アナキズムFAQ

I.7 リバータリアン社会主義は個性を破壊しないのだろうか?

 破壊しない。リバータリアン社会主義が抑圧するのは、自分が持っている物と自分のアイデンティティを分離できないほど浅はかな人の個性だけである。だが、それはともかくとしても、これはあらゆる社会主義形態にとって重要な反論であり、「社会主義」ロシアの実例を考えれば、この反論についてはもっと論議されねばならない。

 この疑義の背後にある基本的前提は、資本主義が個性を促している、というものである。しかし、この前提は多くのレベルで誤っている可能性がある。クロポトキンが述べているように、『個人の自由は、理論的にも実践的にも、現実的というよりも錯覚である。』[Ethics, p. 27] そして、『(群集心理を導く)人格の発達と個人的な想像力・発意の欠如は、確かに、現代の主要問題の一つである。』[前掲書, p. 28] 要するに、近代資本主義は、個性がそうあり得ることのパロディへと個性を貶めてきたのだ(セクションI.7.4を参照)。アルフィー=コーンが指摘しているように、『私たちの無惨な個性は、人格化されたナンバープレートという形で、車の後ろに取り付けられている。』エマ=ゴールドマンが次のように論じていたのも不思議ではない。

 現代に何度も繰り返されるスローガンは、我々は個人主義の時代にいる、というものだ。表面下をしっかりと精査した者だけがこの観点を受け入れるようになるのかも知れない。一握りの人々が世界の富を山積みにしてこなかったのか?こうした人々はこの情況の主人、絶対的王なのではないのか?だが、こうした人々の成功は、個人主義のためではなく、大衆の惰性・臆病・無条件降伏のためだ。大衆は支配されることだけを、指導されることだけを、強要されることだけを望む。個人主義に関して言えば、人間の歴史において一度たりとも、個人主義が発現する機会などなく、個人主義が当たり前の健全なやり方で主張される機会もなかったのだ。[Anarchism and Other Essays, pp. 70-1]

 我々が目にしているのは、外見上はエゴイズム個人主義に基づいているシステムだが、そのメンバーは、標準化された個人、自身の個性を全く表現しない人として自由に展開できるだけなのである。個性を増大させることからほど遠く、資本主義は個性を標準化し、従って制限している−−個性が生き延び続けていることは全く持って人間性の強さの表現なのであって、資本主義システムのおかげではない。こうした個性の貧困化は、服従と従属を確保するように作られたヒエラルキー型諸制度に基づく社会では何ら驚くことではない。

 ならば、リバータリアン社会主義は個性を増大させると言えるのだろうか?それとも、この順応と「個人主義」の欠如は人間種の一貫した特徴なのだろうか?このことについて何らかの言明を行うためには、非ヒエラルキー型の社会と組織を見てみなければならない。非ヒエラルキー型社会の一例として、我々はセクション I.7.1で部族文化について論じる。ただ、ここでは、アナキズム組織がどのようにして個人の自己の感覚を保護し、増大させているのかを示しておく。

 アナキズム組織と戦術は個性を促すように作られている。分権型で参加型の組織であり、従って、組織に参画する人々に対して、自身を表現し、資本主義の下で制限されていた自身の能力と潜在的可能性を発達させるために必要な「社会的空間」を提供する。ガストン=レヴァルは、スペイン革命中のアナキストのコレクティヴに関する著書の中で次のように記している。『集団生活に関する限り、個々人の自由とは、自分の能力の限り、自分の思考・意志・発意を持って自発的に参加する権利である。消極的自由は自由ではない。消極的自由は無なのだ。』[Collectives in the Spanish Revolution, p. 346]

 自分に直接影響する意志決定プロセスに参加し、それを上手くやり遂げることができることで、自分で思考する能力は増大する。そのことで、自分の能力と人格が常に発達するのである。レヴァルが記した自発的活動は重要な心理的インパクトを持っている。エーリッヒ=フロムは次のように記している。『あらゆる自発的活動の中で、個人は世界を包含する。自分の個人的自己が損なわれないままであるというだけでなく、もっと強く、もっと結束していく。何故なら、自我はそれが活動的な時に強いからだ。』[Escape from Freedom, p. 225]

 従って、個性はアナキズム組織内部で萎縮することはなく、社会組織内部に参加し、そこで活動するに従ってより強くなっていく。言い換えれば、個性にはコミュニティが必要なのだ。マクス=ホルクハイマーは次のように述べていた。『個性は、個々人が自分自身を扶養することを決めると、損なわれてしまう。絶対的に孤立した個人など常に幻想である。自立・自由への意志・共感・正義感といった最も尊敬すべき個人的性質は、個人的美徳であると同時に社会的美徳なのだ。十全に発達した個人は、十全に発達した社会の極みなのである。』[The Eclipse of Reason, p. 135]

 主権を持った自足的個人は、個人的自己実現と願望の実現の産物だというのと同じぐらい、健全なコミュニティの産物なのである。クロポトキンは「相互扶助論 Mutual Aid」において、コミュニティ個性を豊潤にし、発達させる傾向を持っていると報告した。彼が証明しているように、この傾向は人間の歴史を通じて見られ、資本主義の抽象的個人主義は社会生活において規則と言うよりも例外だと示しているのである。言い換えれば、歴史は、平等者として他者と共に活動することで、資本主義と関係するいわゆる「個人主義」よりもはるかに個性が強められる、ということを示しているのだ。

 個性に対するこうした共同体の支援は驚くべきことではない。個性は社会的諸力と個人的特性との相互作用の産物だからである。個人が自分を社会生活から切り離せば切り離すほど、その人の個性は損なわれていく。これは、1980年代から見ることができる。当時、自由市場資本主義と関連する「急進的」個人主義を支持した新自由主義政府が英国と米国で選出された。市場力の推進が、社会的原子化を、社会崩壊を、そしてもっと中央集権化された国家を導いた。「ジャングルの法則」が社会中に吹き荒れ、その結果として生まれた社会生活の崩壊によって、社会が次第に私営化されるに連れ、多くの個人が倫理的にも文化的にも衰退することが確実になったのである。

