アナキズムFAQ

J.4.2 社会闘争は益となるよりも害となることの方が多いのではないか?

 社会闘争は、権力者と金持ちに抵抗することにより、益となるよりも害となることものだ、と論じられることが多い。事業主はよくこのアプローチを使って、組合反対のプロパガンダをするものだ。例えば、組合を作ると、この会社を閉鎖して、それほど「戦闘的」ではない場所に移転することになるぞ、と言うのである。

 もちろん、このことには真実も含まれている。そう、社会闘争によって、ボスが会社をもっと従順な労働力のある場所へと移動することもあり得る。だが、無論、このことは、社会闘争のない時でも生じているのだ!1980年代から1990年代に合州国を悩ませた規模縮小熱を見て分かることは、労働組合が弱かった時期には、会社は何十万という人々の首を切り、労働者は失業するのを恐れ、階級闘争は基本的に大部分が非公然で「地下」のものとなってしまっていたということである。それ以上に、この主張は、実際には、アナキズムの必要性を示しているのである。これは、民衆がその主人に追従することを要求し、そうしなければ経済的困難を被るようなあらゆる社会システムの強要的告発なのである。とどのつまりは、「言われたことをなせ、さもなければ、後悔することになるぞ」という主張なのだ。この格言に基づいたシステムはいかなるものであれ、人間の尊厳に対する侮辱なのだ!

 同様に、奴隷が反逆することは、奴隷の長期的利益に反しているということを「証明」するのはたやすいだろう。結局、反逆することで、奴隷はその主人の怒りに直面することになる。この宿命を避けるためには、主人に服従するしかなく、多分、よりよい諸条件を与えられることで報酬を受けるのだろう。もちろん、奴隷制度という悪は継続するが、それに服従することで、奴隷は自分の生活がより良くなることを保証できるわけだ。言うまでもなく、思考と感受性を持った人なら、すぐさま、この論理は要点をそらしており、人間をモノと同じに扱っている邪悪な社会システムを弁解することと同じである、と非難するであろう。同じことが、資本主義内部での社会闘争が益よりも害をなす、という主張に対して言えるのだ。この主張は、人間にそぐわない奴隷根性を露呈しているのだ(労働者の背後で生活をしたいと思っている人や、そうしている人々に奉仕したいと思っている人には適しているのだろうが)。

 さらに、この種の主張は、いくつかの重要な点を無視している。まず第一に、抵抗することにより、抑圧された側の諸条件を維持することもできれば、改善することさえできるのである。結局、自分の決定が抵抗されるだろうと分かっていれば、ボスは、スピードを上げろだとか、もっと長時間働けなどといったことを押しつけようとはしないのである。自分の従業員は何にでも同意すると分かっていれば、ボスは様々な理由を付けてあらゆる種類の抑圧を押しつけてくる。丁度、国家が、残忍な法律を使ってうまくやってのけることを知っていれば、その法律を押しつけてくるのと同じである。歴史は、長期的に最悪のことを産み出した無抵抗の実例と、多くの重要な改良(例えば、高額の賃金・労働時間短縮・労働者階級の人々と女性に対する選挙権・言論の自由・奴隷制度の撤廃・労働組合の権利など)と改善を産み出した抵抗の実例であふれているのである。

 つまり、社会闘争が成功した改良を勝ち得ることは幾度も証明されているのである。例えば、米国における1886年の8時間労働運動以前には、大部分の企業は、その改良をしてしまえば会社は倒産するだろう、と論じていた。だが、戦闘的ムードを示し、拡大ストライキのキャンペーンを行った後に、数百万の労働者は、ボスが嘘をついており、自分たちが労働時間の短縮を勝ち得たことが分かったのだった。実際、労働運動の歴史は、ボスが可能だと言っていることと、労働者が闘争を通じて勝ち得ることは幾分相反していることが多い、ということを示している。労働者とボスとの情報の不均整を考えれば、このことは驚くべきことではない。労働者は、何を入手できるかを推論することしかできないが、ボスは、実際の財政を隠しておこうとするものだ。労働者闘争の兆しだけで、改善を十分に得ることができる場合すらある。例えば、ヘンリー=フォードの5ドルの日は、優れた労働者を報奨する資本主義の一例として使われることが多い。だが、この実質的な賃金増加は、1913年夏にフォードの労働者内部で世界産業労働者による労働組合作りの運動が高まったことによって大きく動かされていたのだった(ハリー=ブレイバーマン著、労働者と独占資本主義、144ページ)。もっと最近の例をあげれば、1980年代後半から1990年代前半の英国における大規模な人頭税不払いキャンペーンがあり、このキャンペーンが、人頭税の敗北を確たるものにする手助けとなったのだった(そして、ロンドンにおける1990年の人頭税暴動もその手助けをし、さらに、ニュージーランド政府が自分の国で同じ計画を確実に導入しないようにしたのだった!)。1990年代に、フランスも直接行動の有用性を見ることとなった。二人の相次ぐ首相(エドゥアール=バラデュールとアラン=ジュペ)が、大規模な「改革」プログラムを押しつけようとしていたが、このプログラムは即座に、学生・労働者・農民などによる大規模デモとゼネストを喚起した。機能が停止するほどの混乱に直面して、どちらの政府も屈服したのだった。例えば、英国の経験に比較して、フランスの直接行動政治の伝統は、既存諸条件を維持することについて、そして諸条件を改善することについてさえ、もっと効果的だということを証明したのである。

