アナキズムFAQ

3. ロシア革命は前衛政党が機能することを確かに証明しているのか?

 証明していない。全く逆である。前衛主義の歴史を見れば、前衛主義は成功せず、失敗に終わっていることが分かる。実際、「民主的中央集権主義」の提唱者たちが指摘できるのは、自身のモデルの唯一の明白な成功例、つまりロシア革命だけである。レーニン主義者は、前衛党の利用に失敗すれば、必然的に、将来の革命を失敗に終わらせることになる、と警告する。

プロレタリア階級はその前衛を通じてのみ権力を獲得できる。この階級が前衛を信頼せず、階級が前衛を支持していなければ、権力獲得について語ることなど出来ない。ソヴィエトは、前衛と階級との唯一の組織的結び付きである。革命の内実にこの形態を与えるのはこの党だけである。これは、10月革命の肯定的経験によって証明され、他の国々(ドイツ・オーストリア・最終的にスペイン)の否定的経験によって証明されている。プロレタリア階級が何を求めているのかを知っている党の政治的指導なくして、どのようにしてこの階級が権力を掌握できるのか、これを実践で示した人も、文書で明確に説明しようとした人もいない。[Trotsky, Stalinism and Bolshevism]

 アナキストの耳には、こうした主張は場違いに聞こえる。結局、ロシア革命は実際に社会主義や、実現可能なソヴィエト民主主義さえをももたらしたのだろうか?全く逆であった。革命を単に政権の座にある政党の交替だと描かない限り、次のことを認めねばならない。ボルシェヴィキ党は1917年11月に権力を掌握したが、権力掌握を正当化した規定目標は最終的に達成されなかったのだ。つまり、「効果的」という言葉が「希求する目標を達成する効率的手段」を意味していると考えれば、前衛主義は効果的だとは証明されておらず、全く逆だったのである(希求する目標が、政党権力ではなく、社会主義社会だと仮定すればの話だが)。言うまでもなく、トロツキーはロシア革命の失敗を、ボルシェヴィキの政策と実践のせいではなく、「客観的」諸要因のせいにしていた。この主張については、「何がロシア革命の変質を引き起こしたのか?」で詳しく論じるため、ここでは論じない。

 レーニン主義者は自身が選んだ政党の効果を大きく主張しているが、厳然たる史実を見れば、前衛党の肯定的評価はされていない。皮肉なことに、ロシア革命すらもレーニン主義者の主張を反証している。事実はと言えば、1917年のボルシェヴィキ党は、「前衛主義」の支持者がそうだと主張したがっているような「民主的中央集権」組織では全くなかった。このように、1917年の成功は、「民主的中央集権主義」の諸原則を適用したからというよりも、それから逸脱したおかげなのだ。革命と党はその後に変質していったが、その特徴は、党の生活にこの原則を次第に適用していったことであった。

 従って、前衛主義が「効果」的で「効率」的だという主張を論駁するためには、その唯一無二の成功、つまりロシア革命を見れば良い。コーン−ベンディット兄弟は次のように主張している。『ロシア革命を前進させることとはほど遠く、1917年2月から10月の大衆闘争を阻止し、革命を官僚主義的反革命へと転化させたのはボルシェヴィキの責任だった−−いずれの場合も、党が持つ性質・構造・イデオロギーのためだった。』実際、『4月から10月まで、レーニンは党の指導部を大衆に同調させるために常に戦い続けねばならなかった。』[Obsolete Communism, p. 183, p. 187] 自身の「性質・構造・イデオロギー」を常に違反し続けることでのみ、ボルシェヴィキ党は革命で重要な役割を果たしていた。「民主的中央集権主義」の諸原則が適用されると、常に、ボルシェヴィキ党はコーン−ベンディット兄弟が認めていた役割を演じたのだった(そして、一旦権力の座につくと、党の否定的特徴が前面に出るようになった)。

 レーニン主義者でさえもこのことを認めており、トニー=クリフによれば、ボルシェヴィズムの歴史を通じて『ある種の保守主義が生じていた。』実際、『実践上で著しい転換期になると、レーニンは党機構の上層部に反対する下層部や、党機構全体に反対する一般党員に頼らねばならなかった。』[Lenin, vol. 2, p. 135]この事実は、偶然にも、レーニンの党図式が持つ基本的前提−−つまり、労働者階級のような広範の党員はブルジョアの影響を受けやすいため、中央指導部と上からの管理が必要だ−−を論駁しているのである。

