アナキズムFAQ

5. ボルシェヴィキはソヴィエト権力を本当に目的にしていたのか?

 現代のレーニン主義者にとってボルシェヴィキが「ソヴィエト権力」を支持していたことは自明の理であるかのようだ。例えば、レーニン主義者は、ボルシェヴィキが1917年に「全ての権力を諸ソヴィエトへ」というスローガンを使っていたことをその証拠として指摘しようとする。しかし、ボルシェヴィキにとって、このスローガンは、多くの人々がそういう意味だろうと考えていることとは根本的に異なる意味を持っていた。

 セクション25で論じているように、大衆が社会を運営できるようになる手段としてソヴィエトという考えを最初に提起したのはアナキスト(そして、SRマキシマリストのようなアナキストに近い人々)だった。これは、1905年の革命中のことだった。当時、メンシェヴィキもボルシェヴィキもソヴィエトを社会主義社会で見込まれる枠組みとして見なしてはいなかった。1917年になってもまだこれが実状だったが、レーニンがロシアに戻り、今こそ「全ての権力を諸ソヴィエトへ」というスローガンを掲げるときだ、とボルシェヴィキ党を説得したのである。

 しかし、これと同時に、レーニンはボルシェヴィキ革命がもたらすことについて幾分別なヴィジョンも主張していた。つまり、1917年のレーニンは絶えず次の基本理念を繰り返していたことが分かるのである。「ボルシェヴィキ党は権力を担わねばならない。」ボルシェヴィキ党は「国家権力を手中に治めることができるし、そうしなければならない。」彼は「ボルシェヴィキ党は単独で完全な国家権力を掌握する勇気があるだろうか?」という疑問を提起し、答えを出した。「私には既にこの疑問に肯定的に答える機会があった。」さらに「好機が訪れたときに権力奪取を拒否するなら、政治政党は存在する権利はないし、政党の名にも値しないのだ。」[Selected Works, vol. 2, p 328, p. 329 and p. 352]

 彼は党権力と民衆権力を同一視した。「ボルシェヴィキ党の権力−−これはつまり、プロレタリア階級の権力である。」さらに彼は次のように論じた。ロシアは「130,000人の地主に支配されていた。そして、地主達は、240,000のボルシェヴィキ党員がロシアを統治する−−貧者のために、そして金持ちに敵対して−−ことなどできない、と述べていた。」彼は強調した。ボルシェヴィキ党は「夢想家ではない。我々は知っている。いかなる労務者も、いかなる料理人も、国家統治を即座に乗っ取る能力を持ってはいない。」だから、ボルシェヴィキ党は「階級意識を持った労働者と兵士によって教育が行われるべきだ、それも即座に開始されるべきだと要求する。」それまでは、「意識的労働者が支配権を握らねばならない。」[Will the Bolsheviks Maintain Power? p. 102, pp. 61-62, p. 66 and p. 68]

 このように、レーニンが1917年を通じて取っていた明確で一義的な立場を考えれば、控えめに言っても、レーニン主義者のトニー=クリフが次のように主張しているのは疑わしいように思える。彼は「プロレタリア階級階級−−ボルシェヴィキ党ではなく−−が国家権力を引き受けることについて語っているレーニンから始めよう」と主張している [Lenin, vol. 3, p. 161] 。10月以前にレーニンが書いた最も有名な小論の一つのタイトルは普通「ボルシェヴィキ党は国家権力を保持できるのか?」と翻訳されているが、まさか、このタイトルでレーニンは自分の意図をうっかり述べてしまったのだろうか?ボルシェヴィキ党に権力を掌握するようレーニンが繰り返し行った呼びかけにしても、まさか同様だと言うのだろうか?そんなことはない。

 当然これが意味しているのは、レーニンが、ロシアの労働者階級がボルシェヴィキ党の下で権力を握ることはないと認めている、ということである。「貧困者」が社会を直接統治するのではなく、自分達の利益になるようにボルシェヴィキ党に統治してもらうことになる。従って、ボルシェヴィキ党の目的は、ソビエト権力それ自体ではなく、「諸ソヴィエトを通じた党権力」だった−−根本的に異なる立場にいたのだ。次のセクションで論じるように、ソヴィエト権力が党権力と衝突すると、前者は常に後者を守るために犠牲にされた。セクションH.1.2で示しているように、こうした革命前の党権力の支持は、ボルシェヴィキ党が権力掌握をした後には党権力の防衛へとすぐに転化した。しかし、ある歴史家が次のように述べていることを忘れてはならない。ボルシェヴィキ指導者達は「『プロレタリア階級の独裁』を予期していた。そして、この概念は、修正主義学者が時として示している以上に、レーニンが1917年に使っていた党独裁という語法に近かった。」[Sheila Fitzpatrick, "The Legacy of the Civil War," pp. 385-398, Party, State, and Society in the Russian Civil War, Diane P. Koenker, William G. Rosenberg and Ronald Grigor Suny (eds.), p. 388]