 第二に、そしてある意味でもっと重要なことだが、この主張は、抵抗によって、それに参画している人々が、自分が生活している社会システムを変革することができる、ということを無視しているのである。社会闘争が持つこの急進化効果は、そこに参画している人々に対して新しい扉を開け、その精神を解放し、権能を与え、深遠な社会変革の潜在可能性を作り出すことができるのである。既存権威諸形態に対する抵抗無しに、民衆が権威主義的諸制度に自身を適応させ、現在あるものが唯一の可能性であると受け入れてしまう限り、自由社会が創造されることなどない。抵抗することで、民衆は、社会を変換するだけでなく、自分自身を変換し、自身に権能を与えるのである。さらに、新しい可能性が見えてくる(「ユートピア的」だとして忘れ去られる前の様々な可能性だ)かもしれず、改良を勝ち取るために必要な組織と行動を通じて、そうした様々な可能性の枠組み(つまり、新しいリバータリアン社会)が創られるかもしれない。社会闘争の変換的効果と権能付与的効果は、1930年代の自分の経験を書いた元IWWとUAW-CIOの職場代表、ニック=デジェンターノによって充分に表現されている:

『私の世代の労働者は、その初期から現在に至るまで、地味で謙った従順な生物を人間へと変える、労働者暴動と呼んでもいいようなことを経験していました。労働組合は、その生物から人間を創り出していたのです。(中略)私は、利益について話をしているのではありません。(中略)私が話しているのは、労働諸条件とそれが工場で働いている人にどのような影響を与えていたかなのです。(中略)以前は彼らは従順でした。今では、人間なのです。』(米国における産業民主主義、ネルソン=リヒテンシュタインとホルウェル=ハリス編、204ページで引用)

 他の労働者歴史家も、同じ急進化プロセスを別なところで記している(現代の活動家はもっと多くの実例を挙げてくれるだろう!):

 『(賃金と労働諸条件をめぐる)争いが社会生活に余りにも浸透しすぎていたため、市場メカニズムによって規制され、資本の蓄積によって推進される社会を弁護し正当化している強欲な個人主義イデオロギーは、労働者階級の結束力と闘争に根を持つ相互主義のイデオロギーによって挑戦されていた。(中略)既存の出来高払い仕事で数ペニーの金を引き上げるか差し引くかに関する争議が、北米共和国それ自体の性質と目的に関する論争に火をつけたのだった。』(デヴィッド=モンゴメリー著、労働議会(house of labour)の没落、171ページ)

 この急進化効果は、賃金引き上げや自由主義的法律などよりも、権威主義的諸構造にとってもっと危険である。権威主義的諸構造は仕事をする従順性を必要としているからだ。直接行動が、権力を持っている人々やそのスポークスパーソンによって意味がないとか有害だとか非難されることが多いのは、驚くべきことではない。なぜなら、直接行動は、その論理帰結まで考えてみれば、そうした人々を失業させることになるからだ!従って、闘争は、今ここでの改善だけでなく、自由社会の可能性をも持っているのである。闘争は、そこに参画している人々の見解をも変え、資本主義の考えと価値観に置き換わる新しい考えと価値観を創り出すのである。

 第三に、この主張は、抵抗に関する議論が意味していることは、社会闘争と労働者階級抵抗や労働者階級組織の終わりではなく、むしろその拡充である、という事実を無視している。例えば、ボスが、君が「黙って、我慢」しないのであれば、会社はメキシコへ移るぞ、と主張するなら、明白な解決策は、メキシコの労働者も組織を作ることができるようにすることなのだ!バクーニンは、この基本的点について百年以上も前に論じており、それは今でも真なのである。『長い目で見て、ある国での労働者が比較的我慢できる立場を維持できるのは、多かれ少なかれ他の国々でも同じだという条件があるからにすぎない。』例えば、もし、メキシコ労働者の賃金と労働条件が君よりも悪いのならば、同じ諸条件が君に対して行使される見込みがある。なぜなら、『労働者の諸条件が、他の産業の労働者に即座に影響せずに、特定産業で悪くなったり良くなったりすることなどあり得ず、全職業の労働者は真の確固たる連帯の絆で結ばれている』からである。この絆は、自分の身を危険にさらさなければ、無視することなどできないのである。究極的に、『労働者がより少ない給料でより長い時間働いている国々では、その雇用者は、労働者がより多くの給料でより少ない時間働いている条件に対する競争に勝ちながら、その製品をより安く売ることができ、従って、後者の国々にいる雇用者は、その労働者の賃金をカットし、労働時間を増加させることになるのである。』バクーニンの解決策は、国際的に組織を作り、労働者間の連帯によって諸条件の安売りを止めさせることであった。近年の歴史が示しているように、彼の主張は正しかったのだ(バクーニンの政治哲学、306ページ〜307ページ)。つまり、悪いのは、社会闘争でも戦闘状態でもなく、孤立した戦闘状態、改良と改善を勝ち得、拡充し、維持するために必要な連帯性の絆を無視している闘争なのだ。言い換えれば、我々の抵抗は、資本主義がそうであるように、国境を越えなければならないのである。

