アナキズムFAQ


J.3.6 アナキズム理論では、こうしたグループはどのような役割を果たしているのか?

 こうしたグループと連盟の目的は、社会内部と社会運動内部でアナキズム 思想を広めることである。アナキズム思想とアナキスト分析の妥当性と、 社会と自分達自身のリバータリアン的変換の必要性を民衆に納得させるこ とが目的なのである。それは平等者としての他者と共に活動することで、 そして、『我々の方法と解決策が、他者が示唆し、実行しているものより もより良い、もしくはより良いと思われる場合に、それらを採用するかど うかは民衆に任せながら、アドヴァイスと実例を通じて』(エンリコ=マ ラテスタ著、アナキスト革命、108ページ)、行われる のである。

 「親和グループ」とその連合の役割は、アナキスト理論の中で鍵となる役 割を演じている。なぜなら、アナキストは、社会には異なる知識レベル・ 異なる意識レベルが存在しているということを充分認識しているからであ る。民衆は闘争と自身の経験から学ぶ。これがアナキズムの根本要素であ るが、異なる人は異なるスピードで発達し、個々人は唯一無二のものであ り、別個の影響を受けているものだ、ということも事実である。あるパン フレットが述べているように、『労働者階級生活の経験は一貫して、既存 秩序を疑問視する思想と行動の発達を導く。(中略)同時に、異なる労働 者階級セクションが到達する意識レベルは異なっているのである。』(革命組織の役割、3ページ)。このことは、同じ階級出身の 個人からなる集団や同じ地域出身の個人からなる集団にさえもたやすく見 て取ることができる。そこにはアナキストもいれば、マルクス主義者もお り、社会民主主義者や労働党員、保守派、自由主義者、大部分の「政治に 無関心な人々」、労働組合支持者、労働組合反対者などがいるのである。

 アナキストは自分達が数多くの傾向の内の一つだと気づいているから、社 会闘争に影響を与えるべくアナキストとして組織を作るのである。アナキ ズム思想が大多数によって受け入れられたときにのみ、アナキズム社会は 可能になる。言いかえれば、我々は労働者階級でアナキズム思想と方法が 最も幅広く理解され影響力を勝ち得てほしいと願っているのだが、これは 、主として、アナキズム思想と方法だけが確実に革命的社会変革を成功さ せてくれると信じているからなのだ。マラテスタは次のように論じている 。アナキストは『自分達の理想の実現に向けた運動を導くために、圧倒的 な影響力を獲得すべく努力しなければならない。だが、こうした影響力は 他者よりも多くのことを、そして、より良いことを行うことで勝ち得ねば ならないのである。そのようにすることで勝ち得ることこそ有益なものに なる。(中略)、したがって、我々は思想を深め、発展させ、宣伝しなけ ればならず、我々の力を調整して共同行動をもたらさねばならないのだ。 我々は労働運動の中で行動し、労働運動が資本主義システムと両立できる ような小さな改善だけを追い求めることに限定され、堕落しないように防 がねばならない。(中略)我々は(中略)大衆と共に活動し、反逆魂と、 自由で幸福な生活を求める願望とを呼び覚まさねばならないのだ。我々は 、国家と資本主義の力を弱め、労働者の精神レベルと物質的諸条件を向上 させる傾向を持ったあらゆる運動を開始し、それを支援しなければならな いのである。』(人生と思想、109ページ)

 アナキスト組織は、民衆がアナキズム的結論を導き出すようになるプロセ スを援助するために存在する。その目的は、論争プロセスによって、既存 社会と社会的諸関係を正当化しているものは誤りだと暴露し、より良いヴ ィジョンを提供ことで、民衆がもっている感情と思考(賃金奴隷は地獄だ 、とか、国家は民衆を騙すために存在するなどのような)を明確に表現す ることなのである。言いかえれば、アナキスト組織は、社会で何が起こっ ているのかを説明し、明確にし、アナキズムが社会諸問題に対する唯一の 現実的解決策だという理由を示そうとしているのである。その一部として 、我々は、リベラリズム・社会民主主義・右翼リバータリアニズム・レー ニン主義など誤謬だらけの思想とそれらが企図している解決策は本物では ないと示しながら、戦ってきたのだ。さらに、アナキスト組織は、労働運 動とアナキズムの伝統を保持し発展させながら、抑圧された側の「集団的 記憶」にもならねばならない。そのことで、新しい世代のアナキストが、 こうした一群の経験を持って、自分の闘争を構築し、それを活用できるよ うになるのである。

 アナキスト組織は、指導者ではなく、援助者の役割を持っていると見なされる。ヴォーリンは次のように論じていた 。政治的意識を持った少数派は、『介入しなければならない。だが、あら ゆる場所・あらゆる状況下で、(中略)独裁者としてではなく、真 の協力者として、共同行動に自由に参加しなければならないので ある。特に、実例を創出し、誰のことをも支配・征服・抑圧せずに(中略 )活動に従事することが重要なのである。リバータリアン=テーゼによれ ば、革命の負担となっている諸問題を解決することにあらゆる場所で専念 しなければならないのは、(中略)様々な階級組織・工場委員会・産業農 業組合・共同組合などの手段によって連合している労働者大衆自身なので ある。「エリート」(つまり政治的意識を持った人々)に関して言えば、 リバータリアンによると、その役割は、大衆を手助けし、 啓蒙し、教化し、必要なアドヴァイスを提示し、イニシアティブをとるよ うに促し、実例を示し、行動によって大衆を支援することなのであって、 政府のように命令することではないのだ。』(知ら れざる革命、177ページ〜178ページ)

 この役割は、「思想の指導力」を提供することと通常呼ば れている(これとほぼ同じ考えを表現するためにバクーニンは不幸にして 「不可視の独裁」という言葉を使ってしまった−−詳しくはセクションJ .3.7を参照)。

 アナキストはこの概念と権威主義的「指導力」概念との区別を強調する。 例えば、党の指導力というレーニン主義的考えでは、前衛党のメンバーが 、ある組織内部で権力や責任を持つ立場に選ばれるのである。アナキスト 組織もレーニン主義組織も、労働者階級内部での「不均衡な発展」(つま り、内部に数多くの潜在的選択肢が存在する)という問題を克服するため に存在しているが、その目的・役割・構造ほど異なっているものはない。 本質的にレーニン主義政党(いわゆる「革命的」組織内部でヒエラルキー 構造を再現しているものもそうだ)は、社会主義政治運動を、労働者階級 の経験の産物としてではなく、労働者階級の急進的イン テリゲンチャから生じたものとして見なしている(詳しくはレーニンの< u>何をなすべきかを参照。また、このことに関して付け加えね ばならないが、レーニンは、標準的な社会民主主義理論、特に、カール= カウツキー−−「マルクス主義の法王」−−の思想を追従していたのだ) 。

 一方、アナキストは、(リバータリアン)社会主義思想は、「外部の」影 響の産物ではなく、労働者階級生活の自然の産物なのだ、と論じる。つま り、(リバータリアン)社会主義思想は、労働者階級内部 から生じたのだ。例えば、バクーニンは、労働者階級の「社会主義 的本能」についていつも言及し、社会主義の理想は『必ず民衆の 歴史経験の産物』だったと論じていた。そして、労働者の『最も根本的な 本能と社会状況ゆえに(中略)社会主義者になっているのである。労働者 が社会主義者なのは、その物質的存在条件全てのためなのだ。』(リチャ ード =B=ソルトマン著、ミハイル=バクーニンの社会・政治思想、100ページ、バクーニン入門、101ページ〜1 02ページより引用)

