第三革命
革命時代の民衆運動

by Murray Bookchin


この文章は、第三革命(Cassell, 1996)の第一巻のイントロダクションである。第三革命は四巻にわたる民衆革命史である。第一巻と第二巻はロンドンのCassellより、第三巻と第四巻はニューヨークのContinuumより出版されている。原文の一部は、The Third Revolution, vol. 1で読むことができる。

イントロダクション:下からの革命

本書のタイトル、第三革命は、驚くべき歴史的偶然のように見えることからつけた。「第三革命」の要求が実際に起こったのは、二つの大革命においてだった。18世紀の終わり十年間に起こったフランス革命と、20世紀の最初の数十年間で起こったロシア革命においてである。

1793年のパリの革命的サン=キュロットは、急進的なはずだった国民議会を、数々の暴動の中で自分たち自身で確立した民衆民主主義−−パリの諸地区−−で置き換えるべく叫び声を上げていた。そうした暴動は、多くの場合、議会にいてサン=キュロットの名で公に発言していたジャコバン指導者の要望に反対してのものだったのである。別の時代の別の場所で、つまり、1921年のロシアで、ペトログラードの革命的労働者と、首都近郊の海軍基地クロンシュタットの有名な「赤色水兵」も同様の叫び声を上げていた。彼らもまた、権威主義的で、一見すると急進的な体制−−この場合はボルシェビキに指導された体制−−を、民主的に選ばれた評議会、つまりソビエトで転覆しようとしていたのである。

これら二つの時代の出来事を調査する中で、これほど大きく隔たった時代にもかかわらず、二つの歴史的に重要な革命の終わりにかけて一字一句同じ要求がパリとペトログラード双方で提起された、ということを私は非常に興味深い−−そして、単なる偶然以上のものだ−−と思ったのである。

これら二つの出来事で同じ要求を掲げていた民衆の文化的・社会的諸条件は全く異なっていた。ペトログラード労働者もクロンシュタット水兵も、私が認識している限り、革命の歴史を教えられたわけではなかった−−確かに、1793年の詳細を学んではいなかった。パリのサン=キュロットについて多くを知り得るはずもない。だが、彼らは、自分たちが権力奪取の手助けをし、今や裏切られたと感じている、一見して革命的な体制に対し、全く同じ叛逆の叫びを向けたのだった。

そうした要求を二度も提起せしめた二つの大革命の力学はどのようなものだったのだろうか?何が、こうした革命的民衆を、程度の差こそあれ急進的だと公言していた指導者・組織・体制に対する公然たる敵対へ、流血の敵対にさえもかき立てただろうか?

どちらの場合でも、「第一革命」は、明らかに陳腐化した君主制−−フランスのブルボン王朝・ロシアのロマノフ王朝−−に対して向けられていた。王政が莫大に無能だったためである。この無定型だが真剣な同盟には、自由主義者・急進主義者・地方の支配階級の不満分子さえもがおり、それが「第一革命」で政府の支配権を乗っ取ったのである。君主制は新しく穏健的な代議制政府に置き換えられたが、この政府は決断力に乏しかった。その結果、どちらの場合でも、「第二革命」が引き続いた。最も叛乱的な人々の支援を受けた急進主義政府が、穏健な政府を転覆すべく赴いたのである。だが、いったん権力を握ると、急進主義政府も、信用を失墜するようになり、革命的民衆が、自分たちが失った権力を取り戻すために「第三革命」を要求するまでになったのだった。

革命に関する多くの著作者は革命の「段階」理論を提出してきた。この理論は第一革命と第二革命を非常にうまく説明してくれる。そうした著作者の中で最も著名な人は革命の解剖学を著したクレイン=ブリントンだろう。ブリントンのアプローチによれば、英国革命・フランス革命・ロシア革命は、皆、一連の明らかに区別可能な諸段階を経ていた。それは大体以下のような図式的パターンに従っていた:

当初、民衆は、王政に敵対する(多かれ少なかれ)一体化された叛乱に引き込まれる。これが穏健的体制の確立を導く−−つまり、私が(彼らも)回想的に、第一革命と呼んでいることである。その当初の成功の後に、幅広い下層階級のセクターを呼び覚ます内戦が引き続いたり、内戦を伴ったりしながら、革命は次第に急進的方向に動く。内戦では、過激派が、以前は同盟を組んでいた穏健派と闘争する。その結果、第二革命が導かれる。だが、やがて、革命陣営内部での闘争は、軍事体制によって解消され、軍事態勢それ自体は旧体制の復興に取って代わられてしまう。ブリントンのアプローチ−−付け加えれば、マルクスのアプローチも−−によれば、この反革命が完全に成功することはない。全体としてみれば、復元された旧体制は革命の社会的獲得物を取り除くことはできず、したがって、革命の名目上の敗北とその軍事的後遺症にも関わらず、永久的な歴史的進歩として制度化されるという意味で革命は勝利する、というのである。

ブリントンに加え、シカゴ学派の都市社会学が持つ「人間生態学」という考えに影響された理論家たちも、こうした高度に理想化されたパターンを提示してきた。マルクス主義歴史家たちもそうである。レオン=トロツキーは、その生涯の終わりまで、スターリンによる前ソヴィエト連邦の支配は、フランスにおける総裁政府−−ロベスピエールとジャコバン主義者を転覆した穏健派−−の反動支配に比べれば「テルミドール反動」に相当する、と強く主張していたのだった。

だが、実際、「段階」理論は真実を完全に把握してはいない。主要な革命には、それが成功しようと失敗しようと、確かに段階がある。英国革命・フランス革命・ロシア革命の類似性、少なくとも出来事の系列の中にある驚くべき類似性は、非情に興味深い疑問を提起している。そのいくつかは、革命それ自体の性質に関わっているのだ。

どの程度まで、政治的諸要因は、経済的諸要因よりも重要だったのだろうか?どの程度まで、革命の成果は革命的指導者たちが意図していたこととは異なっていたのだろうか−−もしそれが大きいものであるのなら、何故なのだろうか?もし、特定の出来事がその進路を大きく変えなかったならば、いかなる解放的方向性に革命は従うことができたのだろうか?民衆運動−−もっと限定的に言えば、普通の民衆自身−−は、こうした革命にどのように影響を与え、どのような目標を持って影響を与えたのだろうか?

