アナキズムFAQ

J.1 アナキストは社会闘争に参画するのか?

 参画する。アナキズムとは、何にもまして、世界を分析するだけでなく、それを変えるという目的を持った運動なのである。従って、アナキストは社会闘争に参加し、それを奨励するという目的を持っている。社会闘争には、ストライキ・デモ行進・抗議・デモ・ボイコット・占拠などがある。こうした活動は、「叛逆者の魂」は生きており健全であり、民衆が自身で、権威が彼等にさせようとしていることに叛逆して思考し行動している、ということを示すのである。アナキストの目には、このことは資本主義の中でアナーキーの火種を創り出す手助けをする鍵となる役割を演じているのだ。

 アナキストは、民衆が協働もたらす利益を理解する時に、そして特に、相互扶助が権威・抑圧・搾取に対する闘争の中で発達する時に、社会の中で社会主義的諸傾向が発達すると考えている。従って、アナキストはアナーキーを抽象的に資本主義に反対するものだとしているのではなく、既存システム内での(そしてそれに対抗する)傾向だと見なしているのである。支配の諸構造と社会的関係を新しくもっと解放的で人道的なものと「置きかえる」ことができるだけのレベルまで発展させることのできる傾向である。この観点は、アナキストが社会闘争に参画する理由を示している。社会闘争は、資本主義内で、資本主義に対抗し、究極的に資本主義を置きかえることができるこの傾向の一表現なのである。

 後に(セクションJ.2)見るように、アナキストは、アナキストの理想と理論を論じると同時に、社会闘争の中での直接行動を奨励する。しかし、社会闘争は民衆が自分で考え自分で行動し、物事を変えようとして共に活動していることの現われなのだ、ということをここで記しておかねばならない。アナキストは、ハワード=ジンが以下のように指摘していることに同意する。

 『市民の不服従(中略)は、我々の問題ではない。我々の問題は市民の「服従」なのだ。我々の問題は、世界中の多くの人々が政府指導者の独裁に服従し、戦争に行き、何百万という人々がその服従のために殺されていることなのだ。(中略)我々の問題は、民衆が、貧困と飢餓と馬鹿馬鹿しい行為・戦争・残虐にも関わらず、世界中で服従していることなのである。我々の問題は、刑務所が哀れなこそ泥達でいっぱいで、大泥棒が国を動かしている間中、民衆が服従していることなのだ。これこそが我々の問題なのだ。』(「止めそこない」、45ページ)

 従って、社会闘争はアナキストにとって重要なことであり、我々はできる限りそれに参加するのだ。さらに、アナキストは単に参加する以上のこともする。我々は民衆が何度も戦っている諸問題の根源であるシステムを排除しようと戦っているのだ。我々は我々と共に闘争に参画している人々にアナキズムについて説明し、こうした闘争における我々の活動と彼等が作り出している民衆組織(労働組合やキャンペーングループなどの集団も)を通じて民衆の日常生活に対するアナキズムの関連性を示そうとする。そのようにすることで、我々は、例えば連帯・直接民主主義・直接行動といった、アナキズムの考えと方法を広めようとするのである。

 アナキストは抽象的なプロパガンダ(アナキストたれ、とか、革命を待て)は行わない。我々は、我々の考えが今ここでの民衆の生活と関連しており、かつ、アナキストの世界は実現可能で望ましいものなのだということを示すことが出来た時に初めて、民衆が耳を傾け尊敬を勝ち得ることができると理解している。言い換えれば、民衆がアナキストとなり、アナキストの考えが行動に応用されるようになるという意味で、社会闘争はアナキズム「学校」なのだ。ここから、社会闘争とそれへのアナキストの参加の重要性が生じるのである。

 社会闘争に関わる諸問題を論じる前に、ここでアナキストが全形態の抑圧に反対する闘争に関心を持ち、純粋な経済問題にのみに自身を限定しないことを指摘しておくことが重要である。資本主義システムの搾取的性質は問題の全体像の一部なのである。他種の抑圧諸構造が、このシステムを維持するために必要とされ、このシステムの作用から生じて来てもいるのだ。バグが作動しているように、搾取と抑圧はすぐに広まり、家庭・友人関係・地域社会を包み込んでいるのである。