 言うまでもなく、本能それ自体だけでは不充分である(それだけで充分だ ったならば、我々はアナキスト社会に住んでいることだろう!)。そして 、バクーニンも、全てのアナキスト同様、本能思 考に変えるため、闘争を通じた自己解放と自己教育の重要性を強 調していたのだった。バクーニンは、以下のように論じていた。『そこに は唯一の道しかない。ボスに対する闘争における、労働者の連帯による( 中略)実際の行為を通じた解放だ。つまり、労働組 合・組織・抵抗基金連盟(the federation of resistance funds)である。(中略)一旦、労働者が、労働時間の減 少と給料の増加を求めて、その同志と共に戦いを開始すると、(中略)次 第に、集団になった労働者の強さに頼ることができるようになっていく。 (中略)したがって、闘争に名を連ねた労働者は、必ず、(中略)自分は 革命的社会主義者であると認識することであろう。』(バクーニン 入門、103ページ)

 バクーニンは、リバータリアン社会主義思考を発達させる上で大衆組織( 労働組合のような)と直接行動の重要性を認識していただけでなく、アナ キスト集団がそうした組織と共に活動し、一般大衆に対して働きかける必 要があると強調していた。こうした集団は闘争している人々の思想を明確 にする手助けをし、そうした思想に対する内的・外的障害物を取り除くと いう重要な役割を演じることだろう。そうした障害物の第一は、エマ=ゴ ールドマンが「内的暴君」と呼んだ、既存ヒエラルキー社会の「倫理的・ 社会的しきたり」である。このために、民衆は権威主義的社会関係・不公 正・自由の欠如などに慣らされているのだ。外的障害物は、チョムスキー が「同意のでっち上げ」と呼んでいる、教育システムとメディアによって 民衆全体が現状と支配的エリートの観点を受け入れるように影響されるプ ロセスのことである。この「同意のでっち上げ」こそが、我々がアナキズ ムは労働者階級生活の自然な産物であると論じていても、相対的にはアナ キストの数が非常に少ない理由を説明してくれるのである。客観的に言え ば、生活諸経験のために労働者階級の人々が支配と抑圧に抵抗するのだが 、彼らがそうした闘争に突入するときには、自分達の背後にある歴史、例 えば、資本主義の学校での教育という歴史や資本主義賛同型論文を読んで いるという歴史を持っているのである。

 つまり、社会闘争が急進化してる時であっても、同時に、長年にわたる国 家賛同型・資本主義賛同型の影響力とも戦わねばならないのである。アナ キストの意識が労働者階級生活の現実諸条件から生まれているとしても、 階級社会に生活しているがために、そうした意識の発達を抑制する 数多くの対抗傾向がある(例えば、宗教・現在の道徳・メディア ・ビジネスや国家賛同型のプロパガンダ・国家やビジネスによる抑圧など )。このことが、労働者階級内部で政治的意見に食い違いがあることを説 明してくれる。人々は様々なスピードで発達し、異なる影響力や経験の影 響を受けているのである。だが、アナキズム的見解の発達に対する数多く の内的・外的障害物は「内的暴君」を創り出し、「同意のでっち上げ」プ ロセスを通じて創り出されているが、こうした障害物は、社会闘争と自己 活動だけでなく、理性的議論によっても弱めることができるし、実際に弱 められているのである。実際、我々が『それら全て(内的暴君)に反逆し 、自分で地にしっかりと足を踏みしめ、自分の無限なる自由を主張するこ とを学ぶ』ときまで、我々は自由になることも、「同意のでっち上げ」と の戦いに勝つこともできないのだ(エマ=ゴールドマン著、赤のエ マ語る、140ページ)。そして、これこそがアナキスト集団が 役割を果たす部分なのだ。なぜなら、このプロセスを既に経験した人々が 果たす重要な役割、つまり、現在このプロセスを経験している人々を援助 するという役割があるからである。

 もちろん、アナキスト集団の活動は、真空の中から生じるのではない。集 団的行動がほとんどない場所で、階級闘争が少ない時代には、アナキズム 思想はユートピア的に見え、そのために大部分の人々に無視されるだろう 。こうした状況では、現状システムに対する代替案は可能であるという自 信が労働者の経験から生まれないため、アナキストになるのはごく少数で あろう。さらに、アナキスト集団が少なければ、代替案を捜し求めている 多くの人々は、もっと人目を引き、リバータリアン風のレトリックを使う 団体(例えば、アナキストが意味していることとは全く別な意味を持って いるのだが、労働者管理・労働者評議会などについて語ることが多いレー ニン主義グループ)に参加するかもしれない。だが、階級闘争が増加し、 民衆が集団的行動を取るようになってくると、民衆は自分自身の活動によ って権能を持ち、急進主義化し、アナキズム思想と社会変革の可能性に対 してもっとオープンになりえる。こうした状況ならば、アナキスト集団は 成長し、アナキズム思想の影響力も増加する。これが、アナキズム思想が そうありえるほどにも蔓延していない理由なのである。また、このことは アナキスト集団のもう一つの重要な役割をも示している。つまり、反動の 時代に、アナキズム思想に引かれた人々が出会い、経験と考えを共有する 環境と場を提供することである。

 したがって、アナキスト集団の役割は、外国のイデオロギーを労働者階級 に輸入することではなく、「本能」から「理想」へと移行 している労働者階級の考えを発展させ、明確にする手助けをし、その発展 を経験している人々を支援することなのである。アナキスト集団はこのプ ロセスを支援しようとするときに、現在の社会システム(そしてその理論 的根拠)が破綻していると暴露するプロパガンダを行い、同時に、抑圧と 搾取に対する抵抗を奨励するのである。バクーニンにとって、前者は、『 プロレタリア階級が既に持っている本能に、もっと一般的な表現・新しく もっと適切な形態をもたらす。(中略)それは、時として発展を促し、急 き立てることもある。(中略)そして、労働者階級に、自分が何を持って いるのか、何を感じているのか、本能的に既に何を望んでいるのかの意識 付けをしてくれる。だが、労働者階級が持っていないものを与えてくれは しない。』後者は、『最も普及していて、最も説得力があり、最も抵抗し がたいプロパガンダである。』そして、『全ての労働者の心深くに眠って いる社会革命の本能全てを一挙に呼び覚ます。』そのことによって、本能 が『熟慮した社会主義思想』へと変換可能になるのである。(リチャード =B=ソルトマン著、ミハイル=バクーニンの社会・政治思想、107ページ、108ページ、141ページで引用されている)

 言いかえれば、『(アナキスト)組織を単なるプロパガンダ集団として見 ることはできない。結局のところ、活動家の集会なのだ。女性・黒人・ゲ イの権利擁護団体だけでなく、普通の(労働組合)集団・店子連盟・不法 占拠者・失業者集団といった、草の根労働者階級組織全てで能動的に活動 しなければならない。(中略)アナキズム思想をそうした運動の中に蔓延 させながらも、(中略)発展する可能性のある平民労働者運動の自律と自 主組織を尊重するのと同じように、こうした運動を革命組織のオマケにな さしめようとはしないのである。』(革命組織の役割、5 ページ)こうした組織はレーニン主義的意味での前衛主義ではない。なぜ なら、社会主義政治運動は労働者階級の経験から導き出されるのであって 、「科学」から(レーニンとカウツキーが論じていたように)ではないと 認識し、民衆運動を支配しようとするのではなく、平等者としてその中で 活動することを目的としているからだ。

