アナキズムFAQ


I.3.7 シンジケートに参加したくない人たちはどうなるのか?

この場合、自分の労働で自分だけで仕事をして構わない。アナキストは、人々を無理矢理シンジケートに参加させたいなどとは思っていない。クロポトキンは次のように論じていた。

『共産主義組織は(中略)万人の仕事・自然な成長・大多数の建設的才能の産物でなければならない。共産主義を上から押しつけることなど出来ない。万人の継続的で日常的な協働が維持されなければ、共産主義は数ヶ月間すらも持ちこたえられないだろう。共産主義は自由でなければならないのだ。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 140]

従って、コミューンに参加するかしないかは自由に決めることができ、非搾取的・非抑圧的個々人とグループにはコミューンの外で生活する可能性が保証される。マラテスタは次のように強調していた。アナキズム革命において『即座に破壊されねばならないことは(中略)資本主義的所有、つまり、少数者が自然的財産と生産用具とを管理し、その結果、自分のために他者が労働するように義務づけることが可能になるという事実である。(中略)(だが、人は)集産主義・相互主義・個人主義といった様々な体制で−−常に、他者を抑圧したり搾取したりしないということを条件として、望むままに−−生活する権利と可能性を(持たねばならない)。』[Malatesta: Life and Ideas, p. 102]

言い換えれば、人々の要望に応じて、様々な社会生活形態が実験されることになるのである。もちろん、資本の収用と個人の自由は相容れないのに、アナキストはどのようにしてこれらを両立させることができるのか、と問う人々もいる(特に、右翼「リバタリアン」がそうである)。この問いに対して我々が言えるのは以下のことだけである。こうした批評家たちは、他者を抑圧する権威的立場にいる人々の「個人の自由」に干渉すべきではないという考えを承認しており、この前提は個人の自由という概念を転倒させ、抑圧を「権利」に、自由の否定をその形態にしているのだ!

だが、右翼「リバタリアン」は妥当な疑問も確かに提起している。彼等によれば、アナキズムは、民衆運動の結果、自営している人々を協同組合・シンジケート・コレクティブへと無理矢理参加させるだろう、というのである。この答えはノーだ。なぜなら、不動産権利証書(title deeds)を破壊したところで、独立した労働者を害することはないからである。独立した労働者の真の権利(title)は財産(possessions)であり、成し遂げる仕事である。アナキストが排除したいと思っているのは、財産ではなく、資本主義的所有(property)なのである。

クロポトキンはこのことをハッキリ述べている。

『自分が耕作できるだけの土地を持っている農民を見ると、その小さな農場を手放させることが道理に適っているなどとは思えない。その人は誰も搾取していないし、その人の仕事に干渉する権利など誰にもありはしない。(中略)家族に必要だと思われるだけの(中略)間取りしかない家に住んでいる家族を見たとき、我々は、この家族に介入し、その家を手放すようにしなければならないのだろうか?(中略)自分の道具や手織ばたを使って仕事をしている(中略)刃物屋や(中略)服屋を見たとき、その道具や手織ばたを取り上げて他の労働者に与えるなど意味がない。服屋や刃物屋は誰も搾取していないのだ。』[Act for Yourselves, pp. 104-5]

つまり、独立生産者はアナキズム社会でも存在することになり、連邦の一部にならない仕事場−−多分、地域全体−−も存在することになる。様々な人々が様々な思想と理想を持つことは、自由社会では自然のことだ。また、そうした独立生産者がリバータリアン社会主義と矛盾するわけでもない。なぜなら『我々が関わっているのは、所有者が他者の労働を搾取する権利を破壊すること、とりわけ、(中略)実際に労働している人々が生産手段全てを自由に出来る(中略)ようにそれらを収用することである。』[Malatesta, 前掲書, p. 103]

もちろん、資本家になりたいと思う人もいよう。そして、人々を雇用し、給料を払うと申し出るかもしれない。だが、こうした情況は起こり難くなる。単純に言ってしまうが、一体誰が自称雇用主のために仕事をしたいと思うのだろうか?マラテスタはこの点について次のように述べている。

『人々から支援を得られないのか、それとも、人々を搾取することが出来ないのかは分からない。だが、彼(自称資本家)は搾取すべき人を誰も見つけられないだろう。なぜなら、生産手段に対する権利を持ち、自分で自由に働いたり、大規模生産組織で平等者として他者と共に働く人たちが、小規模雇用主に搾取されたいとは思わないからだ。(中略)こうした孤立した労働者が、他者と共に働き、既存コミュニティの一つに自発的に参加することが好都合だと思うかどうかは現時点では分からない。』[前掲書、pp. 102-103]