 従って、アナキストは、人間生活(そして抑圧に対抗する闘争)を単なる金銭問題に還元することなどできないと確信している。確かに、『実際、経済的還元主義の傾向は現在反啓蒙主義的である。それは物質的わがままと階級利益を歴史の要点にしているブルジョア傾向を共有しているだけでなく、(中略)単なる経済的存在としての人間性のイメージを超越しようという試み全てを、良くても単なる「傍注」として、最悪の場合「良い意図を持った中流階級イデオロギー」として、もしくは冷笑的に「気晴らし」・「ユートピア的」・「非現実的」として記述することで(中略)汚してもいるのである。(中略)  資本主義は、確かに、「経済」や「階級利益」を作り出したのではなく、人間特性全て−−例えば、思弁的思考・愛・地域社会・友人関係・芸術・自己管理−−を、経済的計算という権威と量の支配を使って破壊したのである。その「最低ライン」は貸借対照表の計であり、その基本的語彙は単純な数字で出来ているのだ。』(マレイ=ブクチン著、「現代の危機」125ページ〜126ページ)

 言い換えれば、自由・正義・個人の尊厳・生活の質などの問題は、資本主義経済の範疇に還元することなどできないのだ。アナキストは、そのように還元している急進的運動はいかなるものであれ、自分達が戦っているシステムの性質を理解できないでいる、と考える。実際、経済還元主義は資本主義イデオロギーの手中で遊んでいるようなものなのだ。そこで、アナキストが社会闘争に参加し、社会闘争を奨励している時に、アナキストは社会闘争を経済諸問題へと限定したり還元したりしようとはしない(どれほどそれらが重要であったとしても)。アナキストは、個人は金銭よりも多くの関心を持っているということを分かっており、胃の府の欲求と同様に、感情・精神・魂の欲求を考慮に入れることが重要だと考えているのである。

 アナキストは、SF作家のアーシュラ=ル=グゥイン(アナキストである)が創り出したアナキスト主人公が指摘しているように、資本主義者は「民衆に充分なものを与えておけば、刑務所の中でも満足して生活するだろうさ、と考えて」いるのである。(「所有せざる人々」、120ページ)アナキストはこれに同意しない。「裕福な」1960年代における社会暴動の経験がそれを証明しているのだ。

 このことは驚くにあたらない。何故なら、結局、『(階級間の)対立は物質的というよりも精神的なものである。ボスと労働者との誠実な理解などはありえない。(中略)何故なら、ボスは、結局のところボスであり続けたいと思い、他のボスとの競争によって、また、労働者を犠牲にしてより多くの力を保持していたいからだ。一方、労働者はボスにうんざりし、ボスなど金輪際いらないと思っているのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、「人生と思想」、79ページ)

 

J.1.1 何故、社会闘争は重要なのか?

 社会闘争は、階級闘争の一表現である。すなわち、労働者階級の人々が自身の搾取・抑圧・疎外に「対抗」し、資本主義と国家の権威から自身を解放する「ための」闘争なのである。これが生じるのは、ある民衆集団が別な集団に対してヒエラルキー的権力を持つ時である。抑圧があるところには抵抗があり、権威に対する抵抗があるところにはアナーキーが実行されているのを目にするであろう。このため、アナキストは社会闘争を好ましいとし、それに参画するのである。結局、社会闘争とは個々人が自身の自律と不公正なシステムに対する嫌悪を主張している兆候なのだ。

 一口に言ってしまえば、現実の自由は法律や裁判所で決められるのではなく、路上で我々に対して警官が持っている権力によって、警官の背後にいる裁判官によって、仕事をしている時にはボスの持つ権威によって、学生の場合には学校や大学の教師と校長の権力によって、失業していたり貧困に陥っている場合には福祉の官僚によって、借家している場合には大家によって、刑務所にいる場合には看守によって、入院している時には医療従事者によって決められているのだ。これら富と権力の諸現実は、我々の自由が制限されている正にその足下で−−路上・仕事場・家庭・学校・病院などで−−それに対抗する力が現われない限り、揺さぶられることなどないだろう。

 従って、改善を求めた社会闘争は、叛逆の魂と、自身の自由をくり返し主張し続ける上でお互いに支援しあう民衆の魂との重要な現われなのである。社会闘争は、民衆が自分が正しく公正だと考えていることのために立ち上がり、新しい代替組織を作り、自身の問題に対する自身の解決策を創り出していることを見せてくれる。社会闘争は、我々を支配しようと向かってくる父親ぶった権威全ての横っ面を引っぱたくことなのだ。このように、アナキストと、自由を拡充することに関心のある人々全てにとって社会闘争は重要なのである。

