アナキズムFAQ

E.3 私有財産権は環境を保護できるのか?

 環境問題は過去数十年にわたり徐々に重大なものとなっている。マレイ=ブクチンが1950年代に生態系諸問題に関する最初の著書を書いたとき、彼は少数派の一人に過ぎなかった。今日、右翼政治家でさえも、少なくとも環境問題に関する懸念について何らかのリップサービスはしなければならなくなっている。大企業も一般大衆に対して自分達のグリーン証明書を示したがっている(実際に持っていなかったとしても)。

 このように大きな変化が起きている。1950年代と1960年代にブクチンのような人々が鳴らした警鐘が脅迫的で憂慮すべき程までに現実のものとなっていることを考えれば、遅くともやらないよりはましである。だが、残念ながら、エコアナキズムの解決策は今だに無視されている。ただ、こうした解決策は、生態系問題の核心に、つまり自然を支配する前提条件としての人間間の支配と資本主義経済の働きに、向かうため無視されるのも当然ではある。抑圧と搾取を実践し、そこから利益を得ている人々が諸問題を自分達が引き起こしていると認めることなどまずないのだ!だからこそ、根本的に反グリーンのシステムを継続させ続けるために、グリーンであるように見せなければならないのである。

 もちろん、右翼の中には、生態系に関わる諸争点に完全に反対している者もいる。そうした人々は、存続可能な生態系なしに資本主義などあり得ない、ということを本気で忘れているように思える。例えば、アイン=ランドは環境問題に関わる懸念は反人間だと拒絶し、大気中に煙を吐き出している工場の煙突をほとんど問題視していなかった(フロイトならば彼女の煙突と摩天楼好きをメモしていただろう)。ボブ=ブラックが以前書いていたように「ランドは自分が煙突を崇拝していたと書いていた。彼女にとって、煙突は人間の業績を象徴しているだけでなく、人間の業績の権化だった。彼女は本気だったはずだ。ある意味彼女自身が人間煙突だったのだから。彼女はチェーンスモーカーだった。取り巻きの合理主義者連中もそうだった。結局、彼女は自分の呼吸を根絶した。肺ガンで死んだのだ。」["Smokestack Lightning," Friendly Fire, p. 62] この資本主義の教祖の運命は、我々が環境と環境に対する我々の影響を無視すれば、集団としての我々がどのようになるのかを警告している。

 右翼の多くが何故生態系に関する懸念に否定的なのかを理解するための手がかりは、単に、生態学を個人主義的財産に基づく彼等の狭い政治に押し込むことができない、というだけのことにある。生態学は相関性に、変化と相互作用に、生の源泉とそれらと相互に影響し合う方法に関わる。それ以上に、生態学は生活のに根差し、量を重要な要因だと自動的に見なさない。このように、エコロジストは、多い方が良いという考えをそれ自体で良いことだとは見なさないのだ。成長はそれ自体で良いことだという考えはガンに関連する原理である。生態学は資本主義経済の個人主義的前提をも無効にする。市場は万人に欲しがるものを正確に確実に与えることができるということは神話なのだと暴露する−−君が生態系に優しい製品を消費し、他者が消費しないならば、環境に与える影響が万人に影響する以上、君は他者の決定に影響されるのだ。同様に、遺伝子組み替え作物に対する解決策は「市場」に決めさせるべきだという考えも、そうした作物が地元の生態系に拡散し、地域全土を汚染することを考慮に入れることができていない(共有地の一部を囲い込む企業の力という問題は言うまでもない)。この場合、市場の「解決策」は、結局はある程度まで、万人が遺伝子組み替え作物を消費することをもたらす。一つとして資本主義イデオロギーと合致できることなど何もないのだ。

 しかし、非合理的な反グリーンの観点をうるさく主張する声は右翼の一部(特に、最も深刻な公害源に資金提供されている人々)に残っているものの、それ以外の資本主義支持者はある程度まで生態系破壊の問題を検討するようになってきている。もちろん、その中には単なるグリーンウォッシュ(つまり、PRや広告を使ってグリーンを印象づけ、その一方で平常通りの仕事を行い続ける)もある。中には、グリーンのように聞こえる名称・イメージ・レトリックを使って全くの反生態学実践と基本方針の続行を促すために、シンクタンクに資金提供している企業もいる。ある程度まで、本物もいる。世界に気候変動の危険を意識させようとするアル=ゴアのキャンペーンは、明らかに誠実で重要な仕事である(ただ、2000年の大統領選挙キャンペーン中にはグリーン政策など全く掲げず、彼が提案した解決策と変革手段は貧弱だったことを指摘するのが公平であろう)。英国政府のために作成したニコラス=スターンによる2006年の気候変動報告書ももう一つの実例であり、こうした環境保護主義者のメンタリティを見抜く力を与えてくれる。この報告書は確かに大きな反響を生んだ(さらに、いつも環境破壊容疑者として名前が挙がる人や企業からは却下された)。その主たる理由は、疑いもなく、環境破壊の危険について金額の総計を示したことにあった。これこそ資本主義である−−人々と惑星は破滅しても構わないが、利益に対する脅威には行動を起こさねばならないのだ。当時の英国首相は次のように述べている。気候変動防止法がいかなるものであれ、「企業の利益とも消費者の利益とも完全に合致」しなければならない。我々が直面している諸問題の大部分を引き起こしているのが金の力であるのに、これは皮肉なものだ。

