五十年を経て:西班牙市民戦争


本論文は、AK Pressから出版されている小冊子、To Remember Spain: The Anarchist and Syndicalist Revolution of 1936に載っている論文である。原文は、After Fifty Yearsで読むことが出来る。なお、視覚的な問題で、「スペイン」は「西班牙」と漢字表記しておいた。また、原注は本文内に示してある。(訳者)

神話と現実の間に、不安定な推移ゾーンがある。そのゾーンは、神話と現実それぞれの真実を捕えている場合があるものだ。50年前の西班牙は、世界史に残る革命の渦中にあり、正にこうした場合だった−−何百万という西班牙労働者・農民・知識人にとって、最も高潔で、ほとんど神話のような自由の夢が、突然、現実のものとなったように思えた貴重な瞬間だったのだ。この短い期間、このきらめく瞬間に、あたかも世界は息をひそめて立ちすくんでいたかのようであり、一方、西班牙大都市のほとんど・何千という村落では革命的社会主義の赤旗と革命的アナルコサンジカリズムの赤黒旗が翻っていたのだった。

工場・田園・ホテルやレストランでさえもを莫大に自発的に集産化することで、西班牙の抑圧された諸階級は、空前規模の力と情熱を持って歴史を変え、イベリア半島の多くの領域で、自由社会という永久の夢に驚くべき現実性を与えていた。1936年〜1939年の西班牙市民戦争は、当初から、最後の古典的欧州労働者・農民革命だった−−はっきり言っておくが、短命な「蜂起」でもなければ、上層部に操られた「ゲリラ戦争」でもなければ、国を支配しようとしている地方間の単なる市民闘争などでもなかったのだ。そして、永遠に消えうせてしまう前の最後の瞬間に現れる多くの生物がそうであるように、西班牙市民戦争は1640年代後期のクロムゥエル派イングランドから1930年代初頭のヴィエナとアストリアスの労働者階級蜂起までの偉大なる革命時代の民衆運動の中でも最も深刻で挑戦的だったのだ。

西班牙市民戦争を第二次世界大戦の単なるプレリュードだとか、よく噂されているような「民主主義とファシズム」との闘争だ、などと記述することは、神話などではなく、全くの虚偽である−−学術学会にいる嘘の作り手どもが歴史をクレチン病的に倒錯させているのだ。第二次世界大戦ですら、このイデオロギーの特徴を描写するという栄誉になど値しはしない。西班牙は市民戦争以上のものによって奪取されていた。深遠なる社会革命の生みの苦しみを経験していたのだ。この革命は、近年の多くの自称革命のように、近代化に対する苦しみの産物などではなかった。近代化と何か関係があるとすれば、西班牙は、近代化という問題が、西欧・東欧の経済社会的発達に対する反動や適応をではなく、真の社会革命を喚起する手助けをした非常にまれな国の一つだった、ということだ。西班牙市民戦争が持っているように見える「第三世界的」特徴、そして結局のところ、それが資本主義と権威主義的社会主義に対して提起した驚くべき代替案が、この革命を現代のリバータリアン運動に絶えずつきまとうほどにまで関連させているのである。国家を近代化するにあたって、西班牙労働者階級と農民は、その経済の大部分を文字通り奪取し、コレクティブ・共同組合・労働組合ネットワークのサンジカリスト構造という形で直接管理した。民主的に運営された義勇軍は、あらゆる階級区別がなく、選ばれた「司令官」だけでなく兵士も含めて共同意志決定プロセスの周囲に組織づくられ、軍の最前線へとすぐさま移動していた。

外人部隊とムーア人傭兵で構成されたフランコの「アフリカ軍」−−血に飢えていて、当時の欧州諸国を並べて見ても明らかに最も専門訓練を受けた軍隊の一つだったのだろう−−と、充分訓練された治安警備隊(civil guards)・警察の援軍を止めることは、それが西班牙本土に強力な基地を確立したときには、もはや奇跡に頼るほかなかったであろう。急いで作られ、訓練を受けておらず、実質的に装備も不充分な義勇軍が、フランコ軍隊のマドリーへの進撃を四ヶ月遅らせ、首都郊外で実質的に止めておいたことは、過去半世紀、市民戦争に関する著作者から適切な賛辞を得ることなどなくとも、偉業だったのである。

「共和党」の背後で、権力は本質的に職業別組合とその政治組織の手中にあった。社会主義労働者党(PSOE)の労働連合であり、百万の組合員を持つ労働者総同盟(UGT)と、同じぐらい大規模で、半非合法のイベリアアナキスト連盟(FAI)に強く影響を受けていた労働全国連合(CNT)である。さらに、もう一つの左翼組織、マルクス主義統一労働者党(POUM)があり、その急進的メンバーと指導者は当初トロツキストの伝統にその根を持っていたものの、もっと影響力のある社会主義者とアナキストに従っていた。カタロニアでは、共産党と社会党は、主として共産党支配のカタロニア統一社会党(PSUC)を作りだすために団結していたが、POUMはこれら両党よりも遙かに数が多かった。共産党は、革命当初、三つの主要な左翼組織とその組合から酷く遅れ、その数と影響力では取るに足らないものだったのだ。

1936年夏と秋に西班牙中を一掃していた集産化の波は、最近のBBC-グラナダ放送のドキュメンタリーでは、「西欧がこれまで見たものの中で最も偉大な労働者自主管理の実験」だと述べられている。1917年〜1921年とその後数年間にロシアで生じたいかなる革命よりももっと深遠な革命だったのだ(原注)。

(原注:西班牙市民戦争(パート5、「革命の内側で」)は、BBC-グラナダ放送による6巻のドキュメンタリーである。このシリーズは、私が見た中で最も優れた西班牙市民戦争の映像であり、膨大な数のここでしか見られない口述史がおさめられている。このドキュメンタリーは西班牙市民戦争に関する一次資料である。)

カタロニアのようなアナキズム的産業エリアでは、経済の推定3/4が労働者管理下に置かれた。これはアラゴンのようなアナキズム的田舎でも同様だった。UGTがCNTやその他優勢勢力と権力を共有している場所では、この数は次第に先細りしている。アナキズムと社会主義のヴァレンシアでは50%、社会主義と自由主義のマドリーでは30%だった。もっと徹底的なアナキズム地域、特に農民コレクティブの中では、お金は排除され、生活物資は厳密に労働ではなく欲望によって割り振られていた。リバータリアン共産主義社会の伝統的格言に従っていたのだ。BBC-グラナダTVドキュメンタリーは次のように述べている。「利潤も所有もない集産社会という古代の夢がアラゴン村落では現実となった。(中略)全生産形態は、地域が所有し、労働者によって管理されていたのだった。」

「共和党」西班牙の行政機関は、組合とその政治組織にほぼ完全に従属していた。多くの都市で警察は、武装労働者のパトロールに起きかえられた。義勇軍がいたる所に作られた−−工場・農場・社会主義やアナキズムの地域センターや組合ホールに。当初、義勇軍には男性だけでなく女性も含まれていた。地域革命委員会の大規模なネットワークは、都市への食料供給・経済操作・公正な分配(meting out of justice)など、実際、生産から文化まで西班牙生活のほぼ全側面を調整していた。「共和党」ゾーンにおける西班牙社会全体を、充分組織され一貫した全体へと持ちこんでいたのだった。この歴史的に前例のない、最も抑圧された社会層−−ここには女性も含まれ、女性は強力に伝統的なカトリック教国の全制限、例えば堕胎や離婚の禁止などや経済的に酷い立場、から解放されたのだった−−による社会盗用は、西班牙プロレタリア階級と農民の仕業だったのだ。それは、CNT-FAIなど、抑圧された側の革命組織さえをも圧倒した下からの運動だった。『明らかに、いかなる左翼組織も、工場・仕事場・土地の革命的乗っ取りを呼びかけてはいなかった。』とロナルド=フレイザーは民衆運動に関する最新の解説の中で述べている。『実際、都市部アナルコサンジカリズムの激震地であったバルセロナにおけるCNT指導部は、さらに次のように述べていた。コンパニース大統領(カタロニア政府の長)が示した権力の提示を拒否し、リバータリアン革命を脇に置いて、共通の敵を打ち負かすため人民戦線派と協力しなければならない、と決定したというのだ。バルセロナを労働者階級が実質的に運営する都市へと数日のうちに変換した革命は、当初は個々のCNT組合から生じ、最も進歩した闘士によって推進されたのだ。こうした人々の実例が広がるに従い、大規模事業だけでなく、小規模の仕事場・ビジネスが乗っ取られるようになったのだった。』(原注)

