進歩した資本主義時代における急進主義政治


本論分は、元々1989年のGreen Perspectives(現在はLeft Green Perspectives)の11月号に掲載された。原文は、"Radical Politics in an Era of Advanced Capitalism"で読むことができる。本論分は、都市と公的領域の勃興が簡易にまとめられていて、ブクチンの著書、From Urbanization to Citiesのダイジェスト版だと言えると思う。(訳者)
1930年代の理論的予測全てを拒みながら、資本主義は徹底的に再安定し、第二次世界大戦後の数十年間で非凡なほどの柔軟性を獲得してきた。事実、我々は、今後数年間に社会がどのような軌跡を辿るかは言うまでもなく、最も「成熟した」形態にある資本主義を創り出しているのが何であるかをも、未だにはっきりと見定めなければならないのである。だが、私は主張したい。資本主義は、多くの前資本主義的社会・政治諸構造によって取り囲まれた経済から、「経済化」された社会へと自身を変換してきている、このことははっきりしているのだ。消費主義産業主義といった言葉は、全面に浸透しているブルジョア化に対する単なる反啓蒙主義的婉曲語法である。そこには、商品や洗練されたテクノロジーに対する欲求だけでなく、生活と社会運動の領域への商品関係の−−市場関係の−−拡大もが含まれるのである。以前ならば、そうした領域は、明らかに非道徳的で、集積的で、競争的な人間の相互交渉の諸形態に対してある程度の抵抗を−−そこからの避難場所ではないにせよ−−示していたのだった。市場の価値観は、家族的・教育的・私的・精神的な関係にさえも次第に浸透し、ビジネスライクな行動規範とは逆に相互扶助・理想主義・道義的責任を志向していた前資本主義的伝統に大幅に割り込んできたのだ。

現在、一つの感覚がある。それは、いかなる新しい抵抗形態も−−グリーンズであれ、リバータリアンであれ、急進主義者一般であれ−−社会の全レベルにおけるブルジョア化に対抗し、それを破滅させることができる代替的生活領域を開くものでなければならない、というものだ。「社会」・「政治」・「国家」の関係の問題はプログラム上の緊急性を持つものとなっている。1960年代のカウンターカルチャーが促したコミューン・協同組合・隣近所のサービス組織−−完全に消滅しなかった場合には、ブティック型のビジネスへと容易く堕落してしまった諸構造だ−−以上の急進的公領域の余地が有り得るのだろうか?もしかすると、変革・教育・権能付与・究極的には既存生活様式との対決に向かう矛盾した諸力の相互作用の場になり得る公的領域は存在しているのだろうか?

マルクス主義・資本主義・公的領域

公的領域という正にその概念は、階級領域に関する伝統的な急進主義諸概念とは相容れない。特に、マルクス主義は、定義可能な「公」、もしくは、二世紀前の民主主義革命時代には「人民」と呼ばれていたもの、の存在を無視している。なぜなら、この概念は、特定の階級利益−−究極的には、ブルジョア階級をプロレタリア階級とのたゆまない闘争へと持ち込むと仮定されていた利益−−を表向き覆い隠してしまうからだ。マルクス主義理論家によれば、もし「人民」が何か意味しているとすれば、それは、衰弱し、未形成で、得体の知れないプチブル−−過去の時代と過去の革命の遺産−−を意味しているとされているのである。プチブルは、自分が入りたいと熱望していた資本家階級の側に主としてつくが、最終的には、無理矢理仲間入りさせられた労働者階級に味方するだろうと考えられていたのだった。それが階級意識になっている限り、プロレタリア階級が、一旦この曖昧な中産階級を吸収したならば、特に資本主義それ自体の内部にある全般的経済危機や「慢性的」危機の最中には、人間性が持つ一般的利益を究極的に表現するだろうというわけだった。

ストライキの波・労働者暴動・革命集団とファシスト集団との街路での闘争・戦争と血生臭い社会的動乱の期待を伴った1930年代は、このヴィジョンを承認しているように思えた。だが、それ以来、この伝統的急進主義ヴィジョンは、管理された資本主義システム−−経済的にだけでなく、文化的にもイデオロギー的にも管理された−−という今日の現実に置き換えられてしまった。我々はこの事実をもはや無視することなどできないのだ。何百万もの人々の生活水準がどれほど蝕まれていようとも、資本主義は半世紀にわたり「慢性的危機」を免れてきたという空前の事実は残っている。また、ここ当分の間は、大恐慌に匹敵するほどの危機に直面するという兆候もない。新しい社会に向かう一般的利益を生み出すだろうとされていた長期的経済破綻の内的源など持たずに、資本主義は過去50年で、いわゆる「歴史的優勢」(historical ascendancy)の時期だとされていた前世紀と今世紀前半分よりも、危機管理をさらにうまくやってきたのだった。

