西班牙リバータリアン運動の概要


本論文は、AK Pressから出版されている小冊子、To Remember Spain: The Anarchist and Syndicalist Revolution of 1936に載っている論文である。原文は、Overviewで読むことが出来る。なお、視覚的な問題で、「スペイン」は「西班牙」と漢字表記しておいた。また、原注は本文内に示してある。(訳者)

1936年7月18日の午前、フランシスコ=フランコ将軍は、西班牙領北アフリカのラス=パルマスからクーデター宣言を発布した。西班牙の反動将校が、法的に選ばれたマドリー人民戦線政府に対する闘争を公に開始したのだ。

フランコのクーデター宣言によって西班牙将校が大勝利をおさめた場合には、この議会制共和国が、ドイツとイタリアの政権を制度的にモデルにした、明白な権威主義国家に取って代わられる、ということはほとんど間違いなかった。フランコ主義軍隊、自称「国粋主義者」は、当時のファシスト運動が持つ罠とイデオロギー全てを示していた。平手を掲げた敬礼、秩序・義務・服従といった「民族と土(folk-soil)」哲学にアピールし、労働運動を打ち砕き、全ての政治的不一致に終止符を打つことに公然と関与しようとしていたのだ。世界では、西班牙将校によって始められた闘争は、「ファシズムの力」と1930年代に莫大な数に達していた「民主主義の力」との階級闘争だと思われていた。しかし、西班牙の闘争をイタリア・ドイツ・オーストリアの闘争と区別していたのは、「民主主義の力」が西班牙軍に敵対するときに見せた強固な抵抗だった。フランコと軍部の共犯者たちは、陸軍将校幹部の中では幅広い支持を享受していたが、自分達が出くわす民衆抵抗を全く誤算していたのだ。いわゆる「西班牙市民戦争」はほぼ三年ほど−−1936年7月から1939年3月まで−−続き、推定百万人の命を奪ったのだった。

1930年代の大部分の人々には、初めて、眩しいほどの勇気を持った全民衆が、欧州の中央と南部でファシスト運動の惨すぎる成功を食い止めている、と見えていたのだった。その3年前、ヒトラーは、マルクス主義主導の強固なドイツ労働運動からほとんど抵抗されずにドイツを手に入れていた。その2年前に、オーストリアは、社会主義労働者がヴィエナで役に立たない路上戦を一週間繰り広げた後に、本質的に権威主義国家に屈服したのであった。いたる所で、ファシズムが「行進」し、「民主主義」が退却しているように見えていた。だが、西班牙は重大に抵抗していたのだ−−フランコがドイツとイタリアから兵器・飛行機・軍隊を得ていたにも関わらず、数年間にわたって抵抗し続けたのだ。急進主義者にとっても自由主義者にとっても、西班牙市民戦争は、イベリア半島だけで行われていたのではなかった。「民主主義」が国内外のファシスト運動の大波に脅かされていると思われた全ての国で行われていたのだ。西班牙市民戦争は、権威主義的将校に対して民主的議会制国家を守るという、勇敢で、民衆からの支持もあった、自由主義共和国での内乱だったと我々は信じ込まされている−−正に今日まで、大部分の本に、そして、卑劣な映画ドキュメンタリー、マドリーに死すによって伝えられている幻想だ。

だが、西班牙市民戦争が、実際は、何百万という労働者と農民による徹底的な社会革命だったということは、西班牙の外ではほとんど知られていない。彼らは、不実な共和国政権を救おうとしていたのではなく、西班牙社会を革命的方向に沿って再構築しようとしていたのだ。報道機関は、こうした労働者と農民が、フランコ主義者がそうしたのとほぼ同じぐらい激しい憎悪をもって共和国を見ていたということを教えはしない。実際に、彼らを裏切って将軍に売り飛ばそうとしていた「共和国」大臣たちに対して、労働者・農民は自身のイニシアティブでほとんどを行動しながら、武器を奪うために兵器庫と狩猟用品店を襲撃し、驚くべき勇気を持って、西班牙の大多数の都市・街で武装陰謀を早産したのだ。こうした労働者と農民が、共和主義者所有地にある工場と土地の大部分を差し押さえ、集産化し、労働者の委員会と農民の集会による国の生産資源の直接管理に基づいた新しい社会秩序を確立した、という事実はほぼ完全に明白だ。共和国の諸制度は、粉微塵になり、軍部と警察権力の大部分によって放棄されていた一方で、労働者と農民は自身の諸制度を創り出して共和国西班牙における都市群の行政を行い、自身の武装労働者小隊を形成して市街を警備し、フランコ主義軍隊と戦うための優れた革命的義勇軍を設立した。この義勇軍は、自発的なものであり、男女が自分の指揮官を選び、軍部における階級はいかなる社会的・物質的・象徴的な区別も授与されてはいなかった。当時は余り知られていなかったが、西班牙労働者と農民が大規模な社会革命を創り出したのだ。彼らは、自身の革命的社会形態を作り出し、国の行政を行っただけでなく、充分訓練され充分物資補給のあった軍隊との戦争を行ったのだった。「西班牙市民戦争」は、リベラル自由民主主義とファシスト軍隊との政治闘争だったのではない。西班牙の労働者・農民が、その歴史的階級敵対者、つまり過去の遺産を受け継いでいる土地を所有した大公と教権支持の大君主から、最近になって生じた産業ブルジョア階級と銀行家まで、を相手にした深い社会経済的闘争だったのだ。

この闘争が持つ革命的範囲は我々から−−「我々」とは、インドシナ半島における闘争に反応していた60年代の若者と同じ情熱と苦痛を持って西班牙の闘争に反応していた「アカ」の三十年代にいた、共産党に大きく影響を受けた何千人もの急進主義者のことである−−覆い隠されている。我々は、この情熱を説明しようとして、明らかに強力な反スターリン主義の信念を持った急進主義者だったオーエルやボルクナウに戻る必要はない。バーネット・ボロテンは、当時マドリーに偶然いたどちらかと言えば政治的に無害なユナイテッド=プレスのリポーターであり、大いなる隠蔽 という優れた記録研究の最初の一文で西班牙闘争の誤解に対する道徳的怒りを告白している。

1936年7月の西班牙市民戦争勃発後には、反フランコ陣営の深遠なる社会革命が続いた−−ボルシェビキ革命の初期段階よりもある面ではずっと深遠な−−にもかかわらず、西班牙外の何百万という明敏な人々には、その深さと広さだけでなく、その存在すらも無視されていたのだ。歴史に比類なき二枚舌と隠蔽政策のためだ。

真っ先に、世界のこうした詐欺を実践し、西班牙それ自体において革命の性質を誤解したのは、共産党員だった。市民戦争が始まった当初は微小な少数派だったが、正にこの暴動が提起した多岐にわたる機会を有効に使って、1939年に闘争が終わる前には、民主的口絵の背後で左翼陣営の支配的力になっていた。

この詐欺の詳細について書こうとすれば、数分冊の分厚い本になってしまうだろう。西班牙を取り囲む沈黙は、やましい心のように、この事件が今も全く生きているという事実を示している−−この出来事を誤解しようという努力がそうであるように。ほぼ40年を経過しても、傷は癒されなかったのだ。事実、最近、スターリニズムがリバイバルしているように、西班牙の反革命という膿を生み出した病は米国左翼にいまだに残っている。だが、西班牙におけるスターリニスト反革命を扱うことは、この文章の範囲外である。ただ、1936年7月以前に開花していた革命的諸傾向を検証し、西班牙の労働者階級と農民にそれらの諸傾向がどのように影響を与えていたのかを探求することは有用であろう。そのコレクティブは、純潔な民衆の自発性の産物などではなかったし(民衆の自発性は重要なものだったが)、伝統的な西班牙村落社会が持っていた集産主義的遺産によって大規模に育成されていもいなかった。革命思想と革命運動がそれ自体で重要な役割を演じていたのであり、その影響は綿密な検証に値するのである。

西班牙将校は1936年7月に軍部反乱を開始した。西班牙の労働者と農民は社会革命でそれに応じた。この革命はアナキズム的特徴を大きく持っていた。私はこのことを挑発的に述べているのだ。社会主義の UGT がアナルコサンジカリズムの CNT と数の上では同じぐらい大規模だったにも関わらずだ(原註)。

(原註:UGT と CNT はどちらも1936年の夏までに百万人以上のメンバーを持っていたと思われる。非公式的で高度に官僚制度的な UGT は、そのメンバー数を誇張しがちであった。もっと無定形で権力分散的な CNT−−二つの労働連合の中でもっと迫害されていたもの−−は、そのメンバー統計が示しているように思えるよりも、もっと西班牙労働者階級に大きな影響を行使していることが多かった。)

軍部反乱の最初の数ヶ月間、マドリーにいる社会主義の労働者達は、バルセロナのアナルコサンジカリスト労働者達と同じぐらい過激に行動していることが多かった。自身の義勇軍を作り、街路パトロールを組織し、数多くの戦略的工場を労働者委員会の制御下に置きながら収用していた。同様に、カスティージャ地方とエストレマドゥーラ地方の社会主義農民はコレクティブを組織し、その多くは、アラゴンとレヴァントのアナキスト農民が創ったものと同じぐらいリバータリアン的だった。革命開始時の「アナーキーな」段階では、それ以前の諸革命の開始段階と同様、「大衆」が社会の直接管理を引き受け、自身のリバータリアン社会行政を即興で創り出すという優れた活力を示したのだった。

