アナキズムFAQ

J.4.4 「経済構造危機」とは何か?

 世界規模の資本主義経済には現在も引き続き構造危機がある。1950年〜1973年の戦後の「黄金時代」と比較して、1974年以降には、西洋と日本において経済活動の継続的悪化が見られている。例えば、成長率は低く、失業率は非常に高く、労働生産性は投資同様に低い。主要工業国での失業率の平均は、1973年以降、特に1979年以降に急激に上昇している。失業は、『先進資本主義諸国(「G7」)において、1973年から1980年までの間に56%(労働力の平均3.4%から5.3%)増加し、それ以来さらに50%増加している(1980年に労働力の5.3%だったのが1994年には8.0%になっている)のである。』(タキス=フォトポウロス著、包含的民主主義に向けて、35ページ)仕事の不安定さも増大している(例えば、合州国は、1930年代の大恐慌以来最悪の就労不安である(前掲書、141ページ))。さらに、国内経済も国際経済も安定しているとは全く言い難いものになってきているのである。

 この危機は、経済に限定されるものではない。生態系と社会にも拡大している。ラリー=エリオットとダン=アトキンソンは次のように指摘している『近年、急進的経済学の中には、(中略)持続的経済福祉指標(Index of Sustainable Economic Welfare: ISEW)という全てを包含した尺度を(創り)出そうとしている人々がいる。(中略)1950年代と1960年代には、ISEWは一人当たりのGDPと共に上昇していた。当時は、収入が増加していただけでなく、より多くの社会的公正・低い犯罪率・完全雇用・社会保障制度の拡大があった。だが、1970年代以降、これら二つの尺度は別々の動きをし始めていた。一人当たりのGDPは容赦なく増加し続けていたが、失業手当を求める長蛇の列・社会的排斥・犯罪の爆発的増加・生物生息地の損失・自然環境の悪化・環境やストレス関連の病理の増大の結果として、ISEWは下降し始めたのだった。1990年代の初めまでに、ISEWは1990年代初頭に始められたときとほぼ同じレベルにまで戻ったのである(訳注:この文章の年代・年は原文の間違いだと思われるが、そのまま訳しておく)。』(不安定の時代、248ページ)このことは、セクションC.10での我々のコメントを正しく示している。つまり、経済的諸要因は、人間の幸福を示すこともできないし、示してもいないのである。だが、ここで我々は経済的要因について論じる。だからといって、社会・生態系危機が重要ではないということでもなければ、経済に還元できるものだなどと述べているのでもない。全く逆である。我々が経済的要因に議論を集中しているのは、単に、これが体制派の人々が強調することの多い要因であり、現実はそれとは異なるものであるということを示し、これは我々が現在影響されている誇大宣伝なのだということを示すのに有効だからに過ぎない。

 充分皮肉なことだが、ロバート=ブレナーは次のように指摘している。『新古典主義という薬が(1960年代以降)さらに強力な分量で処方されるに連れ、経済は一貫して全く悪くなり続けている。1970年代は1960年代よりも悪く、1980年代は1970年代よりも悪化し、1990年代は1980年代よりも悪いのだ。』(「世界的動乱の経済学」、新左翼レビュー、229号、236ページ)1970年代のケインズ主義危機において、右翼が、あまりにも多くの平等と民主主義とが経済を、そして長い目で見れば(より低い成長率、不活発な投資などのために)我々全員を傷つけているのだ、と論じていたのだから、これは皮肉である。だが、資本主義賛同型政府、不平等の増大、資本・その所有者・管理者にとっての自由の増加、労働組合の弱体化などが十年以上続いた後に、経済的パフォーマンスはどんどん悪くなったのだ!

 1990年代の合州国(通常、「正しく理解された」経済だと示されている)を見てみれば、次のことが分かる。『1990年代の周期的改善は、主要なマクロ経済成長指標−−生産高・投資・生産性・実質報酬−−という点では、前の比較的弱々しい1980年代と1970年代よりも(1950年代と1960年代はいうまでもない)勢いがなかった。』(前掲書、5ページ)もちろん、経済は、うまくいったものとして示されているが、それは、不平等が増大し、金持ちがさらに金持ちになり、富はさらに数少ないものの手に集中したからなのだ。金持ちと金融資本(finance capital)にとって、それは「黄金の時代」だと見なすことができ、従って、メディアでそのようなものとして示される。事実、この理由で、この緩やかな腐敗を「危機」だと述べることは、支配階級エリートにとってそうでない以上、間違っているかも知れない。社会的富・権力・収入のエリートの占有率は、この時期に一貫して増大していた。大多数にとって、これが危機であることは疑いもない(「静かな恐慌」という言葉が、このことを述べるために正しく使われている)が、システムを動かしている人々にとっては、間違いなく危機など意味してはいないのだ。

