本論文は、元々、Green Perspectives、15号(1989年)に掲載された。本論文は、人口論の神話(その1)の続きである。原文はThe Population Myth: Part IIで読むことができる。訳文の中で、代名詞が何を指しているのか分からず、訳しにくい箇所が一部あったため、原文を併記しておいた。(訳者)
GREEN PERSPECTIVES Price: $1.00

Newsletter of the Green Program Project
A LEFT GREEN PERIODICAL
Number 15, April 1989
P.O. Box 111
Burlington, VT 05402

読者の皆さんへ:
過去三ヶ月、Green Perspectivesの編集者は、厳しい自治体選挙キャンペーンのため、出版を止めなければならなかった。このキャンペーンはバーリントン=グリーンズが1月から3月までバーリントン市で行っていた。編集者がそのメンバーであるグリーンズは、このキャンペーンで三人の立候補者−−一人は市長、二人は市会議員−−を擁立し、編集者はこの活動に深く参画していた。

我々の選挙戦は幅広く特集されていた。ヴァーモント州のメディアやボストン=グローブのような地方紙だけでなく、全国メディアにも紹介され、2月の終わりにはニューズウィークが、「ヴァーモントのグリーンズ」に一ページの大部分をあてていた。

選挙戦は、民主党(その見解の多くは、レーガン時代の共和党の見解と区別が付かないものだった)と、穏健派だが成長志向的な自由主義者(表向きは「社会主義者」バーナード=サンダースの衣鉢を継いでいるとされている)との間に、非常に痛烈なオルタナティブを持ち込んだのである。地元紙は、特に、バーリントン=グリーンズに投票することは、反動的民主党候補者の当選を確実にすることになるだろう、と強調していた。これを見て、我々は、自分たちの市長候補者にも我々にも多くの票が得られるとは期待していなかったが、人々が「自分の良心を投票する」ことができると感じることができた場所−−幾つかの区−−では、二人の市会議員候補は、それぞれ投票の17%と21%を獲得したのである。もっと重要なことに、我々のキャンペーンは教育的活動として著しく成功したのだった。

時間の拘束のために、我々が、Green Perspectivesの発行を今まで準備できなかったことは残念である。我々は、ここに、マレイ=ブクチンの「人口論の神話」の第二部を示すことで、発行を再開することができて喜ばしく思っている。


人口論の神話(その2)

by Murray Bookchin

1970年代以前、マルサス主義は、様々な歴史的形態をとっていたが、統計的に立証可能な公式を基礎にしていると主張していた。人口は幾何学的に増加する一方、食物供給は等比級数的にしか増大しないというのである。同時に、反マルサス主義者も実際のデータを使ってその公式に論駁できていた。つまり、マルサス主義者とその反対者との論争は、人類の急増に関する経験的研究と合理的探求に基づいていたのだった(だが、マルサス主義者は、人口増加の促進と抑制に関与している可能性のある社会的要因について展開できていなかった)。反マルサス主義者は、経験的に、我々に必要な食物の目録を作り、供給を増加させるための実際的測度を使うこともできていた。食物生産を、生産性を促したテクノロジー的革新という点で評価できたのである。耕作に利用できる土地を調べ、生産に利用し、多くの場合その生態系に対するコストを最小限にすることができたのだった。つまり、マルサスの主張に対する賛成論も反対論も、理性的な議論の範囲内でなされ、事実に基づいた証明と論駁の対象となっていたのである。

今日、この状況は、根本的に変わっているように思える。攻撃的な非合理主義と神秘主義の時代にあって、以前の経験主義的評価が次第に不適当だとされてきている。1980年代には、ニューエイジの、実際、神秘的マルサス主義の出現を見た。神秘的マルサス主義は、それ自体の超道徳性を正当化し、人間の受難に対する無関心を正当化するために理性を利用してはいない。人口と食物との関係を徹底的に神秘化しているのである。現代の人口統計学の議論の主要な問題はここにあるのだ。

この観点は、人間の苦悩に関する偽善的な懸念として現れるものだ。人間の苦悩は、「人口過剰」だとされた場所で人口管理措置を使って緩和できる、などとされる。この見解は、それが素朴であるのと同じぐらい誠実なものにもなり得る。だが、ここからさらに進むのだ。通常そうなのだが、もっと邪悪な人口統計学的エートスに変化しかねないのである。それは、慢性的飢餓へと沈み込んでいる人々が、人間「救助艇」によじ上り、負荷を掛けないようにしなければならない、と論じるのである。

