マレイ=ブクチン

小伝


原文は、http://dwardmac.pitzer.edu/Anarchist_Archives/bookchin/bio1.html

マレイ=ブクチン(Murray Bookchin)は1921年1月14日ニューヨーク市に生まれた。両親は帝政時代のロシア革命運動に従事していた移民であった。1930年代初頭に共産主義青年運動−−最初は「若き先駆者達」(Young Pioneers)、そして「青年共産主義者同盟」(Young Communist League)−−に入ったが、1930年代後期にはその権威主義的性質に幻滅するようになった。スペイン市民戦争に関わる活動を組織すること(直接参画するには余りにも若すぎた)に深く関わり、スペインにおける共産主義者の反革命的役割とモスクワ裁判のため、1937年に共産主義から離れるようになっていった。1939年9月のスターリン−ヒットラー協定の後、彼は「トロツキスト−アナキスト的逸脱」のため、「青年共産主義者同盟」を正式に脱会した。青年時代、彼は鋳造業者として働き、北部ニュージャージー(当時非常に産業が盛んな地域だった)で組織された労働組合で産業別労働組合会議(CIO)のために積極的に活動するようになった。彼は米国トロツキストに共感し、トロツキストと共に活動していたが、1940年のトロツキーの死後数年で、その伝統的ボルシェヴィキ権威主義に次第に失望するようになっていった。

第二次世界対戦中の合州国陸軍における兵役から戻った後、ブクチンは自動車整備工として働き、全米自動車労働組合(UAW)に深く参画するようになった。彼は1946年の大規模なGMストライキに参加したが、その結果が以前は急進的だった労働運動の社会秩序に対する妥結を示してしまったため、彼は産業プロレタリアートの「覇権的」役割に関して持っていた伝統的マルクス主義的考えの大部分を疑問視し始めた。1940年代後半と1950年代前半に、ニューヨークに住んでいた彼は、リバータリアン的見解に移行していた亡命ドイツ人のトロツキストグループ(International Kommunisten Deutschlands; IKD)と密接に運動するようになった。このグループの米国支部は、マッカーシー時代(1950〜1952)、ニューヨークで最大の組織的左翼グループの一つだった。その雰囲気の中で、ブクチンは核兵器だけでなく、放射性降下物を理由に「原子の平和利用」に対しても反対する扇動的論文を書いた。そして、1956年には、ソヴィエト連邦に対するハンガリー労働者の蜂起を支援するために合州国が介入するように要求した文章を書いたのだった。

IKDグループは、Contemporary Issues(ドイツでは、Dinge der Zeitとして出版されていた)という雑誌を発行する手助けもしていた。1950年代初頭のブクチンの論文の多くが、M.S. Shiloh・Lewis Herber・Robert Keller・Harry Luddといったペンネームでこの雑誌に出版された。彼が生態学的諸問題を左翼リバータリアンの観点で見直した初期の論文を発表したのがこの雑誌だった。その非常に長い論文『The Problem of Chemicals in Food(食物に混在する化学物質の問題)』(Lewis Herberというペンネームで発表)(1952年)は、ドイツで1955年に一冊の本として出版された。彼が初めて英語で書いた本『Our Synthetic Environment(我等の人工化学的環境)』(Lewis Herberというペンネームで発表)は、1962年にAlfred A. Knopf社から出版された。レイチェル=カーソンの『沈黙の春』にほぼ半年先んじたこの本は、広範囲に渡る生態学的諸問題を扱い、権力分散型社会と生態学的解決策の一部として代替エネルギー資源の使用を主張していた。

アナキズムと生態学に関する彼の先駆的エッセイは、明らかに急進主義者たちに向けられていたもので、CommentAnarchyに載った。『Ecology and Revolutionary Thought(生態学と革命思想)』(1964)は、テーマが類似しているということ、そして社会的に自由で生態調和した社会のためにはお互いを必要としているということに基づいて、アナキズムと生態学の政治的婚姻を論じていた。『Towards a Liberatory Technology(解放的テクノロジーに向けて)』(1965)は、代替テクノロジーがそうした社会で重要な役割を果たすだろうと論じていた。これらの著作で重要なテーマは、欲望充足である。つまり、テクノロジーの進歩−−自動制御や小型化など−−が労働時間を減らし、そのことで、市民の自主管理と民主的政治体に従事するのに必要な自由時間を民衆に提供できる様になる、という考えである。これらの論文が、ブクチンが社会生態学と呼んだ一群の考えに対する基盤となった。その名を採用したとき、社会生態学という言葉は全く使われていなかった。