 つまり、我々が発達した個性と関係付けている特徴(思考・行動・自身の意見や基準を持つことなど)の多くは(本質的に)社会的スキルなのであり、十全に発達したコミュニティによって促されるのである。この社会的背景を引き剥がすことで、個性が持つこうした尊重すべき側面は、恐怖・社会的相互交渉の欠如・原子化によって蝕まれてしまうのだ。例えば、仕事場を管理することは確かに自明の理だが、ヒエラルキー型労働環境はそれを過小評価し、労働者が自分の意見を表明できず、自分の思考能力を十全に行使できず、自身の活動を管理できないように保証している。これが、個人の生活の全面に対して影響を及ぼすことになるのである。

 ヒエラルキーはいかなる形態であっても抑圧と個性の崩壊を生む(セクション B.1を参照)。こうしたシステムでは集団活動の「ビジネス」的側面が「適切に実行」されるようになるが、個人は犠牲になる。アナキストはジョン=スチュアート=ミルが述べていたことに同意する。こうした『慈悲深い独裁』において、『どのような人間がこうした体制下で形成されうるのだろうか?こうした体制下では、その思考能力や活動能力はどのような発達を成し遂げるのだろうか?その道徳的能力も同様に妨げられてしまう。人間の活動領域が人工的に制限される場所では、何処であれ、その感情は狭くなり、矮小化してしまうのである。』[Representative Government, pp. 203-4] アナキスト同様、ミルは、政治結社に対する批判を全ての結社形態に広げ、次のように述べていた。もし『人間が改善し続ける』のであれば、最終的には一つの組織形態が主流となろう。これは、『長としての資本家と、管理に対して発言権を持たない労働者との間に存在し得るようなものではなく、平等・自分達が操作し続ける資本の集団的保有・自分達で選出し解任できる管理者の下での労働、これらを条件とした労働者自身の結社なのである。』[The Principles of Political Economy, p. 147]

 故に、アナキズムは、全ての個人が生の全面において自分に影響する決定に参加できる手段を作ることにより、個性を保護し、発達させるであろう。アナキズムは、個人とその諸機関とをお互いに孤立しているものとして考えることはできない、という中心的主張に基づいている。権威主義組織は奴隷のような人格を創り出す。普通だと考えられていることと権威とに従うことが最も安全だと感じるような人格を創り出すのである。リバータリアン組織は、参加と自主管理に基づいており、強い人格を促すであろう。自分自身の精神を知り、自分で考え、自分自身の力に自身を感じるような人格を促すであろう。

 だからこそバクーニンは次のように論じていたのだった。自由は『孤立から生じる事実ではなく、相互行為から生じる事実である。排除から生じる事実ではなく、逆に、社会的やり取りから生じる事実なのだ−−何故なら、万人の自由は、全ての自由人・その兄弟・その平等者の意識の中にある自分の人間性・人権を反映しているからだ。』「自由」は『非常にポジティヴで、非常に複雑で、結局の所、著しく社会的なのだ。何故なら、それは、社会によってのみ、完全な平等と連帯という条件下でのみ実現されうるからである。』ヒエラルキー型権力は、必然的に、個人の自由を殺してしまう。『人間の精神と心を殺すのは、特権の、あらゆる特権的立場の特徴だからである。』そして、『権力と権威は、それに対する服従を強いられる人々と同じぐらい、それを行使する人々を崩壊させてしまうのである。』[The Political Philosophy of Bakunin, p. 266, p. 268, p. 269 and p. 249]

 社会をリバータリアンの方向に再組織化することは、個人の自己権能と自己解放に基づき、それらを促すであろう。自主管理型組織内部に参加することによって、個人は、自由が持つ責任と楽しみのために自分を教育するであろう。キャロール=ペイトマンは次のように指摘している。『参加は、参加に必要な性質を発達させ、促す。個々人が参加すればするほど、その個人はそうすることが上手くできるようになるのである。』[Participation and Democratic Theory, pp. 42-43]

 こうした再組織化(セクション Jを参照)は、直接行動戦術に基づく。この戦術も、個人が自身の自主活動によって、間違っていると自分が考えることと直接的に闘争するよう促すことで、個性を促進する。ヴォルテリーン=デ=クライアーは、次のように述べている。

 自分が主張する権利を持っていると考えていた人なら誰でも、そして、自分自身や同じ信念を抱いている他者と共にそれを大胆に行い主張する人なら誰でも、直接行動論者だった。何かを行おうと計画して、それを実行し成し遂げたり、他人の前で自分の計画を示したりしたことがある人なら誰でも、そして、外的な権威の前に行き自分達のためにそれをしてくれと頼むことなく、自分と一緒にそれを実行するための協働を勝ち得たことがある人なら誰でも、直接行動論者だったのである。全ての協働実験は、本質的に、直接行動なのである。(直接行動は)ある情況によって抑圧されていると感じている人々の自発的な反駁なのである。[Direct Action]

 よって、アナキズムの戦術は自己主張に基づいており、このことだけが個性を発達させることができる。自主活動は、独立した自由に志向する自己があって初めて出現できる。自主管理が直接行動原理に基づいている(「あらゆる協働実験は本質的に直接行動なのである」)以上、個性がアナキズム社会を恐れるこどなど何もないと言うことができる。

 個性を破壊するためには、社会を破壊すればよい。何故なら、社会を実現するのは個々のメンバーだけであり、個々のメンバーがいるからこそ社会が生き生きするからである。社会には個々のメンバーに由来しない主題などなく、個々のメンバーを中心としていない目的はなく、精神のない社会はない。「時代精神」・「世論」・「公共の福祉や幸福」といったフレーズは、男性と女性の間を彷徨き漂うものの特徴として考えられると、何の意味もない。こうしたフレーズは、個々人に備わっており、個々人から生じていることに付けた名前なのである。従って、個性とコミュニティは、共に、人間生活に関する考えからできているのだ。[J. Burns-Gibson, William R. McKercher, Freedom and Authority, p. 31 で引用]