 これこそ、ここで論じていることである。つまり、私有財産が環境諸問題を解決するために利用できるのかどうか、である。自由主義の環境保護主義者達は、自分達の主張の基盤に、ある種の国家介入に援助された資本主義市場を置く。新自由主義と右翼「リバタリアン」環境保護主義者達は、その主張の基盤を純粋に資本主義市場に置き、私有財産権を明確にし強化することを除いて国家の役割を拒絶する。しかし、どちらも、資本主義は存続し続けるという前提を持ち、資本主義を中心として自分達の政策をしつらえている。アナキストは、セクションE.1で論じたように、資本主義がグリーンではあり得ない根本的理由はその非合理的「成長か死か」力学である以上、この特殊な前提を疑問視する。ただ、資本主義が生態系危機をすぐにでももたらす原因となるシステム上の側面は他にもある。これらは、私有とそれが生み出す市場競争の性質からもたらされる(強調しておかねばならないが、この論議には、セクションE.3.2で扱う経済力のような要因は度外視している)。

 市場それ自体は、二つの関連した理由から生態系諸問題を引き起こしている。外部性と価格メカニズムである。資本主義の下で詳細な情報に基づく消費を行うのは難しい。そうした決定を行うために充分な情報を提供するよりも、市場は関連情報の流れを妨害し、肝心な知識を覆い隠してしまうからだ。これは、環境に関する情報と知識については特に真実である。端的に言って、自分達が購入する製品の生態系に対する影響をその価格から知ることなどできないのだ。隠蔽された情報分野の一つには、外部性が関わっている。これは誰もが理解している問題である。市場は、社会に外部性を押し付けている企業に積極的に報酬を与える。これが「他者−−労働者・消費者・地域社会・環境−−に対して加えられる日常的・定期的な危害」である。これらが「経済学の冷淡な専門用語」では「外部性」と呼ばれ、資本主義企業は「外部化機構」であり、「世界の社会的・環境的病理の多くの根元に、大企業に本来備わっているコスト外部化衝動がある、と言っても過言ではない」。[Joel Bakan, The Corporation, p. 60 and p. 61]

 この論理は単純である。他者(労働者であれ、消費者であれ、この惑星であれ)にコストを外部化する(押し付ける)ことで、企業は自身のコストを減じ、大きな利益を上げることができる。従って、企業は外部性を生み出すことに既得権益を持つ。露骨に言えば、生態系が犠牲になっても公害は割に合う、というわけだ。企業が環境保護に金を費やす毎に、利益はその分減る。このように、環境をゴミ捨て場のように扱い、未処理の工業廃液を大気・川・海へ大量放出することでコストを外部化することは、経済的道理に適うのだ。このように行うことの社会的コストは、拡散した損害を一般大衆に押し付けることで得られる個人的利益に比べれば、ちっぽけな重みしかない。また、このプロセスで市場要因の圧力を軽視すべきでもない。市場で生き残るために、企業は、短期的に利益を上げながらも、長期的には有害なやり方で行動しなければならないかもしれない。例えば、家族経営の企業は、破産を回避するためだけに、環境的に受け入れられない手段を使って生産を向上させなければならなくなるかもしれない。

 外部性の創造は、経済的動機だけでなく、価格メカニズムそれ自体からも生じる。最初の重要問題は、グリーン経済学者のE=F=シューマッハーが強調していたように、市場が「質的差異を犠牲にした完全量化」に基づいていることである。「民間企業は何を生産するかにではなく、生産から何を得るのかに関わっているからだ。」つまり、「経済学の判断は、極度に断片的な判断なのである。現実生活で決定できるようになる前に理解し判断しておかねばならない多くの側面から、経済学はたった一つ−−あることがそれを請け負った人々に利益をもたらすかどうか−−だけを提供するのである。[Small is Beautiful, p. 215 and p. 28] これが過度に単純化した意志決定の観点をもたらす。

万物は、現実を何千とある側面の中から一つに−−一つだけに−−還元してしまえば、非常に明瞭になる。何をなすべきかが分かる−−利益を生むことなら何でも。何をしてはならないかが分かる−−利益を減じたり損害を与えることなら何でも。そして同時に、成功と失敗の度合いを計る完璧な物差しが存在することになる。特定の行動が富と社会の幸福をもたらすかどうか、それが道徳的・美的・文化的豊かさを導くかどうかなどと問うて、焦点を曇らせないようにせよ。ただそれが儲かるかどうかを調べよ。[前掲書, p. 215]

 つまり、意志決定における様々な重要要因は、良くても、利益を上げる喫緊の必要によって台無しにされ、悪い場合は、障害物として単に無視されてしまうのだ。従って、「市場においては、実際的理由で、人間と社会にとって不可欠な重要性を持つ数多くの質的差異が抑圧されてしまう。表面に出てくることを許されないのだ。従って、『市場』では量の支配が大勝利を祝っているのである。」これがコストを外部化させる動因を育む。これが「コストの定義に基づいている」からである。この定義は「全ての『自由財』、つまり、私的に着服されてきた部分を除いた神が与えたもうた全環境を除外している。つまり、ある活動は環境を台無しにしても経済的になり得、それと競合する活動が、何らかのコストをかけて環境を保護し保全するのであれば、非経済的になるのである。」要約すれば、「経済学の方法論には、自然界への人間の依存を無視することが、内在しているのだ。」[前掲書, p. 30 and p. 29]

 究極的に、我々の意志決定は単一基準に、つまり、それが誰かの利益になるかどうかに、限定されるべきなのだろうか?富の不平等を特徴とする経済での利益最大化と効率的な資源割り当てとを混乱し、その結果、不平等な意欲・支払能力に基づくシステムに我々の環境を手渡すべきなのだろうか?言い換えれば、生物多様性・生態系の安定性・清浄な水と空気などは、資本家がそれらから金をもうけるのに充分な価格を市場が付けた時にのみ、正当な社会目標となるのだ。こうしたシステムがグリーン社会を確立できるわけがない。生態系に対する懸念は一つの基準に還元できないからだ(「経済学の専門領域は、そうでなければ質的な事柄だと見なされるはずのものを、単一の測定基準−−いわば、決算が損か益か−−を使って量的問題に変換することで、その恐るべき分解能を獲得している。[James C. Scott, Seeing like a State, p. 346])。これが特に事実なのは、経済学者さえもが市場は公共財−−清浄で美的に心地よい環境はその典型例だ−−を不充分に供給すると認める時である。市場は、収入分布で歪められた個々の消費者の好みをある程度まで反映するかも知れないが、集団的価値を反映することは断じてあり得ない(清浄な環境と壮大な眺めは本質的に共同財であり、市場に入れられることはあり得ない)。その結果、資本家が、使用者全員にその恩恵に対して支払わせることができないような事業に投資することなどまずないだろう。

