アナキズムFAQ

J.5.10 何故アナキストは協同組合を支援するのか?

協同組合の支持はアナキズム著作において共通の特徴である。実際、協同組合に対するアナキストの支援は、我々の理想を述べるためにアナキストという言葉を使ったのと同じぐらい古い。何故、アナキストは協同組合を支持しているのだろうか?基本的に、その理由は、協同組合は、アナキストが現在時において望んでいる未来社会組織の一例だと見なされているからである。バクーニンは次のように論じている。『協同組合システムは(中略)将来の経済秩序の萌芽をその内部に抱えているのだ。』(バクーニンの哲学、382ページ)

アナキストはあらゆる種類の協同組合−−住宅・食糧・信用金庫・生産組合など−−を支持している。全ての協同組合が有効なのは、メンバー自身の事柄を自分で管理する広範な経験を確保するだけでなく、共通の利益を求めて共に活動することにメンバーを慣れさせるためである。そのように、全ての協同組合は、自主管理とアナーキーの実行(ある程度までだが)の有効な実例なのである。だが、ここで、我々は生産協同組合、つまり、仕事場協同組合に議論を集中しよう。その理由は、仕事場協同組合は、潜在的に、資本主義的生産様式を、賃金労働ではなく、共同労働(associated labor)に基づいた生産様式に置き換えることができるからだ。資本主義が産業と農業の内部に存在する限り、他の協同組合が数多くあったとしても、既存システムを終焉させることにはならないだろう。資本と富は、仕事場での抑圧と搾取によって蓄積されているのだから、賃金奴隷が存在する限り、アナーキーは存在しないのだ。

協同組合が『将来の萌芽』なのは、次の二つの理由による。第一に、協同組合は、一人の労働者が一票を持つことに基づいている。言い換えれば、労働をしている人が、自分が仕事を行っている中で、仕事場の管理をするのである(つまり、ある種の労働者自主管理に基づいているのである)。したがって、協同組合は、アナキストが支持している「水平的な」直接民主主義組織の一例なのであり、だからこそ、経済内部での「アナーキーの実行」(不完全だったとしても)の一例なのである。さらに、協同組合は、労働者階級の自助と自主活動の一例でもある。協同組合は、仕事を提供してくれる他者に依存するのではなく、御用聞き階級を雇っている主人階級の存在抜きで、生産を行うことができるということを示しているのである。

仕事場協同組合は、アナキズム「経済」の実行可能性の証拠も示している。充分認められていることだが、協同組合は通常、資本主義でそれに相当するものよりももっと生産的であり、能率的であることが多い。このことは、ヒエラルキー型仕事場は、有用な品物を産み出すために必要ではない、有害にすらなり得るということを示しているのだ。実際、資本主義市場は、実際には資源を効率よく割り当ててはいない、ということも示しているのである(このことに関してはセクションJ.5.12で論じる)。ならば、何故、協同組合はもっと効率的になるはずなのだろうか?

まず第一に、協同組合と関連して自由が増加するというポジティブな効果が挙げられる。

協同組合は、賃金奴隷を廃絶することで、明らかに協同組合で働いている人々の自由を増加させる。自分の労働生活を管理するに当たり、能動的な役割を取ることで、権威主義的な社会的諸関係がリバータリアン諸関係に置き換わるのである。当然、この自由が生産性の増加を導く−−賃金労働が奴隷制度よりも生産的なように、共同労働(associated labor)が賃金奴隷よりも生産的なだ。クロポトキンが次のように論じていたのも当然である。『自分の労働の果実を絶対に盗まれない唯一の保証は、労働の手段を手に入れることである。(中略)人間が最大限本当に生産をするのは、自分が自由に労働しているときなのであり、自分の職業について確固たる選択をしているときなのであり、自分を邪魔する監督者がいないときなのであり、最終的に、自分の仕事が自分に、そして、自分のように仕事をしている人々にも利益をもたらし、怠けている人々にはほとんどもたらさないということが分かっているときだけなのだ。』(パンの略取、145ページ)

参加(つまり自主管理、言い換えれば自由)に関連したポジティブな効果もある。自主管理型の協同組合仕事場では、労働者は意志決定に直接参画する。そのことで、そうした意志決定が、仕事場の全メンバーの技能・経験・考えを芳醇なものにするのである。コリン=ワードの言葉では以下のようになる:

あなたは権威の内部にいるかもしれないし、一つの権威になるかもしれないし、権威を持つかもしれない。最初のことは、命令系統の中での地位から導き出され、第二のことは特殊な知識を持つことで導き出され、第三のことは特殊な知恵を持つことで導き出される。だが、知識と知恵は、地位に従って分配されはしない。それらは、いかなる事業においてもたった一人が独占するものでもない。ヒエラルキー組織−−いかなる企業であれ、オフィスであれ、大学であれ、大商店であれ、病院であれ−−の素晴らしいほどの効率の悪さは、ほとんど普遍的な二つの特徴の結果なのである。一つは、その組織の意志決定主導部が持つヒエラルキーの中で、ピラミッドの底辺にいる人々の知識と知恵が関わる場所がないということである。その知識と知恵は、形式的な指導部構造があるにも関わらず、その機関が上手く機能するように向けられることが多いが、さもなくば、その機関の表面的機能を妨害することに向けられる。なぜならば、それ以外に選択肢がないからだ。もう一つの理由は、底辺にいる人々はどのみちそこにいたくないと思っている、ということだ。そうした人々がその組織にいるのは、経済的必要性のためであって、組織自体の変わりやすい機能的指導部を転覆するという共通の課題を同定しているからではない。

『多分、産業システムの最大の犯罪は、大多数の労働者が投資している才能を体系的に妨げているやり方なのだろう。』(アナーキーの実行、41ページ)

同時に、労働者が自分の仕事場を所有していれば、そのメンバーの技能と能力を発展させることに関心を持ち、明らかに、このことは、仕事場内部での対立がほとんどないことを意味する。資本主義の会社とは異なり、ボスと賃金奴隷が仕事量・仕事条件・自分たちの間に創り出された価値観の分断について対立する必要などないのである。こうした要因全てが、仕事の質・量・効率を増加させるだろう。そして、利用可能な資源の効率的使用を増加させ、新しいテクニックとテクノロジーの導入が促されるのである。

第二に、協同組合の効率の増加は協同組合それ自体に関連する利益から産み出されている。協働は、仕事場内部で利用できる知識と能力の蓄積を増加させ、コミュニケーションとやり取りによってその資源が芳醇になるだけでなく、従業員が、競争して時間とエネルギーを無駄にするのではなく、共に働くことを確実にするのである。アルフィー=コーンは(企業内協同組合の研究に関連して)次のように記している:

