アナキズムFAQ


D.7 アナキストは民族解放闘争に反対しているのか?

アナキストはナショナリズムに敵対している(前セクションを参照)からといって、民族解放闘争に対して無関心なわけではない。全く逆である。バクーニンの言葉を引用しよう。『私は、自分があらゆる抑圧された祖国の愛国者だと常に感じている。(中略)ナショナリティは(中略)歴史的で地方的な事実である。それは、全ての現実的で無害な事実同様に、一般的承認を主張する権利を有している。(中略)あらゆる民族は、全ての個人同様に、選択の余地無く、あるがままに存在している。だからこそ、ありのままでいる権利を持っているのだ。(中略)ナショナリティは原理ではない。丁度個性がそうであるように、正当な事実である。全てのナショナリティは、規模が大きかろうと小さかろうと、ありのままで存在し、それ自体の性質に従って生活する議論の余地のない権利を有している。この権利は、全く、自由という一般原理の必然的結果なのである。』(アルフレド=M=ボナーノ著、アナキズムと民族解放闘争、19ページ〜20ページの引用)

近年では、マレイ=ブクチンが同様の意見を表明している。『いかなる左翼リバータリアンであろうとも(中略)征服された民族がそれ自体の自律的団体−−それが(リバータリアン)連邦であろうと(中略)ヒエラルキーと階級不平等に基づいた国民国家であろうと−−を設立する権利に反対できはしない。』(『ナショナリズムと「民族問題」』、31ページ、社会と自然、第5号、8ページ〜36ページ)そうだったとしても、アナキストが、民族解放という思想を、レーニン主義に影響された左翼の多くが20世紀に行ったように、思慮の無い信念表明にまでエスカレートさせることはない。『任意の「民族解放」運動がどのような種類の社会を生み出す傾向を持っているのか』についてまず第一に探求することなく、抑圧された民族に対する支持を呼びかけることなどしないのである。ブクチンが指摘しているように、このように行うことは、『帝国主義を「弱める」ための単なる手段として、民族解放闘争を道具的目的のために支持する』ことになろう。これは、『道徳的破綻の一条件』を導く(前掲書、25ページ〜31ページ)。丁度、社会主義思想が、「解放された」諸ネーションにおける「反帝国主義」独裁という権威主義で国家主義の目標に結びついたように。『しかし、抑圧者に敵対することは、かつては植民地化されていた国民国家が現在行っていること全てを支持するように呼びかけることと同義ではないのだ。』(前掲書、31ページ)

従って、アナキストは外国の弾圧に反対し、それを終わらせようと苦悩している人々が企図する計画に対しては大抵同情的である。だからといって、民族解放運動それ自体を我々が必ず支援するというわけではない(結局、その運動は新しい国家を創り出すことが多いのだ)。手を出さずに、ある国が他の国を抑圧しているのを見ていることなど我々にはできないし、だからこそ、その抑圧を止めようと行動するのである(例えば、抑圧している国に対して抗議し、その政策を変えさせ、抑圧された国の問題から手を引くようにさせようとするのである)。

民族解放闘争が持つ主たる問題は、それが、通常、「民族」の共通利益を、抑圧者のそれに対置している一方で、階級は無関係だと仮定しているところにある。ナショナリスト運動は階級横断的である場合が多いにもかかわらず、社会の一部の自律を増大させようとしながら、他の部分の自律は無視している。アナキストにとって、新しい民族国家ができたからといって、大部分の人々の生活に何ら根本的変化をもたらしはしない。大部分の人々は、経済的にも社会的にも権力を持っていないままなのだから。世界を見渡せば、既存のあらゆる国民国家において、労働者階級民衆が「民族的に」自由だったとしても、なおもその自己決定を制限されているために、権力・影響力・富という点で同様の格差が見られている。ナショナリストの指導者が、帝国主義からの民族解放について語りながら、資本主義国民国家の創造を擁護しているなど、偽善ではないか。資本主義国民国家は、その人民に対して抑圧的であり、多分、ある点まで発展するにつれ、最終的には、それ自体で帝国主義的になるであろう。経済成長を継続し、ふさわしい利益レベルを実現するために、その産物と資本を外国の販路に求めなければならないからである(これは、例えば、韓国で現在生じている)。

民族解放闘争に対して、アナキストは、労働者階級の自己解放を強調する。これは、自分達自身の組織を創造し、その組織を動かすというそのメンバー自身の努力によって初めて確立できる。このプロセスにおいて、政治的・社会的・経済的諸目標の分離などあり得ない。帝国主義に対する闘争を、資本主義に対する闘争と切り離すことなどできはしない。これが、外国の支配に直面したときに、全てではないにせよ、大部分のアナキスト運動が取るアプローチである−−外国の支配に対する闘争と、自国の抑圧者に対する階級闘争とを組み合わせるのだ。多くの国々(例えば、ブルガリア・メキシコ・キューバ・韓国)で、アナキストは、『自身のプロパガンダ、特に行動』によって、『政治的独立を求めた闘争を、社会革命を求めた闘争に転じるよう大衆に働きかけ(ようと)』してきた(サム=ドルゴフ著、キューバ革命−−批判的見解、41ページ、ドルゴフはこの著書でキューバの運動について言及しているが、彼のコメントは大部分の歴史的−−そして現在の−−情況に当てはめることができる)。