 だから、アナキズムが『性格・行動と行動の原動力・自由な発意・創造性・自発性・自律を意味する個性を認め、尊重している』ことは不思議ではないのだ [J. Burns-Gibson, William R. McKercher, 前掲書, p. 31f で引用]。クロポトキンは次のように述べている。アナキズムは『個性の最も完全な発達を、絶え間なく変化し、絶え間なく修正される最も高度な自発的繋がりの発展に組み合わせようとしている。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 123]

 ミル同様、アナキストにとっても、真の自由には社会的平等が必要である。何故なら、『個人が自身の生活と環境を最大限管理するなら、そうした領域における権威構造は、自分達が意志決定に参加できるように組織されねばならない』からである [Pateman, 前掲書, p. 43]。従って、アナキズム社会では、資本主義のように階級に支配されたヒエラルキー型社会よりもはるかに、個性が保護され、促され、発達するであろう。クロポトキンは次のように述べている。

 (無政府)共産主義は、個人の発達と自由の最良の基盤である。これは、万人に対して個々人を闘争させる個人主義のことではない。人間の能力を十全に拡充させ、自分自身に生来備わっていることを良質に発達させ、知性・感情・意志を最大限実らせることを示しているのだ。[前掲書, p. 141]

 驚嘆の念が生の質を高めてくれるが故に、そして、個性ほど驚嘆すべきものはないが故に、アナキストは社会主義−−リバータリアン社会主義、自由な個々人の自由な繋がり−−の名において、資本主義に反対するのである。

I.7.1 部族文化は、コミュナリズムが個性を保護することを示しているのだろうか?

 示している。多くの部族文化(「プリミティヴ」と呼んでいる人々もいる)において、個々人の強い尊重が見られる。ポール=ラディンが指摘しているように、『先住民族文明の顕著な特徴は何か述べねばならないとすれば、私は、躊躇することなく、(まず第一に)年齢や性別に関わりなく個人を尊重することだと答えるだろう。』[The World of Primitive Man, p. 11]

 マレイ=ブクチンはラディンの発言に対して次のようにコメントしている。『先住民族の特質としてラディンが第一に挙げた個人の尊重は、今日のような、一方では個性を破壊するものとして集団を拒絶しながらも、他方では、純粋な自己中心主義の乱交の中で、漠然と孤立して原子化された個人の自我境界全てが現実には破壊されている時代には、強調されてしかるべきである。強力な集団性は、特定の先住民族社会の緊密な研究が明らかにしているように、自己中心主義的だが貧しい自我を強調する「自由市場」社会よりも、はるかに個人を支援するであろう。』[Remaking Society, p. 48]

 部族文化に関連するこうした個性化はハワード=ジンも記している。彼は、ケーリー=ナッシュによるイルコイ連合文化の記述を引用している(これは、大部分のアメリカ先住民族部族に典型的に現れている)。

 欧州人が到着する前の北東森林地帯には、法律も条令も保安官も警官も判事も陪審員も裁判所も刑務所も−−欧州社会における権威の装置は−−存在していなかった。だが、行動の許容範囲は断固として設定されていた。自律的個人を誇りにしながらも、イルコイ連合は、善悪の厳密な感覚を保持していた。[Zinn, A People's History of the United States, p. 21 で引用]

 こうした個性の尊重は共産主義原理に基づいた社会に存在していた。ジンが記しているように、イルコイ連合において、『土地は共有であり、共同で仕事をしていた。狩りは皆で行われ、捕獲物は村落メンバーで分け合っていた。住居は共有財産と見なされ、数家族が共有していた。土地と住宅の私有という概念はイルコイの人々には馴染まなかったのである。』この共同社会で、女性は『大切で、尊敬され』、家族は母系だった。権力は両性の間で共有されていた(男性支配という欧州型の考えとは異なっていた)。同様に、子供は『民族の文化的遺産と部族間の連帯を教えられながら、同時に、高圧的権威に服従するのではなく、自立するように教えられていた。子供たちは、立場の平等と財産の共有を教えられていたのである。』[Zinn, 前掲書, p. 20]

 ジンが強調しているように、アメリカ先住民部族は『人格・意志の強さ・自立性と柔軟性・情熱と潜在力の発達、そして、お互いの関係と自然との関係に注意深い配慮をしていた。』[前掲書, pp. 21-2]

 つまり、部族社会は、コミュニティが個性を擁護していることを示しており、個性の強力な感覚を現実に促しながら共同生活を送っていたのである。これは予想できることである。というのも、平等は、個人が自由になることができ、従って、自分の人格を十全に発達させる立場にいることができるようになる唯一の条件だからだ。さらに、この共同生活はアナキズム環境内で行われていたのだった。

 インディアン政府の根本原理は、常に、政府の拒絶だった。実質的にメキシコ以北の全インディアンは、個人の自由を、自分のコミュニティや民族への義務と比べものにならないほど尊い基準だと見なしていた。このアナキズム的態度が、最小限の社会的結び付きである家族に始まって、全ての行動を支配していた。元来、インディアンの親は、自分の子供に懲罰を与えることを不本意だとしていた。子供たちが強情を示す度に、それは成熟した性格が発達している望ましい兆候だとして受け入れられたのだった。[Van Every, Zinn, 前掲書, p. 136 で引用]

 さらに、アメリカ先住民部族は、共同生活と高い生活水準は両立しうると見なし、実際に両立させていた。例えば、1870年代のチェロキー族は『土地は集団的に所有され、生活は満足いくもので、裕福だった。』内務省によれば、これは『驚異的な進歩であり、相当な快適さで生活している人々による生産の成功・「米国の通常の大学で提供されている教育と同等の」教育レベル・工業と商業の繁栄・有効な立憲政体・高い識字率・これまで知られていたあらゆるものに匹敵する「文明と啓蒙」の状態を伴っている。「英国はこの方向に到達するまで500年かかったが、彼らは100年で達成した。」内務省は驚嘆しながら断言していた。』[Noam Chomsky, Year 501, p. 231]