古典的産業プロレタリア階級も、第一世界(資本主義との社会主義的対決において歴史的標準句locus classicusだとされていた)において数が減り、階級意識が衰え、歴史的に唯一無二の階級としてのそれ自体の政治的意識さえもが衰弱してしまった。マルクス主義理論を書き換えて、サラリーをもらっている人々をプロレタリア階級に含めるという試みは馬鹿げているだけでなく、非常に分化した中産階級の人々がどのように自身を意識し、市場社会と中産階級との関係を意識しているのか、ということとはっきりと対立しているのである。資本主義は、それ自身の矛盾した自己発展の結果として内部から「内在的に」崩壊するだろうという望みを持って生きることは、物事が現在そうあるのと同じように、欺瞞なのだ。

だが、私が別なところで強調したように、資本主義が危機、生態系危機に対する外的諸条件を生み出しているという劇的な兆候がある−−この危機は、急進的社会変革を求めた一般的な人間的関心を生み出して当然なのである。競争と拡張に基づいた「成長か死か」の市場システムを中心に組織されている資本主義は、自然界を破壊せざるを得ないのだ−−土壌を砂に変え、大気を汚染し、この惑星の全体的気候パターンを変え、そして、地球を複雑な生命形態にとって適さないものにしてしまいかねないのである。その結果、資本主義は生態系にとっての癌であると証明され、数え切れないほどの累代もの間作られてきた複雑な生態系を単純化してもおかしくないのである。

もし、それ自体を目的としている無情で終わることのない成長−−積み重なり、有機的世界を食い尽くしている競争が強いている成長−−が、物質的・倫理的・文化的差異にまたがる諸問題を創り出しているのなら、「人民」と「公的領域」という概念は、歴史における生き生きとした現実になるかも知れない。この点で、グリーン運動、少なくともある種の急進的エコロジー運動は、伝統的労働者運動とあらゆるやり方で比較される、唯一無二で、首尾一貫した政治的重要性を獲得できるかもしれない。プロレタリア急進主義の所在地が工場にあったとするのならば、エコロジー運動の所在地は地域−−隣近所・街・自治体−−であろう。新しい代替案、政治的な代替案は、議会にあるのでも、直接行動とカウンターカルチャーの活動に排他的に限定されているのでもない。実際、直接行動は、十全な参加型民主主義−−直接行動の最高形態、社会の運命の決定に関して民衆に十全なる権能を付与すること−−に基づいた地域の自主管理という形態のこの新しい政治運動と調和するであろう。

グリーン運動と公的領域

グリーン運動は一般に、そうした観点を達成し、行動に移すための場になる非常によい立場にある。die Grunen(ドイツ緑の党)のような不適切さ・失敗・退却があったからといって、急進的社会理論家は、この運動を教育し、運動に必要な理論的方向性の感覚を与えようと試みる責任から逃れることはできない。自国の緑の党から急進主義者を疎外するという莫大な妥協をしてきたにも関わらず、西ドイツ・フランスでさえも、グリーンズは絶望的な硬直化へと凍死してはこなかったのだ。重要なことは、生態系危機それ自体が、明確な急進的諸傾向を排除しかねないほどにまで幅広い環境運動を結束しないようにしている、ということなのである。

そうした急進的諸傾向を促し、諸傾向を理論的に強化し、一貫した急進的生態学の見解をはっきりと口に出すことこそ、本物の急進主義者の主たる責任なのだ。徹底的なブルジョア化の時代において、究極的にあらゆる運動を破滅させているのは、日常生活の商品化だけでなく、商品化とその莫大な互選力に抵抗するために必要な意識が運動に欠如していることなのである。

社会・政治・国家

今、この意識に明白な形態と現実性を与えることが非常に必要なのだ。1960年代に、一般的文化に抵抗する対抗文化が勃興したとすれば、今世紀の終わり数年間は、中央集権国家に対抗する民衆の対抗諸制度の必要性を創り出してきている。そうした諸制度が取りうる具体的形態は、その地域が持つ伝統・価値観・関心事・文化に応じて多様なものとなるであろう。だが、新しい諸制度、そしてもっと幅広く言えば、新しい急進主義政治の必要性を押し進めようというのであれば、ある種の基本的理論前提が明らかにされねばならない。もう一度政治を定義する必要性−−実際、それが過去に持っていたよりももっと広い意味を与える必要性−−は、実際的な回避できない義務になっているのである。急進主義者がこの必要性を満たす能力と意思が、当然のことながら、グリーンズのような運動の将来と、根本的社会変革に向かう一般的力としての急進主義が存在するその正なる可能性を決定するであろう。