サイモン=フレーザーのTjosvold学長は、(中略)電力会社・製造工場・土建会社など多くの種類の組織について(研究を)行った。何度繰り返しても、Tjosvoldは、「深刻な競争は、協働を台無しにする」一方で、「協働が従業員のやる気を起こさせる」ということを発見するばかりだった。(中略)一方、マネージメントの第一人者(中略)T=エドワーズ=デミングは次のように明言している。従業員をお互いに競争させるという実践は、「不公正(かつ)破壊的である。私たちはもはやこのナンセンスに耐えられない。(中略)(我々に必要なことは)企業の諸問題に関して協働することであり、一年間の実績評価・奨励金・ボーナスでは、チームワークのある生活などできはしないのである。(中略)学ぶことや(中略)その他あらゆることから楽しみを奪い取っているのは何か?一番になろうとすることなのだ。」(無競争、240ページ)

(資本主義の会社内部での協働と参画に関する疑問は、セクションJ.5.12で論じる)

第三に、平等が増大することに関わる利益がある。様々な研究によれば、賃金格差が大きくなると、ビジネスの業績は悪化するということが証明されている。100件以上の企業(台所用品からトラックのアクセスまであらゆる製造業)に対して行われた研究によれば、マネージャーと労働者の賃金格差が大きくなればなるほど、生産の質が低下することを示していた(ダグラス=カウハードとデヴィッド=ルヴァイン共著、「生産品質と賃金平等」、季刊 行政科学、37号(1992年6月号)、302ページ〜330ページ)。最大の不平等を持つビジネスは、高い従業員異動率で悩まされている。この研究の著者デヴィッド=ルヴァインは、次のように述べている。『こうした組織は、共通の目標を持った人々の仕事場を維持することはできなかった。』(ジョン=バイルン著、「CEOの給料はどこまで高くなるのか?」、ビジネス=ウィーク、1996年4月22日で引用されている)

(実際、収入の不平等が持つネガティブな効果は、全国レベルでも見られている。経済学者、トーステン=パーソンとグイド=タベリーニは、歴史的不平等と成長に関する徹底的な統計分析を行い、より平等な収入を持っている国家ほど、早い生産成長を経験していることが多い、ということを発見した。(「不平等は成長にとって有害なのか?」、北米経済レビュー、84号、1994年6月、600ページ〜621ページ)他の多くの研究も、この知見を確認しており、実生活もまた、資本主義の諸前提を否認しているのだ。不平等は、そして、不平等を産み出している資本主義経済さえもが、我々皆にとって有害なのである。)

これは予期されていたことだ。労働者が、自分が創り出した価値の量が増大しても、最高経営者と金持ちエリートがそれを独占し、雇用の見込みを確保するために企業に対して再投資されはしない、ということを理解している場合、その仕事に特別な労力をつぎ込んだり、仕事の質に気を配ったりしようとはしないであろう。失業の脅しを使って従業員にもっと仕事をさせようとしている経営者たちが誤った経済を創り出しているのである。彼らは、この適応戦略のために短期的に利潤の減少を先延ばしできる(そして、その過程において自分たちを金持ちにする)だろうが、システムに対して課している重荷が過酷な長期的結果をもたらすであろう−−経済危機(収入が余りにも歪曲されて現金化の諸問題(realization problems)を創り出すようになり、国際競争に直面して適応の限界に達するため)という点でも、社会崩壊という点でも。

想像できるだろうが、協同組合の仕事場は、資本主義的仕事場よりももっと平等になることが多い。なぜなら、資本主義の会社では、経営陣の収入が、少数の個々人(つまり、会社の大株主たち)に対して(実際には)正当だと見なされねばならないからである。そうした少数の個々人は非常に金持ちであることが普通で、莫大な給料を与えたところでそれほど失うものはないばかりか、自分たちと非常に似通った存在として経営陣を見る傾向にあり、だからこそ自分たちに匹敵する収入を与えるのである。逆に、労働者管理型の会社において経営陣の収入は、労働力に対して正当だと見なされねばならない。そのメンバーは、経営陣の収入と自分たち自身の収入との関係を直接経験し、疑いもなく、経営陣も自分たちと同じ労働者で、自分たちに対して説明責任を持っていると見なす傾向にあるのである。こうした平等主義的雰囲気は、生産と効率にポジティブな影響を与えるだろう。労働者が、自分が創造した価値が他者によって蓄積されるのではなく、実際になされた仕事に従って分配されることを(そして権力を支配するのではないことを)理解するからである。例えば、モンドラゴン協同組合では、最大の給与格差は、14対1の割合になっている(多くの議論がなされた後で、外からの圧力のために3対1から増加したが、実際の最大格差は9対1である)。一方、(合州国では)平均的なCEOは、平均的な工場労働者の140倍の給料を支払われているのである(1960年の41倍から上がった)。

そこで、協同組合は(多かれ少なかれ)、自由・平等・連帯・自主管理というアナキズムの鍵となる原理の利点を(そして、その相互関係を)証明している、と我々は理解している。この原理の適用は、全てを適用しようとも一部を適用しようとも、効率性と仕事に対してポジティブなインパクトを持っているのである−−セクションJ.5.12で論じるように、資本主義市場は、もっと能率の良い生産テクニックの普及を促すどころか、積極的に妨げているのである。それ自身の基準によってすら、資本主義は非難される立場にあるのだ−−資本主義は、資源の効率的使用を促さず、人的「資源」の発展を積極的に妨げているのである。

これらのこと全てにより、アナキストが何故協同組合を支持しているのかははっきりと分かる。我々は『協同組合は、潜在的に、資本主義に置き換わり、資本主義内部で経済的解放の種を運ぶことができる、と確信している。(中略)労働者は、この尊い経験から、守護天使・国家・以前はいた雇用主を抜きにした組織作りの方法と、自身で経済活動を行う方法を学ぶのである。』(ミハイル=バクーニン著、前掲書、399ページ)協同組合は、自由な社会主義経済の可能性について有用な洞察を与えてくれる。ヒエラルキー型資本主義経済内部でさえも、より良い未来は可能であり、生産は協同組合型の方法で組織でき、そのようにすることで平等者として働くことから個人的・社会的利益を得ることができる、ということを協同組合は示しているのである。

だが、だからといって、協同組合運動の全ての側面がアナキストに望ましいとされているわけではない。バクーニンは以下のように指摘していた。『二つの種類の協同組合が存在する。一つはブルジョア協同組合であり、これは、特権階級を産み出す傾向を持っており、この特権階級は、株式所有社会へと組織される新しい集団ブルジョア階級の一種なのである。もう一つは、真の社会主義的協同組合であり、これは、未来の協同組合であり、まさにこの理由で現時点では事実上実感することができないものなのである。』(前掲書、385ページ)つまり、協同組合は未来の萌芽であるが、現時点においては、協同組合を取り巻く資本主義環境によって制限されることが多く、現行システム内部で単に生き残るためにそのヴィジョンを狭めているのである。