ならば、資本家になりたがっている人々は、自分のために働く人々を何処で見つけるのだろうか?クロポトキンは次のように論じている。

いかなる場所でも、富者の富は貧者の貧困から生じることが分かる。アナキズム社会が、社会のど真ん中に居座るロスチャイルド(などの大富豪)の出現を恐れる必要がない理由がこれである。数時間の生産労働を行えば、文明が手に入れたあらゆる享楽に接する権利を持ち、そして、芸術と科学がそれを求める万人に対して提供する更に深い楽しみの源に接する権利を持つ、ということを地域社会の全成員が知っていれば、その人は、自分の力を売ることなどしないであろう。(中略)誰も、自分のロスチャイルドを裕福にするために進んで働こうとなどしないであろう。[前掲書, p. 61]

自称資本家のために喜んで働こうとする(そして、その人に支配されようとする)人を見つけたとしても、この自称資本家は、素晴らしい労働条件を提供し、自分の利益がほぼゼロに近くなるほどの高い賃金を支払わねばならないだろう。それ以上に、労働者の隣近所の人々が、その労働者に、組合を作り、労働者自主管理なども含めてもっとより良い労働条件と賃金を求めてストライキするよう勧める情況に直面するはずである。こうした戦闘的労働力は、資本家が最も欲しくないものである。

だが、ファーガスンという自営の発明家がいて、彼が協同組合部門の手助けなしに新しい発明をしたとしよう。アナキストは彼のアイディアを盗むのだろうか?とんでもない。前提として、産物が持つ十全な価格を生産者に与えることが正しいと思っている人々が組織しているのが、協同組合である。従って、協同組合はファーガスンのアイディアに見合っただけの支払いをし、そのアイディアは社会全体で共有されることになる。しかし、彼が自分の発明を売ることを拒否し、搾取される賃金奴隷の一群を寄せ集めるべく、その発想に対する特許独占を主張しようとした場合、他の人々は、自分の労働の産物と労働プロセスそれ自体とに対して十全な管理を手に入れない限り、誰一人として彼のために働くことに同意はしないだろう。

さらに想像すれば、契約の終わりに自分が使用していた資本を手に入れる場合(つまり、使用していた生産手段の「分割払い購入」)を除き、自分が他者のために働くことを拒絶するだろう。つまり、国家主義による資本主義の支援が排除されるため、資本家になりたがっている人々は、協同組合部門と「競争する」ことが難しくなり、他者の労働を搾取する立場にいられなくなるのである。

共同生産システム(社会的アナキズムにおける)と相互銀行(個人主義アナキズムにおける)を使えば、「高利貸し」−−つまり、特許がその一例だが、独占商品に対して使用料を課すこと−−は不可能になり、発明者は他の労働者同様に、自分の労働の産物を交換することになる。ベン=タッカーは次のように論じていた。『特許独占とは(中略)発明者・著作者を充分な期間競争から保護し、その人の労働量を遙かに超えた報酬を人々から強請り取ることができるようにすることである。つまり、自然な法則・自然な事実として特定の人に一定期間所有権を与え、万人が利用できるはずの自然財産が使用される度に使用した人から年貢を絞り出す力を与えることなのである。この独占の廃絶によって、独占から利益を得ている人々は、競争に対する健全な恐怖で一杯になるであろう。彼等は、自分の事業への代価で満足しなければならない。他の労働者が自分の行っていることで利益を得ているのと同じになるのである。そして、市場に置かれた当初には、その産物と作品を非常に低い価格に設定することで、競争者にとって自分達の取扱商品が他の商品よりも魅力的ではなくなるようにして、自分達の代価を保護しなければならなくさせるのである。』[The Anarchist Reader, pp. 150-1]

従って、誰かが売らねばならない仕事を持っていたとすれば、その仕事は、タッカーが指摘していたように、自由社会で行うに値するものなのである。そうした環境は、求職者数を低く抑えることで、搾取率をほぼゼロにすることになろう。自営型の職人労働力に直面したとき、資本家が常に国家を頼みにして「正しい」市場動向を作り出してきたことは驚くに値しないのだ(セクションF.8を参照)。