段階理論は第一革命と第二革命しか述べていない、これが事実である。明らかに、第三革命を求めて叛乱した民衆は、ブリントンやトロツキーなどが案出した歴史的枠組みからは欠落している。だが、民衆は革命時代を通じて必ず存在しており、大革命の歴史的説明の大部分に姿を現している革命的人物や政党以上に、民衆は自身が参画した出来事において本物の急進主義者だったのである。

なぜなら、叛乱を起こした人々は、ほとんど彼らだけで、高度に民主的な諸制度を奪還し、拡充することを求めていたからだ。そうした諸制度は、革命的サイクルの初期の段階で確立され、その後に、その力は叛乱者の名を公言する政党や党派によって減じられたり奪われたりしたのである。フランスのサン=キュロットは、次第に強力になっていた中央集権型の本質的にジャコバン統制の国家機構を犠牲にして、町内民衆集会、つまり「地区」が持つ権限を拡充しようとした。ロシアの労働者と水兵たちは、次第に権威的になっているボルシェビキ統制の国家機構の代わりに、自分たちの草の根評議会、つまり「ソヴィエト」を民主化し、再活性化しようとした。第三革命を求める中で、彼らは、結局のところ、急進的民主主義の確立を求めた民衆の願望を、徹底的な叛乱にまで到達した要求をはっきり表現していたのだ。最終的に、第二革命の自称革命組織が民衆運動に敵対し、軍事力を使って弾圧したとき、その蜂起は鎮圧されてしまったのである。

それにも関わらず、叛乱を起こした人々が民衆民主主義を確立できなかったことは、現代の様々な出来事に深く影響している。実際、これほどまでに過去が完全に現代の一部であったことなどない。最近は全く逆に主張されてはいるものの、正に今日まで、私たちは、フランス革命とロシア革命の失敗の影の下で生きているからだ。ロシア革命のように直接的にであれ、フランス革命のように間接的にであれ、それらが20世紀とその直ぐ次に来る世紀の方向を深く形成したのである−−そして、私たちは、それらの革命の教訓を学ぶことなくして未来に直面することなどできないのだ。

第三革命の要求が出現したのはフランス革命とロシア革命だけではなかった。急進的民衆諸傾向は、異なる言葉で異なるやり方ではあっても、本質的にフランスとロシアの叛乱者たちと同じ要求を声にしながら、過去の革命運動で繰り返し出現している。それらは、方向性や目的や指導力のない単なる民衆の暴発だったのではないのだ。

革命的「暴徒」や群衆は、主要な諸革命で自然力のように噴出していると思われていた。だが、そうした人々は、多くの歴史的説明や回想が信じ込ませていたように、雑然としていたり「混乱して」いたりしていたのではない。エピソード的な群衆爆発や「暴動」を、もっと永続的で根本的な民衆運動と混乱してはならない。こうした運動は、町内・街・村落にいる小集団からゆっくりと結晶化し、革命期間中にどんどん大規模な集団になったのである。1789年7月14日に大規模な群衆がバスティーユ監獄周辺に押し寄せる前、また、1917年の2月23日と24日にペトログラードの大通りで皇帝の軍隊と対決する前に、民衆は、両都市のスラムと労働者階級町内で、生き生きとした政治的ネットワークを既に確立していたのである。

こうしたネットワークは、都会だけにではなく、村落環境にも存在していた。田園地方では、村落生活それ自体がその成員の間で、成員内部の立場の違いにも関わらず、非情に親密な繋がりと集団的相互責任の深い感覚を育成していた。急進主義の歴史家は特にそうなのだが、欧州の農民がどれほど分散し、バラバラで、従って共同行動ができないのかを誇張するものである。こうした歴史家は、マルクスが、当時のフランス農民のエゴイズムに関する認識を基に、農民世界一般を狭量だとして軽率していたことをあまりにも厳密に繰り返しているのである。あらゆる農民社会が19世紀フランスのそれと類似しているのならば、日本・フランス・米国の植民地主義者たちに対するヴェトナム戦争は言うに及ばず、1912年のメキシコ革命で非常に熱狂的に、大きな自己犠牲を持って戦った農民運動を説明することは難しくなる。欧州とロシアの偉大なる農民一揆は、資本主義以前の農村コミュニティが持つ強力で集産主義的な村落関係に根ざしていたと理解しない限り、未だに不可解なままであろう。

16世紀宗教改革時代の大規模な中世農民戦争群から産業労働者と農民による近代の蜂起まで、抑圧された人々は、自身の民衆コミュニティ連合諸形態−−潜在的に、新世界の民衆インフラ構造−−を創造し、自分たちを支配していた抑圧的国家に置き換えようとしていた。一般に、こうした民衆諸連合は同じ目標を共有していた。民衆に事実上の政治的権能を与えることである。やがて、革命の中で、こうした連合は地域集会という制度的形態を取ったのだった。それは、タウンミーティングや委任されたリコール可能な代理人からなる代議制評議会と酷似していたのだった。

こうしたネットワークは、一般に、警察の監視だけでなくその後の歴史的調査にも引っかからなかった。歴史家が、革命議会のような形式的な革命諸制度や政治政党のような組織を越えて、普通の人々、特にその中の無名の闘士たちがどのように自身の自主組織に従事していたのかを見分けようとするようになったのは、ほとんど例外なく、最近になって初めてのことなのである。

私が以下のページで探求するのは、こうした地下の民衆運動・委員会ネットワークと集会のような様々な組織形態・多くの場合ほとんど知られていなかったり無視されたりしている組織指導者たちである。私のこの努力は必ず部分的にしか成功しない。なぜなら、この隠れた活動領域の資料や客観的回想が不充分だからである。

だが、収集できたものに基づいて、私は、民衆の自主組織プロセスは、大ざっぱに、一定のパターンに従っていることが多いことを見いだした。貧困な町内−−田園地方においては、恵まれていない農民村落−−では、民衆は当初、地元の酒場・カフェ・広場・市場に集まる。産業地域では、工場の「たまり場」や組合集会所やカサス=デル=プエブロ(文字通り、「人民の家」、つまり町内センター)に集まる。そこで、人々は新聞を読んだり、講演を聴いたり、講座を受講したりする。究極的に、こうした緩い集まりが、教育グループや討論グループ、コーラスや文芸さえものグループをも伴う、明確な町内政治文化を勃興させる。こうしたほとんど注目されず不完全にしか探求されていない文化が、その後に、明確な戦闘的草の根指導力に影響されることで、組織構造プロセスを経験し、その結果、組織だった民衆運動が出現し始める。このことは、政治諸政党の手助けなしに生じることが非常に多い。実際、過去のあらゆる大革命はその基部において市民的、もしくは自治体的革命だった、と見なすのが道理にかなっている。村落であろうと街であろうと町内であろうと都市であろうと、そこでは複雑なコミュニティ組織構造プロセスが営まれているのだ。従って、警察や、もっと高次の権威に、そして同情的なジャーナリスト・歴史家に対してさえも、社会的激動時代に「暴徒」としてしばしば見えていることは、非常にはっきりした、共同体的に定義可能な、充分に指導された民衆の激増であることが多いのだ。

こうした共同体的組織構造プロセスは、革命を育成するだけでなく、莫大な数の人々が充分に武装した軍隊との戦いを絶え間なく繰り返していた理由を説明してもくれる。こうした民衆の政治文化とそのネットワークは、一時的敗北の期間に革命的民衆とその指導者たちを支援する。この後には、力強く、もっと断固としてさえいる激増が続くものである。1917年2月に、ペトログラードの労働者階級地区であるブイボルグからかつてないほど大規模な群衆が都市中心部に侵入したとき、群衆は、最終的に軍の駐屯地それ自体が暴動を起こし、皇帝の君主制を解体する手助けをするまで、警察の警棒と拳銃・竜騎兵のサーベル・歩兵連隊の銃火を幾度も打破することができたのだった。そして、非常に現実的な意味で、抑圧された階層と階級の運動は明らかに市民運動だったのであり、不動産・小売店・工場だけでなく、村落・街・都市・町内の共同体生活に根ざしていたのだった−−この事実は、大革命の歴史家から受けるに値する認識なのだが、これまで注目されてはこなかった。

