アナキズムFAQ


J.2.7 改良主義政党の実態を示すために、改良主義政党に投票すべきだというのは正しいのか?

 レーニン主義的社会主義者(英国社会労働党SWPとその合州国におけるISOのような亜流)の中には、我々は労働党などの社会民主党に投票するよう民衆に薦めるべきだと論じている人々がいる。この理由は以下の二つである。

 第一の理由は、人気がある労働組合に基づいた諸政党を支持しているように見せることで、急進主義者がより多くの人々と接することが出来るようになるだろう、と言うのである。そうしなければ、そうした諸政党が明らかに資本主義賛同型の諸政党ほども良いものにはならないという論によって、数多くの労働者階級が離れてしまう危険に急進主義者が陥ることになる、というわけだ。

 第二の論はもっと重大であり、それは、改良主義諸政党を政府に選ぶことで、そうした政府下での生活経験によって、その支持者がその諸政党に対して持っていたいかなる幻想をも粉々に打ち壊されてしまうだろう、というものである。つまり、改良主義諸政党を政府に選ぶことにより、彼らに試験的経験を与えてやろうというのである。そして、もし彼らがその支持者を裏切って現状を保護すれば、その経験は彼らに投票した人々を急進主義化し、そうした人々は真の社会主義政党(例えば、SWPやISOのような)を探そうとするであろう、というのである。

 アナキストはこうした論法を三つの理由で拒否する。

 まず第一に、この戦術を支持している人々の真の思いを隠している限り、これは非常に不誠実な戦術だということだ。真実を言うことは革命的行動なのだ。急進主義者は、半分の真実しかない言葉を語ったり、事実や信じていることを歪めることで、資本主義メディアの真似をするべきではない。自分の政策を隠したり、自分が反対しているシステムや政党を支持するような示唆をしてはならないのだ。
 もし、このことが短期的には民衆からの支持を得ることにはならないとしても、そうさせておけばよいのだ。資本主義・宗教・その他多くのこと攻撃することは、民衆から孤立することになるかもしれないが、これらを攻撃している自分の舌を抑えておくほどに楽観的な急進主義者はほとんどいないだろう。長い目で見れば、自分の考えについて正直でいることは、崩壊した社会システムを除去するという目的を持った運動を生み出す最も良い方法なのである。舌先三寸を使ってこうした運動を始めても、失敗に終わってしまうのだ。

 第二に、アナキストはこの理論が持つ論理を拒否する。この論法の根底にある論理は、その改良主義的指導者と政党によって幻滅させられることで、投票者は新しい「もっとましな」指導者と政党を探すだろう、というものだ。しかし、これは問題の根源、例えばヒエラルキー的社会が民衆の中に創り出している指導者への依存、を論じることが出来なくしているのである。
 アナキストは民衆に「最も良い」指導者に従って欲しいなどとは思っていない。アナキストが欲しているのは、自分自身を支配すること、自己活動的になること、自分のことを自分で管理すること、指導者になろうとしている人に従わないことなのである。もし、抑圧されている人々の解放は、抑圧されている人々自身の課題であると真面目に思うのなら(レーニン主義者が行おうと主張しているように)、この戦術を拒否し、労働者階級の自己活動を促す戦術を望ましいとしなけばならないのだ。

 そして、第三の理由は、この戦術は失敗するということが何度も証明されてきている、ということだ。この戦術の支持者の大部分が気づいていないと思われることは、投票者は確かに改良主義諸政党がこれまで何度も政府に加わって(例えば、英国では1997年以前、7度の労働党政権があり、それら全てで労働者階級は攻撃されていたのだ)来たが、そこからもっと急進的なことへの運動などなかった、ということである。
 レーニンは70年以上前にこの戦術を示唆しており、この方法では投票者にも、改良主義政党の闘士にすら、一般的急進主義化はなかったのだ。実際、充分皮肉なことに、その政党が政権を離れると、こうした活動家の大部分はその政党から離れてしまっているのだ。彼らは、次の選挙に勝つため、「現実的に」見せようとする政党の試みを嫌悪するようになっているのだ!そして、この嫌悪感は、その政党が社会主義を水で薄めてしまっていることではなく、社会主義それ自体の堕落として表現されることが多いのだ。

 この全くの失敗は、この戦術を我々が拒否している理由を考えれば、アナキストにとっては驚くほどのものではない。この戦術はヒエラルキーや指導者への依存も、そのイデオロギーと投票プロセスも攻撃していないため、有権者(選挙時に利用できる別な代替案に頼って、直接行動を信奉しない)に対して真の代替案を提示できないことは明らかである。また、資本主義を管理しているいわゆる「社会主義」や「急進主義」政府の光景は、削減を押し付け・ストライキを打ちこわし・一般にその支持者を攻撃しており、いかなる形態の社会主義の信頼性を傷つけ、民衆の現前で全ての社会主義的・急進主義的考えを誤りであるとするであろう。そして、1970年代の英国労働党の経験を基準とするならば、この幻滅を強調する右翼の勃興を生み出すだけとなるだろう。