 社会闘争と労働者階級組織は有害であるという考えは、1970年代に何度も表明されていた。1970年代の右翼の主張を見てみれば、「闘争は益よりも害がある」という観点で傷だらけになっている証拠が見つかる。戦後のケインズ主義コンセンサスが崩壊するにつれ、「新右翼」が、労働組合(とストライキ)は成長を妨げ、富の再分配(つまり、労働者が創り出した剰余価値のいくつかを自分の手に取り返すための福祉的枠組み)は、「富の創造」(つまり、経済成長)の邪魔になる、と論じてきたのだ。彼らは論じる。収入について闘争するな。市場に決定させておこう。そうすれば、全ての人が前よりも裕福になるであろう。

 この主張は、人民主義的衣装を身にまとっている。例えば、右翼の伝道師、F=A=ヴォン=ハイエクが次のように論じているのを見いだすのだ。英国の場合、『合法化された労働組合の力は、全体としての労働者階級の標準を高めることの最大の障害物になってきた。労働組合は、最高賃金の労働者と最低賃金の労働者との不必要な最大格差を作る主要原因なのである。』彼は、次のように続けている。『英国労働者階級のエリートは(中略)前よりも貧しくなった労働者が自分の立場を改善できないようにすることで、相対的な利益を引き出しているのである。』さらに、彼は、『平均的労働者の所得が最も早く引き上がる国とは、相対的賃金に弾力があり、専門的労働者からなる独占主義的労働組合組織による労働者の搾取が効果的に違法にされている国であろう、と予測し(ていた)』(「1980年代の失業と労働組合」、近代英国の経済的没落、107ページ、108ページ、110ページに再録。)

 さて、もし、ヴォン=ハイエクの主張が真実であるならば、我々は、サッチャー政府の労働組合改革の後に、以下のことを見いだすことになると期待できるわけだ。経済成長の勃興(通常、右翼によって、労働者の生活水準を改善する唯一の(the)手段だと見なされている)・高給取りの労働者と薄給の労働者との格差の減少・組合の「搾取」から自由になるとその立場が改善されるが故の低賃金労働者の割合の減少・賃金弾力性が最高の国々での最速の賃金引き上げ。ヴォン=ハイエクには不幸なことだが、英国経済の現実の軌道が彼の主張をナンセンスだと暴いたのである。

 彼の主張それぞれを順番に見てみると、労働組合は、他の労働者を「搾取する」のではなく、収入を資本から労働者へと推移させる本質的な手段だ(これが、資本が労働者オルガナイザーと必死に戦う理由なのである)ということが分かる。そして、同様に重要なことだが、労働者の戦闘性は全ての労働者を手助けするのである。それは、賃金をこれ以上下げることのできない最低額を示し(同じ産業やエリアで組合のない会社・戦闘的な会社が、組合作りを妨げ、労働者を雇うことができるようにするためには同様のプログラムを提示しなければならない)、集成的要求を維持するからである。全ての労働者を支援するという組合や戦闘性(militancy)が持つこのポジティブな役割は、ヴォン=ハイエクに刺激されたサッチャーの労働組合・労働市場改革以前と以後との英国を比較してみればよく分かるだろう。

 経済成長に関する限り、労働組合改革以来、それは一貫して悪化している。ストライキと「戦闘的労働組合」を伴った1970年代の「過去最悪の日々」の英国において、経済成長率は2.4%であった。1980年代には2%に下落し、1990年代には1.2%へとさらに下落した(ラリー=エリオットとダン=アトキンソン著、不安定の時代、236ページ)。つまり、「富の創造」(経済成長)率は、ヴォン=ハイエクのイデオロギーに沿って組合が「改革」されて以来、一貫して落ち込み続けていたのだった(そして、この下降成長が意味していることは、全体としての労働者階級の生活水準は、「独占主義的」労働組合の「搾取」下にあったときほども早くは上がらないということなのである)。最高賃金労働者と最低賃金労働者との格差について見てみれば、サッチャーが1979年に当選して以来、格差の減少ではなく、実際には、『最高の労働者がもっと裕福になっていることで、分布が劇的に広がっている』ことが示されているのである(アンドリュー=グリンとデヴィッド=ミリバンド(編)、不平等の代価、100ページ)。

