アナキズムFAQ

G.6 マックス・シュティルナーの思想とは何か?

 ある意味で、シュティルナーの著作「唯一者とその所有」はロールシャッハテストのようなものである。読み手の心理状態により、まったく異なった解釈ができるからだ。資本主義を擁護するためにシュティルナーの思想を使う人もいれば、アナルコ・サンジカリズムを論じるために使う人もいる。一例をあげると、スコットランドのグラスゴーのアナキズム運動は、アナルコ・サンジカリストを組織する基本に文字どおりシュティルナーの「エゴイストの連合(union)」を据えているのである。私たちは、エゴイストのサンジカリズム的な解釈の方が、資本主義的な解釈よりも正しいと考えている。このセクションで、その見解を説明していこう。

 本論に入る前に、シュティルナーの思想は、(サンジカリズムなどの)社会的アナキズムよりも、個人主義的アナキズムに大きな影響を与えた事実を書いておくべきだろう。例えば(個人主義的アナキスト)ベン・タッカーは、「唯一者とその所有」を読んで、自分自身を「エゴイスト」と考えるようになったのである。  しかし、社会的アナキストも、シュティルナー思想を理解することから多くのものを得て、それを有効に使っている。それについて説明しよう。

 さて、シュティルナー(の思想)とはいったい何なのだろうか? 簡単に言ってしまえば、それはエゴイストである。エゴイストは、「自分の利益」(self-interest)こそが、あらゆる人間行動の根本的な動機である、と考える。まったく利他的な行為に見える場合でも、その動機は「自分の利益」にあると考えるのだ。つまり、『自分が、自分自身にとっての全てであり、自分がすることは、全て自分のためなのでである。』[「唯一者とその所有」(The Ego and Its Own), p162]。
 愛情さえ、「自分本位(selfishness)」の良い例であるという。『なぜなら愛情は私を幸せにする。愛することが私にとって自然(natural)で、そうすることが嬉しいから愛するのだ。』[前掲書, p.291]
 彼は人々に次のように主張する。 『勇気を持って、今こそ自分を中心点に置き、自分を一番大事なものと考えなさい。』シュティルナーは他者を、単に自己の欲望を満足させる(self-enjoyment) ための手段と見なしていた。欲望 は、お互い様である。: 『私にとって、あなたは単なる糧に過ぎない。たとえ私が食べさせてもらう結果、あなたに利用されるのだとしても。私たちのお互いの関係は、たった一つしかない。それは、自分にとって役に立つか、有益であるか、利用できるかということである。』[前掲書, pp.296-7]

 シュティルナーによれば、すべての個人は唯一無比(unique)である。(『私の体は他人の体ではないし、私の心は他人の心ではない』  前掲書、p.138) だから、唯一性(uniqueness) を制限したり否定したりするような企図は拒絶すべきなのだ。
 『単なる部分(part)と見なされること、社会の部分と見なされることは、個人には我慢できないことである。なぜなら個人は部分以上の存在であり、個人の唯一性(uniqueness)が、それからこの限られた概念を引き出すのであるから。』 [前掲書、p.265]
 個人の唯一性 を最大にするためには、個人は、自分の行動の本当の動機について認識していなければならない。言い替えれば、人は無意識的なエゴイストではなく、自覚したエゴイストにならなければならないのである。無自覚な、あるいは自発的でないエゴイストとは、『常に自分のことを気にかけていながら、自分自身を「至高の存在(highest being)」とはみなさない人、 自分だけに仕えながら、同時に「自分より高い存在(higher being)」に仕えていると考える人、自分自身より高いものはないと知りながら、何か「気高い(higher)」ものに惑わされている人』である。 [前掲書、p.36]
 それに対し(意識的な)エゴイストは、自分が「自分の利益」だけに基づいて行動することを知っている。もし「より気高い存在(higher being)」を支持することがあっても、それは「より気高い存在(higher being)」が偉いからではなく、それが自分にとって有益だからにすぎない。