大部分のアナキストにとって協同組合の経験は、それがどれほど原理的に優れており、実践的に有効であろうとも、「ブルジョア」的存在の狭いサークルの中で保たれるのであれば、顕性のものにはなれず、大衆を自由にすることはできないと証明されていることは疑いもない。この点に関しては、セクションJ.5.11で論じるため、ここでは詳しくは触れない。十全に発展するために、協同組合は、地域組合主義と産業組合主義・アナキズム的な社会的枠組みの創造を含んだより広い社会運動の一部にならねばならない。この枠組みが、『真に社会主義的な協働』を促すことができ、『ブルジョア的協働』を阻止できるのである。マレイ=ブクチンは以下のように正しく論じている。『大企業と国家に敵対する二重権力として、革命的自治体連合論(つまりコミュナリスト)の目標を達成することに焦点を当てた、リバータリアン自治体連合論(やその他のアナキスト)の文脈と運動から引き剥がされてしまえば、食物(やその他の)協同組合は、資本主義と国家が挑戦されることなく容易く容認できるブルジョア事業と同じになってしまう。』(民主主義と自然、第9号、175ページ)

従って、協同組合はアナキズム思想と実践の重要な一側面ではあるが、我々の活動の全てでもなければ、最終目的でもないのである。古い社会の殻の中で新しい社会の全てを(少なくとも大部分を)構築する広範な社会運動なしに、協同組合は、資本主義の成長を止めることもできなければ、資本主義経済の狭い展望を超越することもできないのだ。

J.5.11 労働者が本当に自主管理をしたいと思っているのなら、何故生産者協同組合がもっと増えていないのだろうか?

資本主義の支持者たちは、労働者が本当に望んでいるのなら生産者協同組合は自発的に出現してもいいはずだ、と主張する。その論法は次のようなものである。協同組合は、「金持ちの過激派」や、既存資本主義企業を買い上げる目的で財源を貯蓄している裕福な労働者たちによって、最初に資金提供される。そして、そうした協同組合が真に経済的に実行可能で、労働者が望んでいるのであれば、最終的に資本主義を弱体化させるまで協同組合は広がるはずだ。従って、これが生じていない以上、労働者自主管理は経済的に実行できないものか、さもなくば、労働者にとって本当は魅力的ではないのか、もしくはその両方に違いない、と結論づけるのである(例えば、ロバート=ノージック著、アナーキー・国家・ユートピア、250ページ〜252ページを参照)。

デヴィッド=シュワイカートは、生産者協同組合がそれほど多くない理由は構造的なものだ、と示すことで、断固としてこの主張に答えている。

労働者管理型企業は拡大の原動力を持っていない。資本主義事業が成功すると、その所有者は、自分の組織をさらに大きな規模で増殖させることで自分の利益を増加させる。その所有者は、拡張するための手段を持っていないわけでも、拡張したいという動機を持っていないわけでもない。だが、労働者管理企業の場合は違う。労働者が拡張手段を持っていたとしても、彼らには拡張する気がないのだ。なぜなら、労働者管理企業の成長は新しい労働者をもたらし、増加する売り上げをその新しい労働者と分かち合うことになるからだ。協同組合は、順調であろうとも、自発的に成長することはない。だが、そうであれば、新しい協同組合事業(資本主義社会における)は、この実験を行いたいと思っている新しい金持ちの急進主義者や、裕福な急進主義労働者の集団を必要としていることになる。そうした人々が充分な資金提供をできないことは明らかである。従って、大規模で高まりを見せている協同組合運動が存在しないからといって、労働者自主管理の実行可能性がないとか、労働者が望んでいないとかいうことの証明ではないのである。(資本主義に反対する、239ページ)

同様に、他の構造的諸問題もある。一例として、メンバーの給与レベルがメンバーの民主的投票によって決められているため、協同組合の収入構造は平等主義的な場合が多い、ということが挙げられる。だが、このことは、資本主義環境の中では、最も熟練したメンバーを他の企業が雇ってしまうという危険を協同組合は一貫して持っている、ということを意味する。それ以上に、資本を調達することが難しいのである。

イデオロギー的対立(これだけでも充分だろうが)とは全く別に、外部の投資家は、自分の統制力をほとんど、もしくは全く行使できない事業−−これは協同組合の場合には真であることが多い−−に自分の金を投資することを嫌っている。資本主義環境にいる協同組合は、特別な困難に直面しており、資本主義企業に内在している拡大への原動力を持っていないのだから、協同組合が優勢になっていないことは驚くべきことではない。(前掲書、240ページ)

さらに、協同組合は、資本主義経済が生み出すネガティブな外的影響に直面している。経済における賃金労働と投資資本の存在が、成功している協同組合を唆して、労働者を雇用したり、新しい投資を引きつける株を発行することで、市場変化における変化に対して調整する柔軟さを増加するようにさせるのである。だが、そのようにしてしまうと、所有権を希釈したり、メンバーの誰かをボスにしてしまうことで、協同組合としてのアイデンティティを失ってしまいかねないのである。

生産を増加させるために、生産者協同組合は外部の賃金労働者を雇った。このことが、従業員の労働から搾取し、利益を得る新しい労働者階級を創造した。このことすべてが、ブルジョア精神構造を促したのである。(バクーニンのアナキズム、399ページ)

従って、資本主義市場における労働者の圧力が、協同組合に、短期的には利益を生み出したり生き残らせたりするが長期的には全く有害な活動を追求するようにさせるかもしれないのだ。協同組合が資本主義環境の中で次第に拡大し、資本主義環境を変化させる可能性よりも、資本主義の論理が資本主義内部で機能している協同組合の中に増大し、協同組合を変化させる見込みの方が高いのである(このことは、モンドラゴン協同組合に見ることができる。そこでは、賃労働が利用される規模が少しばかり増えており、実際、1992年以来、その信用組合は非協同組合型の企業に投資するようになったのである。)。資本主義内部にある(十全な協同組合文脈の中で生じてはいない)孤立した協同組合に押しつけられたこのような外的影響が、アナキズムに向かう地域的動きを妨げるのである。協同組合は十全に発展した資本主義経済システム内部で競争に勝つだろうという考えは、単なる希望的観測でしかないのだ。システムが解放的だからというだけで、権威主義な経済社会環境においてそのシステムが生き残るなどということは意味していないのと同じである。

また、文化的諸問題もある。ジョン=エルスターが指摘しているように、それは『自明の理ではあるが、重要である。労働者の好みは大部分がその経済環境によって形成されるのだ。特に、経済組織の現実的様式が、他のもの全てよりも優位に見なされるようになることで、適応的な好みを形成する傾向があるのである。』(「こちらからあちらへ」、社会主義、110ページ)つまり、人々は、「現状」をそういうものだと見なし、「可能性」に向けて変革する強い希望を感じないのである。資本主義の代替案を創り出すという文脈において、このことは、代替案の広がりに対して重大な効果を持ち、この精神的無力感を破壊するための叛逆の精神を鼓舞するアナキストの重要性を示しているのである。