 不平等も増大しているとすれば、平均的労働者の条件も被害を被らざるを得ない。例えば、イアン=ギルモアは次のように述べている。『1980年代に、それまでの50年間で初めて、(中略)人口の貧しい側の半数が、国家全体の収入に占める自分たちの収入の割合が減少していることを目の当たりにした。』(ドグマと共に踊れ、113ページ)ノーム=チョムスキーによれば、『サッチャーの十年間で、全収入に対する人口の底辺側半数の収入の割合は、1/3から1/4に落ち込んだ。』そして、1979年から1992年の間に、人口のトップ20%が全収入に占める割合は、35%から40%成長していた一方で、底辺20%のそれは、10%から5%へと落ち込んでいたのだった。さらに、欧州評議会(Council of Europe)の「生活最低限度(decency threshold)」以下の週給をもらっている英国従業員数は、1979年には28.3%から、1994年の37%へと増大した(世界秩序、旧と新、144ページ、145ページ)。それ以上に、『1960年代初頭には、収入は平均値の80%〜90%の範囲に最も集中していた。(中略)だが、1990年代初頭までに劇的な変化が生じ、分布の頂点は、平均値の僅か40%〜50%の範囲になったのだった。1990年代初頭までには人口の1/4が平均収入の半分を下回る収入だった。1977年には人口の7%、1961年には人口の11%だったのだが(中略)』(エリオットとアトキンソン著、前掲書、235ページ)タキス=フォトポロスは次のように記している。『全般的に、平均収入は、この期間(1979年〜1991年2月)に36%まで増大していたが、人口の70%は自分の収入について平均を下回る増加しかなかったのである。』(包含的民主主義に向けて、113ページ)

 労働組合メンバーが『前よりも貧しくなった労働者が自分の立場を改善できないようにすることで、相対的な利益を引き出している』という主張については、労働組合改革後の英国において低賃金の仕事に就いている労働者の割合が減少したかどうかを問うてみればはっきりするであろう。実際、低賃金単位(Low Pay Unit)の定義する低賃金(つまり、男性の所得中央値の2/3)を下回る労働者の割合は、増加したのだ--男性については、1984年の16.8%から1991年の26.2%へ、女性については、44.8%から44.9%へ。肉体労働については、男性は15%から38.4%へ増加し、女性は7.7%から80.7%へと増加したのだった(非肉体労働については、男性が5.4%から13.7%へ、女性が0.5%から36.6%へと上昇していた)。労働組合が、以前より貧しくなることを犠牲にして、利益を得ているのならば、低賃金数の増加ではなく、減少が期待されるだろう。(不平等の代価、102ページ)OECDの研究は、次のように結論づけている。『典型的なことだが、集団的交渉と労働組合作りの率が高い国々は、低賃金雇用の発生が少ないものである。』(OECD雇用見通し、1996年、94ページ)

 失業も、労働組合改革後に減りはしなかった。エリオットとアトキンソンは次のように指摘している。『ブレアが権力を握る(1997年に)までに、英国の失業率は下降していた。だが、それは1979年5月にキャラガン(の前労働党政府)が政権を降りたときよりも高いままだったのである。』(前掲書、258ページ)ヴォン=ハイエクは確かに、失業の減少は『ゆっくりとしたプロセス』になるだろうと主張していたが、10年以上もの高い失業率など、亀の歩みなのだ!1970年代レベルに失業率が下降している理由の一部は、英国労働力の縮小のためであるということに注意せねばならない(そして、だからこそ、1997年7月の予算報告書は『(失業の)1990年代の最低ピークは、それ自体で、労働力のパフォーマンスが改善されたことを確信する証拠を示しているわけではない』(77ページ)と正しく述べているのである)

 相対的賃金が弾力がある国において、『労働者の平均収入』が最も早く引き上がるという賃金弾力性に関するヴォン=ハイエクの予測について言えば、完全に誤りだということが証明されている。1967年から1971年まで、実質賃金は、年間2.95%(平均で)増加していた(名目上の賃金は、8.94%増加していた)。(P=アームストロング・A=グリン・ジョン=ハリソン著、第二次世界大戦後の資本主義、272ページ)比較してみると、1999年3月に公表された生産業績、英国比較(Productivity Record, how the UK compares)と題されたTUCの報道発表によれば1990年代の実質賃金の増加率は、1.1%なのである。

 言うまでもなく、これらは時代間での比較だから、1990年代について英国(サッチャー「改革」後、弾力性のある経済体制として賞賛されることが多い)とフランス(弾力性のない経済体制だと見なされている)を比較してみることも有効であろう。ここで、「弾力がある」英国は、「弾力のない」フランスに後れをとっていることがわかる。労働者一人当たりの賃金と社会保障給付は、フランスにおいて一年ごとにほぼ1.2%ずつ増加している。英国では0.7%である。フランスのGDPは英国のそれよりも早い率で成長しており、英国は平均1.2%だが、フランスは平均1.4%である。労働生産性も遅れている。1979年(サッチャーの出現)以来、英国の労働生産性は年間1.9%だが、フランスは2.2%である(セス=アッカーマン著、「メディアは耐乏生活に賛成投票している」、号外!、9月/10月号、1997年)。そして、セス=アッカーマンは次のように記している『仕事の創造に関するフランスの陰鬱な記録は普遍的に公開されているが、英国はもっと陰鬱なのだということは一度も口にされてはいないのである。』(前掲書、同ページ)