 いかなる政府も「我々の側に」いないと主張しないことで、我々に「幻想を持たずに」改良主義政党に投票するように薦めている急進主義者は、自分達に耳を傾けてくれる人々の理論武装を解除する手助けをしているのだ。左翼政党の一貫した「裏切り」に驚き・混乱し・行き場を失ってしまっている労働者階級の人々は、労働者階級の中にいる急進的少数派が問題の一部として投票を攻撃しないために、直接行動へではなく、攻撃を止めさせようと右翼政党(選挙で選ばれる可能性のある)に頼ってしまうかもしれないのだ。

 この戦術がうまく行かないということを実感するまで、我々は一体何度同じ政党を選び、同じプロセス、同じ裏切りを経験しなければならないのだろうか?そして、仮に民衆がこの戦術を拒絶する前に何かを経験しなければならないということが真実であるとしても、この論法をその論理的帰結まで持っていく国家社会主義者などいないのだ。労働者階級の人々が確実に「正体を見抜く」ために、ファシズムやスターリニズムの地獄や自由市場経済という悪夢を経験しなければならない、と彼等が論じているのを聞いたことなどまずないのである。

 アナキストは、逆に、改良主義政党に投票するように人々に薦めることで改良主義政党と我々自身を結び付けなければならないなどとすることなしに、改良主義の政策に反対できると主張する。投票棄権賛同論を論じることで、我々は、それらの諸政党が一旦政府閣僚入りするとそれらの諸政党との葛藤に入ることになる民衆が理論武装する手助けを出来る。全ての政府は(資本と国家からの圧力のため)我々を攻撃せざるをえず、我々は我々自身の組織と防衛力でそれに応えねばならないと論じることで、我々は労働者階級の自身の能力に対する自信を促し、直接行動の使用と同様、資本主義・国家・ヒエラルキー的指導体制の破棄を奨励出来るのである。

 そして、民衆を説得して我々の考えの味方につけるために、急進主義者が議会政治プロパガンダの茶番と自分達を結び付ける必要などない、と付け加えることも出来よう。非アナキストは我々が直接行動を使っているのを見、行動しているのを見、我々が創り出すアナキスト的代替案を見、我々のプロパガンダを読むことであろう。、自身を議会政治的行動に参加したり、それと我々が結び付いたりせずとも、非アナキストに非常にうまく影響を及ぼすことができるであろう。


J.2.8 投票拒否は右翼政党が勝利する選挙をもたらすだろうか?

 多分、もたらすだろう。しかし、アナキストはただ「投票するな」というだけでなく、「組織を作れ」とも言うのである。無関心はアナキストが奨励したいと思っていることではない。そこで、『仮に、アナキストが投票を拒否することを有権者の半数に納得させることができるなら、このことは、選挙という観点から見れば、右翼の(選挙上の)大勝利に貢献することになるであろう。しかし、それは中身のない大勝利となるであろう。有権者の半数が投票しないことで全ての政府を信任しないと表明しているときに、一体どのような政府が支配できるというのだろうか?』(ヴァーノン=リチャーズ著、[社会民主主義の不可能性]、142ページ)

 言いかえれば、公職についた政党が如何なるものであれ、数多くの少数派が、そして多数派でさえもが、政府それ自体を否定している中で国を治めなければならないことになるであろう。このことは、政治家が『自身の力を信じている』そしてそれに従って行動している『民衆から本当の圧力をかけられる対象となる』ことを意味するであろう。そこでアナキストは民衆が投票せずに、その代わりに自分達で組織を作り、個人としての・他者との連合の一部としての自分の力を意識するように要求しているのである。このことだけが『民衆に対する尊敬の念を政府に抱かせることが出来、ちっぽけな紙切れの上に書かれた何百万という×印が一度も成し遂げることの出来ない政府権力を抑えることが出来るのである。』(前掲書)

 エマ=ゴールドマンが指摘しているように、『アナキストが左翼政党に対する投票を左右するほど充分強力ならば、ゼネストや一連のストライキに労働者を結集させるのにも充分強力であるだろう。最後の分析となるが、資本家階級は、公職要人を、右翼であろうと左翼であろうと、買うことが出来るということを充分というぐらい良く知っているのだ。さもなくば、資本家階級は自分たちの確約に対していかなる結果をも。』(「炎のヴィジョン」、90ページ)

