アナキズムFAQ

4. レーニンの「国家と革命」は10月以降適用されたのか?

 一言で言えば、適用されなかった。実際は逆だった。10月以後、ボルシェヴィキはレーニンの「国家と革命」の思想を導入できなかっただけでなく、実際には正反対のことを導入していた。ある歴史家は次のように述べている。

「国家と革命」をレーニンの政治哲学の基本的声明だと見なす−−共産党員だけでなく非共産党員もそのように見なしていることが多い−−ことは重大な誤りである。その空想的アナキズム賛同論が実際に公式的政策となったことは一度もない。1917年のレーニン主義はほんの数年間で失敗に終わった。ソ連の政治的発展の基盤として優勢だったのは、1902年のレーニン主義の復興版だった。[Robert V. Daniels, The Conscience of the Revolution, pp. 51-2]

 ダニエルズはボルシェヴィキに対して余りにも寛大すぎる。実際には、「ほんの数年間」で1917年の約束が忘れ去られたのではなかった。ほんの数時間だった場合もあった。ほんの数ヶ月の場合もあった。ただ、ある意味でダニエルズは正しい。確かに、1921年までは、ロシア革命を救出するという希望が完全になくなることはなかった。クロンシュタット叛乱の壊滅と共に、この体制の真の性質が、見る目を持った全ての人々に明らかになった。さらに、同時に党内部の派閥が禁止されたことで、例えば1917年にボルシェヴィズムが示していたもっと流動的な実践ではなく、「何をなすべきか」の構図に戻っていたことが確かに示されたのだった(セクション3を参照)。しかし、「ボルシェヴィキ反対派の中に真の代案はあったのか?」で論じるように、様々なボルシェヴィキ反対派は、それぞれのやり方で、党の主流派と同じぐらい権威主義だったのである。

 これが事実であることを示すためには、レーニンの著作に含まれる主要思想を要約しなければなるまい。それ以上に、ボルシェヴィキが何を実際に行ったのかを示す必要があろう。そして最後に、こうした行動を正当化している様々な論理的根拠が正当かどうか評価しなければならない。

 さて、「国家と革命」においてレーニンは何を主張していたのだろうか?アナキストのカミーロ=ベルネリは、1930年代中盤に、この著作の主要思想を次のように要約していた。

1917年のレーニン主義綱領には以下の点が含まれていた。警察と常備軍の断絶・専門的官僚制の廃絶・全ての公職と公官庁の選挙・全公務員の取消可能性・労働者の賃金と官僚の賃金の平等性・最大限の民主主義・ソヴィエト内部の諸政党間の平和的競争・死刑廃絶。["The Abolition and Extinction of the State," Cienfuegos Press Anarchist Review, no. 4, p. 50]

 彼が記していたように、「この綱領の条項は一つとして達成されなかった。」もちろん、これはスターリン主義下でのことであり、大部分のレーニン主義者はベルネリと同意見であろう。しかし、レーニン主義者は語ろうとしないが、1919年11月から1918年5月の7ヶ月間でもこれらの条項は一つも達成されなかったのだ。従って、この著作をボルシェヴィズムが「本当に」意味していることの例だというならば、著者自身がそれを実行する立場にいたときに(つまり、レーニンがいずれにしても避けられないと考えていた内戦襲来前に!)一度も実行されなかった著作についてくどくど繰り返すなど奇妙に思える。

 ベルネリの要約が正しいことを理解するためには、レーニンを直接引用しなければならない。明らかに、この著作は、レーニンが解釈したマルクス主義国家理論を広範囲にわたって擁護している。数十年に及ぶ正統派マルクス主義を転覆しようという試みであるにも関わらず、この著作の大部分はマルクスとエンゲルスからの引用であり、レーニンは自分の情況に合わせてそうした引用から支持を得ようとしていた。同様に、アナキズムについてレーニンが読者に押し付けている多くの試論も無視せねばならない(彼の主張の真相については、セクションH.1.3、H.1.4、H.1.5を参照)。ここでは、単に、「労働者国家」について、そして労働者が国家管理を維持する方法について、レーニンが主張する要点を挙げるに留めておく。