同時に、1960年代には、ブクチンはカウンターカルチャーと新左翼双方に深く関わり、平凡な米国人に広くアピールしていた急進的左翼人民党運動にこの二つの運動を融合させようと骨を折っていた。マルクス主義者団体が「民主社会を求める学生達」(SDS)に入党するよう脅し、その人民党的潜在性を損なわせてしまっている時、ブクチンはその影響をくい止める手助けをするために『Listen, Marxist!(マルクス主義者に告ぐ!)』(1969)を書いた。『The Forms of Freedom(自由の諸形態)』というエッセイでは、革命運動における自由の制度化を企図した組織的諸構造が吟味されている。1960年代以降のエッセイは、『Post-Scarcity Anarchism(欲望充足のアナキズム)』(Ramparts Books, 1971; Black Rose Books, 1977)に編纂されている。アナキスト的著作は『The Spanish Anarchists(スペインのアナキスト)』(Harper & Row, 1977; A.K. Press, 1997)で頂点に達した。これはスペイン市民戦争勃発直前の数年間までのスペインにおけるアナキスト運動の発展史である。

ブクチンはその活動を著作だけに限定してはいなかった。同時に活動家グループの献身的な参加者でもあった。IKDと共に行った反核・ハンガリー支援活動の後、公民権運動に入り、CORE(人種平等会議)に加入した。「バワリー通り詩人の共同組合」の設立を助け、「イーストサイド=アナキスト」と「アナルコス=グループ」という二つのアナキスト=グループと密接に活動した。「生態学」が大部分の人に馴染みのなかった時代に、彼は全国のカウンターカルチャーのグループに対して、左翼リバータリアン運動を構築する重要性を強調しながら、幅広く講演していた。

ブクチンは公的な教育にも従事した。1960年代後半、合州国における最大規模の「自主講座」の一つである、ニューヨークのオルタナティヴ大学で教鞭を取り、その後スタテン島のニューヨーク市立大学で教えていた。1974年、ヴァーモント州、プレインフィールドにおいて「社会生態学研究所」を共同設立し、その所長になった。生態哲学・社会理論・代替テクノロジーに関するその方向性について国際的な名声を得続けており、現在も毎年の夏に講座を開き続けている。1974年に、彼はニュージャージー州立ラマポ短期大学で教鞭を取り始め、最終的にそこで常任教授となり、1981年に名誉教授として引退した。

1970年代には、ブクチンは、元々の「地球の日」後に顕著になり、増え続けていたエコロジー運動において非常に大きな影響力を持っていた。この時期の彼の著作は次第に空想的でユートピア的になり、生態調和倫理の構築に焦点を当てていた。『Toward an Ecological Society(生態調和社会に向けて)』(Black Rose Books, 1981)は、1970年代のエッセイをまとめたものである。『The Ecology of Freedom(自由の生態学)』(Cheshire Books, 1982; 改訂版は、Black Rose Books, 1991)はヒエラルキーの出現と解消に関する哲学的・人類学的・歴史的解明であり、アナキスト文献の中で古典となっている。

近代アナキスト思想史(ピーター=マーシャル著、『Demanding the Impossible(不可能の要求)』[London: Harper Collins, 1992])が強調しているように、アナキストの伝統に対するブクチンの主たる貢献は、左翼リバータリアン哲学と倫理の観点から、伝統的な権力分散主義・ヒエラルキーの否定・人民党的伝統を生態学と統合したことであった。これらの観点は、1950年代と1960年代初頭には非常に独創的であったが、それ以来、現代の一般的意識になって来ている。彼のアプローチが持つ急進主義は、人間による人間の支配、特に、長老政治・族長政治などの抑圧的階級における支配から、自然を支配するという概念のヒエラルキー的出現を探求することにある。

ブクチンは、都市問題・西洋の伝統における都市の役割・都市部と農村部との葛藤についても多くを書いている。初期の本、『Crisis in Our Cities(都市における危機)』(Prentice Hall, 1965)は、都市の諸問題のジャーナリスト的解明であり、『The Limits of the City(都市の限界)』(Harper and Row, 1974)は都市の進化の歴史的解明である。都市問題に関する論文は、『The Rise of Urbanization and the Decline of Citizenship(都市化の勃興と市民権の没落)』(Sierra Club Books, 1986; Cassell版は『From Urbanization to Cities(都市化から都市へ)』 [1995]、カナダでは『Urbanization Without Cities(都市のない都市化)』 [Black Rose Books, 1992])に編纂され、そこでは市民の自主管理と連合の歴史的探求がなされている。この本には、ブクチンがリバータリアン自治体連合論と呼んでいる直接民主主義と連合から成る政治運動のプログラムの概要も示されている。

