社会生態学の概要

今日、この惑星の生態圏が危機に瀕しているということ、人間を含めた生命を支えるこの惑星の能力が当然あるものと見なすことなど出来なくなっているということを聞いたことのない人などほとんどいまい。しかし、つい35年ほど前には、生態学の概念は生物科学の外の世界ではほとんど知られていなかったのだ。1950年代後半と1960年代初期に、社会理論家マレイ=ブクチンが後に社会生態学となる考えを初めて発展させ始めた時、環境危機が迫っていることに気付いている人などほとんどいなかった。以来数十年、ブクチンは多くの著作と幅広い政治運動を通じて、社会生態学を、急進的社会変容をもたらすための独特の思想体系へと明確に結び付けて述べて来た。

その時代以来、生態危機も悪くなる一方である。次世紀には、地球規模の温暖化だけでも地球の気候を目茶苦茶にし、海面レベルの上昇・破滅的な異常気象・伝染病の流行・耕作可能地の減少とその結果としての農作物生産能力の減少を引き起すと予想されている。1997年9月の合州国内閣ミーティングで、ロバート=ルービン合州国財務長官は、アル=ゴア副大統領に「この地球温暖化問題は経済を死の悪循環へと送り込みかねないぞ!」と声高に言ったそうだ。 ルービンが当時マレイ=ブクチンの文章を読んだことがないことはほぼ確実であり、また、ブクチンとは異なり、彼は資本主義システムの主導的立場にいる代表者として述べているわけだったが、この文句については、ルービンは、ブクチンが1950年代初頭に押し進めていた考えを表現していたわけだ。現在の市場社会は、「成長か死か」という残虐な競争の至上命令の周りにその組織的骨組みが組まれている。そこでは、企業は、他の全てを犠牲にしても資本の拡大のために利益を求めるという市場の圧力によって駆り立てられている。さもなくば、その企業は、同じ様に駆り立てられている競争者によって征服されてしまうのだ。この至上命令は、複雑な生の諸形態を維持するこの惑星の能力と根本的に対立している。この至上命令は、必ずや、資本主義社会によるこの惑星の略奪を導き、単純な有機体しか生存できていなかった時代にまで、進化の時計の逆回りを導くに違いない。

不幸にして、生態問題に対する多くのアプローチは、生態危機が資本主義の最も直結した産物なのだ、ということを認識していない。その結果、それらのアプローチは、他の現象を誤って非難してしまうものなのである。多分、最も広く多くの人々から受け入れられている生態危機の説明は、人口が多すぎる、というものであろう。余りにも多くの人が、地球の限られた資源を余りにも多く使っている、というわけだ。その当然の帰結は、人間が繁殖する割合を何らかの方法で減らすことによってのみ、人間性が生態バランスに達することができる、というものである。生態危機は究極的に宗教的起源があると主張する著作者もいる。 ユダヤ教とキリスト教に共通する族長的宗教は、人間に「産めよ、増やせよ」、他の生物を支配せよと命じ、そして今日の危機を導いたというわけである。さらには、科学とテクノロジーを生態破壊の原因として非難している人々もいる。その人々によれば、有毒化学物質と原子力が発明されていなければ、地球は今日でももっと住み易い場所であっただろう、というわけである。

こうした諸観点は、生態危機の社会的諸原因を完全に無視している。人口過剰は生態混乱を引き起しはしない。むしろ、人口規模とは無関係に、人々がその社会を組織するやり方が責められるべきである。同様に、科学とテクノロジーは責められるべきものではない。問題は、社会が、特に資本主義社会が科学とテクノロジーをどの様に使うのか、なのである。(それ自体で反生態的である原子力と殺虫剤は例外である。)最後に、宗教的見解は、その土台となっている社会的諸関係以上に責められるべきものではない。聖書的戒告、例えば、この世の支配権がアダムとノアに与えられたというような類のものは、結局のところ社会秩序の一表現だったのだ。 これらの説明はどれも、近代資本主義の「成長か死か」という至上命令を無視しているのだ。利潤のための商売・産業の拡大・進歩と企業利潤との同一視を無視しているのだ。つまり、これらの説明は、病理そのものではなく、症状に焦点を当ているのである。これらの説明を押し進めている人々の活動は、どれほどそれが善意のものだとしても、必ず、達成されても根本的治癒にはならない諸目標に限られてしまうであろう。