 実際、バクーニンは(神という概念の諸悪について論じながら)、レーニ ン主義的前衛主義思想が何故いつも最終的には、社会主義ではなく党の独 裁を創り出すのか、について優れた要約をしている。彼によれば:

『人間の持って生まれた劣等性を認め、また神の霊感の助けを借りずに自 力で身をたかめ、正義と真理の観念を補足しえないものと、ひとたび認め ると、その結果、既成宗教のあらゆる神学的、政治的、社会的帰結をも承 認しなければならなくなるのだ。完全にして至高な存在たる神が、ひとた び人間性に対立させられるやいなや、神の仲介者たち、選良たち、神の霊 感を得た者たちが、いっせいに地上に姿を現わし、神の名において人類を 啓発し、指揮命令し、統治するようになるのだ。』(神と国家、37ページ、中央公論社世界の名著「プルードン・バクーニン・ク ロポトキン」では315ページ〜316ページ)

 何をなすべきかの中で、レーニンは次のように論じていた 。社会主義の『意識は、外からしか(労働者に)もたらされないだろう。 (中略)労働者階級は、自身の努力だけでは、労働組合的意識しか発達さ せることはできないのだ。』と論じ、『社会主義理論』は、『有産階級の 中で教育された代表者、つまりインテリ』が発展させた、と論じていた( レーニンの基本的著作、74ページ)。このようにして、 神をマルクス主義で置き換えたのだ。トロツキーが1921年の共産党大 会で次のようにコメントしていたからといって、驚くにあたらない。『我 が党は、独裁を主張するだけの資格がある。この独裁が労働者の民主主義 という移り変わりやすい雰囲気を一時的に破壊したとしてもである!』そ して、『労働者階級にさえも見られる一時の気の迷いにかかずらうことな く、(中略)この独裁を堅持しなければならない。』(M=ブリントン著 、ボルシェビキと労働者管理、78ページに引用されてい る)これらは、まさに、前衛主義の悪しき論理帰結なのだ(そして、 何が「移り変わりやすい雰囲気」や「一時の気の迷い」なのかを決めて いるのは、党−−「科学的」社会主義という正しいイデオロギーの支持者 である−−なのであり、だからこそ独裁がレーニン主義の論理帰結なので ある)。バクーニンの主張の妥当性は簡単に認識できるだろう。アナキス トは前衛主義という概念をなんのためらいもなく完全に拒絶するのである 。

 したがって、労働者階級内部には「進歩した」部分が存在し、アナキスト はその一つであると認識していると同時に、アナキズムの中核的特徴は、その政治運動が資本主義・国権主義との直接闘争という具 体的経験から−−すなわち、労働者階級生活の現実から−−導き出されて いるということも認識しているのである。つまり、アナキストは闘争の中 で労働者階級の人々から学ばねばならないのだ。アナキズム思想が労働者 階級経験と自己活動の産物であり、新しい経験と闘争に応じてコンスタン トに変化し、発展すると認識しているのならば、アナキスト理論が 非アナキストから学ぶことによって変化することを受け入れなければなら ない。この事実を認識しないならば、前衛主義とドグマに門戸を 広げることになる。この事実のために、アナキストは、アナキストと非ア ナキストとの関係は平等主義的なものでなければならず、それは相互のや り取りに基づき、絶対間違わなかったり全ての答えを知っている人−−特 にアナキスト!−−などいないという認識に基づいていなければならない 、と主張するのである。このことを心にとめているため、労働者階級内部 の「進歩した」集団の存在(これは明らかに内部での不均衡な発達を反映 している)を認めながらも、アナキストは、アナキスト組織の社会闘争へ の介入方法、つまり意思決定プロセスへの全員参画に基づ いた介入(以下で議論する)を使って、こうした不均衡を最小限のものに することを狙っているのである。

 このように、アナキスト集団の一般的目的は、考え方−−例えば、社会と 現在の出来事に関する一般的アナキズム分析・リバータリアン組織形態・ 直接行動・連帯など−−を広め、民衆をアナキズムの味方に引き入れる( つまり、アナキストを「作る」)ことである。このことには、プロパガン ダと、社会闘争と民衆組織へ平等者として参画することが含まれる。アナ キストは指導者を変えることで、(悪い)指導力の問題が解決するとは考 えない。マラテスタは次のように論じていた。我々は『民衆を解放 しようと思っているのではない。我々は民衆が自身を解放 することを望んでいるのである。』(前掲書、90ページ)だか ら、アナキストは『直接行動・権力分散・自律・個人のイニシアティブを 擁護し、実践するのである。アナキストは、(民衆組織の)メンバーが組 織の中心に直接参画し、指導者と常勤役員を排除することを学ぶ手助けを するために、特別な努力を行わなければならないのである。』(前掲書、 125ページ)

 つまり、アナキストはアナキスト集団・アナキスト連合が組織の「指導者 」にならねばならないという考えを拒否しているのである。むしろ、我々 はアナキズム思想が社会と民衆組織内に普通に存在するようになり、その ことで、権力者 による指導が、大衆によってなされた決定に対する大衆内 部の活動家の『自然の影響力』I(バクーニンの言葉を使えば)によって 置き換えられてほしいと願っているのである。セクションJ.3.7でバ クーニンの思想に付いてもっと詳しく論じるが、『自然の影響力』という 概念は、フランシスコ=アスカソ(ドルッティの友人であり、彼自身もC NTとFAIで影響力を持ったアナキスト闘士だった)の以下のコメント からも推測できる。

『組合のミーティングに「FAIメンバー」として介入する闘士などいな い。労働しているからこそ私は搾取される側なのだ。私は労働組合に組合 費を支払っている。組合ミーティングに介入するときには、我々搾取され ている者の一人として介入するのである。私が持っている組合員証によっ て与えられている権利を持っていれば、他の闘士がそうしているように、 FAIのメンバーかどうかなど関係ないのだ。』(Abel Paz著、ドゥルティ:武装した人々、137ページに 引用されている)

 このことは、「思想の指導力」が持つ性質を示している。アナキストは、 権力や責任を持つ立場に選ばれるのではなく、自分の考えを民衆集会で表 明し、自分の実情を論じる。つまり、明らかに二方向の学習プロセスを示 しているのである。アナキストは他者の経験から学び、他者はアナキスト の考えと接触するのだ。さらに、これは平等者の議論に基づいた平等主義 的関係なのである。誰かを自分達の上にある権力の座に付かせるよう民衆 を駆り立てるのではないのだ。組織にいる誰もが意思決定に参画し、到達 した決定を理解し、それに同意することを確実にするのである。このこと は、明らかに、参画している人々全員の政治的発達を支援するのである( アナキストもそこには含まれていると強調せねばなるまい)。ドゥルティ は次のように論じている。『自分の意思を疎外している男(女)は、自分 が非常に弱々しい演説家によって支配されていると感じていても、組合集 会で自分の考えを表明し、自分の考えに従うことなどできはしない。(中 略)自分で考えず、自分自身の責任を前提としないのなら、人間の完全な 解放などないであろう。』(前掲書、184ページ)