 だが、民衆の大多数を金を払って追い払うことなどできないし、もし民衆が抵抗したいと思い、抵抗できるのなら、民衆は何物にも劣らない力になることが出来るのだ。生活し労働している場所で組織を作り・抵抗し・連帯を実行することによってのみ、我々は物事を本当に変えることが出来るのだ。これが我々の力の存するところなのだ。自主管理的で事前に対策を練った地域社会と仕事場組織のネットワークを創り出すことで、我々は、直接行動によって、政治家が絶対に国会から我々に与えることなど出来ないことを強いることが出来るのである。そして、こうした運動だけが、誰であれ政府に加担している人々による我々に対する攻撃を止めさせることができるのである。直接行動と連帯に基づいた大衆運動に直面している政府は(左翼であれ右翼であれ)、削減を企図したり、権威主義的法律を導入したりする前に、いつでももう一度よく考えねばならなくなるだろう。

 もちろん、全ての政党は自分達が他の政党よりもましだと主張する。これがこの問題の論理なのだ。つまり、政府において右翼政党が酷くなる場合には、もう少しましな悪に対して投票しなければならない、というのだ。しかし、この論理が忘れていることは、ましな悪はそれでも悪であるということだ。その後何が起こるかといえば、より酷い悪が我々を攻撃する代わりに、右翼が行おうとしていることをましな悪に行わせるだけのことなのだ。そして、我々は「ましな悪」について論じているのだから、レーガンとサッチャーが独自に作り出したマネタリスト的政策などを導入したのは(合州国においては)民主党と(英国では)労働党だったということを忘れてはなるまい(付け加えれば、米国航空交通管制機関の労働組合は、1980年にカーターに反対してレーガンを支持した。それは、共和党からもっとましな扱いをされるだろうと考えたからだった。そしてレーガンは、一旦政府に入閣すると、労働組合を破壊し続けたのだ。)。
 簡単に言えば、様々な政治家集団が同じ政治経済的圧力と影響力に対して別個に反応することなど期待できないのだ。

 従って、他の政治家に投票することは何の違いも生み出しはしない。政治家は操り人形だ、というのが現実である。我々が以前(セクションJ.2.2で)論じたように、国家の本当の権力は、政治家にではなく、国家官僚制度と巨大企業にあるのだ。スペインからニュージーランドまでの左翼政府が、これらの権力に直面すると、右翼的政策を導入しているのを我々は目撃してきた。つまり、我々が急進主義政党に投票したとしても、彼らは重要なことを変革するだけの権力などなく、すぐに資本主義の利益のために我々を攻撃せざるを得なくなってしまうのだ。政治家は移り変わるが、国家官僚制度と巨大企業は永遠なのだ!

 従って、投票拒否による右翼の選挙での大勝利という危険を避けるために、ましな悪へ投票したところで当てになりはしないのだ。我々が希望することは、誰が政府に入閣しようとも、民衆が政府に抵抗するということなのだ。何故なら民衆は自分の真の力−−直接行動−−を知っており、使うことが出来るからだ。『政府の抑圧を制限する唯一の方法は、民衆が自分自身で政府に対抗できると見なす力なのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、「人生と思想」、196ページ)従って、ヴァーノン=リチャーズによれば、

『アナキスト運動が実際の政治において果たす役割を持っているとすれば、それは確実に次のことを出来るだけ多くの人々に示し、納得させることなのである。ヒットラーやフランコなどから自分が自由になることは、参政権や「自分の選んだ候補者のために」投票の大部分を確保することに依っているのではなく、地域社会での生活において、将来の権力・社会的役割・政府の衰えと共に、民衆の直接参加を目的としている新しい政治組織と社会組織を進化させることに依存しているのだ。』([The Raven]、14号、177ページから178ページ)

セクションJ.5では、アナキストがどのような新しい政治的・社会的組織形態を奨励しているのかについて論じる。


J.2.9 投票の代わりに、アナキストは何を行うのか?

 アナキストは選挙と投票を拒絶するが、だからと言って、我々が政治に無関心なわけではない。実際、アナキストが投票を拒否する理由の一部には、我々が、投票は解決の一部ではなく問題の一部なのだ、と考えているということがあるのだ。これは、投票が不公正で不自由な政治システムを承認し、他人が我々のために闘ってくれると期待させてしまうためなのだ。投票は、建設的な自己活動と直接行動を阻害するのだ。投票は、自分達の地域社会と仕事場で反伝統的代案を構築する事を止めさせるのである。投票は無気力を生み出し、無気力はもっと悪い我々の敵なのである。