生物中心主義とニューエイジマルサス主義

人口に関する昔の議論が理性的対話で支えられていたと述べることができるなら、現在の多くのマルサス主義者は、人口と食物の手に入れ易さとの関係を神秘化する傾向を持っている、と言えよう。人間は、多くの場合、生命圏における「癌」だと見なされ、生態系混乱と惑星破壊の原動力だとされる。そして、地球は、全てを統轄する「ガイア」へと神聖視される。「ガイア」には神秘的な「意志」が与えられ、性・階級・人種・社会的ステータスとは無関係に、社会的に抽象的な「人間」に対抗する聖なる力が与えられる。そして、この社会的に画一的な「我々」に対して、「ガイア」は、飢饉、戦争、そして、最近のマルサス主義の復讐レパートリーとされる最近流行のAIDSといった報復行動を見舞わすことができるというわけなのだ。この観点には議論の余地などない。完全に、不合理なのだ。

この邪悪なやり方を投入することで、1960年代以降のエコ神秘的マルサス主義者は、人間の災難とその社会資源とをエコ神学的黙示へと還元する傾向を持っている。伝統的マルサス主義の数字ゲームは、ニューエイジ道徳劇に道を譲ることが多い。そこでは、飢餓の社会的源泉が言語に絶した超自然主義的なものによって覆い隠されてしまう。有神論的エコロジーの名の下に、こうしたこと全てがなされているのだ−−皮肉なことに、その基盤は、残酷なほど反人間的な地球の擬人化なのである。

原則的に、マルサス主義とその後の様々な変形物の大部分は、食物供給が押しつけている「自然の限界」に直面するまで、人間はレミングのように無制限に繁殖すると論じてきた。「生物中心性」は、新たな問題を提起している。人間は「価値」という点で「内在的に」他の動物と何ら変わることはないという生物中心的概念が、マルサス主義に援助の手を差し延べているのである。なぜなら、こうした「自然の限界」に到達した後、「ガイア」は「彼女」自身の幾分奇妙な声で、次のように命令しているからだ。人口が特定地域の「環境収容力」に減じられるまで、飢餓と死とは続かねばならない、と。

社会的に高度な知識の必要性を生物学的な単純さに還元してしまうことで、生物中心主義が人間の「価値」と人間以外の生物の「価値」を広義に同じだとすることは、我々の種が持つ莫大な役割を無視することになる。一方では地球の「環境収容能力」を文字通り決定しているという点で、そして他方ではあらゆる形態の人間行動に影響を与えるという点で、概念的思考・価値観・文化・経済的諸関係・テクノロジー・政治的諸制度は莫大な役割を果たしているのだ。驚くほどの思慮のなさとともに、社会経済的諸要因はまたしても消し去られ、人間の立場は、人間の「内在価値」をレミングや、(生物中心主義界隈で選択されている動物をあげれば)オオカミ・ハイイログマ・クーガーなどのそれと同一視するという残酷な生物学主義に乗っ取られているのである。

こうした薄っぺらな思考から、二つの非常に重大な結論が生じる。一つ目は、その「内在価値」という点で、人間と人間以外の生物は同等に見ることができるというものである。だが、人間が「内在的に」レミングと同じものだったとすれば、人間の未熟死は少なくとも道徳的に受け入れることができることになるのではないだろうか。実際、その死は、事物の「宇宙的」枠組みの中で−−つまり、「ガイア」を順調にし、幸せにしておくために−−生物学的に望ましいものだと言われかねないのだ。そうだとすれば、人口抑制は、単なる避妊アドバイスを越え、算出されたネグレクト・「許容可能な」程度の飢饉の促進・餓死による大量死の歓迎になりかねないのだ。こうした状況は、酷いアイルランド馬鈴薯飢饉が起こった1840年代に、欧州において実際に生じていたのだ。当時、全世帯が全滅したのだが、それは「出来事の自然方向性」に「介入」することに反対したマルサス主義の主張に依っているところが少なくなかったのだ。

生物中心主義が人間とレミングを神秘的に同等視することで将来のアウシュビッツへの道が開かれるかどうかは、今後見守らねばならない。だが、数百万人もの民衆を餓死させるための「道徳的」基盤は、猛烈に確立されてきており、「エコロジー」の名において横柄にも押し進められているのである。

生物中心的神秘主義から生じる第二の帰結は、自然それ自体に対する人間の介入を非難しようという試みである。多くの生物中心主義者の間には包括的な前提が存在する。それは、自然界への人間の参画は一般に悪しきものであり、「ガイアが最もよく知っている」というものである。この神秘的前提、「知っている」ガイアは、それ自体で超人的人格を持っており、数十万人の米国人を殺す地震は、人口過剰に対する「ガイアの反応」だと容易く正当化されてしまう。