しかし、この開始段階を振り返ると、西班牙のコレクティブの持続性・その社会的規模・スターリニスト反革命に対する抵抗は、それらがどの程度アナキズムの影響下にあったのかに大きく依存していた、と述べることが正しい。西班牙革命をそれ以前の諸革命と区別していることは、西班牙経済の大部分が労働者委員会と農民集会の手中に置かれたとか、民主的に選ばれた義勇軍システムを確立していたといった事実だけではない。こうした社会組織は、程度は様々だが、パリコミューンや、ロシア革命初期にも出現していた。西班牙革命を唯一無二のものになさしめていることは、労働者管理とコレクティブが、ほぼ三世代にわたって擁護されつづけ、いわゆる「共和主義」陣営を(義勇軍システムの運命と共に)分断する最も重大な問題の一つになったということだった。そのリバータリアン社会組織の範囲のために、西班牙革命はボルシェビキ革命よりも「もっと深遠な」(ボロテンの言葉を借りれば)ものだと判明していただけでなく、深く根差したアナキズム=イデオロギーの影響とアナキスト義勇軍の剛勇が実質的に市民戦争内に市民戦争を創りだしたのだった。

実際、多くの点で、1936年の革命は60年以上にもわたる西班牙におけるアナキストの煽動と活動の絶頂だったのだ。このことを理解するためには、1870年代初頭にまで戻らねばならない。当時、イタリア人アナキスト、ジュゼッペ・ファネッリがバクーニンの思想をマドリーとバルセロナの労働者と知識人に紹介した。ジェラルド=ブレナンが非常に興味深く述べている、ファネッリがマドリーで Fomento de las Artes の青年労働者と出会った話は、ほぼ伝説になっている。背が高く髭面で、西班牙語を一言も知らなかったイタリア人アナキストが、少数だが熱狂的な、しかもフランス語とイタリア語を自由自在に混ぜ合わせながらの話などほとんど理解できなかった聴衆に対して行った爆発的スピーチ。全くの擬態・音調の抑揚・同族語をたっぷりと使用したおかげで、ファネッリは、グループの信奉を獲得し、国際労働者連盟、いわゆる「第一インターナショナル」の創設的西班牙支部を確立するのに充分なほどバクーニンの思想を見事に伝えたのだった。それ以来、「インターナショナリスト」(初期の西班牙アナキストはそう呼ばれていた)は、マドリーとバルセロナのサークルから西班牙全土へと急速に拡大し、カタルーニャとアンダルシアに特に強力に定着したのだった。1872年9月の IWMA ハーグ大会におけるマルクス主義者とバクーニン主義者との決定的分断の後も、西班牙支部はその一般的見解として圧倒的にバクーニン主義のままであり続けた。マルクス主義は世紀の変わり目になるまで西班牙における顕著な運動とはならなかった。労働運動において評価し得るほどの力になった後でさえ、1930年代に充分突入するまで、全く改良主義のままだった。創世期の大部分で、西班牙社会党と UGT の強みは、マドリーのような行政領域にあり、バルセロナのような労働者階級が優勢な都市にではなかったのだ(原註)。

(原註:マドリーは、大部分社会党の労働運動だったにも関わらず、熱烈に活動的なアナキズム運動の本拠地であった。マドリーの建築労働者は、非常にアナルコサンジカリズム的だっただけでなく、世紀の変わり目には、多くのマドリー知識人が、アナキズムにコミットし、アナキスト労働者が西班牙インテリゲンチャとの繋がりを立ち切った後でも、ずっと残っていた有名な運動の理論的伝統を確立したのだった。)

マルクス主義は、非常に熟練し、プラグマティックで、どちらかといえば権威主義的なカスティーリャ人にアピールしていたものだった。アナキズムは熟練しておらず、理想主義的なカタルーニャ人と、独立心旺盛で自由を愛しているアンダルシアとレヴァントの山村民にアピールしていることが多かった。アンダルシアにいる大多数の地方日雇い労働者、つまり、ブラセーロは、ヨーロッパ社会の中で、今日も最も抑圧され貧乏な社会階層に属しているが、アナキストに従うことが多かった。しかし、その忠誠心は、日々の運命と共に変化したのだ。動乱期には、彼らは IWMA のバクーニン主義と西班牙におけるその後継組織の地位を高め、反動の時代には同等数の規模でそれから離れてしまっただけだったのだ。

しかし、西班牙アナキズムの運命が地域毎・時代毎にどれほど異なっていたにせよ、この60年間に西班牙に存在していたいかなる革命運動も本質的にアナキズム的だった。アナキズムがマルクス主義の社会民主主義的組織の前に、そしてその後に第一次世界大戦後のボルシェビキ的組織の前に衰え始めるときでさえ、西班牙のアナキズムはその莫大な影響力と革命的活力を維持していたのだった。急進的な立場からすれば、西班牙労働運動の歴史は、リバータリアン的でありつづけ、西班牙におけるマルクス主義運動の輪郭を定義する役目を果たしていることが多かったのである。『一般的に言って、社会党エリアにおける小規模だが充分組織されたアナキスト集団が、社会党員を左翼へと駆り立てていた』とブレナンは記述している。『だが、顕著なアナキスト地域では、社会党員ははっきり言って改良主義的だったのだ。』西班牙労働運動の新陳代謝を決定していたのは、社会主義ではなく、アナキズムだったのだ−−西班牙中に繰り返し広がっていた重大なゼネスト、アルダルシア地方の町や村そしてバルセロナで繰り返し勃発した暴動、地中海沿岸都市での労働者義勇軍と雇用者が雇ったごろつきどもとの銃撃戦だったのだ。

大切な事は、西班牙アナキズムは綿密な理論母体に埋めこまれた単なる一プログラムだったのではない、ということだ。アナキズムは一つの生活方法なのだ。その一部は、西班牙労働者階級人民の生活に、つまり、田舎の密接に編みこまれた村落や労働者階級区域の集中的な近隣生活の中に生きていた。また一部は、権力分散・相互扶助・民衆の自主管理機関というバクーニンの思想によって投影されていたような生活の理論的明言にあった。西班牙が農民集産主義の長い伝統を持っていたということは、本書の中で議論されるが、ホアキン=コスタのエスパグナにおける農民集産主義という本の中である程度まで詳細に吟味されている。この伝統が明らかに前資本主義的なものである限り、西班牙のマルクス主義は、それを時代錯誤だと見なし、実際に、「歴史的に反動だ」と見なしていたのだった。西班牙の社会主義は、その農民プログラムを、農民とその社会組織は、「プロレタリア階級化され」、「産業化され」るまで、いかなる革命的価値をも持ち得ない、というマルクス主義信条を中心に構築していた。実際、村落が腐りきるのが早ければ早いほど良く、農民が世襲的プロレタリア階級になり、『資本主義の生産プロセスの正にそのメカニズムによって訓練され、団結し、組織される』(マルクス)−−明らかにヒエラルキー的で権威主義的な「メカニズム」だ−−のが早ければ早いほど、西班牙が社会主義の課題に向かって進むであろう、というのだった。

逆に、西班牙のアナキズムは、全く異なるアプローチに依拠していた。それは、村落が持つ前資本主義的集産主義の伝統を求め、伝統の中に息づき、活力を持っているものを育み、その革命的潜在性を相互扶助と自主管理という解放様式として喚起し、その伝統を使って工場システムが促している服従・ヒエラルキー的メンタリティ・権威主義的見解を腐敗させようとしていた。プロレタリア階級の『ブルジョア階級化』(バクーニンが後半生で繰り返し口にしていた言葉だ)を常に心にとめながら、西班牙アナキストは農民と労働者階級が持つ前資本主義的伝統を使って、労働者の見解が権威主義的な産業合理性に吸収されないようにしようとしていたのだ。この点において、彼らの努力は、都市に移り住むごとに日々これらの伝統を刷新していた地方労働者が西班牙のプロレタリア階級を継続的に肥沃にしていくことによって、支援されていた。バルセロナのプロレタリア階級が持つ革命的活力は−−ペトログラードとパリのプロレタリア階級同様−−これらの労働者が、農民や職人といった前資本主義的伝統から完全に引き剥がされ、世襲的労働者階級にしっかりと沈殿したことなど一度もないという事実になど全く依拠していなかったのだ。西班牙の地中海沿岸の都市沿いに、数多くの労働者は、非資本主義的文化−−人生の瞬間瞬間が、タイムカード・工場の汽笛・現場監督・機械・非常に規則正しい勤務日・粉微塵に砕かれた大規模都市世界といったもので厳密に規律正しくされていはいなかった文化だ−−の生き生きとした記憶を持ち続けていたのである。西班牙のアナキズムは、これら対立する伝統と感性が作りだした緊張の中で育っていたのだった。実際、『ドイツ的プロレタリア階級』(これもバクーニンの辛辣な言葉である)が西班牙に出現すると、それは UGT やカトリック系労働組合に流れて行った。その政治的見解は、はっきりと保守的ではなくても改良主義的であり、西班牙プロレタリア階級全体の中で対立する諸傾向を導きながら、カタルーニャと地中海沿岸のデクラセ労働者階級と衝突することが多かったのである。

究極的に、私の観点では、西班牙アナキズムの運命は、リバータリアン的組織形態を創り出す能力に依存していた。その組織は、村落が持つ前資本主義的集産主義の伝統を、産業経済・非常に都市化された社会と統合できたのだ。ここで私は、西班牙農民とプロレタリア階級との単なるプログラム上の「同盟」について述べているのではない。もっと有機的で、新しい組織形態と感性について述べているのだ。それが、葛藤する文化の中に生きていた二つの社会階級に、革命的リバータリアンの性格を賦与していたのだ。西班牙が充分組織されたリバータリアン運動を必要としていたということは、大多数の西班牙アナキストの間では議論の余地もないことであった。だが、この運動は、村落社会や工場社会を反映したものだったのだろうか?葛藤が存在する場所で、権力分散・相互扶助・自主行政というリバータリアン信条を壊さずに、二者が同じ運動に融合できたのだろうか?1848年〜1939年の古典的「プロレタリア社会主義」時代には、全ての社会闘争における産業プロレタリア階級の「覇権性」が強調されていたが、西班牙アナキズムはその時代そのものの限界と、アナーキーな組織形態の創造的可能性を同時に明らかにした歴史的軌道を辿っていたのだった。