1)パリコミューンを原型として使いながら、レーニンは「代議制制度を『おしゃべりの場』から『実用的な機関』へ」変えることで「議院制度」を廃絶すると主張していた。「立法と執行の分業」を止めることで、これが実行されることになっていた。[Essential Works of Lenin, p. 304 and p. 306]

2)「全ての役人は例外なく選挙で選ばれ」常に「更迭の対象となる」ため、「その有権者に直接の責任を持つ。」「民主主義は平等を意味する。」[前掲書, p. 302, p. 306 and p. 346]

3)「万人による管理・監督を即時に導入」し、そのことで「万人が当面は『官僚』になり、その結果、誰一人として『官僚』にはなり得なくなる。」プロレタリア民主主義は「官僚制を根元から切り落とすべく緊急措置を取り、官僚制の完全廃絶を行う。」「官僚制の本質」は役人が「大衆から分離し、大衆よりも上位にある特権的人々に」変質していることだからだ。[前掲書, p. 355 and p. 360]

4)民衆から分離している「専門武装機関」は存在すべきではない。「民衆の大多数自身が抑圧者を弾圧する以上、『特殊部隊』はもはや必要ではない。パリコミューンの例を用いながら、レーニンは、これは「常備軍の廃絶」を意味する、と示していた。そのかわり、「武装した大衆」が存在することになろう。[前掲書, p. 275, p. 301 and p. 339]

5)新しい(労働者)国家は、「搾取階級つまりブルジョア階級を弾圧するための暴力の組織化となろう。労働者に国家が必要なのはひとえに搾取者の抵抗を圧倒するためだけである。」搾取者は「取るに足らない少数派」である。つまり、「地主と資本家」である。このことで「貧困者にとっての民主主義の莫大な拡充、民衆にとっての民主主義の莫大な拡充」を見ることになろう。同時に、「抑圧者・搾取者・資本家の自由に一連の制限を」課す一方で、「その抵抗は武力によって破壊されねばならない。弾圧があるところ、暴力もあることは明らかだ。そこには自由も民主主義もない。」[前掲書, p. 287 and pp. 337-8]

 これは、現行のブルジョア国家が破壊された後に実施されることになっていた。これが「プロレタリア独裁」となり、「完全な民主主義が民衆のために導入される」ことになっていた。[前掲書, p. 355] しかし、新しい「半国家」のありように関する重要な実践的考えは、上記の5点の中にある。彼はこれらの点を一般化し、1917年のロシアだけでなく、万国に当てはまると考えていた。この点について、彼の追従者達は同意している。レーニンの著作は、当時の革命ロシアだけでなく、先進国においても、今日も妥当だと見なされている。

 レーニンのこの著作を読むアナキストは三つのことに驚く。まず第一に、既にセクションH.1.7で記したように、この大部分は純然たるアナキズムである。バクーニンは、1860年代と1870年代に、労働者評議会システムのヴィジョンを自由社会主義社会の枠組みとして提起していた。それ以上に、バクーニンも、革命防衛のための民兵の使用だけでなく、委任を受け更迭可能な代理人の選挙にも賛同していた(セクションH.2.1を参照)。アナキズムではないことは、中央集権化を要求していること・評議会システムを国家と同一視していること・「新しい」官僚主義の容認である。第二に、非常に重要なことだが、この本で党の役割について明らかに言及している部分はほとんどない。レーニンが常に党を強調していたことを考えれば、この欠落は気がかりである。特に(セクション5で示しているように)、彼は、1917年を通して党が権力を奪取するよう呼びかけていた。党について確かに言及している部分もあるが、曖昧にしか述べていない。階級ではなく党が政権の座に付くだろうと示唆しているだけである。その後の出来事が示しているように、これこそが実際に起こったことだった。そして、最後に、アナキストの読者は、これらの重要な考えが一つとしてレーニン政権下で実施されなかったことに驚かされる。実際、逆のことが行われたのだ。これは、それぞれの点を順に見ていけば分かる。

 最初の点は、「実用的な機関」の創設であり、立法機関と執行機関の融合である。ボルシェヴィキ革命で創設された最初の機関は、「人民委員評議会」(CPC)だった。これは、ソヴィエト大会の中央執行委員会(CEC)とは分離し、その上位にある政府だった。しかし、諸ソヴィエト自体が「実用的な機関」へと転じることはなかった。つまり、レーニンの「国家と革命」の約束は一夜ももたなかったのだ。