 1905年と1917年の二つの革命を見ると、この「保守主義」がどれほど頻繁に出現し、大衆と党員の自発的行動に党の高次機関が立ち後れていることがどれほど多かったのかに驚かされる。1905年の革命は、「民主的中央集権主義」の非効率性の典型例である。1905年、ストライキなどの闘争を調整するために選ばれた労働者の代表者からなる評議会、ソヴィエトの勃興に直面して、ボルシェヴィキは何をして良いか分からなかった。トロツキーは次のように記している。『ボルシェヴィキのペテルブルグ委員会は、敵に包囲された大衆の無党派代表団というこの革新的機構を当初は恐れており、ソヴィエトに最後通達を示す以外何もできなかった。ソヴィエトに対する最後通達は、社会民主主義プログラムを即座に採用するか、解散するかだった。ペテルブルグのソヴィエト全体は、ボルシェヴィキの労働者部隊がそこにいたにも関わらず、瞬きもせずにこの最後通達を無視した。』[Stalin, vol. 1, p. 106] それ以上に、『党の中央委員会は10月27日に決議文を公刊し、他のボルシェヴィキ組織全てに対してこれを義務的な指令にしたのである。』[Oskar Anweiler, The Soviets, p. 77] ソヴィエトに対するボルシェヴィキの公然たる攻撃を止めたのは、レーニンの帰還だけだった(「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」セクション8を参照)。

 こうした攻撃の論理的根拠は重大である。サンクトペテルブルグのボルシェヴィキは次のように確信していた。『労働者評議会のような得体の知れない優柔不断な政治組織が代表し、また、代表せざるを得ないような類の政治的混合体よりも、階級方針に沿った強力な党だけが、プロレタリア政治運動を指導でき、その綱領の完全性を保持できる。』[Anweiler, 前掲書, p. 77 で引用] 言い換えれば、ソヴィエトは、労働者によって選ばれたが故に、労働者の関心事を反映できないというわけだ!この観点が何を示しているのかは1918年に明らかになった。ボルシェヴィキは、権力を保持すべくソヴィエトを区割りし、解体した(セクション6を参照)。ボルシェヴィキの立場がレーニンの「何をなすべきか? What is to be Done?」の主張から自ずと生じていることは明らかだ。つまり、レーニンの前衛主義の根底にある論理によって、ボルシェヴィキがソヴィエトに対して否定的役割を演じることが確実になり、これが、「民主的中央集権主義」と共にその役割が広範囲に広がることを保証したのである。自身の党の諸原則を無視し、ソヴィエトに留まることでしか一般のボルシェヴィキ党員は革命における肯定的役割を演じえなかった。上層部と下層部とのこうした違いは1917年にも繰り返されることとなる。

 このことを考えれば、レーニン主義者が1905年の革命史を書き換え始めたことは当然である。「左翼反対派」で反スターリン主義者のヴィクトル=セルジュは1920年代後半に次のように主張した。ペトログラードのソヴィエトは『トロツキーに指導され、ボルシェヴィキに影響を受けていた。』[Year One of the Russian Revolution, p. 36] 主張の前半分は正しいが、後半は間違っている。既に示したように、ボルシェヴィキは当初ソヴィエトに反対し、組織的にソヴィエトを弱体化させようと活動していた。驚くべきことではないが、当時のトロツキーはメンシェヴィキであり、ボルシェヴィキではなかった。結局、史上最も革命的な政党がどのようにしてこれほど酷く滅茶苦茶になり得たのだろうか?民主的中央集権主義は実践でどのようにしてこれほどまでに酷い足並みの乱れがあったのだろうか?当時、最善策は、足並みは乱れていないと示し、現実よりもボルシェヴィズムのレトリックに合った役割をボルシェヴィキに与えることだったのである。

 トロツキーも同じだった。彼は、いうまでもなく、1905年のこうした出来事が持つ明らかな示唆を否定した。ボルシェヴィキは『運動の波に対して自身をゆっくりと順応させ』、メンシェヴィキは『ソヴィエトで優勢だった』と認めながらも、『ソヴィエトの政策の全般的方向は、主として、ボルシェヴィキの方針に沿って進んでいた』と主張して、前衛主義を確保しようとしていた。従って、ボルシェヴィキの影響がなかったにも関わらず、革命に順応する際の緩慢さにも関わらず、ボルシェヴィキは実際に革命の主導的思想だったというわけだ!皮肉なことに、数ページ後には、スターリン主義者の主張をからかい、『数字による(その主張の)裏付けはない』と記して、スターリンは『メンシェヴィキを大衆から乖離させた』と述べている。[前掲書, p. 112 and p. 117] 残念なことに、彼は自身の主張にこの基準を適用しなかったのだ。