 さらに先に進んでみれば、ヴォン=ハイエクの予測は、再び誤りであることが証明されている。賃金弾力性と弱い労組という点で経済のモデルだと述べられることの多い合州国を見てみれば、平均的労働者の実質賃金は1973年以来減少していることがわかる(合州国労働力の80%を占めている合州国生産高と監督されていない労働者の一週間の所得と時間当たりの所得は、それぞれ、19.2%と13.4%に実際(in real terms)下落していた(1995年大統領経済レポート、表B-45))。合州国国勢調査(現在の人口調査)局が出している数字を見れば、弾力性の増加がどれほど収入に影響しているのかを見ることができるだろう:

 

人口を5つに区分した場合の収入成長率(Income Growth by Quintile)
5区分 1950-19781979-1993
底辺の20% 138% -15%
二番目の20% 98 -7
三番目の20% 106 -3
四番目の20% 111 5
トップ20% 99 18

 おわかりのように、弾力ある賃金体系と弱体化した組合は、ヴォン=ハイエクの予測に真っ向から反している。合州国それ自体内部でも、労働組合の密度が高ければ高いほど、ほぼ最低賃金の収入しか得ていない労働者は少なくなる、ということが分かる--『最低賃金周辺の収入を得ている人々の割合は、働く権利(right-to-work)の州(つまり、反労組法が可決している州)で実質的に全体よりも高く、全体よりも労組の集中度が高い州では低い。』そして、『働く権利の州では(中略)賃金は伝統的に低かったのである。』(オレン=M=レヴィン−ウォルドマン著、最低賃金と地域の賃金構造)労組が労働組合に属さない労働者に害を与えているのなら、逆のことが起こったと予想される。そうではなかったのだ。もちろん、明らかに間違っているからといって、右翼に対する彼の名声が減じたわけでもなければ、柔軟性と自由市場改革を望ましいと主張するときに彼を引用することが止んだわけでもないが。

 さらに、合州国経済の成長は、賃金の柔軟性と市場改革が進むにつれて、遅くなった(1960年代には4.4%、1970年代には3.2%、1980年代には2.8%、1990年代の前半には1.9%だった(ラリー=エリオットとダン=アトキンソン著、不安定の時代、236ページ))。加えて、合州国における不平等は、1970年代以来劇的に増加し、1980年代の収入と富の成長は、圧倒的に人口の上位20%に(そして、事実上、その大部分が人口の上位1%に)注がれていたのである。人口の底辺80%は、自分たちの富の成長が1980年代には1.2%であり、収入は23.7%成長したことを目にしているが、トップ20%は、それぞれ、98.2%と66.3%だったのだ(上位1%について言えば、それぞれ61.6%と38.9%である)(エドワード=N=ウォルフ著、「パイはどのように切られているのか」、米国の予測、22巻、夏号、1995)。

 ヴォン=ハイエクの主張を、労働組合改革と階級闘争の減少後に実際に生じたことと比較してみれば、社会闘争が自己破滅的だ、という主張は誤りだ(こうした主張をしているのは、通常、ボスや雇用主が支持している政党と経済学者だということを考えれば、多分、自己奉仕的でもあるのだろう)ということを理解する手助けとなる。社会闘争の欠如は、経済の低成長、停滞した(衰弱してさえいる)賃金、高給の製造業に代わる薄給(purely paid)サービス仕事の創造と相関がある。社会闘争は資本などの諸問題を消滅させる可能性があるが、社会闘争の欠如は繁栄を保証しないのだ(もし二十世紀の後四半世紀が何か基準となるものであるならば、全く逆になのだ!)。事実、社会闘争の欠如はボスをして賃金カットをさせたり、労働諸条件を悪化させたりするであろう--結局、ボスは自分が社会闘争から逃げおおせると感じているのだ!このことが次の事実を痛切に感じさせるのだ。『彼ら(労働者階級)の勝利を確たるものとし、決定的なものにするためには、資本主義を破壊することが必要なのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、人生と思想、191ページ)

