アナキズムFAQ


J.1.4 アナキストは「単一争点」キャンペーンにどの様な態度を取っているのか?

 まず最初に、アナキストは確かに「単一争点」キャンペーンに参加しているが、その中で誤った希望を助成してはいない、ということを記しておかねばならない。このセクションはアナキストがこうしたキャンペーンをどう考えているのかについて説明する。

 「単一争点」キャンペーンは、通常、圧力団体が行っている。圧力団体は一度に一つの問題を攻撃することに集中している。例えば、CND(核軍縮キャンペーン)は、活動の中核として核兵器の排除を目的としている「単一争点」キャンペーンの古典的例である。しかし、アナキストにとっては、単一争点キャンペーンは誤った希望の源泉と見なされる。完全に内部で関連し合ったシステムの一側面を変える可能性と、圧力団体が国境を越えて進出している大企業や軍部などと充分に競合できるという信念とはどちらも、良くて楽観主義にしか見えないのだ。

 さらに、多くの「単一争点」キャンペーンは、そのキャンペーンをまとめている一つの争点だけに純粋に集中することで、「非政治的」であろうとしている。そして、変えようとしているシステムを分析したり、そのシステムについて論じたりすることを拒否しているのである。このことにより、彼等は自分達が戦っている問題の原因であるシステムを最終的には受け入れてしまうのだ。キャンペーンによって達成されたいかなる変化であれ、良くても、体制側に受け入れられるものとなるか、その内容が余りにも水増しされてしまって何等長期にわたっては良いことがなされないことになってしまうのである。

 このことは、緑の運動からも見て取れる。グリーンピースや地球の友のような団体は、現状を所与のものとして受け入れ、その中で活動することに自身を制限している。このことにより、本質的に反生態学的政治経済システムの中で自分達の「解決策」を「実際的な」ものになるように仕立て上げることになるのだ。そして、(良くても)生態破壊のスピードを遅らすだけなのである。

 アナキストにとって、こうした諸問題は全て、社会問題は単一争点として解決することなどできないという事実から生じている。ラリー=ロウが論じているように、『単一争点政治運動は(中略)争点や問題を孤立させて扱っている。ある問題が他の問題全てと切り離されると、解決は本当に不可能になる。一つの争点に対するキャンペーンが増加すればするほど、その観点は狭くなっていく。(中略)それぞれの争点に関する観点が狭くなれば、その矛盾は馬鹿げたほどのものとなる。(中略)単一争点政治運動が行っていることは、「症状」を看護しているのであって、「病理」そのものを攻撃しているのではない。それは、核戦争・人種や性別による差別・貧困・飢餓・ポルノなどの争点を、あたかも既存システムにおける逸脱だとか、失敗であるかのようにして示すのである。
 現実には、こうした諸問題は、搾取とヒエラルキー的権力に基づいた社会秩序の不可避的結果なのだ。(中略)単一争点キャンペーンは、その救済の訴えを、キャンペーンを抑圧している正にそのシステムに任せているのである。請願することで、彼等は権力を持っている人々が望み通りにその権力を行使する権利を認めているのだ。』(「檻は大きく、鎖は長く」、17ページ〜20ページ)

 単一争点政治運動は、間違っているのは資本主義システム全体ではなくシステムの単なる一部であり、システムのトップにいる人々は我々の利益のために行動できるだろうし、行動してくれるだろうという幻想を促すことで、自由社会への闘争を長引かせるものだ。こうしたキャンペーンは何らかの良い実際的な働きをすることもできるし、社会問題に関する知識と教育を増加させることもできるが、正にその性質によって制限されており、今この場での包括的な改善を導くことなどできないのだ。自由社会など気にも留めていないのだ。

 つまり、アナキストは、単一争点キャンペーンを支援しその中で活動することも多く、そこでは、効果的な活動方法(直接行動など)を使うようにさせたり、アナキスト的なやり方(つまりボトムアップ)で活動したり、システム全体を疑問視するようにキャンペーン参加者を「政治的にし」たりしようとする。だが、アナキストはそのような活動に自身を制限しはしない。何故なら、社会革命や運動は単一争点キャンペーンのグループではなく、社会問題の内部関連的性質を、ひいては生の全側面を変化させる必要性を理解している大衆運動だからなのだ。


J.1.4 アナキストは何故社会闘争を一般化しようとするのか?