 マサチューセッツ州上院議員ヘンリー=ドーズは「インディアン=テリトリー」を1883年に訪れ、自分が目にしたことを次のような賛辞の言葉で記述していた。

 「この民族には貧民はいなかった。そして、この民族は1ドルも持っていなかった。自身の首都(ここで私たちは調査を行った)を築き、学校と病院を建てていた。」家のない家族はなかったのである。[Chomsky, 前掲書, p. 231 で引用]

(記しておかねばならないが、ドーズは、この社会を破壊しなければならない、と勧めていた。何故なら、『彼らは、土地を共有したが故に、彼らが行き着けるところまで行ってしまった。彼らには、自分の隣人よりもましな家を建てようという冒険心などない。文明の起源である利己心などない。この民族が自身の土地を手放し、その住民の間で土地を分割することに同意し、そのことで自分が耕作する土地を個々人が所有できるようにまで、さらなる発展など成しえないだろう。』資本主義の導入−−例によって国家の行為だ−−は、貧困と欠乏をもたらした。この場合もやはり、資本主義と贅沢な生活水準との繋がりが主張されているが、それはハッキリしていない。)

 疑いもなく、生産手段を利用できることで、こうした文化のメンバーは奴隷的人格構造を生み出しかねない情況に身をおかずにすんでいた。ボスの命令に従う必要がないため、他者に服従することを学ぶ必要もなく、自己統治する自身の能力を発達させることができたのだった。この自己統治は、こうした部族において、人類学で「不干渉の原理」と呼んでいる慣習の発達を可能にしたのだった。これは、反対の見解を表明する権利を守る原理であり、部族世界で普及しており、「普遍的」と呼んでも支障がない程のものである。

 不干渉の原理は、強力な原理であり、個人的なことから政治的なことまで、そして、日常生活の全面にまで広がっている。大部分の近代人は、これがどれ程まで実践されているかを知ると愕然とする。だが、これは、アナーキーを生きる上で不可欠な要素を示している(こうしたコミュニティの多くは、幾つかの点で不完全なアナキズム社会だと考えられるが、アナーキーだと呼んでもかまわないだろう)。つまり、他人の活動を制限しない、というだけのことなのだ。これは、事実上、絶対的寛容を慣習にすることであり、近代人ならば法律と呼ぶかもしれない。しかし、法律と慣習の違いは重要であり、指摘しなければならない。法律は死に、慣習は生きるのである(セクション I.7.3を参照)。

 近代人は、他者の生活に「干渉する」ことに関する多くの情緒的問題を抱えており、多くの人々にとってこの日常的気晴らしがなくなった情況を思い浮かべることが不可能なほどである。だが、考えてみよう。まず第一に、人々がお互いの行動に干渉していない社会では、人々は、この単純な社会的事実によって信頼と自身を感じることが多いのである。教養ある意識的な選択を行う責任を持って信頼されるが故に、その自尊心は既に高いのである。これは作り話ではない。個々人の責任は社会的責任の重要な側面なのだ。

 従って、内部にほとんどもしくは全くヒエラルキー構造のない部族において個性の強さが報告されている以上、アナキズムは個性を擁護し、資本主義が禁じているようなやり方で個性を発達させさえもするだろう、と結論付けることができないのだろうか?少なくとも、「可能性はある」と言うことは出来、資本主義が個人の尊重に基づいた唯一のシステムだというドグマを充分疑問視できるようにしてくれるのである。

I.7.2 これは過去や「高潔な野蛮人」を崇拝しているのではないか?

 崇拝していない。この攻撃は、資本主義支持者が社会主義者に対して、そして、マルクス主義者がアナキストに対して行うことが多い。どちらも、アナキズムは「後ろ向き」であり、「進歩」に反対し、自由に関する不適当な考えに基づいた社会を望んでいる、と主張する。特に、観念的資本主義者の主張では、あらゆる社会主義形態は「高潔な野蛮人」の理念に基づいており、民衆を「制止」するために法律などの権威主義的社会諸制度が必要だということを無視している、ということになる(例えば、自由市場資本主義の教祖であるフリードリヒ=フォン=ハイエクの著作、特に「致命的自惚れ:社会主義の誤謬 Fatal Conceit: The Errors of Socialism」を参照)。

 アナキストは、歴史や社会に存在するアナキズム諸傾向の実例として使う「原始共産主義」社会の限界を充分認識している。同時に、「アナキズムの実行」の実例として任意の歴史的時期を使うことに伴う諸問題にも気がついている。中世欧州の「自由都市」を例に取ってみよう。クロポトキンはこれを分権型コミューン連邦の可能性を持つ一例として使っていた。彼は(ウィリアム=モリスもそうだ)「中世賛美主義者」だと非難されることがあるが、彼が示したのは、資本主義は必ずしも均等に進歩したのではなく、別個の社会システムが存在し、資本主義が禁じているようなやり方で自由を促していたのだ、ということだったのである。

 同様に、マルクス主義者はプルードンが「プチブル」で、職人と農民の前産業社会を回顧していると非難することが多い。もちろん、まったくの偽りである。プルードンの出身は、本質的に前産業的地域、農民と職人による生産に基づいた地域だった。当時のフランスでは多くの地域が同様だった。従って、彼の社会主義思想は、当時社会主義思想を必要としていた労働者のニーズに基づいていたのである。産業化(つまり、プロレタリア化)は社会主義の前提条件だと主張したマルクスと異なり、プルードンは、資本主義が十全に発達した後の(特定されていない)いつの日にかではなく、今ここにいる労働者の公正と自由を求めていた。彼は、当時のフランス労働者階級が「プチブル」だったのと同じだけ「プチブル」だったのであり、仲間の労働者がそうだったのと同じだけ「プロレタリア」だったのだ。