 我々は、50年以上にもわたり多くの国々で恒久的賛意を勝ち得、社会主義的なやり方で効果的な変革を既存システムにもたらそうとしている労働党と急進主義諸政党の勃興を見て来てはいる。だが、奇妙なことに、この世はそうした党が始まったときよりも社会主義から程遠くなってしまっているようだ。事実は単純で、こうした政党は余りにも多くの時間を選挙に勝とうとする事に費やしてしまい、地域社会や仕事場で社会主義的代案を作り出す事について考える事すら止めてしまっているのだ。この事それ自体で、選挙が、無気力を減じる事などなく、実際はそれを作りだす手助けをしているのだということを充分証明しているのである。

 したがって、この理由で、アナキストは次のように主張するのだ。自分の一票を無駄にしない唯一の方法は、それを腐らせてしまうことなのだ!、と。我々は、自分が自分で行動しない限り、権力を奪い取らない限り、直接システムと闘わない限り、何事も変わりはしないと論じている唯一の政治運動なのだ。直接行動だけが無気力を打ち砕き、結果を手にする事ができるのだ−−これこそが、真の自由に向けた、自由で公正な社会に向けた最初の第一歩なのである。

 したがって、アナキストは、まず最初に、次のように指摘するのだ。投票しないだけでは不充分だ−−我々は投票現行システム双方に対する代替案に向けて能動的に闘争しなければならないのだ。丁度、参政権を長い闘争の後に勝ち取ったように、自由で権力分散型で自主管理的なリバータリアン社会主義的社会の創造は、社会闘争の産物となることであろう。

 アナキストは、政治的解放の重要性や参政権を勝ち取ることの重要性を否定する最後の人々である。我々が問わねばならない疑問は次のようなものである。これまで、参政権を得るために直接行動を使い、闘い、苦悩してきた何百万という人々に対する適切な賛辞は、根深く不公正で非民主的なシステムを認めさせるためにその勝利を使う事なのだろうか、それとも、真の民衆の自主管理を作りだすために別な手段(実際、以前に参政権を勝ち得るために使っていた手段だ)を使う事なのだろうか?我々が現実的で有意義な民主主義を真に熱望しているのなら、我々は政治的行為を拒否し、直接行動を望ましいとしなければならないのだ。したがって、我々が真にリバータリアン的で民主的な社会を望んでいるのなら、投票がそれを確立する事などない(さらには、そうした社会を求めた闘争を遅らせる)ということは明らかである。

 このことが、アナキストが投票の代わりに何を行うのかに関する考えを明確に与えてくれる。我々は激論し、組織を作り、教育するのだ。セクションJ.5(いかなる代替社会組織をアナキストは構築するのか?)において、様々なアナキスト的企図と試みについてもっと詳しく論じる事になるが、ここでアナキストの活動について短く説明する事は有用であろう。その活動は、直接行動の推奨と、生活と仕事をする場としての代替地域の構築という二つの広大な戦略に基づいている。

 最初の戦略を考えて見よう。アナキストは、直接行動を使う事で、我々が政治家どもを民衆の意思を尊重するようにさせる事ができる、と述べている。例えば、政府やボスがフリー=スピーチを制限しようとしているのなら、アナキストは当該の法律を破壊するために、その法律が撤回されるまでフリー=スピーチ闘争を支援しようとするだろう。もし、政府や地主が家賃の値上げを制限しなかったり、設備を良くするために必要な安全性を改善しなかったりしたなら、アナキストは不法占拠と家賃不払い運動を組織するであろう。環境破壊の場合、アナキストは現場への大規模不法侵入をし、開発ルートを閉鎖し、ストライキを組織したりなどして、破壊を食い止めようとする試みを支援するであろう。ボスが8時間労働の導入を拒否した場合、労働者は組みあいを作り、ストライキをしたり、8時間以上働く事を止めなければならないのだ。法律とは異なり、ボスは直接行動を無視する事などできないのだ(そしてこうした行動が成功すれば、国家は8時間労働に関する法律を可決させようと急ぐだろう)。

 同様に、ストライキが社会抗議と組みあわされると、これまで可決した権威主義的法律を失効させる効果的手段になるであろう。例えば、組合に反対する法律は、ストライキと地域のボイコット(さらには、労働者賛同型政党が反組合の法律を阻止しようと政治的行動を使って効果のない擁護をしたからといって、アナキスト的やり方がそれよりも悪い方法だなどと誰が真面目に言うだろうか?)によって最もうまく闘われるだろう。もちろん、税金の集産集団的不払いは、人望のない政府決定の終焉を確実にしてくれるだろう。1980年代後期の英国における人頭税に対する反乱は、こうした直接行動の力を示す良い例である。政府は、敵対政治家の何時間にも及ぶスピーチを大喜びであしらう事はできるだろうが、社会抗議を無視する事はできないのだ(そして、我々は、この人頭税に反対すると主張していた労働党が、大喜びで、自分達が統制している評議会をしてこの税を導入せしめ、未払いの人々を逮捕させた、ということを付け加えねばなるまい)。