 現代のレーニン主義者はソヴィエトによる権力占有をボルシェヴィキ革命の目的として強調しがちだが、ボルシェヴィキ党自身はそれについてもっと正直だった。例えば、トロツキーは最初のソヴィエト大会でレーニンを引用し次のように述べていた。「いつでも権力を占有できる党など存在しない、と述べることは真実ではない。そのような党は存在する。我々の党がそれだ。」それ以上に「我々の党は権力占有の覚悟がある。」第二回大会が近づくと、レーニンは「第二回諸ソヴィエト大会と叛乱を結びつける人々を叱責した。」彼は、第二回大会ではボルシェヴィキ党員が過半数を占めねばならないというトロツキーの主張に抗議し、(トロツキーによれば)次のように論じた。「我々は権力を勝ち取らねばならず、大会に自分達を縛り付けてはならない。蜂起の日にちを敵に警告するなどお話にもならないバカげたことだ。まず第一に、党は権力を掌握し、手に武器を持たねばならない。それがあって初めて大会について語ることができるのだ。」[On Lenin, p. 71, p. 85]

 トロツキーは次のように主張した。「党は、諸ソヴィエトとは無関係に、諸ソヴィエトの知らないところで、独自に権力掌握をできなかった。これは誤りだった。兵士達はソヴィエトの代理人を知っていた。彼等が党を知ったのはソヴィエトを通じてだった。叛乱がソヴィエトの知らないところで起こったなら、ソヴィエトとは無関係に起こったなら、軍の中に重大な混乱が生じかねなかったのだ。」重要なことだが、トロツキーはプロレタリア階級については言及していなかった。結局、レーニンはトロツキーの立場に寝返り、「おお、よし。我々が権力を掌握するというなら、このようなやり方でも進めることができるだろう。」と述べたのである。[前掲書, p. 86 and p. 89]

 トロツキーは、著書「ロシア革命史 History of the Russian Revolution」「10月の教訓」という論文において同様の主張をしていた。例えば、1917年7月の日々を論じながら、トロツキーは(関連した章の題名を引用すれば)「ボルシェヴィキ党は7月に権力を掌握できたのか?」を論じ、軍は「ボルシェヴィキ党に権力を与えるために叛乱を起こす用意などできていなかった」と付言した。労働者に関する限り、「その圧倒的多数はボルシェヴィキに傾いているが、妥協派に繋がる臍の緒は今だに断ち切られてはいない。」だからボルシェヴィキ党は「7月に舵取りを」できなかった。そして、彼は、この国の中で諸ソヴィエトが権力奪取する用意をしていた場所を記している。「県や郡の首都の大部分では、情況は比較にならないほど望ましくなかった」と述べている。それは単に、ボルシェヴィキ党が同じように支持されていないからだった。後に、彼は「県のソヴィエトの多くは、7月の日々以前に既に権力機構になっていた」と記している。つまり、トロツキーは、諸ソヴィエトが自身で権力を奪取できるかどうかではなく、労働者がボルシェヴィキを政権の座につけることができるかどうかだけに関心を持っていたのだ。党権力は断固たる基準だったのである。[History of the Russian Revolution, vol. 2, p. 78, p. 77, p. 78, p. 81 and p. 281]