つまり、民衆が賃金奴隷に喜んで成り下がるだろうという考えは、いささか当たり前(特に、資本主義支持者達には)のように思えるかも知れないが、民衆に選択肢があれば民衆は自営を好み、賃金労働に抵抗するのである。これは歴史を見れば明らかなのだ。E=P=トンプソンが記しているように、18世紀の終わりと19世紀初頭の労働者にとって、『「召使い」と、主人の命令と規律に従属する雇用された賃労働者と、自分が望むだけ「行き来する」職人との立場のギャップは、一つの立場から別の立場に思い切って移るといった程度のものではなく、人が殺人を犯す程大きかった。そして、地域社会の価値システムの中で、堕落に抵抗している人々は正しいと見なされていた。』[The Making of the English Working Class, p. 599] 100年以上後、アラゴン地方の労働者階級は賃金労働に対して同様の反感を示していた。共産党の軍隊が自分達の自主管理コレクティブを破壊した後、『拠り所のない農民達、非妥協的な集産主義者達は、私有財産システムの中で仕事をすることを拒み、自分の労働を貸し出すことすら渋っていた。』[Jose Peirats, Anarchists in the Spanish Revolution, p. 258]そして地方経済は崩壊したのだった(詳細はセクションI.8.7を参照)。

つまり、自由社会において民衆が賃金労働者になることを選ぶだろうという理解は、資本主義下で必要だからと民衆が受け入れていたことが何の変化もなく自由社会にも引き渡される、ということを前提としているのである。この前提には根拠がない。民衆が自由を求めて闘争し、自由の喜びを味わえば、主人を持つという堕落に戻ることを気軽に受け入れはしない、とアナキストは考えている。我々の主張を支持する証拠は、歴史に示されているのだ。

言い換えれば、資本主義と国家主義が終焉すれば、自由社会は、資本主義事業が再び創られたり、成長したりすることを恐れなくともよいのである。なぜなら、自由社会は、誰もがシンジケートに加入しなければならないという考えを拒絶しているからだ。自由になるという選択肢を手にしたときに、ボスを望む人など、全くとは言わないにせよ、殆どいまい(アナロジーを使えば、独裁制を転覆したときに、民主主義よりも独裁制を望ましいと思う人が殆どいないのと同じである)。また、資本主義的特権である様々な階級型独占を支援している国家主義がなくなれば、資本主義は優勢になりえなくなる。さらに、シンジケートが相互主義市場で商品交換を実践する時には様々な一時的な利益が存在するわけだが、シンジケート間の協働が持つ様々な利益は、そうした一時的利益を凌ぐであろう。

I.3.8 アナキストは「小規模生産に専念する小規模自律型地域社会」を求めているのか??

このセクションの初めで示したように、アナキストは、自由社会の生産活動を、シンジケート連合を中心としたものだと考えている。つまり、アナキズムは孤立したコミューン群という考えを拒否しているのである。むしろ、コミューンとシンジケートは連邦構造の中で協働するのである。セクションI.3.5で論じているが、このために経済活動の調整を支援する諸連邦が必要であり、セクションI.3.4で示しているように、生産シンジケートとシンジケートを包含しているコミューンとが包括的に結びつくのである。

アナキズムが小規模で自己充足型のコミューンを目差しているという発想は、レーニン主義による中傷である。レーニン主義者はこの件に関してアナキズム思想を偽って伝え、アナキストは『小規模生産に専念する小規模自律コミュニティ』に基づいた社会を真面目に望んでいるなどと述べている。特に、彼等はクロポトキンをあげ、クロポトキンは『後ろ向きの変革を求めて』おり、『シベリア農民とスイス山岳地帯の時計職人のコミュニティを目撃していた』と論じている[Pat Stack, "Anarchy in the UK?", Socialist Review, no. 246, November 2000] 。

この問題についてはセクションH.2(「アナキズム理論のどの部分をマルクス主義者が特に誤って伝えているのか?」)で論じる方が良いのだろうが、次の理由から、ここでも簡単に論じることにする。まず第一に、これは悲しくなるほど何度も言われる主張だからである。第二に、アナキスト社会がどのようになり得るのかという事と直接関係しているからである。だから、FAQの本セクションでこの主張に関する議論を行う。この主張を論じることで、自由社会がどのようになり得るのかについてさらに詳しい像を得ることができるようにもなるだろう。