 そして、市場には、真に生態調和的な決定の基盤とならねばならない実践的知識・地元型知識を卑劣な手段で攻撃し破壊する傾向がある。例えば、原住民族集団は、地元の生態系諸条件と生物種について莫大な知識を蓄積してきたが、経済的表現の中で無視されたり、経済力を持つ人々との競争によって排除されたりしている。言い換えれば、土壌条件と生物多様性に関する明言されていない知識は、長期的な持続可能性にとって大きな価値を持っているのだが、市場の下では、特に農業関連ビジネスと接触すると、失われてしまうことが多いのだ。

 実践的知識−−つまりジェームス=C=スコットが民衆知(メティス)と呼んでいる局所的知識・暗黙知は破壊され、「中央から判読可能な標準化された公式によって」置き換えられ、これが「実質的に、国家と官僚的大規模資本主義双方の活動の中に刻み込まれる。」「この事業を動かす論理は統制と充当に関わる。局所的知識は、それが分散し、比較的自律的であるために、ほとんど充当できない。民衆知とそれに伴う局所管理を削減すること、もっと空想的に言えばそれらを排除することは、国家つまり行政秩序と国庫充当金という立場からも、大規模資本主義企業つまり労働者規律と利益という立場からも、前提条件なのだ。[前掲書, pp. 335-6] グリーン社会主義者ジョン=オニールも同様の分析をしている。

市場の普及は、実践的知識・局所的知識の存在を促すのではなく、全く逆のことを行うように思われる場合が多い。世界的市場の成長は、局所的知識・実践的知識の消滅と、抽象的で成文化可能な情報の増大と関連している。調整様式としての市場は抽象的で成文化可能な知識の形成を促しているように思える。農民や社会的に無視された原住民族コミュニティのような市場における弱く周縁的な行為者は、市場支配力を持つ人々に負けてしまうものだ。知識の認識価値はその市場価値と何ら直接的関係を持たない。土壌条件と作物品種に関する局所的で明言されないことも多い知識は、農業の長期的持続可能性にとって重要な価値を持つが、市場では何ら価値がなく、従って、市場支配力を実際に持っている人々の石油型テクノロジーと接触すると、常に敗北する傾向がある。また、市場経済における局所的実践知識の弱体化を激化させているのは、市場と大企業関係者双方が持つ地球規模の性質である。どちらも、文化と文脈を越えて変換可能な、従って、抽象的で成文化可能な知識を必要とする。最後に、通約性と計算可能性の要求が、局所的実践知識の防衛と衝突する。これは単なる理論的問題ではなく、現実の制度的具体化を伴う問題である。市場は計算可能性の精神を鼓舞する。この精神は実践的理性の演算的説明の出発点であり、合理的選択に対する明確な共通尺度を必要とし、実践的判断に基づく選択の存在を認めることができない。もっと一般的に言えば、実践的で局所的で成文化できない知識とは相容れないのである。[Markets, Deliberation and Environment, pp. 192-3]

 したがって、市場は、経営者と経営者が任命した専門家の手中に権力を集中させることで、伝統的農業実践・労働実践形態(そして、双方に関連する複雑な知識と専門技能)を、可能な限り短期的に利益を引き出すことを目的とする標準化されたテクニックに置き換えることが多い。市場が、入手可能な資源を持続可能なやり方で有効活用するために必要な局所的諸条件と実践的知識・技能を理解し始めることすらできないのは当然だ。残念ながら、大企業の経済的影響力は、短期的に伝統的知識を打ち負かすことができるほどなのである(こうした搾取が持つ長期的効果は、通常誰か他の人の問題だと見なされることが多いのだ)。

 だから、この分析を鑑みれば、私有財産は環境を保護しないということはアナキストにとって当然なのである。事実、これこそが現代の生態系諸問題の根本原因の一つなのだ。市場は、環境的に健全な意志決定に必要な生態系情報・健康情報を隠す。究極的に、環境保護諸問題はほとんど常に価値判断を伴い、市場はこうした価値観を論じ、豊潤にできる公的対話を生み出す可能性を止めてしまう。その代わり、今の世代の財産所有者に有利なようにねじ曲げられた(経済的圧力と必要性によって形成された)既存特恵群によってこのプロセスを置き換えている。個人の関心は、全体としての公衆の関心同様、使用される意志決定プロセスとは無関係に存在するのではなく、むしろ、そのプロセスに形成されるのである。単純主義的基準に焦点を当てた原子論的プロセスは、集団的に非合理的結果をもたらす単純主義的決定を生み出す。万人の平等参加に基づく集団的意志決定は、プロセスに影響される万人全ての関心を反映する決定を生み出す。これが、充分な情報に基づく意志決定だけでなく、社会的力を持ち教養ある個人を生み出す手助けとなるだろう。

 異論を唱える者もいる。こうした人々にとって、環境破壊が存在する理由は、私有財産が多すぎるからではなく、少なすぎるからである。この観点は新古典主義とそれに関連した経済理論から導き出されており、生態系損害が生じるのは環境的に良いことと悪いことに値段が付けられていないからだと主張する。言い換えれば、それらは無料だというわけだ。これが示唆しているのは、環境を保護する最善策は、全てを私有化し、生活の全領域に市場を作り出すことだ、ということである。言うまでもなく、この観点は標準的エコアナキズムの観点とは全く逆である。エコアナキズムは、現代の環境諸問題は、市場メカニズム・私有財産・それらが生み出す行動に根源を持つ、と主張する。このように、市場標準をもっと厳格に、それまで市場から守られていた生の領域へと適用することは、生態系諸問題を、改善するのではなく、悪くするだろう。