 ノーム=チョムスキーが論じているように、『既存国家諸制度の制限内では、政策は私有経済において集中した権力の中枢を代表する人々によって決定されるであろう。そうした人々は、その制度的役割の中で、道義的訴えによって影響されるのではなく、自分がなした決定に付随するコストによって左右される−−彼らは「悪い人間」だからではなく、それが制度的役割の要求している事だからなのだ。』そして、彼は次のように続けている。『社会を所有し、管理している人々は、自分達の特権とその特権が栄えている秩序だった世界に挑戦する事などない、調教され、無気力で、服従的な大衆を求めているのだ。平凡な市民はこの賜物を彼らに捧げてはならない。組織と政治的交戦を使って民主主義の危機を促す事は、それ自体で権力に対する脅威なのであり、社会変革に向けた本質的な第一歩であるというこのこと自体の非常なる重要性を度外視しても、それを行う理由なのである。』(「流れを変える」、251ページ〜252ページ)

 このように、社会的抗議を促す事で、いかなる政府も、権威主義的で破壊的で人望のない政策に従事する前に二度考えるようになるだろう。最終段階の分析で、政府は敵対政治家の談話を無視できるしまた無視するであろうが、長期にわたる社会行動を無視する事などできはしない。スペインのアナルコサンジカリストの言葉によれば、アナキストは、『政府にいかなる譲歩も懇願しはしない。我々の使命と我々の義務は、大臣も代議士も議会で実現できないようなことを街路から無理強いする事なのだ。』(グラハム=ケルセイ著、「アナルコサンジカリズム・リバータリアン共産主義・国家」、79ページからの引用)

 反体制的代案を構築する第二の戦略は、この第一の戦略から自然に生じている。いかなる形態のキャンペーンも、組織を必要とし、アナキスト的方法で組織を作ることで、我々は『旧世界に取って代わる新社会の生き生きとした種をその中に蒔く』(バクーニンの言葉を使えば)のだ。仕事場と地域社会でストライキを組織するときに、我々は権威に対する叛逆の魂を促す事ができるような活動家と組合員のネットワークを作り出す事ができるのだ。自分達が生活し、仕事をしている場所で集会を作り出すことで、我々は国家と資本に対する効果的な対抗権力を作り出す事ができるのだ。こうした組合は、スペインとイタリアのアナキストが証明したように、自己管理型の学校・社会センターなどを改造するための焦点となるポイントになりえるのである。このようにして、地域社会は確実に、その成員を教育するために利用できる充分独立した自己管理型の資源を持つ事ができるようになる。また、クレジットユニオン(つまり交換銀行)・共同組合的仕事場や小売店と組み合わせることで、自己管理型下部構造が作りだされ、民衆が確実に、資本主義や政府に頼らずとも、自身の欲望を直接扶養できるようになるだろう。

 言い換えれば、アナキスト活動の本質的部分は(CNT闘士の言葉を使えば)以下のようになる:

『我々は、ブルジョア社会の中で創りだすことのできるリバータリアン共産主義の一部を創造しなければならい。そして、我々自身が持つ特殊な武器を使ってブルジョア社会と闘うために、正確にそれを実行しなければならないのだ。』(前掲書による引用、79ページ)

 そこで、何もしないなどということから全くかけ離れて、投票しないことによって、アナキストは積極的に反体制的代案を促すのだ。英国アナキストのジョン=ターナーが論じているように、アナキストは『民衆に働きかけ、民衆に自力本願を教え、自分達のために自分で直接的に非政治的(すなわち、非選挙的)運動を始めることに参画するように促すという方向性を持っている。(中略)民衆は自分を信頼いすることを学ぶやいなや、自分で行動するであろう。(中略)我々は民衆に信頼を自分自身に置くように教え、自助の方向に沿って進んで行く。我々は、民衆が自身の管理委員会を作り、主人を否定し、国家の法を(中略)蔑むように教えるのだ。』(ジョン=クェイル著、「導火線は緩やかに燃える」、87ページにおける引用)このように、我々は自己活動・自主組織・自助を支援する−−無気力と何もしないことに反対するのだ。