 さらに、社会闘争は、民衆をヒエラルキー的条件づけから解き放つ手助けもする。アナキストは民衆を分類されレッテル張りされるべき固定した物体としてではなく、自身の人生を創り出す人間として見なしている。民衆は生活し・愛し・考え・感じ・希望を抱き・夢を見・自身を、その環境を、社会関係を変えることができるのだ。社会闘争はこのことを集産集団的に成し遂げる方法なのである。

 闘争は、民衆がその闘争の中で実際問題につきあたり、自分達でそれを解決しなければならない時に、ヒエラルキーによって破壊されている民衆の中にある特性(想像力・組織スキル・自己主張・自己管理・批判的思考・自信などの特性)を促す。このことが、自己信頼と個人の力と集産集団の力の意識を創り出す。仕事場でのボスや国家などを自分に対抗するものだとみなすことで、民衆は、自分達が、ある階級に支配され、民衆の仕事への服従に依存したヒエラルキー社会に生活しているのだと実感し始める。それ自体で、社会闘争は政治問題化の経験なのである。

 闘争は、それに参画している人達が実践を通じて自己支配の能力を発達できるようにする。個々人が自身の生活を管理し、社会生活に直接参加する自分の能力を主張することから闘争プロセスは始まる。これらがアナキズムの鍵となる要素なのであり、アナキスト社会が機能するのに必要なことなのである。そこで、自己活動は自己解放・自己教育・アナキストの創造における重要な要因なのだ。簡潔に言えば、民衆は闘争の中で学ぶのである。

 自信に満ちた労働者階級は、現行システムの中でうまくリバータリアン的改善を成し遂げ、最終的には革命を成し遂げるための本質的要因である。この自己信頼なしでは、民衆は単に「指導者」に従うようになり、社会を変えるのではなく支配者を変えることで終わってしまうのだ。

 アナキストとしての我々の仕事の中には、いかなる小規模の改革であれ現在可能なものを得るために戦うように民衆を勇気づけ、我々や彼等の条件を改善し、民衆に彼等は自身の生活を管理し始める能力を持っているのだと自信を持たせ、資本主義が今後譲歩したり、譲歩できる利益がどの様なものであれ(時には一時的な)それには限界があるのだということを指摘することがある。ここで、革命的な変革の必要性が生じるのだ。

 アナキストの考えが主流になったり最もポピュラーなものになったりするまで、他の考えが大多数を占めるものとなるであろう。我々が、全ての事柄を考えた上で、ある運動がポジティヴなもしくは進歩的なものだと思うのなら、我々は傍観などせずに、その運動の中でアナキストの考えとその戦略を広めようとしなければならない。このようにして、我々は「アナーキーの学校」を現行システムの中で創り出し、より良いものの基盤を作るのである。

 ここで、アナキストにとっての社会(階級)闘争の重要性が生じる(付け加えれば、それはいつでも行われ、二つの側面を持つ事柄なのである)。社会闘争は、資本主義・国家主権主義の生活の正常な状態を破壊する手段であり、社会変革の意識と現行システム下で生活をより良くするための手段なのである。民衆が権威に頭を下げるのを拒否した瞬間、権威は存在できなくなる。社会闘争は、自分の不服従という力を使うことで、ヒエラルキー的権力に挑戦し、恐らく最終的にはそれに引導を渡すことができる、ということを理解する人達が抑圧される側にいることを示しているのだ。

 結局、アナーキーとは君が信じる何かなどではない。自分に貼りつける格好良いレッテルなどでもない。それは君が行うことなのだ。君が参画することなのだ。それを行うのを止めてしまうと、アナーキーは崩壊してしまう。社会闘争とは、アナーキーがより強力になり成長することを確実にする手段なのである。


J.1.2 アナキストは改良に反対するのか?

 反対しない。大部分のアナキストが改良主義(つまり、何らかの方法で資本主義を改良し、国家を消滅させることができるという概念)には反対しているものの、改良(つまり、今この場での改善)には明らかに賛同している。

 アナキストは今この場での改良と改善に反対しているという主張は、アナキズムの反対者が我々を過激派だと見せようとしている時になされることが多い。アナキストは急進主義者である。その意味で、アナキストは社会問題の根源を求めている。改良主義者は社会問題の症状を改善しようとしているが、アナキストは原因に焦点を当てているのである。