 プルードンは大規模生産(鉄道や工場など)を見て、それらを運営する協同組合組織を企図した。こうした協同組織は、職人と農民の生活の本質的特徴−−つまり、労働者による労働と産物の管理−−を維持することで労働者の尊厳を守ると彼は考えた。つまり、彼は過去の経験(職人的生産)を使い、社会問題に対する解決策を創り出すべく現在の出来事(産業化)の分析を報告したのである。資本主義によって破壊された自由の上に解決策を築き、その自由を拡充したのである。失われつつあった過去を振り返り、過去を崇拝するのではなく、プルードンは現在過去を分析し、双方から可能な限りポジティヴな特徴を引き出し、現在と未来にそれらを当てはめたのである(セクションH.2.1も参照)。

 ここでもまた、多くの資本主義支持者が、部族文化の研究から得ることができる洞察を無視し、それらが資本主義と自由に関して提起している問題を無視していることは驚くにあたらない。その代わり、資本主義支持者たちは、こうした洞察が提起している問題を避け、社会主義者を「高潔な野蛮人」を理想化していると非難するのである。既に示したように、これはまったくの誤りである。実際、この主張は、ルソー(社会主義者とアナキストとが「高潔な野蛮人」を「理想化している」ことの生みの親だと考えられていることが多い)が「自然に帰れ」ということをハッキリと拒絶しているにもかかわらず、彼に対しても向けられている。彼は次のように述べていた。『社会は完全に廃絶されねばならないのか?私のもの汝のものは消滅させられねばならないのか?そして、私たちは森に戻り、熊の中で生活しなければならないのか?私を非難する人々の推論のやり方はこれだ。私はむしろ、彼らがその描写を恥じ入るのを楽しみに待っていよう。』[The Social Contract and Discourses, p. 112] 悲しいかな、ルソーは、彼の敵対者が、今も昔も、恥というものを知らないことを理解できなかった(同様に、ルソーは「自然人」を理想化していると思われていることが多いが、実際には『自然状態にある人間は、いかなる道徳的関係も、お互いに明確な責務も持たず、善にも悪にも、有徳にも悪徳にもなりえない』[前掲書, p. 64]と書いている)。アナキストが歴史を調査して、リバータリアンの潮流をそこから引き出し、後ろ向きのユートピアンだと非難される場合もこれと同じだと思われる。

 リバータリアン社会主義者がこの歴史分析から指摘していることは、資本主義社会に付きものの原子化した個人は「自然」ではなく、資本主義的社会関係は個性を弱める手助けをする、ということである。資本主義者は、歴史を無視し、「進歩」の安住の地は資本主義であると述べようと試みている。過去の社会のリバータリアン社会主義分析に対する多くの攻撃はこの試みの産物に過ぎない。デヴィッド=ワトソンは次のように論じている。

 地上で最も過酷で最も威圧的な条件下で生きているにも関わらず、観念が頭に浮かぶと自分が好きなことを行うことができる人々のことを考えると、私たちは、大きな憤りもなく、文明の優越性に関する現代的疑念を経験できるはずだ。結局、プリミティヴィズムは、国家の勃興以前の生活を垣間見るというだけでなく、文明下での現実の生活諸条件に対する正当な反応も示している。大部分の人々は先住民族社会に生活しておらず、大部分の部族民自身は今や全く新しい情況に直面している。民族として生き延びようとするならば、彼らは新しいやり方で対決しなければならない。だが、その生活様式、その歴史は、別な存在様式は可能だ、と私たちに思い起こさせてくれる。私たちの原始的過去を再確認することは、歴史に洞察を−−確かに唯一可能な洞察ではないが、私たちが置き忘れたはずのこの世界に関する理性的な議論(そして、情熱のこもった反応)の重要で正当な一つの出発点を−−与えてくれるのだ。[Beyond Bookchin, p. 240]

 歴史と近代社会を本質的に探求することは、過去に存在し現在も存在する別種の生活方法を見るためには必須である。忘れてしまいやすいのだが、近代資本主義下で存在していることが常に存在していた(新古典派経済学では多くの場合そうなのだが)わけではない。多くの人々が現在「普通」だと見なしていることは常にそうだったわけではない、ということも覚えておくと良い。セクション F.8.6 で論じたように、産業的賃金奴隷の第一世代はこのシステムを憎んでおり、このシステムは暴政で不自然だと考えていた。歴史・以前の文化・ヒエラルキー社会過程とそれに対する抑圧された側の抵抗を研究することで、今ここでの我々の分析と活動は豊かになり、アナキズム社会を思い描き、アナキズム社会が直面しかねない諸問題とそれに対する可能な解決策を創造する手助けとなるだろう。

 アナキストの課題が権力関係と支配を破壊することであるとすれば、問題の根元に着手することは当然である。ヒエラルキー・奴隷制・強制・家父長制などは、資本主義をはるかに時代遅れにした。もはや資本主義経済システムを分析するだけでは不充分なのだ。資本主義経済システムはヒエラルキー型文化の現在の最も陰湿な形態に過ぎない。同様に、国家・ヒエラルキー・階級が勃興する以前に十全に機能していた文化とコミュニティに目を向けることがなければ、アナキストは、アナーキーが望ましいとか可能だということを人々に証明する確固たる基盤を実際には持っていないことになる。このために、ヒエラルキー分析と部族などの様々な社会のポジティヴな側面の賞賛とが必須なのである。

 それ以上に、ジョージ=オゥエルが指摘していたように、この批判的分析を「高潔な野蛮人」を崇拝しているとして拒絶するという攻撃は、重要なポイントを見失っているのだ。

 まず第一に、彼(近代生活の擁護者)は、「過去に戻る」など不可能だ、と言うだろう。そして、次には君のことを中世賛美主義者だと非難し、中世の恐怖を詳しく話し始めるだろう。実のところ、現代擁護者による中世や過去一般への攻撃の大部分は的外れなのだ。その根本的トリックはといえば、神経質さと高い水準の快適さとを持った現代人を、そうしたものなど聞いたこともないような時代に投げ出す、というものなのだから。だが、どんな場合であろうとも、こんな答えはおかしいことに気付かねばならない。機械化された未来への嫌悪は、必ずしも、過去の時代を賛美することにはならない。人が過去の時代を単に一つの目標として描くとき、それが空間的にも時間的にも実際に存在したことがあると見せかける必要などないのである。[The Road to Wigan Pier, p. 183]