主要な制度的土俵−−社会的・政治的・国権主義的−−は、過去に、それぞれはっきりと区別できるものだった。社会的土俵は、政治的土俵とはっきり区別でき、そして、政治的土俵は国家とはっきり区別できたのだった。だが、歴史的に雲に覆われた世界である現代、これらの区別は朦朧とし、煙に巻かれてしまっている。今日、社会が次第に経済に吸収されてきているように、政治は国家に吸収されている。生態系崩壊を扱うための新しく本当に急進的な運動を出現させようとするのなら、そして、生態学的に志向した社会が民衆だけでなく自然をも支配しようという試みを終わらせるものとなるのであれば、このプロセスを、阻止し、逆転せねばならないのだ。

あたかも、今日に我々が目にしているのと同じようにいつも存在してきたとして、社会・政治・国家を非歴史的に考えることは容易い。だが、事実はと言えば、これらそれぞれが、複雑な発展、社会理論と社会実践におけるその重要性という明確な感覚を得ようと思うのならば理解されねばならない発展を持っているのだ。一例を挙げれば、今日、我々が政治と呼んでいるものの多くは、実際には、議会人・裁判官・官僚・警察・軍隊などを配置した国家装置を中心に組織されている治国策(statecraft)なのだ。この現象は、国家首脳部から最小規模の地域まで繰り返されることが多いものだ。だが、政治という言葉は、ギリシア語源的に、以前ならば、自分自身の地域社会、つまり諸ポリスを直接管理する権能を持っていると感じている意識的市民で満たされている公的領域のことを差していたのだった。

そして、社会は比較的私的な土俵、家族的義務・友情・個人の自己扶養・生産・再生の領域であった。単なる人間の集団的存在として出現した当初から、現在我々が適切に社会と呼んでいる高度に制度化された諸形態にいたるまで、社会生活は、家族、つまりオイコスを中心に構成されていたのだった。(実際、経済は、昔は、家族の管理程度のことしか意味していなかったのだ。)その中核は女性の家庭的世界だったのであり、それが男性の市民世界を補完していたのである。

初期の人間共同体においては、生存・世話・扶養に関わる大部分の重要な機能は、家庭的土俵において生じており、それに対して市民的土俵は、お粗末ながらも、大部分がサービスの中に存在していたのだった。部族(集団と氏族を含めた非常に広い意味でこの言葉を使えば)は、血族的繋がり・物質的繋がり・年齢と労働に基づいた機能的繋がりによって一つに編み込まれた、真に社会的存在であった。こうした強い求心力は、生の生物学的事実に根差し、顕著に社会的な共同体を一つに保持していたのだった。こうした力が内的連帯性の感覚を非常に強力に与えていたため、部族は「異邦人」や「アウトサイダー」を大きく排斥し、そうした人々を受け入れるのは、多くの場合、厚遇に関する諸法典と、戦争が重要性を増してきたときに新しいメンバーを戦士として補充する必要に依っていたのである。

記録された歴史の大部分は、この家庭的土俵や社会的土俵を犠牲にして男性の市民的土俵の成長を評価している。男性は、部族間の戦争と狩猟テリトリーをめぐる衝突の結果として、初期の地域社会に及ぼすその権威の増大を獲得した。多分もっと重要なことだったのだろうが、農耕民族は、狩猟民族が自身を扶養し、その生活様式を維持するために必要な土地の多くを着服したのであった。

政治と国家が出現したのは、この未分化な市民的土俵(もう一度言うが、市民という言葉を非常に幅広い意味で使えばの話だ)からだった。だからといって、政治と治国策が初めから同じだったなどとは言ってはいない。初期の市民的土俵が共通の起源を持っているにも関わらず、政治と治国策はお互いにはっきりと対立していたのだ。歴史の衣装はいつも不格好で、皺だらけだ。もし複雑でも不規則的でもなければ、小規模で家庭的な社会集団から、その権威が莫大なテリトリーの帝国を囲い込んでいる高度に分化したヒエラルキー的で階級的なシステムへの社会進化など無なのである。