当初、いかなる政治政党もこうした民衆を指導してはいなかった。ロシア左翼の主要諸政党−−メンシェヴィキ・ボルシェビキ・社会革命党−−など以ての外だった。事実、ペトログラード労働者たちがその蜂起を開始する少し前に、皇帝主義の警察は革命的諸政党の都市委員を逮捕していたのだ−−多分、これは幸運だったのだろう。なぜなら、諸党のどちらかといえばドグマ的なイデオロギー、そして、革命が経過するべきだとそうした諸党が信じていた「段階」という抑制概念が、君主制を転覆する暴動の激増を妨げていたことは充分あり得るからである。

だが、この激増は、無定型のものでも、衝動的なものでもなかった。ペトログラード民衆の勝利は、自分たちの町内や工場で既に創り出していた隠れた構造の証明なのであり、無名の指導者−−階級意識を持った叛乱者−−の証明なのである。そうした指導者は、演説家として触媒者として、革命を扇動するときにその隣人と仕事仲間に対してなくてはならない手引きを与えていたのだった。従って、一時的な挫折の後に、民衆は意識的にその力を再び召集し、主として地元の指導者のおかげで、公的な諸制度が完全に解体するまで攻撃し続けたのだった。1917年のロシア労働者同様、パリのサン=キュロットも一時的に弾圧され、その後に、もっと急進的な方向性で革命を押し進めることに成功するまで、再度立ち上がったのだった。

民衆とその指導者は確立した諸権威と最初に対決する革命のこの最初の段階は、民衆的段階と呼ぶことができるだろう。旧体制の権威は、この段階を統制しようとしていただけでなく、民衆運動を弾圧しようとする。そして、当局が失敗すると、諸政党−−傾向として(in complexion)自由主義だったり急進主義だったりした−−が民衆運動の先頭へと動こうとする。諸政党は、丁度、フランス革命のダントンとロベスピエールや、ロシア革命のレーニンとトロツキーがそうしたように、民衆とその指導者が掲げたその正なるスローガンを臆面もなく利用するのである。

 

革命は深遠なる教育プロセスである。実際、あらゆる種類の対立する思想と諸傾向とが革命的民衆の精神の中で振り分けられる紛れもない大釜なのだ。旧体制が転覆されると直ぐに、パンフレット・宣言文・決議文の紛れもない嵐が現れ、同時に、公開会議・デモ・クラブ・団体も現れる−−つまり、書き言葉とスローガンの戦争が現れる。私たちはそこから、革命運動内部の対立党派とその目標を確認し始めることができるのである。

革命的プロセスに突入した人々は、革命後には、革命が始まる前とは別人になる。革命的時代に少しでも成功に出会った人々は、数週間や数ヶ月間で、非革命的時代に生涯にわたって学ぶであろうことよりも多くを学ぶ。昔ながらの考えが驚くほど急速に捨てられる。数世紀にわたって発展した価値観と偏見がほとんど一夜にして消え失せる。著しく革新的な思想が急速に採用され、試験され、必要なところでは破棄される。特徴として甚だしく急進的な場合が多い、新しい思想であっても、支配エリート−−後者がどれほど急進的だと公言していようとも−−を脅かす活力と共に採用される。そして、その思想は、すぐさま民衆の意識に深く根ざすようになる。時代遅れの伝統が崇め奉っている権威は、突然、その特権・合法性・支配権を奪われ、一方で革命的民衆は、多くの場合狼狽して躊躇している指導者を民衆の雰囲気の急進的変化に強制的に馴染ませるのである。

革命一般は社会的にも心理的にも非常に騒然としているため、イデオローグたちに永続的な挑戦となっている。そうしたイデオローグには、人間行動は固定しており、人間的自然は前もって決定されていると主張する社会生物学者たちもいる。革命の挑戦は、「人間の本性」が際だって柔軟だということを明らかにしているが、革命の社会的・心理的混乱と、革命がほとんどの場合に生み出す制度的変革を研究の主題に選んでいる心理学者はほとんどいない。これだけは強烈に強調しておかねばならない。革命中と革命後の民衆の行動を、それ以前のものと同じ基準で判断し続けることは、完全に近視眼なのだ。

民衆の莫大なイデオロギー変化と道徳的変化を生み出す革命の能力は、普通の人々、実際、抑圧された人々が民衆自主管理を行使できる−−自分の社会的・私的生のほとんどの側面にわたる管理に、直接的で、迅速に、陽気に突入できる−−機会から主として生じている。叛乱者たちが、かつては神聖だとされたエリートから権力手段を奪取し、徹底的にポピュリストの方向に沿って社会を再構成し始める限り、叛逆者たちは、自分たちの内部に、以前は抑圧されていた創造性・自己信頼の感覚・連帯を育成する潜在能力があることの意識を育てるのである。叛逆者たちは、融通の利かない慣習が以前に自分たちに教えていたように、社会は不変のものでも、神聖なものでもなく、むしろ、融通が利き、ある制限の中で人間の意志と願望に従って変革の対象となる、ということを学ぶのである。

ある時点で、全ての革命的民衆は、自分たちが作り上げた変革と、自分たちが導入した革新を永続化する方法−−つまり、革命体制それ自体であっても民衆を排斥できないやり方で社会的事柄の管理に対する自分たちの参画を制度化する方法−−という問題に直面するはずである。フランス革命中に、サン=キュロットとその指導者たちは自分の地区を結束させ、フランス全土にわたる直接民主制の永続的諸制度へと諸地区を転嫁させようとしていた。ロシア労働者階級と農民も、そのソヴィエト、つまり、評議会形態の社会組織の統治権という問題に直面しなければならなかった。どちらの場合でも、民衆運動は、その政治諸政党は民衆の社会的熱望を求めていたかと思えば、それに敵対し、急進的で民主主義的な目標に向かう出来事の流れを妨害している、ということに気づいたのだった。

次のように問うことは公正であろう。革命的政治政党はこの発展の中でどのような役割を果たしていたのだろうか?通常、政党は、民衆支援を動員しようとする組織的構造だけではない。その構造と指導力メンタリティを考えれば、政党は国民国家に対する代案でもない。全く逆なのである。政党は、革命的だとか、リベラルだとか、反動的だと公言していようとも、国民国家それ自体の産物なのだ。政党と政党を区別している主たる違いは、それがどのような種類の国民国家を確立しようとしているのか、なのである。

欧州において、国民国家が封建制独立国に置き換わり始めたのは、15世紀と16世紀のことである。英国・フランス・後年にはロシアにおいて出現した国民国家は、精力的な中央集権的君主の産物だった。特に、フランスとロシアの場合、その明確な領土と帝国を管理するための巨大な官僚制をうまく確立したのである。封建世界が持つ相対的な混乱とは逆に、成功した国民国家は、強力で安定した中央集権型の官僚制を創造した。欧州の他の場所にいる支配階級はそれを見習ったのだった。