驚くなかれ、多種多様な環境保護団体は、生物中心主義をその哲学における一つの焦点としており、受動−受容的神秘主義に向かう傾向を持っている。感覚を麻痺させてしまうハイデッガーの「存在に対する開示」・スピノザの運命論・様々なアジア的神学は、思慮のない寂静主義を産み出すよう我々に命じており、神秘的ニュアンスを使って生態系諸問題を煙に巻くという現在流行の性質を獲得している。そして、我々は、大部分が神話的な活動である超自然界に人間活動を従属させるという循環論法の軌道の中で、くるくる回っているだけなのである。その結果、活動が行われる社会的諸条件とは無関係に、活動それ自体が疑われてしまうのだ。

惑星の正なる安定性を脅かしている莫大な環境的混乱を解決するために、最も明晰な思考と理性的な手引きを必要としている正にこの時代に、我々は、完全に神秘的な「ガイア」の「意志」の前にひれ伏すよう求められている。それは、人間の意志を混乱させ、有神論的妄想を持って人間の知覚をますます混乱させている。このメンタリティは様々な矛盾を産み出しているが、それらの矛盾を明晰に熟考する能力は、論理と理性に禁止令を出している神秘主義への有神論的アピールによって、阻まれているのである。

我々がもう一つのジレンマに直面するのは、ディープエコロジーを受け入れいていた卓越したエコロジー詩人が、人間がハイイログマやセコイアの木と共生するために、カリフォルニアの人口は百万人にまで減じられねばならない、と主張できる(彼はそのように主張していたそうだ)ときである。ある地域が維持できる人間の数を決定しようとするなど、その地域の実質的な「環境収容能力」ですらない。ここでは、「環境収容能力」それ自体が、超人的性質や神秘的性質さえをも独自に獲得している「原生地帯」として、エコ神秘的やり方で文字通り非物質化され、再定義されている。人間が原生地帯を締め出すと思われているのではなく、原生地帯が人間を締め出すと思われているのである。

人間性に対する「原始的」原生地帯と人間性の社会的「第二自然」とをこのように対置することは、完全な先祖帰りである。この見解の枢軸には、人間は自然進化の異邦人だ−−事実、人間の社会的「第二自然」は、生物学が魔術化していると思われる「第一自然」とは何の関係もない−−という神話があるのだ。

神秘的マルサス主義者

二世紀前の啓蒙運動にとって、人間は−−少なくとも、潜在的に−−正に自然の声であり、自然界におけるその位置は、社会が理性的で人情的だった限りにおいて、完全に崇高だった。今日、我々は新しいメッセージを耳にしている。「人間種は絶滅しても構わない。」とデイヴ=フォアマンは宣言している。「そして、私個人としては、そのことに一滴も涙を流しはしないだろう。」どれほど馬鹿げていようとも、この見解は希なわけではないのだ。実際、エコ神秘主義者とエコ有神論者が持っている思想の多くに内在しているのである。

重要なことは、ハイイログマが生物中心性の名の下で人間と同等の立場に置かれたとき−−私は、間違いなく、クマの「絶滅」に賛意を示そうとはしていないが−−、生命全般に対するより大きな感性ではなく、人間の苦悩・意識・人格に対する精神的無感覚を、そして、他の生命形態は近づくことのできない認識と理解という人間の潜在的可能性に対する精神的無感覚を、我々は目撃しているのである。広範囲にわたる離人症・非合理性の時代に、人間の人格と理性が持つ価値は問題にされなくなっているのだ。

自然崇拝や、人間以外の生命に対する尊敬さえをもしたところで、人間が「生命志向的」神話の活動範囲内に含まれるかどうかは、何ら保証してくれない。現代のエコ神秘主義者とエコ有神論者の一群は当然反対だろうが。この古典的例が、ロバート=A=ポイスがナチの運動について「神秘主義の率直な置き換え」と呼んでいたことなのである。嗚呼、ナチズムは率直どころではなかったのだ。ヒットラーの我が闘争は、「この惑星は、人間抜きで数百万年もの間、エーテルを使って動いていたのであり、人間が、いくつかのキチガイじみた観念論者の思想にではなく、自然の確固たる厳格な諸法則の知識とその残忍な応用について、より高次な存在に恩を受けていることを忘れてしまえば、いつの日にかもう一度そうなってもおかしくはない」と断固たる、実際に「宇宙的な」見解を記録している。ナチズムの中で最も優秀な観念論者、アルフレッド=ロゼンバーグは、ユダヤ人の「二元性」を非難し、復興異教主義的汎神論を公言していたのだ。ポイスの要約を引用すれば、それは、「自然の神聖視を通じて精神と物質とのギャップを架け橋する」ためだったのだ。この種の言葉は、様々な激しさで、今日のディープエコロジスト・エコ神秘主義者・エコ有神論者の著作に見ることができる。こうした人々は、明らかに、ナチズムとの関係を控えているのだろうし、自分たちが創造している文化的遺産を育成する上で自分たちの無罪を公言するのであろう。