 セクション5で示しているように、ボルシェヴィキは明らかに知っていた。諸ソヴィエトは自分達の権力をこの機関に譲渡したのだ。だが、この機関が4日後に執行権力を手に入れたのだから、レーニンの約束は守られた、と主張することもできよう。残念ながら、これは真実ではない。パリコミューンでは、民衆の代理人が執行権力を自分達の手中に収めた。レーニンはこれを逆転させた。彼の執行部は、民衆代理人の手から立法権を奪ったのである。前者の場合、権力は民衆の手に分権化された。後者の場合は、少数者の手に中央集権化されたのだった。執行委員会へのこの権力集中は、ソヴィエトのヒエラルキーのあらゆるレベルで生じた(全詳細はセクション6を参照)。簡単に言えば、立法権と執行権は諸ソヴィエト集会から奪われ、ボルシェヴィキが支配する執行委員会に手渡されたのだった。

 次の原則、つまり全ての役人の選挙と更迭についてはどうだろうか?これは、もう少し長く、つまり、5ヶ月ほど続いた。1918年3月に、ボルシェヴィキは、仕事場・軍隊・諸ソヴィエトにおいてさえも、選挙原則に反対する組織的キャンペーンを開始した。仕事場では、レーニンは1918年4月に「独裁的権力を与えられた」任命されたワンマン経営者に賛成した(セクション10を参照)。軍隊では、トロツキーが任命将校を望ましいとして、将校選挙の終了をあっさりと宣言した(セクション14を参照)。諸ソヴィエトに関しては、ボルシェヴィキは選挙を行うことを拒否した。何故なら、ボルシェヴィキは「反対派の諸政党が得票することを恐れていたからだ。選挙が行われると、地方の町で「ボルシェヴィキの軍隊が結果をひっくり返すことがよくあった。」それ以上に、ボルシェヴィキは、「選挙で過半数が見込めないとなると」、自分達が支配している組織の代表者と共に「地元のソヴィエトに詰めかけ」たのである。[Samuel Farber, Before Stalinism, p. 22, p. 24 and p. 33] この身勝手な選挙区改定は、全ロシアソヴィエト総会でさえも実行された(諸ソヴィエトに対するボルシェヴィキの猛攻撃の全詳細はセクション6を参照)ソヴィエト内部での諸政党間の競争が台無しになったのだ!更迭権について、ボルシェヴィキは、労働者がボルシェヴィキの反対派を更迭するときにだけ支持した。労働者がボルシェヴィキを更迭するときには支持しなかったのである。

 つまり、6ヶ月間で、ボルシェヴィキは多くの生活分野において「全ての役人」の選挙を上からの任命に置き換えたのである。民主主義は、上からの任命によってあっさりと置き換えられてしまったのだった(このトップダウンで専制的ないわゆる民主主義システムを正当化するために使われた全くの非民主主義的論法については、この付録の「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」セクション4を参照)。様々な政党がソヴィエトでの(その他の場所でも)投票で競争できるという考えは、同様に縮減され、最後には廃絶されてしまった。

 次は、官僚制の削減だった。「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」セクション7で示しているように、新しい官僚システムと中央集権システムが即座に出現した。官僚制の規模と権力はすぐさま削減されず、着々と成長し、すぐに、国家の真の権力になってしまった(そして、究極的には、1920年代に、スターリンの台頭の社会基盤となったのだった)。それ以上に、ボルシェヴィキ政府の手中に権力を集中させると共に、党指導者が「大衆から分離し、大衆よりも上位にある特権的人々に」なるにつれ、官僚制の「本質」は依然として存在し続けていた。例えば、党指導者は、何が民衆にとって最良なのかを自分達の方が一般民衆よりも知っているという観点から、軍隊の民主主義を抑圧したことを喜んで正当化していた。(詳細は「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」セクション4を参照)