そして、政治政党は、もっと専制君主的な運営に敵対しているときでさえ、国民国家を見習っていた。当初の歴史的ズレの後に出現しながらも、政治政党は、国民国家に組織的・政治的に類似していた。やがて、政党は多かれ少なかれ国民国家とは切っても切り離せなくなった。過去にも現在にも、政党は、忠義の反対(loyal opposition)のような平和的手段であれ、革命組織のような武力によるものであれ、意識的に国民国家に類似した体制作りをしている。ちょうど、権力を握ろうと待機中の国民国家のようなものである。君主制と共和制同様、政党は、程度の差こそあれ、官僚主義的もしくは疑似官僚主義的インフラを持つ中央集権的実体になる。そこでは、権威は、特徴的に、中央から基部へと流れるのである。

政党は、国民国家のように組織されているだけでなく、その規模においても全国的になり、命令と服従のシステムによって一つにまとめられ、底辺による管理とは全く切り離された中央を持っているものである。確かに、その構造基盤の緊張状態は、共和制国民国家のルーズなシステムから高度に権威主義的な国家の厳しいシステムまで様々である。だが、それでもなお、政党は中央集権的であり続けるのだ。この点について、過去の多くの革命的政党は、自分たちが敵対していると公言している正にその国家構造と共通点を持つようになっていた。権力奪取を−−レーニン主義の言葉では「権力を握る」ことを−−計画することで、政党は、知ってか知らずか、メンタリティにおいても機能においても、規模や民衆からの支持の程度とは無関係に、小さな国民国家それ自体になるのである。

従って、革命的政治政党−−その指導力とメンバーがどれほど理想主義的だったとしても−−は、通常、不信感を持って民衆構造を見ているものだ、ということは驚くに値しない。その民衆構造は、民衆とその指導者たちが、特に、その時の重要な政治課題が「権力奪取」だとされる時代の革命的状況で、創り出したものだったのだ。このことは、次の歴史的疑問を提起していた。いかなる種類の「権力」が、「奪取」されるべき既存構造に置き換わるのだろうか?政党は、民衆革命の最初の大変革では隠れているものだが、その余波の中で出現する。その明らかな目的は、大衆運動を利用して自分たちと自分たちが代表している利権のために権力を獲得することであって、国家とその官僚主義的機構を解体することではなかったのだ。

究極的に、こうした諸政党は、第三革命の叫びを上げている革命的民衆とその指導者たちが確立した民衆諸制度(例えば、その町民集会や町内集会、工場評議会など)と真っ正面から衝突することとなった。国家の統制を求めた自由主義的・急進主義的・革命的諸政党の間での対立関係を強調している歴史は、革命的だと公言している諸政党と、叛乱民衆が創り出した新しい、直接民主主義的でさえある諸制度との衝突を、あまりにも容易く見過ごしてしまいがちである。

歴史家たちにもっと混乱を引き起こしていることもある。民衆が、革命の開花と共に、次第に急進的になると、さらに急進的な諸政党の指導者たちは、特に党派間の対立において、民衆の支持を得る必要があった。この必要性が、一時的に、その指導者たちに、民衆運動の民主主義的目的を採用するように強制していたのだった。だが、この民主主義的薄板は、非常に短命なことが多かったのである。フランスでは、高度に中央集権的なジャコバン主義者たちは、穏健派のジロンド党との苦々しい闘争に閉じこめられ、自分たちの敵対者を政府の指導的立場から排除するために、民衆の支援を必要としていた。そうしたときに、ジャコバン主義者たちは、大衆支持を得ることだけを目的としていると思える、高度に革命的で民主的なレトリックを採用したのである。同様に、本質的に権威主義のボルシェビキは、ブルジョア志向的なメンシェヴィキ・社会革命党・自由主義といったライバルとの闘争では、実質的にアナキストのように思われていたのだった。

だが、いったん権力を確立すると、ジャコバン主義者もボルシェビキも、フランスとロシアを権威主義の増大した国民国家へ加速的に変換しながら、それぞれ、地区とソヴィエトの力を中立化するためにあらゆることを行っていた。政党と民衆は、武装対立に突入し、民衆が征服された場所では、革命が生み出すことができる社会的・経済的変革にもかかわらず、革命のプロセスは終焉に向かったのだった。

私たちは、近代の古典的諸革命全てにおけるこのドラマを理解せねばならず、民衆とその指導者たちが創造した制度的諸形態を吟味せねばならず、政党が民衆を弾圧するときに演じた役割と民衆と諸政党との間で進化していた思想について吟味しなければならない−−そして、最終的には、第三革命において民衆運動の成功をもたらしうる物質的・政治的諸条件を理解しなければならない。

 

この観点からすれば、近代の主要諸革命は、明らかに定義可能な経済諸階級間の闘争だと排他的に還元できはしない。大ざっぱに言えば、それら諸革命は、いつも、搾取される側と搾取者との、金持ちと貧乏人との、裕福な人々と物質的に無視されていた人々との闘争を含んでいたのである。だが、知ってか知らずか、こうした諸革命は、同時に、政治的生活に関して対立するヴィジョン間の闘争でもあったのだ。労働者・農民・急進的知識人は、自身のコミュニティで自分たちが形成したグループ分けを好んでいるものであり、多くの場合、国民性・トップダウンの管理・中央集権・官僚制に基づいた国権主義的支配の諸形態に対してはっきりと対立する、民衆支配と顔を付き合わせた民主主義というその分権的諸制度を対抗させていたのだった。サン=キュロットとペトログラードの労働者階級の指導者たちが第三革命を求めたとき、彼らは自身の経済的立場をより良くしようとするだけでなく、民主主義的公的生活を実行する主要手段としてその革命的諸制度を拡大しながら、自分たちの言葉で自分たちの宣言と要求を行うことに関わっていたのだった。彼らの目には、革命は、直接行動の制度化−−つまり、通常の政治形態として自主行政に従事すること−−を意味していた。民衆集会・職場委員会・ソヴィエト・民衆社会を通じた生活の恒久的一条件としての革命組織は、最も進歩した形態の直接行動だったのである−−これは、究極的に、一時的な工場占拠であれ、芝居じみてはいるが戦闘的には使いものにならないバリケードの構築であれ、もっと散発的な直接行動よりも遙かに重要なのだ。革命において、直接行動とは、特別な政治的行動形態を意味していた。つまり、自主管理の制度化と組織された参加型民主主義形態の創造である。

多くの場合で民衆運動の成功を妨げていたことは、言葉の最良の意味での前衛組織−−つまり、あらゆる国権主義的組織それ自体に明確に挑戦する、説明責任を持ち、リコール可能で、連邦的な指導集団−−を形成できなかったことだった(脚注:主として、ボルシェビキとその追従者たちによって与えられた言外の意味のために、最近は、前衛という言葉はあまりにも評判の悪いものとされている。このために、20世紀の前半で、アナキストやリバータリアンを含めたあらゆる急進的運動でこの言葉がどれほど一般的だったのかが容易く忘れ去られてしまうものである。前衛は、1930年代の米国で重要なアナキスト雑誌の題名だったのであり、欧州を通じて、特にスペインにおいては、第二次世界大戦まで様々なアナルコサンジカリスト雑誌の題名として使われていた。前衛は、単に、急進主義者よりも遙かに進んだ階級意識を持った組織を意味しており、それほど社会的関心を持っていない労働者・農民・中産階級の間で見いだす公算がありえたのだった。)。フランスとロシアにおいて、こうした組織がジャコバン国家とボルシェビキ国家に対する重大な挑戦を出現させ、その挑戦を開始できなかったということは、過去二世紀の歴史を重大に形成し、どれほど間接的にであろうとも今後の数世代を形成し続ける可能性がある。民衆指導者たちは、あまりにも優柔不断で、あまりにも混乱し、あまりにも無知だったため、自分たちが対決する機動性のある中央集権型の諸政党−−急進主義にせよそうではないにせよ−−に効果的に対処できなかったのだ。