都市とは逆に、アナキズムにコミットしていた西班牙村落は、ほとんど組織的問題を引き起こしはしなかった。ブレナンがブラセーロを強調したことは言うまでもなく、南部とレヴァントにおける農民アナキズムの長所は、山間村落にあったのであり、アンダルシアの大規模プランテーションで働いていた田舎のプロレタリア階級の中にではなかったのだ。こうした比較的孤立した村落において、自主独立と私的尊厳の激しい感覚が、貧困によって生じた苦い社会的憎悪を研ぎすましたのである。そこでは、アナキズムという地方的「長老」を作りだし、全ての家族がほとんど使徒的に「その思想」に対して献身していた。こうした鋭く刻み込まれ、厳しく禁欲的な個人にとって、国家・教会・伝統的権威一般の軽蔑は、ほとんど生活様式となっていたのだ。地域の新聞−−そして、様々な時局に、西班牙の何百というアナキスト定期刊行物があった−−と密接に関わることで、彼らは農民アナキズムの原動力を1870年代から作りだし、大規模に、その歴史を通じて西班牙アナキズムの道徳的良心を作りだしたのだった。

彼らの農村コレクティブは、アナキストが1936年の革命以前にその影響下にあった全村落で促していた組織形態に大きく影響されている。地方での革命は、本質的に、昔の IWMA と後期 CNT の中核集団・会員グループ・密接なアナキスト家族からなる非常に単純な一族を、民衆集会へと拡大した。こうした人々は、いつも毎週集まり、地域全体の政策決定を行っていた。集会という形態は、初めてで真のバクーニン主義会議である1872年のコルドバにおける西班牙 IWMA の時代から、西班牙村落生活というリバータリアン伝統を強調しながら、村落アナキズムの組織的理想を含んでいたのだった(原註)。

(原註:私は、ここで、西班牙の村落がリバータリアン社会に対するパラダイムを形成したなどと論じたいとは思っていない。村落社会は、西班牙の場所場所によって全く異なっていた−−地方の民主主義的伝統を妨げられていないままの場所もあれば、教会・貴族・親分・風習によって圧制的に支配されていた場所もあった。この二つの傾向が非常にぎこちない均衡の中で共存し、民主主義者はそれでも活気に満ちていたものの、権威主義によって隠されていることが非常に多かったのである。)

こうした民衆集会が可能なところでは、その意志決定は集会から選ばれた委員会によって実行されていた。明らかに、その委員をリコールする権利は認められており、委員にはいかなる特権も報酬も制度的権力も全く与えられてはいなかった。その影響力は、委員の明らかな献身と能力の関数であった。代表者に給料を出さないということは、CNTが何百万人ものメンバーを持つようになったときでさえも、西班牙アナキストの主要原理であり続けていた(原註)。

(原註:CNT の場合、このルールには例外が幾つかあった。全国事務局は、労働者の平均給与を支払われていた。全国委員会の事務員と日刊新聞の編集者とスタッフもそうであった。だが、CNT の全国・地方・地域委員会の代表者は無給で、労働時間内に組合の仕事に時間を割くとき以外は、自分の職業の仕事をしなければならなかった。だからといって、アナキズムの思想を普及させる事に自分の時間の大部分を使っていた個人などいなかった、というわけではない。ブレナンは次のように述べている。『徒歩やラバや鉄道の三等車両の硬い椅子に腰かけて、もしくは貨物運搬車の防水布の下で放浪者や「外来闘牛士」(ambulant bullfighter)のように場所から場所へと移動しながら、彼らは新しいグループを組織したり、プロパガンダ的キャンペーンを運んだりしながら、彼らが自分たちで呼んだところによれば、こうした「思想の伝道者」は、もっと裕福な労働者の親切のおかげで托鉢僧のように生きていた』−−そして私が付け加えるとすれば、「村落生活者」の親切のおかげでもあったのだ。組織作りに関するこの伝統、つまり1870年代の伝統は、その後数十年間消えうせることはなかった。逆に、西班牙労働者と農民の忠誠を求めて CNT が UGT と競合し始めたときには、もっと体系的で、多分もっと確実に資金提供されていたのであろう。)

通常、選出された代表者の責任は、労働時間後には解除されなければならなかった。アナキスト闘士の夕暮れは、あれやこれやの会議で占められているものであった。集会であれ委員会であれ、彼らは主張し、議論し、投票し、実行した。そして、時間が許せば、読書をし、自分の余暇時間だけでなく人生そのものを捧げていた「思想」について情熱的に議論していたのだった。一日の大部分を、彼らは労働する男女、自覚した労働者だったのであり、喫煙と飲酒を止め、売春宿と血生臭い闘牛場を避け、会話から「下品な」言葉使いを取り除き、誠実・尊厳・知識の尊重・闘争精神によって全階級に対する道徳的実例を示そうとしていたのだった。彼らは、日常会話(さようならよりも、じゃぁまたを好んでいた)の中で、「神」という言葉を使わなかったし、聖職者と国家の権威との公式的接触全てを避け、実際それは、婚姻届によって自分達の一生涯続く「自由組合」を法的に妥当なものとすることを拒否し、子供に洗礼を受けさせたり、堅信礼を施させたりなど一度もしないほどだったのである。これらの自分で課した社会慣習がどれほどまで深遠なものだったのか −−そして、この国の清教徒的伝統とこうしたことの幾つかがどれほどドン=キホーテ的に一貫していたのか−−を実感するためには、カトリック系西班牙について知らなければならない(原註)。

(原註:ただ、ここで、禁煙・高い道徳基準による生活・そして特にアルコール消費を止めたことは、当時としては非常に重要だったと付け加えねばならない。西班牙は、アナキストが主導していた期間に、時期はずれの産業革命をその退廃的特徴を全てと共に経験していた。プロレタリア階級の中にあった猛烈な飲酒と性病を伴う風紀の崩壊と衛生設備の崩壊は、西班牙の革命家が扱わねばならなかった最重要課題であった。丁度、今日の黒人急進主義者がゲットーにおける同様の問題を扱わねばならないようなものである。その多くがそれほどコミットしたアナキストではなかった CNT 労働者の中でも、あえて、会合に酔っ払って現われたり、同士の中で公然と無作法なふるまいをしたものはほとんどいなかったであろう。当時の酷い労働条件と生活条件を考察してみれば、アルコール依存は、産業革命時の英国におけるものと比べれば西班牙ではそれほど重大な問題ではなかったのである。)

ここで、西班牙革命に関する現在の社会学文献によって広く普及されている神話を指摘しておいても良いだろう。それは、西班牙における農村アナキズムは精神的には反テクノロジーで、回帰的に新石器時代の「黄金時代」を再び手にいれようとしていた、というものだ。だが、これはアナキストが果たしていたユニークな教育的役割について詳しい研究を行うことで、全く効果的に論破できる。実際、安価で、分かりやすく書かれたパンフレットを使って、フランス啓蒙主義と近代科学理論を農民に持ちこんだのは、傲慢な自由主義者でも、尊大な社会党員でもなく、アナキストだった。バクーニンとクロポトキンのパンフレットと共に、アナキスト出版社は自然進化と社会進化の理論に関する分かりやすい解説書、欧州の世俗的文化に関する初歩的紹介書を公刊したのだった。アナキストは、先進的な土地管理テクニックについて農民に教えようとし、農業器具を使用して苦役の重荷を軽減し、自己発達のためにより多くの余暇を提供することを熱烈に好ましいとしていたのだった。ホブスボウムが(原始の反逆者で)、さらにはブレナンさえもが我々を信じ込ませようとしているほどに、西班牙社会における回帰的傾向はなかったのだ。この問題を注意深く吟味すれば、アナキズムは急進的民衆啓蒙主義にずっと近かったのだと断言できる。

個々人の質という点では、献身的な都市のアナキストは、地方の同志と本質的な違いはなかった。ただ、西班牙の町と都市のアナキストは、もっと困難な組織的問題に直面していた。もちろん、リバータリアン組織形態を作り出そうという努力は、多くの西班牙労働者が以前は村落居住者であったり、田舎から出てきて一世代かそこらしか経っていなかったという事実によって有利に運んでいた(原註)。

(原註:「黒の」(純正アナキズム的)サラゴーサでは、労働者階級はバルセロナのプロレタリア階級以上に強固にアナキズム諸原理にコミットしており、レイモンド=カルが非常に正確に強調しているように、『そのストライキの特徴は、経済的要求に対する彼らの軽蔑と、革命的連体性の頑強さだった。刑務所にいる同志のためのストライキはより良い条件を求めたストライキよりもポピュラーだったのである。』)

だが、都市と工場におけるリバータリアン組織の可能性は、地方のアナキスト地域に存在していた長きにわたる村落集産主義という伝統−−強力な地域感覚−−には依拠できなかった。工場内−−苦役・ヒエラルキー・産業訓練・獣的な物質的必要性の巣窟−−で「地域社会」とは、人道的協働・遊びのように創造的な仕事・相互扶助といったものではなく、搾取的で競争的な含蓄すら持っているブルジョア的分業の関数だった。労働者階級の連帯は、資本主義の下で労働者は産業資源、つまり、冷酷に操作され無残にも搾取される対象以上のものだという幻想を打ち砕いた共通の敵−−ボス−−にと同様、自己充足的な労働によって育まれている共有的で有意義な生活にも依存していた。アナキズムを産業システムに対する個人の叛逆としてある部分捉える事が出来るのならば、その叛逆の中核にある深遠なる真実は、工場ルーチンは人生の芳醇な祝宴に対する労働者の感性を鈍くするだけでなく、労働者自身の人間としての潜在的可能性、社会生活を営むための手段を直接管理する能力のイメージを堕落させる、ということなのだ。