 これは、10月叛乱から見ることができる。トロツキーは「ボルシェヴィキ党はペトログラードで7月始めに権力を掌握できた」が、「そのまま保持することはできなかった」と再び認める。しかし、9月までに、ボルシェヴィキ党はペトログラードとモスクワのソヴィエトで大多数を獲得した。第二回諸ソヴィエト大会が近づいていた。叛乱を考える適切な時期だと見なされていた。誰の名において、何の目的で?トロツキーは明確にしている。「革命政党は法の援護に関心を持っている」と彼は論じた。そして、党は、権力奪取を正当化する手段として、第二回諸ソヴィエト大会の防衛を利用できた。彼は疑問を提起している。「党の名において直接叛乱を命じる方が簡単だったのではないか?」そして否定の答えを出している。「ボルシェヴィキ党の強さと、党に導かれる諸ソヴィエトの強さを同じだと見なすのは、明らかな誤りとなろう。後者は前者より遙かに大きかった。しかし、前者がなければ全くの無能に過ぎなくなっていたであろう。」そして、彼は多くのボルシェヴィキ代理人が、大衆は党ではなくソヴィエトに従う、と論じていたことを引用している。だからこそ、「全ての権力」を実際に掌握するのがボルシェヴィキ党だったという事実にも関わらず、ソヴィエトの名において権力を掌握することが重要なのだ。トロツキーはレーニンが「誰が権力を掌握するのか?」という疑問を引用する。レーニンは「今、それは重要ではない。」と主張した。「革命軍事委員会が掌握しようが、民衆の利益を本当に代表する人々だけに権力を委ねる『何らかの他の機関』が掌握しようが。」トロツキーは記している。「何らかの他の機関」とは「ボルシェヴィキ党中央委員会を謀議的に指名」していた。そして、誰が「民衆の利益を本当に代表する人々」になったのか?驚くべき偶然の一致によって、ボルシェヴィキ党がなったのであり、その中央委員会のメンバーが最初の「ソヴィエト」政府を形成したのだった。[前掲書, vol. 3, p. 265, p. 259, p. 262, p. 263 and p. 267]

 セクションH.3.11で論じているように、トロツキーは、自分がそれ以前に行っていたのと同じ道具主義的主張を繰り返していたに過ぎない。明らかに、諸ソヴィエトの支持は純粋に道具的なものだった。党権力を確保する一つの手段に過ぎなかった。ボルシェヴィズムにとって、党はプロレタリア革命の重要な機関だった。

 党は諸ソヴィエトを動かした。諸ソヴィエトは労働者を、兵士を、そしてある程度までは農民をも動かした。一連の歯車システム−−レーニンが別な時に別なテーマについて使った喩えだ−−としてこの伝導装置を代表するのなら、党の歯車を大衆の巨大歯車と直接結びつける−−中規模の諸ソヴィエト歯車を排除して−−というせっかちな試みは、党の歯車の歯を破壊する危険を生むことになっただろう。[Trotsky, 前掲書, p. 264]

 つまり、諸ソヴィエトは、党が労働者に影響を及ぼすことができるようにするために存在したのだ。労働者が直接社会を運営するのはどうなのか?労働者が党の決定を拒否したらどうなのか?結局、革命前に、レーニンは「党が中央委員会の左翼にあるのと同様、大衆は党の遙かに左翼にいる、と一度ならず繰り返していた。」[Trotsky, 前掲書, p. 258] 労働者が党によって動かされるのを拒否し、そのかわり、自分達で動き、ボルシェヴィキ党を拒否した場合、何が起こったのか?そして、諸ソヴィエトはどうだったのか?トロツキーの道具主義的観点の論理を見ると、こうした場合に、諸ソヴィエトは党権力(真の目的だ)に賛同するよう飼い慣らされてしまう(いかなる手段を使ってでも)ことが予測される。そして、これこそが実際に起こったのだった。10月以後の諸ソヴィエトの運命は、ボルシェヴィキ党が実際に求めていたのは間違いなくソヴィエト権力ではなかった、と証明している(次のセクションを参照)。ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?セクション4で論じるように、ボルシェヴィキによる「ソヴィエト権力」の奇妙な定義のおかげで、軍と仕事場でのボトムアップ型草の根民主主義を排除し、トップダウン型の任命に置き換えることが正当化できるようになったのだ。

 つまり、「全ての権力を諸ソヴィエトへ」という表現には全く奇妙な意味合いがあるのだ。実際には、諸ソヴィエトがその権力をボルシェヴィキ政府に譲渡することを意味していた。これが、ボルシェヴィキ党が「ソヴィエト権力」だと見なしていたことであり、ハッキリ言えば純然たる党権力だった。中央委員会が1917年11月に主張していたように、「純粋なボルシェヴィキ政府を拒否できるのは、諸ソヴィエトの権力というスローガンを裏切った時だけである。なぜなら、第二回全ロシア諸ソヴィエト大会の大多数がこの政府に権力を移譲したのだから。[Robert v. Daniels (ed.), A Documentary History of Communism, vol. 1, pp. 128-9 に収録] レーニンは明快だった。10月革命後、たった数日で次のように述べた。「我々の現在のスローガンは、妥協しない、つまり、均質なるボルシェヴィキ政府、である。[Daniels, Conscience of the Revolution, p. 65 で引用]

 換言すれば、「ソヴィエト権力」が存在するのは、諸ソヴィエトが誰か他の人(つまり、ボルシェヴィキ指導者)に権力を譲渡したときなのだ!この違いは重要である。「アナキストは断言していた。『権力』が実際に諸ソヴィエトに属すべきだとすれば、ボルシェヴィキ党に属すことなどできない。ボルシェヴィキが描いていたように党に属すべきだとするならば、諸ソヴィエトに属すことなどできないのだ。」[Voline, The Unknown Revolution, p. 213]