革命的民衆の成功を妨害したもう一つの要因は、その運動で民衆の生活を束縛していた物質的制限だった。全く率直に強調しなければならないのだが、人間の歴史の大部分で、普通の人々は、社会的事柄の管理を十全に行うための充分な手段と自由時間を持っていなかった。日常的な生存手段を獲得することに自分の時間の大部分を捧げねばならない限り、政治生活は、特権を持った少数者の手に握られてしまうものだ。この従わざるを得ない事実は、古代アテネのアリストテレスの時代以来、明確に認識されてきた。古代アテネでは、レベルの低いテクノロジー・奴隷制度・家父長制度・戦争が、ポリスの生活と将来に重大な影響を与えていたのだった。

革命運動が要求していた民主主義の範囲は、革命が生じた時代の物質的制限を満たすために削り取られねばならなかったのかどうかという疑問が、数世代にわたり真面目な急進主義理論家の頭を悩ませていたことは理解できる。18世紀、そして、19世紀の大部分では、革命的諸政党は、民主的目標の獲得よりも、民衆の物質的欲望を満たすことの重要性を強調することが多かった。ジャコバン派が、パリ諸地区のミーティングを制限し、表向き、民衆が次の日に仕事に行くために充分な睡眠をとれるようにしようとしたとき、ロベスピエールは、次のように問うことで革命会議においてこの政策を正当化したのだった。「実際、誰が、ミーティングに出ることで自分の時間を犠牲にできるというだろうか?(中略)職人や正直な労働者は自分の時間をミーティング(集会)に費やすことなどできないのである。」原注1どれほどロベスピエールの答えが狡猾であろうとも、この疑問は全く無意味なものではなかった。今日においてさえ、無意味ではない。

それでもなお、革命的状況に置ける民衆運動の情熱は、少なくとも一時的には、経済的配慮を覆すことが多かった。ロベスピエールの評価の真実を、今日の歴史家が確立することは難しい。非常に重要な諸問題を扱っていた地区ミーティングは、特に、急進的情熱と活動が高まっていた時期には、一般に、多くの人々を魅了していたが、それ以外の時には、多分、主として当時一般的だった長い労働時間のために、非常に小規模になりがちだったであろう。

革命を民主主義的方向へ押し進めたサン=キュロットの指導者たちも、フランスの残りの部分が自分たちを支援していると確証してはいなかった。実際、パリの革命家の急進的要求は、田園地方にいる農民やフランス社会のもっと裕福な部門を次第に疎外していた。そして、革命的ペトログラードのボルシェビキも、農民の土地所有熱と兵士の戦争疲れに対処しようとしたことで、その政治的敵対者よりも重大な競争力を獲得したにもかかわらず、ロシアが自分たちを支持していることを疑うだけの理由を持っていたのだった。だが、結局、一般民衆にとって最小限の労苦で物質的に快適な生活を送るという見通しだけが、自由で民主主義的で理性的な社会に対する永続的基盤を究極的に生むことができたのである。

古典的諸革命における諸運動が急進的経済諸問題を扱っていた範囲は狭かった。それ故に、それらは実際には多数決主義の革命ではなかった。大革命の大部分を開始していた性急な変革は、当初、肯定の精神ではなく、むしろ否定の精神の結果だった。どれほど民衆運動が民主主義を確立しようと熱望していたにせよ、正確に社会がどのように経済的に機能することになるのかという考えは、非常に不明瞭だった。社会にいる全くバラバラな諸分子が、フランスにおいては専制君主制の廃絶を中心に、ロシアにおいては皇帝主義の独裁制の廃絶を中心に団結できたことは、驚くべきことではない。だが、他の諸問題−−例えば、土地の再分配や、富と暴利に対する挑戦や、特権を与えられていない人々の物質的欲望−−が生じるやいなや、革命のプロセスは、多くの方向に分岐し始めた。強調するまでもないが、増大する急進的な要求、特に、財産に関する要求が民衆の注目を集め始めると、社会の様々な特権階層は革命プロセスに敵対するようになったのである。

この転機に到達すると、革命的国民国家とその諸政党は、民衆の地域共同体構造と次第に対立するようになった。こうした転機は長い歴史的系図を持っており、そこでは、財産を持たない側が財産を持っている側に、貧困者が金持ちに、民衆民主主義が官僚統制に対抗している。このドラマは、ルター時代のドイツ農民戦争、英国革命と米国革命、フランス大革命、1871年のパリコミューン、1917年〜1921年のロシア革命、1936年〜1937年のスペイン革命で演じられた。この後半の段階で革命全て(短命だった1871年のパリコミューンを除き)を推し進めたのは、一見して革命的に見えるオリバー=クロムウェル・アレキサンダー=ハミルトン・マクシミリアン=ロベスピエール・V=I=レーニンといった増大する国家権力の擁護者たちだけでなく、民衆運動自体の内部にいた激しやすい(無名だったにせよ)マイノリティだったのである。

確かに、この発展には注目に値する例外がある。クロンシュタット水兵は、ボルシェビキの増大する権威主義に反対して1921年に蜂起したが、彼らがフィンランド湾の自分たちの海軍基地に革命「コミューン」を設立したときには、ロシア人民の大部分を代弁していたのだろう。だが、そのときまで、ロシア人民は、三年間にわたる血なまぐさい内戦・飢饉・広範囲にわたる幻滅のために、疲弊し、政治的に混乱してしまっていたのだった。

 

どのような意味で、過去の大革命は「ブルジョア民主主義」革命として見なすことができるのだろうか?この点に関してカール=マルクスのアプローチが急進主義歴史家とリベラルの歴史家たちの中で広く受け入れられているため、大部分の経済的−−そして顕著にブルジョア的−−利権が主導要因だったというマルクスの見解に異議を唱えることは異端だと見なされかねない。歴史家たちは、一般に、英国革命・米国革命・フランス革命を、これらの諸革命が資本家階級の業績だったとでも言うように、「ブルジョア民主主義的」だと記述するものである。前書きで既に示したように、私は、大革命の民衆参加者たちをその言葉で捉えようとしているのであって、現在の観点から懐古的に彼らを扱おうとしてはいないのである。

私は、それぞれの革命を個々に扱うとき、古典的諸革命がどの程度までブルジョア的だと見なされうるのかを吟味する機会を持たねばならなかった。一般に、マルクスの見解は、歴史的革命のプロセスを非常に運命論的にしているものである。過去四世紀にわたる自由を求めた偉大なる諸運動全てにおいて、資本主義の究極的勝利以外には代案が全くなかったかのように私たちに仮定させる。私の観点では、これは、受け入れがたい歴史的目的論の実例である。私たちは次のようなことを前提とするようにかなり最近まで強いられているのだろう。1520年代に叛乱を起こしたドイツ農民たちは、古風な村落生活を保持しようとしていたため、「反動」だった;クロムウェルのニュー=モデル=アーミーを形成したラウンドヘッド自作農階級は、当時未だ開発中だった産業革新と産業的生産様式によって、社会階層として歴史的に「破滅」させられた;米国植民地にいた急進的民兵農民は、必然的に、英国の自作農同様に消滅しなければならなかった;フランスの第一共和国を確立したサン=キュロットは、デクラセ下層民、もしくは単なる「消費者」(こう述べている歴史家は一人だけではない)だった;などなど。