 実際には、1973年以降に実質的で力強い成長を見た国々は、新古典主義的経済の永遠「法則」を侵害するために国家の介入を使った諸国、すなわち、東南アジア諸国だけであった(これらの国々は、戦後に国家介入を使って莫大な比率で成長した日本の例に従ったのである)。もちろん、1997年の経済危機以前、「自由市場」資本主義者は、これらの国々は「自由市場」経済の古典的実例である、と論じていた。例えば、右翼の代表的偶像であるF=A=ヴォン=ハイエクは、『韓国などの新参諸国は自由市場の利点を発見』した、と論じていた(「1980年代の失業と労働組合」、近代英国の経済的没落、113ページに再録)。だが、実際は、こうした国々はそのようなことなど何も行わなかったのだ。さらに最近のことだが、1995年に、ヘリテージ財団(Heritage Foundation)は、経済的自由の指標を公表した。その上位7ヶ国は、日本と台湾を含むアジアの国々だった。その丁度4年後には、奮闘していたアジア諸国全てが「自由」だと見なされたのだった。だが、タキス=フォトポウロスは次のように論じている。『アジア諸国のめざましい成長を引き起こしたのは、自由放任主義ではなかった。数多くの研究が示しているように、「アジアのトラ」の拡大は、激しい保護貿易論だけでなく、輸出部門を後押しした莫大な国家介入に基づいていた。そこで使われた公的政策には、市場価格を意図的に歪曲して投資と取引を刺激することさえもが含まれていたのだ。』(前掲書、115ページ)経済危機の後に、自由市場論者は、国権主義がそこにいつでも存在し、「アジアの奇跡」とその昔呼ばれていたものの墓場の上で幸せそうに踊っているのを発見したのである。

 こうした欺瞞は真にうんざりするものであり、自分たちがいつでも正しいと思わせるために歴史を書き換えようとするスターリン主義・オーウェル主義的願望を思い起こさせる。さらに、こうした皮肉な分析は、「自由市場」の驚異のために実際には自身の実状を蝕んでいるのである。結局、危機が目に見えるようになるまで、世界の投資家−−つまり「市場」−−は、その経済の頭上にある青空しか見てはいなかったのだ。投資家がアジアの株式市場に何十億もつぎ込むことで自分の忠誠を示す一方で、外資系銀行は何十億もの貸付金を満足げに手渡していたのだった。アジアの諸問題がシステム的なもので、アジア諸国の国権主義的政策の結果だとするのなら、投資家がこのことをもっと前に認識できなかったなど、市場に対して反抗していたようなものであり、市場に加勢していたのではないのだ。

 さらに邪悪なことに、あたかも「自由市場」資本主義の支持者でさえもが、歴史はアジア型資本主義にその評決を下している、と結論づけているようだ。彼らは、近年の危機まで、こうしたモデルが存在していることを否定しようと骨を折っていたのは、自分たちだったということを忘れてしまったのだろうか。アジアが崩壊するまで、「自由市場」資本主義の支持者たちは、経済成長に対する唯一のレシピは、オープン=マーケットであり、国家の側から介入されないことだ、という証拠を喜び勇んで示していたのだった。言うまでもなく、この歴史の書き換えは、全くのナンセンスだと後に証明された他の主張と共に、記憶の隙間の中に埋もれてしまうのだろう。

 さて、既にお分かりだろうが、世界規模の経済は、西洋経済において増大する不景気・成長の減速によって特徴づけられてきた(例えば、1990年代のビジネスの躍進ぶりは第二次世界大戦後で最低であった)。自由市場改革が押しつけられ、金融資本が規制を撤廃したにも関わらず(というよりも、そのためにと言った方がいいだろう)、このことが生じたのだ(「そのために」と述べたのは、新古典主義経済学は、市場賛同型改革が成長を増加させ経済を改善するだろうと主張しているが、セクションCで論じたように、そうした経済は現実には何の基盤も持っていないのであり、だから彼らの勧告がポジティブな結果を産み出すことなどないからである)。もちろん、支配階級はこの新世界秩序においてうまくやっているため、この根本的な景気減速は無視されている。

 近年、危機(特に金融危機)は次第に目に見えるようになり、世界規模経済の根本的脆弱さを(ついに)映し出した。この根本的脆弱さは世界の株式市場の壮麗なパフォーマンスによって隠されている。充分皮肉なことだが、そのパフォーマンスこそが、まず第一に、この脆弱さを作り出す手助けをしているのだ!ウォール=ストリート誌のあるエキスパートは次のように論じている。『債券市場(Bond markets)は(中略)経済の強さを嫌っている。(中略)株式は現実の経済が最も強力になると悪く動くものである。(中略)株式は沈着した経済で栄え、熱気を帯びた経済では衰える。』(ウォール=ストリート、124ページ)つまり、現実経済の弱さは、金融の強さに反映されるのである。