厳密に生物学的・宗教的・テクノロジー的な諸説明を提供する諸観点とは異なり、社会生態学は、生態危機の根源が社会的諸関係−−歴史が進むにつれ様々な経済・政治制度へと人間が体系的に組み込まれて来たやり方−−にあることを強調する。この説明では、自然界(第一自然)を支配するという正にその考えは、元々、人間による人間の、つまり、ヒエラルキーと搾取階級を生ぜしめた社会的支配から生じていたのだ。人類学的・歴史的記録が示しているように、年齢に始まり、次に性別・民族・人種、そして明らかな経済的諸階級の優越的支配は、さらに進んで、生態圏を支配するという考えを惹起したのだった。社会生態学は、さらに次のことを付け加える。初期の諸社会におけるある社会的集団による他の集団の征服は、人間が、社会的エリート、そして最終的には階級的エリートの利益のために、自然界を征服することを思い描くことさえも可能にしたのだ。

従って、社会生態学は、階級搾取と抑圧に反対すると同時に、ヒエラルキーと支配の全形態に反対する。生態圏を守ろうと戦っている時でさえ、例えば、人種・性別・性のアイデンティティ・階級搾取といった問題に関する優越的支配を取り払おうと努力しなければならないのだ、と社会生態学は論じる。しかし、今日、生態危機の最も直接的な原因は、資本主義として知られる社会的諸関係の一群なのである。そして、単一政体国家は、資本主義システムに必要不可欠なのであり、武力使用の独占を通じて資本主義社会が社会的統制を維持するための道具なのであり、そして同時に、最低限の社会的サービスを提供することで、社会不安を耐えられる程度のレベルに和らげているのである。

汎神論的で、神秘的なことも多い「エコ=スピリチュアリティ」を社会分析よりも優先しようとする活動がエコロジー運動の幾つかの方面でなされているが、これについてはその現実把握能力について重大な疑問がある。盲目の社会メカニズム、つまり市場が、土壌を砂へと変え・肥沃な土地をコンクリートで覆い・空気と水に毒を巻き散らし・膨大な気象と大気の変化を引き起こしている時に、ヒエラルキー社会と階級社会が自然界に与える影響を無視することなどできないのだ。私事本意主義的な霊的自己再生の諸形態よりも、経済成長・性別による抑圧・民族的支配−−大企業・国家・官僚制度の利潤についてはいうまでもない−−の方がよっぽど自然界の未来を創り出すことができるのだ。支配の諸形態は、集産集団的行動と、生態危機の社会的根源に挑戦する大規模な社会運動から抵抗を受けているのであって、単なる消費と投資の私的諸形態からではない。今日の高度に互選的な社会は、単に人格主義を促そうと、そしてその広告と顧客関係の活動に生態学的な言い回しを添えようとしているだけなのだ。

生態学的人道主義

エコロジー的見解の中には、あたかも人間という種それ自体が非可逆の欠陥を持って堕落しているとでも言うかのように、生態危機の原因として総称的に人間を非難するものもある。逆に、社会生態学は、生態学的人道主義を明言しているように、人間を地球上で最も分化した複雑な生命形態だと見なしている。そうでなければ、意識も自由も存在していなかったであろう。少なくとも潜在的には、人間は地球上における倫理の、特に、生態圏の保全を要求する倫理の唯一可能な源なのである。