西班牙アナキストを社会主義者と区別しているユニークな美点の一つが、彼らは工場領域そのものを変換しようとしていた、ということである−−労働者による生産の自主管理の要求によって、もっと直接的に言えば、サンジカリスト CNT の形成で絶頂に達したリバータリアン組織を形成しようとすることによって、最終的に影響を受ける変換である。しかし、労働者の自主管理が疎外された労働を実際にどの程度減少させることができたのか、そして、労働者の感性に与える工場システムのインパクトをどの程度変えることができたのかは、これまで受けてきたものよりももっと精密な分析が必要だと思われる。労働者に対する工場システムのインパクトという問題は、CNT にプロレタリア階級的要素が増加していくにしたがって、重要なものとなっていった。だが、アナキストは工場システムによって教え込まれている特長に直接対抗するイニシアティブと自主管理の諸特長を発達させようとしていたのだった。

近代におけるいかなる大規模な急進運動も、組織の形態は、そのメンバーの最も根本的な行動パターンを変えるように発展しなければならないのかどうかを自問することはなかった。リバータリアン運動はどのようにして、服従・ヒエラルキー型組織・指導する者される者の関係・資本主義産業が導入した権威と命令という精神を腐らせることができたのだろうか?この疑問を提起したこと、これこそが、西班牙アナキズムの−−そしてアナキズム一般の−−永続的名誉なのだ(原註)。

(原註:マルクスとエンゲルスにとって、プロレタリア階級の行動パターンを変えるための組織形態は問題ではなかった。この問題は、「革命の後」まで取っておくとされたのだった。確かに、マルクスは工場における権威主義的インパクト(「資本主義生産プロセスそれ自体の正なるメカニズム」)を規律正しく統一された労働者階級を生み出すためのポジティブな要因だと見なしていた。エンゲルスは、「権威論」と題されたアナキストに対する極悪な酷評で、工場の構造−−そのヒエラルキー形態と工場が要求する服従−−を利用して、労働者階級組織における権威と中央集権に対する自分のコミットメントを正当化していた。ここでの関心事は、マルクスとエンゲルスが「権威主義者」だったかどうかということではなく、彼らがプロレタリア階級組織の問題を考え抜く方法−−彼らの組織概念の母体が、どの程度まで、社会革命が革命をもたらすとしていた正にその経済だったのか−−なのである。)

西班牙アナキストの論文には「完全な人格」という言葉が繰り返し現われ、飽くことのない努力が、リバータリアン原理を理知的に受け入れていた人々だけでなく、原理を実践しようとしていた人々をも発達させるためになされたのだった。したがって、運動の組織的枠組み(IWMA・CNT・FAI の表現によれば)とは、権力を分散すること・底辺でのイニシアティブと意志決定を最大限可能にすること・官僚制度形成を防ぐための構造的保証を提供することを意味していたのだった。逆に、これらの必要条件は、調整・動員された共同行動・効果的な計画立案の必要性とバランスを取らねばならなかった。西班牙の町や都市におけるアナキズムの組織的歴史−−アナキストが作りだした組織とアナキストが破棄した組織−−は、これら二つの必要条件間の牽引力と、一方がどれほど他方よりも優勢だったのかを大部分説明してくれる。この緊張は、単なる経験と構造的即興的作品の問題ではない。結局のところ、権力分散と調整との牽引力の成果は、最も献身的なアナキストがアナキスト系組合−−特に、その目的が直接的な物質的獲得のために闘うことだけでなく、リバータリアン社会の下部構造を提供することでもあるサンジカリスト的特長を持った組合−−に加入した労働者の意識に影響を与える能力によっていたのである。

サンジカリズムは、1890年代後半のフランス労働運動でポピュラーになる大部前から、西班牙労働運動の初期に既に存在していた。私の意見では、アナキズムの影響を受けた旧 IWMA の西班牙連合は、明らかにサンジカリズム的だった。1870年6月にバルセロナで行われた西班牙連合の設立会議において、「労働者の社会組織テーゼ委員会」は、CNT を含むその後の西班牙アナルコサンジカリスト労働組合全てのモデルとなる組織構造を提起していた。この委員会は、典型的なサンジカリスト二重構造を示唆していた:職業による組織と地域性による組織である。地域職業組合 (Secciones de oficio は、共通職種の全労働者を大規模な職業連合(Uniones de oficioへとまとめていた。その主たる機能は、経済的苦情と労働条件の周囲で闘争することであった。その数が余りにも少なすぎて職業の方向にそっては効果的な組織を作ることが出来なかった様々な職種の労働者は、皆、様々な職業からなる一つの地域組織に集まった。これらの職業的組織と同様に、IWMA が代表していた全ての地域・地方において様々な地域的 Secciones が職業とは無関係に集まり、地理的地域の団体 Federaciones locales へとまとまっていた。その機能は、公然と革命的なものだった−−権力分散型のリバータリアン基盤に基づいた社会・経済生活の実施だったのだ。

この二重構造が全てのサンジカリスト組織形態の基盤になった。西班牙において、他の場所でもそうだが、組織構造は個々の仕事場・工場・農業地域に生じている労働者委員会によって一つに編みこまれていた。集会に集まったときに、労働者は自分達の中から職業的な地域職業組合や地理的な地理的地域の団体 Federaciones locales の事柄を統轄する委員を選んだ。労働者は西班牙の大きな領域毎の地域委員会へと連合された。毎年、可能な場合に、労働者は IWMA 西班牙連合の年次会議に出席する代表者を選出した。そして、全国連合評議会を選んだのだった。IWMA の没落と共に、サンジカリスト組合連合が西班牙のあちこち、特にカタルーニャとアンダルシアで現われては消えていった。最初に現われたのは、相当数の1880年代の労働者連合だった。これが弾圧されて、西班牙アナキズムは、アナキスト組織西班牙支部のような非組合系イデオロギー集団や、1890年代にカタルーニャを拠点としていた団結と連帯の協定(Pact of Union and Solidarityや1900年代初頭の労働者の連帯(Workers' Solidarityといった基本的に地域的な組合連合と提携していった。マドリーのレンガ積み職人組合のイニシアティブで1900年に設立され、短命に終わったスペイン地方労働団体連盟(Federation of Workers' Societies of the Spanish Regionを除き、1911年に CNT が組織されるまで、いかなる大規模な全国サンジカリスト連合も西班牙には出現しなかった。西班牙サンジカリズムは、その最も成熟し、決然たる期間に突入したのだった。そのライバルである UGT よりもはるかに大規模に、CNT は、西班牙におけるアナキスト煽動の本質的舞台になったのである。

CNT は単に「設立された」のではなかった。カタルーニャ労働者の連帯と、その最も堅実な地方連合、カタルーニャ連合(Confederacion Regional del Trabajo de Cataluna から有機的に発展したのだった。その後、他の地域連合がそれぞれの地方における地域組合から設立−−その多くがスペイン地方労働団体連盟から続いていたものだった−−され、1930年代初頭までにその数は8になった。その結果、全国組織は地域的連合のルーズな集まりだったわけであり、それがさらに各地域・地区毎の連合へと分割され、最終的には、労働組合つまり個々の組合へと分割されるわけである。こうした労働組合(sindicato(初期には反資本抵抗社(sociedades de resistancia al capitalという劇的な名前で知られていた)は、職業を基にして設立され、典型的サンジカリズムのやり方で、地理上と職業上の連合(federaciones locales and sindicatos de oficio へとまとまっていた。この構造を調整するために、CNT の年次会議が全国委員会を選出し、委員会は、通信・統計の収集・投獄された人々の援助を主として行うとされていたのだった。

カタルーニャ地域連合の法令は、全国運動全体に有効なガイドラインを提供してくれる。これらの法令によれば、組織は、「直接行動」にコミットし、一切の「政治的・宗教的干渉を拒絶した」のである。提携地区連合と地域連合は、「連合を統合させている個々の職業に関連した全専門的事柄について完全な自由を持っているということを理解しつつ、可能な限り最大限自律的に統治される」というのだった。それぞれのメンバーは、月10センチーム(ほんのわずかな金額だ)の組合費を支払い、これは、地域組織・地方連合・全国連合・組合新聞(『労働者の連帯』(Solidaridad Obrera)・「社会的受刑者」に対する全く重要な特別基金へと平等に分配されたのだった。

法令によれば、地方委員会−−CNT の全国委員会の地方版−−は単に行政的な団体でしかなかった。行動を調整するときには明らかに指示的な役割を果たしてはいたものの、その活動は年次地方会議によって採択された政策に拘束されていた。不測の事態には、委員会は、全員投票でも質問文書によってでも、地方諸団体に相談できた。地方委員会が選ばれる年次地方会議に加え、委員会は地方連合の大多数の要求があれば特別議会を召集する義務があった。そして、地方連合は、定期議会の三ヶ月前に通知を与えられ、そのために彼らは「議論のテーマについて準備」出来たのだった。議会前の一ヶ月間に、地方委員会は提出された「テーマ」を組合新聞に載せなければならなかった。労働者には、議論されるトピックについて自分の態度を決め、それに応じて、その代表者に教えるのに充分な時間の猶予を与えられた。議会への代表は、その投票力は自分が代表しているメンバーの数で決められ、地方・地区連盟によって召集される労働者の一般集会によって選ばれていた。