 しかし、シュティルナーは、自分自身が「気高い存在(higher beings)」であるというのではない。自分の利益だけを考え、自分自身だけに関わることを目的として、彼は全ての「気高い存在」を攻撃する。彼は「気高い存在」を「亡霊(spooks)」と見なしていたのである。「気高い存在」とは、そのために個人が自分自身を犠牲にし、それに支配されてしまうような「観念」なのだ。シュティルナーの攻撃は、私有財産・労働の分業・国家・宗教・それに社会そのものなど、資本主義下の生活におけるご立派な面に向けられたものなのである。
 シュティルナーのエゴイスト社会のビジョン(そして、それが社会的アナキズムとどう関連するのか) に移る前に、ここで、彼の資本主義批判を説明しておこう。

 エゴイストにとって、私有財産とは『法律の恩恵の元で生きるもの、・・・法律の効果によってのみ、"自分のもの" になる』[前掲書, p.251]ような「亡霊(spook)」である。別の言葉で言えば、私有財産は、純粋に『国家の保護を通して、つまり国家の恩恵によって』のみ、存在できるのである。[前掲書、p.114]
 (私有財産には)国家の保護が必要なことを認識したシュティルナーは、次の点にも気付いていた。すなわち、『私有財産さえ保護されれば、「良き市民」は、絶対君主制であろうと立憲君主制であろうと共和制であろうと区別する必要なく、それとその原理を守る』ということである。『彼らの原理とは何か? 彼らがいつも愛しているのは、誰の保護者なのか? ・・・利益を生み出す所有(interesting-bearing-posession)・・・労働資本(labouring capital)・・・である。』[前掲書, pp.113-114] {訳注・・・interesting-bearing-posessionは「面白くてつらい所有」とも取れる}  今世紀、資本家がファシズムを支持した例を思いおこせば、シュティルナーが正しかったことがわかるだろう。体制が資本家の利益を擁護する限り、「良き市民」(いわゆるリバータリアン右派の多くを含めて) は体制を支持するのである。

 私有財産は国家の保護を必要とするだけでなく、搾取と抑圧を導くとシュティルナーは見ていた。『私有財産の原理は確かに労働なのであるが、労働がほとんど自分のものではなく、資本の労働(labour of capitol)と従属労働者(subject labourers)になってしまうのである。』[前掲書、pp.113-114] それに加えてシュティルナーは、私有財産がもたらす結果として、労働の分業を攻撃する。分業が労働者のエゴと個人性(individuality)を衰弱させるからである。(セクションD.10 「資本主義はテクノロジーにどのように影響するか」参照)
 労働の搾取こそが、国家のための、国家の基盤である。『国家は「労働の奴隷化」の上に成り立っているのだ。もし労働が自由になれば、国家は消滅する。』[前掲書、p.116]  ピンハネする剰余価値がなければ、国家は存在することができない。

 シュティルナーにとって、国家は個人性(individuality)にとって最大の脅威であった。『国家がなければ、私は自由である。』[前掲書、p.195] 国家はその領土における主権(sovereign)を主張するが、シュティルナーにしてみれば、エゴだけが主権を主張できるのであり、(その財産を)使えるのである。『私が私自身の主人(master)であるときだけ、私は私のものである。』[前掲書、p169] ゆえにシュティルナーは、「あらゆる形態の権力に対しての反乱」と、「財産の不尊重(dis-respect for property)」を主張する。『もし、人が財産への尊重感をなくす点まで来れば、誰もが財産を持つことになる。誰も主人(master)を主人として尊重しなくなれば、直ちに全ての奴隷が自由になるのと同じことだ。』[前掲書、p.258] 労働を解放するためには、全ての人が「財産」を持たければならない。『貧乏人が自由になり、(財産の)所有者になるには、立ち上がるしかないのだ。』[前掲書、 p.260]