 ヘンウッドも次のように書いている。『企業剰余金の金利生活者占有率と呼ばれるであろうこと−−つまり、税引き前の利潤と利子の割合としての配当金及び利子−−は、1950年代の20%〜30%から、1990年代の60%へと急激に上昇した。』(前掲書、73ページ)これが、西洋経済を苦しめている不景気を説明してくれる。金持ちは、その永久に拡大し続ける富のさらに多くを株式につぎ込み、この市場が一般的な経済的鈍重の面前で膨張できるようにする。剰余金は、投資のために使われるのではなく、富を非常にうまく集中させている金融市場へと注ぎ込まれる(合州国が保有している利益は、利子と配当金の支払いが増大すると減少する(ブレナー著、前掲書、210ページ))。このことを考えれば、『合州国の金融システムは、その公告された業務、つまり、適正投資の続行に向けて社会の貯蓄を効率よく指導するという業務について、お粗末なパフォーマンスを示している。このシステムには驚くほど金がかかり、資本の配当に劣悪なきっかけを与え、真の投資と関係することなど驚くほど数少ないのである。』(前掲書、3ページ)大部分の投資が内部の資金からやってきている以上、剰余金の金利生活者(資本の利益からその収入を得ている人々)占有率が拡大することは、投資の減少を意味し、従って経済の停滞を意味する。そして、脆弱化した経済は金融の強さを増大させ、現実経済を弱くする。これが、悪徳の循環、過去30年にわたる経済成長の減速に反映されたものなのである。

 その結果、特に、1970年代の終わり以来、金融資本が次第に優位になってきたのである。この優位が、結局のところ、金融資本が現実に段々と世界的なものになるにつれ、政府の政策に対する市場を作り出したのである。政府は、金融資本と多国籍企業が利益を上げる場を確保し・保護し・拡大させなければならない。さもなくば、世界規模経済(つまり、金融資本)によって罰せられるのだ。こうした政策は、その根底にある経済一般と、特に労働者階級を犠牲にしているのである:

『金利生活者の力は労働者に、賃金生活の組織労働者にも非組織労働者にも、向けられていた。なぜなら、賃金の増加は安定した秩序に対する主要な驚異だと見なされていたからだ。明らかな理由があって、この目標がはっきりと述べられたことなどないが、金融市場は闘争の求心性を理解していた。その資本価値を保護するためには、労働者の収入を抑制することが必要なのだ。』(ウィリアム=グレイダー著、一つの世界、用意はできているのか、302ページ)

 もちろん、産業資本労働者を憎んでいる。従って、実施されている経済的諸政策の細部について意見の不一致があろうとも、資本の両サイドが同盟する基盤はあるのだ。新自由主義的諸改革の鍵となる側面は、労働市場を戦後の売り手市場から、工場の規律・賃金要求・ストライキの傾向に対して影響力をもった19世紀的買い手市場へと変換することだ、と考えてみれば、産業資本はその影響力についてだけで満足できはしまい。ダグ=ヘンウッドは正しくも次のように論じている。『自由主義者と人民主義者は、産業主義者間の潜在的同盟を求めていることが多い。金融利権がにわか景気を経験したとしても、架空の商品ではなく、現実の商品を取り引きしている会社は、成長が強力であれば繁栄するだろう、と考えているからだ。一般に、産業主義者はこうした主張にそれほど同情的ではない。いかなる産業の雇用者でも労働市場がよどんでいることを好んでいる。労働市場のよどみが、要求をしたり、スピードアップに抵抗したりすることのない、従順な労働力を作り出すのである。』さらに、『多くの非金融企業は重要な金融利権を持っているのである。』(前掲書、123ページ、135ページ)

 したがって、世界の多くの場所を悩ませている一般的不景気は、金融のニーズが、究極的にはそれが依存している現実の経済を徐々に害するにつれて危機に発展していったのである。短期的利益と、資本主義に内在する長期的生存との矛盾が再び衝突しているのだ。

 既に記したように、危機は、それ以前には強力な経済だとして述べられていた領域において出現し、広がる。この危機の重要な側面は、生産能力が有効需要に勝る傾向(つまり、利用可能な需要に対する過剰投資の傾向)であり、その大部分は、資本家のニーズ間のアンバランスから生じる。そのニーズとは、高い利益率を求めるニーズと、同時に、その利益が依存している生産物を労働者が買うことができるだけの富と収入を労働者に確保するというニーズである(セクションCを参照)。合州国で増大している不平等は、実現危機(realisation crisis)(セクションC.7を参照)として経済が直面していることを意味している。この危機は、労働者の負債を深めることで今のところは回避されているのである(負債レベルは、1950年代から1990年代までに、25%から60%以上へと倍以上になっているのだ)。