これらの法令が、1936年の革命まで CNT 実践の基盤となったのだった。これらの法令は、委員会メンバーのリコールについていかなる規定もしてはいなかったが、その英雄的期間における組織は法令が示しているように思われる以上に民主的だったのだ。躍動する活力がこの莫大な組織の根底に存在していたのだ。それは、CNTの抱える諸問題に対する能動的な関心と無視できないほどの個々人のイニシアティブによって特徴づけられていたのだ。労働者センター(centros breros は、アナキストが IWMA の時代に作り上げたものであり、それは地方の組合オフィスだというだけでなく、組合員がアイディアを交換し講義に参加するために集まっていた集会場・文化センターでもあったのだ。地方 CNT の出来事全ては、普通の無報酬の労働者からなる委員会で管理されていた。公式の組合集会は、三ヶ月に一度しか持たれなかったが、土曜日の夜と日曜日の午後にはいつも「教育的性格の会議」があった。労働組合の連帯は非常に強力だったため、孤立したストライキを持続することなどいつも不可能だった。いつでも一つのストライキは、他者をそのストライキを支援しようと奮起させ、他の労働組合による能動的な扶助を生ぜしめる傾向があったのである。

いかなる場合であれ、これが、CNT がその仕事を継続しようとし、順調な時代に、実際にうまく機能していたやり方なのである。しかし、様々な成り行きで抑圧と突然のそして重大なことが多い変化が生じたために、年次・地区別会議を一時的に中断し、重要な政策的意思決定を、つぎはぎ細工の会議程度のものでしかない指導委員総会や「議会」に制限せざるを得なくなった。組織の全レベルでカリスマ的リーダーは、官僚的なやり方で行動することが多くなってきた。サンジカリズム的構造は、官僚制度的変形に免疫を持ってもいなかった。慎重な委員会ネットワークが、地方的・全国的諸団体を作り上げながら、中央集権的組織の全特徴を受け入れ、基底にある労働者集会の希望の裏をかくことはそれほど難しくなかったのである。

結局、CNT は、そのリバータリアン共産主義に対する実行プログラム上のコミットメントとリバータリアン的なやり方で機能しようという試みにもかかわらず、まず第一に、大規模な職業別労働組合連合だったのであり、純粋なアナキスト組織ではなかった。最も実際的な指導者の一人、アンヘル・ペスタニャは、CNT メンバーの大まかに 1/3 をアナキストだと見なしうると認識していた。多くは、革命家というよりも闘争家だったのであり、残りの人々は、自分の地域や工場で優勢な組合だからというだけで CNT に加入していた。1930年代には、CNT 組合員の大部分は農民ではなく労働者だった。アナキストに影響を受けた前世紀の組合で大多数を占めていたアンダルシアの人々は、少数派へと矮小してしまった。ブレナンとホブスボウムのような、アナルコサンジカリスト労働組合における地方の要素の重要性を過大評価している著作者は、この事実を述べていない。

CNT の社会的要素が次第に変化し、村落の価値観に対して産業的価値観が次第に優越視されるようになるに従い、結局は、連合は、全くの伝統的ラテン型職業別労働組合へと変容してしまったのだろう、というのが私の見解である。西班牙アナキストが、こうした発展を意識していなかったわけではなかった。サンジカリスト組合は欧州におけるアナキスト活動の主要舞台を作り出していたが、アナキスト理論家は、サンジカリスト組合にいる改良主義の指導者が底辺から頂上への組織統制を変えてしまうことは余りに難しくて不可能だ、と思っていた。彼らはサンジカリズムを単なる焦点の変化だと見なしていた。その変化は、コミューンから職業別労働組合へ、全ての抑圧された側から産業プロレタリア階級へ、街路から工場へ、少なくとも強調点としてだが、暴動からゼネストへ、というものだと考えていたのである。

マラテスタは、サンジカリスト組合における官僚制度の出現を恐れており、次のように警告していた。『労働者階級にとって、役人は議会主義者と同じ危険なのだ。どちらも腐敗を導き、腐敗から死滅への道のりは短いのだ。』マラテスタはサンジカリズムに対する自分の態度を変えようとしていたようだが、この運動を受け入れるにあたっては、数多くの制限を設けていたし、『職業別労働組合は、その性質として、改良主義的であり革命的ではありえない』と強調しつづけていたのだった。この警告に対して、マラテスタは、『革命家が自分の階層内だけでなく外部からも行っている一貫した行動によって、革命的精神を注入し、発達させ、維持せねばならない。だが、それは、職業別労働組合の機能に関する一般的で自然な定義にはなり得ないのだ。』

サンジカリズムは、西班牙アナキスト運動を、本当に分裂させること無く分断してしまったのだ。実際、FAI が設立されるまで、一つの全国アナキスト組織が分断することなどなかったのである(原註)。

(原註:西班牙におけるバクーニンの社会民主主義同盟の消滅は、西班牙アナキズムの力を小規模地域の中核集団に点在させた。それらは、連合・定期刊行物・通信を通じて地域ごとに連携していた。主としてカタルーニャとアンダルシアでこれら中核集団の地方連合が幾つか形成されたが、出現したのと同じぐらい急速に消滅しただけであった。)

しかし、西班牙のアナキスト運動は、二つのレベルで保たれていた。一つは、白い雑誌(La Revista Blanca『大地と自由(Tierra y libertadのように有名な定期刊行物という手段で、そして、もう一つは、サンジカリスト組合内外の献身的なアナキストの小規模サークルという形態で。1880年代より、これら親友同士からなる典型的なヒスパニック集団、伝統的に仲間(tertulias として知られているグループは、贔屓のカフェに集まって、考えを議論し、行動計画を立案したりしたのであった。彼らは華々しい名前を自分たちの集団につけていたもので、それは、自分たちの崇高な理想を表現していたり(王もなく祖国もなく(Ni Rey ni patria)、自分たちの革命精神を表現していたり(反乱(Los Rebeldes)、単純に自分たちの友愛の感覚を表現していたり(Los Afines)した。既に仄めかしておいたように、「西班牙アナキスト組織」は、1888年にヴァレンシアで設立され、意識的にこれらの仲間を、一貫した運動を織り上げる基の糸にしていた。数十年後、仲間は、もっと正式な地方的・全国的構造を持った親和グループ (grupos de afinidad として FAI に再び現われたのだった。

西班牙アナキズムは FAI が作られるまで効果的な全国運動を生み出しはしなかったが、アナルコサンジカリストと無政府共産主義者の分断は非常に深刻だった。西班牙アナキズムの二つの傾向は、全く異なるやり方で機能し、お互い相手を侮蔑し合っていた。アナルコサンジカリストは組合の中で直接機能していた。組合で鍵となる立場の椅子を受け入れ、しばしばプロパガンダとイデオロギー的コミットメントを犠牲にしてででも、組織作りを強調していた。「実際家」として、ホセ=ロドリゲス=ロメロとトマス=エレーロスのようなカタルーニャのアナルコサンジカリストは、妥協、もっと正確に言えば、「純粋で単純な」職業別労働組合主義者と同盟する準備があったのだ。

無政府共産主義者は、『大地と自由』の編集オフィスにいる「向こう側のキチガイども」だった。ファン=バロンとフランシスコ=カルデナルのような「純正主義者」は、アナルコサンジカリストを改良主義の脱走兵だとみなし、昔の「西班牙アナキスト組織」の基盤となっていた共産主義信条に対する信念を持っていた。彼らは労働組合活動主義には向かわず、リバータリアン共産主義の諸原理に対するコミットメントを強調していた。リバータリアンの理想という装飾を軽々しく身につけた、大規模な労働者「大衆運動」を生み出すことは彼らの目標ではなかった。そのサイズや影響力がどれほど小さかろうとも、確実に革命運動において献身的なアナキストを創り出す手助けをすることだったのである。一旦は充分影響力を持つようになったのだが、世紀の変わり目で使われたテロリスト戦略とその後の弾圧のために、メンバー数は激減していた。

1927年夏に FAI が設立されると、これら二つの傾向の統一が期待された。アナルコサンジカリストの願望は、全ての FAI メンバー(faistaが CNT のメンバーになることで、そして、組合を西班牙におけるアナキスト活動の場にすることで満たされた。無政府共産主義者の願望は、公然たるアナキスト組織が CNT とは別に全国的に確立され、親和グループをリバータリアン共産主義の確立に公然と献身した前衛運動の基盤にする事で達成された(原註)。

(原註:私は、「前衛」という言葉を挑発的に使っている。それは、今日の数多くのリバータリアン=サークルではあまり人気がないが、伝統的なアナキスト運動では広く用いられた用語であるからだ。アナキスト刊行物の中には、これを名前として採用しているものさえあったのだ。疑いもなく、アナキズムの自覚した労働者は、自身を「進歩した人間」であり、社会における小規模なアバンギャルドの一部だと見なしていたのであろう。最も無害な意味でこの言葉を使うと、こうした人が、大多数の未発達の労働者や農民よりも、もっと進歩した社会的意識を単に享受しているという事を意味していた。この区別は教育によって克服されねばならない区別だった。もっと有害な意味では、この言葉はエリート主義と操作の論理基盤を提供していた。アナキスト指導者の中には、敵対する権威主義的社会党員と同じぐらいそれらに対して免疫のない人々もいたのだった。逆に、「指導者」という言葉は、「影響力のある闘士」という遠回しな言い方を使って避けられていた。多くの有名なアナキストの「影響力のある闘士」は事実明らかに指導者だったにも関わらず。この自己欺瞞は、そう見えていたほどくだらない事などではなかった。これこそが西班牙アナキストが、自分達自身の中や自分達の間にある意識性の真の違いから生じた重大な諸問題と、未発達の CNT メンバー(ceneteistas )の大多数に取り組む事を出来なくさせていたのだ。)