「現状」の受け入れは、合州国でESOPが所有している諸企業のように、協同組合の形式的諸条件を満たしてはいるが効果的な労働者管理を欠いている企業にもある程度まで見られる。ESOP(Employee Stack Ownership Plans)の諸企業は、企業の従業員が、企業株の大部分を手にできるようにしているが、従業員間の株式分配が不平等であるために、労働者のほとんど大多数が、意志決定に対して効果的な制御力も影響力も持つことができない。本当の協同組合(「一人の労働者が一票を持つ」ことに基づいている)とは異なり、こうした企業は「一株、一票」に基づいているため、協同組合というよりも、資本主義企業との共通性を多く持っているのである。

それ以上に、次のような諸問題が無視されてきた。市場に参入し、市場内部で運動することに対する自然の障害(これは全ての企業が直面している)、そして、必要な長期的クレジットの便宜を資本主義銀行から利用しようとするときに協同組合が直面する困難(このことが協同組合により多くの利益をもたらすだろうが、短期的な圧力は協同組合的性質を希釈することになり得る)である。トム=ケイヒルは次のように述べている。『昔の(19世紀の)協同組合も、(中略)信用貸しをする(中略)という問題だけでなく、(中略)財源不足の協同組合の不十分な蓄えを強調しつつ、値下げをしている資本主義企業と競争するという(中略)諸問題も(同様に)抱えていた。』(「協同組合とアナキズム:現代の観点」、アナキズムのために、ポール=グッドウェイ編、239ページ)

さらに、協同組合では『資本の収益は限られている』(トム=ケイヒル著、前掲書、247ページ)ため、投資家は協同組合には投資しないものであり、従って、協同組合は投資の欠如に悩まされることが多くなる。このことは、『成功すれば投資システムを終焉させたり減少させたりしかねない事業の成長を支援することが、投資家の階級利益に反しているなどとは言えない。投資家はそれほど利他的ではない。投資家は自分本位で行動するのであり、投資家階級の利権のためではない。』(前掲書、252ページ〜253ページ)というノージックの主張が誤っていることを示している。ノージックはある程度まで正しい。だが、資本主義企業への投資からの高い利回りか、協同組合からの低い利回りかという選択を考えれば、投資家は前者を選ぶであろう。このことは、投資の生産性や効率を表しているのではない。全く逆なのだ!利潤と資本収益を最大にするという賃金労働の持つ社会的機能を表しているのである(詳細は、次のセクションを参照)。つまり、投資家の私的利権は、一般に、その階級利権を支援しているものなのである(驚くなかれ、階級利権は私的利権から独立してはおらず、私的利権を反映する傾向を持つであろう!)。

トム=ケイヒルは、投資の問題を概略している。『財政問題』が、過去に協同組合が失敗する主たる理由であり、『基本的に、協同組合の普遍的構造と目的とが、いつでも資本の主要源泉に関する諸問題を引き起こしている。財政環境は、一般に、協同組合の精神の出現に敵対している』ためだ、と述べている。また、次のようにも述べている。協同組合は、『仕事をしている人々と所有したり管理したりしている人々との境界を維持する体制づくりを行うことはできない。(中略)外部の投資家が協同組合構造内部で権力を持つことができるようになると、協同組合がその独特の性質を失ってしまうことは当然である。』(前掲書、238ページ〜239ページ)つまり、協同組合が投資家を魅了すると仮定したとしても、そのようにすることのコストが協同組合を資本主義企業へと変換してしまうことになるのだ。

従って、『経験主義的研究は、協同組合は資本主義企業と少なくとも同じぐらい生産的だと示して』おり、多くの協同組合が『長い間旧来のやり方で組織されていた企業を凌ぐほど、すばらしい業績』(ジョン=エルスター著、前掲書、96ページ)をあげているにも関わらず、協同組合は資本主義に置き換わるのではなく適応しようとし、生き残るための合理性という資本主義の諸原理を採用しようとしているのである。全ての物事が平等でありながら、協同組合は資本主義企業よりももっと効率がよい。だが、協同組合が資本主義経済の中で競争しようとすると、全ての物事は平等ではなくなるのだ。

だが、こうした構造的・文化的諸問題にも関わらず、近年、大部分の西洋諸国では生産者協同組合の数が劇的に増加している。例えば、サウル=エストリンとデレク=ジョーンズは、英国における協同組合は、1975年の20から1986年の1600へと増大した、と報告している。フランスでは、500から1500へ、イタリアでは1970年から1982年の間に新しく7000の協同組合が存在するようになった(従業員所有企業は生き残れるか?、労働研究報告書シリーズ、経済省、ハミルトン大学出版、1989年、4月、5月)イタリアの協同組合は、現在では、ゆうに2万を越えており、その多くが大規模で、数多くの支援体制も持っている(この体制が、協同組合の孤立を減らし、資本主義市場内部で欠如している長期的資金援助を提供することで、協同組合の発展を支援しているのである)。

スペインのモンドラゴン協同組合の成功は既に示した。この協同組合は、長期的な資金援助と責務を提供するために、それ自体の信用組合を使って連結した協同組合群を創り出している。従って、少なくとも欧州では、『大規模で成長しつつある協同組合運動』が存在すると思われ、これが、協同組合は経済的実行可能性も労働者に対する魅力もない、というノージックやその他の資本主義支持者によるウソを証明しているのである。

だが、協同組合が資本主義経済で生き残ることができるからといって、自動的に、協同組合が資本主義経済に置き換わるはずだという意味ではない。上で論じたように、孤立した協同組合は、協同組合の展望に完全に真であり続けるというよりも、資本主義の現実に適応しようとするものである。従って、大部分のアナキストにとって、協同組合がその完全な潜在能力を発揮できるのは、社会を変革することを目的とした社会運動の一部となったときだけなのである。地域組合主義と仕事場組合主義というより幅広い運動の一部として、長期の財政支援と財政的責務を提供してくれる相互銀行と共に、協同組合は、連帯と支援のネットワークへと自治体所有されるであろう。このことが、孤立と適応の問題を減少させることになるのである。バクーニンは次のように述べている:

我々は、協同組合連合の創造に反対はしない。多くの観点からそれが必要だと分かっている。(中略)協同組合連合は、ブルジョア資本からの干渉もブルジョア管理からの干渉もなく、組織を作り、利益を追求し、その利益を自分たちで管理することに労働者を慣れさせるのである。(中略)(それらは)結局のところ、ブルジョア排他性ではなく、連帯と共同性という原理に基づいて(いなければならず)、従って、社会は、あまりにも多くの大変革なしに、現在の状況から平等と公正を持つものへと移るであろう。(前掲書、153ページ)

協同組合は、『十全で自由に発展し、全ての人間の産業を包含しながら、繁栄するであろう。平等に基づいた時にのみ、全ての資本(中略)と土地は、集団的所有権によって民衆に属するのである。』(前掲書)

そのときまで、協同組合は資本主義の内部に存在するだろうが、市場の力のために資本主義に置き換わりはしないだろう。社会的運動と集団的行動のみがその十全なる発展を完全に確保できるのである。デヴィッド=シュウェイカートは次のように論じている:

労働者管理企業が大多数の人々によって望まれていたとしても、さらにそれがもっと生産的だったとしても、最初から資本主義企業に支配されている市場は労働者管理企業を選択しないだろう。民衆の願望に最も沿ったものだけが自由競争という闘争を生き残るだろうという常識的で新古典主義の見解は、いかなる点に即してみても、完全に真だったことなどない。仕事場組織という点では、半面の真理ですらないのだ。(前掲書、240ページ)

つまり、アナキストは、資本主義内部での協同組合を支援し、創造し、促進する一方で、『富の生産・分配プロセスにおけるブルジョア資本の優勢という既存条件下で、協同組合システムを実践することの不可能性』を理解している。このために、大部分のアナキストは、産業的組合と地域組合のような戦闘的組織が必要だ、そして、バクーニンの言葉で言えば、自由社会をもたらす手助けをするための『特権を持った世界に反対する労働者の組織を形成する』団体が必要だと強調しているのである。(ミハイル=バクーニン著、前掲書、185ページ)

J.5.12 自主管理が効率的ならば、資本主義企業は市場によって強制的にそれを導入させられるのだろうか?