 同様に記しておかねばならないが、過去の文化に関するアナキストの調査をこのように攻撃することの背後には、こうした文化は全く良い側面を持っていない、という前提がある。従って、近代生活に対するある種の知的「全か無か」アプローチを示しているのである。過去の(そして現在の)様々な文明が、幾つかの点で良いことを行っており、別な点では間違っている可能性があるのだから研究しなければならない、という考えは、近代社会に対する全く無批判の「好きか嫌いか」アプローチのために拒否されている。もちろん、お馴染みの「自由市場」資本主義者は19世紀の資本主義生活と価値観とを好きなのだが、これが資本主義システム支持者によって「過去の崇拝」だなどと主張されることは当然ながらない。

 従って、アナキストは「高潔な野蛮人」という理念の支持者だ、という攻撃は、アナキズム理論よりも、アナキズムの敵対者について多くのことを示しており、こうした敵対者が支持しているシステムの持つ意味合いに目を向けることを敵対者自身が恐怖していることについて多くのことを語っているのである。

I.7.3 個人の権利を保護するために法律が必要なのだろうか?

 要らない。全く必要とはしない。だがその一方で、クロポトキンは次のように述べていた。『一般に認められたある種の道徳原則なしにはいかなる社会も存在し得ない。万人が仲間を裏切ることに慣れて育ち、お互いの約束と言葉を信頼できず、仲間を敵として扱い、仲間に対してあらゆる戦争手段を使うことが正当化されれば、社会など存在し得ないであろう。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 73] これは明らかなことなのだが、だからといって法律システム(その結果として生じる官僚制・既得権・不人情を伴う)が社会内部で個人の権利を保護する最良の方法だという意味ではない。

 アナキストが、現在の法律システム(もしくは、宗教的戒律や「自然」法に基づく別種の法律システム)の代わりに企図しているのは、慣習である−−つまり、社会がある時点で正しいと見なすことを表現する生きた「経験則」の発達である。

 だが、ここで問題が生じる。公正な結末を決めるために一定の原則を使うのなら、それは法律と何処が違うのだろうか?

 違いは、「慣習の秩序」は「法の原則」よりも広く行き渡る、という点にある。慣習は、生きている諸制度であり、政治に関与する民衆の支持を受けるが、法律は成文化された(つまり死んだ)諸制度であり、社会管理を道徳的力から分離する。近代西洋社会を観察する人なら証言できるだろうが、このことが万人を疎外しているのだ。一つの公正な結末は予測できるが、それは必ずしも対人間葛藤の必然的結末ではない。なぜなら、アナキズム的な伝統社会では、人々は葛藤の解決を自分達自身で行うと思われているのだから。道徳と社会管理との根本的相違によって混乱が生じているが、道徳と社会管理との密接な関係を十全に理解するためには、こうした混乱がない社会環境で人々は育つべきだ、とアナキストは考えている。ただ、大切な要素はコミュニティによる民衆への信頼という投資である。対人間葛藤に対する機能的解決策を人々が思いつくと信頼するのである。これは現状とはハッキリと対照的である。国家は固定化した社会構造という爆撃を常に行い、個々人が自分自身のユニークな解決策を発達させる可能性全てを剥奪し、人々を小児化しているのだ。

 従って、アナキストは、社会的慣習は社会と共に変わると認識している。以前は「普通」だとか「自然」だとか考えられていたことが、抑圧的で憎むべきものと見られるようになるかも知れない。というのも、『善悪の概念は、獲得した知性や知識の程度によって異なる。その概念について普遍のものなどない。』[Kropotkin, 前掲書, p. 92] のだから。過去の圧迫感を取り去ることによってのみ、社会の倫理的基盤は発達し、社会を構成している個々人と共に成長できるのだ(アナキズム倫理に関する議論についてはセクション A.2.19を参照)。

 ここで指摘しておくが、法律(もしくは「法」)も個人の倫理観や道徳観の発達を制限している。物事の善悪を決める責任を人々から取り除いているからだ。人が知らねばならないことは、それが合法かどうかだけである。行為の道徳性は無関係なのだ。倫理のこうした「国有化」は、資本家や統治者などの搾取者になりたがっている人々にとって非常に便利なのだ。さらに、資本主義も個人の倫理発達を制限する。倫理を購入できる環境を創り出しているからだ。シェイクスピアの「リチャード三世 Richard III」を引用しよう。

第二の刺客:自分の中にまだ良心の糟があるんだ。

第一の刺客:やった後の報酬を思い出せよ。

第二の刺客:ちっ!良心は死んだぜ。報酬のことを忘れてたよ。

第一の刺客:汝の良心は今何処にある?

第二の刺客:おぉ、グロスター公爵の財布の中よ。

 「法」が個人の権利を守る限り、個人の倫理的行動と他者の権利の尊重とを台無しにする必要条件(倫理の非人格化・富の集中の存在など)を創り出す。英国のリバータリアン社会主義者エドワード=カーペンターは次のように述べている。『私たちは次のような一般的言明を正しく行うことができる、と私は思う。法律上の所有は本質的にネガティヴで反社会的であり、確実に有害だということはハッキリしている。実際、人が「法律で認められている」と言い訳をするとき、聞いている人はその人が何か良からぬことを企んでいると確信するであろう!』[William R. McKercher, Freedom and Authority, p. 48 で引用]

 国家は個人に統治体と関係を持つように強制する。つまり、『生活や周囲の状況に対して個人が直接的に持っている利害関係をその個人から引き剥がし、その人の道徳観念を鈍くし、自分で答えてはいけないと教え、全てを行うよう選挙で選ばれた少数の人々に依存させ、自分の善悪観念の大部分を破壊してしまう』のだ。[J. B. Smith, McKercher, 前掲書, p. 67f で引用]