 予想できるだろうが、財産賛同型の見解は1970年代以降の自由(より自由な)市場資本主義への大きな転換に一役買っている。サッチャー主義とレーガン主義の明らかな成功(少なくとも資本主義下で重視されている人々、すなわち金持ちにとって)と東欧圏のスターリン主義の没落と共に、1980年代と1990年代には資本主義の大勝利期となった。このことが、考えられる全ての社会問題に対する市場型解決策−−それがどれほど不適切・非常識な示唆だったとしても−−の増加を導いた。これが生態系諸問題に対しても同様に適用されているのである。テリー=L=アンダーソンとドナルド=R=リールが1991年に著した「自由市場環境保護主義 Free Market Environmentalism」は、それまで非主流派の右翼「リバタリアン」と関連していた思想がさらに主流派に近づくようになり、企業利益によって、そして、注目すべきことだが、シンクタンクとシンクタンクに資金提供されている政治家によって、支持されていると見なしていた。

 現代の環境諸問題の根源を攻撃すべく社会的・政治的・経済的構造を変革しようとしている成長するエコロジー運動に対抗する意図的計画だとこれを見なす者もいる。活動家のサラ=ダイアモンドは、「先見の明を持つ企業の幾つかは、『反大企業』環境保護主義に対する最良の『防波堤』は、『自由市場環境保護主義』と呼ばれる代替モデルを作り、促進することだ、と考えている。」と示唆していた。["Free Market Environmentalism," Z Magazine, December 1991] いずれにせよ、市場に対するこうした信頼の最終結果は、環境保護議論を非政治化すること、そして、価値観を含み、多くの人々に影響を与える諸問題を、財産所有者に優先権が与えられ、意志決定の基準を損益に関わるものにするという問題へと変換することである。つまり、最終的には、何故生態系破壊が生じるのか、そして、それに対して我々が何をなすべきなのかという論議を終わらせ、資本主義の諸前提・諸制度・社会関係を当然のこととして受け入れ、同時に、世界のさらに多くを私有化し、資本家の手に渡すのである。自分達のグリーンイメージを心配している企業による代案としてとして、これが提案されているのは何ら驚くべきことではない。どう少なく見積もっても、自由市場環境保護主義を環境保護政策立案の代替パラダイムに据えている企業が、さらに多くの金を使ってそれを実行してコストを内部化するとは思えない。

 市場原理主義全般のように、私有財産型環境保護主義が解決策を提供しているように見えるのは、単に、実際の資本主義システムの現実を考慮できていないからに過ぎない。行わねばならないのは市場が機能できるようにすることだという考えは、私有市場の成果の中で福祉が優先されるということが理論的には主張されていても、現実の資本主義市場を見るとその主張は破綻しているという事実を無視している。一旦、例えば経済力・不完全競争・公益・外部性・非対称的情報を導入すると、市場はすぐさま意外な弱点を持つ神になってしまう。このセクションの残りの部分でこれについて探求する。次のセクションでは、自由放任資本主義がどうしてその最も熱烈なイデオローグの一人が証明しているような生態調和的になどなり得ないのか関する具体的事例を論じる。全般的に、アナキストは、私有財産が環境を保護できる見込みが少ない理由について充分な言い分があると感じているのである。

E.3.1 自然の私有化は自然を守るのだろうか?

 守らない。その理由を見るためには、現代の生態系諸問題に対してそうした解決策を主張している人々の論拠と前提を見るだけでよい。

 この惑星を私有化するという考えの背後にある論理は単純だ。現代の環境諸問題の多くは、前セクションで記したように、外部性から生じている。「市場擁護者」によれば、これは、所有されていない資源が存在することによる。何故なら、誰かがその資源を所有していれば、誰がそれを汚染しようと、何がそれを汚染しようと、訴訟を起こすからだ。私有財産と裁判によって公害は終わるだろう、というわけだ。同様に、絶滅危惧種や生態系が私有化されれば、新しい所有者はそれらを保護することに利害関係を持つことになる。例えば、旅行者がそれらを見ることに喜んで金を払ってくれるだろう。従って、環境諸問題に対する解決策は単純なのだ。全てを私有化し、自分の財産を大切にするように人々を自然に動機付ければ良いのである。

 この基本的レベルにおいてさえ、問題があるのは明らかだ。例えば、何故資本主義の所有権が唯一の所有権だと仮定するのだろうか?しかし、この問題の核心は充分ハッキリしている。この解決策が機能するのは、当該の「資源」が所有者に利益をもたらすことが前提とされているときだけであり、また、所有者が公害源を追跡して捕まえようとし、それが可能だった場合だけである。どちらの前提も充分堅牢ではなく、資本主義がこの惑星の環境に与えている負荷を支えることはできない。環境的に健全な実践が主流となるよう資本主義に保証させる自動的メカニズムなどない。実際、その逆の方が遙かに見込みが高いのだ。

 最も基本的なレベルで、根底にある論理的根拠が誤っている。この論は、環境に値段を付けて初めて、目的の異なる環境利用を比較できるようになる、と主張している。このことで、森林を保全することから得られる利益を、森林を伐採し、その後にショッピングセンターを建設することから得られる利益と比較できるようになるわけだ。しかし、これが意味する「利益」とは、単に、経済的利益、つまり財産所有者がそれを実行することで利益を得られるかどうかであって、生態学的に賢明かどうかではない。これは重要な違いである。湖を有害なゴミ捨て場にして多くの金を得られるのなら、論理的に考えて、その所有者はそのようにするだろう。同様に、材木の値段が一般収益や利率よりも上がらないなら、自己本位の企業はその利益を増加させようとして、できるだけ早く木を切り倒し、他のところへその収益を投資しようとするだろう。伐採された土地を他の企業に売り渡して開発させさえするかも知れない。私有財産権と環境保護が手に手を取って進むという主張はこれによって土台が壊れるのである。