 しかし、政府の政策の中で、実際に民衆を援助しているものについてはどうなのだろうか?アナキストは、『政府が採用した法令の中で、明らかに民衆のためになっていたものを非難することをためらうかもしれない。だが、それは、民衆が自分でそれらの法令を実行する即時的可能性を我々が見ていないときに限られる。このことと同時に、政府が採用したいかなる発議も、民衆が同じ問題を心に止めておくならば、民衆によってもっとうまく採用されるだろう、と我々が宣言できなくなることなどないのだ。(中略)例えば、あらゆるレベルで協定と合意がなされることで、地域のニーズから全国組織へと、病院サービスや交通システムを作ることは、トップのレベルで(国家によって)考案されたものよりも確かに効率的かつ経済的なのである。トップのレベルでは、大蔵省の圧力や政治的な圧力などの、我々ならばニーズとして述べることと必ずしも関係していない圧力が、政策形成に影響を及ぼすからだ。』(「強奪(The Raven)」誌、第14号、179ページ)

 究極的に国家と資本が与えることは、国家と資本が奪い取ることもできるのだ。我々が自身の自己活動によって築くことこそが、我々がそれを欲し、それを守ろうと行動する限り永続し得るのだ。そして、アナキストは以下のことを確信しているのだ。

 『未来は、権力・政府の権威と勇敢に、一貫して闘いつづけている人々のものだ。未来は我々のものであり、我々の社会哲学のものだ。なぜなら、これが、自主独立の思考と経済闘争への労働者の(付け加えれば、社会闘争への労働者階級の)直接参加を教えてくれる唯一の社会理想だからだ。なぜなら、労働者が資本主義システムとそれが包含している誤りと不公正全てをぶっ潰すことができ、そうすることになるのは、民衆の組織的な経済的(そして社会的)強さを通じてだけだからなのだ。この立場からどのようにであれ逸脱してしまえば、我々の運動を妨げ、政治的出世主義者達の捨て石にせしめることにしかならないであろう。』(エマ=ゴールドマン著、「炎のヴィジョン」、92ページ)

 

J.2.10 選挙を拒否するということは、アナキストは政治に無関心なのか?

 無関心ではない。無関心とは程遠いのだ。アナキズムは「政治に無関心」な性質を持っているというのは、マルクス主義者の戯言である。根本的に社会を変革しようと望んでいる以上、アナキズムは政治的にならざるを得ないのだ。しかし、(既にこれまで見たように)アナキズムは「通常の」政治活動を効果がなく、破滅的だとして拒絶しているのである。だが、多くの人々(特にマルクス主義者)は、資本主義的政治運動の欠点をそのように拒絶しているということは、アナキストは賃金・労働条件などの純粋に「経済的」問題に焦点を絞っているのだ、と示唆している。そして、そのようにすることで、マルクス主義者は、アナキストが政治的議題を資本主義イデオロギーに支配させるがままにしておき、労働者階級に破滅的な結果をもたらしていると主張するのである。

 しかし、この観点は完全に間違っている。確かに、バクーニンは、労働者が政治運動を無視し得るという考えを明らかに拒絶し、実際に、政治的無知は労働運動の資本主義的統制を導くだけであるということについてマルクス主義者に同意していたのだ。

『ドイツの労働者(の中に)は、(中略)一種の小規模組合連合(に組織されているものもある)。(中略)「自助」(中略)は、労働者が国家と政府からではなく、自身の努力から救済や援助を期待するように一貫して助言されていたという意味で、連合のスローガンだった。この助言は、労働者の解放は現在の社会組織状況下で可能である、という誤った安請け合いを伴っていなければ、素晴らしいものであっただろう。(中略)この欺瞞の下で(中略)(この)影響を被った労働者は、国家・貧困などに関する全ての政治的・社会的関心と疑問から整然と自身を引き離すことになってしまったのだ。(中略)(このことは)完全にプロレタリア階級をブルジョア階級に従属させてしまった。ブルジョア階級はプロレタリア階級を搾取し、そのために、プロレタリア階級は従順で愚かな道具であり続けることになったのだ。』(「国家性とアナーキー』、174ページ)

加えて、バクーニンは、労働運動(そして、アナキスト運動)は、政治思想と政治闘争を考慮に入れねばならないだけでなく、労働者階級的やり方でそれを行わなければならないであろう、と論じていた。

『インターナショナルは、政治全般を拒絶しはしない。ブルジョア階級に対する闘争を押し進めている限り、政治に無理にでも介入しなければならないだろう。インターナショナルが拒否するのは、ブルジョア政治だけである。』(「バクーニンの政治哲学」、313ページ)