 個人の権利は自己尊重と同情に基づいた社会環境で最も良く保護される、とアナキストは考える。慣習は、それが様々な個人的行為・思考の結果に基づいているが故に、この問題を生じることはなく、個人の倫理基準を反映し(そして、その発達を促し)、故に、他者に対する全般的な尊重を反映する。つまり、『アナキズム下では、あらゆる規則と法律は、陪審員の指導のための示唆に過ぎない。陪審員が判断するのは事実だけではない。法律・法律の正当性・その法律の特定情況への適用可能性・違反があった場合に課せられる刑罰や賠償をも判断する。アナキズム下では、法律は非常に柔軟であり、あらゆる緊急事態に合わせてその形を変えるため、何ら改変する必要はない。そして、法律が公正かどうかは、現在のようにその厳格さに応じるのではなく、その柔軟性に応じて見なされるであろう。』[Benjamin Tucker, The Individualist Anarchists, pp. 160-1] タッカーは、他の個人主義アナキスト同様、陪審員の役割は英国の慣習法の伝統において非常に重要だったが、国家によって次第に骨抜きにされていった、と考えている。慣習法や慣習に基づくこうした陪審員システムは、自由社会において正義を保証する手段になり得るだろう。

 他者の寛容性は、法律システムよりも当該社会の態度に大きく依存している。法律が個人の権利を尊重していたとしても、社会にいる他者がある行為を承認しないならば、その行為を止めさせるべく行動(つまり、個人の権利を制限)できる。法律にできることと言えば、こうしたことが生じるのを防ごうとする程度でしかない。言うまでもなく、政府は、都合の良いときに、真っ先に個人の権利を無視できる(してきた)。

 さらに、国家は、国家自身のために、そして、経済的・社会的な権力者の利益のために、社会的慣習を歪める。クロポトキンは次のように論じている。『社会が二つの敵対する階級−−一方はその支配を確立しようとし、他方はそこから逃げようともがく−−に分断されていくに従い、闘争が始まった。征服者は大急ぎで自分の行為の結果を永続的な形に保持しようとすべく、できる限りの手段を全て使って、その結果を疑いのないものに、聖なるものに、由緒あるものにしようとした。僧侶の認可の下、法律が出現し、戦士の棍棒がそれに仕えた。その任務は、支配している少数派に都合良い慣習を不変のものにすることだった。だが、法律が支配者とって便利な処方箋の集積に過ぎないならば、それを受け入れさせ、確実にそれに従うようにさせることは少々難しかっただろう。そう、立法者は慣習が持つ二つの潮流を一つの法典に混在させたのだ。この潮流の一つは、共同生活の結果として作り上げられた道徳と社会的団結の原則を示す処世訓、もう一つは外部のものを確実に不平等にしようという意図で作られた命令書である。慣習は、社会の存在そのものにとって絶対的に本質的なものだが、法典においては、支配カーストが押し付ける慣用法と明らかに混ぜ合わされている。そして、群衆はどちらも等しく尊重するよう求められるのだ。これが法律だった。今日まで、法律は、この二重の性質を保持し続けている。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 205] 言い換えれば、『法律は、人間の社会的感情を利用して、人間が受け入れることのできる道徳的指針だけでなく、叛逆の対象となる少数の搾取者たちにのみ有用な命令をも受け入れさせたのである。』[Krotpotkin, Malatesta in Anarchy, pp. 21-22 で引用]

 従って、アナキストは、国家諸機関は倫理的社会(つまり、個性の尊重に基づいた社会)を作るために不要だと言うだけでなく、そうした社会を積極的に台無しにしている、と主張する。経済的・社会的な権力者は、国家は自由社会と個人的空間の必要条件だと述べているが、これは驚くに当たらない。マラテスタは次のように述べている。

 政府は、全般的有用性という演技の後ろにその真の性質を隠さなければ、長期にわたって自身を維持することはできない。政府は、万人の権利の擁護者であるかのように振る舞わずして、少数者が持つ特権を受け入れるよう強いることはできない。[Anarchy, p. 21]

 思い出さねばならない。国家が何故存在するのか、国家が個人に対してどのような行為・どのような権利を推進するのかを。国家は権力のない人々から権力者を守るためにある。国家が認めた人権は社会闘争の産物であり、階級戦争によって過去に勝利したから存在しているのであって、支配エリートの親切心のおかげではない。さらに、資本主義自身は、人々が『仲間を裏切ることに慣れて』成長し、『仲間を(経済的)敵として扱い、仲間に対してあらゆる戦争手段を使うことが正当化』されるよう促すことで、あらゆる社会の倫理的基盤を台無しにする。資本主義は、個人が発達し、十全な人間になり、自由になるために必要な基本的社会文脈を弱体化させる。自由市場を導入するために強力な国家が常に必要となる。これは何ら不思議ではない。国家は、まず、増加する無産者から財産を守る。そして次に、社会を生きるに値するものにしている社会機構を資本主義が破壊するがままにさせておきながら、社会をまとめようとするのである。

I.7.4 資本主義は個性を保護しているのか?

 多くの人々が、あらゆる形態の社会主義が自由(そして、個性)を破壊する、と主張していることを考えれば、資本主義が実際に個性を保護しているのかどうかを考察することは無駄ではない。セクション I.7で簡単に記したように、この答えは否である。資本主義は標準化を創り出す手助けをし、個性を歪める役目をしているように思える。資本主義下に個性が確かに存在しているという事実は、資本主義的社会関係よりも、人間精神について多くを語っているのだ。

 ならば、何故、個人の利益という思想に明らかに基づいたシステムがこれほどまでの個人の弱体化を生み出すのだろうか?これには主として四つの理由がある。

(1)資本主義はヒエラルキーシステムを創り出し、多くの生の領域における自治を破壊する。

(2)コミュニティが存在せず、個性の促進にとって必要な支援を提供していない。

(3)(資本主義でそうであるように)「個人の利益」を純粋に貨幣利得と同じだと見なすることが、心理的影響を持つ。

(4)競争は画一性と権威に対する無批判の服従を生み出す。

 一つ目の理由については多くの所で既に論じた(セクションB.1とB.4を参照)。エマ=ゴールドマンが述べているように、資本主義の下で、個人は『自分の労働を売らねばならず』、従ってその『意向と判断は主人の意志に従属する。』このことは、必然的に、個人の発意を抑圧し、自分の精神を知り、表現するために必要なスキルを抑圧する(彼女の言葉を使えば、これは『何百人という人々を、他者のために膨大な富を山積みし、自分自身の陰鬱で鈍い惨めな存在で支払をする単なる非実在物に、独創性や発意の力を持たぬ生ける屍に追いやっているのだ』)。ゴールドマンは強調する。『自由という言葉の意味を拡大しても、報酬目当ての営利的な考えが個人的行為の判断に重要な役割を持っている限り、そこには自由などあり得ない。』[Red Emma Speaks, p. 36]