 「思想の指導力」を支持しているため、アナキストは、全ての民衆組織は オープンで、完全に自主管理され、権威主義から自由でなければならない 、と考えている。このようにしてはじめて、思想と議論が組織の中心で重 要な役割を果たすことができるのだ。アナキストは『上からもたらされ、 力によって押し付けられる善を信じてはおらず、(中略)民衆集団から出 現し、民衆の進歩と共に進歩する新しい生活様式を望んでいる。したがっ て、全ての関心事と意見が自覚的組織で表明されることが大切であり、そ れらの重要性に比例してコミューン生活に影響しなければならないのだ。 』(エンリコ=マラテスタ著、前掲書、90ページ)第一国際労働者協会 に関するバクーニンの言葉がこのことを明確に述べている。

『これは自由で自発的な大衆行動によって下から組織された民衆の運動で なければならない。いかなる秘密の政府支配(governmental ism)があってもならない。大衆は全てのことについて知らされていな ければならない。(中略)インターナショナルの出来事全ては、言い抜け やくどくどしい言いまわし抜きに、徹底的に、オープンに論議されねばな らないのである。』(バクーニンのアナキズム、408ペ ージ)

 (バクーニンのこうした主張は、バクーニンが書簡の中で「不可視の独裁 」を論じていたことを知っている−−通常はマルクス主義の原典からだが −−読者には驚くべきことであろう。セクションJ.3.7で論じるよう に、バクーニンが非常に権威主義者的だったという主張は明らかに誤りな のである。)

 アナキストが社会闘争・民衆組織に、またそうした闘争や諸組織に関する 組織に介入する方法と同じぐらい重要なことだが、その介 入の性質に関する問題もある。我々は英国リバータリアン社会主義グルー プ連帯の以下の文章を引用したい。これは、アナキスト行 動の根本的性質、社会闘争・社会変革・闘争内部での政治的意識を持った 少数派の活動方法に関するリバータリアン見解の重要性をまとめたもので ある。

『革命家にとって、自信・自律・イニシアティブ・参画・連帯・平等主義 的諸傾向・大衆自主活動を増大させものであれば何でも、そして、大衆の 啓蒙(demystification)を支援するものなら何でも有意義な行為である。大衆の受動性・無関心・皮肉・ヒエラル キーを通じた差別・疎外・自分のために何かを行ってもらうという他者へ の依存・そして他者に操作される可能性を強化するものなら何でも−−自 分では自分のために行っていると主張していても−−不毛で有害な 行為なのである。』(我々の見解

 この「有意義な行為」には、『自分で行動すること』(クロポトキンの言 葉を使えば)を民衆に促すことも含まれている。セクションA.2.7で 示しているように、アナキズムは自己解放に基づいており 、自主活動がアナキズムの鍵なのである。マラテスタは以下のように論じ ている。

『我々の課題は、可能な限り全ての自由を手にいれ、いかなる権威からの 命令をも待つことなく自身の欲望を規定する責任を自分に課すように民衆 を「ひと押しする」というものである。我々の課題は、プロパガンダと行 動によって個々人や集団のあらゆる活動を喚起し、励ましながら、政府の 無用性と有害性を証明するというものである。

 『実際、これは、自由に向けた教育の問題、つまり、服従と受動性に慣れ きらされている人々に、自分の真の力と能力を意識させるという問題なの である。自分で物事を行うように民衆を勇気づけなければならないのだ。 』(前掲書、178〜179ページ)

 この、民衆を『自分で行う』ように『ひと押しすること』が、アナキスト 組織のもう一つの大切な役割である。直接行動の奨励は、社会闘争・民衆 組織内でのアナキズム宣伝・民衆参画と同じぐらい重要なのである。

 こうした社会闘争が発展するに従い、革命の可能性が次第に近づいてくる 。セクションJ.7において社会革命に関するアナキストの考えを論じて いるが、ここでは、アナキスト組織の役割は同じであると述べておかねば なるまい。マレイ=ブクチンは次のように論じている。アナキストは、『 工場委員会・集会(などの、闘争に従事している人々が創り出した組織) を説き伏せて、(中略)組織を支配したり、操作したり、全てに通じてい る政治政党に引っ掛けたりせずに、本物の民衆自主管理機関に作り変えようとするのである。』このように、闘争における自主管理 を奨励することで、アナキストは自主管理社会の基盤を用意するのである。


J.3.7 バクーニンの「不可視の独裁」は、アナキストが隠れ権威主義者だという証拠ではないのか?

 これは、レーニン主義者などのマルクス主義者がよく主張するもので、革命家が民衆運動で果たす役割とこの問題に関するバクーニンの考えを明らかに、意図的にすら、誤解していることを示している。事実はといえば、「不可視の独裁」という言葉は、バクーニンやアナキストが隠れ権威主義者だなどいうことを証明してはいない。その理由を以下で説明する。

 マルクス主義者はバクーニンの「不可視の独裁」と「集団的独裁」とを文脈と無関係に引用し、アナキストは隠れ権威主義者であり、大衆を独裁しようとしていることを「証明」しようとして使っている。視野を広げれば、バクーニンとその「不可視の独裁」に関する問題は、アナキスト思想に最も共鳴している解説にも見られている。例えば、ピーター=マーシャルは、『バクーニンの不可視の独裁が、マルクス主義独裁(中略)よりももっと専制的になるであろうと結論付けるのは難しくない』と書いており、『バクーニンの人生と著作にある重大に権威主義的不穏な痕跡である』(不可能の要求、287ページ)と示していた。だからこそ、バクーニンの理論のこの側面に関する記録を明らかにするという問題は、数人のレーニン主義者を懲らしめること以上の重要性があるのである。さらに、このようにすることで、前のセクションで論じた「思想の指導力」という概念を明確にする手助けにもなるだろう。この二つの理由から、このセクションは、当初は冗長で学者の興味しか引かないように見えるだろうが、もっと幅広い関心事に関わっているのである。

 レーニン主義者(現実の非常に可視的な独裁を創り出した人間に従っている人々だ)が、アナキストは「独裁」を創り出そうとしていると非難していることは、全く皮肉なものだ。だが、ここでもまた、皮肉とユーモアはレーニン主義者とトロツキストにいつも見られるものではない。同じようなやり方で、奴等は(全く正しく)バクーニンは反ユダヤだと攻撃するくせに、マルクスとエンゲルスが反スラブだということには奇妙にも沈黙を守っているわけだ。実際、マルクスは、人種憎悪と暴力を実際に伝道していたエンゲルスの文書を公刊したこともあったのだ−−『ロシア人を憎悪することは、ドイツ人が持つ根本的革命的情熱だったし、現在でもそうあり続けている。あの革命以来、それはチェコ人とクロアチア人にまで拡大し、(中略)我々は、(中略)こうしたスラブ民族に対する最も決然たるテロリズムによってのみ、革命を保護できる。』そして、『頑固なチェコ人とスロバキア人は、自分達を文明化するために骨をおってくれたドイツ人に感謝すべきだ。』(バクーニンのアナキズム、432ページで引用されている)。明らかに、反スラブであることはオーケーであり、反ユダヤであることは問題なのだ(彼らはマルクスが反ユダヤ的コメントをしていたことについても口を閉ざしている。)この偽善は明らかだ。