ハインリッヒ=ヒムラーは、SSという全くの機械装置を配備し、数百万人もの人々を整然と殺害する莫大な作戦を行った。彼は、上記の観点を徹底的に保持していたのだ。「人間に特別なことなどなにもない。」と、彼は、ナチの殲滅作戦が最高潮に達した1942年6月にベルリンでSS幹部に話をしている。皮肉なことに、この人道主義の冷酷な拒絶に対応するかのように、彼は動物に対して激しい情熱的な愛情を持っていたのだった。そして、ヒムラーは、あるハンター、フェリックス=ケルシュテンに次のように不満を漏らしていたのである。「ケルシュテンさん、木の枝で餌をついばんでいる、何の罪もない、無防備で、疑うことをしらない、あの可哀想な生き物を、覆土の後ろから狙い撃ちして楽しいのですか?それは、本当の殺人ではないですか。自然はとても見事なほど美しく、全ての動物は生きる権利を持っているのですよ。」こうした動物の「権利」に対する情熱は、人間嫌いの裏返しであることが多い。事実、人間に対する憎しみは、動物へのへつらいを強めるものであり、これは、文明に対する憎しみが過剰なほど感傷的な「自然主義」を強めることが多いのと同じである。

私は、エコ神秘主義者・エコ有神論者・ディープエコロジストが歩いている危険な領域を示すために、そして、クリストファー=ラッシュの言葉を使えば既に「軽視されている」民衆(an already "minimalized" public)を無感覚にするときに生じる危険を示すために、人間を越えた「自然崇拝」という非現実的世界を引用してきた。後年のエドワード=アビーがラテン民族の「遺伝的劣等生」と「ヘブライの迷信」さえをも非難したことが示しているように、それらはそれ自体で危険な醸造物から解放されてはいない。この醸造物は、自然の理性的声としての人間の潜在的可能性を、全てを主宰する「ガイア」、自然における人間の特別な立場を否定するエコ有神論で置き換えてしまう神秘主義と混ぜ合わされると、非常に爆発しやすくなるのである。

自然崇拝はそこに集っている人々が生命界全般を崇拝しすることを保証しないし、人間以外の生命を崇拝したところで、人間の生命がそれが値するほど尊重されることを保証しはしない。このことは、崇拝が、いかなる形態であれ神化−−そして、怠惰な崇拝−−に根を持っているときに、特に、それが社会批判と社会行動に置き換わるときに、全く真なのである。

人口統計と社会

全ての社会は、自身の「人口法則」を持っていると断固として述べたのはマルクスであった。その成立初期にブルジョア階級が産業革新を機能させるために労働を必要としていたとき、人間生活は次第に「神聖な」ものになり、死刑は次第に殺人行為のために留保しておかれるようになった。それ以前、ボストンの女性は、単に、靴を一揃い盗んだだけで実際に絞首刑にされていたのである。自働機械やオートメーション機器の時代に、人間生活は再び安っぽいものになってきている−−戦争の惨禍に対するあらゆる敬虔な行為は全く逆であるが。人口削減を含み、病的な反ユダヤ主義と入り交じった社会的論理が、神秘的「自然崇拝」以上にヒットラーを導いたのだ。人口統計的政策は、いつでも、社会政策の一表現形であり、ある人々がどのような社会で生活しているのかを示しているのである。

ディープエコロジー理論家・アース=ファースト!指導者・エコ神秘主義者・エコ有神論者が持つ最も物騒な特徴は、そうした人々が、生態系諸問題・人口統計的諸問題を扱うときに、社会的諸要因の重要性を無効にしてしまう度合いである−−同時に、そうしたことは、最も惑わされている中産階級諸形態の幾つかにおいて、体現されている(even as they embody them in some of their most mystified middle-class forms)。このことは、社会的反動の時代においてその見解が受け入れられ易いということと、愚直さと社会的無知の時代におけるその見解の全くの単純さという点で、便利なのだ。