 もちろん、あらゆる政党は間違いを犯す。問題は「史上最も革命的な党」が1917年にどのように物事を進めたのか、である。確かに、この革命は前衛主義と「民主的中央集権主義」の妥当性を証明したのだろうか?最終的に革命は成功し、ボルシェヴィキ党は権力を掌握した。だが、1917年の明らかな成功は、「民主的中央集権主義」を適用したためではなかった。全く逆だった。1917年の神話は、高度に効率的な民主的中央集権主義前衛党が1917年11月にソヴィエトを支持して臨時政府を確実に転覆できるようにした(当時はそのように思われていた)、というものであるが、事実は幾分異なっている。むしろ、ボルシェヴィキ党は、1917年を通じて、充分自由な地元組織の集積体だった(個々の組織は中央の命令を喜んで無視しようとし、自律を表現しようとしていた)。内部に異議があり、内輪もめがあり、平凡な忠誠心が作り出したこと以上の規律などなかった。レーニンが望んだ「民主的中央集権主義」政党は、内戦と党の独裁を厳しくする過程でしか作り出されなかった。言い換えれば、革命が変質するに従って、党は「民主的中央集権主義」のようになっていったのだった。このように、レーニンの様々な追従者たち(スターリニスト・トロツキスト・その他多くの分派)は、一つの神話に同意しているのだ。これが、ロシア革命以降、同様の組織を再生できずにいることを説明してくれる。ボルシェヴィキがロシア革命で重要な役割を確かに演じていたと仮定するならば、それは、中央集権化され統制されたボルシェヴィキ党というレーニン主義の神話がその役割を演じていなかったからなのだ。実際、党が確かに前衛主義のやり方で運営されると、すぐに失敗してしまったのだ。

 この主張は、1917年の歴史を見れば証明できる。2月革命は自発的抗議行動とストライキで始まった。マレイ=ブクチンは次のように記している。『ボルシェヴィキのペトログラード組織は、ツァーを打倒する運命にある革命のまさにその前夜にストライキの呼びかけに反対した。幸運なことに、労働者はボルシェヴィキの「命令」を無視し、意地でもストライキを続行した。その後の出来事の中で、革命に最も驚いたのは、ボルシェヴィキを含む「革命的」政党だった。』[Post-Scarcity Anarchism, p. 194] トロツキーは当時のボルシェヴィキ指導者の一人の言葉を引用している。

政党中央部からの指導的発意は全く感じられなかった。ペトログラード=コミューンが検挙されても、中央委員会の代表団は次の日の指令を出すことができなかった。[Trotsky, History of the Russian Revolution, vol. 1, p. 147 で引用]

 最良の始まりではなかった(Not the best of starts)。もちろん、ボルシェヴィキの一般党員はデモ・市街戦・ストライキに参加し、自身の党が基盤としていたはずの諸原則を違反した。革命が進むにつれ、ボルシェヴィキ党の二重性も進歩した(つまり、一方では効果的になるために「民主的中央集権主義」から実際に逸脱し、他方では革命の障害となっていた枠組みへ強制的に戻そうとしていた)。だが、1917年中、「民主的中央集権主義」は、ボルシェヴィキ党が革命で確実に何らかの役割を果たすようにすべく無視された。この党の歴史家の一人がハッキリ述べているように、1917年と内戦勃発までは、現代の「前衛」政党ならば耐えられないようなやり方で運営されていた。

委員会は、上からの命令を受け入れる際に、慣例を無視した。民主的中央集権主義は、これまで同様に曖昧な内部管理原則であったが、少なくとも、組織的ヒエラルキーの上層部全ての命令に服従せねばならないと下部の実行組織に命じる際には有効だと一般にはされていた。だが、現実に町の委員会が断固たる指導力を押し付けることは難しかった。党の下部組織が命令の重要性を疑問視したときには常に、不服従が時代の掟だったのである。

郊外の委員会も統制を押し付けることは難しかった。党の下部組織の多くは高次権力を軽視し、地元の情況に適していると思われたり、一般的にもっと望ましいと思われたりする政策を追求するのが適当だと考えていた。このことは重大な秘密だとは見なされなかった。実際、個々の活動家に対してさえその意志を押し付ける際に様々な問題に遭遇しない党の委員会はなかった、と公然と認められていた。[Robert Service, The Bolshevik Party in Revolution 1917-1923, pp. 51-2]

 従って、規律正しく中央集権化されたトップダウンの党というレーニンの理念モデルは1902年以来詳しく説かれていたものの、党の運営がレーニンの願望に適合したことは一度もなかったのだ。サーヴィスは次のように述べている。『地方委員会から下部組織へと広がる統制の取れた命令ヒエラルキー』が『ボルシェヴィキの歴史で一度も存在したことはなかった。』革命の勢いのある時期に党に新しい党員が押し寄せたとき、党はその指導原則であるべきことを無視した。サーヴィスは繰り返し強調している。1917年のボルシェヴィキ党生活は、標準的な運営様式だと通常思われていること(ボルシェヴィズムの反対者と支持者双方に)と全く逆だった。『高次権力に対するアナキズム的態度は当時の標準だった。』そして『正気のボルシェヴィキ指導者の中で、自分が大衆社会主義政党を確立するという希望全てを放棄しない限り、ヒエラルキー型管理と統制が持つ厳格な基準を常に主張しようと意図できた者はいなかった。』つまり『1917年のロシアで、党の下部組織が、高次権力による要求と弁解を反駁することは、世界中で最も容易いことだったのだ。』彼は次のように強調している。『郊外と町の委員会は、公式的政策への服従を拒否することが多く、また、政策に勝手に対処し、積極的に妨害することもあった。』[前掲書, p. 80, p. 62 p. 56, p. 60]