さて、「小規模生産に専念する小規模自律コミュニティ」を目差している、などという主張をアナキストはどのように思っているのだろう?ハッキリ言って、こんなことはナンセンスだと思っている(アナキズム理論を読めばすぐに明らかになるのだが)。事実、この特定アナキズム「ヴィジョン」が何処からやってきたのかは分かりにくい。ボルシェビキ指導者のニコライ=ブハーリンが全く同じ主張をしたときに、ルイジ=ファブリは次のように述べていた。『アナキズムの本・パンフレット・プログラムのどれで、そのような「理想」が、もしくはそれ程までに厳格な規則が、提示されているのか、教えていただきたいものだ!』["Anarchy and 'Scientific' Communism", pp. 13-49, The Poverty of Statism, Albert Meltzer (ed.), p. 21]

例えば、プルードンを読めば、「小規模」生産を望ましいという主張など何処にも見あたらないのがすぐ分かる。彼は『鉱山・運河・鉄道が、民主的に組織された労働者協会に引き渡されること』を望ましいと論じていた。『我々は、こうした協会が農業・工業・商業のモデルになり、様々な企業・結社の大連合の先駆的核になり、社会民主共和国という粗末な着物の中に織り込まれて欲しいと考えている。』[No Gods, No Masters, vol. 1, p. 62] 同様に、プルードンは、大規模産業という考えを退けず、次のように論じていた。『大きな独占と大きな財産が大規模産業を生み出している:大規模産業は将来的には(労働者)協会から出現しなければならない。』[quoted by K. Steven Vincent, Proudhon and the Rise of French Republican Socialism, p. 156] ヴィンセントは次のように正しく要約している。

この問題に関して強調しなければならないが、二次文献が与えている一般的イメージとは逆に、プルードンは大規模産業を敵対視してはいなかった。確かに、彼は、こうした大規模事業が社会に導入した事柄の多くの面について異議を唱えていた。例えば、プルードンは(中略)個人に些細な職務を何度も行わさせる労働(中略)が持つ下劣な特徴に激しく反対していた。しかし、彼は、大規模生産に対して原則的に反対してはいなかった。彼が望んでいたのはそうした生産を人間的にすること、それを社会化することであった。そのことで、労働者が単なる機械の付属物にはならなくなる、というのであった。プルードンは、大規模産業の人間化は強力な労働者協会の導入によって生まれる、と述べていた。労働者協会によって、労働者は事業の方向性・日常的な運営方法を共同で選び、決定できるようになる、と述べていたのだった。 [前掲書, p. 156]

それ以上に、プルードンは、アナキズム社会を、孤立した諸地域や仕事場からなるものだと見なしてはいなかった。逆に、彼は、共同活動と共通利益を調整するために仕事場と地域との連合が必要だと考えていた。経済的には、『農工連合』が、『信用貸しと保険における相互主義を通じて、あらゆる公的サービスを経済的方法で組織することで、つまり、国家以外の権限で組織することで、平等の増大を促す』だろう。『労働の権利と教育の権利を保証し、個々の労働者が熟練労働者・職人になり、個々の賃金所得者が自分自身の主人になることができるようにする労働組織を保証するのである。』このことが、『産業と金融の封建主義』と『賃労働、すなわち経済的奴隷状態』を終焉させるであろう。[The Principle of Federation, pp. 70-1]

また、経済連合が必要なのは、原材料や地質などが異なるためでもある。プルードンは、農業生産収入の一部を中央の基金に入れ、この資金を使って、農業に適さない場所やそれほど肥沃ではない土地にいる農民を補償する調整金を支払うべきだと論じていた。彼は次のように述べていた。『農業における』経済的地代(economic rent)は『地質の不平等が原因である。(中略)誰かがこの不平等を理由に申し立てをするとすれば(中略)それは質の劣った土地を持っている土地労働者(である)。(資本主義の)清算に代わる我々の仕組みにおいて、あらゆる栽培品種が比例の負担金を支払わねばならないと規定される理由がこれである。この負担金は、農場労働者の間で収益のバランスをとり、生産物の保証をするためのものである。』[The General Idea of the Revolution, p. 209]