 シュティルナーは「自我の解放」(self-liberation)の重要性を認識していたし、権威・権力(authority)は、「支配される者」が受容するから存在する、ということも認識していた。彼は言う。『初めからそれ自体が神聖なものなど存在しない。人が神聖であると断定することによって、神聖になるのだ。人の断定(my declaration)・人の判断(my judgement)・人が膝まづくこと(my bending the knee)などによって。簡単に言えば人の意識(my conscience)によって「神聖化」するのである。[前掲書、p.72] 社会が「神聖」と見なすのは、この崇拝(worship)のためである。したがって、個人が真の自我を見出すためには、(このような意識から)自分自身を解放しなければならない。
 この解放プロセスの一部分でヒエラルキーが破壊されることが重要である。シュティルナーにとって、『ヒエラルキーは観念の支配であり、精神の支配』であった。これは、私たちが、『(私たちの)「観念」によって支えらていれる連中に、押さえつけられている』ということである。[前掲書、p.74] つまり、「権力とその権力の源泉--私有財産や国家--に疑問を持たない」という自分の意志によって、私たちは押さえつけられているのである。

 今日のリバータリアン資本主義者たちは「自分本位(selfishness)」の鍵は「利潤(profit)」にあると考えているが、シュティルナーはそのような人々を軽蔑していた。なぜなら「欲深さ(greed) 」はエゴの一部分であるに過ぎず、その部分だけを追求するのに人生を費やしてしまうのは、他の部分をすべて否定してしまうことになるからである。シュティルナーはそのような(利潤)追求を「自己犠牲」、あるいは、片寄った・開かれていない・狭いエゴイズムと呼んでいた。それではエゴが、一つの側面だけに占められてしまう。『一つの物・一つの目的・一つの意志・一つの情熱のために他の全てを危険にさらすような人は、犠牲に供したいという情熱に取り憑かれているのである。』[前掲書、p.76]
 真のエゴイストからみれば、この意味で資本家は「自己犠牲」なのである。なぜなら彼らは「利潤」だけに突き動かされているからだ。終いには、彼らの行動は自己否定の一形態に過ぎなくなる。拝金主義のために、自分自身の共感や批判などの思考を軽視するようになってしまうのである。(銀行の当座預金勘定がルールブックになるのだ)
 そのような(片寄った)エゴイズムに基づく社会では、結局エゴが存立するその足元を堀り崩してしまう。自分自身と他の人々の個人性(individuality)を衰弱させ、その結果、他者の自分に対する潜在的な効用をも減少させてしまうのである。さらに、(資本主義の)利潤追求は、自己利益(self-interest)に基づくものでさえない。それは市場の働き(=見知らぬ権威)によって個人に押し付けられたものなのである。その結果が、『自分の時間全てを要求される苦役』労働なのだ。『自分自身を唯一の存在(the unique)として慰安する』時間さえ、個人には残されないのである。[前掲書、pp.268-9]

 シュティルナーはまた、「社会主義」や「共産主義」にも分析の目を向けるが、彼の批判は、資本主義に対する批判と同様にパワフルなものであった。このため、シュティルナーの著作が、資本主義に賛成しているかのように取る人もいるのだが、上記の通りそれは正しくない。シュティルナーは確かに社会主義を攻撃した。しかし、それは「国家の社会主義(state socialism)」を攻撃したのであって、「リバータリアンの社会主義(libertarian socialism)」を攻撃したのではない。「リバータリアン社会主義」は当時まだ存在していなかったのだ。(その当時よく知られたのアナキストの著作は、1840年に出版されたプルードンの「財産とは何か」だけであり、この本はその後のアナキズムの発展を充分には反映していない)。
 シュティルナーは、道徳的(moralistic)あるいは利他的(altruistic)な社会主義がなぜ必ず失敗するのか? を論証し、エゴイズムを基本とする社会主義(しばしばcommunist-egoismと呼ばれる)だけがうまくいくということに、理論の基礎を置こうとした。いわゆる社会主義というものは、自由主義を少し熱くしたもの(warmed up liberalism)に過ぎないのであり、個人なんか無視する、というシュティルナーの指摘は厳しい。『自由主義(the liberal)は、だれを自分と平等な者として見ているのだろうか。それは人類(Man!)である。言い替えれば、個人としての人間を見ずに、種としての人類全体を見ているのである。』[前掲書、p.123]
 個人を無視する社会主義は、結局、国家資本主義に自らを委ねてしまうに違いない。この学派の社会主義者たちは、「社会」が個人から成り立っていること、働いたり、考えたり、愛したり、遊んだり、楽しんだりするのは個人であるということを忘れている。『そんな社会は少しもエゴではない。利益(benefit)を引き出すかもしれない手段や道具を与え、授与し、下賜するだけである。社会主義者はこの点について考えないのだ。なぜなら彼らは、自由主義者と同様、宗教的な原理に囚われているし、これまでの国家のような--神聖な社会--を熱狂的に求めているからである。』[前掲書、p.123]