 資本主義が基盤としている社会関係を考えれば、資本主義は個性を促すのではなく、疎外することしかできない。クロポトキンは次のように論じていた。『個人や形而上学的存在に服従することは、発意を衰えさせ、奴隷精神を導く。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 285]

 第二の点に関しては、既にこのセクションで論じており、ここで再び繰り返す必要はあるまい(セクションI.7I.7.1を参照)。

 最後の二点についてはもっと深く論じる価値がある。以下でそれらについて論じてみよう。

 まず、第三の点を論じよう。この種の「貪欲」が個人の生活の(そして、個人が生活している社会の)主導的側面になっている時、個人は結局「貪欲」のためにその自我を犠牲にしてしまうことが多い。個人が自分の「貪欲」を支配する代わりに、「貪欲」が個人を支配する。そして、結局、自分自身の一つの側面に所有されてしまう。「自己中心性」はそれを実践している自我の貧困を隠すのである。

 エーリッヒ=フロムは次のように論じている。

 「自己中心性」は、自己愛と同じではなく、それとは全く逆である。自己中心性は一種の貪欲さである。あらゆる貪欲さがそうだが、自己中心性は、本当の満足が一度もないために、満たされることがない。貪欲は底なしの穴なのだ。一度たりとも満足することなく、欲求を満たそうと永久に努力し続ける中で、個人は消耗してしまう。この種の人間は、基本的に自分自身を好きではない。自分自身を徹底的に嫌っているのである。

 この一見して矛盾に見える難題を解決するのは容易い。自己中心性は自分に対する優しさが全くないことに根元を持っている。その人は、内的な安心感を持っていない。これが存在できるのは、本物の優しさと肯定感に基づいているときだけなのである。[The Fear of Freedom, pp. 99-100]

 言い換えれば、「自己中心的な」人は、自分の欲望に自分の自我を支配させるがままにし、自分の人格を犠牲にしてこの新しい「神」を養っているのである。このことはマックス=シュティルナーがハッキリと示していた。彼はこのことを、『他のこと全てを犠牲にする一つの情熱に支配された』エゴを導く『一方的な、閉じたままの、偏狭なエゴイズム』だと非難した(セクション G.6を参照)。全ての「亡霊」がそうであるように、資本主義は個人の自己否定をもたらし、そのことで、個性の貧困化をもたらす。従って、「エゴイズム」と「個人主義」に外見上基づいたシステムが結局のところ個性を弱めてしまうのは不思議ではない。

 競争も個性に対して同様の破壊的効果を持っている。

 実際、『標準化され、専門化され、予測可能な人間的要素を創り出すことに専念する文化は、そうした文化を創り出すための方法として、生について考え得る全ての面を競争の問題にするしかない。この点において「勝ち抜くこと」は、厳格な個人主義者を作りはしない。』[George Leonard, Alfie Kohn, No Contest: The Case Against Competition, p. 129 で引用]

何故なのだろうか?

 競争は他者に勝ることに基づくが、これは、自分が他者と同じことを行っている場合にのみ成り立ちうる。だが、個性は世の中で最も独自のものであり、『独自の特徴は本質的に順位付けできず、順位付けのプロセスに参加することは根本的な画一性を必要とする。』[Alfie Kohn, 前掲書, p. 130] 競争が持つ効果を広範囲にわたって研究したコーンによれば、競争は実際に『順位への適合を促す』と同時に、ソローのような自由思想家に結び付いている『実質的で本物の個人主義』を傷つけることが証明されている。[前掲書, p. 129]

 競争は、画一性を促すことで個性を貧弱にするだけでなく、人々が自由に考えず、反抗的にならないようにもさせる。

 権威に対する態度と一般的品行は、職場や教室で行われる類の競争で確かに重要視されている。教室で最高の評価を得たいと思えば、どんな話題が取り上げられようとも教師の構想に挑戦しないだろう。しばらくすると、批判的に考えることを完全に止めてしまうだろう。人々に「世渡りのために服従する」傾向があれば、目標が一番になることである場合には、さらにもっと服従するように駆り立てられる。仲間の労働者がライバルとなっている職場や工場で、昇進のために隣の人をやっつけることは、上司を喜ばせる。競争はプロメテウスの叛逆の炎を消す役目を果たすのである。[前掲書, p. 130]

 セクション I.4.11(リバータリアン社会主義が利益追求動機を取り除いた場合、創造性と業務遂行に悪影響があるのではないか?)において、我々は、芸術的課題がコンテストになると、子供の作品は明らかに自発性と創造性がないものになる、ということを示した。言い換えれば、競争は創造性を、ひいては個性を減じるのである。何故なら、創造性は『根本的に反順応主義』だからだ。『どう見ても、特異的な思考や冒険のプロセスなのだ。競争はこのプロセスをこのプロセスを抑制するのである。』[前掲書, p. 130]

 従って、競争は自分の生を狭め、勝利を得て「成功」するために新しい挑戦を経験できなくするのである。競争は『生を一連のコンテストに』し、『私たちを用心深く従順な人にする。競争しているとき、私たちは個人として輝くこと、集団的行為を享受することもない。』[前掲書, p. 131]

 従って、個性を擁護することとはほど遠く、資本主義は、自分の自由を表現しようとする人の進路に多くの障害物(物理的・精神的な)を置いているのだ。アナキズムが存在するのは、まさに、絶対主義国家に対する闘争の中で、資本主義が、その支持者が主張しているような自由社会を創り出さないからなのだ。

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