仕事場連合というこのヴィジョンは、バクーニンの著作にも見ることができる。バクーニンは次のように述べている。『未来の社会組織は、ボトムアップのみで、労働者の自由協会や自由連合を通じて進めねばならない。当初は、労働者の提携で始まり、コミューン・地方・全国へ、そして最後には巨大な国際的全世界的連合へと進むのである。』[No Gods, No Masters, vol. 1, p. 176] バクーニンは、プルードン同様、資本主義の下では、労働者は『他者のために労働して』おり、自分の労働は『自由・余暇・知性を剥奪された』ものであるが、『理に適った自由労働は必ず共同労働になる』と考えていた。アナキズムの下では、『様々な自由な生産協会』が『それ自体の主人・必要な資本の所有者』となり、『それら自体の中で融合し』、『遅かれ早かれ、自然の国境を越えて拡大し』、『巨大な経済連合を形成する』であろう。[Michael Bakunin: Selected Writings, pp. 81-3]

また、そうしたヴィジョンをクロポトキンに帰すこともできない。当然のことだが、彼も、プルードンやバクーニン同様に権力分散と意志決定とを支持しつつ、活動を調整する連合の必要性を拒絶していない。彼は次のように述べている。『将来のコミューンは、いかなる高次の権威も認め得ないことを知っている。コミューンの上にあるのは、そのコミューンと他のコミューンが自由合意した連合の利益だけである。(中略)このコミューンは、連合が国家を破壊し、国家に置き換わらねばならないことを分かっているであろう。』アナキストにとって、コミューンは『一群の領地を意味してはいない。むしろ、総称的名称であり、国境も城壁も知らぬ平等者の群と同義である。(中略)コミューンにいる個々のグループは、他のコミューンの類似グループに必ず引き付けられる。そうしたグループは協力し合う。グループを連合させる繋がりは、市民仲間を結びつけている繋がりと同じぐらい、しっかりとしたものになるのである。』[Words of a Rebel, p. 83 and p. 88]

また、クロポトキンは、アナキスト社会を、純粋に小規模コミューンやコミュニティを基盤とした経済を持つものとして見なしてもいなかった。彼は次のように考えていた。自由社会の基本ユニットは『ある種の天然資源を処理するのに充分なだけ大規模−−一国規模かもしれないし、一地方規模かも知れない−−であり、農産物・工業製品の大部分を生産し、その社会自体で消費する。』そうした地方は、『農業を工業と結合させる最良の手段−−分権型産業を使う分野の仕事−−を見つける』だろう。それ以上に、クロポトキンは次のように認識していた。『一国において諸産業が地理的に分布しているのは、(中略)大部分、自然諸条件が複雑だからである。明らかに、特定産業の発展に最適な土地は存在する。(中略)こうした産業は、個々の地域が持つ自然な特徴に従ってある程度までグループ化されることで、常に利点を見出すのである。』[Fields, Factories and Workshops Tomorrow, p. 26, p. 27 and pp. 154-5]

クロポトキンは次のように強調していた。農業は『機械の助け無しには発展できず、完璧な機械装置の活用は工業環境がなくしては普及しない。(中略)村の鍛冶屋にはこんな事は出来ないのである。』つまり、クロポトキンは農業と工業の一体化を支持していたのだった。『野原と庭園のすぐ近くに工場と仕事場』がある。こうした工場は『風通しが良く衛生的で、その結果経済的な工場となり、そこでは人間生活が機械よりも大切にされ、付加的な利益を生み出すであろう。』『様々な農業研究・工業研究・知的研究は、それぞれのコミュニティで一体化し』、『最大の幸福量』を保証する。彼は次のように考えていた。『大規模な社会的機関』は存在し続けるだろうが、『自然が示す特定の場所に上手く配置』されることになろう。そして次のように強調していた。『農業と一体化するために工業は手仕事の段階に戻らねばならない、と考えるのは大きな間違いである。機械を使うことで人間の労働を節約することが出来るならば、機械は歓迎され、頼られるものになろう。少なくとも幾つかの製造段階で、機械仕事を有効に導入できない産業部門など一つもない。(中略)機械は、単純商品の製造で手仕事に取って代わるだろう。しかし、同時に、現在完全に工場内で作られている数多くの物品を芸術的に仕上げるという点で、手仕事の領域が拡大する見込みが非常に高いのである。』[前掲書, p. 156, p. 197, p. 18, pp. 154-5 and pp. 151-2]