ウィリアム=ピーターセンは、真面目な人口統計学者であり、The American Scholarの最近の号に、自分が「人口に関するいくつかの耳の痛い事実」と呼んでいることについて注意深く特別な意味合いを持たせていた。彼が指摘するには、政治的諸要因は、経済的諸要因や環境的諸要因さえよりも、最近の飢饉で大きな役割を演じている可能性がある、というのである。ピーターセンは次のように述べている「最近世界で最も貧しい国とされたモザンビークには、肥沃な土壌・貴重な鉱石・美しい海岸線がある。そのGNPが過去5年間で半分に減り、その対外債務が23億ドルにまで膨れ上がったのは、隣国南アフリカによる攪乱活動とモザンビークの共産党政府のためなのである。おおよそ1400万人の人口のうち、10人に1人以上が、内乱の避難民として難民になってもおかしくない。だが、避難場所などどこにもないのである。」

スーダンの場合はさらにはっきりとしている。スーダンは昔は、肥沃な農業で知られていた土地だった。現在は、誤った管理の酷い実例となっている。その大部分は、綿花栽培へのコミットメントと農業関連産業の発展に対する世界銀行の融資に対する責務という英国植民地主義者が残していった遺産の結果なのだ。1970年代後半に国際収支の問題を埋め合わせるために綿花生産を増大させよという世界銀行からの圧力、高度に機械化された農業実践に対する石油価格高騰の影響、国内産食物備蓄量の劇的な減少−−これら全てが組み合わされて、北アフリカで最も恐ろしい飢饉の一つを作り出したのである。綿価格の世界的下落と、世界銀行による干渉と、米国小麦−−世界市場に対して農作物の耕作を強いられなければ、スーダンでも育てることができたはずの穀物である−−の販売を増進する努力の相互作用が、飢餓のために数え切れないほどの生命を奪い、自国での莫大な社会的士気喪失を産み出したのである。

この劇的事件は第三世界の広きにわたり生じており、マルサス主義者によれば人口成長の「証拠」だとして通常説明され、エコ神秘主義者からは、おそらくは地球に対して罪深い行為をしたからだとされ、「ガイア」の黙示的訪問だとして説明される。階級葛藤が、空腹の人々が直面している諸問題の根幹にあると思われるのに、マルサス主義者によって人口統計学的な諸問題へと変形させられる。そこでは、飢餓に苦しむ田舎の人々は、ほとんど同じぐらい貧窮している街の人々と対立させられ、土地を持たない難民は、同じぐらい土地を持たない小地所耕作者と対立させられている−−これら全てのために、世界銀行・北米農業関連産業・買弁ブルジョア階級を批判できなくなっているのだ。

第一世界においてさえ、若年者に対する年輩者の比率が増大すると共に、Americans for Generational Equity (AGE) のような圧力団体が、年金受給者と、「勘定を支払う」はずの若年成人との間に分断を広げると脅している。そうした圧力団体は、経済システム・企業・莫大な利益と計り知れないほど貴重な資源をむさぼり食っている「生命管理」の研究や軍備に対するキチガイ沙汰の歳出についてはほとんどなにも言わないのだ。

人口が急増しているのは、生殖生物学よりも、資本主義経済と関係している理由のためであろう。伝統的文化−−その価値観・信念・アイデンティティの感覚−−の破壊と人口増大は、前産業時代の死亡率の急増さえをも凌いでいる可能性がある。人口の絶対数が顕著に増大したとしても、平均寿命が低下することも有り得る。このことは、産業革命の最悪の時代、大規模な結核とコレラの流行の最中に起こっていたのである。新興プロレタリア階級という身分を繰り返し減少させていた怪物的な労働諸条件については言うまでもない。エコロジーや、ある地域の「環境収容能力」、とりわけ「ガイア」は、社会的士気喪失と、人口統計上の推移期における生殖に対する文化的拘束の崩壊についてほとんど何も扱いはしないのだ。経済と故郷を失った農民の搾取こそが本当の決定的要因なのであり、エコ神秘主義とディープエコロジーの「宇宙的」世界で見られるものよりも、もっと世俗的なのだ。

だが、いくつかの条件を安定させることは可能であり、より高い生活の質を仮定すれば、その諸条件が比較的安定した人口統計的状況を産み出すことができる。負の人口成長を促すことができる全く新しい要因が出現している。私が指しているのは、小規模家族やもっと教養のあるライフスタイルを望んだり、多くの兄弟姉妹よりも1人の子供の発達に対して配慮するといったことだけでなく、結局、女性解放運動や、若い女性が繁殖工場以上のものになりたいと切望することである。