協同組合が資本主義を改良し去ることはできないということを認める(前セクションを参照)ことができても、「自由市場」資本主義の支持者たちは、自由放任システムが、労働者自主管理を資本主義内部に蔓延させる、と主張するだろう。なぜなら、自主管理が賃金奴隷よりも効率的なのであれば、自主管理を導入した資本主義企業は競争に有利になることになり、そのことで、競争相手も自主管理を導入しなければならなくなるか、さもなくば競争相手が倒産してしまうかするからである。これは真のアナキズム的生産方法ではないにせよ、非常に近いものとなる(と主張されているのだが)だろうし、従って、資本主義はその権威主義的性質を(大部分)取り除くようそれ自体で自然に改良できるというわけだ。

こうした考えは理論的には最もらしく思われるが、実践ではうまく行かないものだ。自由市場資本主義は、その効率追求の性質にもかかわらず(というよりも、たぶん、以下で見るように、そのために)、生産内部で労働者に権能を与える諸構造を蔓延させることに対して数え切れないほどの障害物を持っているのである。労働者の参画と自主管理に関連した効率性の増大は多くの資本主義企業の注目を引いているが、実際に行われたいくつかの実験は普及していない、という事実からこのことは分かる。これは、本質的に、資本主義的生産の性質と資本主義が生み出す社会的諸関係に起因しているのである。

セクションD.10で記したように、資本主義企業(特に西洋の)はテクノロジーと管理構造を重視しており、その目的は労働者を単純作業に従事させ無力にすることであった。このようにして、労働者を次第に「市場原理」に従属させようとしていたのである(つまり、労働者を訓練しやすくしているのである。そのことで特定労働者を交換できるように労働者のプールを増加させ、そして、管理側の解雇権限を増大させることで労働者の力を減じているのである。)。もちろん、実際に起こっていることはといえば、短期間管理側が優位になった後に、労働力は、反撃し、その生産力を再び行使するための新しくもっと効果的な方法を見つけだした、ということであった。短期間ではテクノロジーの変化がうまく機能しているが、長期的には勢力のバランスが変化するため、経営側は労働力を犠牲にして自分自身に権能を与えようとせざるを得なくなったのである。

労働者を御用聞きに還元しようという試みが失敗しているのは驚くべきことではない。労働者の経験と助力は、生産が実際確実に行われるために必要なのである。労働者が命令を厳密に忠実に行うとき(つまり、労働者が「順法闘争を行う」とき)、生産は中止する恐れがあるのだ。従って、大部分の資本主義者は、ある程度まで労働者を仕事場内部で「協同」させておく必要があると気づいているのである。いくつかの資本主義企業はさらに先へと進んでいる。従業員の経験・スキル・能力・思考を十全に搾取する(伝統的な権威主義的資本主義仕事場は否定しているが、確かにこれは搾取なのだ)ことの利点を理解しながら、仕事を「豊かに」し、「拡大」し、労働者と上司との「協同」を増大させるための様々な枠組みを導入しているのである。つまり、資本主義企業の中には、サム=ドルゴフの言葉を使えば『少しばかりの影響力・非常に限定された意志決定権限領域・仕事場の諸条件を管理することに対する−−良くても二次的な−−声』(アナキストのコレクティブ、81ページ)を導入することによって、自分自身の搾取に「参加する」ことを労働者に奨励しようとしているものもあるのだ。経営側と所有者はなおも権力を持ち、労働者の生産活動から利潤の大部分を得ているのである。

デヴィッド=ノーブルは、資本主義企業内部での労働者自主管理実験に関連した諸問題について優れた要約をしている:

『そうしたプログラムの参加者は、確かに、解放的で陽気な経験をする可能性がある。人々に自分たち自身の手つかずの潜在性を呼び覚まし、同時に集団的労働者生産管理の真の可能性を呼び覚ましながら。あるマネージャーが以前行われた計画(ゼネラル=エレクトリックのプログラムにいる労働者たち)について次のように述べていた。「そうした人々は、二度と同じ人間にはならないでしょう。彼らは物事が変わりうるということを理解したのです。」だが、そうしたプログラムが引き起こしている興奮と情熱は、共通の目的に向けて強められた責務の感覚と共に、労働力の利益に相反するようにたやすく利用されうるのだ。まず第一に、この目的は本当に「共通の」ものではなく、経営側だけが決定したものなのだ。経営側は、何を・いつ・何処で生産するのかを依然として決定し続けているのである。生産への参加は、投資決定への参加を含んでいない。つまり、参加は、現実には、通常業務−−命令に従う−−の一つのバリエーションでしかなく、協同という名前の下で服従を促しているのある。

『第二に、参加プログラムは、エリートの創造に寄与しうる。そして、特権を使って労働力を減じ、経営側に対する「協同組合的」態度を多くする−−つまり、労働組合の経営側に対する敵対的スタンスを弱めると同時に、組合員を減少させているのである。(中略)

『第三に、そうしたプログラムは、経営側が労働者−−今や、自分が知っていることを共有するという共同体精神によって勇気づけられている労働者−−から学ぶことができるようにしている。そして、テイラー主義(Taylorist)の伝統において、その知識を労働者に対抗すべく利用するのである。ある計画参加者が省みていたように、「彼らは、現場の人々から学び、テクノロジーを適正にする方法について知識を得、そして、その知識を持つやいなや、試験的プログラムを削減し、その知識を機械にそそぎ込み、人々が機械を動かすための知識を持たないように−−企業が出した条件で、適切な補償金もなく−−させたのである。彼らは全ての利益を自分たちのために保持していたのだった。」(中略)

『第四に、そうしたプログラムは労働組合のルールや苦情申し立て手続きの裏をかいたり、労働組合を一挙に排除するやり方を経営側に提供できていたのだった。(中略)』(生産諸力、318ページ〜319ページ)