 もちろん、これは二つの方向に作用した。町の委員会は『次の選挙前の時期に下部の見解を鼻であしらった。一方、どんなに頑張っても、郊外の委員会と様々な一般組織は、町の委員会への代表団に自分達の利益になるよう語って欲しいと伝える以上の調整は行えなかった。また、このやり方も失敗すると、下部組織は公然と代表団を非難し、あらゆる協力を拒否して破壊的戦術に訴えかねなかったのである。』[前掲書, pp. 52-3] 1918年初頭でさえ、ボルシェヴィキ党は、レーニンが望んだ「民主的中央集権」モデルには似ても似つかなかった。

従って、統制の取れた党委員会ヒエラルキーというイメージは、薄っぺらで人工的なベニヤ板に過ぎなかった。ボルシェヴィキ指導者はその下にある現実像のボロボロの表面を隠すためにこの板を利用した。下部組織と郊外の委員会が町の委員会にへつらう理由など何もなかった。また、町の委員会も、地方の委員会に対して、以前以上に大きな尊重を示す衝動は感じていなかった。[前掲書, p. 74]

 中央の命令にも関わらず、1917年のボルシェヴィキの成功を説明してくれるのは、この不服従、地元の自治と行動なのである。1917年のこの党は「専門的」革命家からなる高度に中央集権化され統制の取れた団体ではなかった。『地元レヴェルで党員の間に大きな変化が』見られた。『2月革命の時から、党員になる要件はほぼなくなり、ボルシェヴィキの一般党員は、マルクス主義についてほとんど理解せず、革命的行動の圧倒的切望程度で団結していた衝動的な新参者で肥大化していた。』[Alexander Rabinowitch, Prelude to Revolution, p. 41]

 こうした多くの新しい組合員(その多くが工業労働力に最近参加したばかりの農民たちだった)は党の政策と構造を急進化する効果を持っていた。レーニン主義の解説者でさえもが論じているのだが、4月に党の目的をレーニンが改訂した際にそれを支持したのは、この流入した党員たちだった。だが、党基盤のこうした急進化にも関わらず、党機構は党の願望とはなおも矛盾していた。トロツキーが認めているように、情況は『怠慢な党機構と進行中の大衆・思想との断固たる対決を必要としていた。』彼は次にように強調していた。『大衆は党よりも比較できないほど革命的であり、そして、党の委員会の委員よりもはるかに革命的だった。』皮肉なことに、トロツキーは、自分が通常党に与えていた役割を前提として、『レーニン抜きで、誰もこの予見できない情況についてどのような判断を下すべきか分からなかった』と認めている。[Stalin, vol. 1, p. 301, p. 305 and p. 297]

 これだけで充分である。ボルシェヴィキ党は、通常、史上最も「革命的」だと主張されているが、トロツキーは、指導的党員は何をなすべきか分かっていなかった、と認めている。彼は次のようにさえ論じている。『ボルシェヴィキ指導者がレーニン抜きで行動しなければならないときは、常に誤りを犯し、右翼に傾倒することが多かった。』[前掲書, p. 299] ボルシェヴィキに関するこの否定的意見は『ボルシェヴィキ左派、特に労働者』に対してさえ向けられる。こうした人々は、2月革命からレーニンが到着するまでの間、『折衷主義者(Compromisers)の現前で待機・和解・現実的退却をする』というボルシェヴィキ指導部の政策によって創り出された『この孤立状態を全力で打ち破ろうとしていた』と伝えられているのだが。トロツキーは次のように論じている。『革命が持つブルジョア的特徴とプロレタリア階級の孤立の危険に関する前提をどうやって論駁すべきか彼らは知らなかった。彼らは、歯を食いしばってこらえながら、指導者たちの指示に従っていた。』[History of the Russian Revolution, vol. 1, p. 273] 「革命的」党がその党員の政治意識を発展させると言うのであれば、控えめに言っても、一人の人物がいなければ、党全体がこうしたレベルに縮まってしまうなど奇妙に思える。