明らかに、クロポトキンは大規模産業それ自体に反対していなかった。『近代産業を分析すればすぐに分かるが、その中には、数百人の労働者、事によっては数千人の労働者が同じ場所で協働することが本当に必要な産業がある。大規模の製鉄・採掘事業は確かにこのカテゴリーに当てはまる。海洋汽船を村の工場で作ることは出来ないのである。』しかし、他の多くの産業において、大規模生産の客観的必要性はない。中央集権型生産がこうした産業に存在しているのは、純粋に、資本家が『市場の命令を保持』できるようにするためだ、とクロポトキンは強調していた。『田園と仕事場の間で自分の仕事を分けることから人間が得ている道徳的・物質的利益』を考えてみれば、我々が近代産業構造を機械的に評価する上で、資本家の利益と権力にとって何が最良かではなく、労働者(そして社会と環境)にとって何が最良かという基準を使うに違いないのである。[前掲書, p. 153]

この主題に関するクロポトキンの思想をレーニン主義者がまとめているが、その要約は明らかにナンセンスである。クロポトキンは、自由社会ヴィジョンの基礎として『小規模』生産を見なしてはいない。一国・一地方の経済ユニットに適合するものとして生産を考えていたのである(『それぞれの地方は、製品の生産者となり、かつ、消費者となる。(中略)農産物の生産者となり消費者となるのだ。』[前掲書, p. 40])。工業は、『現在の資本主義工場のままではなく』『機械装置と技術知識の十全な手助けを伴った、社会的に組織された工業生産という形で』村落にやってくるであろう [前掲書, p. 151]。

工業は分権化され、農業と統合され、コミューンを基盤とすることになる。しかし、こうしたコミューンは連合の一部であり、従って、生産基盤はこうした連合の必要物を満たすことに置かれる。合理的分権化システムは、クロポトキンの無政府共産主義の基盤であり、その生産活動と自由社会の仕事場は適正レベルに合わせて調整される。大規模に組織される事が最良となる産業は、継続して大規模に組織されることになるが、現在の(つまり資本主義の)構造が中央集権的であっても、そのようにする客観的必要性がない産業は解体され、労働者と社会双方の利益となるように仕事が変換される。

つまり、我々は、地元と地区のニーズに合わせた仕事場システムを目にすることになり、このシステムは地方とより大きなニーズを満たす大規模工場に補完されることになる。クロポトキンは、そうしたシステムが経済的になることを示そうと苦心していたのだった。『何度も何度も耳にする「集中」の多くが、資本家が合併することに他ならない理由がこれであり、その目的は、技術的プロセスを安価に抑えることではなく、市場を支配することなのである。』[前掲書, p. 154] 言い換えれば、近代産業構造は資本家の利益と権力というニーズによって歪められており、従って、資本主義の基準の下で「効率的」だとされることが必ず自由社会にとっても最良のものだと仮定することは出来ないのである。

クロポトキンは充分気付いていた。近代工業は『国益などではなく、少数者の一時的利益に見合うように』作られたのだ [前掲書, p. 147]。従って、彼は、資本家が市場を支配し、自分の利益と権力を増やす手助けをするために存在する経済的諸傾向と、別種の未来を示す諸傾向とをハッキリと区別していたのである。クロポトキンは世界中に広がり、あらゆる国と地方に分散する産業の傾向こそ、この第二の傾向だ(もちろん、第一の傾向に飲み込まれている場合が多いのだが)と見なしていた。彼は、既存社会とその諸傾向をそのようなものとして観察し、分析していた。従って、クロポトキンの分析は『変革を求めて後ろを振り返る』ことに基づいていた、など述べることは出来ないのである。実際、明らかに全く逆だったのだ。彼は繰り返し強調していた。『人間性が持つ現在の傾向からすれば、個々の国に、最大限可能なだけ多種の産業を集めることが出来る。』 [前掲書, pp. 25-6]

その著作の中で行った全ての主張同様に、クロポトキンは多くの経験的証拠と研究を使ってこの主張をバックアップした。つまり、彼は明らかに、変革を求めて現在に目を向け、近代社会内部にあるリバータリアンの方向性を示す諸傾向を図示し、自分の主張を包括的な最新の研究で裏打ちしていたのだった。彼の主張と全く逆のことを述べるのは、クロポトキンの著作に不案内だという事を示しているだけのことなのだ。