 実際、アナキズムが権威主義に最も近いと中傷しようという試みの中にこそ、マルクス主義者の権威主義が前面に出ているのである。例えば、英国社会労働党の雑誌、国際社会主義の52号には、この「論理」処理が見られる。アナキズムは『個人のエゴの絶対主権性というテーゼ』のために、『必ずや根深い反民主主義』になると非難されている。そして、ハル=ドレイパーを引用し、『全てのイデオロギーの中で、アナキズムは原理上最も根本的に反民主主義的である』と論じられている(145ページ)。アナキズムは個々人が自由になり、自分の決定を自分でなすことを好ましいとしているがゆえに、ファシズム・ナチズム・スターリニズムほども民主主義的ではない、などと言うのだ!誰もが奴らが民主主義という言葉で何を言おうとしているのかいぶかしく思うはずだ。指導者の崇拝と、党や指導者の独裁を積極的に促しているイデオロギーがアナキズムより「民主主義的」だなどと言うのだから!もちろん、実際に、大部分のアナキストにとって、個人の主権性とは自由連合における直接民主主義を意味しているのである(例えば、セクションA.2.11や、アナーキーを再び再発明するに載っているロバート=グラハムの優れたエッセイ、アナキストの契約を参照)。個人の自由に基づかない「民主主義」は、いかなるものであれ、余りにも矛盾し過ぎていてまじめに取り上げることなどできないのだ。

 だが、本題に戻ろう。アナキストは、バクーニンは(暗示的には全てのアナキストが)「不可視の」独裁を望んでいるから、真のリバータリアンではない、という主張に対して二つの反論をする。まず第一に、そしてこれは本セクションで集中することになる論点だが、バクーニンの表現は、その文脈から切り離されて扱われており、その文脈にあるときには、バクーニンとアナキズムに対する批判者が示しているものとは根本的に異なる意味を持っているのだ。第二に、仮にこの表現が、批判者がそうだと主張しているような意味だったとしても、政治理論としてのアナキズム(バクーニンの人種差別やプルードンの性差別と人種差別を超えたものだ)を論駁してはいないのである。なぜなら、アナキストはバクーニン主義者では(プルードン主義者やクロポトキン主義者などのような人名を冠した主義者では)ないからだ。我々は、他のアナキストを現在そうある姿として、つまり、多くの重要で有用な物事を口にする人間であると共に、他の人間と同様に、間違いを犯し、自分の思想全てに従って生きてはいないものだ、ということを分かっているのである。アナキストにとって、これは、自分達の活動から有効な部分を抽出し、無用なものを(それと共に全くのナンセンスをも!)拒絶するという問題なのである。バクーニンが何か言ったからといって、それがすぐさま正しいなどというのではないのだ。政治運動に対するこの常識的アプローチがマルクス主義者には欠落しているようだ。実際、こうしたマルクス主義者の論理をその帰結に導くならば、ルソーが書いたこと全てを拒絶し(彼は性差別主義者だったから)、マルクスとエンゲルスも拒絶し(数多くの人種差別的コメントと同時に、スラブ人に対するそのコメントが心に思い浮かぶ)なければならない。もちろん、マルクス主義者が論文や書物を書くときには、アナキストではない思索者がこのようなことをしているなどとは思いもしないのだ。

 だが、私たちの主要論点、文脈の重要性に戻ろう。「不可視の独裁」というバクーニンの言葉を取り巻く文脈は、どのようなことを論じていたのであろうか?バクーニンが「不可視の」もしくは「集団的」独裁という言葉を使うときはいつも、政府(官僚の)権力に対する自分の反対を、そして特にアナキスト組織がそうした権力を奪い取らねばならないという考えを明確に述べていることははっきりしている。例えば、上記した国際的社会主義者のレビューは、以下の文章を『バクーニン主義文書』から持ってきて、『反民主主義の原理によって、バクーニンが何の異議もなく権力の絶頂にい続けることが可能だった』ということを『証明』するために引用しているのである。

『革命の正にその生命とエネルギーを創り出している民衆アナーキーの真っ只中で、思想と革命的行動の統一により、ある機関が創出されなければならない。この機関は秘密の、世界規模の国際同胞団でなければならないのだ。』

 この文章は、バクーニンの革命的国際同胞団のプログラムと目的の第9項目からのものである。この引用部分の直前の文章で、バクーニンは、『この組織は、独裁と保護的管理という考えを排除している』と述べていた(ミハイル=バクーニン選集、172ページ)。プログラムの第9項目のこの部分が引用されていないなど、奇妙なものだ!また、バクーニンが同じプログラムの第4項目で次のように書いていることも引用していないのだ。『我々は、(中略)我々が既に知っているのと同じ中央集権的で独裁的な革命国家を新たに創り出そうとしている(中略)革命家ども−−将来の独裁者・統制家・革命の守衛ども−−の天敵なのだ。』さらに、第8項目で、『あらゆる場所で民衆が革命を創り出さねばならず、最高の管理権限はいつでも、農業連合と工業連合からなる自由連盟へと組織された民衆に属していなければならない。この連盟は、民衆を支配するのではなく公務を実施する役目を割り当てられた革命的代表団という手段を使って下から上へと組織されるのである。』と述べていることも引用してはいないのだ。(前掲書、169ページ、172ページ)

 (脇台詞だが、レーニン主義者が第8項目を引用したがらない理由は理解できる。革命社会の構造に関して、バクーニンの立場がマルクスの立場よりも数段進んだものであるからだ。実際、マルクス主義者が遅巻きながらも労働者評議会の重要性を見とめたのは、自発的に創出されたソヴィエト(評議会)を、自分の社会主義国家の枠組みとしてレーニンが支持した−−セクションHで見たように、実際にはそうではなかったが、少なくともレトリックとして−−1917年からだったのだ。つまり、バクーニンは、社会主義革命の枠組みとして労働者評議会の勃興を予測していたのだ−−結局ロシア評議会は、当初は、『農業連合と工業連合からなる自由連盟』だったのである。マルクスに「無学な者」だとか「理論家として下らぬ人物」だと呼ばれていた人物が、レーニン主義者がマルクス主義に対する自分達の主要な貢献だと考えているものの一つを、50年以上も前に予測していたなど、レーニン主義者には恥ずかしくて堪らないに違いない。)

 同様に、バクーニンが「不可視の」独裁とか「集団的」独裁という言葉を使っていた状況(通常は同士に宛てた書簡においてだが)を見てみれば、同じことが分かるの−−この同じ書簡において、バクーニンが革命的連合は、国家・政府権力を乗っ取らねばならないと考えていたということは、明らかに無視されているのだ。例えば、アルベルト=リカルド(アナキズム的「社会民主主義同盟」の一員だった)に宛てた手紙の中で、バクーニンは、『その組織が健康的で実行可能な唯一の権力と唯一の独裁体制があります。それは、私たちの原理の名において同盟している人々による集団的・不可視の独裁なのです。』と述べている。そして、その直後に彼は、『この独裁は、いかなる公的権力や外来の特徴を身にまとっていないため、なおさら健康的で効果的になるでしょう。』と付け加えている。この書簡の最初の方で、彼は、アナキストは『民衆暴動の真最中で、不可視のパイロットのように、(中略)公然の権力によってではなく、同盟全体の集団的独裁−−勲章・称号・官僚的権利のない独裁であり、権力の手回り品を持たないがためにかえって強力な独裁です−−によって革命を導か』ねばならない、と論じている。はっきりと『公安委員会と官僚的で公然たる独裁』に敵対しながら、『連合に参画し、武装し、通りと地区によって組織された労働者、連合コミューン』に基づいた革命という自分の考えを説明しているのである。(前掲書、181ページ、180ページ、180ページ、179ページ)独裁者になりたがっている人物に期待されている像とは異なっているではないだろうか?