(原注:Ronald Fraser著, "The Popular Experience of War and Revolution" in Revolution and War in Spain, 1931-1939, Paul Preston編. (London and New York, 1983), pp. 226-27. この本も貴重な資料である。

私がフレイザーを引用したのは、西班牙労働者階級と農民の多くの部分が発達するときに、教育と議論が持っていた優れた力・経験の批判的吟味を強調するためである。なぜなら、エリック=ホブスバウムのような共産党員が、アナキズム思想に大きく影響を受けたこれらの部分を「原始的反抗」だと示していることは、偏見よりもさらに悪いからだ。それは、歴史の変動に対して機械的に課せられたイデオロギーを示しており、現実生活との断固たる矛盾の中にある発達「段階」にその変動を組織化し、歴史家の心にしか存在しないカテゴリーへと変動を氷結させているのだ。西班牙は、主として農業国だ、実際、その構造は「封建的」だから、そのプロレタリア階級は「未発達」なはずで、農民は「至福千年説信奉」という期待の熱に捕われていた、などと述べられる。そして、西班牙の発達に関するこうした「原始的」特徴が、人口2400万人の内、アナルコサンジカリズムCNTが100万人以上のメンバーをかかえていたことをどういう訳か説明してくれる、というのだ。さらに論は進んで、西班牙のブルジョア階級は、領地を持った貴人・聖職者・尊大な役人集団に脅されている継子であり、西班牙には、「社会主義」革命の「歴史的前提」として、仏蘭西と米国同様の「ブルジョア民主主義的」革命が必要だ、などと言われる。この「段階理論」は、「前提諸条件」をごた混ぜにしながら、本物の労働者・農民の革命という現実に対抗して、1930年代の共産主義インターによって非常に効果的に喚起されたのだった。西班牙外の世界から革命を完全に覆い隠すことは出来なかったが、革命は共産党によって「歴史のバランス」上「未熟だ」と宣言され、それはスターリン主義ロシアの外国兵站支援部のどこかで決定され、「共和党」西班牙を市民戦争の中の市民戦争という危機へと持ちこんだほどの規模でPCEによって断固として攻撃されたのだった。

西班牙と1936年の革命に関する近年の解説は、この国の社会に関して、共産党・その自由主義的同類・ジェラルド=ブレナンやフランツ=ボルケナウのような充分な意志のある観察者にさえもが描写していることとは全く異なる像を提供している。その外観にも関わらず、二世代前に教えられていたほどにも西班牙は圧倒的に農民・「封建」社会だったのではない。世紀の変わり目から1931年の第二共和国の勃興まで、農業分野と非農業分野との相対的重みの大きな変化と共に、西班牙は大規模な経済成長を経験していた。1910年から1930年まで、農民は、労働人口の66%から45.5%へと減っていたが、産業労働者は、15.8%から26.5%へと上昇し、第三次産業に従事している人々も18.1%から27.9%へと増えていた。実際、農民は、当時、伝統的な大多数ではなく、総人口の少数派だったのであり、「農民」の大多数が土地を所有していたのだった。特に、「人民戦線」慣行下にいた自由主義−社会主義−共産主義連合に対抗して非常に保守的な「民族戦線」を固守していた地域ではそうだったのである。実際、「人民戦線」−−その1936年2月の選挙が軍の策略を促し、6ヵ月後のフランコ主義の反乱を導いた−−は、中央諸政党を拒絶しながらも、投票手続きと彼らを支持していた状況下で54%しか票を獲得できなかった。さらに、エドワルド=マレファキスが、市民戦争に導かれるまでの期間に生じた農村動乱に付いて徹底的に調査した研究で示しているように、CNTは、カタロニアの産業労働者階級の中で最大の強度を持っていたのであって、南部の「至福千年説信奉の」農業日雇い労働者の中ではなかったのだ。こうしたブラセーロの多くが1930年代に社会主義組合に参加し、改良主義の社会党を次第に革命的方向へと押し動かしていったのだった。(原注)

(原注:Edward E. Malefakis著、 Agrarian Reform and Peasant Revolution in Spain: Origins of the Civil War (London and New Haven, 1970), pp. 284-92. を参照。)

西班牙の急速な産業化率と、「封建的」農業形態から本質的に資本主義的形態への変化は、「人民戦線」の勝利に先んじて確かに起こっていた。プリモ=デ=リベラの充分寛大なムッソリーニ型独裁政権(ラルゴ=カバリェーロのような指導的社会党員も、他のUGT首領同様に、公的ポジションを実際に有していたという、伊太利亜ファシズムの西班牙版パロディであった)下にあった1920年代の十年間は、全国的経済近代化を目の当たりにしていた。それは、1960年から1973年までのフランコ政権下におけるにわか景気年間とほぼ同じ、またいくつかの場合ではそれ以上のものだったのである。文盲率は大きく減少し、経済拡大は加速していた。従って、大規模な中産階級や中産階級的価値観を持ったサービス業労働者も拡大し、西班牙の戦闘的労働者階級に対抗する役割を演じることが出来るようになったのである。

経済不安の唯一最大の貯蔵庫は、南部にあった。アンダルシアのプランテーション農場、すなわちlatifundia社会は、オリーブ・穀物・葡萄の耕作−−絶望的に貧乏で、半飢餓状態の土地を持たない日雇い労働者の大規模労働力−−の周囲に構造が作られていた。西班牙の半封建的大公の束縛に捕われながら、何十万ものブラセーロは激しい絶望を生きていた。フランコ反乱の鋭い刃先を形成しようとし、その勝利の第一の受益者だった貴人とブルジョア階級という王党派上流階級の裕福さと冷酷な傲慢さとは対照的な生活様式だった。

ブラセーロの周期的な蜂起は、1918年〜1920年の農民戦争時に頂点に達し、野蛮な階級憎悪の遺産を残したまま、無情にも統制されてしまった。その遺産は、穀物・農場の建物・田舎の大邸宅(大部分が社会不安の時期に事実上の要塞へと変えられた)を焼き尽くすことで、そして、階級的障壁の両陣営を暗殺することで、表現されたのだった。1930年代よりもだいぶ前に、アンダルシアは、あらゆる実際的目的のために、占領された領土となっていた。そこでは、治安警備隊がこの田舎をパトロールし、地主が雇った武装ごろつきどもと共に、ストライキをしているブラセーロに対して気まぐれに発砲し、市民戦争の第一週に恐ろしいほどの死者を出した地方特有の暴力を生み出したのだった。しかし、ここでも、農業は市場に向けたその方向性という点で、非常に資本主義的だった。アンダルシアの産物は、大部分、国際貿易用だった。高貴な称号が、最も残酷な形態にあるブルジョア階級の貪欲を覆い隠し、西班牙の伝統に関する上流階級の言及が、破壊的な強欲と特権をカモフラージュしていたのだった。

この劇的場面を提示した後に無視できないことは、1936年の革命を導いた危機が、どの程度まで、経済的なだけでなく文化的だったのかということである。西班牙は、いくつかの民族からなる土地であった。バスク人とカタラン人は、自分の尊重すべき文化の自立を求めており、ある程度の軽蔑を持って西班牙生活様式を眺めていた。カスティージャ人は、内部分裂していたにも関わらず、半島の集産的圧制者だと見なされていた。傲慢な貴族達は、西班牙の「黄金時代」のイメージを食い物にし、自分達を取り巻く本当の西班牙からはほぼ偏狭な疎外の中に生きていた。近親相姦的役人カーストは、この国にいつまでも残っている「秩序」の一つに属し、そのために「国家再生」が自由主義の価値観から発達し、単なる反動でしかない人々に対しては「近代主義」を発達させることとなった。最後に、事実上中世的な教会は、過剰に土地を所有し、厳格にヒエラルキー的で、人間の「兄弟愛」という偽善的美辞麗句と上層階級への特権的加担が顕著に異なっていたため、酷く憎まれていたのだった。