 「東アジアのトラ」が地球規模の金融にその経済をオープンにするよう強制されるに従って、過剰投資はそこにおいても拡大している。これらの国々の経済は、市場介入(そして、労働者に対する抑圧的政権)のため、他の場所よりも儲かる投資場所だということを確実にした。資本がこの地域に洪水のようにあふれ、相対的な過剰投資が避けられないものとなることを確実にした。セクションC.7.2で論じたように、危機は、価格メカニズムによって示される情報が欠如しているときにはじめて可能になる。経済諸機関は、個別には合理的な決定が集合した結果が非合理的になるようなやり方で反応する可能性がある。つまり、投資決定の総計が過剰投資を、そしてその結果として過剰生産と利益の減少とを産み出したため、「トラ」の経済で利益を得ようとする望みが利益の圧迫をもたらしたのである。

 結局、東南アジアの経済は、「構図の誤謬」(fallacy of composition)と呼ばれる問題に悩まされたのだった。自国がアジア初の輸出型経済になれば、コストの高い西洋生産者と競争することになり、従って、自国の安い労働力・低い税金・曖昧な環境保護法がその競争相手をよりも低価格で売り、利益を上げることができるようになる。だが、より多くの「トラ」が市場に参入すると、互いに競争しあい、その結果、利幅は西洋の会社の利幅よりも実際の原価に向かって減少する。利益の減少と共に、その地域に流れ込む資本は押し戻され、その結果、危機を作り出したのである(そして、偶然だが、自由市場が不安定になり、全てのあり得る成果の中で最良のものを獲得しなくなることが証明されたのだった)。つまり、金利生活者体制が、西洋経済が弱くなった後に、東洋経済をも不安定にする手助けをしたのである。

 そして、短期的に見れば、多くの大企業と金融会社はその利潤の諸問題を、生産を「発達途上」国家に拡張することで解決していたのだった。その国の安い労働力(そして、その安さを保証していた国家の抑圧)を、弱い環境保護法と低い税金と共に利用したのである。だが、次第に、彼らの搾取対象である第三世界の人々はいなくなってきている。なぜなら、第三世界の国々における「多国籍企業」の存在によって刺激された「発達」という正にそのプロセスこそが、競争を、そしてその結果潜在的に過剰投資を増大させ、さらに重要なことだが、労働組合や反逆などの形をとった抵抗を産み出して、搾取と利益のレベルを下げるような圧力を行使することが多くなっているからだ(例えば、韓国において、労働者の付加価値占有率は、23%から30%に増加しており、これは、合州国・ドイツ・日本とは全く逆だった。というのも、単に、韓国の労働者は反抗し、新しい政治的自由を勝ち取っていたからだ。)。

 このプロセスは、多くのやり方で、1970年代の金融資本の勃興を反映している。1950年代と1960年代には、既存産業諸国家は、第二次大戦中の日独伊枢軸国(特に、日本とドイツ)の競争力の増加を経験していた。こうした国家が、再び産業化されると、合州国などの国々に対して圧力を増大し、世界規模の「独占割合」(degree of monopoly)を減少させ、さらにコストの安い生産者と競争することを強いたのである(言うまでもなく、これは、既存企業の利益を減少させた)。さらに、完全雇用が、作業場と、全体としての社会における抵抗の増加を産み出し(セクションC.7.1を参照)、利益をさらに圧迫した。つまり、階級闘争と世界規模の過剰生産力が1970年代の危機を産んだのだ。現実の経済、特に、生産部門が適正な利益を生み出すことができなくなると共に、資本は金融へとシフトした。その結果、資本は、生産の間際やその他の場所で労働者が自分の権利をうまく主張していることから逃げ出したのだった。このことが、日本とドイツから増大していた国際的競争と組み合わされて、金融資本の勃興を確実なものとし、その代わり、経済における現在の不況主義(stagnationist)的諸傾向(1980年代の「アジアのトラ」経済の勃興によってさらに悪化した傾向だ)を確実にしたのである。

 金融資本と現実経済・利潤に対する資本家のニーズと人間的ニーズ・過剰生産と需要などの矛盾から、資本主義経済の永続的停滞に向かう長期的傾向だと思われることが出現している。この傾向はここ数十年間ではっきりとしたものになってきており、それは、その数十年間「ノーマルだ」とか「受け入れることができる」と公式的に考えられていた失業率の継続的上昇や下降成長・低率利潤などの兆候によって示されている。

 この不景気は、多くの国々における危機の発展と、金利生活者の意向を受けた政策に被害を被っている実質経済を回復しようという中央銀行の反応によって近年ますます明らかになっている。この危機が今後さらに悪化するのかどうかは一概には言えない。西洋諸力が、過去三十年間にわたり信用を失わせようとしてきたケインズ主義的政策を採用することで現実の経済を保護するように働くかも知れない。だが、こうした企業救済が成功するかどうかをはっきりと述べることは難しく、それが効果を持っていたとしても、単に、実質的改善ではなく、不景気の継続を確かなものにするかも知れない。