こうした革命に関するマルクス主義とリベラルの見解では、大革命の階級前衛を形成したのは、多分本人たちはそのつもりはないだろうが、銀行家・商人・その他の事業家たち−−18世紀に莫大な富を蓄えていた略奪者たち−−だったとされる。ブルジョア階級がこうした諸革命の大部分から利益を得ていたということには、最初から同意しよう。確かに、ブルジョア階級は、「自由な」売買、「自由な」労働者、自己中心主義の「自由な」活動を欲していた。これは、『自由・平等・博愛』の叫びに容易く変異させることができる。だが、資本主義が現在、地球規模で主権を有していることが真実であるとするならば、18世紀の欧州と米国の商業中心地に集まっていた事業主ほど社会変革(特に、事業主たちが特権を持っていない人々を呼んでいたような「暗黒の人々 dark people」が参画した変革)に怯え、臆病で、恐怖している階級は歴史的になかったであろう。一階級として、ブルジョア階級が叛乱を起こすどころか、政治的に革命的だったことなど一度もない。実際、最近になるまで、ブルジョア階級が貴族・知識人・聖職者の侮蔑対象だったことは理解できる。社会的劣等感と政治的無力さの感覚−−それは全く当然のことだった−−が長く浸透していたのである。

ブルジョア階級ではないとするなら、いかなる社会階層が諸革命を貫徹したのだろうか?制度的・経済的移行が生じている社会は、明らかに不安定である−−政治的・経済的にだけではなく、文化的・心理的・知的にも。16世紀からこのかた、欧州人は、こうしたあらゆる面での慢性的な変革と大激動の状態に生活していた−−特に、農民・自作農・職人・肉体労働者・近年の工場労働者は。1640年代の英国革命から1930年代中期のスペイン革命まで、革命の激増の中で非常に際だって傑出していることは、それらが農民文化から産業文化への莫大な社会移行期に生じていた、ということである。小規模村落からやってきた男も女も突然、自分たちが都会で、そして近年では大規模な産業地域で生活しているのを見いだしたのだった。それは、自然のリズム・拡大家族・地域共同体支援システム・古くからある田園生活の伝統とは全くかけ離れたものだった。

だが、新興の資本主義経済が自分たちの価値観を襲い始めたときでさえ、民衆は、なおも、自分が伝統的コミュニティの一部だと感じていた。民衆が都市へ移動するにつれ、村落住民は、村落生活の親密さに基づいた古い地域共同体ネットワークと地域共同体的姿勢を都市に持ち込んだ。一方、都市居住の職人たちの間で、中世ギルドの伝統的ネットワークは未だ完全に消滅してはいなかった。17世紀を通じて繰り返し爆発していた慢性的暴動と小規模な叛乱は、こうした暴動が最終的に流れ込んでいった大革命よりも、もっと中世後期の限定的農民一揆の香りが−−田園地方から街・町内・都市に流れ込んできた新しい移住者が持ち込んだにもかかわらず−−していたのだった。結局、大革命以前であっても、叛逆の・急進的政治生活の文化・最終的に全般にわたる革命的変革を導くことになった直接行動を行使する継続的プロセスが存在したのである。暴動の警報、もしくは警鐘は、フランス革命のような大規模な社会変動を引き起こす前に、落ち着くことのないスラム居住者の間で数世代にわたり繰り返し鳴り続けていたのだった。

革命時代の労働者の大部分は、元来は農民だったり、村落社会から引き剥がされて一世代しか経っていなかったりした。次第にバラバラになる人工的世界に捉えられて、無情に搾取され、基本的生活手段を欠きながら、こうした人々は、著しい文化的対比と日常的に格闘していた。文化的に混乱し、産業的生活諸形態とは心理的に対立していたため、叛逆に−−究極的には革命に−−非常に影響されやすかったのである。結局、資本主義は、そうした人々の生活に完全に浸透していなかったり、そうした人々の独立の感覚を完全に台無しにしていなかったのである。社会的基盤・一貫性・17世紀と18世紀の陰鬱な仕事場と混雑した町内で次第に否定されていた意味の感覚を回復しようと革命に向き合ったのは、この種の「プロレタリア階級」、片足を田園地方に、もう一方の足を都市においていた一階級だったのだ。

基本的に田舎的な経済・都会経済・その後に成長する産業的経済の移行期の中に自分が巻き込まれていることを知った労働者たちには、桁はずれた特質が染み込んでいた。印刷工・鍛冶屋・宝石職人・車輪修理工・自作農といった伝統的で昔ながらの職人たちは、非常に忘れがたい個性を持った表現力豊かな個々人であることが多かった。こうした人々は、自分自身の能力と自尊心の深い感覚で満たされていた。伝統的家族での日常的な聖書の朗読は、職人と自作農に驚くほどの識字能力を与えた。米国の奴隷廃絶論者ジョン=ブラウンのような自作農の手紙を読めば、前資本主義社会にいた熟練農民と職人がどれほど雄弁で、どれほど知識を持ちえたのかが分かる。

1871年のコミューンまで一連の革命でバリケードを築いたパリ民衆−−「パリのプロレタリア階級」などと漫然と呼ばれている−−は、主として工芸職人だった。彼らは、どれほど都会化されようともその私的特質を保持し続けていた。実際、一世紀の大部分にわたって、フランスの首都を欧州革命の中心地になさしめたのは、まさしく、この種の労働者階級であり、その階級が生み出した指導者たちだったのだ。パリの職人たちが、伝統的で主として小規模の街の過去に片足をつっこみ、もう片方の足を非常に都会的な未来につっこんでいたとすれば、1917年直前のロシア労働者は、片足を農村に、もう一方の足を産業的現状に入れていた。ペトログラード労働者の大多数が、地方から到着したばかりであり、割当所有地(land allotments)を持ち続けてさえいた。そのことで、必要なときには、そこに戻って、再び農民になることができたのだった。実際、1918年と1921年のロシア内戦というほとんど飢饉に近い状況では、多くの人々が自分の村落に戻ったのである。産業ルーチンに完全に捕らわれず、危機の期間には頼ることができる強力な農村支援システムを持っていたため、彼らは、近代ブルジョア社会に完全に漬かっている世襲的なプロレタリアには成しえないほどまで戦闘的だったのである。パリにおいてもペトログラードにおいても、労働者たちは、資本主義社会を「自然な」社会秩序だとか前もって決められた社会秩序だなどと見なしてはいなかった。実際、前資本主義文化と資本主義文化のはっきりした対比は、根深い階級的・社会的差異を、新興の産業社会に対する爆発的憎しみが革命の割合に到達する点まで激化させたのだった。