結局、西班牙は、その文化が街と田舎・封建主義と資本主義の劇的な推移段階にあった土地だったのだ−−貴族の最高主権という過去を回顧し、アナルコサンジカリズム運動にその最も過激な形態を見出した平民平等主義という将来を期待するノスタルジックな世界だったのだ。西班牙労働者階級をこれほどまで唯一無二に革命的になさしめたのは、私の観点では、田舎に充分根をはった家柄だった−−非常に合理化され・機械化された都市の産業世界と激しく衝突した比較的ゆったりしたペースの有機的農民世界だったのだ。これら二つの文化の闘いの場で、地中海沿岸諸都市にいる西班牙労働者は、頑固さ・道徳的緊張感・産業革命以前の生活様式への同情・地域社会へのコミットメントを保持していた。これは、非常に商品化された市場志向的時代が持っている、容認された智恵と前もってパッケージ化された生活様式漬けになった世代に引き継がれることなど不可能である。

この闘いの場の緊張は、強力な社交性という西班牙の遺産によって強調された。都市のバリオスは実際に都市内部にある親密な村落だったのであり、カフェや地域センターや組合ホールによって一つに編みこまれていた。そして、西班牙の過去が持つ貴族的神話と、公的サービスに対する全要求を放棄した憎まれている教会と全く対立している、生き生きとした戸外での民衆生活によって活気づけられていたのだった。全国のエリート階級は、自分たちのために働いている人々と完全に分離してしまっており、家柄・身分・土地持ちの富によって自分に与えられている特権に対して非常に防衛的だった。このことで、成金ブルジョアが伝統と歴史によって何世紀も守られていた社会地域に入り始めると、しばしば亀裂が生み出されたのである。

従って、誰もが、常に、深い社会的・文化的・地域的・階級的・経済的意識に「属していた」のである−−それは、西班牙の一部にであったり、ヒエラルキー・カースト・氏族・制度(軍にせよ、組合にせよ)にであったり、最後に、近所・村・街・都市・県に、というように正確に愛着のある順番で属していたのだった。この文化的意識においては、提携と敵対が経済的重要性を覆すことが多く、それは現在では理解できないほどのものだった。一つだけ例を上げれば、サラゴサの労働者は、そのイデオロギーがバルセロナのサンジカリスト同志よりもアナキスト的であり、「くだらぬ」経済的要求のためにストライキをすることを潔しとしなかった。彼らが自分の仕事の道具を放り出したのは、刑務所にいる兄弟姉妹のためだったり、政治・人権・階級連帯といった問題のためだったのだ。本当に驚くべき例を上げれば、こうした「純正」アナキストが24時間のゼネストを宣言したのは、ドイツの共産党指導者、エルンスト=トールマンが、ヒトラーに逮捕されたからだったのだ。

この鮮やかでラジカルな文化の背後には、直接行動・自主管理・連合的結合という芳醇な伝統があった。西班牙は、君主制が歴史的危機に直面したときでも、フェルナンドとイサベル−−半島に対する最後のムーア的要塞を制圧した「カトリック王」−−の下では民族国家になってはいなかった。コムネーロス(直訳すれば、パリコミューン支持者)の下で、カスティーリャの主要都市は、実質的に自治体連合の周りに主として組織された国家という形態を要求する蜂起を起こした。連合政治システムが中央集権型単一政体国家の代案として飛び交っていたこの重大な瞬間に、カスティーリャ諸都市は、短命な区域民主主義と隣近所集会を創り出し、地域社会の底辺にいる人々に公民権を与えていた。その規模は、1871年の巴里コミューンの衝撃に匹敵するほど、欧州支配エリートを恐怖に身震いさせるほどのものだったのだ(原注)。

(原注:コムネーロの反乱を含む、欧州が16世紀に直面していた代替アプローチの評価については、拙著、都会のない都市化を参照していただきたい。マニュエル=キャステルズの都市と草の根(Berkeley and Los Angeles, 1983)は、この反乱と反乱が持つ意味に関する優れた説明をしている。これはキャステルズの伝統的マルクス主義アプローチからの離別だ、と私は信じたい。Comunero反乱に関する英語での解説とこの題材に関する歴史的著作の有用な批判については、Stephan Haliczer著「カスティーリャのコムネーロス」(Madison, 1981)を参照してほしい。西班牙アナキズムと西班牙の民衆文化との関係に関する全般的バックグラウンドについては、拙著西班牙のアナキスト(New York, 1976; AK Press, 1994)を参照して頂きたい。)

こうした連合運動は、西班牙史を通じて数世代にもわたり浸透していた。連合運動は、1870年代初頭のピ=イ=マーガルの連合党や、バクーニンの著作に教育されていたアナキストにおいて爆発しながら、中央集権国家制度に及ぼす地域社会の莫大な力の中で、現実生活の形態をとっていたのだった。だが、西班牙の地域主義(localism)と連合主義は、断固たるアナキズム的現象ではなかった。それらは、中核として西班牙的だったのであり、最も伝統的な社会主義者やバスクの国粋主義者でさえもを奮い立たせ、1930年代に入ると中央集権国家の権威に対抗する自治体政治管理という概念を押し進めたのだった。

その結果、西班牙急進主義は、現代の諸問題に対する唯一無二の関連性を持った疑問と回答を提示したのだ。つまり、国家の中央集権主義・国有化・経営的統制・官僚制度に反対する、地域の自律・連合主義・集産主義・自主管理・底辺の民主主義である。世界は1936年までこのことを知らなかったのであり、そればかりか、これらの問題の範囲は今日でも適切に理解されてはいない。確かに、西班牙急進主義は、歴史が欧州を退化させていたいたというイデオロギー的イメージを引き起こしもした。そのイメージは、スターリンが主張したボルシェビキの外套に覆われた解放という不完全な概念であって、古典的プロレタリア暴動・バリケード・革命的労働組合に関するサンジカリズムの大勝利・西班牙自体の民衆的伝統のものではない。西班牙軍が鎮めようとしていたのは、社会混乱というこの渦を巻く旋風だった。制度的遺物の旋風だ。貴族的礼服を身にまとった大規模アグリビジネスが、ぼろを着て土地に飢えた日雇い労働者の労働力と戦っていた農村危機だった。革命的アナキズムと革命的社会主義の世紀に、欧州で最も爆発しやすいプロレタリア階級と農民に対抗した傲慢な貴族階級・貪欲なブルジョア階級・度を越えて物欲的な教会・主体性のない中産階級が見られていたのである。

市民戦争の勃発を導いた様々な出来事はまとめて扱うことができる。西班牙において、歴史はまず最初に喜劇として、そして後になって初めて悲劇として繰り返すように思われる。第一次世界大戦後の社会混乱は、フランコの蜂起に先立った発展のコミカルな先回りのように思われる。革命不安の波は、1923年にプリモ=デ=リベラ将軍の軍事独裁の道を開いた。この将軍は、快楽を愛し、どちらかといえば放蕩なアンダルシア貴族で、アナルコサンジカリスト敵対者たちを犠牲にして、UGT・社会党と簡単にチームを組み、単にそれほど目立たないからという理由で西班牙共産党を実質的に無視していた。1920年代というにわか景気年間の後、プリモの権威主義政府は急速に没落した。これは、その君主政体それ自体の下から支持者を引き出していた(which pulled the props out from underneath the monarchy itself)。1931年4月に、西班牙は二世代ほどで、共和制政治システムへと戻り、これは、ほぼ世界的な熱狂を持ってなされたように見えていた。だが、システムの権威は、自由主義者と社会党の同盟が、数世代にわたってすべての西班牙政府を悩ましてきた重大な農村諸問題を扱おうとしたときに、急速に衰えた。サンフルホ将軍の軍部クーデター未遂(1932年8月)によって右翼側から、そして、カサス=ビエハス村でのアンダルシア農民虐殺で絶頂に達したアナルコサンジカリスト暴動主義(1933年1月)によって左翼側から打ちのめされて、この同盟はそれ自体の不運な改良のガラクタの中に倒れたのである。