 それでは、シュティルナーのエゴイストのビジョンは、社会的アナキストの思想に、どう合致するのであろうか。この関係を理解する鍵は、シュティルナーの「エゴイストの連合(union of egoists)」の思想、--現代社会を組織するもう一つの方法--にある。
 シュティルナーは、エゴイストがどんどん増えれば社会の争いが減少すると確信していた。そうなれば個人一人一人が、他者の唯一性(uniqueness)を認めるようになるからである。そうして、皆が協力するのに都合のよい環境が出来上がる。(すなわち、「万人の万人に対する闘争状態」からの「休戦」を見い出す)
 この「休戦」状態を、シュティルナーは「エゴイストの諸連合(unions of egoists)」と名付けた。「エゴイストの諸連合」は、第一に国家を廃止する手段であり、第二に国家の創造物である私有財産を破壊する手段である。なぜなら、「エゴイストの諸連合」は『個人の富を増大させ、奪われかけている財産を守るからである。』[前掲書、p.258]

 シュティルナーが望んだ連合(The union)は、自由な合意に基づく、構成員の相互利益から共に引き出された、任意で自発的な諸組織(associations)である。人々は『他者と連合することによって、自分たちの幸福を最も良く追求できるのである。』[前掲書、p.309] その連合は、国家とは異なり、 個人間の「交態(intercourse)」または「連合(union)」(とシュティルナーが呼ぶもの)を確実にするための存在なのである。
 国家に替わるこの組織の性格を説明するために、シュティルナーは友人・恋人・そして遊ぶ時の子供たちを例に上げる。この例は、個人の欲望充足(self-enjoyment)・喜び(pleasure)・自由(freedom)・個性(individuality)を最大にし、持っているものを何も犠牲にしないような関係は、どんな種類の関係なのかを描写したものだ。その組織は、平等な人々の間の相互関係と、自由で任意な協力に基づいているのである。シュティルナーは言う。『交態(intercourse)は相互関係である。それは相互の作用であり、 諸個人のthe commerciumである。』[前掲書、p.218] {訳注・・commerciumは辞書にない。造語らしい} そしてその目的は、喜びと欲望の充足である。

 (連合を)構成する個人の唯一性(uniquness)と自由を犠牲にしないためには、契約当事者は、相互にほぼ等しい交渉力を持たなければならない。そうでないと、エゴイストをやめて 力の強い他者に支配されようとする者が出てくるだろう。だからエゴイズム(自己利益)は、相互扶助(団結)へと導かれなければならない。「相互の尊重」と「社会的平等」に基づく合意に達するために、私たちは非ヒエラルキー的な関係を作るのである。もし、誰かを支配するなら、次は自分が支配される可能性が大きいのだ。ヒエラルキーと支配を排除すれば、エゴは他人の潜在性をフルに経験・活用することができるようになる。クロポトキンが「相互扶助論」で述べているように、「個人の自由」と「社会的協同」は矛盾しないばかりでなく、結び付くことによって「社会の個人全てにとって、最も生産的な状態」を創り出すのである。
 したがって、「エゴを制約するヒエラルキー」に対する反乱が、権力的社会関係; 特に「国家と私有財産に結び付く関係」の終結へと導かれるのは論理的必然である。国家や私有財産をなくし、相互協力・自由な組織・自主管理に基礎を置く諸連合(unions)に置き換える契機は、そういう関係を必要とする人々の自己利益の中にあるのだ。