 グレン=アルブレヒトが論じているように、環境諸問題に対するこうした資本主義「解決策」は「商業的に重要な種(や生態系)を保護する上で効果的になり得るが、それは、その種(や生態系)の商業的価値が、その種が生息している同じ『自然資本』が生み出しうる他の潜在的収入源の商業的価値を上回っている場合だけである。例えば、エコツーリズムのために種を保全することが、その生息地を換金作物を育成するために利用した場合に得ることができる収入よりも大きな収入を生み出すなら、この生息地の所有者が持つ私有財産権は、こうした種を効果的に保護することになろう。しかし、このモデルは、稀少だが商業的に重要ではない種(や生態系)と、それらの存続とは相容れない非常に大規模な開発計画とが対立すると、徐々にもっともらしくなくなる。その種が人を引き付ける魅力がなくなるにつれ、生態系の『魅力がなくなる』につれ、開発計画が進展する可能性が高くなる。最終的には開発者の『権利』が種や生態系に勝つだろう。生物多様性それ自体には何ら生存権がなく、あったとしても、絶滅危惧種と多国籍資本との権利の衝突は非常に不公平な争いになってしまうからだ。」["Ethics, Anarchy and Sustainable Development", pp. 95-118, Anarchist Studies, vol. 2, no. 2, pp. 104-5]

 従って、絶滅危惧種や生態系の保全は市場を通じて自動的に確立されはしない。当該の種や生態系に経済的価値がほとんどない場合、特にこれは真実である。希少種の生息地として土地の一部を維持してもそこからは限られた利益しかない場合、これは最も顕著になる。この土地について別種の経済的使用方法がより大きな利益を生み出すなら、この土地は開発されてしまうだろう。さらに、種が商品としての経済的価値を失えば、この財産所有者はその種が生きているかどうかには無頓着になるだろう。価格は変化する。だから、今日ある投資が道理に適っていても、明日にはそれほど良いものには見えなくなるかも知れない。従って、ある資源の市価が減少すれば、生態学的利益がその経済的利益よりも重要になることなどあり得なくなる。結局のところ、特定の生態系や種が大きな生態学的重要性を持っているかどうかとは無関係に、その所有者は環境的懸念よりも短期的利益を優先させる見込みが高いのだ。利益志向型の企業と個人が環境を保護するための損失を引き受けようとする意欲に頼っている以上、私有型の体制下では絶滅が危惧される生態系と種が失われてしまうのは当然である。

 全般的に見て、市場型環境保護主義の擁護者達は、全ての植物・動物・生態系が、例えば魚がそうであるのと同じやり方で、価値ある商品だという主張を提示しなければならない。市場型環境保護主義の主張は、魚には市価があり、従って、湖・川・海の所有者は魚を市場で売るために水を綺麗にし続ける動機を持つことになる、というものである。だが、全ての種と生息地に同じことが言えるわけではない。単純に言って、生態学的価値を持つ全ての生物・植物・生態系が経済的価値を同じように持つことにはならないだろう。

 それ以上に、市場は、追求されるべき環境政策について混乱したメッセージを発信することがあり得る。これが一部の領域への過剰な投資を導き、不況をもたらしかねない。例えば、再利用商品の需要を高めることは投資ブームを刺激するかもしれない。そして、過剰供給を導き、供給増加のために価格が下落して、工場閉鎖を伴う破綻を導くかも知れない。そして、再利用は、それが生態学的に必須であり続けていても、経済的に発展できなくなってしまうだろう。さらに、市価が、生態学的に「正しい」需要水準について正確なメッセージを提供することはほとんどない。市価は、所得水準に束縛され、人々が受けている経済的圧力を反映するからだ。金融保証と所得水準が重要な役割を果たす。市場では、全ての投票が平等だというわけではないからである。この枠組みの中で貧者は富者よりも環境問題に価値をおいていないように見えかねない。これは、単に、(市場において表明される)貧者の優先傾向は、少ない家計によって限定されているからに過ぎない。市場による環境的な善悪の配分は、この明白な事実を反映していないのだ。

 究極的に、市場需要は、特定商品を変化させることに関する潜在需要がなくとも、変えることができる。例えば、1970年代以来、大部分の米国人の実質賃金は停滞しているが、不平等は急増している。その結果、休日に原生自然環境保全地域へ行ったり、生態系に優しい高価な製品を購入したりできる家庭は少なくなっている。これは、そこに関わる人々が、単に収入の範囲内でやりくりすることが難しくなったため、今では環境に重きを置かなくなったことを示しているのではないだろうか?同様に、生活水準の下落によって、人々が環境的に危険な結果を伴う仕事を行わねばなくなったとすれば、これは本当に人々の願望の正確な像だと言えるのだろうか?特定の環境に良いことを求める需要が下落しているのは環境破壊の減少が人々にとって価値がなくなってきているからだ、と仮定するなど、(市場における)大きな盲信である。経済的必要性は、人々を、自然の価値を強く感じていたとしても、自分の最良の衝動に反して行動するよう強いる可能性がある(明らかな例として、不況の際に、人々は、自分が働かねばならないというだけで、温室効果ガス排出を我慢しようとするかもしれないのだ)。