1933年夏に、西班牙の様々な政党と組織が再編され、分極化し始めた。この年の11月に、右翼同盟、西班牙独立右翼連合(CEDA)が、マニュエル=アサーニャによる自由社会党同盟と交替した。60余年にわたる第一次「共和党」政府を歴史的なガラクタの山に引き渡した力は、この時点で、極端な二つの方向性に向かう急進的変化の原動力を形成した。自由主義の愚かさに失望し、アンダルシアのブラセーロの流入によって増大しつつある内部圧力の対象となって、社会党は改良主義から革命主義へと一年ほどで急激に方向転換した。ちょうど、CEDAが新しく形成されたファシスト的ファランジをその極右に見いだしたように、ラルゴ=カバリェーロ(「西班牙のレーニン」と今では呼ばれている)は、二つの別個の革命的マルクス主義者グループが結成した比較的新しいPOUMが最左翼にいることを見いだし、慢性的革命状態にあるアナルコサンジカリスト左の遥か彼方に独力でいること見いだしたのだった。

1934年初頭に自分たちのまさにその存在を脅かす反動的襲撃に直面したウィーン社会党労働者はバリケードを築いた。これが8ヶ月後の1934年「10月革命」には血の西班牙の片割れになった。そのとき、アストゥリアスの炭鉱労働者は、西班牙北部の山にある町と都市で赤黒旗を掲げ、全国的蜂起の中心となったのだった。それは、次第に有名になっていた「アフリカ軍」のフランシスコ=フランコという指揮官が、「キリスト教文明」を「アカの蛮行」から守るために、外国人部隊とモール人の軍隊に500年間で初めて西班牙の地を踏ませた時だった。獰猛な反革命的天罰であるかのように、二千人の炭鉱労働者がアストゥリアス蜂起の後に処刑され、何万人という社会党員・アナルコサンジカリスト・少数ではあるが共産党員・自由主義者さえもが西班牙の監獄に投獄されたのだった。国の残りの部分には、野蛮な階級と二年後に十全に満たされることとなる地域的憎悪がくすぶっていた。

10月受刑者たちを自由にしようという表向き共有された熱意の下、そして、ウィーン社会党員を最終的に暴動へと突き動かした急成長する右翼主義者の挑発の恐怖の中で、「人民戦線」が幅広く本質的に異なる政治集団から出し抜けに共同(slapped together)した。その中には、共和党左翼・社会党員・エスケーラ党(ルイス=コンパニースのカタロニア国粋主義者たち)・共産党・サンジカリスト党(反体制のアナルコサンジカリストであるアンゲル=ペスターニャの政治部門)・POUM(カタロニアの)がいた。「人民戦線」という言葉は、明らかに、フランス共産党と、相互支援に関するソビエト−フランス協定(1935年5月)に起源を持っている。ソビエト−フランス協定は、一方が「攻撃されるおそれがある、もしくは、攻撃の危機に瀕している」ときに、お互いを助け合おうと双方の国が宣言したものである。人民戦線とともに、西洋の全共産党とその前衛組織は全て、革命的冒険主義という以前ならば完全に狂気の沙汰の政策から鋭い回れ右を行った。CNTさえもが、「民主主義の力」に対する完全な便宜という吐き気を催すような「方向」への、そして、全ての急進的原理を改良主義への卑劣な屈服について、「改良主義的」と呼ばれたのだった。自由主義者と仲間になった左翼主義者の新しい福音とは、スターリンによる世界の共産党の卸売り売春以外の何ものでもなかったということは、1936年には明らかになっていた。それは、「不侵略」と、望むらくはロシアとスターリニスト売春宿を導入することを好ましいとしているいかなる権力との「相互支援」協定に対して売られたのである。

急進的理論が学術学会の断崖(couloirs)と、自由主義政治家の煙草の煙に覆われた部屋での急進的実践に退却している現代に、「人民戦線主義」が共産党運動に作り出していた意識の危機を認識することは難しい。「人民戦線」は好ましい方向の変化だったという最近の神話とは逆に、時代から衰退している世代は、北米左翼社会主義者が、革命的理想を急速に遺棄したことについて共産党員をどのようにあざけっていたのかを今でも思い出すことができるだろう。西班牙では、このことは特別に次のような鋭い見解で示された。「共産党に投票すれば、資本主義を救うことになる」。「党」を苦々しく離れた多くの人々は、世界中に多分莫大にいたのだろう。しかし、「反ファシズム」も「ブルジョア民主主義」への情熱も、何が、何千という革命的共産主義者をスターリン主義運動に留めていたのかを説明できないのである。共産系政党が空前の数で多くのメンバーを獲得できた−−ただし多くのメンバーにとってそのコミットメントは非常に一時的なものではあった−−ということは、「アカの三十年代」にさえも、西欧と北米には急進主義者よりも自由主義者が数多くいたという事実を証明している。同時に、共産系諸政党が世界で「最初の社会主義国家」としてのソビエト連邦に、無批判でしばしば無情なる忠誠心を持っていたこと、そして10月革命の遺産−−その指導者たちがスターリンのNKVDによってひとまとめに虐殺されていたときでさえも−−をも証明しているのだ。

同様に根本的に、「人民戦線」は革命的マルクス主義という死体に教義上の危機を導入した。世界のあらゆる場所で共産党の正にその存在理由は、新しい革命運動の必要性を作り出している社会民主主義の「裏切り」という遺産であった。「裏切り」は、当時の言葉では、全ての権威ある「労働者の党」に対する革命的自主性に関するマルクスの基本的、そう、揺るがない戦略の放棄を意味していたのだ。この指針は、マルクスとエンゲルスの有名な「共産主義者連盟に対する中央委員会の講演」(1850年3月)で彼ら自身によって圧力的に声にされ、『いかなるところでも、労働者の立候補者は、その自主性を保持するために、(中略)ブルジョア民主主義の立候補者と並んで擁立される。』あたかも、一世紀後の「人民戦線主義」を予期して、この二人が共産党員を『例えば、そうすることで民主党を分裂させ、反動が勝利できるようにしている、という民主党員の論法によって誘惑される』ことを禁じているかのようである。(原注)

(原注: Marx and Engels, Selected Works, vol. 1 (Moscow: Progress Publishers), p. 182.)

こうした指針を放棄することは、共産主義の真正さそれ自体を激しく攻撃することであり、実際、純正マルクス主義政治運動としてのボルシェビズムの最も根本的な原理を無視することなのである。ボルシェビキ政党が1917年に権力の座につき、それ自体を革命運動だと定義したことは、こうした戦略的思想を当てにしてのことだった。人民戦線にいたスターリンは、マルクス・エンゲルス・レーニンが「ブルジョア民主主義」の最も「叛逆的」特徴だと見なしていたことを正確に採用し、社会民主党は世界の共産党運動を単なるソビエト連邦擁護とスターリン主義対外政策の拡張へと還元したのだ。それほどまでに卑劣な共産党の役割を正当化しうるものがあるとすれば、それは、ロシアは世界の社会主義達成の主要な力だという彼らの信念であった−−意識的に持っていたかどうかはともかく。この教義上の神話化が、社会を変革し、そのことで、自己権能(empowerment)という至上行為で自身をも変革するという抑圧された側の力を、道具的に社会を再デザインするための「労働者の国」の力に本質的に置き換えたのだ。

このメンタリティが持つ論理は、破滅的な支脈を持っており、それは、50年前そうだったのと同じように今日も存在している。この人民戦線神話化は、社会主義を社会的運動から大きく古文書学的なものに変質させた。真正の革命的時期に産み出された世界の共産系諸政党は、国際的権力政治によって確立された社会主義の神話によって、単一政体国家の利権を保持し教唆するするための単なる道具へと変質されることになった。その結果、人民戦線は、地理的領域に社会主義を植え付け、人間性を救済するというその倫理的要求を奪っただけではなかった。人民戦線は、歴史の方向にわたって、その空想的で批判的な意味全てを持った「理想」を地域的にし、明らかに単なる国家的政策の道具としての「現実」の固着性をそれに与えていたのだ。