資本主義が導入し支援した「労働者管理」は、労働者が自分が働いている企業の株を受け取る状況に酷似している。個人の労働の価値と、その労働で受け取っている賃金とのギャップを是正する方向に向かうのであれば、そのこと自体が完全に悪いこととはならないかもしれない(もちろん、仕事場のヒエラルキーという問題や仕事場それ自体の内部にある社会的諸関係を扱ってはいないが)。このことの本当のマイナス面は、もっと熱心に働くようにするための「鞭についている飴」の誘惑なのである−−君が企業のために余計に熱心に仕事をすれば、君の株の価値がさらに上がるだろう、というわけだ。だが、明らかに、ボスが君を犠牲にして金持ちになるのであり、従って君が働けば働くほどボスが金持ちになり、君はさらに騙されることになるのである。多くの労働者には余裕がない−−彼らはお金を必要としている、少なくともお金を求めている−−とアナキストが感じるのは一つの選択であるが、我々は、株券が多くの労働者のためになるとは信じていない。労働者は、最終的には、より少ない額のために、さらに熱心に働く羽目になるのである。結局、株券は全ての利益を示してはおらず(大部分は経営陣の手にわたるのが落ちである)、労働者の間で分割されることもないのだ。それ以上に、労働者は、「自分の」企業の株価を損なうという恐怖のために、直接行動を行おうとしなくなるであろう。そして、自分自身が悪い労働条件の下で辛抱して、さらに長時間、さらに集中的に労働することになるであろう。

だが、いずれにせよ、「労働者管理」に関するそうした資本主義実験の結果は興味深く、何故自主管理が市場要因によって広がらないのかを示しているのである(そして、同様に、何故真の協同組合が資本主義内部で広まっていないのかという疑問と直接の関連性を持っているのである−−前セクションを参照)。

ある専門家によれば、『あらゆる研究が、労働の意志決定権限が本当に増大すれば、労働の満足が促されたり、(中略)生産性が増大する、ということを証明している。そうした一貫性を持った知見は社会研究では希だと私は思う。』(ハーバート=ジンティズ著、「職業安定の性質と資本主義生産の理論」、急進的政治経済学、第一号、252ページに引用されたポール=B=ランバーグの言葉)

こうした知見にも関わらず、『参加型諸関係に向かう変化は、資本主義的生産ではほとんど現れてはいない。(中略)(これは)資本主義生産の内部機構である効率性に関する新古典主義的主張とは矛盾している。』(ハーバート=ジンツ著、前掲書、252ページ)何故そうなのだろうか?

経済学者ウィリアム=ラゾニックは、その理由について次のように書いている。『1970年代前半における職務充実・職務拡大に関する多くの試みは、労働者のさらに多くのより良い努力をもたらすこととなった。だが、多くの「成功した」実験は、労働者の仕事が充実し拡大して、労働者が企業の既存ヒエラルキー構造に内在する経営側の伝統的特権に疑問を持った時に、打ち切られたのである。』(作業現場における競争的利点、282ページ)

これは重大な結果である。なぜなら、資本主義企業内部の支配部門は、より効率の良い生産方法であるにも関わらず、そうした構想を導入しないことで既得権益を持つということを示しているからだ。容易く想像できるだろうが、経営側は、参加型の構想に抵抗する明確な動機を持っているのである(そして、デヴィッド=シュワイカートが記しているように、そうした抵抗は、『妨害工作ぎりぎりのものであることも多く、よく知られ、広く報告されているのである。』(資本主義に抵抗する、229ページ))この一例として、デヴィッド=ノーブルは、米国マサチューセッツ州リンにあるゼネラル=エレクトリック社が1960年代後期に行った構想(「パイロット=プログラム」と呼ばれていた)について次のように論じている。

『相当な葛藤があった後に、GEは、労働生活の質を高めるプログラムを導入した。(中略)機械や生産工程の管理を労働者にもっと行わせるようにし、現場主任を削減したのである。やがて、あらゆる指標が、このプログラムは成功していることを示すようになった。機械の使用・生産高・品質が向上し、スクラップ発生率・機械の不稼働時間・労働者の常習的欠勤・離職率が減少し、現場での争いごとも激減したのだった。だが、このプログラムを初めて一年しないうち−−労働組合が、仕事場全体と他の場所にあるGEにもこのプログラムを拡張するべきだと要求した後−−に、経営陣は労働力に対する統制を失うことを恐れて、このプログラムを撤廃したのだった。明らかに、この企業は、経営側の管理力を回復し確保するために、技術的・経済的効率性の獲得を喜んで犠牲にしたのだ。』(民衆のいない進歩、65ページのフットノート)

だが、企業の所有者は、純益に関心を持っている以上、参加を導入するように管理側に強制することもできる、と主張することもできよう。この方法を使えば、利潤を追求する個人の所有者が生産を再構成し、参加が経済全般に行き渡るために、競争的市場動向が究極的には優勢になるであろう、というのである。実際、そうした構想を導入したことのある企業はいくつかあるが、それは広がりそうもない。「自由市場」資本主義経済理論は、より効率的な技術を導入している企業が繁栄し、競争的市場力によって他の企業がその技術を導入するようになる、と述べているが、このこととは矛盾しているのである。

これには三つの理由がある。

まず第一に、「自由市場」資本主義内部で、労働者の手中に技能と力を保持しておく(実際それらを強める)ことは、資本主義企業が利潤を最大にする(つまり、無給労働をさせる)ことが難しくなってしまう、という事実がある。このことは労働者の力を強めることになり、労働者は賃金増加を獲得する(つまり、ボスに対して生み出す剰余価値の量を減じる)ためにその力を使いかねないのである。

労働者管理は基本的に資本主義の特権−−収益の取り分や、労働日により多くの無給労働を搾り取る能力を含めて−−の奪取を導く。短期的には、労働者管理はより高い生産性を導くかもしれない(そして、それに翻弄されるかもしれない)が、長期的には、資本主義者がその利益を最大のものにすることを難しくするのである。そこで、『利潤が誠実な労働交換(the integrity of the labour exchange)に依存しているのならば、強力に中央集権化された統制構造は、雇用主の利益に仕えるだけでなく、生産性に関する考慮とは無関係に、綿密な労働分業を命じることになる。このため、「労働者管理」が持つより大きな生産性の証拠は、企業の新古典主義理論に対する最も劇的な異常性を示しているのである:労働者管理は、個々の労働者から引き出される有効な労働量を増大させ、職務諸活動の調整を改善する一方で、連帯感を増大させ、その根元にある最高権威が持つヒエラルキー構造を偽りのものにする。つまり、総価格の分配に対する闘争において労働者の力を増大させる危険があるのだ。』(ハーバート=ジンツ著、前掲書、264ページ)