 また、生態系に関わる意志決定で関連要因全てが商品の形態を取り得る、つまり値札を付けられると断言できもしない。つまり、現実に、市価は人々の環境に対する価値観を実際には反映していないのだ。環境が持つ多くの側面には絶対に市価を与えられない(美しい風景を見ることについて料金を請求できるだろうか?)。となると、代価請求方法の問題となるが、それは、例えば、熱帯雨林や原生地帯が存在し、保護されていることを知りたいと思ってはいるものの、同時にそこを訪れることのない人の需要を反映するのだろうか?また、現在の支払意志を反映している価値は、将来の世代を配慮していることなどなく、長期的福祉や生存についてさえも矛盾してしまうかも知れない。さらに、人命の保護や延命に対して清浄な環境が持つ影響をどのように計算に入れるのか?確かに、健全な環境は、収入と医療費を失う程度のことよりも遙かに価値があるのだから、清掃活動は残っているのだろうか?せいぜい、危険を伴う仕事をしている労働者の割増賃金がこれを反映すると想定することで、計算に入れることができる程度だろう。だが、人間生活は、労働者を危険な労働条件に引き付けるために必要な賃金以上に、間違いなく価値がある。賃金は、労働者が率先して我慢できる環境上の危険水準を計る客観的尺度ではない。賃金は全般的な経済状態・階級権力バランス・その他の多くの要因に影響されるからだ。単純に言って、失業の恐怖と経済的安定が、労働者が、高いレベルの環境上の危険に自分自身や自分のコミュニティをさらす仕事に我慢できるように保証しているのである。

 経済的必要が、いわゆる「自由」市場での決定を後押しする(綺麗な空気や水と、就職との選択を考えれば、生きるためにそうしなければならないが故に、多くの人々は後者を選択する)。こうした要因はただただ無視されるだけだ。つまり、環境的価値は商品のように扱うことができないし、市価は正確に環境的価値を反映できない。覚えておかねばならない重要なことは、市場は需要を満たすのではなく、効果的需要(つまり、金で裏付けられた需要)を満たす、ということである。しかし、人々は、市場に何ら効果的需要がない(その可能性もない)としても、絶滅危惧種と生態系を保護して欲しいと思っている。この重要な主題については、次のセクションで再度論じる。

 そして、自然の私有化の実効性という問題がある。例えば、海をどのようにして「私有」するのだろうか?保全目的で鯨と鮫をどのように「私有」するのだろうか?捕鯨船が「自分の」鯨を殺したかどうかを、どのように分かるのだろうか?「君の」鮫が「私の」魚を食べたならどうなるのだろうか?まず最初に、こうした資源を誰から買うのだろうか?犯罪を評定し、審理し、損害賠償を定義するためにどのような裁判所を作らねばならないのだろうか?そして、裁判所で私有権を定義し執行する際の費用がある。つまり、個々のケースバイケースで費用が追加され、処理費用が増えることになる。言うまでもなく、こうした訴訟は当事者双方が利用できる資金に影響されることになる。さらに、司法は、大抵の場合、国家の中で最低限の説明責任しか持たず、誰かを代表しているわけでもない部門である。従って、環境保護政策の決定を司法に委ねたところで、民衆の関心事が全ての決定の中で最も重要だとされるとは限らない(陪審員はこうした訴訟で大企業に対する相当量の損害に見返りを与えることが多く、大企業は十二分にこの要因を意識しているため、こうした手段は陪審裁判を台無しにすることにもなる)。

 これは、特定企業の一部が特定個人とその財産に具体的な害を与えていることを実際に証明するという問題をもたらす。通常、大気汚染をしているのは複数の企業であり、特定企業の法的責任を法的に立証するのは、不可能ではないにせよ、難しい。どのようにして、どの公害源が自分の肺と庭に損害を与えているスモッグを引き起こしているのかを特定するのだろうか?一つの企業なのだろうか?幾つかの企業なのだろうか?全ての企業なのだろうか?それとも交通機関なのだろうか?その場合、最終的に癌を引き起こすのは特定の自動車なのだろうか、特定の利用方法なのだろうか?それとも、全ての自動車使用者なのだろうか?そもそもこんな危険な製品を製造しているメーカーなのだろうか?

 言うまでもなく、この可能性ですら現在の世代に限定されている。公害は将来の世代をも苦しめる。裁判で将来の世代の利益を反映することはできない。「未来の損害」は問題ではなく、現在の損害だけが重視されるからである。また、人間以外の種や生態系も損害について告訴することはできない。その所有者だけができる。上記したように、所有者は告訴よりも公害に耐える方が(もしくは公害を促す方が)もっと利益を上げられると思うかも知れない。直接損害を受けていないという理由で非所有者が告訴できないことを考えれば、この惑星の運命は、財産所有階級の手にあることになり、従って、大多数の人々は、金で買うことができる範囲を超えて自分達の環境に対して発言する権利を効果的に剥奪されてしまう。生態系に関する懸念を金に変換することで、少数の金持ちによる独占が確保されるのである。

つまり、環境は、その他の全てが市場経済内部で価値を割り振られているのと同じやり方で、「価値付け」られるものだと仮定されているのだ。
だが、環境を構成する諸要素の大部分に「客観的」価値をおくことはできない(群を抜いて優れている主観的要因−−つまり生活の質−−に影響を与えるから)という事実は別としても、示されている解決策は、環境それ自体へ自由市場経済移行プロセスが拡大するということである。言い換えれば、市価を環境へ割り振ることを暗示しているのだ。そのことで、環境に対する成長効果が「内部化」される。このプロセスの結果は容易く予測できる。環境は、市場経済を管理する経済的エリートの統制下に置かれる(この場合、実際の市価が環境に割り振られる)か、国家の統制下に置かれる(この場合、帰属価値だけが可能となる)かすることになる。どちらの場合でも、生態系損害が止まることは−−少なくとも−−疑わしいだけでなく、自然を支配しようとしているエリートによる自然の統制が永続化するのである。[Takis Fotopoulous, "Development or Democracy?", pp. 57-92, Society and Nature, No. 7, pp. 79-80]