人民戦線の妥協的共産党運動と、その左翼批判者との論争は、1939年のスターリン−ヒットラー協定に先立つこと三年の拷問的な年月にわたって、数多くのレベルで開花していた。左翼社会党員は、一般に、ぶっきらぼうな明確さでそれを「階級協力」と呼んでいた。社会主義を達成することと同様に、それだけでファシズムを打ち負かすことができた革命的目的というまさにその感覚の喪失だったのだ。叛乱を起こした労働者階級に対して権力を創り出すよりも、ファシストに対して民主的自由を持ち込もうという自由主義者の性癖だったのである。人民戦線時代が今日では遙か遠い昔のように思われるように、人民戦線に対する左翼主義者の挑戦が、薄気味悪いほどまで現実によって支持されてきているということは、驚くべきことである。

西班牙において、1936年2月の人民戦線の勝利は、実質的にそれ自体で革命を解放した。選挙での成功に同調した(orchestrated)組織は、自由主義のネズミどもからなる政府を容認した。労働者階級と農民は、自分の運命が統轄されるのではないかとびくびくし、恐怖心をありありと示していた。マドリーで活気あふれていたアサーニャ政権と、2月からフランコが最終的に「共和国」に対して「宣戦布告」した7月まで西班牙全土にわたっていたストライキ・地方の土地強奪・拳銃による対決との不調和は、全く赤裸々だった。様々な出来事の必然的帰結は、1936年夏までに二つの選択肢−−リバータリアン革命か、血生臭い権威主義的反動か−−しか残しておらず、その論理は全く抵抗しがたかった。だから、フランコがたやすく「アフリカ軍」を西班牙領モロッコから本土へと移すことができたことは、それ自体で政府の裏切り行為だったのである。

CNTは闘士全員を警戒態勢におき、バルセロナ全体に労働者パトロールを派遣したが、「人民戦線」を形成していた他の左翼団体は本質的に何の活動もしなかった。フランコが蜂起し、政府が軍部との密約を取り交わし、民衆が武器を要求して街路を埋め尽くしたときでも、共産党と社会党は共同で次のように宣言したのだった。『今は、絶望的ではないにせよ、困難な時代である。政府はこの犯罪的動きを打ち負かす適切な手段を有している。もしその手段が不適切だと分かったとき、共和国には人民戦線の厳かな約束がある。援助を請われたときには、闘争に介入する用意はできているのだ。政府は命令し、人民戦線は服従するのである。』(原注)

(原注:Pierre Broue and Emile Temime著、The Revolution and the Civil War in Spain (Cambridge, 1972), pg. 100. より引用)

軍部の守備隊が蜂起するだろうということ−−もしくは、この問題に関して、いつ・どこで、といったこと−−など当初は誰にも分からなかった、というのは真実ではない。軍部・警察・保安部隊(security forces)一般に浸透していた素晴らしい諜報活動のおかげで、CNTは数ヶ月前から、1936年夏にクーデターを計画しており、その基地は西班牙領モロッコになるだろうと警告していたのだった。さらに驚愕すべきことに、バルセロナの共和主義者で警察所長だったエスコフェト大佐は、密告者と盗聴によって、蜂起が、共謀者が元々計画していた正確な時間である7月19日午前5時に起こると知っており、それをカタロニアとマドリーの政府に伝えたのだった。政府は彼の情報を不信感を持って聞いた−−それは、クーデターを信じがたいものだと見なしていたからではなく、その情報に対して行動を起こそうと思えば民衆を武装させねばならなかったからなのだ。実際、エスコフェトが後年あからさまに認めていたように、武器を要求してきたCNT指導者に対して、彼は物腰柔らかく『蜂起は延期されたのだから、家に帰ってもいい、と述べ』て、嘘をついていたのだった。(原注)

(原注:David Mitchell著、 The Spanish Civil War (London and New York, 1982) p. 31から引用。この本は、BBC-グラナダ=テレビのシリーズに基づいているが、このテレビシリーズがこの本に載っている良い資料を提供していないように、この本もテレビシリーズが提供している良い資料を含んでいない。従って、関心ある読者は、これら二つを参照することをおすすめする。)

実際、全く逆のことが起こったのだった。蜂起は二日早められたのだ。7月17日早朝、フランコの側近は軍部反乱のニュースを報じた。マドリー近郊の海軍駐屯地は、このリポートを傍受し、海軍大臣に知らせた。政府が取った唯一の決定的行動といえば民衆に対してそのことを隠すだけだったのだ。実際、エスコフェトのように、セヴィーリャにおける蜂起は鎮圧されたなどという明らかに謝った物語を報じるという嘘をついていたのだった。この虚偽は尚更恐ろしいものだった。この都市にいる何千という労働者が、軍部反乱が彼らを征服した後に、軍部の手によってシステマティックに処刑されたからだ。同調した反抗が全国の政治中枢から生じたのは、全く民衆イニシアティブからだったのだ。最初はバルセロナだった。そこでは、労働者と同情的な警備隊の協同行動によって二日間戦い、軍部が敗北したのだ。その後、マドリー・ヴァレンシア・マラガといった中央スペインの実質的に全ての大都市に波及したのである。

軍部によるセンセーショナルな大勝利といったものはなく、民衆が決定的に敗北したこともなかった。フランコとその将軍たちがすぐさま占領したアンダルシア地方の諸都市は別として、武力だけでなくしばしば謀略によっても、クーデター宣言は本質的に軍部の失敗だった。闘争は、三年間の大部分で、血生臭い結末へと引きずられた。フランコが本土に身をおくことができたということは、民衆を誤った方向に導いた「人民戦線」政府の臆病さ加減のためだった。その理由の一部は、左翼主義政党が、政府の権威に挑戦することを恐れ、反乱の当初から夢遊病的だったためであり、また、まさにこの政府が民衆を武装させずに軍部と交渉していたからであった。その結果、セヴィーリャ・グラナダ・軍部にとっても驚きだったが、アストリアスのオヴィエードとアラゴンのサラゴーサといった急進的都市センターは、単なる謀略によって地域の軍部指揮官の手に落ちた。それは、労働者がスペインの様々な場所で何が起こっているのかを知らされなかったからだ。軍が占拠したときに、こうした都市全てで生じた虐殺によって、スペイン労働者階級と農民の酷い流血が始まった。スペインを35年以上にもわたる墓場へと変えてしまった流血だった。Pierre Broue とEmile Temimeがこの革命と市民戦争に関する優れた解説書で結論づけているように、『実際、労働者組織が共和党の正当性を尊重することに対する不安によって組織自体が混乱するようになるたびに、また、その指導者が役人によって言われたことに満足するようになるたびに、後者が勝ったのだ。一方で、(将軍の)Movimientoは、労働者が武装する時間を持っている場所や、その指導者の立場や「正当な」民衆権威者の態度とは無関係に、労働者が軍それ自体の破壊を開始するときにはいつでも、撃退されたのだった。』(原注)

(原注:Broue and Temime著、前掲書、104ページ)

この解説には、「人民戦線」が権力を持った日から革命的社会主義者やアナキストには予測できなかった、などとは書かれていない。自由主義者は、ほぼ教科書的に厳密に、自分たちの伝統的役割を演じていた。社会党は、シニカルな右派と優柔不断な左派に分裂し、優柔不断と神経薄弱(failure of nerve)に腐食されたのである。このことが、社会党自身の保守的首領を裏切りの点まで持っていったのだった。最後に、アナルコサンジカリスト指導者は、普通の闘士よりも意志決定できず、革命の第一週目に原理の問題だとしてカタロニア本拠地で権力を握ることを拒絶したのだった。これは単に、政府側定着者として中央政府に卑下して入閣することで、後年、その最も基本的な反国権主義教条を妥協せしめることになっただけだったのだ。共産党と自由主義の義勇軍システムと集産化に対する攻撃に急き立てられて、そして、次第に致命的に増大していくスターリニストの恐怖によって、CNT-FAIの指導部は、「人民戦線」の悲しげなクライアントという態度へと身を引き、自分たちの努力ではなく民衆運動の成果であった革命の巻き返しに対して戦いもせずに、単に愚痴をこぼしていただけだったのである。