 例えば、改良主義者は貧困を目の当たりにすると、貧困の持つ破滅的で衰弱的な効果を弱めるための諸方法を探そうとする。その結果、最低賃金や差別撤廃運動などの合州国に見られる諸計画やその他の国々で行われる同様の諸改良が生じるわけだ。アナキストが貧困を目の当たりにすると、「この原因は何だろう?」と問い、症状ではなく貧困の源泉を攻撃する。短期的に見れば改良主義者がその制度的万能薬を使ってうまくやるかもしれないが、化膿している問題は扱われないままで、改良を最終的にはコストが高くつく不可避的な失敗−−人間生活という点で評価してみれば、失敗としか言いようがない−−へと破滅させてしまう。
 原因を除去せずに病気の症状を治療する薮医者のように、改良主義者が確約できることと言えば、どこかへ行ってしまうこともなく、最終的には受難者を殺してしまいかねない条件に対する短期間の改善だけなのだ。アナキストは、本当の医者のように、症状と戦いながら病原とその治療法を探求するのである。

 従って、アナキストは次のような意見を持っている。『いかなる政府に対してもその反対の意を伝導し、完全な自由を要求しながら、我々は部分的自由に対する全ての闘争を支援しなければならない。何故なら、人は闘争を通じて学習し、一旦少しばかりの自由を享受するようになった人は、全ての面における自由を欲しがるようになる、と我々は確信しているからだ。我々は民衆と共にいつでもいなければならないのである。(中略)そして、民衆が要求する(こと)は、民衆自身の努力によって勝ち取らねばならず、政府の一部になったり、政府を熱望したりする人は誰でも軽蔑され、嫌悪されねばならないということを(中略)民衆に理解させねばならないのだ。』(エンリコ=マラテスタ著、「人生と思想」、195ページ)

 アナキストは実際問題に注目し続けるが、その注目はもちろん敵対する「優れた」改良主義者のものとは異なっている。改良主義者はいつも「穏当」であり、全てのことにオーケーを出す「専門家」をいつも使っている。そして改良主義者は問題を扱う方法をいつも間違っているのだ。

 合州国における最近の「健康保険問題」が改良主義が何を行っているのかの良い例である。

 改良主義者曰、「どの様にすれば、健康保険を人々にもっと安価に提供できるだろうか?どの様にすれば、人々が払うことのできるレベルまでに保険料の率を下げることができるだろうか?」

 アナキスト曰、「健康保険は特権だとか権利だとか考えねばならないのだろうか?医療ケアは、単に、市場価値を持った商品でしかないのだろうか?生きている人は医療ケアを受ける固有の権利を持っているのだろうか?」

 違いがお分かりだろうか?改良主義者は医療ケアに対して人々が金を払うことに何の問題も感じていない。ビジネスはビジネスさ、そうだろ?、というわけだ。アナキストは逆に、その姿勢に大きな問題を感じている。我々はここで人間の生について話しをしているんだ!これまで、改良主義者は「管理型ケア(managed care)」という改良主義を使って上手いことやって来ている。それは、保険会社と医療産業が記録的な利益をむさぼり続けることができるようにしているのだ−−人々の生を犠牲にしてだ。

 改良主義者が酷く不快感を持つようになるのは、システムの変化をもたらすことについて心から話しをされた時である。奴等はシステムそれ自体には、煩わしい副作用が幾つかあると思っているだけで、何の不都合も感じていないのだ。この意味で、奴等は既成権力の執事なのであり、利他的な提案をしはするが、反動の代行者なのだ。問題の根源を攻撃できないことで、そして攻撃している人々を妨害することで、奴等は確実に、現在の問題が単に時間と共に大きくなるだけで消えることなどないようにしているのだ。

 従って、アナキストは今この場での改良や改善を求めた闘争に反対しはしない。実際、アナキスト社会が、不公正に対する社会闘争を奨励し、その中で活動するという長期にわたるアナキスト活動抜きで生じるなどと思っているアナキストはまずいない。マラテスタによれば、

『我々が今日、明日、十世紀以内にアナキズムを確立できるかどうかということは問題ではない。問題は、我々がアナキズムに向けて今日、明日、いつでも歩いていくということなのだ。』(「アナキズムに向けて」、おい!、M=グラハム編、75ページ)

 従って、改善を求めて戦う時、アナキストは、自主管理・直接行動・資本主義と国家双方に対するリバータリアン的解決策と代替案の創造というアナキストのやり方でそれを行うのだ。


J.1.3 アナキストは何故改良主義に反対するのか?