 そして、第4の点、つまり、常備軍の排除、「武装した大衆」による「専門武装機関」の禁止である。この約束は2ヶ月と持たなかった。1917年12月20日、人民委員評議会は、政治(秘密)警察部隊、「反革命と戦う臨時委員会」の設立を宣言した。この委員会は、公式名称の最初の二文字のロシア語頭文字の方がよく知られている。チェカである。注目に値することだが、その設立命令でそれが「言論・破壊工作員・ストライキ参加者・社会革命党右派を監視する」ためのものだと述べられていたのだった。[Robert V. Daniels, A Documentary History of Communism, vol. 1, p. 133 に記載されている]

 チェカは当初は小規模な組織だったが、1918年の間に、規模と活動が大きくなっていった。1918年4月には、ロシア全土のアナキズム運動を破壊するために利用された(詳細はセクション23を参照)。チェカはすぐにボルシェヴィキ支配の重要な道具となり、レーニンとトロツキーのような人々から十全な支持を得た。チェカは最も明白な「専門武装機関」であり、「武装した労働者」と同じではなかった。つまり、レーニンが「国家と革命」で主張していたことは2ヶ月と持たず、6ヶ月足らずの内にボルシェヴィキ国家は強力な「武装した人々」のグループを手に入れ、その意志を強制したのである。

 これだけではない。ボルシェヴィキは、権力奪取後の最初の6ヶ月間で軍隊の徹底的変革を実行した。1917年を通じ、兵士と水兵は(ボルシェヴィキなどの革命家に促されて)自分たち自身の諸委員会を持ち、将校を選挙で選んでいた。1918年3月、トロツキーは命令によってこのこと全てをあっさりと撤廃し、任命将校(前帝政ロシア将校だった場合が多い)によって置き換えた。このようにして、赤軍は労働者民兵(つまり、武装した民衆)から一般大衆とは分離した「専門機関」へと変わったのだった(この問題についてはセクション15でさらに論じる)。

 したがって、民衆の上位にある「特殊部隊」を削減する代わりに、ボルシェヴィキは政治警察部隊(チェカ)と常備軍(命令によって選挙は破棄された)を創設し、全く逆のことを行ったのだ。これらは特別な専門的軍隊であり、民衆から分離し、民衆に対して説明責任を持っていなかった。事実、ストライキと労働者階級騒乱を弾圧するために使われたのだった。ここで、この問題に目を転じよう。

 さて、レーニンの「労働者国家」という考えは、搾取者に向けられた暴力の道具に過ぎなかったはずである。現実にはそのような結果にはならなかった。ボルシェヴィキが民衆の支持を失うにつれ、「労働者国家」の暴力は労働者に(もちろん、農民にも)向けられた。上記したように、ボルシェヴィキがソヴィエト選挙で負けると、武力を使ってその結果を無効にした(詳細はセクション6を参照)。この時期にストライキと労働者階級の抗議に直面すると、ボルシェヴィキは国家暴力を使って対応した(詳細は「何がロシア革命の変質を引き起こしたのか?」セクション5を参照)。以下でレーニンの理論に関してこれが意味していることを論じる。従って、新しい(「労働者」)国家が搾取者だけを弾圧することになるという主張に関しては、新しい国家を利用してボルシェヴィキ権力に反対する全ての人−−労働者も農民も含めて−−を弾圧した、というのが真実なのである。

 既にお分かりのように、ボルシェヴィキ支配の最初の6ヶ月を経過すると、レーニンが「国家と革命」で擁護していた政策のは一つとして「革命」ロシアには存在しなくなった。約束の中にはほとんど即座に(ある場合など一夜にして)破られたものもあった。大部分はもう少し長くかかった。例えば、軍隊の民主化は1917年12月後半に命じられたが、これは、軍の人員が既存の革命の利益を認めたからに過ぎなかった。同様に、ボルシェヴィキは労働者による管理について命令を下したが、これも草の根での実際の利益を認めたからに過ぎない(内実は、そのさらなる発展を制限した−−セクション9を参照)。これをボルシェヴィズムの民主主義的性質の証拠だなどと受け取ることはできない。革命運動に直面した大部分の政府が現場での諸事実を認め、「合法化する」(諸事実を中立化したり、破壊したりできるようになるまで)のだから。例えば、2月革命後に創設された臨時政府は、労働者の革命的利益の合法化も行った(例えば、諸ソヴィエト・工場委員会・労働組合・ストライキなどの合法化)。真の問題は、ボルシェヴィズムが、その権力を確固たるものにした後も、こうした革命的利益を促し続けたかどうかである。促し続けなかったのだ。実際、ボルシェヴィキは自分達が置き換わった臨時政府ができなかったことを何とかやり遂げただけ、つまり、革命的大衆が創設した様々な民衆自主管理機関を破壊しただけだったのだ。従って、重要な事実は、ボルシェヴィキが大衆の利益を認めていたことではなく、その追随者達が真の諸原則だったと述べていることの適用を容認し続けず、すぐさま終わってしまったことである。さらに、主要なボルシェヴィキ党員は、この撤廃を振り返った際に、「共産主義」諸原則と何ら矛盾してはいないと見なしていたのだった(セクション14を参照)。