 もちろん、底深い恐慌が、世界の過剰生産と過剰投資という問題を解決し、改善の基盤を敷くかも知れない。だが、そうした戦術は、それが喚起する可能性のある労働者階級の抵抗・経済暴落の深化・それが継続する期間を考えれば、非常に危険である。だが、このことは、多分、1997年〜1999年の合州国において真であったのだろう。合州国では、20年以上にわたる一方的な階級戦争が、高い利益と利益率という点で報われていたと思われる。だが、このことは、実質的な経済変革よりも、消費者負債の増加(現在、合州国の個人的貯蓄率はネガティブである)・貿易損失の悪化・株式市場のバブルに加え、世界の他の場所における諸問題と関連があるかも知れない。さらに、生産性の増加は、資本に対する利益と利益率を増加させるための、賃金の停滞を伴っていた(賃金は、1990年代回復の大部分で下落し、1999年になってやっと出景気後退前の1989年のピークに回復したのだった!8年間、経済は成長していたにも関わらず、普通の労働者の賃金は、最後のビジネス=サイクルのピーク時に戻っただけだったのである。この下落と賃金の低成長が、近年の実質賃金増加は充分多くのインパクトを作り出してはいないということと共に、合州国の利益率の増加を実質的に説明してくれる(この増加さえをも鈍くするために合州国連邦予備金(US Federal Reserve)が利子率を上げたにも関わらず、これは、資本家の利益には、生産の時点で資本家の力を維持するために、失業と不安定が必要だという我々の主張を確たるものにしている)。

 こうした状況は、1920年代の米国を映し出している(詳細は、セクションC.7.3を参照)。この時期の米国も、不平等の増大・過剰労働力・利益の増大で特徴づけられており、新しい合州国経済が同じ暴落の可能性に直面していることを示している。つまり、合州国経済は、遅かれ早かれ過剰投資(もちろん、需要と比較してだが)の危険に直面するはずである。多分、世界の他の場所における諸問題のために、多分すぐにでも危機に直面するであろう。利益主導型成長経済は、投資・贅沢品の消費・労働者階級が生存するために必要な負債−−これら全ては、労働者の消費以上に、株式に対して不安定で、影響を受けやすいものである−−に依存しているがために壊れやすいものだからだ。

 将来を予測することが難しいこと(そして、予測しようとしている人々は、全く誤っていると証明されることが多い!という事実)を考えれば、我々は、将来を分かっているようなふりはしないし、この議論もいくつかの可能性に焦点を当てているだけだという程度のものでしかない。だが、一つだけ真実であることは、いかなる「解決策」であれその代価を払うのは−−組織を作り、資本主義と国家を排除しない限り−−労働者階級であろう、ということだ。究極的に、資本主義が生き残るためには利益が必要なのであり、そうした利益は、労働者が経済的自由を持っていないという事実から生じていたのである。従って、資本主義の枠組みにおけるいかなる「解決策」も、労働者階級の抑圧と搾取が増大することを意味しているのである。

 景気後退中のネガティブな貸借対照表に直面すると、社会の上層部はパニックに襲われることがあり、いくつかの改革や富の分配に同意することがある。このことが、需要を増大させることで不景気の短期的問題を一時的に解決し、その結果、新たな拡大を可能にする。だが、この短期的解決策は次のことを意味している。労働者階級が経済的・政治的利益を徐々に作り出すことで、搾取と抑圧が減少し、その結果、利益率も減少する傾向を持つのである(このことは、戦後のケインズ主義的「黄金時代」に生じたのだった)。一方では、経済崩壊の危険と、他方では労働者階級の力の増大に直面すると、支配階級は手遅れになるまで行動しない可能性がある。そこで、現在の危機がさらに悪化し、不景気が恐慌になるということに基づいて、次のセクションで、20世紀後半の四半世紀に経験してきた「経済構造危機」(そしてその潜在的危機)が、何故、社会闘争にとって重要なのかを論じる。

 

J.4.5 何故この「経済構造危機」は、社会闘争にとって重要なのか?

 前セクションで概略を示した「経済構造危機」は、アナキストと社会闘争にとって確たる示唆を持っている。本質的に、C=ジョージ=ベネーロが論じているように、『経済的諸条件が悪化すると、(中略)1930年代の恐慌以来考えられてこなかった代替案が受け入れられやすくなるものだ。(中略)今後有り得る経済危機について準備をしておくことが重要である。それが実際的だからというだけでなく、創造的なやり方で地域に可動性を与える方法として機能する可能性があるからだ。』(From the Ground Up、149ページ)