 まず第一に、資本主義内での改良を求めた闘争は改良主義と同じでは「ない」ということを指摘しておかねばならない。改良主義とは資本主義内での改良だけで充分であり、システムの変化を希求することは不可能である(そして望ましくない)という理念である。従って、アナキストはみなこの種の改良主義に反対するのである。我々はシステムは変えられうる(そして変えねばならない)と考えているのだ。

 さらに、特に昔の社会民主主義的労働運動では、改良主義は、社会改良は資本主義を社会主義に「変換する」ために使うことができるという信念も意味していた。この意味では、個人主義アナキストと相互主義者だけが改良主義者と見なすことができる。何故なら、彼等は相互銀行というシステムが資本主義を協働システムへと改良できると考えているからだ。しかし、社会民主主義とは逆に、そうしたアナキストは、そうした改良は政府の行動を通じてもたらされるのではなく、民衆自身の代替案と解決策を民衆自身の行動で創り出すことによってのみ達成されうると考えている。

 さて、アナキストが改良主義に反対するのは、改良主義が根深い社会諸問題に対して簡単で決定的に短期的な「解決策」を提示することで、革命的運動から出てくる力を奪い去ってしまうからである。このように、改良主義者は民衆に自分達が成したことを示し、「見ろ、全てがずっとましになったぜ。システムが上手く機能したんだ。」と言うことができる。だが、困ったことに、その改良は根源的諸問題と真っ先に取り組んでいなかったため、時間が経つにつれ諸問題はは大きくなる一方なのだ。

 改良主義者は、自分達が「助けている」人々を客体化する傾向も持っている。そうした人々を約束の地へと導く「最善で最も聡明な人々の」知恵と手ほどきを必要としている無力で無様な群集だと思い描いているのだ。改良主義者は良いつもりでやっているのだが、それは無知から生じた利他主義であり、長い目で見れば破滅的なのだ。マラテスタが述べているように、『(アナキストが)改善や改良に体系的に反対している(中略)ということは真ではない。アナキストは一方で改良主義者に反対しているが、それは改良主義者の方法が、恐怖を通じてしか屈伏しない政府や雇用者から改良を獲得するには余り効果的でないからであり、改良主義者が好んでいる改良が効果の疑わしい即時的利益を生み出すだけでなく、既存政権を強化し、その政権の継続的存在の上で既得利権を労働者に与える役目をするからである。』(「人生と思想」、81ページ)

 改良主義者は、た易く統制されない革命家を恐れている。改良主義がなしていることは、大衆に対する利他的な侮蔑なのだ。改良主義者は良かれと思ってやっているのだが、彼等はもっと大きな像をつかんではいないのだ。ある問題の一側面に排他的に焦点を当てることで、それが問題の全体だと信じようとしているのである。差し迫った社会病理を意図的に狭義に検証しているという点で、改良主義者は実際に反革命的なのだ。合州国における都市再生計画(そして、1950年代と1960年代に行われた都市中心部の労働者階級地域を都市開発地域の端に移住させるという英国における同様の計画)の災厄は改良主義がどの様に機能していたのかの一例である。肥大化するスラム街に苛立ったため、改良主義者はゲットーを破壊し、労働者階級の人々が住むための新しい住宅を建設する計画を支持したのだった。
 新しい住宅は(当初)好ましく見えたが、貧困の問題を扱ってはおらず、実際に地域社会と近所を崩壊させてしまったことで、より多くの問題を創り出してしまったのだった。

 論理的にも、これは全く理解し難いことである。問題を直接攻撃できる時に、何故問題の周りで踊ってばかりいるのだろうか?改良主義者は、時間と共に革命運動を和らげ弱めしながら、運動を希釈してしまう。北米労働総同盟産業別会議(AFL-CIO)という合州国の労働組合は、西欧州におけるものと同様、労働者の活動を狭め、溝を作り、権力を労働者自身から奪い、それを官僚制度の手中に置いてしまうことで、労働運動を殺してしまった。これがまさに改良主義者がやっていることなのだ。奴等は、改良主義者によってより良い状況になるだろうと思っている人々がより悪い状況に陥ってしまうまで、社会運動からその生命を吸い取ってしまうのだ。

 改良主義者どもは言う。「何もしなくて良いですよ。私たちがあなたのためにやってあげますから。」何故アナキストがこの考え忌み嫌っているのかが分かるだろう。アナキストは完全に自分のことは自分でする人々なのだ。自分の世話を自分ででき、改良主義者に「手助け」をさせてくれない人々以上に、改良主義者が嫌っている人はいないのだ。