革命後の産業変換に関するアナキストの考えにレーニン主義者は反対しているが、その主張は次のことを明らかに意味している。彼等は、社会主義社会は、基本的に資本主義と同じものになり、変更なく、階級社会下で発達したテクノロジー・産業構造・工業を使うことになる、と考えているのだ。結局、レーニンは次のように論じてはいなかっただろうか?『社会主義は、国家資本主義独占の次のステップに過ぎない。(中略)社会主義は、全人民に利益をもたらす国家資本主義独占に過ぎないのである。』[The Threatening Catastrophe and how to avoid it, p. 37] 言うまでもなく、資本主義産業は、クロポトキンが気付いていたように、中立に発展したわけでも、技術的ニーズのために純粋に発展したわけでもない。資本家の利潤と権力を維持するという二つの要件によって歪められているのである。社会革命の最初の課題の一つは、産業構造を現状のままに保持することではなく、変換することである。社会主義の目的のために資本主義の手段を使うことなどできはしない。アレクサンダー=バークマンは次のように正しく論じていた。

革命における産業分権化の役割は、不幸にして、十分に理解されているとは言い難い。(中略)大部分の人々は、中央集権化の方が「効率的で経済的だ」というマルクス主義ドグマの奴隷状態に今だにいる。こうした人々は事実から目を閉ざしているのだ。そのように主張された「経済」は労働者の手足と生活を犠牲にして達成されたものであり、「効率性」は、労働者を単なる産業の歯車に堕落させ、その魂を鈍らせ、肉体を殺してしまう。さらに、中央集権システムでは、産業の運営管理が常に少数者の手に吸収され、産業巨頭の強力な官僚制を生み出す。革命がそのような結末を目的としているとすれば、実際、それは純然たる皮肉であろう。それは、新しい支配階級の創造を意味することになるのだ。[The ABC of Anarchism, pp. 80-1]

言い換えれば、実際の仕事を行っている人を搾取し、抑圧する新しい官僚制になるのである。民間資本主義(private capitalism)がその良い例だ。これは、資本主義経済構造が多数よりも少数に権限を与えるように作られているためである。資本主義国家同様に、資本主義経済構造を、労働者が自分達の解放を達成するために使うことなど出来ないのである(本物の社会主義に必要な大衆参加を作り出さないのである。実際のところ、全く逆のことをするのだ!)。資本主義から産業構造を「先天的に受け取る(inherent)」一方、その構造を変えることなく残しておくなど最悪の間違いであり、さらに悪いことに、資本家がその権力(つまり、中央集権化と集中)を「社会主義」の名を使って維持し、増加させるプロセスを加速させるであろう。

最後にもう一つ、分権型生産という問題に関して述べておこう。クロポトキンは、『鉄鋼を完成品の状態にできるほどの大きな工場を持たない国は、他の産業全てにおいても後進的になる運命にある』と考えるだけでなく、革命時の社会は『国際貿易が停滞する』ために、地元の資源に立ち戻させられ、経済は『混乱する』ようになると考えていた。このために、『中産階級支配の支持者達によって一年か二年、世界からつまはじきにされる』場合、革命的民衆は『自身のニーズを満たすために、自給自足し、その生産を再編成』せざるを得なくなる。『それに失敗すれば、死ぬしかない。上手く行けば、その国の経済生活を革命的に変えることになる。』このためには『土地を耕し、(都市)の郊外とその周辺地域で農業生産と工業生産を結合させる必要』がある。つまり、革命がその初期に孤立する危険があることは、この問題に関するクロポトキンの考えに含まれていたのである。[The Conquest of Bread, p. 190, p. 191, p. 192 and p. 191]

この問題について長々と論じてきたことをお詫びしなければならない。ただ、この問題は、アナキズムについてマルクス主義者が解説するときに憂鬱になりそうなほど頻繁に繰り返されるのである。アナキストは『小規模自律コミュニティ』に適合した『小規模』生産を求めているという主張をしている人々は、その資料について無知だということを示しているに過ぎない。実際には、アナキストが考える生産は、最も社会的に・経済的に・生態学的に道理に適ったことに合わせたものなのである。生産・仕事場は、地元コミューンに合わせたもの、地域連合に合わせたもの、地方連合に合わせたものなどが存在するだろう。この理由で、アナキストは、調整と共同作業の必要に地元の自律を結合させる手段として、労働者諸協会の連合を支持しているのである。逆のことを主張するのは、単にアナキズム理論を誤って伝えているに過ぎないのだ。

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