 基本的に、連帯を奨励し促すためにそうする。このことが、アナキスト社会を創造するために必要な階級意識を創り、今この場での闘争に勝利するための「正にその」鍵なのだ。その最も単純な場合、様々な闘争を一般化することは、それらの闘争に勝利する機会を増やすことを意味する。例えば、ある職業やある仕事場だけがストライキを行って、その他は平常通り仕事を続けているというストライキを例にとってみよう。

『現在の労働者組織の形態がどれほど馬鹿げていて効率の悪いものであるか考えてみよ。そこでは、ある職業がストライキを行っている時に、同じ産業の別部門は仕事をし続けているのだ。例えば、ニューヨークの路面電車で働いている人達が仕事を止めた時に、地下鉄労働者やタクシーの運転手や乗り合いバスの運転手が仕事を続けている、というのは馬鹿げてはいないだろうか?(中略)そこで、君が(ボスの)服従を勝ち取ることができるのは、君自身で決め、君の組合が強力で、君自身が充分に計画を練り、ボスがその工場を君の意思に反して動かすことなどできないようなやり方で君が結束している時にだけである、ということは明らかだ。(中略) しかし、雇用主は普通(中略)様々な場所に製作所や鉱山を持っている何か(中略)大きな企業なのである。もしストライキのためペンシルバニア州で(中略)機械が動かないのなら、(中略)(どこか別な場所で)生産を続け(中略)生産を増大することで、その損失を補おうとするだろう。(中略)このようにして企業は(中略)ストライキを打破するのだ。』(アレキサンダー=バークマン著、「アナキズムのABC」、53ページ〜54ページ)

 一つの組合で全労働者を組織する(結局、彼等労働者のボスは同じなのだ)ことで、その組合はそれぞれの職種が持つ権限を非常に大きくする。ボスが数名の労働者を取り代えるのはた易いだろうが、仕事場全体をそうするのは非常に難しいであろう。同じ産業の全労働者を組織化することで、それぞれの仕事場の持つ権限はそれに対応して大きくなる。仕事場外にもこの例を広げてみれば、様々な団体がお互いに相互支援し合うことで、それぞれの団体がその闘争に勝利する機会が増加することは目に見えている。

 世界産業労働者(IWW)が述べているように、『一人の怪我は、皆の怪我なのだ。』闘争を一般化することによって、相互支援と相互扶助の実践によって、自身の権利のため、不公正に反対するために戦っている時に、自分は孤立しているのでもなければ、独りぼっちなのでもないことを確実にできるのである。お互いに支援しあわなければ、諸団体は一つ一つ狙い討ちされてしまい、システムとの葛藤に入った時には、支援してくれる人は誰もおらず、負けてしまうことになるであろう。

 だから、アナキストの観点では、様々な闘争を一まとめに一般化することの最も良い点は、それが階級意識の増大と同時に連帯性と責任の精神の増加を導くことなのである。なぜなら、共に活動し連帯を示すことで、参画している人々が自分達の共通の関心事を理解し、闘争は「この」不公正や「あの」ボスに対するものではなく、「全ての」不公正と「全ての」ボスに対するものなのだ、ということを分かるようになるからである。

 この意味での社会意識と連帯性の増加は、1930年代のスペインにおけるCNTの経験から見てとることができる。CNTは一定地域における全労働者を一つの巨大組合に組織化した。それぞれの仕事場は組合の一支部であり、特定地域の連合に皆参加していた。その結果は以下の通りであった。

 『地理的地域に基づいた(CNT諸組合の)組織連係は、一地域の全労働者を団結させ、企業的(つまり、産業的)連帯性を遥かに越えた労働者階級の連帯性を扇動したのだった。』(J=ロメロ=マウラ著、「スペインの事例」、今日のアナキズム、D=アプター・J=ジョール(共編)、75ページ)

 このことはイタリアとフランスにおけるサンジカリスト組合の経験からも同様に見て取れよう。また、こうした地域諸連合の構造は、仕事場をそれが実際に属している地域社会の中に置いているのである(特に、社会的アナキストが支持している共同体の概念が現実のものとなる場合に)。

 同時に、諸闘争を共に団結させることで、「単一争点」など実際にはないのだ、ということも分かるようになる。様々な諸問題は全て連結し合っているのだ。例えば、生態系の諸問題は単にそれだけで存在しているのではなく、政治的経済的基盤を持っており、経済的搾取が環境にまで及んでいるのである。相互連結している諸闘争とは、ある闘争は資本主義の搾取と抑圧に抵抗する他の闘争と関連していると見なすことができる、という意味である。例えば、環境において進行していることは、人間社会内での支配と不平等が引き起す諸問題に直結している。公害は、企業が市場で生き残り、利潤を増加させようとして行う経費削減と直結しているものだ。同様に、性差別主義や民族差別主義に対する闘争は、全形態のヒエラルキー・搾取・抑圧に対するより大きな闘争の一部として考えることができる。このように、諸闘争の統合は、闘争に勝利するという意味での諸利益を遥かに越えた重要な教育効果を持っているのである。

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