 この時期を強調しているのには理由がある。この時期は重大な内戦勃発の時期であり、従って、適用された政策はボルシェヴィズムの真の性質を、言ってみればその本質を示している。大部分のレーニン主義者がレーニンがその公約を果たさなかったことをまさに内戦のせいにしている以上、これは重要な時期である。現実には、内戦はこうした裏切りの理由ではなかった−−なぜなら、内戦はまだ始まっていなかったからだ(内戦の始まりとその影響についてはセクション16を参照)。それぞれの公約は内戦が起こる数ヶ月前に次々に破られていた。「全ての権力をソヴィエトへ」は瞬く間に「全ての権力をボルシェヴィキ党へ」になった。歴史家マーク=フェロを引用しよう。

ある意味で、「国家と革命」は、ボルシェヴィキ権力に対する代案の基盤を据え、その本質的特徴を描写しさえしていた。そして、レーニン主義に賛同する伝統だけが、その良心の呵責を鎮めようとしていると言っても良いほどに、それを使っている。と言うのも、レーニンは、一旦権力の座に付くとこの本の結論を無視したからだ。ボルシェヴィキ党は、国家を死滅させることから遠く離れ、国家の強化を正当化する理由を次から次へと見つけたのだった。[October 1917, pp. 213-4]

 レーニンの「国家と革命」は何処に置き去りにされているのだろうか?(Where does that leave Lenin's State and Revolution?)そう、現代のレーニン主義者は今だにこの本を読むよう強く勧めている。この本はレーニンの最高傑作であり、真のレーニン主義とは何かについての最良の手引きだと考えている。例えば、レーニン主義者のトニー=クリフはこの本を「レーニンの真の遺書」だと呼び、同時に、その「メッセージは初めてのプロレタリア革命の勝利を導き、内戦中に幾度も侵害された」と認めている。それが適用されるように指定されていたまさにその情況で適用できなかったのであれば、非常によい「手引き」でもなく、「メッセージ」を納得させることもなかったのだ(良い傘を持っていても、雨が降っていないときにしか役に立たないと言っているようなものだ)。さらに、クリフは事実を誤っている。ボルシェヴィキはこの「手引き」を内戦が始まる(つまり、クリフを引用すれば「1918年6月にチェコスロヴァキア軍が赤軍を打ち破り、ソヴィエト共和国最大の危機の兆候を示していた」時)以前に「侵害」していたのだ。同様に、ボルシェヴィキ党が実施した経済政策の多くがこの本やその他レーニンが1917年から書いていた著作に起源を持っていた。(「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」セクション5を参照)[Lenin, vol. 3, p. 161 and p. 18]

 このことを考えれば、レーニンの「国家と革命」にはどんな用途があるのだろうか?もし、現在主張されているようにこれが真に「手引き」だったなら、完全に実用的ではないと証明されたのだから、この本は単に無視されるべきである。端的に言って、革命の副作用(例えば、内戦)のためにこの本を破棄する事になったのであれば、現代のレーニン主義者は革命と労働者民主主義は全く相容れないと白状し、認めねばならない。結局、これがレーニンとトロツキーの結論だったのだ(セクションH.3.8を参照)。従って、現代のレーニン主義者は、ボルシェヴィズムが目的としていることの実例としてレーニンの著作を推奨すべきではない。しかし、労働者民主主義と自由という基本的理念が妥当で、社会主義を達成する唯一の方法だと見なされるなら、何故ボルシェヴィキは、好機を持ったのに、特にウクライナでマフノ叛乱が実行していたのに、民主主義と自由を適用しなかったのだろうかと疑問に思わねばならない。これを調べると、結局のところ、レーニン主義ではなく、アナキズムが妥当なのだという結論にしか至らないであろう。

