造的人々は創造する喜びのために活動する。金銭的関心は、創造的プロセスにとって主要なこと(必要なこと)ではない。第二に、報酬は誤ったメッセージを伝えるからである。つまり、報酬が与えられる行為を行うことは、行為それ自体のために行うことや、生産的で創造的な活動に関連する喜びには値しないのだ。そして第三に、報酬は、競争システムの最悪の諸側面を強化することが多いものだからである。社会でなされねばならない仕事を行うよう人々を動機づけることのできる唯一のものは金だ、という態度を導くのである。

これらは、子供を甘やかすことと子供を自由に育てることとを区別する様々な考察事項の中のほんのいくつかでしかない。現実に、子供時代の幸福を破壊し、歪められた人格を生み出すことで、その最も逐語的な意味で子供を甘やかしているのは、懲罰的家庭の罰と恐怖なのである。大人になると、懲罰主義の犠牲者たちは、抑圧された激情と恐怖だけでなく、サディズム・破壊的衝動・貪欲・性的倒錯などのような一つ以上の反社会的二次的動因を課せられてしまうものである。意識の直下にそうした衝動が存在していることが不安を引き起こす。これは、自動的に、幾重にも重なる硬直した筋肉鎧層によって守られており、それが、その人を、堅苦しく、欲求不満で、辛辣で、内的空虚の感覚を課せられたままにさせる。そうした条件では、民衆は容易く過剰消費という資本主義の福音の犠牲者になり果てる。その福音は、商品を購入することで金銭が内的空虚さを埋めることができると約束している−−もちろん、この約束こそ虚ろなのだ。

神経症的に鎧を着けた人はスケープゴートを探し、自分の欲求不満と不安の責任を負わせ、抑圧された憤怒の憂さ晴らしの対象とすることが多い。反動的政治家は、支配エリートの利益になるように作られたプロパガンダを使って、マイノリティや「敵対国家」に対してそうした衝動を向ける方法を熟知している。だが、非常に重要なことだが、懲罰主義的育て方によって獲得されたサディスティックな衝動と権威への尊敬が組み合わされると、服従的・権威主義的人格が創り出されるものなのだ−−そうした男女は、「目上の者」の命令に盲目的に従いながらも、同時に「目下の者」(それが家族においてであろうと、国家官僚制においてであろうと、企業においてであろうと)に対する権威を行使したいと思っている。このようにして、「伝統的」(例えば、権威主義的・懲罰主義的・家父長主義的)家族は、権威主義的文明に必要な基盤なのであり、世代から世代へとその文明とそれに付随する社会的諸悪を再生産しているのだ。アーヴィング=スタウブの悪の根元は、投獄されたSS隊員たちに対するインタビューが載っている。多数のインタビュー(表面上「正常な」人々が、どのようにして、底知れぬ冷酷さと暴力の行為を行い得たのかを明らかにするために行われた)の中で、SS隊員たちの圧倒的多数が、権威主義的で懲罰主義的家庭で育ったことが明らかにされている。

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