この非人間的自然の雄大なドラマは、あらゆる点において、気絶させるほどの驚くべきものなのだ。その進化を特徴づけているものは、主観性と柔軟性の増加と、新しい環境の挑戦と機会に有機体がうまく適応できるようにする分化の増大であり、合理的人間について言えば、その分化が全生命体のニーズを最も良く満たすようにその環境を変えることができるようにしているのである。社会生態学は、非人間的自然を、それ自体の進化として認識しているのであって、氷結した絵画のような景色としてではない。これが、生態学的な政治運動と哲学に重大な示唆−−生物学的にも倫理的にもー−を持っているのである。人間は、少なくとも潜在的に、単なる環境適応を越えて、改革を創り出す能力を体現しているのだ。この潜在能力は、決して自然界の場から人間を引き離すのものではない。むしろ、人間を進化の大きな流れの中での意識的な行為者にしているのである。

人間は「自然の異邦人」ではない。ある著述家が主張し続けているような、道具を作る能力のために「いかなる場所でも生態系と共に進化できなかった」系統発生的な奇形児などではないのだ。地球(「ガイア」)は全生物と共に人間性を包含している一つの生命体であると信じているガイア理論家の言葉を使えば、人間は「知性を持った蚤」などでもないのだ。人間性と進化過程とのこうした分離は、それが潜在的に厭世的であるのと同じぐらい表面的で支持などできはしない。人間は、非常に知的で意識を持った有機体であり、脊椎動物の長い進化から−−分離したのではなく−−生じたのだ。人間は、知性・自己認識・意思・意図性・言葉においてであれ、ボディランゲージにおいてであれなされる豊富な表現に向かう重要な進化的傾向の産物なのである。

人間のこうした特性と潜在能力を無視することは、何故人間種は他の種と同様にその能力を排他的に使って、その利益と欲望を阻害する他の生物全てを犠牲にして、自身のニーズに役立て、「自己実現」を得ようとしてはならないのか、の理由を無視することである。有機的自然を「搾取」し、「人間中心的に」行動しているとして人間を告発することは、単に、第二自然(社会的進化)が第一自然の領域にはない道義的責任の使者であるということを認める遠まわしなやり方なだけなのだ。社会生態学は、全ての生物が尊重されるべき「内在価値」を持っているとすれば、それは人間の知的・道徳的・審美的能力−−他の生物は持っていない能力である−−がそのように見なしているだけのことだ、と主張する。「内在価値」なる概念を作りだし、倫理的重要性をそれに付与することができるのは、人間だけなのだ。

自然を支配するという考えは、人間種に元々内在しているものではない。むしろ、その主たる源は、人間による人間の支配に、そして、自然界の構造を生物のヒエラルキー型連鎖だとしていることにあるのだ。こうした考えは、ある種の社会を創り出すことを通じてしか克服することができない。それは、社会生活の全側面で支配と服従を促している階級・ヒエラルキー構造のない社会である。この新しい秩序に、社会姿勢と価値観の変化が含まれることは言うまでもないだろう。しかし、それらの社会姿勢と価値観は、客観的慣習(人間同士が具体的にお互いやり取りする構造)、そして、子育てから仕事や遊戯までの日常生活の諸現実を通じてその実態が与えられねばならない。人間が、経済的諸階級とヒエラルキーによってその骨組みが組まれている社会で生活するのを止めるまで、我々は、儀式・呪術・生態神学・「自然」のように見える生活様式の採用を使って、どれほど賢明になってそれを追い払おうとしても、優越的支配制度から自由になることなどないだろう。

第一自然を変える人間の莫大な能力は、それ自体で、自然進化の産物なのであって、神の創り給うたものでもなければ、宇宙の精霊の化身なのでもない。進化論の観点からすれば、人間性は、能動的・意識的・目的思考的に、第一自然へ未曾有の効果を持って介入し、第一自然を惑星レベルの規模で変えることで造られて来たのだ。この能力を汚すことは、有機的複雑性と主観性に向かう自然進化それ自体の前進−−意識的知性の中で自身を実現する第一自然の可能性−−を否定することなのだ。第一自然には、より大きな複雑性と主観性に向かう自然の傾向がある。それは事象の相互作用から、事実、進化的発展における自然淘汰の活動と同様、自己意識に向けた努力から生じているのだ。意識的に第一自然に介入し影響を与えるという人間性の自然な能力が「第二自然」、つまり今日好むと好まざるとに関わらず、第一自然を実質的に吸収している文化的・政治的・社会的「自然」を勃興させたのである。