だが、誰も予期し得なかったことがある。それは、西班牙共産党が、ソヴィエト製兵器・「コミンテルン」代理人・NKVD専門家・少なからずPCEに最も優れた暗殺者を提供していた「国際旅団」の個人メンバーにより唆されることで、反革命の役割を演じるという断固たる決意だった。フランコのクーデター宣言に対する共産党の最初の反応は、暴徒となった将軍たちと話をまとめようしようとしていた自由主義政府の評判を支持することを意図していた。「左翼主義」であると公言していた組織以上に、PCEはその門戸を最も保守的な要素に向けて開けた。そして、「共和主義的」方向性の背後にいて、国内反動の結集点になり、「反ファシズム」の名において革命を一貫して食い荒らしていた。共産党は集産化を阻止しようとしただけではなかった。西班牙生活のインフラ構造を形成していた制度が持つヒエラルキーを保持し、西班牙社会のブルジョア利権をオープンに代弁しながら、集産化を逆転しようとしていたのである。PCEの主要機関誌である、Mundo Obreroのファイルは、ジャーナリスト的演説・宣言・社説で満ちている。それは、充分に指揮された「人民戦線」に好意的で、義勇軍を告発し、社会党左派とアナキストによる批判に対して自由主義者と社会党右派に手を貸し、労働組合と革命委員会によるいかなる権力の行使をも、「今日のスローガンは、全ての権力と権威を人民戦線政府に、である」(Daily Worker誌、1936年9月11日号)という叫びによって公然と非難していたのだった。

自称過激派たちが何故PCEに残っていたのかを説明するためには、この組織が持つ優先順位の感覚を分析しなければならない。他の場所で積極的に解放的だった民衆運動を犠牲にしても、コミットしたメンバーの一部に対する「社会主義」を単一政体国家と希望的に同一視していたのである。この正に現実の意味で、西班牙共産党は、ソヴィエト共産党と同じぐらい西班牙的ではなかった。そして、スターリンの国家政策と「共産主義」を同一視した結果、フランコに敵対したカトリック系バスク運動と同じぐらい共産主義的ではなかったのである。

1936年9月のラルゴ=カバリェーロが作った「左翼」政府は、社会党・アナルコサンジカリスト・共産党の指導者を動員して、軍に対抗するだけでなく、自身の平民が開始した革命にも対抗することを目的としていた。ラルゴ=カバリェーロが退陣後に証明していたように、西班牙の出来事に対するソヴィエトの軍事介入は、残忍なほど明らかで、強要的だった。革命は、外交同盟を追求した尊敬すべき単一政体国家というソヴィエト連邦のイメージを損なったのだった。それはくい止めねばならなかったのだ。カバリェーロは、革命家などではなかったが、西班牙社会党に実際の基盤を持っており、そこでは自分自身の判断に沿って行動する自由を充分に与えられていたのだった。これは、共産党の目には致命的失敗だと見なされていたのである。

にもかかわらず、革命が終結したのは、この政権下だった。9月30日、「人民軍」は、自由主義者・共産党・社会党右派の歓喜に対して、宣言された。実際、ほぼ全ての左翼政党と左翼組織は、義勇軍の通俗的軍隊への変換を煽動した。戦線にいる様々なセクター間での武器・装備・資源の分配や、国の様々な地方に対するそれが、政治的配慮によってスキャンダラスに支配されていたのだった。彼らは、共産党とその同盟が物資がアナルコサンジカリストに入手可能になるだろうと疑うと、フランコに譲り渡しさえもしたのだ。多くの実例のうちの一つを引用すれば、トレドにある「共和党」ゾーンにおける西班牙唯一の戦前の弾薬筒工場は、フランコ主義軍隊の手中に落ちることを許されてしまったのであって、バルセロナに移転されはしなかったのだった。もし移転されていれば、革命運動は強力なものになっていただろう。カタロニア首相ルイス=コンパニースの副官であり、その撤去に対する自分の要求を提示するために個人的にマドリーを訪れたJose Tarradellasの請願にも関わらず、このことはなされたのだった。(原注)

(原注:BBC−グラナダ放送の西班牙市民戦争というドキュメンタリーのパート5におけるTarradellasのインタビューを参照)

ソヴィエトの兵器と中産階級から大部分を得ていた大規模なメンバーによって強化されながら、PCEはコレクティブと革命委員会に対する徹底的な攻撃を開始した。アナルコサンジカリストを粛清しさえし、ソヴィエト共産党の機関誌プラウダは、『USSRにおいて実施されたのと同じエネルギーを費やして行われるだろう』(1936年12月17日号)と宣言していた。「近年チェキイスト(Chekist)組織がマドリーに発見された」と、アナルコサンジカリスト新聞Solidaridad Obreraの1937年4月25日号は警告した。そして、NKVD型の秘密刑務所と警察は『(中略)統一された指導力と全国規模の予測計画下で同様のセンターと直接関係している。』と言及していたのだった。この非難に関する私的証言に対して、こうした「チェキスト」(露西亜革命中にボルシェビキ秘密警察につけられた名前だ)の犠牲者、ジョージ=オウェルに向かう必要はない。プラウダは、既に、このネットワークの形成を計画し、戦後、数多くのアナルコサンジカリストとPOUM主義者が、この共産党統制内部抑圧システムの手に掛かったときの自分の経験を詳しく説明した。

民衆運動を破壊し、その闘士を受動性へと追いつめた決定的時点は、1937年5月初頭にやってきた。共産党公安委員、サラスの個人的命令下でカタロニア保安部隊がバルセロナにおけるCNT管理の電話局ビルを押収しようとしていた時だった。この攻撃は、カタロニア労働者階級による実質的な暴動を引き起こした。この暴動が、共産党と自由主義者に対する抗議の数ヶ月を育成していった。数時間のうちに、バリケードがバルセロナ全土に築かれ、共産党軍部の本拠地である「レーニン=バラック」は武装労働者によって完全に取り囲まれた。暴動はバルセロナから各地へ広がった。治安警備隊(Civil Guards)がその武器を労働者に譲渡していたレリダへ。タラゴナへ。ゲローナへ。そして、CNTの都市センターに分遣隊を送る準備をしていたアラゴン戦線にいる民兵にも広がった。CNT労働者がその次第にやせ衰えていく革命的戦利品を取り返すことができた時点、5月3日から8日までの劇的な5日間は、敗北ではなく裏切りの日々だったのだ。フランコ主義者に対する闘争の代価に関係なく、市民戦争の中に市民戦争を創り出そうとしていた共産党同様にCNTを先導した徒党による裏切りだったのだ。この少しばかりの固い決意がなかったとしても、「アナキスト大臣」、モンツェニーとガルシア=オリベルは、CNT労働者を、その武器をおろし、家に帰るように誘導したのだった。この自己罰的敗北は、素晴らしい武装をした「共和党」の警備隊が、その反抗的民衆を含めるために大挙してバルセロナに入ったときに、全くの暴徒に変わった。バルセロナは革命の中心から、全くの反革命の、脅されて支配されたゾーンへと転じた。一年前の軍部蜂起でこの都市が被った損失に匹敵するほどの、at a cost in lifeだった、ということを記しておいても良かろう。