 これは、10月革命後にボルシェヴィキのイデオロギーが辿った軌跡から見ることができる。端的に言えば、「国家と革命」と1917年全般の約束を破ることは苦ではなかったのだ。従って、「国家と革命」のメッセージは「幾度も侵害された」が、「同時に、官僚主義的堕落への反対を幾度もかき立てていた」というクリフの主張は明らかに誤っている[Cliff, 前掲書, p. 161]。全く違うのだ。レーニンの「国家と革命」がボルシェヴィキ主流派指導部の堕落への反対をかき立てることなどまずなかった。実際、彼等は大喜びで党の独裁とワンマン管理を支持した。クリフにとっては皮肉なことに、この書が1918年初頭に実施された国家資本主義政策への反対をかき立て「た」ことは周知の通りである。これを行ったのはブハーリン周辺の「共産党左派」であり、レーニンの政策に反対して労働者自主管理を擁護したのだった!レーニンは、彼等に対し、この本を(他の1917年の本と共に)再度読み、最初から「国家資本主義」が自分の目標だったことを理解するよう伝えたのだ!それだけではない。彼は「国家と革命」を引用した。彼は「共産主義社会の第一段階が適切に機能するために」必要なのは「会計報告と統制」である、と主張していた。そして彼は続けた。「そしてこの統制は『ちっぽけな少数派の資本家、貴族に対して』だけでなく、『資本主義によって徹底的に腐敗させられた』労働者に対しても確立されねばならない。」そして最後に、「ブハーリンがこのことを強調しなかったのは深刻」だったと述べていた。[Collected Works, vol. 27, pp. 353-4] 言うまでもなく、レーニンの著作を読むよう勧めているレーニン主義者達もこのことを強調していない。

 ボルシェヴィキ党が徐々に支持を失うにつれ、「資本主義によって徹底的に腐敗させられた」労働者の数が増加した。そうした労働者を特定するのは容易かった。彼等は党を支持していなかったのだ。歴史家のリチャードは次のように要約している。「ボルシェヴィキ党への帰属意識の欠如が、完全に、政治的意識の欠如として扱われていた。」[Soviet Communists in Power, p. 94] もちろん、これは前衛主義の論理帰結である(セクションH.5.3を参照)。だが、国家暴力は労働者階級を「統制する」ためにも必要だと認めることは、「国家と革命」の論拠を土台から完全に崩しているのである。

 これを理解し、理論的に証明するのは容易い。例えば、1920年頃、レーニンは「労働者の国家」が大衆に対して暴力を行使することを喜んで認めていた。自身の政治警察、チェカの大会で、レーニンは次のように論じた。

労働者と農民の公然たる敵に対して革命的弾圧を向けなければ、こうした搾取者達の抵抗を破壊することなどできない。一方、革命的弾圧は、大衆自身の中にいる煮え切らない不安定な分子に対しても用いられねばならない。[Collected Works, vol. 42, p. 170]

 これは、当初からのボルシェヴィキの実践をありのままに要約している。しかし、「国家と革命」で、レーニンは「抑圧者・搾取者・資本家の自由に一連の制限」を課すことに賛同していた。1917年、彼にとって「弾圧があるところ、暴力もあることは明らかだ。そこには自由も民主主義もな」かった [Op. Cit., pp. 337-8]。従って、暴力が労働者階級に向けられるなら、明らかに、その階級にとって「自由も民主主義も」あり得ない。さらに、誰が誰を「煮え切らない不安定な」分子だと特定するのか?党しかない。つまり、労働者民主主義に関わるいかなる表現も、それが党と相容れない限り、「革命的弾圧」を受ける候補となるのだ。恐らく、ボルシェヴィキが1918年に軍の民主主義を撤廃したのも好都合だったのだろう。