 環境的諸問題に関して私有財産を利用することに伴うもう一つの重要な問題は、それがほとんどいつも事後反応型であって、事前行動型ではない、ということである。従って、法的訴えが取られる前に公害が起こっていなければならないのだ。厳格責任は、一般に、認められた損害に対する事後の賠償を規定しているからである。誰かが損害を上手く告訴しても、受け取った金が個々人や種や生態系に置き換わることなどあり得ない。良くても、告訴されるという脅威が環境破壊活動を止めるだろうと主張できる程度であるが、これが上手くいった証拠はほとんどない。ある企業が、法的訴えにより被る損害は、もたらされる潜在的利益よりも少ない、と結論付けたなら、その企業は法的訴えの可能性を容認するであろう(特に、潜在的被害者が告訴する時間も告訴にかかる費用も持っていないと企業が感じた場合には)。この種の決定で最も悪名が高いのは、ゼネラル=モータースが行った決定だった。GMはマリブという車を設計した。この企業は、裁判所が裁定する車毎の損害賠償額は、この車が何らかの衝突の際に確実に爆発しないように保証するコストよりも少ないと推計し、設計を変更するよりも人々が燃料火災の中で死ぬことを容認した。GMには不幸なことだが、陪審員は恐怖に襲われたのだった(抗告審判では、損害賠償額は大幅に少なくなった)。[Joel Bakan, The Corporation, pp. 61-5]

 これが意味しているのは、利益の最大化を求めている企業は安全コストを削減する動機を持つ、ということである。これは、削減を実行するだけの価値があるほどリスクが充分低く、生み出される利益が裁判費用と課せられる損害賠償費用を補って余りあるという前提に基づいている。エコアナキストのデヴィッド=ワトソンは、プルードーエ湾油田災害に関して次のように記していた。「エクソンとそのお仲間が、環境と健康を守るためにベストを尽くそうとしなかったのは言うまでもない。資本主義諸制度は、社会善ではなく権力と富の蓄積を生み出す。予測できることだが、コストを削減するために、エクソンは一貫して1980年代を通じて行っていた緊急安全措置を廃止した。原油流出はほとんど起こり得ないことを示した環境研究を指摘しながら、対策は不要であると示した。そして、必然が音を立てて崩れると、完全な無能と怠慢で対処したのだ。」[Against the Megamachine, p. 57] このように、強調してもし過ぎることはないが、企業が何か違った態度で振る舞うようになる(もし、そのようにするときの)唯一の理由は、外部の扇動者−−企業の利益についてよりも、この惑星と民衆を理解し、気遣っている人々−−が最終的に企業にそのように強いるからなのだ。

 これらのことを鑑みると、自然を私有化することが環境諸問題を減じるという保証はないことが明らかである。実際、逆の結果をもたらす可能性の方が高い。自然の私有化を擁護している人々でさえも、自分達の解決策は現在の国家規制システムよりも多くの公害を生み出す可能性がある、と示唆している。テリー=L=アンダーソンとドナルド=R=リールは次のように述べている。

公害を出している人々が水を無料で使っているために、市場が「余りにも少ない」清浄水を生み出しているとすれば、政治的解決策も同様に、水の利益を享受している人々が代償を払わないために、「余りにも多くの」清浄水を生み出すことになろう。公害の外部性が非常に多くの汚れた空気を生み出す可能性があるのと同様、政治的外部性は非常に多くの貯水・皆伐地・原生自然・高い水質を生み出しうる。自由市場環境保護主義は、適正量の資源利用を決定する際の市場プロセスの重要性を強調する。[Free Market Environmentalism, p. 23]

 いかなる種類の環境保護主義が、「余りにも多くの」綺麗な空気と水の可能性を考えているというのだろうか?皮肉なことに、自由市場「環境保護主義」の見解からすれば、非経済的目標と優先順位の影響の結果として生態系のある種の特徴が過剰に保護されうる、というのだ。このモデルを提案しているのが、企業に資金提供された多くのシンクタンクだということを考えれば、恐らく、そのスポンサーは、「余りにも多くの」綺麗な空気と水があり、「余りにも多くの」原生自然があり、「余りにも多くの」環境財があると考えているようだ。つまり、「適正」レベルの公害が、現在は、余りにも少ない、というわけだ。だが、企業が、さらに多くの外部性を内部化することで生産コストを増加させようとするなど疑わしい。

 同様に確信できるが、「余りにも多くの」公害は、「水を汚している企業が、余りにも多くの金がかかるため自分達が作り出した汚れを片付けることができない場所にあるのだ。そこには次のような判断が伴う。企業に対するコストは地域に対するコストとどういうわけか同義なのだから、企業へのコストは地域に対する利益に反して評価することができる。」こうした尺度は「環境の質に対する最高次の意志決定権限を現在生産決定を行っている人々に与える。市場システムは支払い能力を最も持っている人々に権力を与える。企業は、市民や環境保護主義者とは違い、汚染するか(そして、汚染するために課徴金を支払ったり、信用取引をしたりするか)どうかについて選択肢を持つことになる。」[Sharon Beder, Global Spin, p. 104]

 「余りにも多くの」綺麗な環境というシュールな概念こそがこのアプローチのもう一つの重要問題を示している。つまり、必要と需要を有効需要と混乱しているのだ。事実はと言えば、人々は綺麗な環境を望んでいるが、市場でそれに金を払うことができないかも知れない。同様に、単に買うことができないが故に、人々が飢餓で死にそうでありながら、「余りにも多くの」食べ物があるということがあり得る(食物に対する有効需要はないが、明らかに切迫した必要はあるのだ)。ほぼ同じことが環境財にも言い得る。ある資源に対する需要が今日ないからといって、それが個々人によって重きを置かれていないわけでも、将来も価値がないというわけでもない。しかし、市場が生み出す短期的焦点においては、こうした財はとっくに無くなり、もっと利益を上げる投資によって置き換えられてしまう。