それ以上に、帝国主義諸国にいるアナキストも、言論と行為によって国内の弾圧に対抗してきたことを指摘せねばなるまい。例えば、傑出した日本のアナキストである幸徳秋水は、日本の拡張政策に反対するキャンペーンを行った後、1910年に無実の罪を着せられ、処刑された。イタリアのアナキスト運動は、1880年代と1890年代にエリトリアとエチオピアへのイタリアの拡張政策に反対し、リビアへの1911年の侵攻に反対して莫大な反戦運動を組織していた。1909年に、スペインのアナキストはモロッコへの介入に反対して大規模なストライキを組織した。近年では、1950年代後期にフランスのアナキストが二つの植民地戦争(インドシナとアルジェリア)に反対して闘争し、1960年代初頭に世界中のアナキストがラテンアメリカとベトナムに対する米国の侵略に反対し(記しておかねばならないが、キューバとベトナムのスターリン主義政権を支持することはなかった)、ソヴィエトの帝国主義に反対するだけでなく、湾岸戦争にも反対していた(このときには、大部分のアナキストが「階級戦争以外の戦争は止めろ」というコールをあげていた)。

現実には、民族解放運動は矛盾に満ちている。それは、なされた進歩に対する一般人の考え方(そして、その希望と夢)と、支配階級メンバーやリーダーの願望との矛盾である。指導部は常にこの葛藤を未来の支配階級の利益になるように解決するものだ。たいていの場合、こうした闘争のメンバー個々人がこのことを実感し、こうした政治を離れてアナキズムに向かうことは可能である。しかし、大規模な闘争が起これば、この矛盾がはっきりと分かるようになり、この段階で、もし自分達の関心事を扱う代案が存在すれば、多くの人々がナショナリズムから決裂できる。アナキストが自分の理想を妥協させない場合には、外国の支配に対するこうした運動は、我々の政治・理想・思想を蔓延させる−−そして、ナショナリズムそれ自体の限界と危険を暴き出し、実行可能な代替案を提起する−−絶好の機会になり得るのである。

アナキストにとって鍵となる問題は、自由は「ネーション」のような抽象概念のためにあるのか、それとも、ナショナリティを創り出しそれに生命を与えている個々人のためにあるのか、である。労働者階級の人々が自由の果実を手に入れるために、抑圧に対して、国内でも国外でも、あらゆる戦線で戦わねばならない。ナショナリズムを基盤としたいかなる民族解放闘争も、人間的自由を拡張するための運動としては初めから失敗している。従って、アナキストは『民族解放戦線に参加することを拒否する。アナキストは階級戦線に参加するのである。この階級戦線は民族解放闘争に参加するかも知れないし、参加しないかも知れない。この闘争は、連合主義でリバータリアンの組織に基づいて、解放されたテリトリーにおける経済的・政治的・社会的諸構造を確立するために広めねばならないのだ。』(アルフレッド=M=ボナーノ著、アナキズムと民族解放闘争、12ページ)

従って、アナキストはナショナリズムの正体を暴く一方で、ナショナリズムが流用しているアイデンティティと自主管理を求めた根元的闘争を侮蔑しはしない。我々は、直接行動と、あらゆる形態の抑圧−−社会的・経済的・政治的・人種的・性的・宗教的・民族的−−に対する叛逆の魂を促す。この方法によって、民族解放闘争を人間解放闘争に転じようとしているのだ。そして、抑圧と戦いながら、アナーキー、仕事場と地域集会に基づいた自由コミューン連邦を求めて戦うのである。連邦は、国民国家、あらゆる国民国家を、それが属している歴史のゴミ箱に放り込むであろう。

アナキスト社会内部での「民族的」アイデンティティに関する限り、我々の立場は明確で単純である。バクーニンが全世紀のポーランドの民族解放闘争について述べているように、アナキストは『あらゆる国家の敵対者』として、『歴史的だと見なされている権利や国境とを拒絶する。我々にとって、労働者大衆が存在し、ポーランド人になりたいと思っている場所にこそ、ポーランドが始まり、真に存在する。そして、ポーランドとの特定の繋がり全てを放棄しながら、大衆が他の民族的繋がりを確立したいと願っている場所で、ポーランドは終わるのである。』(ジーン=キャロライン=カーム著、社会主義とナショナリズム、第1巻、22ページ〜49ページの「バクーニン」43ページにて引用)

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