 トロツキーによれば、レーニンの到着は、急進的な一般党員に影響を与え、党機構の保守主義を打破することができるようにした。4月の終わりに、レーニンは何とかして党指導部の大多数を自分の側につけさせるようにできた。だが、トロツキーは次のように論じる。『レーニンと党の一般スタッフとの間で行われた4月の闘争は、この種の闘争で唯一のものではなかった。ボルシェヴィズムの歴史全体を通じて、党の指導者は皆、全ての最も重要な瞬間に、レーニンよりも右派に立っていた。』[前掲書, p. 305] このように、「民主的中央集権主義」が意図されたとおりに機能していたなら、党全体は、ほとんどの場合で誤った立場に賛成し続けていたであろう(当然、レーニンはほとんど常に正しかったと仮定しながら)。

 トロツキーにとって、『レーニンが影響力を行使したのは、個人としてではなく、党に対して階級の、党機構に対して党の影響力を埋め込んだためだった。』[Stalin, vol. 1, p. 299] だが、これは、レーニンが構築した機構であり、そこに「革命的」党の運営方法・レーニンが党を率いる方法に関する彼のヴィジョンを埋め込んだのである。言い換えれば、党機構は党員に遅れ、党員が階級に遅れていたと論じることは、レーニンの組織的枠組みの破産を示しているのだ。この「遅れ」は、それ以上に、党員から党が独立し、大衆から党員が独立していたことを示している。レーニンが繰り返し述べていた目的が党による権力奪取だった(階級権力が表明されるのは党権力だけだ、実際、階級権力と党権力は同じだ、という怪しげな前提に基づく)以上、この独立性は重大な危険を保持していたのであり、目標が達成されてこの危険は明らかになったのである。

 トロツキーは次の疑問を問うている。『どのような奇跡によって、レーニンは数週間という短い期間で党の方向性を新しい道筋に導くことができたのだろうか?』彼はハッキリと次のように解答している。『レーニンの個人的特性と客観的情況である。』[前掲書] 党組織の民主的特徴については何も語られていない。このことは、レーニン抜きにして、一般党員が党機構の影響力を自分達の利益になるように変えることはできなかった、と示している。トロツキーはこのことをほぼ認めているようだ。

よくあることだが、運動中の階級と党機構の関心との間には激しい分裂が発展した。優秀な革命訓練の恩恵を受けていたボルシェヴィキ党の幹部すらも、君主制が打倒されたまさにその日に、大衆を無視し、自身の特殊な関心事と党機構の関心事とを同一視しようとしていたことは間違いない。[Stalin, vol. 1, p. 298]

 「民主的中央集権主義」の諸原則が埋め込まれた党機構が実際に割り当てられた課題を遂行できなかったことが証明されたのだった。レーニンがいなければ党員が党機構に打ち勝つ事ができたとは思えない。

レーニンが強かったのは、彼が階級闘争の法則を理解していたからだけではなく、彼の耳が運動中の大衆の奮起に完全に調和していたからだった。彼は、党機構よりもプロレタリア階級の前衛党を代表していた。彼は、地下政党支持の先鋭を担う数千人の労働者が自分を支持してくれると断固として確信していた。その当時の大衆は党よりも革命的であり、党は党機構よりも革命的だった。3月になると、労働者と兵士の実際の態度が多くの情況で荒々しく表に現れるようになり、ボルシェヴィキを含む政党全てが示した指示と大きく対立した。[前掲書, p. 299]

 地元の政党集団が党機構を無視し、保守主義・惰性・官僚制・よそよそしさの傾向を持つ党機構に直面して自律と発意を実践したのは当然だった。党機構・党機構が基盤とする諸原則・革命と党員の必要性のこうした対立は、1917年全体で常に表明されていた。

つまり、革命の成功には、2月から10月まで理論上では行わねばならないとされていた革命的役割を明らかに果たせなかった「党の最高集団」に反対する行動が必要だったのだ。大衆自身が、党と共に、もしくは党に反対しさえして、革命を創り出した−−この程度のことは、少なくとも歴史家としてのトロツキーには明らかだった。だが、正しい結論を引き出さずに、理論家としてのトロツキーは、大衆は指導者抜きには革命を起こせないと主張し続けた。[Daniel & Gabriel Cohn-Bendit, 前掲書, p. 188]

 4月から進展した革命の発展を見れば、党ヒエラルキーの緩慢さに驚かされる。あらゆる革命的高揚において、党は、大衆のニーズと、自分達に最も近い地元党集団のニーズとに対応するという課題を行わなかった。このことは、6月、7月、10月に見ることができる。それぞれの時点で、一般党員集団やレーニンは、効果的に行動するために、常に、自身の党原則を破った。レーニンの下であっても党のよそよそしさと保守主義は、常に見られたのである。

 例えば、6月10日にペトログラードのボルシェヴィキが計画していたデモを中央委員会が中止したことを論じる際に、党ヒエラルキーの無反応を見ることができる。『レーニンとジノヴィエフによるスピーチ(自分達の行為を正当化するための)は、疑いもなく、ペテルブルグ委員会を満足させた。どちらかと言えば、彼らの説明は、良くても党指導部は無責任に・不完全に行動し、現実との接点を全く持っていないという感情を強める手助けをしたように思える。』実際、多くの人々が『デモを行う必要があるという軍事組織のアピールに対応するのに余りにも長い時間かかっていた、と中央委員会を非難していた。』[Rabinowitch, 前掲書, p. 88 と p. 92]