 経済的停滞と恐慌に直面すると、ボスの権威を増大することで搾取率を上げよう(つまり、利益を上げよう)という試みが増す。さらに、生きるために負債を蓄積しながら収支を合わせることは難しい、とか、雇用されていなければホームレスになってしまう、などをより多くの人々が分かるようになる。こうした効果は、搾取をもっとはっきりと目に見えるようにし、抑圧の緩和や除去さえをも求めた運動に抑圧された社会層を結集させるようになる。資本主義の時代が経過するに連れ、こうした社会層は次第に反抗的になり、本質的な政治・経済的改善を獲得することができるようになる。このことがさらに、(可能なことに関する)期待と(現状に対する)不満の高まりのために、次第に進んでそれを行おうという意志を導くのである。これが、1945年以来、進歩的諸運動に関する世界規模の『家族』が、『さらに強力に、さらに大胆に、さらに多様に、さらに感情を抑えられなく』育ってきた理由なのである(インマニュエル=ウォーラースタイン著、地政学と地球文化、110ページ)。過去数十年間、リバータリアン・左翼・労働者は一時的な挫折を経験してきたことは真実であるが、新自由主義諸政策(とそれが創り出した「経済構造危機」)のために労働者階級の惨めさが次第に増加するにつれ、急進主義が復活するのは時間の問題でしかないのだ。

 アナキストは、この復活の最前線にいるだろう。なぜなら、ソ連と東欧における権威主義的国家資本主義(大文字の「共産主義」)の不名誉と共に、左翼の反権威主義派閥が、次第に、唯一の信頼できるものとして見なされるようになるからだ。したがって、地球規模の資本主義経済の継続的な構造危機が、タキス=フォトポウロスが(著書、包括的民主主義に向けてで)「多次元的危機」(multidimensional crisis)と呼んでいること(経済・政治・社会・生態系・イデオロギー的諸側面を含んでいる)から生じている他の発展と組み合わされて、次の十年か二十年にわたり、新しい(そしてそれほど新しいわけでもない)西洋社会運動(フェミニズム・グリーン運動・普通の労働者の戦闘性など)を第三世界の非権威主義的解放運動や以前の「共産主義」諸国における反官僚制度運動と結びつけながら、新しい国際的反権威主義同盟を(潜在的に)導く可能性があるのだ。だが、アナキストが代替案を促し、民衆の大多数と共に活動することを主導してはじめて、このことが生じうるのである。アナキストが行うことのできる様々な方法は、セクションJ.5において詳細に論じる。

 したがって、「経済構造危機」は、現状可能なこととの対比を明らかにすることにより、社会闘争の手助けとなり得るのである。いかなる危機であれ、資本主義における諸矛盾を生み出す。例えば、使用価値(人々が必要としているもの)の生産と交換価値(資本家の利益)の生産との矛盾、自由に基づいているという資本主義の主張と賃労働と関係している権威主義との矛盾(『抑圧の一般的証拠が資本主義にとっての昔ながらの矛盾を提起している。資本主義は人間の自由を促していると主張しながらも、自由の否定から、最も特定的には、資本主義的事業が雇用している労働者の自由の否定から、具体的に利益を得ているのである。』(ウィリアム=グレイダー著、一つの世界、用意はできているのか、388ページ))などである。これが、「商品を産む」という資本主義の能力に対する民衆の信念を骨の髄まで揺るがし、より多くの人々を、人々と地球よりも利益を優先しているシステムに対する代替案について考えさせるようにしている。この危機はまた、その正なる性質のために、労働者などの抑圧された側の人々が、抵抗し、食い止め、そして、集産的組織(労働組合や仕事場型集会・評議会など)・連帯・直接行動を産み出すように勇気づけるのである。言い換えれば、労働者階級の人々の諸問題は、自分たち自身で、自分たち自身の行動と組織によってのみ解決できるという集団的自助と意識を産み出すのだ。1930年代の合州国は、非常に困難な諸状況において実行された戦闘的な闘争を伴う、このプロセスの古典的実例であった(詳細は、ハワード=ジン著、合州国人民史や、ジェレミー=ブレチャー著、ストライキ!を参照)。

 言い換えれば、「経済構造危機」は、時として全般的環境がその成功を極端に難しいと思わせるような場合であっても、急進主義者が自分のメッセージを知らしめる多くの可能性を与えているのである!