革命は、「大衆」と呼ばれる特徴のない民衆の一群(どれほど私がこの言葉を使わねばならないとしても)が創り出すものではない。確かに、火を燃やして火炎にした燃料は、抑圧された社会層から、そして、特に注目すべきは急進的インテリゲンチャから出現した少数の闘士たちだった。ギリシアの巡回哲学者に遡る昔からの社会層インテリゲンチャには、様々な反体制グループとサークルの組織者・社会批評家・疑念の種蒔人・宣伝家・時として強力な理論家もいた。インテリゲンチャが、かけがえのない理論的洞察・方向性の感覚・批判的推進力・かなりの創造力を諸革命に供給したのだった。「インテリゲンチャ」−−書いておかねばならないが、ロシア語である−−ということで、大学に充分安住している今日の「知識人」のことを述べているのではない。作家・芸術家・詩人・あらゆる種類の専門家の自由気ままなネットワークのことを述べているのであり、そこには、18世紀と19世紀にパリのような諸都市で非常に親密で目に見えるコミュニティを形成していた役者たちさえもが含まれている。近年、その多額の給与と共に、こうした人々が現代大学システムに吸収されてしまったことは、現代革命運動の発展に対して最も犠牲の大きい打撃の一つであった。

革命は、その行動がある意味で民衆行動を喚起するような目に見えるターゲット、社会的敵も必要である。実際、ほとんどの革命は、新興民衆運動を弾圧しよういう支配エリートの試みに対する防衛行動として始まっている。1789年7月14日にパリ民衆がバスチーユ監獄を襲撃したのは、国王が資本を奪取し社会動乱を鎮めるためにパリの近くに軍隊を集めている、と民衆が信じたからだった。1917年の10月革命で、ボルシェビキが、当初、ペトログラードのケレンスキー自由主義体制を奪取したのは、ロシアの首都にいる誰の目にもボルシェビキが地方政府に対する暴動を既に注意深く計画していたことは明らかだったにも関わらず、政府がペトログラードの新聞を愚かにも閉鎖したためだったのだ。

疑いもなく、民衆革命が転覆し取り替えた様々な支配エリートが庶民にとって非常に目に見えるものであった。だが、支配エリートは非常に特殊な形で可視的だったのだ。地方の蜂起が幾度も中絶された後であることが多かったが、その後に民衆が革命に向けて動き出すと、支配エリートは、その体制が根深い危機にいることを非常に明確にした。既存秩序に対する信頼を失ったのは庶民だけではなかった。体制を所有している主人たちも明らかな神経の破綻を示していた(their own masters exhibited a visible failure of nerve)。初期の革命勢力が次第に団結する一方で、支配エリートは次第に分裂していった。既存秩序が崩壊することは、上にいようと下にいようと誰の目にも明らかとなり、旧社会の最も頑固な諸分子が、明白な変革の必要性に抵抗していた。実際、フランスでは、多くの貴族分子は、フランス革命の知的・道徳的雰囲気を創り出した偉大な啓蒙者たちを贔屓にしており、世紀の変わり目のロシアでは、個々の貴族と商人たちが、莫大なお金を革命組織に提供していることが多かったのである。

エリートがどの程度変革に抵抗していたのかが、ある革命がどれほど広範にわたるものだったのか・民衆運動がどれほど急進的になっていたのか・革命がどれほど長続きするものだったのか、を明らかにしてくれる。現状を望ましいとしている支配階層が、非常に小さな改良に対してさえ激しい抵抗(軽率な場合も多かった)を示していたため、フランス革命でジュルネ(「日々」)と呼ばれていたような様々な暴動だけでなく、暴動後に生じる内戦も含めれば、大革命の多くは数年にわたることとなったのだった。実際、フランス革命が、1794年のジャコバン支配の転覆で本当に終了したのかは疑問である。同じ社会勢力の多くが、1871年まで繰り返された暴動の中で、継続的に存在し、互いに衝突しており、だからこそ、私たちは、ほぼ一世紀にわたって存在した唯一無二のフランス革命時代について語ることができるのである。英国革命は、少なくとも4年間を費やし、クロムゥエルの護国卿時代を含めればほぼ20年続いていた。米国革命は、1760年代に異議申し立て(dissent)の開始から、1789年の諸州による憲法採択で終わる革命的期間を数えるならば、ほとんど30年間続いていた。ロシア革命の始まりを、1905年の中絶した革命ではなく、1917年にする事にしても、この革命は、1921年のクロンシュタット=コミューンの粉砕で弾圧されるまで4年間継続していた。こうした諸革命全ては、革命発生時に粉砕されていなければ、出来事の持つ内的論理に特徴づけられていた。つまり、不確実性の不安定な時期から、大衆の部分的勝利へ、そして最終的に、程度の差こそあれ、民衆運動の敗北に向かってゆっくりと進んでいったのである。こうした発展それぞれが、多くの細部で異なっていたものの、ほとんどの全般的概略は驚くほど類似していたのである。

 

特定の民衆諸運動が諸革命を通じて下から構築した驚くべき自由の諸形態を吟味すると同時に、一部の主要な諸革命の一般的概略におけるこの類似性を説明する、これが可能ならば、これこそ正に私の課題である。既に示したように、1794年のジャコバン体制の崩壊以後、フランス革命は、各々の社会変革ヴィジョンに基づいた他の諸革命の「モデル」となった。ロシア革命の出来事の系列は、時間的に短い形態ではあるが、フランス革命のそれと非常によく似ている。ロシア革命にあった諸傾向の指導者たちは、ヴラディミール=イリチ=レーニンのようなマルクス主義者から、ピョトール=クロポトキンのようなアナキストまで、フランス革命の歴史に足を踏み入れていた。だが、このことそれ自体は、こうした類似性を説明してはくれない。ましてや、両国の大多数を占めていた農民のような経済的共通性の存在・非常に急進化した都会住民・断固たる中央集権型前衛政党の出現も説明してはくれないのだ。

私がこのように述べているのは、これら二つの革命を導いたのは、類似した経済諸条件だけではなかった、ということである。これらの革命は、説得力のある政治的目標−−つまり、自由を求める民衆の願望−−によっても導かれていたのだった。こうした諸革命は、経済的な次元だけでなく、著しく道徳的な次元をも含んでいた。二つの革命で非常に決定的な役割を果たしていた土地所有熱のような、まさにその真の経済的関心に付け加えて、フランスとロシアの小作農は、新しい・公正で・自由でさえある生活方法を求めた、情熱的で、ほとんど至福千年説信奉的な願望に取り付かれていた。英国の1640年代とスペインの1930年代の間にある古典的諸革命の驚異−−そして悲劇−−は、民衆の主権性に対する根深い願望に支えられていたことである。革命の指導者たちとその国民国家的組織が、この民衆の主権性を体系的に弱体化させたのだった。

私は、本書から、第二次世界対戦以来生じている「第三世界」の諸革命に関する説明を省いた。ページ数の制限だけでも、私は欧州での諸革命に限定されねばならなかったのだが、「第三世界」の諸革命は、欧州の諸革命とはいくつかの重大な点で異なっていたし、現在も異なっている。たとえば、欧州の諸革命は、米国のものもそうだが、すでに形成された国民国家、多くの場合は絶対主義的君主制から出現していた。「第三世界」の諸革命は、国民国家を形成し、長期間にわたる植民地支配の後に、国民的アデンティティの感覚を得ようとする試みである。それ以上に、欧州の諸革命は、農民の増大が不可欠だったにもかかわらず、ロンドン・ボストン・パリ・ペトログラード・バルセロナのような、主として都市を中心としたものだった。「第三世界」の諸革命は、逆に、主として田園地方で戦われていた(1920年代の中国は、興味深い例外だが)。