 根底にある前提は、綺麗な環境は贅沢だ、というものである。従って、これは人間として我々が持つ権利というよりも、財産所有者から買わねばならないものだとされる。よしんば自己所有という誤った概念−−資本主義の擁護者がそのシステムを正当化しようとする際の原則−−を前提にしたとしても、この原則は、自分の肉体に対する所有権が他者の行為によって害されることを全く許していないはずである。言い換えれば、綺麗な環境は万人の基本的権利にならねばならないのだ。環境の私有化は、生態学の基本的洞察に直接反している。

 国家の環境記録はこれまでずっと酷いものである場合が多かった。特に、その官僚が、環境政策を作り、実施する際に民間利益団体に影響を受けてきたからである。国家は、環境保護集団や一般的な地域社会さえもより、資本家の利益に「捕らわれ」ることがはるかに多い。それ以上に、その官僚は特定プロジェクトのコストと利益を重視しようとすることが余りにも多すぎるのである。このようにすることで、地元の人々が何を望んでいるかとか、環境に対して実際にどのような影響があるかとは無関係に、現実に求められた計画が確実に前進できるようになる。こうしたプロジェクトは、言うまでもなく、ほとんどいつも、それらの背後に強力な経済的利益があり、経済成長を促す「開発」の追求を保証しようとする。驚くべきことではない。「市場擁護者」が行うように、国家の役人は自身の利益を推し進めようとすると仮定すれば、最も経済的な富を持つ階級は、これを最もこれをうまく行うことができる見込みが高いのだ。従って、国家が最も私有財産を持つ人々の利益を反映し、それほど財産を持たない人々を無視することは、当然なのである。

 しかし、国家は、一般民衆からの社会的圧力や環境劣化の現実に免疫がないわけではない。これは、企業PR・ロビー活動・規模の大きな産業へのシンクタンクの増加という国家独自のやり方で証明されている。市場の支持者たちは消費者の需要に直面して変化する能力を強調しているが、その代案に関する見解は極度に固定的で限定的である。当然、彼らは、代替社会組織の可能性を考えることができない。さらに、民衆闘争が直接行動を使って国家に影響を与えることができる、ということに言及することもできない。彼らにとって、国家の役人は、民衆からの圧力と社会闘争とは(この件に関しては、企業のロビー活動の影響とも)無関係に、常に自分達の私的利益を追求する。国家が特定の利益と政策を望ましいとすることはあり得るが、だからといって、より幅広い利益や政策を考慮するよう一般大衆が国家に強制できないわけではない(もちろん、国家を廃絶できる時期が来るまで)。

 セクションD.1.5で論じたように、一般大衆が国家に圧力をかけることができるという事実こそが、まさしく、ある種の二次的国家機能が企業と金持ちによる攻撃(この仕事に論理的根拠を与えてくれるのが、企業と金持ちから充分に資金提供されたシンクタンクである)にさらされ続けている理由である。これが全面的に事実だとすれば(事実なのだが)、自然を私有化して国家という仲介者を排除することが問題を改善すると期待できるのだろうか?自身により多くのコストをもたらし、貴重な天然資源の入手を難しくする政策に大企業が資金提供することなどまずない以上、それ自体の論理により、自然を私有化することがよりよい環境をもたらすことはあり得ない。自由市場環境保護主義が、生態系諸問題に対する経済的解決策を前提とし、経済主体は自身の利益を最大にするようなやり方で行動すると仮定している以上、その擁護者にはこうした明白な帰結が自然に思い浮かぶはずはずだ。だが、どういうわけだか、思い浮かばないのである。

 究極的に、自然の私有化は、綺麗な環境は権利というよりも我々が買わねばならない特権である、というバカげた考えに依拠している。「自由市場環境保護主義」の下で、私有財産は基本的権利だと仮定されているが、綺麗で持続可能な環境に対する権利はない。つまり、財産所有者の利益が最も重要な要素だと見なされ、残りの人々には財産所有者に特定の環境財を要求する可能性が残っているだけである。そのようにすることで利益が上がるなら、財産所有者は環境財を供給してくれるだろう。こうした優先順位付けとカテゴリー化は決して自明のことでも、議論の余地がないものでもない。綺麗で住み易い環境に対する権利は、確実に、財産に関わる権利よりももっと基本的なのではないだろうか?これを前提とするならば、公害や土壌腐食などの低減は、我々が支払うべき財ではなく、我々が有する権利なのである。つまり、種と生態系を保護すると共に、避けることのできる死と病気を予防することは、絶対に市場に勝る基本的問題なのだ。自然と人間に値札を付けるよう求めるなど、良くて無意味、悪くて下劣である。それは、その人がこうしたことが重要な理由を分かっていないのだ、ということを示している。

 だが、何も驚くことはない。結局、十全なる人間生活に必要な、土地などの資源の利用権は購入されねばならない、これが私有財産の基盤となっている考えだ。いったい、綺麗な環境と健康な肉体とは何か違うのか?ここでまたしても、派生した権利(つまり、私有財産)が必須の基本的権利(つまり、本来であれば汚染による損害を自動的に排除すべき自己所有権)に勝利しているのが分かる。このことが余りにも繰り返し起こっているからといって、そこまで大げさに驚くことはない。この理論は、財産所有者が労働者の労働の果実を横領することを正当化するように作られているのだから(セクションB.4.2を参照)。現在、綺麗な環境を求める個々人の権利を横領するためにこの理論が利用され、生得権を個々人から奪うさらにもう一つの手段に転化しているのだから、驚くことはないのである。

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