 経済的停滞や恐慌によって喚起された搾取と権威の集中強化のために、仕事場組織を促すとともに、「経済構造危機」は、別種のリバータリアン代案をも促す可能性がある。例えば、『金融資本の覇権性が持つ実際の効果は、進歩した経済と政府とを、悪い選択肢に制限しながら、悪循環の中で見ることであった。一般的な公債券所有者同様、新しい支配的コンセンサスは、明らかに次のことを前提としていた。経済成長は早ければ早いほど危険である−−安定した金融秩序にとって驚異である−−から、国は永続的な失業を減じようとしたり、賃金の減少を改善したりする法律を効果的に妨げねばならない。(中略)そして、ゆっくりとした成長という現実は、政府をその深まる借金へと追いつめる。なぜなら、失望するような成長は、税の歳入の土台を確実に浸食しながら、公的福祉コストを拡大したからである。金利生活者体制は繰り返し政府に、その支出の優先順位を改良するように指導する−−つまり、依存的市民の利益は取り上げろ、というのである。』(前掲書、297ページ〜298ページ)

 つまり、「経済構造危機」は福祉国家の腐食をもたらしてきたのだ(少なくとも、労働者階級にとってである。エリートにとっては、国家の支援がなくなることなど絶対にない)。この発展が潜在的にリバータリアン的な可能性なのである。L=ギャンボーンは次のように論じている。『国家の衰退は、直接行動と相互扶助の概念の復活を必要なものにする。それを我々のために行ってくれる母なる国家(Mama State)がなければ、相互扶助社会を通じて自分たち自身の社会サービスを創り出さねばならないのである。』(サンジカリズムの神話と現実、12ページ)セクションJ.5.16でさらに詳しく論じているように、そうした相互扶助運動は、労働者階級において長い歴史を持っており、現在我々の管理下にあることから分かるように、国営のシステムがそうしたように支配階級を富ませ、支配階級に権能を与えるために相互扶助運動を我々から取り上げることなど出来はしないのである。国営社会サービスの衰退は、潜在的に、自主管理的な労働者階級代替案のネットワークの勃興を見ることになり得る(同様に、このことは、もちろん、我々の社会の最も弱い部分に対する全てのサービスの目的に見ることができよう−−その可能性は今ここで我々が何をなすのかに依存しているのである。福祉国家に関するアナキスト分析についてはセクションJ.5.15を参照)。

 「爆弾ではなく食べ物を!」(Food Not Bombs!)は、我々が直面している経済危機が産み出した実践的リバータリアン代替案の素晴らしい実例である。「爆弾ではなく食べ物を!」は、そのメンバーの直接行動を通じてホームレスの人々を援助している。また、ホームレスの人々が自助することをも含んでいるのである。FNB!は、地域に根ざしたグループであり、必要な人々に対して無料で食べ物を提供することで、地域で貧困にあえいでいる他の人々を援助している。FNB!は、また、他のアナキスト政治プロジェクトや諸活動も支援している。

 FNB!は、ホームレスの人々の苦境・システムの無感覚さ・社会諸問題を政府や資本主義なしで自分たち自身の行動で解決する我々の能力を劇的に表現するために、公的な場所で無料で食べ物を提供しているのである。警察・中産階級・政府による継続的な嫌がらせは、貧窮者の苦境に対する彼らの無情さと、その諸制度が金銭と財産(そして、それらを保護するための軍隊・警察・刑務所)よりも人々を尊重する社会を構築できなかったことを例示している。事実はと言えば、合州国において、多くの労働者と失業者は、医療・衣服・家・食物といった人間の基本的欲求に対する権利を持っているという感覚を持っていないのである。FNB!は、貧窮者がこうしたことを要求するように勇気づけ、そうした要求を声にできる空間を提供し、空腹の人と空腹ではない人々との間にある壁を破壊する手助けをしている。地元警察と地元政府によるFNB!に対する抑圧は、また、FNB!の活動の有効性と、FNB!に参加している人々を急進化する可能性をも証明している。チャリティは明らかに一つの方法だが、相互扶助はまた別なのだ。連帯に基づく、下からの政治化された運動として、FNB!は、チャリティではない。なぜなら、クロポトキンの言葉を借りれば、チャリティとは、『上からの鼓舞を特徴としており、したがって、与える側が与えられる側に対してある種の優位性を持っていることを示している』(相互扶助論、222ページ)からである。チャリティは、リバータリアン的ではないのである。

 経済の停滞がどのようにしてリバータリアン諸傾向を生み出しうるかについての最後の例は、次の事実に見ることができる。『歴史的に、重大なインフレや資本不足の時代には、それぞれの地域は各々の資源に依存せざるを得なくなる。大恐慌の時には、多くの都市が独自の通貨を発行していた。これは、その地域が、外部との取引なしに、生活の必要物を提供するための実行可能な内部経済を維持できるほどに機能していたのである。』(C=ジョージ=ベネーロ著、前掲書、150ページ)