実際、欧州諸革命は、全体としての抑圧された人間性を代弁しており、その諸目標の広さ(breadth)は、世界の他の場所の諸革命と平等に並べられないものであった。この諸革命は、共和国主義と民主主義のような主要政治諸問題を掲げただけでなく、3世紀以上にわたり欧州文明の発展に対する非常に強力な国際的・イデオロギー的効果を持っていた。実際、諸革命は、世界史一般における、重要なイデオロギー的・文化的・経済的転換点だったのである。その偉大なる申し立て・憲章・宣言は、国家的考慮を超越することも多く、普遍的な人権と自由を支援して、すべての人間性にアピールしたのだった。

理解できるだろうが、「第三世界」の諸革命は、逆に、深く自己志向的になる傾向があり、世界に対するイデオロギー的影響は非常に限られたものである。民主主義に向かう推進力と、国民国家を犠牲にして地方の権利を求めた民衆の要求とは、「第三世界」の諸革命の激増では目立った特徴ではない。それらは主として帝国主義に対する国家闘争なのであり、植民地化された人々が自分のアイデンティティを定義しようとし、国家の独立を達成しようとしているのである。1960年代の毛沢東主義原理は人気があるが、中国共産主義革命は、レーニン主義の暴動的変形だったのであり、毛沢東の死後は、中国自体においてさえもその支配力を失い始めた。キューバにおけるカストロの革命も、ニカラグアにおけるサンディニスタも、その蜂起が南米に対して持っていた影響力にもかかわらず、世界の主要なイデオロギー変革を生み出しはしなかった。実際、ペルーのシャイニング=パスのような運動のためにそうした諸革命は失墜し、そうした諸国は次第に欧米権力に保護される立場になっている。このことで、社会発展一般に対するその影響力が、西洋の60年代急進主義者たちが当時予想できていたよりも、限定されていることが明らかになっているのである。

私は「欧州中心主義的」だと非難されるだろうが、だからといって別段私は困惑するわけではない。事実はと言えば、革命時代の本物の中心地は、ロシアを含めた欧州大陸と、米国(その革命は全くもって欧州の伝統に属している)だった。「第三世界」の諸革命が、何らかの普遍的な諸特長を持ち、人間性全体に対する急進的に新しい社会摂理を求めていたり、それを確立すると公言していた範囲まで、本書で記述された欧州の大革命群を見習っていたのだった(To the extent that revolutions in the "Third World" had certain universal features and sought or professed to establish a radically new social dispensation for humanity as a whole, they emulated the great European revolutions discussed in this book.)。その民族主義的で反帝国主義的諸側面は、それらが生じている文脈では理解できるだろう。だが、こうした諸革命を神秘化してはならないし、帝国主義から自由になるというその当然の主張も、欧州で生じた大革命を特徴づけている人間性に対する普遍的アピールに匹敵するものだと見てはならないのである。

重要なことだが、古典的諸革命にはそれぞれ、もっと急進的に洗練された歴史レベルに向かう他の諸革命が引き続いた。そこでは、ほとんどユートピアン国際主義的な見解と、自由のより広範な定義が、それ以前の民族主義的、もしくは「愛国主義的」主張に取って代わっていた。実際、1936年〜1937年のスペイン革命は、明確にリバータリアンの形態を取る場合が多く、階級だけでなく、国内の様々なヒエラルキーにさえも挑戦していたのである。逆に、「第三世界」の諸革命は産業化を志向した従来の国民国家へ発展するか、さもなくば、そのイデオロギーは昔の欧州諸革命の反響として主に細々と生き長らえているのである。インド・中国・東南アジア・アフリカ・中央アメリカで新しい国民国家を形成する手助けをした諸革命は、フランス革命とロシア革命を特徴づけていた国際主義的性格をほとんど持っていない。米国革命さえも、多くの急進主義歴史家が単なる「独立戦争」と見なそうとしているが、それ自身では、抑圧された世界に対するユートピア的狼煙だと見なしていたのだった。

 

本書が、現代史を非常に大きく形成した大革命について減少している関心を復活させ、下からの運動という観点で古典的な西洋諸革命の原動力を検証するように読者を勇気づけて欲しい、これが私の願いである。革命的民衆とその指導者が社会を管理するために作り上げた制度的諸形態と、民衆や抑圧された特定社会層を指導すると公言していた革命的諸政党とそれらの相互作用を吟味して欲しいのだ。私は、この相互作用が生み出した諸問題・私たちが学びうる教訓・大革命それ自体の性質とその軌跡を中心に群がっている様々な理論を探求したいのである。理論は談話と密接に混ざり合い、一般化は特定の事実と密接に混ざり合うのだ。

私は、明らかに解釈的やり方で大革命の時代を−−その限界と可能性を−−再現するだけでなく、革命家の魂を伝えたい。それは、諸革命それ自体の絶頂期だけでなく、革命の時代を通じて−−比較的無活動の時期にさえも−−存在していたのだ。私は、「ラディカル」だとか「プログレッシブ」といった今日非常に流行している言葉ではなく、革命家であるということが何を意味しているのかを問う。1989年のフランス大革命200年祭が、当時世界を奮起させた大革命を喚起するものとしてではなく、愛国主義の演習として行われたという事実から見れば、この課題は現在にこそ特に必要だと思われるのである。私は排外主義の暗雲をできる限り取り除きたいと思っている。その雲が、大革命がすべての啓蒙された人間の心の中に生み出した希望と、二世紀の大部分にわたって諸革命に影響を与えたイデオロギーを覆い隠しているのである。

この文章を書いている現在、不気味な反啓蒙主義が西洋文化に浸透してきている。これは、社会的コミットメントを犠牲にしてエゴ中心主義を賞賛し、自然主義を犠牲にして神秘主義を賞賛し、理性主義を犠牲にして直感主義を賞賛し、文明を犠牲にして先祖帰りを賞賛し、戦闘的で活動主義的なメンタリティを犠牲にして消極的で受動的なメンタリティを賞賛し、批判的世俗性を犠牲にして無気力化する宗教性を賞賛している。資本主義が世界規模の割合まで拡大するにつれ、メディアが画策した野蛮主義が、近代の人間精神を中世趣味が持つばかげた風刺漫画−−自由という近代的諸理想を生み出した革命的時代から、精神においても見解においても、ほとんど数世紀ほども隔たっている−−へと押し戻している。このことが、革命的時代とそれを育成した啓蒙運動の決定的終焉を特徴づけているかどうかはわからない。確実に分かっていることは、私は、個人として、生に意味を与えてくれる革命的精神を欠いた歴史的期間の一部になりはくはない、ということだ。本書は、この精神を喚起し、可能ならば、その精神を現代に関連付けようと意図されている。

原注

  1. Gazette Nationale or Le Moniteur Universel, no. 262 (19 September 1793), in Reimpression de L'Ancien Moniteur, vol. 17 (Paris: Henri Plon), p. 683 のロベスピエールのスピーチを参照。