 トロツキーは、1921年に経済的民主主義に関する労働者反対派の考えを攻撃したが、その際、このことが持つ明らかな独裁的意味合いを詳しく説明している。

党には、無定型の大衆の一時的動揺や、労働者階級すらもの一時的動揺を無視して、その独裁を維持しなければならない義務がある。この意識が団結にとって必須なのだ。これがなければ、党は消滅の危機に瀕する。いかなる時でも、独裁は労働者民主主義が持つ公式的諸原則に基づくことはない。労働者民主主義を無条件のものだと見なすのなら、全ての工場は自身の執行機関を選挙しなければならなくなる。公式的見解からすれば、これは労働者民主主義と最も明白に結びついている。だが、我々はそれに反対である。何故か?何故なら、まず第一に、党の独裁を保持したいからであり、第二に、重要で不可欠な工場を管理する(民主的)方法は機能不全となり、経済的観点から失敗だと証明される運命にあるからだ。[Jay B. Sorenson, The Life and Death of Soviet Trade Unionism, p. 165 で引用]

 つまり、ロシア革命とボルシェヴィキ体制は国家社会主義に関するアナキズムの理論と予測を確認したのであった。ルイジ=ファブリを引用しよう。

極めて確実なことだが、資本主義体制と社会主義体制の間に介在する闘争の期間があり、その間、革命的プロレタリア労働者はブルジョア社会の残党を根絶すべく働かねばならなくなる。しかし、この闘争とこの組織の目的がプロレタリア階級を搾取と国家支配から自由にすることだとすれば、案内者・教師・指導者の役割を新しい国家に委ねることなどできない。新しい国家は革命を全く逆の方向に向けることに関心を持つだろう。

その結果、新しい政府−−革命を食い物にし、多かれ少なかれ延長されるその「暫定的」権力期間を通じて活動する−−が新しく持続的な国家組織の官僚的・軍事的・経済的基礎を築き、その周囲には利権と特権の小型ネットワークが自然に作り上げられる。つまり、短期間で人が手に入れるのは、国家の廃絶ではなく、以前よりももっと強力でもっと精力的な国家であり、「数の上では小さい少数派搾取者の支配下に大多数の生産者を置きながら」自身に適した機能−−マルクスがそのようなものだと認識していたような−−を行使するようになるのだ。

これは、古代から近代までのあらゆる革命史が教えてくれる教訓である。そして、これはロシア革命の日々の発展によって追認されている。

確かに、(国家暴力は)旧権力に対抗して使用され始めている。だが、新しい権力がその立場を確固たるものにし続けるにつれ、これまで以上に頻繁に、これまで以上に激しく、独裁の腕力はプロレタリア階級それ自体に対して向けられている。プロレタリア階級の名においてこの独裁が樹立され、運営されているというのに!現在の(レーニンとトロツキーの)ロシア政府の行為が示しているのは、「プロレタリア独裁」とは、実質的に(それ以外はあり得ないわけだが)、政治政党の少数の指導者が都市と田舎にいる幅広いプロレタリア大衆に対して行使する警察・軍隊・政治・経済の独裁を意味している。

国家暴力は常に結局のところその対象に対して用いられる。対象の大多数は常にプロレタリア階級である。新しい政府は過去の支配階級を全体的にせよ部分的にせよ収用できるだろうが、それはただただプロレタリア階級の大部分を服従させる新しい支配階級を樹立するためだけに行われるのだ。

これが実現するのは、万人の財産が国家に独占的に譲渡され、政府そして政府を支持する少数の官僚・軍・警察をでっち上げている人々が、結局は富の真の所有者となってしまった時であろう。まず第一に、革命の失敗は自明のものとなろう。第二に、多くの人々が想像する様々な幻想にも関わらず、プロレタリア階級の状態は常に臣民階級の状態になってしまうであろう。["Anarchy and 'Scientific' Communism", in The Poverty of Statism, pp. 13-49, Albert Meltzer (ed.), pp. 26-31]