 サム=ドルゴフは次のように記している。『公然たる権威を行使せず、国家もなく、役所的身分もなく、政策を施行するための制度化された権力機構もない組織を独裁と定義することなどできはしない。(中略)さらに、この文章が、最も強力な言いまわしで、国家と「フランス革命におけるロベスピエール・ダントン・サン=ジュスト」の権威主義的国権主義を拒絶している手紙の一部分であるということを思い出せば、バクーニンが「独裁」という言葉を、大部分が実例によって示された主要な影響力や指導力を意味するために使っている、と結論付けるのが道理にかなっているのである。(中略)この結論と一致していることだが、バクーニンは、「不可視の」と「集団的」という言葉を使って、組織立ったやり方でこの影響を及ぼしている地下運動を意味しているのである。』(バクーニンのアナキズム、182ページ)

 この分析は、バクーニンの手紙にある別な文章によって確認されている。ニヒリスト、セルゲイ=ネチャーエフへの書簡で(この中で、バクーニンは彼らがどれほど政治的に隔絶しているのかを正しく示している−−このことは重要である。マルクス以来、バクーニンの敵対者は、ネチャーエフのパンフレットを、実際にはそうではないのに、それが「バクーニン主義」であるかのように引用しているからだ。)、彼は次のように論じているのだ。

『こうした(革命的)集団は、自身のために何かを求めることなどないでしょう。ましてや特権のためとか、名誉のためとか、権力のためでもないのです。(中略)革命集団は、秘密組織の集団的独裁(を通じて)、(中略)民衆運動に方向性を与える立場にいることになるでしょう。(中略)この独裁は(中略)メンバーの誰にも(中略)革命的諸集団そのものにも、(中略)いかなる(中略)官僚的権力をも(中略)与えることなどないのです。民衆の自由を脅かすこともありません。何故なら、全く官僚的な特徴を持っていないのだから、民衆に対する国家管理が生じることもないからです。そして、その全目的が民衆解放の十全なる実現だからなのです。

 『この種の独裁は、民衆の自由発達・自己発達とも、下から上への組織ともほとんど矛盾することはありません。(中略)なぜなら、それは、メンバーの自然で私的な影響力を通じて民衆に影響を与えるからなのであり、そのメンバーは、民衆的自由組織(中略)に向かう民衆の自発的革命運動を方向づけるための(中略)僅かばかりの権力をも持っていないからです。(中略)秘密の独裁は、まず第一に、そして現時点で、幅広い基盤を持つ民衆プロパガンダを遂行するでしょう。(中略)このプロパガンダの力によって、そして民衆自身の組織作りによっても、別個の民衆力が、国家を破壊できるほど強力な力へと結集するでしょう。』(ミハイル=バクーニン選集、193ページ〜194ページ)

 上記の文章で鍵となる側面は、「自然の影響力」という言葉である。スペインの同盟メンバーであったパブロへの手紙の中で、バクーニンは次のように論じている。同盟は、『同盟の全メンバーが持つ自然ではあるけれども官僚的ではない影響力だけを使って革命を推進するでしょう。』(バクーニンのアナキズム、387ページ)この言葉は、公刊されたバクーニンの著作でも使われている。例えば、新聞の論説で、バクーニンは、『全ての個人が持つ正にその自由は、その人を取り巻く全ての個人と社会が(中略)絶え間なくその人に行使している(中略)莫大なる物質的・知的・道徳的影響力からもたらされる。』そして、『生きているものはすべからく、(中略)他者の生に(中略)介入する。(中略)従って、我々は、大衆に対する個々人や、個々人からなる集団の自然の影響力の効果を廃絶しようなどとは思わないのだ。』(バクーニン入門、140ページ、141ページ)

 つまり、「自然の影響力」とは、単に、人々が他者とコミュニケーションを取り、自分の考えについて論じ、自分の立場を他者に納得させるという効果を示しているのであって、それ以上のことは意味していないのだ。これは権威主義的ではないし、バクーニンはこの「自然の」影響力を「官僚的」影響力と対比させていたのだ。「官僚的」影響力は、平等者間の相互のやり取りプロセスを、固定した命令ヒエラルキーに置き換え、そのことが、『自然の影響力を、それ自体で人間に対する全く正当な影響力を、一権利へと変質』させたのである(リチャード=B=ソルトマン著、ミハイル=バクーニンの社会・政治思想、46ページで引用されている)。

 この違いの一例として、ある組合の闘士の事例を考えてみよう(今後明らかになると思うが、これがバクーニンが心に描いていた種類の事例なのである)。組合の闘士が兵卒の一部であったり、自分の実情を組合ミーティングで論じていたり、集会の決定を実行するために代表として派遣されていたりする限り、その影響力は「自然」である。しかし、この闘士が組合で行政的権力を持つ立場に選ばれる(つまり、例えば、職場代表ではなく、常勤組合役人になる)と、その影響力は「官僚的」になり、従って、官僚的役割に支配されている闘士と兵卒双方にとって潜在的に破滅的なのである。

 実際、「自然の」影響力(もしくは権威)というこの概念をバクーニンは「不可視の」とも呼んでいた−−『それでもなお、組織外に残っている90%の人々に不可視的に影響を与えるためには、10%の労働者が(国際労働者)協会に熱心に、そして、動機を充分に理解した上で参加することが重要なのだ』(バクーニン入門、139ページ)。だから、既に分かるだろうが、バクーニンが書簡の中で使っている「不可視の」独裁と「集団的」独裁という言葉は、公にされた著作の中で使われている「自然の影響力」という言葉と強く結びついているのだ。それは、大衆に対するある組織された政治集団の効果を示すだけのために使われていると考えられるのである。このことを理解するためには「不可視の」影響力の性質に関するバクーニンの文章を詳細に引用することが重要であろう。

『この(中略)不可視の影響力が(中略)権威システムや新しい政府の成立を示唆している(中略)という反論もあろう。(中略)だが、これは重大な大間違いだ。大衆に及ぼすインターナショナルの組織効力は、(中略)同じ思想に感化され、同じ目標に向かっている確かに数多くの個々人の効力が完全に自然に−−官僚的でもなく、いかなる権威も政治的力も身につけていない−−組織されているだけのことなのだ。それは、まず第一に大衆の意見に基づいて、そしてその次に初めてこの意見が媒介されること(インターナショナルのプロパガンダで言いなおされること)によって、大衆の意思と行動に基づくのだ。だが、政府は(中略)大衆に暴力的に押し付けられ、民衆を無理やり従わせ、命令を実行させる。(中略)インターナショナルの影響力は、一つの意見以上のものではなく、インターナショナルは大衆に及ぼす個々人の自然な効力の組織化でしかないのである。(前掲書、139ページ〜140ページ)

 つまり、反アナキストが選択的に引用している著作と書簡が持っている十全な文脈及びバクーニンのその他の著作双方から、バクーニンは隠れ権威主義者などではなく、実際には、アナキストが大衆とその革命に対して「自然に影響力を持つ」ことができるようになる方法を示そうとしていたことがわかるのだ。バクーニンは次のように論じている:

『我々は、あらゆる種類の公的権力に対する最も決然たる敵なのである。(中略)我々は、あらゆる種類の公的に宣言された独裁の敵である。我々は社会的革命的アナキストだ。(中略)我々がアナキストならば、いかなる権利によって、我々は民衆に影響を与えたいと思い、いかなる手段を持ってそれを成し遂げようとするのだろうか?全ての権力を告発しながら、いかなる種類の権力(power)を持って、いやむしろ、いかなる力(force)を持って、民衆の革命に方向を与えればよいのだろうか?誰にも押し付けられることのない(中略)全ての公的権利と意味をはぎ取った(中略)不可視の武力によってである。』(ミハイル=バクーニン著作集、191ページ〜192ページ)