 もちろん、闘争が物事を良くするなど誰にも分かりえない。推論なのだ。未来を予言できる人などどこにもいない。全ての闘争が成功するわけではなく、その多くが非常に困難なものになりえる。もし、『軍隊がビジネス世界の役割モデルならば』(Hill & Knowlton Public Relationsの前経営責任者の言葉を使えば(ジョン=スタウバーとシェルドン=ランプトン著、有毒ヘドロがお前にぴったり!、47ページに引用されている))、そうした権力集中に対抗するいかなる闘争であれ、時として困難で危険なものになりえるし、実際多くの場合困難で危険なのである。だが、サパタが以前述べていたように、『奴らに跪いて生きるよりも、独立して死んだ方がましなのだ!』社会闘争は、その成功と参画している人に対する変換効果という点で、物事を改善できるし、実際に改善しており、それが様々な困難を創り出す可能性があるとしてもやるだけの価値がある、と言い得るのだ。それ以上に、闘争なくしては、自由社会を創造する機会などなく、自由社会は権威に屈服することを拒絶し、自分を統御する能力と願望とを持っている個々人に依存しているのである。さらに、社会闘争は、改善を勝ち得るためだけでなく、改善を維持するためにも、いつでも本質的なものなのだ。十全に安定した改善のためには資本主義と国家を廃絶しなければならない。そうしなければ、いかなる改良も失われてしまう可能性があり、失われてしまうであろう(そして、社会闘争が存在しなければ、後々にではなく今すぐにも失われてしまうであろう)。究極的に、大部分のアナキストは主張するだろう。社会闘争は選択肢ではないのだ--闘争を行うか、どんな些細な(それほど些細ではないものにも)権威の押しつけに対しても我慢するかなのだ。「ノー」と言わなければ、既存権力は我々の頭上を闊歩しつづけるだろう。

 過去20年間の歴史が示しているように、社会闘争の欠如は諸条件の悪化と全くうまくやっている。究極的に、人間として扱われたいのなら、自分の尊厳のために立ち上がらねばならないのだ--つまり、思索し、反逆しなければならないのだ。バクーニンがよく論じていたことだが、人間発達は思索と反逆に基づいている(神と国家を参照)。反逆なしでは、社会闘争なしでは、人間性は永久に権威の下に沈殿し、自由になることなどできはしない。我々は、奴隷廃絶論者、フレデリック=ダグラスの以下の文章に心の底から同意するであろう:

『闘争がなければ、進歩はない。自由を好ましいと公言しているが、アジテーションを軽視している人は、土地を耕さずに収穫を得ようとしている者なのだ。こうした輩は雷や稲妻なしに雨を期待する。闘争は精神的なものかもしれない。肉体的なものかもしれない。精神的かつ肉体的なものになるかもしれない。だが、それは闘争でなければならないのだ。権力は要求抜きには何も認めはしない。何かを認めたこともなければ、今後も認めはしないだろう。民衆は、自分が現世で活動している目的全てを得ることはできないかもしれないが、自分が得る全てのことのために確かに活動しなければならないのだ。』

 

J.4.3 新しい社会運動は、アナキストにとってポジティブな発展なのか?

 この時代の革命的潜在性を評価するときには、近代文明は社会崩壊・生態系破壊・大規模殺戮兵器の急増からの一貫した圧力下にある、ということをもう一度記さねばならない。こうした危機は、権威主義パラダイムに内在している反革命的性質に対して、以前にはなかったほどの注目を向けさせ、時代遅れの思考形態と行動形態を維持しているのなら、人間種は消滅してしまうということをさらに多くの民衆に気づかせている。この意識は、新しい思想を受け入れる方が望ましいとする雰囲気を作り出し、その結果、大規模な意識変革を作り出すことを目的にした急進的教育活動の好機を作り出している。この活動は、新しい解放的諸制度の創造と平行して行われねばならないのである。

 新しい思想のこうした受け入れは、近年、数多くの新しい社会運動を導いてきた。アナキズムの観点からすれば、その中で最も重要な四つは、多分、フェミニスト・エコロジー・平和・社会正義運動であろう。これらの運動それぞれは、特に、権力分散と直接民主主義の必要性を示している限り、大部分がアナキズムの概念内容に含まれているのである。エコロジー運動とフェミニスト運動のアナキズム的側面については既に論じているため、ここでは平和運動と社会正義運動に対する所見を述べるに留める。

 数多くの平和運動メンバーにとって、国際的武装解除は、女性解放・地球の生態系保護・社会崩壊の防止同様、支配と搾取という権威主義的原理に基づいているヒエラルキーの幅広い拒絶を含んでいる民衆の意識変革抜きに到達できはしない、ということは明らかである。C=ジョージ=ベネーロは次のように論じている。『平和は、暴力の代わりに争いを調停する別な手段を使うというポジティブな過程を含んでいるため、(中略)ある種の制度的変革が必要だと言うことができる。反政府暴動が特定の改良的諸目標で満足し、その中央集権的組織構成を攻撃することで社会の制度的構造の変革を求めなければ、戦争システムは多分消滅しないだろう。これが、真に、権力分散ということで我々が意味しなければならないことなのだ。諸制度内部の全レベルに対して人間に責任を持たせることで、再び諸制度を人間の目的に使えるようにするのである。』(From the Ground Up、31ページ)