第二自然は、実際、進化全体の中で未だに終わっていない、確かに不適切な発達なのである。ヒエラルキー・階級・私有制度・国家などは、思索の上でも実践の上でも、意識的に創造性を持った自然として具現化するという自然の潜在能力が未だに完成していない証拠−−疑いもなく、純粋に偶然生まれた証拠−−なのだ。現存の人間性は、意識を持った自然などではない。生態圏の将来は、社会的・有機的な相補性を持った新しいシステム、つまり「自由自然」−−可能な限りいたるところで、第一自然と第二自然双方に存在する苦痛と労苦を減ずる自然−−の中で第二自然を超越できるかどうかに圧倒的にかかっているのだ。自由自然は、実際に、生態調和社会に具現化した意識的で倫理的な自然となるであろう。

社会生態学に関する著作

弁証法的自然主義

エコロジー運動が、慣例的な(道具的)理性を信頼していないことはもっともである。しかし、エコロジー運動の思索者達は、感情的で有神論的、さらには反合理主義的で神秘主義的な方向に向かった、気まぐれで反知性的な傾向を示していることが非常に多い。弁証法的自然主義の哲学は、社会生態学の土台であり、これら二つの選択肢に対して全く別の代案を提供する。生態学的思考に発達論の観点を加えることで、進化の現象を流動的に塑像的に認識するのである。だが、進化から合理的解釈を奪いはしない。「生態学化された」、つまり自然主義的中核を付与された弁証法は、そして現実の真に発達的な理解は、生き生きとした生態学的倫理の基盤を提供できるであろう。

弁証法的自然主義はまた、現実を実存的に開示している連続体として捉えることで、客観的世界に完全に関係する。同時に、倫理判断を行う客観的枠組みをも創り出す。合理的潜在能力の−−存在してはいるが暗黙のものである自由と意識の現実性の−−客観性に基づき、弁証法的自然主義は、自由な生態調和社会の現実性、もしくはその実現を生み出す発達段階を実存的にも思弁的にも推論しようとするのである。このことは、単なる私的好みや価値観の問題などとは異なる倫理を惹起する。潜在的なそして論理的な自己実現の客観的基準として事実に基づいて世界にしっかりと根を下ろすのである。 従って、例えば、ある社会が「良い」か「悪い」か、道徳的か不道徳なのかは、合理性と倫理に対するその潜在能力を達成したかどうかによって、客観的に決定できるのだ。それ自体弁証法的連続体の実現である潜在能力は、倫理的自己達成−−単に心の奥底でではなく、発展的な世界という現実の中での−−という正に現実の挑戦を提示する。ここに、真の倫理的社会主義の唯一有意義な基盤があるのだ。意見と嗜好に基づいた一群の主観的「好み」以上のものなのだ。

弁証法的自然主義に関する著作

アナキズム・マルクス主義・革命史

社会生態学は、単一政体国家と資本主義を放棄する社会の根本的変換を求めている。それ自体で、社会生態学は左翼の伝統、特に革命的リバータリアン左翼に完全に深く留まっているのである。

マルクスの著作の多くの側面が、リバータリアン共産主義の社会分析と革命的変革理論に莫大に関連している。最も根源的には、一貫した社会主義を形成するというマルクスの基本計画は哲学・歴史・経済・政治を統合している。社会生態学は、分断が全側面に広がっている今、そしてポストモダニズムが相対主義と多元論という名の下で、一般性を作り出すのではなく、個々のエピソードと出来事だけを扱うように我々に強いている現代において、特にこの計画を承認するのである。社会主義は「科学」になり得るというマルクスの主張は支持できないが、彼の首尾一貫した社会主義の要求は斬新であり、その一貫性の要求は、一世紀前と同様今日でも生きているのである。