 地方政府に対して直接行動を行うべきかどうかに関して1917年6月後半に行われた議論の最中に、下部機関の現状評価と中央委員会の現状評価には『大きな隔たり』があった [Rabinowitch, 前掲書, p. 129]。実際、ボルシェヴィキの軍事集団からやってきた代理人の中には、Lashevich(昔ながらのボルシェヴィキ)だけが、中央委員会の立場に賛同する発言をした。彼は、『ボルシェヴィキが終わり、アナキズムが始まるような場所で暮らすことなどできない』と記していた [Rabinowitch, 前掲書, p. 129 で引用]

 7月に、地元党集団と中央委員会との亀裂は増大した。セクション1で述べたように、この自発的蜂起では、それを刺激した党の闘士たち(アナキストと共に)が主導的役割を果たしたにも関わらず、ボルシェヴィキ指導部は反対した。指導部が自分達の闘士に大衆を制止するように呼びかけていた一方で、この事件に積極的役割を果たした一般党員は党指導部を無視した。「火消し役」の役割を演じるよう求められることにウンザリし、党の闘士は、労働者階級との信頼関係を維持するために党の規律を拒否した。一般の活動家は、運動の加速度化に直面し、中央委員会への明らかな不満を示した。次のように論じている者もいた。中央委員会は『直近で発展していたことに気がつかず、街路での運動に反対することを決めた。』結局、中央委員会の『大衆を制止するよう求めた』アピールは『プラウダ紙から削除され、党の優柔不断さが第一ページの大きな空欄に示されることとなった。』[Rabinowitch, 前掲書, p. 150, p. 159, P. 175] 究極的に、指導部の優柔不断は、国家権力を自ら掌握できると指導部が考えていなかったという事実によって説明できる。トロツキーは次のように記していた。『民衆の意識状態が、7月にボルシェヴィキによる権力掌握を不可能にした。』[History of the Russian Revolution, vol. 2, p. 81]

 もちろん、党ヒエラルキーの優柔不断はある効果を持っていた。クロンシュタットのアナキストは蜂起の始まりとしてデモを見ていたが、そこにいたボルシェヴィキは、アナキストと左翼社会革命党(政府に対して圧力を行使する手段としてデモを見ていた)の『真ん中でどっちつかずに揺れ動いて』いた。これは、ボルシェヴィキが『党の中央委員会の優柔不断によって骨抜きになって』いたからだった [Rabinowitch, 前掲書, p. 187]。これほどまで多くのボルシェヴィキ党組織が発展し、自身の自律性と行動能力を保護していたのも当然だったのだ!

 注目に値すべきなのは、7月蜂起を組織し支援する手助けをした主要なボルシェヴィキ集団の一つである軍事委員会が、中央委員会が叛乱の敗北後に軍事委員会もペテルブルグ委員会も蜂起をしてはならないと命じた後で、自身の新聞を発行し始めたことだった。この新聞は、『自分達の正当な特権だと見なしたことを腹立たしげに主張した。』そして、『不確かな言葉を使わずに、独立した新聞を発刊する権利を断言し、その言葉を借りれば「最近の中央委員会選挙で始まった極度に特異な特徴を持つ迫害・弾圧システム」に公式的に抗議したのだった。』[Rabinowitch, 前掲書, p. 227] 疑いもなく、その決定を実施できなくなったという事実のために、中央委員会は退却した。

 コーン−ベンディット兄弟は次のように論じている。『革命後の5ヶ月間、10月蜂起前の3ヶ月間、大衆はなおも自治していた。そして、ボルシェヴィキの前衛は単に規則に従わねばならなかった。』[前掲書, p. 186] 前衛の内部では、中央委員会が一般党員と接触していないことがハッキリしていた。一般党員は、仲間の労働者を捨てず、前衛を無視したのだった。

 10月になっても、党機構は革命の必要性に立ち後れていた。レーニンは、中央委員会の頭上を飛び越えることでのみ自分の観点を強いることができた。トロツキーの説明を引用すれば、『当時、彼は、ペトログラード指導部の破滅的フェビアニズム』の『猛烈な批判に満足せず』、『抗議と称して中央委員会を辞任した。』[History of the Russian Revolution, vol. 3, p. 131] トロツキーは次のようにレーニンを引用している。

私は、中央委員会から引退する許可を求めざるを得なかった。その結果、私はそのようにし、党の下部集団と党大会において扇動する自由を自分に与えたのである。[Trotsky, 前掲書, p. 131 で引用]