 つまり、アナキストとレーニン主義者がどちらも「全ての権力を諸ソヴィエトへ」という表現を使っているが、だからといって、その表現で全く同じことを意味しているわけではないのだ。現実に、ボルシェヴィキのヴィションは単に諸ソヴィエト権力を諸ソヴィエトの上にある「ソヴィエト権力」で置き換えただけだった。

10月革命におけるボルシェヴィキの成功−−つまり、ボルシェヴィキが権力の座に着き、そこから革命全体を党に従属させたという事実を説明してくれるのは、ボルシェヴィキ党が社会革命と大衆の社会的解放とを一つのソヴィエト権力という理念で置き換える手腕を彼等が持っていたということである。先験的に、これら二つの理念は全く矛盾しないように見える。それは、ソヴィエト権力を諸ソヴィエトの権力として理解できたためであり、これによってソヴィエト権力という理念が革命の理念に置き換わることが促された。にも関わらず、これらの理念は、その具現化と帰結という点で、お互いに激しく矛盾していた。ボルシェヴィキ国家に具現化されたソヴィエト権力は、一握りの人々に集中する完全に伝統的なブルジョア権力へと転化した。民衆の生活の土台であり最も影響力のあった全て−−この場合、社会革命−−がその権威に従属させられた。そのため、ボルシェヴィキ党は、「諸ソヴィエトの権力」−−そこではボルシェヴィキ党がその地位の大部分を独占した−−の助けを借りて、効果的に全権力を獲得し、革命領地を通じて独裁を宣言できたのである。全てが単一の中心地に還元され、そこから、労働者大衆の生活様式・思考様式・行動様式について全ての指示が出されたのだ。[Peter Arshinov, The Two Octobers]

 大衆から孤立し、自分達のために権力を持ったために、ボルシェヴィキ党は社会における自分達の立場の実相と国家主義諸様式が生み出す社会関係とに影響を受けざるを得なかった。彼等は、民衆の下僕からはほど遠く、権力掌握によって民衆の主人となる。アナキストは、いわゆる「労働者国家」がすぐさま革命に対する危険となり、権力を持った人々を堕落させ、新しい国家機構を中心に官僚制が生み出され、この官僚制が支配政党と大衆双方との対立状態になるだろうという懸念を持っていた。ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?セクション7で論じているように、ボルシェヴィズムが権力の座に付いた経験はこの恐怖を確認したのだった。民衆の上位に位置し、権力集中によって民衆から孤立したため、党の権力を求める革命前のボルシェヴィキ党の目的は、現実には党の独裁となった。

 革命から一年も経たない1918年7月頃、ソヴィエト政権は事実上の党独裁だった。理論的路線転換がすぐに生じた。例えば、レーニンは、1918年12月初旬に、メンシェヴィキを合法化しながらも、ボルシェヴィキは「独力で、我々だけで国家権力を温存する」ことになろう、と宣言した。[Collected Works, vol. 28, p. 213] ヴィクトル=セルジュは、次の月に自分がロシアに到着したときに、どのようにしてジノビエフが署名した「権力の独占」に関する「特徴のない論文」を発見したのかを記録している。その論文には「我々の党だけで支配をする。他の誰にも許されないだろう。反革命が要求しているのは誤った民主的自由である。」と書かれていた [Memoirs of a Revolutionary, p. 69]。セルジュは、大部分のボルシェヴィキ党員同様、この観点を心の底から受け入れた。例えば、バクーニンが書いた皇帝に対する「告白」をボルシェヴィキが1921年に公刊した(アナキズムの信用を失墜させようという試みだった)とき、「セルジュは、ロシアにおける独裁的支配の必要性に関するバクーニンの一節を取り上げて、1848年にバクーニンは既にボルシェヴィズムを予測していた」と述べていたのである。[Lawrence D. Orton, "introduction," The Confession of Mikhail Bakunin, p. 21] バクーニンがその「告白」を書いた当時、彼はアナキストではなかった。セルジュがそのコメントを書いた当時、彼は主導的ボルシェヴィキ党員であり、ボルシェヴィキ主流派イデオロギーを反映していたのだった。