多くの労働者を参加させている仕事場では、自分の技能レベルを縮小したり、賃金削減を受け入れたり、資本家の利益を促すためだけに自分の仕事のペースを増大させたりすることに労働者が同意しているのを目の当たりにすることはほとんどないだろう。単純に言って、利潤の最大化は、テクノロジーの効率性と等価ではない。労働者にもっと長時間働かせ、もっと集中的に働かせ、もっと不快な労働環境で働かせることで、利潤は増大するかもしれない。だが、同じ投入量に対してもっと多くの生産高を生み出してはいないのだ。労働者管理は、労働の質と量を変革することで利潤を高めるという資本主義手段を省略する。この要件こそが、資本主義者が労働者管理を支持しない理由を理解する手助けをもしてくれる−−労働者管理はもっと効率が良いにも関わらず、資本家が労働コストを最小限にすることによって利益を最大のものにすることをし難くしているのである。それ以上に、資本家に対する利益を最大にするために、労働者を生産プロセスに投入する性質を変革せよという要求は、労働時間と労働強度、そして、労働者・経営側・所有者への付加価値の分配に関する闘争を引き起こし、そのために、参加が持つ利点を破壊してしまうであろう。

従って、労働者管理が広がらない理由を説明するときには、仕事場内部での力が重要な役割を演じているのである−−労働者管理は、ボスが労働者からより多くの無給労働を引き出すことを難しくしているのである。

第二の理由は、この第一の理由と関連している。これも企業内部での権力構造に基づいているが、この権力は、生み出される剰余価値の量を当初から統制する能力(つまり、労働者に対する権力)ではなく、労働者が生み出した剰余価値を統制することに関わっている。

ヒエラルキー型管理は、利益が少数者の手に流れ込むことを確実にする方法である。権力を中央に集中することで、労働者が生み出した剰余価値は、トップにいる人々(つまり、経営側と資本家)に利益をもたらすように分配することができるようになる。資本主義下での利益の最大化とは、資本家が入手できる最大利益を意味する−−販売価格とコストそれ自体との極大差を意味しているのではないのだ。この差が、労働者管理実験が成功していても、経営側によって中止させられてしまうという奇妙なパラドックスを説明してくれる。このパラドックスは、資本主義生産の(つまり、賃金労働の)ヒエラルキー型性質を認識すれば、簡単に説明できる。労働者管理は、労働者の手中に(いくつかの)権力を置くことで、経営側の権威を弱体化させ、究極的には、労働者が生み出した剰余価値を管理し、経営側が適切だと見なすように剰余価値を割り振る力を弱体化させるのである。つまり、労働者管理はコストを削減し、効率性と生産性を増大させる(つまり、価格とコストとの差を最大にする)一方、自分たちが適していると思っているように剰余価値を分配する経営側の権限を弱体化させることで利益の最大化を(潜在的に)減じるのである。

労働者管理の増大は、資本主義者の利益を最大にするという潜在性を減じ、そのことで、経営側ならびに所有者によって抑圧されることになるだろう。事実、ヒエラルキー型生産管理は、効率性や生産性のためではなく、少数者の手に資本の蓄積を提供するためだけに存在していると論じることができるのだ(ステファン=A=マージン著、ボスは何をしているのか?:資本主義生産におけるヒエラルキーの起源と機能、178ページ〜248ページを参照)。これが、利益最大化が効率性を伴わず、効率の悪い方向に積極的に働きかねない理由なのである。

デヴィッド=ノーブルが論じているように、権力は、資本主義を理解するための鍵なのであり、利益それ自体を追求する動機ではない

『(労働者管理による効率性の増大よりも)統制を選択することで、(中略)経営側は(中略)意識的に、そして、そうなるはずだと前提にしながら、採算がとれる生産を進んで犠牲にした。従って、(GEにおける)パイロット=プログラム(のような経験)は、(中略)企業内部での生産と利益双方に及ぼす力に関する経営側の究極的優先順位だけでなく、私的権力・特権の保持と、効率的で品質が高く有用な生産という社会的目標との大きな矛盾をも例証している。

『資本主義が利潤に動機づけられた効率的な生産システムだというのは、一般的な混乱であり、特に、形式的経済学で訓練されたり、それに極度に影響を受けている人々にとってはそうなのである。これは真実ではないし、一度も真実であったためしがない。私的所有と生産プロセスの統制を通じて利益を最大にするという動機があるなら、労働者管理の発展を終わらせることなど決してなかっただろう。目標は、いつも支配(そしてそれに伴う権力と特権)であり、支配の維持だったのだ。究極のところ、理論家が夢想した経済ゲームのルールに従って資本家が遊んでいるということを示す歴史的証拠などほとんどないのである。逆に、利益を上げ、効率的な生産をするという目標が、継続的支配の要件と合致しなかったときには、資本はもっと古びた−−合法で、政治的で、必要な場合には軍事的な−−手段に訴える、ということを示している充分な証拠があるのだ。いつでも、入念な計算の背後には武力の脅威があるのである。生産手段の私的所有と、生産を通じた利益追求はいつも究極的に社会にとって利益となるというイデオロギー的作り話によって、この支配システムはこれまで合法とされてきたのだ。資本主義は、より良く、より安く、より多くの商品を生むと言われており、そのようにすることで経済成長を促すとされている。(中略)パイロット=プログラムの話−−そして、これは米国産業で数千ある同様の計画のほんの一つにすぎないが−−は、現実の記述としてこの神話が適切なのかどうか関する難しい問題を提起しているのである。』(生産諸力、321ページ〜322ページ)

ヒエラルキー機構(つまり、支配)は、利益が少数者によって管理され、従って、その権力と特権を確保する方法を使って利益を分配できることを確実にするために本質的なことである。労働者管理は、経営権を弱体化させることで、理論上は「収益」(価格とコストとの差)を増大させているにも関わらず、一定方向に利益を最大化している権力を弱体化させる。労働者管理が、投資の決定や、賃金・投資・配当・経営側の給料などに剰余金(つまり、収益)を分配する方法といったより幅広い領域に拡張し始める(もしくは、経営側が、そのように拡張する可能性を知る)につれ、管理側は、労働者と労働者が生み出す剰余金との双方に及ぼす自分たちの権力を確保するために、その計画を終わらせようとし始める。こうする中で、管理側は実際にその企業を所有している人々によって支持される。企業の所有者は、明らかに、自分の投資に対して最大の収益を確保しない体制を支持することなどはないのだ。労働者管理を導入すれば、技術的にはもっと効率的になるのだが、この最大収益は危険にさらされることになる。剰余金の管理が、所有者たちと類似した関心と目的を持っている経営側のエリートではなく、労働者に任せられるからだ−−言い替えれば、平等主義的仕事場は平等主義的収益分配を生み出す(労働者の協同組合の経験が証明しているように)のである。GEの労働者管理計画に参加した一人の言葉を借りれば、『私たちが製造に関する理由で団結していれば、協同組合事業のように、その成果を公平に分配したはずです。』(ノーブル著、前掲書、295ページに引用)そうした可能性に賛同する所有者はいないのだ。

第三に、「自由」市場の中で生き残ることは、短期的に集中することを意味する。長期的利益は、より大きいにも関わらず、要点をはずれているのだ。自由市場は利益を必要として おり、だからこそ、企業は、市場の力によって短期的利益を最大にするための大きな圧力下にあるのである(同様の状況が「グリーン」=テクノロジーに企業が投資するときにも生じており、このことにいついては、セクションE.5を参照してほしい)。