したがって、アナキストは資本主義的政治運動(すなわち、選挙)を拒絶するが、政治運動やより幅広い政治的議論を無視するわけではない。アナキストは、いつも、社会運動における政治的議論・思想の重要性を認識してきた。バクーニンが論じているように、『インターナショナル(労働者階級の組合と運動の国際的組織)は、(中略)それ自体で政治的・哲学的問題に関係すべきだろうか?国内の・国家間の政治闘争に伴う事件や政治闘争から生じる事件と同様に、思想の世界における進歩を無視するのであろうか?(中略)我々は、政治的・哲学的疑問を無視することは絶対に不可能だと即座に述べねばならない。経済的疑問だけに排他的に心を奪われているのでは、プロレタリア階級にとって破滅的なこととなろう。(中略)労働者が自分の人間性を放棄することなく、そして、自分の経済的権利を奪取するために本当に必要な知的・道徳的力を自分から剥奪することなく、そこに止まることなどできはしないのだ。』(「バクーニンのアナキズム論」、301ページ)

 アナキストは選挙を無視するわけでもない。ヴァーノン=リチャーズが論じているように、アナキストは『競争している諸政党のデメリットに関する見解がいかなるものであれ、選挙結果を(中略)無視することなどできはしない。アナキスト運動は、民衆が自身の一票を使わないように説き伏せるようキャンペーンをしてきたという事実が、我々のコミットメントと関心との証拠なのだ。もし、例えば60%の投票率があっても、我々が40%の無投票がアナキストだなどと仮定することなどなく、我々が40%の中に、政治政党に対する信頼を失い、別な手段、別な価値観を捜し求めている相当数の少数派がいるという結論を導くことは確かに正当なものと見なされるだろう。』(「社会民主主義の不可能性」、141ページ)

 したがって、アナキストは政治に無関心だとか、政治(資本主義政治にすらも)に無知であるという非難は、神話なのだ。むしろ、『我々は、どの政府を選ぶかということにかかずらっているのではなく、政府がもはや運営されないような状況を創り出すことに関わっているのである。なぜなら、そうなって初めて、我々は地域的に・国家的に・国際的に真の欲望と共通の熱意を満足させるように組織を作るからである。』なぜなら、『我々が資本主義と政府を持っている限り、アナキストの仕事はその二つと闘い、同時に、民衆が自身の生活を運営するために自分ができるステップを取るように支援することだからなのである。』(ヴァーノン=リチャーズ、「Raven」誌、第14号、179ページ)

 このプロセスの一部には、次の二つのことがあろう。民衆が自身の地域社会と仕事場で創り出す自己管理型組織における、政治的・社会的・経済的諸問題に関する議論(バクーニンが論じたような)と、これらの組織を使って、今ここでの(政治的・社会的・経済的)改善と改良を求めて直接行動と連帯を用いて闘うことである。

 つまり、ルドルフ=ロッカーが指摘したように、アナキストは分かちがたい二つのものとしての政治的闘争と経済的闘争の統一を望んでいるのだ。

『アナキストは、資本主義に対する戦争は同時に、政治権力の全制度に対する戦争でなければならないという観点を主張している。何故なら、歴史的に経済的搾取は、政治的・社会的抑圧と手に手を取っていつもやって来たからだ。人間による人間の搾取、人間に対する人間の支配は、不可分のものであり、一方が他方の成立条件となっているのだ。』(「アナルコサンジカリズム」、15ページ)

こうした統一は、政治的分野ではなく、労働者階級が最も強力なものとなっている社会的・経済的分野でなされねばならない。言いかえれば、アナキストは、『全ての政治闘争に反対しているわけではなく、アナキストの観点からすれば、その闘争は(中略)直接行動という形態を取らねばならないのである。(中略)彼ら(労働者階級)が政治闘争の重要性を見過ごしているというのは馬鹿げている。地域社会の生活に影響を与える出来事全ては、政治的な性質を持っているのだ。この意味で、全ての重要な経済的活動は、(中略)政治的活動なのであり、それ以上に、この活動は、議会手続き以上に比類のないほど大きな重要性を持っているのだ。』(ルドルフ=ロッカー著、前掲書、65〜66ページ)

 そして、CNTの機関紙「労働者の連帯」には以下のコメントがある:

『我々が民衆の生活に参画したいと思っていることを知らない人などいるだろうか?我々が何時もそうして来たことを知らない人などいるだろうか?そう、我々は参画したいのだ。我らの新聞を持って参画したいのだ。媒介者・代表者・代理人などなしに参画したいのだ。いや、我々は町役場・県庁・議会なんぞに行きはしないのだ。』(ジョセ=パイラッツ著、「スペイン革命のアナキスト達」、173ページより引用)

アナキストは政治的・経済的闘争を分離できるという考えを拒絶している。こうした論法は、資本主義の持つ精神的労働と肉体的労働という労働の人工的に創り出された分断を労働者階級組織内と反資本主義運動内で再び創り出すだけなのだ。我々は、政治を、ある種の人々(すなわち我々の「代表者」)だけが行うことのできる専門化された活動という形に分離すべきではないと述べているのだ。その代わり、アナキストは政治闘争・思想・議論は、我々の階級の社会的経済的諸組織に持ちこまれなければならず、そこで全てのメンバーが自分達が適切だと見なす限りに自由に議論しなければならず、政治的・経済的闘争と変革は手と手を取って進まねばならないと論じているのである。