 「公的」権力・権威・影響力に繰り返し反対しながら、バクーニンは、「不可視の、集団的独裁」という言葉を使って、大衆運動に及ぼす組織されたアナキストの「自然の影響力」について語っている。独裁者になる願望を表明するのではなく、実際には、労働者階級内部での「不均一な」政治的発展があることを意識していると表明しているのである。この不均衡は、民衆組織の大衆集会内部での議論によってしか弱めることができないのである。権力の立場を奪ったり、権力の立場に選ばれ(つまり、「官僚的影響力」によって)たりすることで、この「不均衡」を回避しようという試みはいかなるものであれ、失敗に終わる運命にあり、党による独裁を招くであろう−−『ジャコバンやブランキストの(付け加えれば、ボルシェビキもそうだ)大勝利は、革命の死となるであろう。』(前掲書、169ページ)

 この分析は、組合官僚制度、ならびに、いかにしてアナキストがそれと戦わねばならないのか、に関するバクーニンの議論から見て取ることができる。IWMAのジェノヴァ支部を例にとって、バクーニンは、建設労働者のセクションは、『その執行委員会に全ての意思決定を任せている。(中略)このようにして、権力が執行委員会に引きつけられ、全政府の特徴となっている類の虚構によって、執行委員会は自身の意思と思想をメンバーのそれと置き換えてしまったのだ。』(バクーニンのアナキズム、246ページ)と記している。この官僚制度と戦うために、『建設労働者(中略)セクションが、その権利と自律とを防衛した方法は一つだけだった。労働者が一般メンバー集会を招集したのだ。民衆集会以上に執行委員会の反感を惹起するものはないのだ。(中略)このセクションのこうした偉大なる集会では、議題項目は充分に論じられ、最も進歩的な意見が優勢になったのである。』(前掲書、247ページ)

 バクーニンが『全労働者の諸協会からなる連合的同盟は』、『説明責任を持ち、解任可能な委任』を持った代表者からなる『コミューンとなる(だろう)』と考えていたことを思えば、アナキスト連盟の役割は、こうした諸協会の一般的集会に介入し、議論を通じて、『最も進歩的な意見が優勢となる』ことを確実にせしめることである、ということがたやすく分かるであろう(ミハイル=バクーニン選集、170ページ、171ページ)。アナキストは、権力を追求するのではなく、その思想の重要性に基づいた影響力、言いかえれば、「思想の指導力」を追求するのである。従って、アナキスト連盟は、『(民衆の)意思を解放し、民衆の自己決定と、下から上へと民衆だけで創り出されるべき社会経済的組織作りを行う、より広範な機会を提供する。(中略)(革命)組織は、(中略)いかなる状況下でも(中略)(民衆の)主人になってはならない。この組織の主たる目的と追求対象は何か?いかなる種類の支配からも最小限の干渉もされることなく、つまりいかなる種類の政府管理抜きに、あらゆる方面において最も完全なる平等と十全なる人間的自由という方針で、民衆が自己決定に向かうことを援助することなのだ。(前掲書、191ページ)

 バクーニンの革命的組織の役割は、マルクス主義者による選択的引用が示しているものとは全く異なっていることをこれまで示して来たが、ここでさらに二つの問題を扱う必要がある。一つは、いわゆるバクーニンの組織のヒエラルキー的性質と、二つ目は、その秘密的性質である。ヒエラルキーの問題を最初に扱うが、その際、こうした集団の内部組織に関するリチャード=B=ソルトマンの要約を引用するのが最も良いだろう:

『バクーニンは書いていた。協会の「唯一の意思」は、全てのメンバーが「創り出す手助けをした」、もしくは少なくとも、「相互同意」によって「等しく承認した」「法」によって決定されるであろう、と。この「決定的ルール」は、各メンバーが「自分の見解を優勢にしようとし、そうすることを義務とされている」本会議で「頻繁に更新」される。だが、そこで、メンバーは大多数の意思決定を充分に受け入れなければならない。従って、「最も厳格な規律」の下で実施された革命的協会の「厳密に意識され処方された計画」は、現実には、「多かれ少なかれ、他者に対して個々のメンバーが契約した相互コミットメントの表明と直接的結果でしかない」ことになるのだ。』(ミハイル=バクーニンの社会・政治思想、115ページ)

 多くのアナキストはこの姿勢に100%同意してはいない(ただ、「綱領主義」の支持者の大部分は同意すると思われる)が、誰もがこれはヒエラルキー的ではないということに同意するであろう。どちらかと言えば、本質的に全く民主主義的に見えるのである。さらに、他の同胞団メンバーへの手紙でバクーニンがなしたコメントは、彼の革命協会が、マルクス主義者が示唆しているよりも本質的にもっと民主主義的だったという主張を支持している。スペインの同志に宛てた手紙の中で、バクーニンは『(同盟の)全グループは、(中略)たった今から、多数決ではなく、満場一致で新しいメンバーを受け入れる(中略)べきである。』と示唆している。イタリアのIWMAメンバーに宛てた手紙では、バクーニンは、ジェノヴァで、同胞団は『秘密の陰謀・謀議』にうったえてはいないと主張していた。むしろ:

『全てはまったく白日の下で、オープンに、誰の目にも見えるように行われたのです。(中略)同胞団は、毎週定期的なオープンミーティングを開き、誰もが議論に参加するように奨励されていました。(中略)メンバーが座り、受動的に話し手に耳を傾け、話し手は台座から話しをするといった古い手続きは放棄されていたのです。

 『すべてのミーティングは、丸テーブルでのインフォーマルな会話的議論で行われ、そこでは誰もが自由に参加する、このことが確立されていました。誰かに向かって話しをするのではなく、見解を交換していたのです。』(バクーニンのアナキズム、386ページ、405ページ〜406ページ)

 さらに、同胞団での投票でバクーニンが負けたこともあった。(マルクス主義者が主張しているように)同胞団が確かにバクーニンに動かされているトップダウン型独裁だったならば、このようなことはありえないことだ。歴史家、T=R=ラヴィンドラナサンは、同胞団が結成された後、『バクーニンは、同胞団をインターナショナル(労働者協会)の支部にすると同時に、秘密結社として維持しておきたいと思っていた。イタリアのメンバーと数名のフランスメンバーは、同胞団をIWAから完全に独立させたいと思っており、さらに、バクーニンの秘密主義には反対だった。最初の問題に関しては、バクーニンの観点が優勢だった。同胞団とインターナショナルとが敵対することのもたらす有害な効果に関して、大多数を納得させることができたためである。秘密結社の問題に関しては、バクーニンは反対者に道を譲ったのだった。』(バクーニンとイタリア人、83ページ)