 つまり、10月革命はレーニンが自分の生涯をかけて擁護していた諸原則を露骨に違反することで勃発したのだ。実際、レーニン以外の人がこのことを行えば、レーニンとその多くの支持者たちが、党の「規律」に対処できない「プチブルインテリ」の行為だと却下したであろう。党の「下部集団」に対するアピールをレーニンが決めたことが事実である以上、これ自体が重大である。単純に言って、党機構は、「民主的」であるというよりも、下から上へのコミュニケーションと管理を効果的に阻害していたのだ。もっと急進的な党員が見れば、彼は『中央委員会の頭上を飛び越えることでのみ自分の観点を強いることができた』[Daniel and Gabriel Cohn-Bendit, 前掲書, p. 187] 彼は、『ペトログラードとモスクワの委員会』に抗議文が確実に届くようにし、同時に、確実に『手紙のコピーが地域の支部の信頼できる労働者党員の手にわたる』ようにした。10月初旬までに(「中央委員会の頭上を飛び越え」)、彼は、『ペトログラードとモスクワの委員会に対して直に』蜂起を起こすよう手紙を書いた。同時に、『ペトログラードの党大会にアピールし、蜂起が望ましいことを断固とした言葉で語った』[Trotsky, 前掲書, p. 131 と p. 132]

 10月、レーニンは、『闘争に対するある種の恐れ、この闘争を決議文・抗議行動・大会に置き換えようとする傾向』を導いていた『揺らぎ』(と彼は呼んでいた)と戦わねばならなかった[Trotsky, 前掲書, p. 132 による引用]。トロツキーにとって、このことは『中央委員会に対する党の一種の直接的対抗』を示しており、『革命の運命の問題だった』が故に必要であり、だからこそ『他の検討材料は捨て去られたのだった。』[Trotsky, 前掲書, pp. 132-3] 10月8日、レーニンが次の北部ソヴィエト大会のボルシェヴィキ代表団に対してこの問題に関する演説を行った際、『党の決定はなく』、『党の高次諸機関は今だにその考えを述べていない』ため、彼は『個人的に』それを行った [Trotsky, 前掲書, p. 133]。究極的に、中央委員会はレーニンの立場を認めたが、党の諸原則とは食い違ったやり方の圧力でそうしたのだった。

 ボルシェヴィキのイメージと現実との乖離がその成功を説明してくれる。党が「民主的中央集権主義」の諸原則を適用したり、それに忠実であり続けたりしていたなら、運動の中で重要な役割を果たしたとは考えにくい。アレクサンダー=ラビノウィッチが論じているように、ボルシェヴィキの組織的統一と規律は『非常に誇張されて』おり、実際、1917年のボルシェヴィキの成功は、『党の内部の比較的民主的で寛容で分権型の構造と運営方法、さらには、本質的にオープンで大衆型の−−伝統的レーニン主義モデルとは全く正反対の−−特徴』にあった。彼は続けて述べている。1917年、『党の様々な下部組織は、ペテルブルグ委員会と軍事組織と共に、重大な独立性と発意を容認されていた。最も重要なことは、こうした下部団体が、諸条件が急速に変化する中で、独自の戦術をあつらえ、自分達の支持者に合わせてアピールできたことだった。莫大な数の新党員が党に集まってきた。新しい党員の中には、何万人という労働者と兵士たちがおり、マルクス主義についてどちらかと言えばほとんど何も知らず、党の規律など気にしてはいなかった。』例えば、『全ての権力をソヴィエトに』というスローガンは、『7月後半の第6回党大会で公式的に撤回されたが、この変化が地元レベルに根差すことはなかったのだった。』[The Bolsheviks Come to Power, p. 311, p. 312, p. 313]

 誇張するわけではないが、現在の前衛党のメンバーが1917年のボルシェヴィキ一般党員のように行動するなら、即座に除名されるだろう(ロシア革命以降こうした政党がほんの僅かでも成功した事がない理由をこのことが説明してくれると思われる)。だが、この下からの発酵は、内戦の始まりと共にすぐさま党内部で損なわれてしまった。「民主的中央集権主義」が実際に党内部で適用され、組織原則として明確にされたのはこの時期だった。

内戦前のアナキズム的日々から全く方向転換してしまった。中央委員会は常に服従と協力の美徳を擁護していたが、1917年の一般党員は、他の高次権力が行ったアピールに対して行ったように、こうした懇願も気にしなかった。戦時の非常事態が今やこのテーマを思いのままに詳しく述べる機会を提供してくれたのだった。[Service, 前掲書, p. 91]

 サーヴィスは、『党内部での厳格な命令ヒエラルキーについて数年間無駄に語っていたボルシェヴィキが、遂に思想を実践に移し始めた際のスピードの速さは、非常に異例のことに思える』と強調している。[前掲書, p. 96]