人口統計的推移期で、伝統的農業経済から近代産業経済や都会型経済への変化とは、高い出産率と死亡率という条件から、低い出産率と死亡率という条件への変化である。真面目な人口統計学者のジョージ=J=ストルニッツは、人口統計的推移期を「近代で、最も徹底的で最も立証された歴史的傾向」だと呼んでいた。彼の特長付けには、一つ重要な条件を付け加えねばならない:この移行期間を作り出している生活諸条件を改善する必要−−労働運動が、社会的な懸念を持っている教育者・衛生改善家・医療保健業務従事者が、急進主義組織が一般に行ってきた改善−−である。人口統計的推移期(デヴィッド=ブローワーが示していたような人口爆発世代)が第三世界で生じていないとするなら、それは、半封建主義的エリート・軍の総督・悪質な国内ブルジョア階級が、社会変革を求めた運動を残酷に弾圧していることに大きく依っているのである。近年、人口統計的推移期という概念が、第三世界で最大の都市を取り巻くうんざりするほどの貧民街について説明しようともせずに、有効だなどと片づけられてしまっているのは、ディープエコロジー・エコ神秘主義・エコ有神論の従者たちの驚くべき近視眼と知的未成熟の証拠なのだ。

他方、第一世界の物質的生活諸条件は相対的に改善したが、このことが示したのは、ショウジョウバエやレミングならば示すような人口成長率の急上昇ではなく、ネガティブな成長率だった。数十年前にマルサスが人口の急増とそれに伴う飢饉を予測していた西欧−−特に、イングランドとドイツ−−において、大多数の人々は飢えからほど遠い状態にある。ドイツ・デンマーク・オーストリア・ハンガリー・カトリックのイタリアでさえも、全国的な世代交代率が下落するか、ゼロ人口成長に近づくかしている。そして、食物生産は、人口増大に伴う需要と同じかそれを上回っている。1975年以来穀物生産は12%増大している。いわゆる「最悪の実例」とされているインドでさえ、1984年の穀物生産は、1950年の三倍になっているのである。

人口増大と過酷な生活諸条件との相関関係の大部分は、土地所有パターンの結果である。南アジアは、人口増加率が高く、3000万の地方家庭は、土地を全く持っていないか、持っていたとしても微々たるものである。この数字は、この地方にいる全戸数のほぼ40%である。同じ条件が、アフリカとラテンアメリカについて述べることができる。土地の分配は、第三世界で、商業的農耕とエリート所有者(彼らは、地方の住民を事実上の日雇い労働者に陥れている)に対して余りにも偏っているため、非常に粗雑な階級格差・社会格差を正当化しないことには、誰ももはや「人口問題」について純粋に数字を使って話すことなどできなくなってしまっているのである。

生態学は残酷な学問になるのだろうか?

その社会的中核を剥奪されると、生態学は容易く残酷な学問になってしまう。マルサス主義者−−初期の人々同様最近の人々も−−は、卑劣な精神を示すことが多いものである。それは、80年代の「ワタシモ」的ヤッピーの雰囲気と完全にピッタリなのである。ウィリアム=ヴォグトの生存への道からの引用してみよう。これは優れた生物学者により一世代前に出版された著作だ。最近の処方箋を予測していたかのように、彼は次のように率直に述べていた。「大規模な細菌戦争が、地球の森林と草原を取り戻す有効な(徹底的になされるならば)手段となるであろう。」さらに途方もない一節の中で、彼は、この本にはっきりと次のように付け加えている。国連食糧農業機関は、「今年、1000万人のインド人と中国人を助けるために食べ物を送ってはならない。そのことで、5000万人が5年間で死んでくれるのだ。」−−80年代のマルサス主義文献に共通して繰り返されるゴシック的な「寛大な行為」である。(もっと古いマルサス主義者が述べていた非常に多くのことと同様に、この種の予測が完全な詭弁で無責任だったことは、新しい世代のマルサス主義者に全く影響を与えていないように思える。)

第三世界の社会不安が急激に高まり、それらの方策を受け入れがたいものにし、冷戦が新しい政治的連携を広く要求するにつれ、ヴォグトのような諸方策は1960年代に本質的に流行らなくなった。だが、1968年は、急進的政治における絶頂期だっただけでなく、反動的政治の始まりでもあった。この年に、右翼に向かう動きを最初に宣言したのは、ポール=R=エーリック著人口爆弾の出版とその信じがたいほどの人気だった。この本は、たった2年間で13版を売り、マルサス主義人口爆弾論者の軍勢を産み出したのである。