同様に非常に重要なことは、マルクスの政治経済学の活力である。彼の経済研究は革命的社会主義の分析にとって中核となるものである。彼の商品化理論、世界規模の資本の蓄積理論は、今日の資本主義の本質的特徴を予言していた。同じことが、彼の歴史発展の理解にも言えるだろう。その図式に誤りはあるにせよ、それは唯一無二の社会的洞察を持っている。最後に、実践で理論を鼓舞するというマルクスの試み−−フォイエルバッハの有名な11番目のテーマ、「哲学者はこれまで様々なやり方で単に世界を解釈するだけだった。重要なのは世界を変えることだ。」−−は、学者的クレチン病と人格主義的内省から被害を受けている左翼にとって、未だに基本的な挑戦なのだ。

しかし、資本主義から社会主義への移行手段として、マルクスは国家に多くを頼っていた。革命的移行を実行するために、中央集権国家はブルジョア国家の後継者として必要なものとなるだろう、そして、労働者の政党が社会全体の利益において新しい国家を何らかの方法で統治すべきである、と彼は見なしていた。この観点は、社会の少数派が、ブルジョア統治の特徴を持った方法を用いて、腐敗や赤裸々な圧政を経験せずに、どの様にして民主的に社会的事柄を管理できるのか、という根の深い問題を無視していたのだった。マルクスが直接民主主義集会や民衆評議会に基づいた連合という代案を真面目に考えなかったことは、革命よりも改革を、リバータリアン的行政形態よりも官僚制度を導く議会主義的方針を社会主義に背負わせたのだった。

社会生態学は、議会主義だけではなく、政党選挙システムそのものにも反対する。政党とは、ボトムアップ型のリバータリアン連合とは逆の、トップダウン型の官僚制度的道具なのだ。国家権力を手に入れる機会を狙っている国家主権主義的道具に他ならないのである。政党が実際に権力を握ると、明らかな階級独裁になるか、いわゆる代議制共和国になるかに関わらず、政党が統治するようになったり、最終的には廃止することにさえなったりするその正に国家機構の権威主義的諸特徴を獲得するのは当然のことだ。

この点について、社会的アナキズムの幾つかの特徴はマルクスの最も良く知られている政治的遺産よりも格段の進歩を提供している。特筆すべきことは、社会的アナキズムが国家と政党ではなく連合を要求していることである。直接民主主義を要求しているのである。リバータリアン形態の共産主義を要求しているのである。だが、残念ながら、左翼リバータリアン−−社会的アナキストさえも−−は、組織的な形態や方法を拒絶するという嘆かわしい傾向を持っていた。従って、社会の移行を促す役割を果たす機会を失う羽目になったのだった。革命の歴史を振り返り、重要な瞬間と状況を検証して見ると、革命の最中に、ドグマ的な標語が、革命指導者と革命組織を麻痺させ、革命活動を行えなくさせていることが余りにも多かったことが分かる。

我々は、死にもの狂いで、理論的洞察と民衆の自発性との、組織と衝動との合理的バランスをとらねばならない。他方のない一方だけでは必ず失敗してしまうのだ。

アナキズム・マルクス主義・革命史に関する著作

リバータリアン自治体連合論

社会生態学は、直接民主主義の伝統に基づいた権力分散型のリバータリアン政治運動を主張する。これは、リバータリアン自治体連合論として知られている。それは顔の見える民主主義を企図しており、その民主主義こそが単一政体国家と資本主義に対する制度的対抗権力を作り出すことができ、従って、生態調和社会の創造を導くことができるのである。

この目的に向けて、リバータリアン自治体連合論者は、大きく失われている地域の政治領域を蘇生させ、広範囲にわたる地域的直接民主主義へとそれを拡大しようとする。この直接民主主義を、市民集会で−−近所や街の会合で−−制度化することを目的としている。そうした集会では、所与の自治体の市民が共通の公的関心事について会議を開き・協議し・意思決定することができるであろう。合理的リバータリアン生態調和社会において、社会全体を市民が管理できるようにすることで、その民主主義を強力な力にしようとするのである。