 性別・階級・人種・民族・国家の境界線に従って追求されると、これら二つの原理は、恨み・憎しみ・怒り・敵意の主要原因であり、個人的・組織的暴力へと爆発することが多いものである。従って、国内外の平和は、権力分散、つまりヒエラルキーの除去、そしてその結果として、協働・共有・相互扶助というアナキスト原理によって支配と搾取を置き換えることに依存しているのである。

 だが、直接民主主義は、権力分散のもう一方の側面なのである。組織が権力をヒエラルキーの頂点に集中させるのではなく水平に拡散させるためには、そのメンバー全員が自分たちに影響を与える意志決定を行うときに平等な発言権を持っていなければならない。つまり、権力分散は直接民主主義を示唆しているのである。だから、平和運動はアナキズムを示唆しているのである。なぜなら、世界平和は権力分散と直接民主主義双方抜きでは不可能だからだ。それ以上に、『利権が生産を保護することと結びついている限り、そこに参画しているエリートに真実を話したところで、さらに先へと進む見込みは少ないだろう。』というのも『大企業エリートは、利権システムの範囲内だけでしか動けないからだ。』(前掲書、34ページ)つまり、平和運動は、暗示的に、権力システムの二つの形態--政治形態・経済形態--に関するリバータリアン批判を含んでいるのである。

 さらに、平和運動のある種の実際的側面もまた、アナキズム的諸要素を示している。戦争機構に対する抗議で非暴力直接行動を使うことは、結局、アナキストによってポジティブな発達だと見なすことができるのである。その使用は効果的なアナキズム的闘争方法であるというだけでなく、参画している人々を急進的にし、アナキズムの思想と分析を受け入れやすくするのである(結局、ベネーロが正しく論じているように、『現在普及している核兵器政策が政府の利権とその人民の利権との間にある不一致の最終段階だと考えることができるため、アナキズムの観点は、現在、無比の関連性を持っているのである。(中略)その示唆は、明らかになると、生と死という問題を政府に任せておくことが賢明なのかどうかについて根本的疑問を提起する役目を果たしてくれる。(中略)つまり、挙国一致内閣(national governments)の役割・規模・構造をもう一度考え直す差し迫った推進力があるのだ』(前掲書、138ページ)。

 「非核地帯」(nuclear free zones)が示していることを見れば、その内部にアナキズム的諸傾向を見つけることができる。非核地帯には、軍用核兵器産業集合体(complex)との関係を終結させることを宣言している街や地域が含まれる。そこでは、核の力によって防衛される権利を放棄しているだけでなく、核兵器の研究・生産・輸送・配備をも禁じている。この運動は1980年代に盛んに行われ、欧州と太平洋沿岸の多くの場所で、ここは非核地帯である、と宣言されていた。ベネーロが指摘しているように、『非核地帯キャンペーンの発展は、地域社会を教育し急進的にできる戦術を示している。事実、非核地帯の考えが持つ論理を拡大することで、中央政府と既存大企業システム双方から自律することに向けて地域社会がいくつかのステップを踏み出す手助けをできるリバータリアン自治体連合論的観点を十全なものにし始めることができるのである。』こうした発意(イニシアティブ)は、その後、ベネーロが望んだほどの急進化効果を持ってはいなかったものの、確かに、『行動を起こすために連邦政府に依存しない地域的発意を示している。つまり、これは地域社会の権能付与に向けた一ステップなのである。(中略)地域の自律を増大させるステップが、中央とその隔離地区(colonies)との力関係を変化させる。(中略)非核地帯運動は、明らかに、アナキズム思想と一致している推進力を持っているのだ。非核地帯の宣言に含まれている同じ動機は次のことを命じるであろう。国家と大企業システムのサービスが機能不全に陥り、莫大なコストを伴っている他の領域において、そうしたサービスは廃絶されねばならないのだ。』(前掲書、137ページ、140ページ〜141ページ)

 社会正義運動は、貧困・失業・経済搾取・差別・貧弱な住宅事情・健康保険の欠如・富と収入の不平等などの諸問題に対する公正で温情的解決策を求めている人々が行っているものである。こうした懸念は、伝統的に左翼、特に、社会主義や労働組合主義と関係している。しかし、近年、多くの急進主義者が社会正義の諸問題に対するマルクス−レーニン主義的解決策と伝統的な労働組合主義的な解決策双方の限界を、特に、こうした解決策がヒエラルキー型組織と権威主義的価値観を含んでいる限り限界があるということを、理解し始めてきている。

 前ソビエト連邦と東欧諸国における「共産主義」の失敗が産み出した、国権主義と中央集権的に計画された経済に対する幅広い幻滅が進むに従い、多くの急進主義者は、社会正義諸問題に対する自分のコミットメントを保持しつつも、新しいアプローチを探し求めてきた。そして、そのようにする中で、彼らは、エコロジスト・フェミニスト・平和運動のメンバーとの同盟を組むようになっている。(このことは、特にドイツ緑の党の中で生じており、その多くが以前はマルクス主義者であった。だが、現在までのところ、後者の中で、エコロジー運動の論理が要求しているように、自分がアナキストだと宣言しているものはほとんどいない。)