ディープエコロジストのジョージ=セッションズとビル=デヴォールが、エーリックを「急進主義エコロジスト」と呼んでいることは、ほとんどブラックユーモアに等しい。この本は、未だに、無軌道なハリケーンのように、癇癪と悪意の激烈な噴出のように、読まれている。本書は、デリーにおける人間の悲惨さを描くことから始まるのだが、そこでは「人間」(この言葉は冷笑的に使われており、第一ページのほとんど全ての文章がこの言葉で始まっている)は、「タクシーの窓から手を突き出し、物乞いをし、(中略)排便し、排尿する」ように、「訪問し、議論し、叫んでいる」と見なされている。エーリックとその家族は、「人間、人間、人間、人間、人間」に対する嫌悪感で気が遠くなっているかのようだ。エーリックがいるスタンフォード大学の崇高なキャンパスから別世界に突入した感覚になる−−この本を読んでいる米国人の大部分が必ず感じる感覚だ−−のである。そして、エーリックは「人口過剰の感覚」、つまり、この著作全体に充満している嫌悪感の感覚、を知るようになった、と述べている。

その後、我らが「急進的エコロジスト」は、その人間嫌いを使って暴れ回るのである。第三世界は、「UDCs」(開発途上国)のようなコンピュータ時代の略語へと非人格化され、医療の進歩は「死の管理」として記述され、公害諸問題は「全て、あまりにも多くの人間がいることに起因している可能性がある」(強調はエーリック)とされるのである。恐るべき様々なシナリオが、お互いにバレエを踊っているのだ。だが、奇妙なことに、あらゆる社会問題に対する、資本主義の影響や、永続的に拡大する成長か死かの市場経済の影響ついては明らかな言及をしていない。過剰に「繁殖している」人々に対して課税を増大させるというよく見られる要求・産児制限の要求・家族計画に関する教育的活動と共に、この本の最重要項目は、エーリックが「強力な政府機関」を要求していることである。従って、「連邦政府の人口環境省(DPE)は、合州国における合理的な人口規模を確立し、一貫した環境悪化を終わらせるために、必要なステップはいかなるものであろうとも取るだけの力を持って、作られねばならない」とされるのだ。(この本は、ニクソン政権時代に、偶然ながら、大きな人気を享受したのだった。)この決心に迷いが生じないように、エーリックは次のように思い出させている:「環境悪化に対する警官は、上記した強力な人口環境省でなければならない」(上記二つの引用での強調は筆者)。「実業界」にとって喜ばしいことに、エーリックは、J=J=スペングラーを引用して、「従って、企業にとって、そろそろ、コウノトリを幸運を呼ぶ鳥だとして観察することを止めても良い時期なのである。」

人口爆弾は、「トリアージ倫理」(倫理の優先順位)として現在では知られている都合の良い記述でクライマックスを迎える。戦争を例に使い、エーリックは次のように説明している。「この考えは纏めていえば次のようになる:限られた数の医療スタッフが全員を看護できないほど負傷者が包帯所に群がるとき、誰が治療されるのかについて何らかの決定をしなければならない。このために、トリアージ分類システムが開発されたのである。次々にやってくる全ての負傷者は、三つの種類の内の一つに置かれる。最初の種類は、治療に関わらず死んでしまう人々である。二番目の種類は、治療とは関係なく生き残る人々である。三番目には、迅速な治療がなければ死んでしまう人々である。」ここでの前提は、医療スタッフが「限られた数」だということであり、診断は、冷戦時代に患者の国でその並び位置を決めたような政治的配慮とは無関係になされるということである。

ニューエイジ=マルサス主義者の中では、前提を熟考しようという試みはない。実際、ある叙述から何が生じるのかを問おうとしないものだ。我々が、全ての生命は同じ「内在価値」を持っているとディープエコロジストが主張しているような前提を持って始めるのであれば、次に生じることは、我々がクジラやハイイログマに与えているような生存の「権利」と同じものをマラリアを媒介している蚊やツエツエバエに与えることができる、である。だが、ここで厄介な問題が持ち上がる:チンパンジーを絶滅の脅威にさらしかねないバクテリアを、「内在価値」を持っているからという理由で、なすがままにさせておけるのだろうか?チンパンジーにとって致命的な病気を統制できる人間は、「ガイア」の神秘的活動を「妨害する」ことを慎まねばならないのだろうか?自然に対する人間の介入でどれが「妥当」でどれが「妥当ではない」かを決めているのは誰なのだろうか?自然に対する意識的・理性的・道徳的人間の介入は、特に、大規模な主観性へのそして究極的には人間の知性に向かう莫大な生命進化を考えたときに、どの程度まで「不自然」だと真剣に見なすことができるのだろうか?社会生活がヒエラルキーと支配・社会的性別による偏見・階級搾取・人種差別で満たされている時代に、人間性それ自体が、単純に一種類しかないなどとどの程度まで見なすことができるのだろうか?