 こうしたコメントと事実とは、マルクス主義者が描いたバクーニン像とその秘密結社像が幾分傷つけられたことを示している。さらに、バクーニンは、マルクス主義者が主張しているように中央集権的で、ヒエラルキー型組織を創り出そうと実際にしていたのなら、バクーニンは仕事下手だったのだ。バクーニンは、マドリード同胞団が崩壊していることについて不平を述べていた(『スペインにおける同胞団解散のニュースは、バクーニンを悲しませた。彼は、自分が信じていた同胞団のメンバーに手紙を集中的に書いた。(中略)スペイン人にその決定を覆させようとしていたのだった。』)。また、「バクーニン主義」スペインとIWMAスイス支部はその悪名高きハーグ大会に代表者を送り込んだが、「バクーニン主義」イタリア支部は送り込まなかった(そして、これらの「失われた」投票は、この八百長会議を害するのに充分な数があったと思われるのである)。もちろん、マルクス主義者が、こうした事実はバクーニンの巧妙な性質を示している、と論じることも可能であろうが、もっと明確な説明は、バクーニンは自分を頂点としたヒエラルキー組織を作らなかった(作ろうともしていなかった)ということなのである。ヒュアン=ゴメス=カサスが記しているように、同胞団は『強制的でも、権威主義的団体でもなかった。(中略)スペインにおいて、(同胞団は)独立して活動し、純粋に地域の状況によって促されていたのだった。バクーニンとその友人との膨大な書簡は、(中略)いつでも、アドヴァイスを提示し、主張し、明確にするという考えによって動機づけられたものだった。命令の精神によって書かれることなどなかったのだ。何故なら、それは彼のスタイルではなかったし、仲間によってそういうものだとして受け入れられることもなかったからだ。』スペインの同志も、『外国からの命令という作り話をあざけった』パンフレットを書いていたのだった。(アナキスト組織、37ページ〜38ページ、25ページ、40ページ)このことは、ジョージ=R=イーセンウェインによって次のように確認されている。『スペイン=インターナショナル発展初期にバクーニンの直接的介入が、FRE(インターナショナルスペイン支部)の様々な連盟とセクションに彼の影響力の優勢性を保証していたことは真実だが、それを操作しようとか、さもなくば、スペインの同胞団をバクーニン自身の転覆計画の道具として使うなどということはあり得なかった。』したがって、『同胞団はスペインに存在していたものの、この結社はマルクス主義者が描いていたような極悪な組織とは似ても似付かないものだったのである。』(アナキズムのイデオロギーとスペインの労働者階級運動、42ページ)実際、マックス=ネットラウが指摘しているように、同胞団と袂を分かち合ったスペイン人は、『自身の直接観察によってではなく、上述した国々での組織の行為について聞かされてきたことによって、(中略)ヒエラルキー組織』について納得させられたのだった(そうした国々の中には英国も含まれており、そこには同胞団が存在した証拠など何処にも記録されていないのだ!)(カーサ著、前掲書、39ページ〜40ページで引用)。さらに、バクーニンが同胞団を自分の私的独裁下に実際に動かしていたのならば、同胞団はバクーニンの死と共に変質してしまうか、解消してしまうかしていたと考えられる。だが、逆のことが生じたのだった−−『スペインの同胞団は、1876年のバクーニン死後も生き長らえた。それにも関わらず、ほとんど例外なく、バクーニンが生きていた時とほとんど同じように機能し続けていたのだった。』(ジョージ=R=イーセンウェイン著、前掲書、43ページ)

 二番目の問題に移ろう。革命組織は秘密のものでなければならないのだろうか?この理由は、単に、バクーニンの活動主義の時代で、多くの国家は、市民権がほとんどもしくは全く存在しない横暴な君主制だったからである。バクーニンは次のように論じている。『秘密結社だけがこれ(革命の奮起)を引きうけたいと望むであろう。なぜなら、政府の利権と支配階級の利権とはそれに全く敵対するからだ。』(ミハイル=バクーニン選集、188ページ)バクーニンは、組織が存続するためには秘密であることが大切だと考えたのである。ヒュアン=ゴメス=カサスは、次のように書いている。『その時代の難しさの故に、バクーニンは確信的で絶対に信頼のおける人で構成される秘密集団の方が安全で効果的だと信じていた。そうした集団は、重要な時点で情勢の先頭に立つことができるが、問題を鼓舞し、明確にするためだけに先頭に立つであろう。』(前掲書、22ページ)マルクス主義者でさえ、独裁的国家に対峙すると、秘密裏に組織を作ってきた。ジョージ=R=イーセンウェインは次のように指摘している。『バクーニンの組織的枠組みは「実務家的リアリズム」の産物ではないという主張は、スペイン同胞団メンバーの経験に照らしてみれば、支持することなどできはしない。バクーニンのプログラムを信奉していることが、1870年代初頭に繁栄し、1874年〜1881年の荒々しい抑圧状況を生き抜いたFRE(第一インターナショナルのスペイン支部)の能力に大きな貢献をしたことは疑いもない。』(前掲書、224ページのフットノート)だが、現在ではこの立場に同意するアナキストは、全くとは言わないにせよ、ほとんどいないだろう。それは、帝政ロシアなど非自由主義的国家においてバクーニンが私的に経験したことから形作られているのだ(そして、バクーニンはその活動のためにピョートル=パーヴェル要塞に投獄されていたのだ、ということを忘れてはなるまい)。

 従って、アナキスト集団の役割と性質に関するバクーニンの思想全てが、今日のアナキストに受け入れられているわけではないのである。大部分のアナキストは、例えば、秘密主義や陰謀の賛美に関するバクーニンの主張を拒否している(特に、秘密主義は、虚偽の雰囲気や、特に操作の雰囲気を作りだすと見なしているのだ)。アナキストは憶えている。アナキズムはバクーニンの(そして、その他のいかなる個人の)頭からも全て作り出されたわけでもないし、完成してしまったわけでもない、ということを。むしろ、アナキズムは数多くの個々人によって、数多くの多様な経験と運動に鼓舞されながら、時間をかけて発展して来たのだ。だからこそ、バクーニンは、理論家が新しい地平を切り開く時にそうだと見なされているように、いくつかの点では一貫していないのだ。このことをアナキストは認識しているのである。これは、大衆運動内でアナキスト集団がどのように活動すべきなのか、アナキスト集団の果たす役割はどのようなものであるべきなのか、に関するバクーニンの考えにも当てはまる。バクーニンの思想は、文脈において見れば、その大部分が妥当なのだが、そうではないものもあるのだ。アナキストは妥当な考えを採用し、無効なものについては反対を口にするのである。

 まとめれば、「公的」バクーニンと「私的」バクーニンとに明らかな矛盾(マルクス主義者が躍起になって主張し、隠れ独裁者だというバクーニン像を描き出すことでアナキズムの信用を失墜させるために利用している矛盾)は、彼のコメントを、手紙と政治理論全体双方の持つ文脈において見れば、消えうせてしまうのである。実際、「不可視の独裁」というその概念は、大衆に対する横暴な独裁を促すのではなく、セクションJ.3.6で我々が論じた「思想の指導力」という概念に非常に近いのである。ブライアン=モリスは次のように論じていた。レーニン主義者ハル=ドレイパーのように、バクーニンは独裁政治を望んでいると主張している人々は、『リカルドやネチャーエフ宛ての手紙で伝えようとしていたことの本質を驚くほど歪めることでのみ、こうした結論に』到達したのであり、『偏見に満ち満ちた学者や、バクーニンやアナキズムに対する極端な反感によって盲目にされた者だけがこうした言葉を解釈して、バクーニンの秘密結社の概念はジャコバン的意味での革命的独裁を意味していると示している、などと述べるのだ。ましてや「独裁政治」など意味しているわけがなかろう。』(自由の哲学者、バクーニン、144ページ、149ページ)

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