 ボルシェヴィズムに関するこうした主張に対して、現代のレーニン主義者の大部分は、そのイデオロギーと行為の形成に内戦が影響を及ぼしたと強調することでボルシェヴィキの権威主義を軽視する、という反応をするのが普通である。だが、これは、ボルシェヴィズムの現実(内戦前でさえ)がレトリックとは全くかけ離れていたのは何故か、という重要な問題を扱っていない。「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」で論じているように、アナキストは、それを説明するために、ボルシェヴィキのイデオロギーとそれが賛同していた社会構造のある種の側面を指摘できる。革命がぶつかる諸問題は、レーニン主義に内在する様々な限界と危険を表に出しただけであり、さらには、それらを際立ったやり方で形成したのである。将来の革命は、それが同様の問題に直面すると思われるが故に、レーニン主義イデオロギーと権威主義実践を採用しない方が賢明だという結論が引き出される。レーニン主義イデオロギーは権威主義実践を可能にし、確かに、中央集権化・党権力と階級権力の混同・前衛主義・国家資本主義と社会主義の同等化によってそれを促す。逆に、レーニン主義者が強調できることと言えば、あの革命は困難な状況で生じたという事実だけであり、次の時には「運命」はもっと自分達に寛大なものとなると期待するわけだ−−まるで、革命は、レーニン自身が1917年に記していたように、「困難な」情況の中で起きることも、「困難な」情況を創り出すこともないかのようだ!同様に、彼等は、自分達の政治の限界に盲目であるが故に、ロシア革命から何の教訓も引き出すことができない(1917年にボルシェヴィキが行ったことの繰り返しと、よりよい客観的条件を希望することを除いては)。従って、彼等は歴史を創造するのではなく、繰り返すだけに終わってしまうのだ。

 ならば、レーニンの「国家と革命」とボルシェヴィキ権力の現実をこのように分析することは我々を何処に導くのだろうか?異説を唱えるマルクス主義者サミュエル=ファーバーの結論がここでは適しているように思える。彼は次のように述べている。「人民委員会議(ソヴナルコム)がソヴィエトのCEC(中央執行委員会)とは分離した機関として創設されたというまさにその事実が、レーニンの国家と革命にも関わらず、政府の執行部門と立法部門の少なくともトップの機関が分離していたことが新しいソヴィエト制度に事実上残っていたことを示している。」このことは、「国家と革命が、『政権の座にあるレーニン主義』の政策指針の源泉として決定的役割を果たしていなかった」ということを意味している。結局、「革命直後、ボルシェヴィキは、主導的立法機関とは明らかに分離した執行権力を確立した。従って、現代左翼の一部は、国家と革命がレーニンの政府に対して持っていた重要性を非常に過大評価しているように思える。私は、この文書は、この文書が、権力を上手く奪取した直後の期間のための−−行動指針は言うに及ばず−−綱領的政治声明としてとは逆に、疑いもなく誠実ではあるが(!)、遠い先の社会−政治ヴィジョンとして理解することができると示したい。」[Farber, 前掲書, pp. 20-1 and p. 38]

 これは、この文書を見る一つのやり方ではある。別な観点からすれば、「行動指針」のように聞こえるよう作られた「遠い先の社会−政治ビジョン」は、当時即座に無視されたが、最悪の場合には欺瞞と大差なく、最良の場合でも、正統派マルクス主義ドグマにも関わらず権力を奪取するための理論的正当化と同じなのだ、という結論を導くだろう。レーニンが自身の本を書いた論理的根拠がいかなるものであれ、一つのことだけは真実である−−それは一度も実施されなかったのだ。だからこそ、今日のレーニン主義者が「レーニンが本当に求めていた」ことを理解しようとしてこの文書を読むように我々にせき立てるなど奇妙なのだ。特に、その公約のほとんどが実際に実施されなかったことを考えれば、そして、その全てが権力奪取後の6ヶ月以内に全く適用されなくなったことを考えれば。

 非常に良いように言えば、レーニンはこのヴィジョンを確かに適用したかったが、革命ロシアの現実・革命が直面している客観的諸問題がその適用をできなくした、と言える。これがロシア革命に関するレーニン主義者の標準的説明である。彼等は、レーニンの思想が、いかなる革命であってもほぼ直面する現実諸問題に対して全く非現実的だったということを認めていないようだ。これは、他のボルシェヴィキ指導部同様、レーニン自身が導き出した結論だった。「政権の座にあるレーニン主義」が現実に行った実践とそれが使った論拠からこれを見ることができる。だが、どういう訳か、レーニンの本は現代レーニン主義者によって今だに推薦されているのだ!

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