人口統計と社会

社会的条件で人口統計を眺めてみることの重要性は、次のように問うとき、さらにはっきりする。資本主義と呼ばれる成長か死かの経済は、世界の人口が現在の1/10にまで減少したならば、実際に、地球の略奪を止めるのだろうか?材木会社・採鉱企業・原油カルテル・農業関連産業は、カリフォルニアの人口が100万人まで減少すれば−−資本主義が、資本主義のために、蓄積し生産しなければならないことを考えれば−−セコイアとダグラスモミ林の森をハイイログマにとって安全なものにするのだろうか?

こうした疑問に対する回答は、絶対的なノーである。農民が平原地帯に入植したり、農場主が平原地帯を大規模に利用するずっと前−−実際、それは米国の人口は6000万人を上回ることなどなかった時代だ−−に、バイソンの莫大な群れは西部の平原で全滅寸前になっていたのだ。こうした大きな群は、人間の入植によって締め出されたわけはなく、人口が過剰になったからなどではさらさらない。我々は、この惑星の「環境収容能力」がどの程度のものなのか、今なお、答えねばならない。現在の略奪経済を考えれば、人口の減少と所与の生態系エリアとの間で何が厳密に数量上のバランスなのかに関して何ら確実性を持っていないのと同じである。

人口統計学者が考案している統計は全て、汚れなき「原生地帯」の希求や、牧歌的な自然の概念である単なる広い土地(open land)の希求や、耕作地への愛情といった、様々な言外の価値観によって重大に制約されている。事実、人間の好みは、「自然」を構成しているものに関して数世紀にわたり非常に幅広く変化しているのだから、我々が、人間種−−はっきりとした自然進化の産物だ−−を、いわゆる「汚れなき」原生地帯を含めた自然界に関する諸概念から疎外することが、そもそも「自然」なのかどうかを問うことは当然なのである。

このことは理性的に非常にはっきりしている。人間の介入から守られねばならない「原生地帯」は、既に、人間の介入の産物なのだ。原住民族の文化が「文明」の影響から覆い隠されねばならないとすれば、それは確実に本物ではなくなる。それと同じように自然が守れねばならないとするなら、それは「原生」ではない。我々は、純粋に生物学的諸要因が進化と、地球にいる大部分の種の運命とを、決定していた遙か昔の世界をだいぶ前に後にしてきたのだ。

人口統計に関する近代思考に影響を与えているこうした不明確な領域が明確にされ、その社会的意味合いが−−実際、その基盤が−−十全に探求されるまで、マルサス主義者は、理論的真空状態の中で活動し、その真空状態を極度に危険な思想で満たし続ける。事実、「動物の権利」の名の下にユダヤ人の毛皮商人に反ユダヤ的手紙を書くことから、ユダヤ教寺院とシナゴーグにかぎ十字を走り書きするようになるまでには、それほど時間がかからないのだ。

エコ神秘主義者・エコ有神論者・ディープエコロジストは、人口統計に関する議論に完全に恣意的な諸要因を導入することで、非常に問題ある状況を作り出している。「ガイア」は、ある人が「彼女」を作りだそうと決めたならばどのようなものにでもなれる。悪魔的な報復者にもなれば、愛情に満ちた母親にもなれば、ホメオスタシス=システムにもなれば、神秘的な精神にもなり、擬人化された神にも、汎神論的原理にもなるのだ。こうした全ての役割の中で、「彼女」は、人類の自己嫌悪である人間嫌いのメッセージ−−もっと悪い場合には、特定の民族集団と文化に対する憎しみ−−を押し進めるために容易く使われうる。「彼女の」最も愛している、善意の、平和的な従者さえも、その結果は予見できないのだ。エコ神秘主義思考・エコ有神論思考が持つこの明らかに恣意的な−−社会的内容を奪われていることが多い−−特徴こそが、人口問題に関する大部分のニューエイジ・「ニュー=パラダイム」の議論を、非常に問題あるものにしているだけでなく、潜在的に非常に邪悪なものにしているのである。