 社会正義運動に関わる主要な諸問題が、ヒエラルキーと支配にその由来を求めることができるということを示すのは難しくない。なぜなら、ヒエラルキーの目的を考えれば、国家を統制しているエリートが最も優先する事柄は、下位の諸階級が巻き込まれている被害がいかなるものであろうとも、必ずや、自分の権力と特権とを保持することになるからである。

 例を挙げれば、合州国は、二つの共和党政府がこの優先的事柄を特にひたむきに追求した12年間を経て、今日、薄気味悪い結果を手にしているのである。街路を彷徨うホームレスの一群、貧困・失業・半失業状態が増加するに連れて削減を重ねる社会福祉予算、キノコのように急成長している大規模都市の搾取工場、健康保険のない4300万人の米国人、嫌らしいほどの富の不公平などだ。この腐敗は次の数年間合州国で加速すると見込まれる。共和党が上院議会と下院議会双方を統制しているのだから。サッチャーとメイジャーの新自由主義政策下にあった英国も、合州国と同様の社会的堕落を経験してきている。

 つまり、社会的不公正は、国家の搾取的諸機能に内在しているものであり、搾取的諸機能を可能にしているのは国家諸制度と全体としての国家複合体という権威主義形態なのだ。同様に、大企業(と資本主義諸企業一般)という権威主義形態は、所有者や管理部門と労働者との間に不公正な収入格差と富の不均衡としての社会不公正を産んでいる。

 従って、社会正義運動の成功は、フェミニスト・エコロジー平和運動同様に、ヒエラルキーを除去できるかどうかにかかっているのである。つまり、こうした運動は全てアナキズムを示しているだけでなく、他の運動とは別個にその運動の目標を確立すると見なすことはできないほどお互いに関連しているのである。

 一例として、社会正義と平和運動との関係を考えてみよう。これは、特定の社会正義問題、つまり労働者の権利を吟味してみれば分かる。

 ディミトリオス=ルソポロスが指摘しているように、先進兵器システムの生産は資本家にとって非常に利益になる。だからこそ、ますますテクノロジー的に複雑で精密な兵器が政府の援助を受けながら(そして、民衆が税金の引き上げという形でその勘定を支払いながら)構築され続けているのである。

 そこで、人間種を滅亡させてしまいかねないテクノロジーの生産に個人的に貢献するかどうかを自由に選ぶことができるというのは、基本的人権である、と理性的に論じることもできよう。だが、資本主義的大企業という権威主義形態のため、普通の労働者は、自分が働いている企業がそうしたテクノロジーを産み出すことにするのかどうかについて、実質的に発言することはできない。(労働者は、自分が会社の方針を気に入らなければ、いつでも会社を辞めて構わない、という反論について答えれば、労働者は他の仕事を見つけることはできないかも知れず、従って、選択は自由なのではなく、押しつけられているのである。)従って、普通の労働者が極めて重大な企業方針について意見を述べる権利を得ることができる唯一の方法は、自主管理によって自分たちで生産プロセスを管理することなのである。

 だが、現在の労働関係システムから真の自主管理が出現するなど期待できない。現在の労働関係システムでは、中央集権型労働組合は、「利権」を巡って雇用者と取り引きするが、大企業の権威主義的構造を解消するために取り引きすることはないのである。ルソポロスが述べているように、自主管理は、定義により、草の根レベルで労働者自身によって地域的に努力されねばならないのだ:

『必要と使用のための生産が雇用者から生じることなどない。資本主義社会において生産の所有者が生産過程において社会的優先事項を考慮し始めることなどないだろう。さらに莫大な利益の追求は、社会正義・社会責任と両立しないのである。』(異議

 こうした理由から、平和運動と社会正義運動は、労働者管理型経済を共に必要としていることによって根元的にリンクしているのである。

 また、この文脈において、次のことを指摘しておかねばならない。貧困にあえぐゲットー環境は、社会的不公正の最悪の被害者たちが生活するように強いられている場所であり、人間の痛みと苦難に対する感覚を麻痺させる傾向を持っている--新兵を募っている軍にとって有利な状況なのである。軍の命令で動く無情な人殺しにするために特別の条件付けをほとんど、もしくは、全く行う必要のない、怒れる獣的な暴力的傾向のある個人で軍の隊列を増やすことができるからだ。さらに、極度の貧困のために、そうした状況にいる個々人は、軍隊サービスを数少ない合法的で実利的な選択肢の一つだと見なすようになるのだ。こうした考察は、平和運動と社会正義運動との結びつきをさらに示してくれる--そして、こうした運動とアナキズムとの関係も示してくれるのである。アナキズムは概念的「接着剤」なのであり、単一の反権威主義的提携に新しい社会運動全てを潜在的に統一する可能性を持っているのである。

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