 言い換えれば、十全に羽の生えそろった「民主的中央集権主義」へのボルシェヴィキ党の収束は、革命が変質する中で起こったのである。これは、党内と社会内部で権威主義が勃興した結果であると共に、その原因の一つでもあった。このように、現代のレーニン支持者が使っているモデルは、革命の凋落期の党モデルであって、絶頂期のモデルではない。これは当然のことだ。一旦権力を持つと、ボルシェヴィキ党は国家資本主義体制をロシア人民に押し付けた。このプロセスを支援すべく発展した党構造が、同時に、ブルジョア的態度と組織に基づいていたからといって驚くべき事だろうか?単純に言って、レーニンが擁護した党モデルは、革命中にはそれほど有効ではなく、革命後の体制でヒエラルキーと権威を促進する際に著しく有効だったのだ。このモデルは、古い支配エリートを、急進的インテリと元労働者・元農民から成る別なエリートに置き換えただけである。

 これは、レーニンが創り出したヒエラルキー型トップダウンの党の性質のためだった。党の基部の大部分は労働者階級だったが、指導部は違っていた。専任の革命家である指導部は、中産階級のインテリか(時々ではあるが)元労働者や(もっと稀だが)元農民であり、自分の階級を離れて党機構の一部になっていた。党大会の代理人でさえ、党員の階級基盤を真に反映してはいなかった。例えば、1917年7月終わりに行われた第6回党大会では、代理人の多くはホワイトカラーなどで占められていた(59.1%〜40.9%)。[Cliff, Lenin, vol. 2, p. 160] 従って、党には1917年に労働者階級党員が多く集まっていたが、党の指導部にそれが反映されていたとは言い難い。指導部は非労働者階級分子で占められ続けていた。ボルシェヴィキ党は、本物の労働者階級組織ではなく、非労働者階級分子が率いるヒエラルキー集団だった。労働者階級基部は、1917年の革命中にさえ、効果的に指導部を管理することはできなかった。こうした新しく参加し、急進化した労働者階級党員が、党構造と党を規定しているイデオロギーを無視したからこそ、ボルシェヴィキは効果的になったのである。

 革命後、ボルシェヴィキ党員は減少した。重要なことだが、『1918年初頭に始まった党員の減少』は、『一般に思われていることとは逆に、中央委員会が、党はその「好ましからぬ」分子を粛正しなければならない、と命令したした盛夏よりも数ヶ月前に』生じ始めていた。こうした党員の喪失は二つのことを反映していた。まず第一に、工業労働者階級の規模が一般に減少したことである。つまり、田舎からやってきて、1917年にボルシェヴィキに群がった急進化した新しい分子は田舎に帰ったのである。第二に、ボルシェヴィキ体制の現実のために、民衆の支持をボルシェヴィキが失ったことである。これは、ボルシェヴィキが党員を失ったにも関わらず、左翼SRは10万人規模へとほぼ二倍になったことからも分かる(メンシェヴィキも同様の党員数を主張していた)。非プロレタリア階級が離れてしまったというよりも、『明らかに、大量に離れたのは工業労働者だった可能性が高い。結局、非ボルシェヴィキの間だけで工場環境の人民委員会議が次第にその評判を落としていたと仮定するのは、奇妙であろう。』当然、権力の立場にいることを考えれば、『労働者階級党員の割合が減少するに連れ、中産階級からの新党員が増え、もはや工業労働者が数の上で優位を占めない党へと着実に変化し始めていった。』1918年下旬までに、党員は再び増加し始めたが、『大部分の新党員は、労働者階級出身ではなかった。労働者階級出身のボルシェヴィキ党員の割合は、この年の始めには57%だったが年の終わりには48%へと落ち込んだ。』労働者階級出身だと分類された人々の中で何人が労働者階級の仕事に就いているのかは明らかになっていないことを記しておかねばなるまい。[Robert Service, 前掲書, p. 70, pp. 70-1, p. 90] その結果、前衛党が構造化される方法とそれ以前には無視されていた前衛主義諸原則の適用のおかげで、新しい支配エリートが生まれたのだった。

 要約すれば、ロシア革命の経験は、実際に、「前衛」モデルの妥当性を示してはいない。1917年にボルシェヴィキ党は、党員(レーニンを含む)が党の組織諸原則を違反したからこそ、革命で主導的役割を果たせたのだ。実際の革命ともっと急進的な新党員の殺到に直面して、党はアナキズム思想である自律・地元の発意・現場の現実とは無関係な中央からの命令の無視を実践せざるを得なかったのだ。党がトップダウンでヒエラルキー型の「民主的中央集権主義」諸原則を適用しようとすると、運動のニーズを調整できなくなってしまった。それ以上に、そうした諸原則が最終的に適用されると、革命の変質が確実になったのである。セクションH.5で論じたように、これは予期されたことだったのだ。

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