 歴史的に、社会的・経済的諸問題を政治政党に取りこんでしまうという試みは、エネルギーを消耗するだけで、これらの問題を純粋な改良主義へと水で薄めてしまう事にしかならないことは明らかだ。バクーニンはこうした活動について以下のように述べている。『政治革命が社会革命に先んじなければならない、(中略)(ということは)致命的な大誤謬である。何故なら、社会革命以前に、その結果として社会革命なしに行われた全ての政治的革命は、必ずや、ブルジョア革命になり下がり、ブルジョア革命はブルジョア社会主義(つまり、国家資本主義)を生み出す道具にしか成り得ないからだ。』(「バクーニンの政治哲学」、289ページ)

 社会主義政党が改良主義に成ってしまうこのプロセスは、セクションJ.2.6で議論したため、ここで再び繰り返しはしない。ただ、資本主義社会の人為的分断を拒絶することによってのみ、我々は、自由・平等・連帯という我々の理想を真のものとし続けることができるのだ。アナキストは、『国家的組織は、少数者がその大衆に対する権力を確立し、組織するために訴えていた力であり続けているのであり、こうした特権者達を破滅させる役目を持った力になることなどない、という立場を堅持しているのだ。』(ピーター=クロポトキン著、「クロポトキンの革命的パンフレット」、170ページ)急進主義者が国家を利用したいかなる実例も、結局のところ、システムの変革ではなく、システムによる急進主義者の変質をもたらしている。バクーニンの言葉を使えば、こうした急進主義者は、『プロレタリア階級をブルジョア階級の鎖に縛り付けておいた』(つまり、労働者階級運動が−−「現実的」で「実際的」になることで−−資本主義的思想と活動によって支配されてしまうことをもたらした)のだ。

 したがって、アナキストは、政治思想と社会組織・活動との融合は、急進的政治運動を促すために必須のものである、と主張する。それは、こうした融合が『ブルジョア階級とプロレタリア階級の溝を深め、国家内での全党派の活動と政治的示し合わせの外にプロレタリア階級を置くことになるからである。(中略)自身を全てのブルジョア的政治の外に置くことで、プロレタリア階級は、必ずやブルジョア政治に対抗するようになるのである。』そこで、『国家の政治とブルジョア世界の外にプロレタリア階級を置くことで、(組合運動は)新しい世界、結束した万国プロレタリアの世界を構築したのだ。』(マイケル=バクーニン、前傾書、303ページ、305ページ)

 さらに、いわゆる「経済的」闘争は、社会的真空状態の中で生じはしない。それらは、社会的政治的文脈で起こるのであり、したがって、政治的闘争と経済的闘争の分断は精神の中にしか存在し得ないのだ。例えば、ストライキやエコウォリアーは、国家が強制している法律の力に直面しており、その法律は雇用者や公害をまき散らしている人々の権力を保護しているのだ。このことは、必ず、闘争に参画している人々に対して「政治的」インパクトをもたらす。バクーニンが論じているように、社会闘争は『インターナショナル(組合・社会運動)における自発的で直接的な哲学的、社会学的発展、すなわち、(ストライキと組合組織造りという)最初の二つの運動と共に必ずや発達し、それらの運動によって作りだされる思想』をもたらすのである(前傾書、304ページ)。闘争に参画している人々が導き出した「政治的」結論を、選挙政治へと導くことで、 政治思想と議論のこの発展は、現行システムの中で何が可能なのか、という議論へと歪曲されてしまい、そのことで、直接行動と社会闘争の急進的インパクトが弱められてしまうのだ。

 したがって、アナキストが選挙を拒絶するのは、「政治に無関心」だからなのではなく、政治が純粋に政治家と専門家のためのものでありつづけることを目にしたくないからなのだ。政治問題は、余りにも重要すぎて、こうした人々の手にゆだねておくわけには行かないのだ。アナキストは底辺から政治議論と政治変革がなされるのを見たいと熱望しているのであり、これは「政治に無関心」などではさらさらないのである−−実際、我々が、普通の人々が、自分に影響する問題を直接議論しているところを、自分の行動で物事を変革しようと活動しているところを、自分の行動から自分なりの結論を導き出しているところを、見たいと思っている、という事実からすれば、アナキストは非常に「政治的」なのだ。個人の解放と社会の解放のプロセスは、我々が考え得る中でも最も政治的な活動なのだ!

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