 同様に、左翼「革命家」や「急進主義者」が、資本主義国家は労働者を助けることができる(実際、それ自体を放棄するために使うことができる!)などという改良主義的方向を押し出しているのを聞くのもおかしなものだ。我々が直面している諸問題の大部分のために左翼は国家と資本主義を非難しているという事実があるにも関わらず、彼等は通常、国家(金持ち−−つまり資本主義者−−によって主に運営されている)が民衆をほって置くのではなく、民衆の生活にもっと参与するようになることでこの状況を改善するようにを仕向けようとするのである。彼等は公営住宅・公共事業・福祉・公的資金援助を受け法制化された育児ケア・公的資金援助を受けている薬物「治療」など政府が中心的になって行うプログラムや活動を支持している。資本主義(人種差別主義・性差別主義・権威主義)政府が問題なのに、労働者階級や、黒人や女性のような抑圧された人々の利益となるように物事を変えるようその政府に頼ることなどどうやってできるというのだろうか?

 労働者階級の人々を勇気づけて自分達で組織を作り、自分達の問題に対する自身の代替案と解決策(実際に有効な社会保障制度の活動がいかなるものであれ、それを補完し、最終的にはそれに取って代わる)を創り出すようにはせず、改良主義者やその他の急進主義者達は国家が民衆のために活動するようにせしめようと民衆を奨励する。しかし、国家は地域社会ではない。だから、民衆のために国家が何を行おうと、それは民衆のではなく、「国家の」利権においてなされることは確実である。クロポトキンは以下のように述べている。

『経済的自由に向けた各ステップ、資本主義対する一つ一つの勝利は、政治的解放に向けた−−国家のくびきからの解放に向けた−−一ステップとなろう。(中略)国家からその諸権力や諸特性のどれでもを剥奪することに向けた一つ一つのステップは、大衆が資本主義に対して勝利を勝ちとる手助けとなるであろう。』(クロポトキンの革命的パンフレット、118ページ〜182ページ)

 国家を排除することは、労働者階級の人々の生活を改善することができる変化を導く唯一のことなのだ。民衆を勇気づけて国家ではなく自分自身に頼るようにすることは、自給自足的な・自立的な・そして望むらくはより叛逆的な民衆を導くことができるだろう。隣近所の人々ではなく、社会における本当の悪(資本主義者と国家主権主義者・搾取と抑圧・人種差別主義・性差別主義・生態破壊など)に対して反逆する民衆である。

 労働者階級の人々は、ヒエラルキーと制限的な法律双方のために自身の生活諸領域における選択肢が少ないにも関わらず、他の人々がそうであるように、なおも自身の行動に関する意思決定を出来るし、自身の生活を組織立てることも出来るし、自身の決定の結果に対して責任も持っているのだ。そのように考えないことは、労働者階級の人々を子供扱いしているのであり、他の人々よりも劣った人間だと考えているのであり、労働者階級の人々は生産手段、必要に応じて使われ・酷使され・捨てられるものだという伝統的な資本主義的見解を再び生み出していることなのである。こうした考えが、国家による彼等の生活に対する温情主義的介入の基盤となっているのだ。それは、労働者階級の人々の依存と貧困が継続することを保証し、資本主義と国家の継続的存在を保証しているのである。

 究極的には、二つの選択肢がある。

『抑圧されている側は改革を懇願し、慈悲深く譲って頂いた利益として諸改革を喜んで受け入れ、自分達に対する権力の正当性を理解し、そのことによって、解放の諸過程を遅らせたり逸らしたりする手助けをすることで良いことよりも多くの害あることを行うかもしれない。もしくは、そうではなく、彼等は改善を要求し、自身の行動によって改善を手に入れ、それらを階級的敵に対する部分的勝利として喜んで受け入れ、その勝利をより大きな偉業に向けての刺激として、そして特権階級の完全な転覆つまり革命への妥当な援助・準備として使うかもしれない。』(エンリコ=マラテスタ、前掲書、81ページ)

 改良主義は、民衆にある上記の最初の姿勢を奨励し、そのことで人間の魂の不毛性を確実にする。アナキズムは第二の姿勢を奨励し、そのことで人間性の豊潤さと意味ある変革の可能性を確実にする。何故、政府の人々が生活を自身のためではなく他人のためにアレンジできると考え、普通の人々が自身の生活を自身の手でアレンジできないなどと思うのだろうか?

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