大地と自由が FAI の機関紙として採用された。だが、CNT を統制する、少なくとも、CNT が改良主義者や新しく創られた西班牙共産党からの潜入者の手に落ちることを避けるという明確な目的のためにアナキスト組織を作ることで、アナルコサンジカリストは、サンジカリスト活動の中に無政府共産主義を本質的に封じこめたのである。1933年までに、CNT に及ぼす FAI の統制力は全く完全なものだった。体系的な組織作業が、共産党系の組合を排除した。その一方で、改良主義指導者は、自発的に CNT から離れたり、革命的美辞麗句をもって防衛的に自身をカモフラージュしたりしていた。FAI メンバー (ファイスタ) の好戦性が CNT 労働者の大多数を確かに攻撃していたからといって、この成功は民主的繊細さに対する明敏な配慮を持って確立された、などという幻想を持ってはならない。だが、FAI の最も有名な闘士−−ドゥルティ、アスカソ兄弟、ガルシア・オリベル−−は、直接行動レパートリーの中にテロリズムを含めていた。銃撃戦、特に「収用」と、反抗的従業員・警察機構・スト破りを扱うときのものが、眉をひそめられることは無かった。ペスタナとペイロのような改良主義者は、最も不快な言葉を使って、FAI を公に批判することをためらわなかったのだが、これらのテロは、CNT 内にいる目立たない FAI 敵対者をほぼ確実に脅迫していたのだった。

CNT におけるその影響力にも関わらず、この素晴らしいアナキスト組織は、1936年まで半ば秘密のままであり、その会員数は多分3万を超えはしなかったと思われる。構造的に言えば、リバータリアン組織の近似モデル(near-model)となっていた。親和グループは、一般的に12人かそこらの男女からなる親友同士からなる小さな中核集団であった。幾つかの親和グループが存在しているところならどこでも、地方連合がそれらのグループを調整し、可能ならば毎月の集会で逢っていたのだった。そして、全国運動は、イベリア半島委員会が調整しており、その委員会は、ほとんど指示的な力を表向き行使することはなかった。その役割は、典型的なバクーニン主義的やり方で厳密に行政的なものになることを意味していた。親和グループは、実際、三十年代初期には顕著に自律的であり、優れたイニシアティブを示していることが多かった。それぞれのグループにいるFAI メンバーが形成した親密性は、この運動に警察機構が潜入することを非常に難しくしており、全体としての FAI は、組織に驚くほどほとんどダメージを受けずに最も重大な抑圧の中を生き残ることが出来たのであった。しかし、時間が経つにつれ、イベリア半島委員会の名声は増大し始めた。事件と問題に関するその定期的声明が全運動に対する指令として機能することが多くなった。全く権威主義的団体ではなかったにも関わらず、FAIは最終的に、中央委員会として機能し始め、その政策決定は、組織を拘束していないのに、単なる示唆以上のものとしての役目を果たしていたのだった。実際、イベリア半島委員会が命令で操作することは非常に難しかったのであろう。平均的な FAI メンバーは強力なパーソナリティだったのであり、自分が特に不愉快だと思った意志決定に対する反対をすぐさま口にしていたのだろう。だが、FAI は次第にそれ自体が目的になってしまい、組織に対する忠誠は、特に攻撃下にあったり、重大な問題と対決するときに、批判を封じ込めてしまうことが多かったのである。

FAI が平均的 CNT メンバーの社会的意識を莫大に高めたことには何ら疑いをはさむ余地はない。FAI は CNT を、従業員の反抗から離れた単一の力以上に、純正アナルコサンジカリスト組織ではないにせよ、革命的サンジカリスト組織にしたのだ。FAI は、革命とリバータリアン共産主義に対するコミットメントを強調し、CNT 内部に大きな信奉者を得たのだった(サンジカリストのバルセロナよりも、アナキストのサラゴーサにおいてより多くの献身的信奉者を得ていた)。しかし、FAI は、CNT から改良主義要素を完全に排除することは出来なかった(組合は、経済条件の改善を求めた戦闘的闘いによって、多くの労働者を引き付けていたのである)。そして、CNT のヒエラルキー的方向にそった沈殿作用が継続したのである。

CNT を統制しようという試みの中で、FAI は実際に組合の未発達要素の被害者になったのだった。ペイラツは、CNT がそれ自体の苦役を FAI に課したのだ、と非常に正しく強調している。丁度、組合内部の改良主義者がブルジョア階級・国家と妥協することに傾倒させようとしていたように、FAI は CNT に対するその統制力を維持するために改良主義者との妥協をしなければならなかったのだ。若く、余り経験のない FAI メンバーの中には、状況がもっと悪いこともあった。理論よりも、洞察よりも、奇抜さを盲目的に崇拝していたとほうもない戦闘性は、失敗の後に、最悪の日和見主義をその反動として惹起したのである。

不安定な状態で、CNT は、欧州における最も戦闘的な労働者階級に非常に優れた民主的土俵を提供し、FAI は、産業別組合が提供できる範囲内でリバータリアン的方向性と革命的行為のパン種を付け加えていた。1936年までに、どちらの組織も確実にリバータリアン構造を作りだしていた。それは、厳密にプロレタリア階級運動を純粋なるリバータリアン運動にすることができるほどのものであった。全くの美辞麗句−−そして疑いもなく、重要な信念と奇抜な行動−−を使うだけで、経済の労働者管理とサンジカリスト社会行政を生み出す革命に対するメンバーの期待を調律していた。教育と階級組織というこのプロセスが、西班牙におけるいかなる単一要因以上に、コレクティブを生み出したのである。CNT-FAI(1936年7月以降、二つの組織は宿命的に連結されたのである)が、ある地域で主要な影響力を行使していればいるほど、コレクティブは、共和主義が保持していた他のエリアよりも、もっと持続的で共産主義的で、スターリニストの反革命に抵抗していると判明したのだ。

それ以上に、CNT-FAI エリアでは、労働者と農民が、軍部の蜂起に抵抗するときに、最大の民衆イニシアティブを発揮していたものだった。最初に物事を自身の手中におさめ、その叛逆要塞地を撃破したのは、社会党のマドリーではなかった。アナルコサンジカリズムのバルセロナこそが、西班牙の全大都市の中でこの区別を要求することが出来たのだ。マドリーがモンタナ=バラックに対して蜂起したのは、バルセロナの街路・広場で軍隊が打ち負かされたというニュースを拡声器付きトラックが放送した後だったのである。そして、マドリーにおいてさえも、多分、最大のイニシアティブは、地方 CNT 組織が示していたのであり、この組織は、都市の闘争的建設労働者の忠誠を享受していたのだった。

CNT-FAI は、結局、高度に組織され、極度に戦闘的な労働者階級−−言うなれば、その基本的な経済的関心事が近視眼的で非妥協的なブルジョア階級によって繰り返しフラストレートさせられていた「古典的」プロレタリア階級−−が持つ全ての可能性を明らかにしたのだった。アナルコサンジカリズムと革命的マルクス主義が、その全戦略的・理論的活動の武器を発達させたのは、こうした「和解できない」闘争からだったのだ。

しかし、CNT-FAI は、この種の古典的闘争の限界をも明らかにした。そして、西班牙革命は、パリの労働者による1848年6月の蜂起に始まる一世紀にわたったいわゆる「プロレタリア革命」の時代の終焉を特徴づけていたのだ。この時代は、歴史に帰してしまい、私の見解では、再び甦ることなどないであろう。その特徴は、プロレタリア階級とブルジョア階級との間の辛く非妥協的な闘争だったのであり、労働者階級が経済生活の「分け前」を認められず、実質的に、労働者階級を保護する制度を作り上げる権利を無視していた時代だった。西班牙における産業資本主義は、革命当時でも比較的新しい現象だったのであり、労働者階級を不安を軽減するだけ充分芳醇だったわけでもなければ、政治生活においてその場を確保されていたわけでもなかった−−だが、「雇われた手」を無残にも搾取するという制限のない権利を当時も主張していたのだった。しかし、この新しい現象は、伝統的欧州自由主義政治諸形態に向けてではないにせよ、権威主義的諸形態に向けてその方向性を既に見出し始めていたのだった。権威主義的諸傾向が、産業資本主義が発達するための呼吸できる場所を与えたのであろう。

1930年代の経済危機(世界中の急進主義者が資本主義の最終的な「慢性的危機」だと見なしていた)は、西班牙自由主義者と支配階級の近視眼的政策と共に、西班牙における階級闘争を、爆発的な階級戦争に変えたのだ。1930年代初頭の共和国の農民改革政策は茶番だと明らかになった。自由主義者は、イベリア半島の長期にわたる経済諸問題、短期間の経済諸問題でさえも、真面目に扱わずに、教会に噛みつくことに忙しくしていた。国家統治に自由主義者と共に参加していた社会党員は、労働者階級全体の物質的条件を改善することよりも、CNT を犠牲にして UGT を成長させることにかかずらっていた。CNT は、1920年代の殺し屋との戦闘において急進的教育を獲得していた爆発しやすい FAI メンバーに強力に影響されており、繰り返し叛乱を暴発させていた−−その指導者が多分無駄だと知っていた蜂起だが、それは労働者階級の革命精神を刺激していることを意味していた。共和国初期において、西班牙のあらゆる要素が改良の公約を達成できなかったということは、革命と市民戦争以外のいかなる手段も残していなかったのである。大部分の献身的アナキストを除き、誰も本当に望んでいない葛藤だった。しかし、君主制が転覆された1931年と、将軍が反乱を起こした1936年の間に、誰もが偉大なるプロレタリア革命−−多分、その短命な社会プログラムと抑圧された側によって示されたイニシアティブという点で偉大だっただろう−−の終焉にむけて夢遊病者のように歩いていたのだ。この時代は、最後の偉大なる対決に向けたそのエネルギー・その伝統・その夢全てを集めていたように思える。そして、全てが消え去ったのだ。