参加には信頼が必要であり、人間とテクノロジーに対する投資が必要であり、それを可能にした労働者と一体になった労働者参加から生じる増大する付加価値を共有しようという意欲が必要なのである。こうした諸要因全てが、将来のもっと豊富な利益として戻ってくるために、短期的利益をむしばむであろう。つまり、参加を促すことは、短期的利益を犠牲にして、長期的利益を増大させることが多いのだ(労働者は確かに参加をペテンだとは見なしていないため、権力・労働条件・賃金引き上げという点で本物の利益を経験するはずなのである)。自由市場環境内部での企業の場合、企業は、できるだけ早くハイリターンを求めている株主と投資家からの圧力下にある。企業が高配当を生み出さないのなら、株主は高配当を生み出す会社に移ってしまい、その株価が下落する。これが、企業を(そして、同様に企業に対して短期貸付を行っている銀行を)、短期的利益を最大のものにするように行動させる市場動向なのである。

そうした投資を行っておらず(そして、単純作業化テクノロジーに直接投資したり、コストを削減するために仕事量を増大させたりしている)、そのことで市場占有率を勝ち取っている競争相手に直面したり、景気変動がその利ざやを減少させるように下降して、企業の投資家と労働者に対する責務を達成することが難しくなってしまうと、人間と信頼に投資しようとしている企業は、通常、そうすることができなくなってしまうものである。仕事で人々に権能を与えるか、さもなくば、人々に単純作業をさせたり、失業の恐怖を利用して労働者をもっと熱心に働かせ、命令に従うようにさせるか、という選択に直面すると、資本主義企業は後者の選択肢を必ず選ぶ(たぶんそれを好ましいとする)のである(これは1970年代に生じていたことなのだ)。

つまり、労働者管理は、資本主義を通じては広がりにくいのである。なぜなら、資本主義的管理とは相容れない労働者階級の一定水準の意識と力を必要とするからだ。つまり、『もし、剰余価値を抽出するためにヒエラルキー型労働分業が必要ならば、資本主義的統制を脅かすような労働者の職務選択は、実行されないであろう。』(ハーバート=ジンツ著、前掲書、253ページ)労働者管理の方が効率的な理由が、皮肉なことに、資本主義経済がそれを選択しないことを確たるものにしているのである。「自由市場」は、権能委譲と民主的仕事場を阻んでおり、最良の場合でも、「協同組合」と「参加」をマージナルな問題に還元してしまうのである(そして、経営側はなおも拒否権を持ち続けるであろう)。

さらに、資本主義内部での民主的仕事場に向かう動きは、それ自体で矛盾したシステムの一例なのだ−−その目的を、まさにその同じ目的を必ず打ち負かしてきた方法を使って追求しているのである。ポール=カーデンが論じているように、『資本主義システムは、労働者を単なる命令服従者へと陥落させようとすることでのみ、維持することができる。(中略)同時に、そのシステムが機能できるのは、この陥落が一度も達成されたことがない限りにおいてのみなのだ。(中略)(なぜなら、達成されてしまえば)このシステムはすぐさま音を立てて停止してしまうからである。(中略)(だが)資本主義は、一貫してこの参加限定しなければならないのである(もしそうでなければ、労働者はすぐに自分たちで意志決定をし始め、支配階級が本当は無用の長物だということを現前で実践的に示すであろう)。』(革命と近代資本主義、45ページ〜46ページ)

1970年代の経験はこの命題を充分に指示している。つまり、資本主義企業内部での「労働者管理」は、矛盾したものなのだ−−あまりにも力不足であれば、それは無意味になり、あまりにも多すぎると、仕事場の権威構造と短期的利益(つまり、付加価値の資本主義的分配)を阻害しかねない。抑圧され搾取され阻害されている労働者を、抑圧されず搾取されず阻害されていないという条件下で仕事をさせようという試みは、いつも失敗するのである。

企業が献身的な参加の関係を内部で確立するためには、外部の支援がなければならない。特に、資金提供者を持たねばならない(これが、協同組合が信用組合から利益を得、共に協力する理由なのである)。価格メカニズムは、そうした支援を生み出すために自己破壊的であることが証明されている。我々が「参加」が日本とドイツの企業でもっと十全に発展している(それでもなお、十全に民主的な仕事場からは前途遼遠の感があるのだが)と思っている理由はこれなのである。日本とドイツの企業は、そうした活動に必要な支援を提供してくれる地域の銀行や国家と強力で長期的な関係を持っている。ウィリアム=ラゾニックが書いているように、日本の企業は、国家から恩恵を受けてきた。国家は、国内市場内部で日本企業を保護することのようなその他多くの支援に加え、『革新的な投資戦略の必須条件である、安価で長期的な資金へのアクセス』を確保しているのである。そのことで、日本企業は、『国際競争において他に負けない強みを獲得できる地点まで生産資源を開発し、活用』できたのである(前掲書、305ページ)。ドイツ国家も多くの同じ支援を自国企業に対して提供しているのである。

従って、資本主義企業内部での「参加」は、市場要因の「自動的」作用のために、ほとんどもしくは全く広がることはないのである。参加のような構想がもっと効率的であるにも関わらず、資本主義はそれを選択することはないのだ。なぜなら、そうした構想は労働者に権能を与え、資本家が自信の短期的利益を最大のものにし難くするからである。つまり、資本主義は、それ自体で、産業内部にもっとリバータリアン的な組織諸形態を生み出す傾向を持つことはないのである。実際にそうした構想を導入している企業は、標準ではなく例外となるであろう(そして、この構想それ自体は、ほとんどの観点からマージナルなものになるであろうし、上からの拒否権の対象となるであろう)。そうした構想が広がるためには、集団的行動(例えば、公正な環境を創り出すための国家介入や−−アナキストの観点からすれば−−労働組合と地域の直接行動)が必要なのである。

だが、そうした構想は、上述したように、労働者に強盗を手助けさせているのだから、単に自己搾取的な諸形態なのであり、従って、アナキストが勇気づけようと思っている発展ではないのである。我々がこのことをここで論じてきたのは、次のことを明らかにするためである。つまり、まず第一に、そうした社会改良の諸形態は、経営側と所有者が依然として真の権力を握っているため、自主管理ではないということ、そして第二に、そうした諸形態が幾分解放的だったとしても、市場要因がそれらを選択することはない(だからこそ、集団的行動が必要になるのだ)、ということである。

アナキストにとって、『自主管理は、労働者とボスとの新しい仲介形態ではない。(中略)(それは)労働者自身がその経営者を転覆し、自分自身の管理と自身の仕事場での生産管理をを引き受けるというまさにそのプロセスを意味しているのだ。』(サム=ドルゴフ著、前掲書、81ページ)つまり、我々は、労働者階級の人々によって、労働者階級の人々のために、下から創造され、組織された協同組合・労働組合・その他の自主管理機構を支持しているのである。

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