リバータリアン自治体連合論は、直接民主主義的民衆集会を、自治体・近所・街のレベルで復興したり創設したりすることに基づいた政治運動である。経済生活は、地域にいる市民の民主的管理下ににおかれるだろう。それをブクチンは「経済の自治体化」と呼んでいる。民主化された自治体は、地理的共通地域の問題を管理し、中央集権的単一政体国家に対する対抗権力を作るために連合するであろう。

1970年代後期以降、これらの考えは全世界で発展しているグリーン運動に重要な刺激となっており、ブクチンはグリーン政治運動について広く文章を書いている。彼自身の活動主義は、ドイツと合州国双方のグリーン政治運動の勃興と共に1970年代後期と1980年代にも継続していた。1971年にヴァーモント州に引っ越してから、ブクチンは、北部ヴァーモント=グリーンズ・ヴァーモント民主主義評議会・バーリントン市グリーンズを含んだ様々なグループと共に活動していた。

彼の政治的著作は、エコロジー運動とアナキスト運動内部にある理論的議論の形も取って来ている。例えば、エコロジー運動が反人道主義的になり、厭世主義の傾向さえ−−第三世界の人々の飢餓を「自然がその正しい方向を取り始めた」と賞賛し、人間の持つ道義的価値を他の生物のそれと同等に扱う哲学を押し進めたりしていた−−示し始めた1987年には、躊躇せずその反動的発展を批判していた(『Social Ecology vs. 「Deep Ecology」(社会生態学 vs 「ディープ=エコロジー」)』, Green Perspectivesで発表)。

1990年代半ばに、アナキスト運動の多くの傾向が、アナキズムの左翼的社会主義的遺産を捨て、個人主義・神秘主義・自己表現・テクノロジー恐怖症・新原始人主義にさえもを望ましいとしていると感じると、彼は、批判論文『Social Anarchism or Lifestyle Anarchism(社会的アナキズムか、ライフスタイル=アナキズムか)』(同じ題名で一冊の本として A.K. Press から1995年に出版)を書き、論争を再び巻き起こした。『Re-Enchanting Humanity(人間性の再魔術化)』(London: Cassell, 1996)は、今日の社会運動と大衆文化双方に見られる厭世主義と反人道主義に対する彼の批判を要約している。

ブクチンの政治的倫理的考えの土台は弁証法的思考の改訂版である。それは、弁証法的伝統を「自然化する」ために、新ヘーゲル主義的アプローチを生態学的思考に役立てるというものである。彼の「弁証法的自然主義」はヘーゲルの弁証法的観念論ともエンゲルスの比較的機械論的な「弁証法的唯物論」とも全く異なっている。これらの考えは、『The Philosophy of Social Ecology: Essays on Dialectical Naturalism (社会生態学の哲学:弁証法的自然主義に関するエッセイ)』(Black Rose Books, 1990, 改訂拡大版は1994)に非常に詳しく解説されている。

政治運動・哲学・歴史・人類学に関するブクチンの考えは、『Remaking Society(社会の再構築)』(Black Rose Books and South End Press, 1989)に簡潔にまとめられている。彼の見解の最も新しい概要は『The Murray Bookchin Reader(マレイ=ブクチン読本)』(Cassell, 1997)にある多くの抜粋で見ることができるだろう。

現在、その70歳代後半で、ブクチンはヴァーモント州、バーリントンに半引退状態で、同僚でありパートナーでもあるジャネット=ビールと共に住んでいる。健康状態が悪く、旅行したり講演したりすることもままならないが、彼は毎年の夏に「社会生態学研究所」(ヴァーモント州、プレインフィールドの)で講義をしている。ビールと共に、彼は理論的ニューズレター、Left Green Perspectives(左翼グリーンの見解)(以前はGreen Perspectivesであった)を編集している。この文章を書いている時点−−1998年−−に、彼は、『The Third Revolution(第三革命)』という題の三巻にわたる、古典的な諸革命における民衆運動史を執筆中である。第一巻と第二巻は既にCassell社から出版されており、1999年の出版に向けて準備中である。

マレイ=ブクチンは、1930年代の伝統的マルクス主義者から、左翼リバータリアンへと発展した。同時に彼の生活と仕事は、二つの歴史的時代にまたがっていた。資本主義とファシズムに対する労働者階級の闘争という伝統的プロレタリアート社会主義とアナキズムの時代と、資本主義の慰安・テクノロジーの発達・環境の崩壊・国家主権主義的政治が進んでいる戦後の時代である。その著作全てにおいて、彼は、これまで生きて来た革命的な過去を新しい解放された未来に押し進める一貫した見解を形成しようとしているのだ。