西班牙革命における大部分の共産主義的コレクティブが、都市ではなく田舎に出現したことは驚くべきことではない。村民は、古代集産主義的伝統に当時でも影響され、都市生活者よりも市場経済の罠にはまってはいなかった。こうした高度に共産主義的なコレクティブに大きく影響を与えていた美的価値観は、コレクティブが根差している地域の極度の貧困さを反映している場合が多かった。こうした場合、協働と相互扶助が地域の生存の前提条件となっていた。西班牙のもっと不毛な地域では、水を共有し、灌漑労働を維持する必要性は、集産農場への付加的な誘因だった。ここで、集産化はテクノロジー的な必要条件でもあり、共和国さえもが干渉していなかったものだったのである。これらの地方コレクティブを重要なものにせしめていることは、その多くが共産主義を実践していたということだけでなく、民衆自主管理システム下で非常に効果的に機能していたということなのだ。このことは、非常に多くの権威主義的マルクス主義者が持っている、経済生活は非常に中央集権化された国家権力によって慎重に「計画され」ねばならないという概念と、国権主義的国有化とは異なる民衆集産化では、利潤と資源の競争のために必ず互いに闘うことになるという嫌らしい虚報とは一致しない。

しかし、都市においては、工場・コミュニケーションシステム・輸送設備の集産化は、全く異なる形態を取っていた。当初、CNT-FAI 地域のほぼ全ての経済は、労働者の中から選ばれた委員会によって乗っ取られており、上層部の組合委員会によってゆったりと調整されていた。時間が経つにつれて、このシステムは次第に硬直化していった。上層部の委員会は、その決定はそれでも当該施設の労働者によって批准されねばならなかったが、地方委員会に対するイニシアティブを私物化し始めたのだ。このプロセスの結果、組合の手中にある CNT-FAI 地域の経済が中央集権化されてしまった。このプロセスがどれほど開花したのかは、産業毎・地域毎に大きく異なっており、現在手にできる限られた知識では、一般化することは非常に難しい。1936年に CNT-FAI がカタルーニャ政府に参画したことで、中央集権化のプロセスが継続し、組合管理型施設は、国家と結合するようになった。1938年初頭までに、政治的官僚制度が、全ての「共和国」所有の都市における労働者委員会の権威に大きく取って代わってしまった。労働者管理は理論上存在してはいたが、事実上実質的に消滅したのだ。

コミューンが地方コレクティブの基盤を形成していたとすれば、委員会は産業コレクティブの基盤を作っていた。実際、地方コミューンを別にして、国家権力が崩壊していたいかなる場所でも−−工場と都市の隣近所と同様に村や街にも−−委員会システムが支配していたのだった。『全てが、軍の大勝利に民衆の反応を向けようとする行動の熱の中で設定されたのだった』とピエレー・ブロウとエミレ・テエミネは述べている:

『委員会は、数多くのやり方で任命されていた。村落・工場・仕事場において、彼らを選ぶために、少なくとも略式的に、総括的ミーティングに時間が取られることもあった。それらが革命前に存在していなくとも、全ての出来事について、全政党と全組合が彼らに代表されているのだと分かるような配慮がなされた。なぜなら、委員会は、労働者全体とその組織全てを一度に代表していたからだ。選ばれた人々は、様々な場所で、誰がどの組合を代表しているのか、誰が「共和党」なのか、誰が「社会党」なのかを理解するようになっていた。街では、もっとも能動的な要素が任命される場合が非常に多かった。投票者全体が、それぞれの組織の委員を選んだ場合も確かにあったが、委員会メンバーは、自身の組織内での投票によって選ばれたり、政党や組合の地方支配的委員会によって非常に単に任命されることのほうが多かったのである。

西班牙革命からほぼ四十年で、西欧と米国において徹底的な変化が生み出されており、その変化は西班牙の既存社会発達にも反映されている。生の最低限の手段を求めて非常に絶望的に闘っていた伝統的プロレタリア階級は、もっと裕福な労働者にその道を譲っている。そうした労働者の主たる関心事は、物質的生存と雇用ではなく、もっと人間的な生き方と有意義な仕事なのだ。労働力の社会構図も同様に変わっている。それに比例して、大規模製造産業の未熟な労働ではなく、商業・サービス・専門的職業に向かっているのである。西班牙は、その他の西欧と同様、もはや明らかに農業国ではない。民衆の大多数は、街や都市に生活しているのであって、地方集産主義を培養していた比較的孤立した村落にではない。1960年代後半の労働者階級バルセロナで、私は、弁当箱と同じぐらい多くの北米型アタッシュケースを見たのだった。

資本主義社会において非ブルジョア階級の目標と特徴におけるこのような変化は、第二次世界大戦前の徹底的な産業革命と、物質的欠乏状態の価値全体を疑問視させた相対的裕福さ、もしくは裕福さの期待の産物なのである。それらは、現在の生活様式が持っている非合理性と解放された社会の持つユートピア的見込みとの歴史的緊張を生み出したのだった。60年代後期と70年代前半の青年労働者は、自分の価値観を比較的裕福な中産階級の青年から借りてくることが多い。その価値観は、労働の倫理・ピューリタン的慣習・ヒエラルキーへの服従・物質的安定を前提とはせず、むしろ自己発達のための自由時間・広義の性解放・情け容赦のない労働とは異なる創造的もしくは刺激的仕事・全ての権威に対するほとんど淫らな軽蔑(libidinal disdain)を前提としている。西班牙では、特権を持った大学生は、1930年代には反動的役割を果たすこと多かったものだが、60年だと70年代にはもっともラジカルな社会要素となっている。青年労働者と全分野の知識人と共に、大学生は人格主義的でユートピア的な目標を様々な程度で受け入れ始めている。これが、CNT-FAI のピューリタン的で制度化されすぎたアナルコサンジカリズムを時代錯誤的に見えるようにさせているのである。

産業別労働組合運動の限界は、それがアナルコサンジカリズムの形態を取ろうとも、非常にはっきりしていた。産業別労働組合(サンジカリズムであろうとなかろうと)に、革命闘争に内在する潜在的可能性を見出すこと、それは単なる階級としての労働者と資本主義者の利権は本質的に相容れないものだ、と仮定することなのである。抑圧的産業文化と合理性のイメージで労働者を再構築したり、文字通り作りだすという、システムが明らかに持っている能力を認識しようとしているのなら、これは、まったくもって誤っている。家族から始まり、学校制度・宗教制度・マスメディアを通じ、工場、そして最後には労働組合と「革命的」政党へと、資本主義社会は、労働者階級全体に、実際、その「解放的」運動の多くにも同様に、服従・ヒエラルキー・労働倫理・権威主義的訓練を促すよう共謀しているのである。

工場と工場から生じている階級組織は、成熟した労働者に、充分統制され、ほぼ無意識的な従順性を促すための、もっとも強制的な役割を演じている−−ヒエラルキー組織と権威主義的指導者に対するプラグマティックなコミットメントとしての表情のない受動性にと同じぐらいそれ自体を宣言している従順性である。労働者は非常に闘争的になり得、もっとも強要的な社会状況において力強く、強力でさえある性格特性を発揮できる。だが、これらの特性は、リバータリアン革命運動に対するのと同じぐらい、改良主義労働官僚制度に対しても生じうるのだ。労働者は、「革命」と呼ばれる直接行動の最高形態に身を置く前に、さらには、自分の仕事場と地域社会を自分で直接管理する社会を築く前に、自分の感性に対するブルジョア文化の支配力−−特に、工場・労働者の正にその階級的存在の焦点の支配力−−を破壊しなければならないのだ。

このことは、労働者は自身を階級的存在ではなく人間的存在として、「プロレタリア階級」としてではなく創造的人格として、「大衆」ではなく自己肯定的個人として見なさねばならないと述べていることと同じなのだ。解放された社会の運命は、自由コミューンでなければならず、いかに自主管理されていようとも、工場の連合などではない。なぜなら、工場の連合は社会の一部分−−経済的要素−−なのであり、それは社会の全体性の中で具体化するからである。実際、経済的要素が「友人の持つ親和性」を労働プロセスに持ち込むことにより、生産者の生活で困難な労働の役割を減じることで、つまり、社会生活と個人生活同様に生産と消費に適用されるような完全なる「諸価値の再評価(transvaluation of values)」(ニーチェの言葉を使えば)によって、精密に人間化されなければならないのである。

西班牙におけるリバータリアン革命のある側面が現代との関連性を失っているとしても、「欲望充足メンタリティ」を示し、十全に表現できるアナキズム諸概念それ自体は、1930年代の権威主義イデオロギーよりも現在とずっと関連したものになり得る。もっとも、有意義なリバータリアン代替案と組織が欠落していると、そこに取り残された空洞は、権威主義イデオロギーが埋めてしまうものだが。こうしたアナキズム諸概念は、もはや実践的な言葉では、地方集産主義の伝統に依拠することはできないだろう。その伝統は、実質的に生き生きとした力としては失われてしまったのだ。北米の青年が文化的インスピレーションを得るために北米原住民族の部族的伝統に目を向けているのと同じ意味で、西班牙の若者の間で昔の集産主義的伝統が追憶されているのかもしれない。核家族の没落と近代原子化の反動で、コミューンは若者だけでなく年をとった人達の間でさえも新しい関連性をあちこちで獲得している−−血族縁ではなく、選択的親和性に基づいた共同相互支援的生活様式である。近代化を急速に発展させることは、メガロポリスに対する権力分散型代替案の必要性以上に鋭く差し迫っている。都市の巨大症・人間規模の必要性なのである。生のグロテスクな官僚制度化は、カミュの言葉では全ての人を役人へと還元しているとされているものであり、非権威主義的制度と直接行動に対する新しい価値を置いたのだ。次第に、現代という頓挫の間でさえも、新しい自己が鍛えられてきている。潜在的に、これはリバータリアン的自己であり、社会変革と行政に直接介入できるものである −−真の自由社会の発達に非常に重要な自己訓練・自己活動・自己管理に従事できる自己なのである。ここで、伝統的無政府共産主義によって非常に高く賞賛された価値観が、この新しい感性の直感的衝動に対して意識性と一貫性を与えている現代版無政府共産主義の形を取って直接の連続性を確立しているのである。