自治体発生期の政治領域をこの実現へと導くために、リバータリアン自治体連合論者は、顔の見える市民集会を開くことで、街と都市の近所の管理を充分な能力を持った成人の地域メンバーの手に完全に委ねようとする。受動的な傍観者・消費者・疎外されたモナドとして人工的に作り出されたペルソナを削ぎ落とすことで、市民はお互いが相互依存していることを認識し、資本主義それ自体が階級的性質に関わる重大な危機だけでなく、生態上の問題・性差別の問題・民族問題・官僚的問題などに明らかになっている超階級的な社会性質の重大な危機をも創り出している時代において、公的福祉を促すという共通の市民的問題を認識するであろう。市民は広い地域参加に向けた制度を創り、その時々に進行している問題を基にその制度を維持し、最終的に国家が市民から奪った権力を取り戻すであろう。

市民集会を形成することによる民主化を経験した自治体は、自治体間に共通した諸問題や地理的地域に共通した諸問題を扱うために、地理的地域に基づいた連合で結び付くであろう。所与の地理的地域にある民主化した自治体群は、連合評議会に代表者を送るであろう。その代表者は自分を選んでくれた集会に対して個々に責任を負い、それらの集会によって有無を言わさず命令されるであろう。代表者は、地域集会の同意をまず最初に得なければ、政策決定を行うことを許されはしないだろう。そして、集会の自由裁量で代表者を「即座に解雇できる」であろう。

実際、政策決定を行うよりも、連合評議会は主として行政的・裁決的目的−−すなわち、政策間の違いを(根本的な承認を得た上で)調停しながら、地域集会が明確に表明した政策を調整し、承認を促すという目的−−のために存在するであろう。

民主的集会において協議するのは、政策決定権を唯一持っている市民である。そこでは、市民はある特定問題に対して様々な活動方向を作り出し、様々な長所と短所を協議し、その上で多数決によって意思決定をするであろう。逆に、連合評議会は、それぞれの自治体がすでに採用している諸政策を単に調整し、実行するだけとなろう。

リバータリアン自治体連合運動が長期にわたって広がるにつれ、より多くの自治体が民主化し、連合を形成するようになるだろう。最終的に、かなりの数の自治体が連合を形成し、その共有した力は、望むらくは、国家と資本主義システムに対する明らかな脅威となるであろう。

自治体連合が大きくなり数が増すにつれ、その潜在能力も大きくなり、単一政体国家に対する対抗権力もしくは二重権力となる可能性も大きくなるであろう。自治体諸連合がこの潜在能力を実感すると、それらと国家との緊張が大きくなる可能性がある。連合した自治体群が国家に対する明確な対抗権力となるであろうことを期待すれば、この緊張は大いに望ましいものである。

連合した自治体群が国家に対する二重権力を作り出すのに充分な支持を得ると、政治状況は非常に不安定になり、最終的には全面対決を導くことになる見込みが高い。また、直接民主主義と、生の全側面における資本主義が創り出した危機とが、国家権威を不当なものとし、民衆の大多数を新しい市民の連合的制度に賛同するように説得することで、国家権力それ自体を制度的に「空洞にしてしまう」だろうということも有り得る。しかし、対決があろうとなかろうと、権力は国家と治国策を実際に行う専門家集団から離れ、完全に民衆とその連合した集会の手に移らねばならないであろう。

民主化された社会における経済生活は、国有化されもしなければ(国家社会主義のように)、工場については労働者の手に置かれるというのでもなければ(サンジカリズムのように)、私有になるのでもなければ(資本主義のように)、小規模所有者の共同組合群として再編成されるわけでもない(共同体集産主義のように)。むしろ、自治体化されるであろう。つまり、地域の「所有」のもとにおかれ、市民集会という形を取って管理されるのである。こうした経済の自治体化とは、地域の市民とによる「所有」と経済管理、そして連合を通じた他の自治体化した経済との調整を意味する。所有権−−土地と工場の双方を含む−−は、それぞれの集会にいる市民の全面的管理下に置かれ、連合評議会によって調整されるだろう。市民は、その地域の経済資源の集産集団的「所有者」となり、地域全体の利益のためにその経済政策を創り出すであろう。