暴動の失敗−−有名な「メーデー」−−は、共産党主導の反革命の扉を大きく開けた。ラルゴ=カバリェーロは、退陣を余儀なくされ、替わってフアン=ネグリンが首相の座についた。彼は、市民戦争の正に終結時点までPCEサポートに非常に頼っていた。二ヶ月後、POUMは公式的に非合法とされ、最も才能があった指導者、アンドレス=ニンは、国際旅団のタールマン大隊メンバーと共謀したソヴィエトのエージェントによって殺害された。アナルコサンジカリストも被害を重大に被っていた。伊太利亜アナキズムの権威ある声であり、CNT指導力の鋭い批判者だったカルロ=ベルネリの暗殺時には、特にそうだったのである。国際旅団のガリバルディ大隊のメンバーは、メーデー中の殺人に巻き込まれたという有無を言わせぬ証拠もある。8月には、悪名高き軍部諜報機関(Military Investigation Service: SIM)が、戦闘的アナルコサンジカリストとPOUM主義者に加えられたスターリニストのテロ(terror)を強化するために、ネグリンの首相任期中に作られていた。同月、モスクワで訓練を受けた暴漢、Enrique Listerが、その共産党第11部隊(Communist 11th Division)を率いて、アナキズムの最後の地方本拠地に潜入した。そこで彼は、アラゴン評議会と数え切れないほどのコレクティブを解散し、革命運動を脅したのである。彼自身が認めているところに依れば、それは、『全アナキストを銃殺しなければならない』という命令の下だったというのである。(原注)

(原注:ミッチェル著、前掲書、156ページ)

「共和党」政府は、市民戦争で最も血生臭いものの一つだったBelchiteキャンペーンを計画した。デヴィッド=ミッチェルは市民戦争に関する口述史においてこのキャンペーンを『国家の中に国家を作るというアナキストのアラゴン評議会を破壊するという目的と同様に、国粋主義者に敵対する顕著な結果を確立することをも目的としていた』と述べている。(原注)

(原注:前掲書、158ページ〜159ページ。Belchiteキャンペーンの背後にある動機は素晴らしくverge onいるが、それは希なことではなかった。西班牙市民戦争での他の大規模な闘争−−危機−−も、the lives lost and フランコに対抗する「同盟」に加えられたダメージには何の配慮もなく、同様の政治的配慮によって動機づけられていたのだった。)

その後、1930年代後半に退屈した世界が冷淡に呼んだような「西班牙戦争」は、単なる戦争−−西班牙民衆にとっては悪夢−−になってしまったのだ。軍部・民衆とも一様に、もはや完全に退廃し、「はっきりと悲観的に」なった、とCNTの組合指導者で、アラゴン戦線で戦ったJosep Costaは述べている。「人々は屠殺されに行く羊のようだった。もはや軍隊も、何もなかったのだ。全ての力学は五月の出来事における共産党の裏切り行為によって破壊されてしまっていた。我々は、目の前に敵がいるから、戦いの動きを続けていた(go through)だけだった。問題は、我々の背後にも敵がいたということだった。私は、首の後ろに傷を負って死んでいる同志を見た。それは国粋主義者に負わされたとは思えないものだった。我々は、一貫して共産党に入党するようにせき立てられていた。もしそうしなければ、トラブルに巻き込まれることとなった。乱暴を逃れるために脱走した者もいた。」共産党の処刑班が、軍隊が前進した後で、戦場を彷徨き回り、特徴的な黒赤記章を持って傷ついたアナルコサンジカリストを殺していたということも、市民戦争で最後の主要な「共和党」攻勢だったエブロの戦いに参加したCNTの人々から私は聞いた。

1939年4月1日の戦争終結も、殺人を終わらせはしなかった。フランコは、その勝利の時から1940年代初頭まで、自分の敵対者、およそ20万人を民族殲滅的な規模でシステマティックに屠殺したのだ。それは、革命に関する生き生きとした原典を物理的に殲滅したことを意味する。転向におけるいかなる真面目なイデオロギー的努力も、フランコ主義の大勝利の後になされはしなかった。むしろ、西班牙の人口と規模を考えれば、ソヴィエト民衆に対するスターリンの一方的な市民戦争にのみその対等物を見いだすことのできる執念深い反革命だったのである。

西班牙で生じたような革命的市民戦争は、私の観点では、今日もはや不可能である。少なくとも、いわゆる「第一世界」では有り得ない。資本主義に敵対していると述べている階級も同様だが、資本主義それ自体はこの50年でかなり変化している。西班牙労働者は、芳醇な共同体世界・大きく前資本主義的な世界が西班牙人民の性格構造をまだ侵害していなかった産業経済との敵対を産み出していた文化的衝突によって形成されていた。「後ろ向きの」もしくは「原始的な」急進運動を産み出すのではなく、過去と現在のこうした緊張は、莫大に活力ある運動を創り出したのだった。その中で、古く、より有機的な社会は、大規模な労働者−農民人口の持つ批判的観点と創造的活力を強調していた。ロボット的で人工頭脳的なテクノロジーの前でプロレタリア階級の神経が失われているは言うまでもなく、今日のプロレタリア階級のブルジョア化は、大規模に変革している社会諸条件の単なる証拠なのであり、1936年以来生じている社会の全般的商品化なのである。

軍事テクノロジーも変わった。フランコ軍と「共和党」が戦うときに使っていた兵器は、中性子爆弾が完全に残酷な支配階級の意のままになり得るような今日では、おもちゃのようなものにしか見えない。軍隊だけでも、もはやいかなる革命的成功の希望を持っても、暴力に対抗できはしない(Force alone can no longer oppose force with any hope of revolutionary success)。この点で、最も大規模な力は、社会の支配者が持っているのであり、支配される側が持っているのではない。ポルトガルが最近行ったように、そして、確かに2世紀前のフランス大革命−−古い社会が全ての支援を剥奪され、最初の一撃で崩壊した−−で生じたように、普及した社会の強制的諸制度を空洞にすることだけが、急進的社会変革を産み出しうる。バリケードはシンボルであって、物理的防波堤ではない。バリケードを築くことは良くても断固たる意図を意味している程度である−−だからといって、暴動によって変革を確立すると言うわけではない。多分、フランコの軍事的成功の前でも、西班牙労働者と農民が組織できたであろう最も永続的な物理的抵抗は、ゲリラ戦争だったのではないだろうか。この闘争形態が持つゲリラというその名前と、その現代の偉大なる伝統は、西班牙のものである。しかし、「共和党」ゾーンにいるいかなる政党も組織も真面目にゲリラ戦争を熟考しなかった。そのかわり、昔ながらの軍隊が昔ながらの軍隊と、大部分が塹壕の中で、縦列になって敵対していたのだった。それも、フランコのこつこつと堅実な戦略と物資供給の圧倒的な優越性が、戦場から敵を一掃するまでのことだったのだ。

革命戦争はフランコを打ち負かすことができたのだろうか?これについて、私が意味しているのは、真に政治的な戦争のことである。西班牙人民の心を、国際的労働者階級の心をも捕らえようとしていた政治戦争だ。多少の階級意識と現代的基準では途方もないように思われる連帯性を示していた政治戦争だ。このことは、西班牙の目覚めた民衆の重荷には少しもならない−−そして望むらくは、民衆の原動力に貢献してくれる−−労働者階級組織の存在が前提となる。こうした条件があれば、私の答えはイエスになるだろう。ちょうど、初期に、フランコ軍が他のどの場所よりもすぐに負けてしまったバルセロナでそれが真だと証明されたように。フランコの軍隊は、中央西班牙の主要都市で勝利を得ることができず、セヴィーリャ・コルドバ・オヴィエド・サラゴサのような鍵となる急進主義の中心地を乗っ取ることはできなかった。オヴィエドとサラゴサは、西班牙の最も産業化された都市地区、バスク・カタロニアと結びついている戦略上重要な場所だったのだが。しかし、政権は、「人民戦線」諸政党、特に共産党と社会党右派の手助けを借りて妥協した。一方で、これらの鍵となる諸都市にいる混乱した労働者は、戦闘ではなく、軍の計略に対してほとんど全ての場合で犠牲者になったのだった。その敵以上に大きな決定と共に、軍は「人民軍」が一度も克服できなかったバスクとカタラン間のくさびをdriveしていたのだった。

そうであっても、フランコの軍隊は、戦争の様々な時局に、重大に失速していたのだ。ヒトラーが自分の「聖戦」が失敗すると思っていたように。(原注)

(原注:Denis Smyth著、「反射的反動:西班牙市民戦争の勃発と独逸」、プレストン著、前掲書、253ページ)