 実際、非常に重要だと考えていたが故に、ボルシェヴィキ党は、自分達の革命に関わるこの特定の教訓を含めるべく、その国家理論を修正した(詳細はセクションH.3.8 を参照)。セクションH.1.2で記したように、主導的ボルシェヴィキ党員は皆、「党の独裁」について語っており、死ぬまで語り続けた。ついでながら、こうした立場は、どんなに有意味な表現を使おうともソヴィエト権力の支持とは一致しがたい(ただ、党権力の手段としての労働者評議会という道具主義的見解とは一致しやすい)。セルジュがこの見解に関する自分の立場を修正し始めたのは、1930年代半ばになってからだった(トロツキーはなおもこの見解に同意していた)。1940年代初頭頃、彼は「ボルシェヴィキ党に反対して、黒旗に『権力以上に悪しき毒はない』−−絶対権力を意味しながら−−と書いていた時、アナキスト達は正しかった。それ以後、権力の精神病理が、指導部の大多数を、特に下位レベルで、虜にすることになったのだ。」と書いていた [Serge, 前掲書, p. 100]。

 内戦の影響もこの変化を説明できはしない。次のセクションで論じるように、諸ソヴィエトとその権限に対するボルシェヴィキの攻撃が始まったのは1918年春だった。これは大規模な内戦が始まる数ヶ月前だった。そして、強調しなければならないが、ボルシェヴィキ党は諸ソヴィエトに対する党独裁を創り出すことに何の躊躇もなかったのだ。事実、一党独裁国家を治めているにも関わらず、レーニンは1918年11月に「ソヴィエト権力は大部分の民主的ブルジョア共和国の数百倍民主的である」と主張した。労働者が社会を運営せず、自分達を支配している人々に対する発言権もないのに、どうしてそのようなことがあり得るのだろうか?カール=カウツキーがこの問題を提起した際、レーニンは次のように答えた。カウツキーは「国家装置の・国家機構の階級的性質を見ることができない。ソヴィエト政府は世界で初めて、民衆の、特に行政職に就いている搾取された民衆の支持を得ているのだ。」[Collected Works, vol. 28, p. 247 and p. 248]

 だが、重要な問題は、労働者が国家機構に参加しているかどうかではなく、実施されている政策を自分達が決めているかどうか、つまり、大衆が自身の生活を運営しているかどうかである。結局、アンテ=シリガが指摘しているように、スターリン主義GPU(秘密警察)は「その腰巾着どもの労働者階級出自に関する法螺話が好きだった。」彼の仲間の囚人達の一人は次のように指摘してこうした主張に反論した。GPUは「皇帝の時代に、囚人が公爵から集められ、殺し屋が王子から集められたと勘違いしているのさ!」[The Russian Engima, pp. 255-6] 簡単に言えば、元々は労働者階級だった官僚達によって国家行政が作り上げられているからといって、労働者階級が、階級として、社会を管理しているわけではないのだ。

 その年の12月、レーニンはさらに一歩踏みだし、第六回ソヴィエト大会で、代理人の「97%、つまり、ロシア全土の労働者と農民の代表の実質的全てをボルシェヴィキ党は獲得した」と指摘した。これは「ボルシェヴィキ党がほんの少数の支持しか得ていないというブルジョアお伽噺がいかにバカげていて話にならないか」の証明だった。[前掲書, pp. 355-6] 誰に投票するのかについて労働者と農民が本物の選択肢を持っていない以上、この結果に驚くことなどできるだろうか?もちろんできない。前年はボルシェヴィキ党が大衆に支持されていたとはいえ、他の政党や集団全てが国家弾圧にさらされている独裁下での選挙結果を指摘したところで、現在支持を受けている証拠だなどとは全く説得力がない。言うまでもなく、スターリンは(他の多くの独裁者がそうしたように)似たような怪しげな選挙結果について同様の主張をした。ボルシェヴィキがソヴィエト権力の支持について誠実だったなら、本物のソヴィエト選挙を組織しようとしたであろう。これは、マフノ叛乱の実例が示しているように内戦中であっても可能だったのだ。

 したがって、要約すれば、ボルシェヴィキ党はソヴィエト権力という目標を根本的に支持していなかった。むしろ、彼等は「ソヴィエト権力」を、自分達の正統性の由来だった諸ソヴィエトの上位にあるボルシェヴィキ権力を、創り出そうとした。しかし、諸ソヴィエトがその権力と対立すると、否認されたのは諸ソヴィエトであり、党権力ではなかった。つまり、ボルシェヴィキ=イデオロギーの結果は、諸ソヴィエトの過小評価と、ボルシェヴィキ独裁による置き換えだったのだ。このプロセスが始まったのは内戦以前であり、このプロセスの由来は国家の性質にだけでなく、ボルシェヴィキ=イデオロギーの根底にある前提にも求めることができる(ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?を参照)。

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