従って、市民が、個々の仕事場についてだけでなく、全地域について経済的意思決定をすることになるだろう。例えば、ある工場で働いている人々は、その工場だけでなく、他の工場についても同様に政策を創り出すことに参加することになるだろう。人々は、労働者・農業従事者・技術家・技師・専門家などとしてではなく、市民としてこの意思決定に参加するであろう。市民が決める事項は、その特定事業や職業の利益によってではなく、地域全体のニーズによって導かれることであろう。

集会は、生活の物質的手段の分配についての決定も行う。「欲望充足」という共産主義の確約を達成するのである。「各人から能力に応じて、各人へは必要に応じて」−−19世紀共産主義運動の要求−−は、集会によって合理的に決められたニーズのレベルに応じて、生き生きとした実践になるであろう。従って、地域にいる誰もが、その人がどれほどその仕事を行うことができるのかに関わらず、生活手段に接するようになるであろう。市民の集会によって道徳的・合理的に形成された基準に基づいて、大まかな経済的平等が生じるであろう。それは、青年と老人、虚弱な人と健康な人、のように人々を区別する身体的不均衡を補うであろう。とどのつまりは「不平等者から成る平等」である。

経済生活それ自体は、合理的政治領域の管理下に持ち込まれ、集会の公的仕事の一部として吸収されるであろう。工場も土地も二度とそれ自体の排他主義的関心を持ったばらばらな競争単位となることはありえないであろう。

リバータリアン自治体連合論に関する著作

社会革命

資本主義が社会的・政治的生活に次第に深く侵食している時に、あきらめて、魂の再生を求めた祈りをしながら、後ろに下がって何が起こっているのか傍観することなどできはしない。今世紀の終わりに社会が被っている多くのすさまじい変化は、そう生じる運命なのではなく、未然に防止されてもよいものなのだ。我々は、明確に定義できる社会変換運動を創り出しながら、こうした堕落を取り除くことができる。単一政体国家と資本主義システムが無制限に生き続けることなど出来はしない。このシステムは世界中で貧富の差をぱっくり開いた谷底程にまで広げているだけではなく、自然界との衝突の方向に向かっているのだ。

しかし、資本主義経済の「死の悪循環」が発展してしまえば、その社会的帰結は決して合理的リバータリアン生態調和社会とはならないだろう。国家が、社会不安を抑制するために、さらに権威主義的になろうとするのももっともである。もし、この危機が人間の解放を生ぜしめるのであれば、解放的な代替社会は少なくとも相当な程度まで既にこの場になければならないであろう。次第に、我々の選択肢は明らかになっているように思える。民衆が民主的・共同的・生態調和的な社会を創り出すか、生態と自然という社会基盤が崩壊するか、である。従って、政治運動と市民権の再生は、自由社会の前提条件だというだけではない。 当然、種としての我々の生存の前提条件でもあるのだ。実際、生態上の問題は社会の根本的再構築を要求しているのである。競争的ではなく協働的な、権威主義的ではなく民主主義的な、個人主義的ではなく共同体的な−−結局のところ、生態圏をだいなしにしている資本主義システムを減少させることによる−−方向に沿っている再構築なのである。

我々に行動するように強いている社会的諸問題は非常に具体的で、階級問題と同じぐらい重要ではあるが、厳密な階級問題を越えたものである場合が多い。生態圏を保全しようという希望は、大部分の合理的な人々に共通している。地域の必要性は人間の魂にいつも存在し、幾世紀にもわたって、特に社会危機の時代に繰り返し湧き出てくるのである。資本主義経済に関して、我々は、それが二世紀程前に出来ただけのものでしかない、ということを思い起こさねばならない。それ以前の混合経済時代には、文化的諸要因が貪欲な欲望を拘束していたのだった。欲望充足テクノロジーを使って強化することで、もう一度そうすることもできるであろう。