 「エゴイストの連合(union of egoists)」の平等主義と全体論的性格を見れば、いわゆる資本主義の自由契約との共通点はほとんどないことがわかるであろう。資本主義企業のヒエラルキー構造では、個人の経験を友情や遊びになぞらえられるような組織などまず生み出さないし、平等も実現しない。シュティルナーによれば、「エゴイストの連合」の本質は、グループはメンバーに所有されるべきなのであって、グループがメンバーを所有するのではない、ということにある。それは、これらの「諸連合」(つまり、平等と参加に基づく連合)の組織がヒエラルキー的な形式ではなく、リバータリアン的な形式であることを示しているのである。
 「グループがどう機能するか」について何も言えない状態では(労働者がそれを愛するか辞めるかの選択権しか持たない状態、つまり賃金奴隷制では)、グループを所有しているとはほとんど言えないだろう。 したがってシュティルナーの「エゴイストの連合」を、(資本主義の)雇用・被雇用契約などと並べることはできないのである。その契約では、契約の結果、組織を所有することなどできないのだから。(そして、賃金と引替に自分の自由と時間を売渡し、労働時間中は自分自身をさえ所有できないのだ。 セクションB4参照)

 同じ理由で、資本主義の契約関係では、(アナルコ-資本主義式に) 「お互いに干渉しない」ということをがない。工場で労働者を放っておくボスはいないし、使ってない自分の土地を占拠する人(sqatter)を黙って見逃す地主もいない。
 シュティルナーは、私有財産のような狭い「財産」概念を否定し、財産の社会的性格を認めている。財産を使う人は、その「所有」を主張する人よりも、ずっと多くの人に影響を与えるのである。『私は、あなたの財産だからといって遠慮などしない。いつも自分の財産と同じように見なしている。私はどんな所有権も尊重しない。 あなたが私の財産だと思う物についても、どうぞ同じようにしてください! 』[前掲書、p.248] この見解は論理的に、労働者の自主管理と草の根コミュニティのコントロール思想へと繋がる。(詳しくはセクションIで論じる)  活気は人々に影響し、人々はそこから直接の利益をつかみ出すから、「私有」財産を「尊重」して他者から抑圧されたりしなくなるのである。

 ゆえに、シュティルナーの「エゴイストの連合(union of egoists)」は、「平等な人々の協同と、個人の自由な連合に基づく社会」を希求する「社会的アナキズム」と密接な関係があるのである。シュティルナーの「財産」についての中心的な考え方--「財産」はエゴによって使われる--は、社会的アナキズムの重要なコンセプトである。なぜならシュティルナーは、「ヒエラルキーが発達するのは、私たちが諸観念に振り回される時であり、私たちが組織を持つ時ではなく、組織が私たちを所有する時である」ということを強調しているからである。直接参加のアナキストコミュニティを構成するのは個人であり、個人は、(コミュニティが)自分たちの「財産」を残すようにし、自分たちでコントロールするようにしなければならない。 したがって、そのコントロールを確実にするような、反中央集権的な連合組織が重要なのである。自由(the free)や個人性(individuality)の完全な発展を保証するために、自由な社会はそのように組織されなければならないのであり、そうすることによって個人の活動と相互影響(interaction)から得られる喜びを最大にできるのである。ヒエラルキーから(個人を)守り、唯一的(unique)な個人間の協力的交態(intercourse)を楽しむためには、相互扶助と平等は、抽象的な倫理(abstract morality)ではなく、個人の利益(self-interest)に基づかなければならない、ということをシュティルナーは言っているのである。

 シュティルナーは、抽象概念や固定観念(亡霊;spooks)が、私たちの観念・自分自身に対する認識・そして自分の行動に、どれほど大きな影響を与えているかを、見事に論証した。ヒエラルキーの根は、私たち自身の心や私たち自身の世界観にあったのである。彼は、権力主義的で疎外された世界にあって、個人を守ることをパワフルに主張し、革命思想の中心に主観主義を据えた。シュティルナーは私たちに思い起こさせてくれたのである。自由な社会は全員の利益のうちになければならないということ、自由な社会は、個人の自己実現(self-fulfilment)・個人の解放(liberation)と個人の楽しみ(enjoyment)に基づかなければならない、ということを。

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