民衆抵抗に対する致命傷は、共産党が負わせたのだ。共産党は、大規模なリバータリアン革命−−「左翼」にいるその敵対者と共に一旦は暫定協定を全くやる気もないままもたらそうとしていた革命だ−−を解消するために、そのプログラムにおいて戦争に対する全労力の崩壊という危険を冒そうとしていたのだった。だが、こうした理解は不可能だった。PCEはソヴィエト連邦の関心事の中で「西班牙戦争」を主要な関心事にし、ブルジョア価値観の罠の中で見ている全ての民主的世界に対してPCE自身を覆い隠そうとしていたのだった。革命は、このイメージを汚し、ソヴィエト外交のためにコミンテルン全体が採用した明らかに反革命的な機能に挑戦していた。そして、西班牙革命は撲滅されねばならなかっただけでなく、その虐殺者は虐殺者として見られねばならなかったのだ。「アカ」は、倫敦・巴里・ワシントンによって安全パイだと見なされねばならなかった。そして、彼らは次第に西班牙における闘争の終結と共にそうなったのであった。

戦争がフランコに対する独逸と伊太利亜の援助を無条件に引き出し、「共和党」に対するソヴィエト連邦の非常に制約的で限定的な支援−−付け加えるなら、西班牙の大規模な金準備と引き替えに−−によって国際化された時点で、革命の勝利は不可能になった。メーデーは、西班牙民衆が将来の闘争に対する希望を培養できた煌めくばかりの遺産である、「カタラン=コミューン」を創り出すこともできたはずだ。世界中の急進運動に対するインスピレーションとなってさえいたかもしれない。しかし、1936年にすでに一部官僚制度化していたCNTは、建物・資金・新聞・その他物質的に良いものの獲得と共に1937年までにはぞっとするほど官僚制度になったのだった。このことにより、サンジカリスト組織に固有のトップダウン型ヒエラルキー構造は強化され、堅固になったのである。メーデーと共に、組合の大臣エリートは完全に革命を止め、危機の最後の瞬間に革命の前進に対する明らかな障害物として行動したのである。

西班牙共産党は、軍隊・コレクティブの解体・最も危険な敵対者の粛清・内部保安部隊のスターリン主義化・社会革命の「ファシズムに対する戦争」への変換という要求全てを勝ち得た。そして、完全に戦争に負けたのだった。ソヴィエトの支援は、良い場合でも選択的で当てにならないものであり、フランコ勝利のほぼ半年前、1938年11月に打ち切られた。一方、伊太利亜と独逸の支援は戦争の終わりまで続けられていた。スターリンがヒトラーとの協定に向かって動いていたとき、スターリンは「西班牙戦争」は邪魔だと見なし、簡単にその後の支援を止めたのであった。「西洋民主主義」は、政権が内部の革命をうまく抑圧し国際問題について西洋指向的政策を取ったにも関わらず、「共和党」西班牙には何もしてくれなかった。従って、モロッコ国粋主義者が支援を約束していたにも関わらず、フランコ大軍の主要な人員補給源、反乱軍に対して向かっていく可能性もあった独立地域、西班牙領モロッコは無視されたのだった。

西班牙に欠けていたものは、急進主義運動が1936年〜1939年以前にも以後にも見ていた最も素晴らしいプロレタリア階級だった。最も優れた社会主義的・アナキズム的意味での古典的労働者階級である。プロレタリア階級を破壊したのは、ブルジョア社会で増大していた物質的関心ではなく、物理的な虐殺だったのだ。虐殺が生じていたのは、国際プレスの沈黙という共謀の直中だった。国際プレスないでは、自由主義エスタブリッシュメントが共産党と何ら変わらぬ役割を演じていたのだ。ニューヨーク=タイムズの重要特派員であり、戦争についてはいわゆる「王党派」の側にいたハーバート=M=マシューズが、1973年に次のように書くことができたのは、とんでもないことである。『ある種の革命があったと言えるが、それは誇張すべきものではなかった。ある基本的な意味からすれば、革命など全くなかったのだ。なぜなら、共和党政府は戦争以前と同じだけの機能を果たしていたからだ。』(原註)

(原註:バ−ネット=ボロテン著、The Spanish Revolution(Chapel Hill刊、1979年)59ページで引用)

これが馬鹿さ加減なのか、「ある種の革命」を終結させた力との共謀であるのかは、読者の判断にお任せしよう。だが、この政治的気質を持った特派員こそが、1930年代に米国人に対して「スペイン戦争」のニュースを提供したのだ。

現在、この闘争を扱っている論文は、一般的に言って戦後数年間に入手できたもの以上に率直であり、莫大な数になっており、熟考すべき能力を持った口述史家によって支持されている。北米左翼は、こうした解説や、国営経済と中央集権的で全体主義的なことの多い統制型通俗モデルに対する革命的近代化モデルを提供している産業的・文化的な西班牙コレクティヴから何か学んでいるのだろうか?私の答えは、落胆するほどのノーとならざるをえない。「新左翼」の没落ともっと「正統な」ものの出現は、急進主義の黄金時代としての「人民戦線」という新しい神話を創り出す恐れがある。西班牙における新しい資料は、大部分左翼指向的であるが、誰にも読まれてはいない。「西班牙戦争」は、もやは沈黙の中に隠されてはいないが、その事実は、「リンカーン大隊」の年老いた生存者と、Seeing Redのようなパパ−ママ的ステレオタイプに対する甘い感傷性で何重にも積み重ねられてしまったのである。

実際、真実は明るみに出ているのだ−−しかし、それを聞こうという耳とそれから学ぼうという精神は、培養された無知とほぼ完全に欠落した批判的洞察のために萎縮されてしまっているようだ。「党派性」が政治に置き換わった。無情な「忠誠」が理論に置き換わった。事実を秤にかける「バランス」がコミットメントに置き換わった。スターリン主義者と改良主義者を切り刻まれた「団結」と「同盟」の旗の下で受け入れている普遍的「急進主義」が思想と実践の正直さに取って代わっているのだ。「団結」と「同盟」の旗が西班牙の覆い(shroud)になり、その革命を破壊し国をフランコに受け渡す危険を冒して、罰を受けずに使われたことは、血生臭い市民戦争の大釜の中で50年前にそうだったほどにも、今日の左翼の集団的知恵からはほど遠くなっているのである。

究極的に、西班牙左翼の正直さは、それが西班牙民衆に深く根ざした伝統をはっきり口にしている時にのみ、維持され得たのだ。その伝統とは、地域社会の強力な感覚・連合主義と地方自治の伝統・国家に対する根深い不信感、である。北米左翼が西班牙左翼と民衆遺産(後者は浄化され、右翼から救助された)を分かち合っているかどうかは、ここでは議論できない重要な問題である。しかし、アナキストがこうした伝統に一貫性と急進的推進力を与え、伝統を単なる不自然な「プログラムではなく」政治的文化に変換していた限り、アナキストは想像を絶する迫害と抑圧という数世代を生き抜いたのである。実際、社会党が政治運動と民衆運動との関係という問題を、その有名な「民衆の家」つまり、casas del puebloを西班牙村落・隣近所・都市に構築することで、解消したときにのみ、社会党は西班牙の生活と政治において生き生きとして運動になったのだった。

「人民戦線」は、民衆文化を密室「同盟」という「政治」で置き換えることで、この関係を決裂させた。「同盟」に参加した、明らかに根本的が異なっている政党は、民衆運動とフランコに対する恐怖を共有しているというだけで団結したのだった。左翼が、潜在的に急進的な内容を持っている民衆伝統に対する自身の関係を扱う必要性−−こうした伝統を清め、解放的情熱を生ぜしめる必要性−−は、未だにアナキストによっても社会主義者によっても情熱的には直面されていない西班牙市民戦争の遺産であり続けている。政治文化を形成する必要が明らかに定義され、それが受けてしかるべき求心性を与えられるまで、西班牙革命は、急進主義史の最も不可解な章の一つであり続けるだけでなく、全体としての急進主義運動の意識にも残り続けるであろう。


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