 こうした地域通貨と地域経済は、リバータリアン社会主義経済の基盤として使うことができる。この通貨が、協同組合を作り、そのことで資本主義的企業に対するリバータリアン代替案を構築しようとする労働者に対して無利子貸付を提供する相互銀行(セクションJ.5.5とセクションJ.5.6を参照)の基盤となるであろう。さらに、こうした地域通貨は、自分の労働の産物を他の労働者と交換できるようにすることで資本家の利益を減じながら、労働時間に基づいたものとなるかもしれない。さらに、『地域交換システムは、地域の自信を増加させ、地域メンバーに権能を与え、過剰な地球規模市場から地域を保護する手助けをすることで、地元地域を強めるのである。』(フランク=リンデンフィールド著、「アナキストの経済」、社会的アナキズム、23号、24ページ)このようにして、地元の自主管理コミューンを創り出すことができるのである。このコミューンは、ヒエラルキー型でトップダウンの政府を、直接民主主義的地域集会に基づいた地域の事柄の集団的意志決定と置き換えるのである(セクションJ.5.1を参照)。こうした自主管理地域と自主管理経済は、より広い規模で協力するために共に連合し、そのことで、国家と資本主義の力に対する対抗力を創り出すことができるのである。

 自主管理地域の連邦システムは、次のようなときに、地元の仕事を保護することもできる。『資本の地球規模化は、地元地域の産業を脅かす。資本を地元に留め、仕事と仕事に依存している地域社会を維持する方法が見つけられねばならない。保護主義は、望ましくもなければ、うまく機能することもない。だが、労働者所有、もしくは労働者の協同組合こそが代替案なのだ。』(L=ガンボーン著、サンジカリズムの神話と現実、12ページ〜13ページ)地元地域は、資本主義市場で労働するときの破滅的効果から協同組合を保護できる必要な支援構造を提供できるだろう(セクションJ.5.11を参照)。このようにして、こうした実例が断片的で、限定的な性質を持っていたとしても、経済的自由(自主管理)が資本主義(賃金奴隷)に置き換わり、アナキズムは資本主義の混乱と権威主義に対する実践的な代替案だということを示すのである。

 だが、こうした発展は、仕事場や地域社会における孤立した集団的闘争で行われるべきではない。真のアナーキーの可能性を創り出すのは階級闘争においてなのである。FNB!のような組織の活動と地域通貨や協同組合の創造は、国家と資本主義者双方に対する効果的な抵抗を、この双方を転覆せしめることができる抵抗を、創り出す仕事場組織と地域社会組織の創造(それぞれ、セクションJ.5.2とJ.5.1を参照)という重要な課題に対する補足なのである。『ボランティア=システムとサービス信用取引システム、代替通貨は、それ自体で、大企業資本主義システムに置き換わるのに充分ではないだろう。だが、地域通貨の経済的強さを構築し、地元住民に権能を与え、貧困と失業がもたらすいくつかの結果を緩和する手助けにはなりうる。(中略)(一地域の大多数がそれに参加する)時まで、大多数の人々はアナキズムの諸理念の多くを生き生きと具現化する途上にいることであろう。』(フランク=リンデンフィールド著、前掲書、28ページ)そして、そうした地域は、あらゆるストライキなどの進行中の社会闘争において莫大な手助けとなることであろう!

 したがって、我々が現在直面している全般的経済危機は、社会闘争とアナキズム活動主義に対する示唆を持っているのである。仕事場と地域社会においてリバータリアンの代替案、直接行動・連帯・自主管理に基づいた代替案、の基盤になりうるのである。こうした代替案は、職場での組合主義と地域組合主義・協同組合・相互銀行など、資本主義と国家に対するアナキズム的抵抗の諸形態を含むであろう。こうした代替案については、セクションJ.5においてさらに詳しく論じるため、ここではこれ以上論じないこととする。

 次のセクションに移る前に、以下のことを強調しておかねばならない。我々は、労働者階級の人々が、闘争に自身を投じさせるためには、経済的危機が必要だ、などと論じてはいない。こうした「客観主義」(つまり、階級闘争、つまり主観的諸要因にではなく、資本主義、客観的諸要因の発展の中に社会主義に向かう諸傾向を置くこと)は、権威主義的支柱を持っている正統派マルクス主義者とレーニン主義者に最もよくその名残をとどめている(セクションHを参照)。むしろ、我々は、階級闘争、つまり資本主義に対する主観的圧力は、それが生じている内部の諸条件と独立していない(もっと言えば、それを創り出す手助けをしている)、ということに気がついている。主観的叛逆は、資本主義の下にいつも存在し、1970年代の危機においては、危機を創り出す役割を果たしていたのだった。経済危機に直面して、我々は、我々がそれに対する反応として何をできるのか、社会の中でどのようにしてリバータリアン諸傾向を潜在的に生み出すことができるのか、を示しているのである。つまり、経済危機は、社会闘争・集団的行動を喚起し、社会の中でアナーキーな諸傾向を生み出すことができるのである。同様に、経済危機は無気力、集団的闘争の拒絶、そして多分、右翼ポピュリズム・レーニン主義・ファシズム・右翼「リバタリアニズム」といった誤った「解決策」の賞賛も引き起こしうる。未来がどのように発展するかなど予言できないが、次のことは真なのである。自分が何も行わなければ、明らかに、リバータリアン諸傾向は成長も発展もしないだろう。

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