だが、もしこれらの目標が確立されねばならないものであれば、現代版無政府共産主義は単なる雰囲気や傾向といった、文化的雰囲気のような空気を漂わせるもののままでいるわけにはいかない。この新しい感性を効果的に明言し、広めるためには、組織されねば−−実際、充分に組織されねば−−ならないのだ。一貫した理論と幅広い文献を持っていなければならないのだ。現代の直感的リバータリアン衝動を変質させ、社会不安をヒエラルキー組織へと導こうとしている権威主義運動を扱うことが出来なければならないのだ。この点において、西班牙アナキズムは現代に深く関連しており、西班牙革命は、過去から選り抜きえる自主管理の問題についてもっとも価値ある教訓をいまだに提供しているのである。

これらの諸問題を扱うために、私は、CNT と FAI が確立しようとしていた構造形態について、実際、ほとんど批判すべき点はないと述べることから始めるのが最も良いだろう。CNT は、ほぼその当初から、地方支部を職人組合ではなく工場として組織してきた。そして、IWMA と共に出現した全国規模の 職業別連合(Uniones de oficio、つまり、「インターナショナル」と呼んでも構わない)は、地方連合(Federaciones localesのために破棄されたのだった。この構造は工場を、国権主義的国有化のきっかけになりやすく、たやすく操作されやすい産業ネットワークにではなく、地域社会に置いた。地域社会では、「コミューン」の概念が現実のものとなるのであれば、本当に工場が属する場所になるのだ。中央組合・地域連合・議会への代表者の注意深い要求・有給役人の削減・地方連合、地方委員会、全国委員会の設立、これらの機関全てが自分達の意図を実践していたなら、全く、リバータリアン原理と一致していただろう。CNT 構造がもっとも重大に失敗していた所では、地域レベルで労働者の頻繁な集会が開かれる必要があり、同様に、CNT の政策を繰り返し再検討し、上層部の委員会に権力が集中するのを防ぐために、全国・地方会議が頻繁に開かれる必要があった。会議−−委員会・小委員会・地方、全国委員会会議−−が頻繁にあったと思われる間に、労働者と「影響力のある闘士」との定期的で密接なコミュニケーションが決裂するようになっていったのだった。

政策決定の焦点に関する重要な問題について混乱が発達していたのだ。このプロセスは、本来ならば、工場集会・定例会議でなされるはずだった。そこでは、迅速な決定が必要な事件や状況が出現したときに、その目的のためにメンバーによって選ばれた、明確に規定され、リコール可能な代表者の会議であった。地方委員会と全国委員会の唯一の責任は、行政上のものでしかなかった。つまり、メンバー会合と議会代表者の会議が案出した政策決定の調整と実行である。

それでも、サンジカリスト組合としての CNT の構造とアナキスト連合としての FAI のそれとは、多くの点で非常に感嘆すべきものだった。実際、上記した私の主たる批判は、形式それ自体に対するものではなく、CNT と FAI が作りだした離反についてなのである。多分、さらにはっきりとしていることだが、私はこの時代の社会的制限を説明しようとしていたのだ−−そこには、古典的なプロレタリア階級に関する神秘性も含まれており、これらの構造形態の実現を腐敗させたのだった。

FAI にとって重要であり、現代のアナキストにとってもいまだに混乱の源泉となっているもう一つの問題は、「影響力のある闘士」という問題である。よく物事を知っており、経験を積み、「強く」、演説でも天才的な個人が、組織の全レベルにおいて政策を創り出すことが多かった、という問題である。

人間が、異なるレベルの知識と意識性を持っているという事実を否認することなど出来はしない。子供時代に長期にわたって依存しなければならないということ、つまり、我々が大きく既存文化の産物であり、経験は年長者の知識を授与する傾向があるという事実は、もっとも解放された社会であってもこうした違いを導くであろう。ヒエラルキー社会において、余り知識を持っていない人々が知識を持っている人々に依存するということは、操作と権力の手段になっているものだ。年長者、つまり、親のような経験をつんだ人は、この特権を意のままにしているのである。そしてそれと共に代替案も持っているのだ。知識・経験・演説の才能を支配の手段として使うための、そして媚へつらいを生ぜしめるための代替案も知っている−−知識と経験を愛情を込めて伝えるという目的のための、教える側と教わる側との関係を平等にするための、余り経験もなく知識もない個人が自由に自分の決定を行うことがいつでも出来るようにしておくための代替案も知っているのだ。

ヘーゲルは、ソクラテスとイエスとの区別を鮮やかに行った。前者は、議論の用意が出来ている人に知識の探求が生じることを求めている教師であった。後者は、使徒が注釈的に解釈することを賛美するよう宣告した預言者だった。ヘーゲルが指摘しているようにこの違いは、この二人の性格にだけでなく、「追従者」の性格にも存していたのである。ソクラテスの友人達は、次のような社会的伝統に育てられていたのだった。その伝統は、『数多くの方向にその力を発達させていた。それらの力は、民主主義的精神を吸収しており、そのことで、個人により大きな独自の基準を与え、頭の良い人が一人の人に全く絶対的に依存することを不可能にしていたのである。(中略)彼らはソクラテスを愛していたのだった。それは、彼の徳と哲学のためであって、彼だから徳がありその哲学があるということではなかったのだ。』逆に、イエスの追従者は、服従的な使徒であった。『自身の莫大なる魂エネルギーを持っていないため、彼らはイエスとの交友・イエスへの依存の中に主として、イエスの教えに関する自分の信念の基盤を見出したのだった。彼らは、自分の尽力によって真実と自由を獲得してはいなかった。勤勉な学習によってのみ、彼らはそれらに関するぼんやりした感覚と、ある種の公式を獲得したのだった。彼らの野望は、この教義を信仰厚く捉え、保ち、いかなる付けたしもなく、自分たちでそれに取り組むことによって、それを細かな部分までいかなるバリエーションをも獲得させることなく、他者に同じぐらい信仰厚く伝達することだった。』

FAI−−非合法だと自分たちで決め、時としてテロ戦術をとり、ほとんど競争的な勇敢さにおいて攻撃的に「マッチョ」だった−−は、その親和グループ内での深い個人的繋がりを発達させていた。フランシスコ・アスカソの死に対するドゥルティの嘆きは、組織的協力から生じた単なる友情ではなく、真の愛情を示していた。だが、FAI において、友情と愛情は共に、強要的な連合に基づいていたことが多く、それはグループにおける最も「勇敢な」闘士によって確立された最も「英雄的な」基準に対する服従を言外に必要とされるものだったのである。こうした関係は教条的不一致を打ち砕くようなものでも、理論の「単なる」点のようなものに見えてしまうことでもない。結局、これらの関係は、指導者と指導される側を生み出すのである。もっと悪い場合には、指導者が指導される側を庇護し、最終的に操作することになるものなのである。

この退化プロセスを逃れるために、アナキスト組織はこのプロセスは起こりえるものであるという事実に気付かねばならず、さらに、それが生じることに対して用心深くなければならない。効果的になるために、この用心深さは最終的にはもっとポジティブな言葉でそれ自体を表現しなければならないのである。それは、暴力の媚へつらい・競争的勇敢さ・無情な攻撃性と共存など出来はしない。活動主義や「強力な性格」を何でもかんでも賛美するなどもってのほかだ。組織は、経験と意識性の違いは確かにそのメンバーの間に存在しているということを認識し、慎重な意識性を持ってそうした違いを扱わねばならないのだ−−「影響力のある闘士」のような遠回しな表現を使って覆い隠してはならない。思想は、教師と同様に、まず第一に、支配と操作が実践されているのかどうかを自身に問わねばならない−−そして、体系だった教育プロセスが行われていることを否定してはならない。さらに、関係が最終的に伝授された知識と経験の果実によって平等にされるというのであれば、誰もが、この教育プロセスは運動の中で回避できるものではないということを十全に意識しなければならない。大体において、このプロセスの性質に関してある人が達する結論は、同志の間に発達する行動パターンによってほぼ直感的に決定できるものなのである。最終的に、自由の諸条件・社交性・友情・愛情という諸条件下においては、ジェイコブ=バッハオーフェンが「女家長」社会に負わしていた類の「フリー=ギビング」となるであろう。彼が家父長制度と関連付けていた強要的で批判好きなタイプではない。ここで、親和グループやコミューンは、その人間性のもっとも進歩したリバータリアン表現を確立するであろう。その兄弟姉妹の中でこの目標を達成しようと努力することだけが、質的にそれを他の運動と区別することになり、そのリバータリアン諸原理に対して真でありつづけるもっとも確固たる保証を提供するであろう。

現代は、個人の自己発達が社会的自主管理と同じぐらい強調されており、リバータリアン組織とリバータリアン関係の正真正銘の性質を強調するのに高度に有利な立場にある。1930年代の西班牙を消耗させたような欧米市民戦争は、もはや核兵器・超音速飛行機・神経ガス・革命家に対する恐るべき火力を配備できる時代に、想像できはしない。資本主義諸制度は、撤退と不信という巨視的な歴史プロセスによって、空洞にされねばならないのだ。それは、あらゆる民衆多数決主義運動が、資本主義諸制度を、その支援不足と道徳的権威のために崩壊せしめることが出来るほどまでにだ。こうした変化が生み出されるような発達−−それが意識的に生じるか無意識的に生じるか、それが権威主義的結果を生み出すのか自主管理に基づいたものを生み出すのか−−は、意識的で、充分組織されたリバータリアン運動が生じることができるかどうかにかかっているのだ。


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