家庭的、家族的土俵それ自体−−つまり、社会的土俵−−は、こうした国家の構造を形成する手助けをした。エジプトやペルシアのような初期の独裁的王国は、明らかな市民的実体ではなく、私的「世帯」、つまり、君主の家庭的領域だと見なされていた。「神聖なる」王とその家族が持つこうした莫大で宮殿のような所有地は、その後、より劣った家族たちによって荘園的・封建的所有地へと山分けされた。現代の貴族政治が持つ社会的価値観は、人の立場と権力が、市民権や金持ちではなく、血族関係と血統一族によって決まっていた時代の香りが漂っているのである。

公的領域の勃興

社会的・家庭的土俵の罠を国家からゆっくりと除去し、政治的土俵に向かう新しい領域を創造したのは、V=ゴードン=チャイルドの表現を使えば、青銅器時代の「都会革命」(urban revolution)だった。諸都市の勃興−−その大部分が、神殿・軍事要塞・行政の中心・地方間のマーケットの周囲に現れた−−が、新しくもっと世俗的でもっと普遍的な形態の政治的場に向かう基盤を創造したのである。時間と発展を鑑みれば、この空間が空前の公的領域をゆっくりと進化させたのである。

こうした公的空間の完全なモデルである諸都市は、歴史にも社会理論にも存在していない。だが、都市の中には、顕著に社会的(家庭的という意味で)でも国権主義的でもなく、完全に新しい社会的制度(societal dispensation)を勃興させたものがあった。そうした諸都市の中でも最も注目すべきものは、古代ギリシャ(Hellas)の港町と、中世イタリアや中央ヨーロッパの工芸都市や商業都市だった。スペイン・イングランド・フランスのような新しく形成された国民国家の近代諸都市でさえも、その都市自身のアイデンティティと、比較的民衆的な市民参加形態を発達させていた。偏狭な、族長的でさえある特質を持っているからといって、その普遍的な人道主義的特質が軽く見られることを許してはならない。近代性に関する古代オリンピア的(Olympian)立場からすれば、数千年間に及ぶほぼ全ての「文明」と諸都市が共有していた欠点を強調することは、それが非歴史的であるのと同じぐらい取るに足らないことであろう。

こうした諸都市が公的領域を創造したことこそ、生き生きした重要性を持つこととして目立たねばならないのだ。その点で、ギリシャ民主主義のアゴラ・ローマ共和国のフォーラム・中世コミューンの町民センター(town center)・ルネッサンス都市のプラザにおいて、市民は集うことができたのだった。この公的領域において程度の差こそあれ、急進的に新しい領域−−政治的領域−−が出現し、それは、限定されてはいるものの多くの場合参加型の民主主義形態と、都市の人間つまり市民という新しい概念に基づいていたのだった。

その語源という点で定義すれば、政治とは、そのメンバー、市民による地域社会もしくはポリスの管理を意味している。政治は、住民との血縁による繋がりを持っていない異邦人つまり「アウトサイダー」に対する市民権の認知をも意味していた。つまり、政治は、家系的に関連した「民族」とは区別するものとしての普遍的人間性(humanitas)という考えを意味していたのだった。こうした根本的発展と共に、政治は社会的事柄が次第に世俗化し、新しく個人を尊重するようになり、慣習の持つ思慮のない至上命令よりも理性的行動規範を次第に尊重するようになったことによって特徴づけられていた。

私は特権・権利の不平等・超自然的気紛れ・慣習・「異邦人」の不信でさえもが、都市と政治の勃興と共に完全に消滅した、などと示そうとしているのではない。例えば、フランス革命における最も急進的・民主的な期間に、パリでは「外国の陰謀」の恐怖と「アウトサイダー」に対する外国人恐怖症的不信感が蔓延していた。女性も男性が享受していた自由を十全に分かち合ってもいなかった。だが、私が言いたいことは、都市は非常に新しいことを創造し、それは社会の襞や国家の襞の中に埋没されることなどできない、ということである。つまり、公的領域と政治的領分である。この領域と領分は時代に応じて、狭められたり拡大されたりしたが、歴史から完全に消え去ることなどなかったのだ。それらは国家とは全く対立していたのだ。国家は、権力を様々な度合いで専門化し中央集権化しようとし、プトレマイオス王朝のエジプトで出現した国家権力・17世紀ヨーロッパの絶対君主制・今世紀のロシアと中国で確立された全体主義的統治システムのように国家自体が目的となっていることも多いのである。

自治体(Municipalities)と連邦(Confederations)の重要性

政治が持つ永続的な物理的土俵は、ほとんどいつも、都市や町−−もっと総称的には、自治体−−であった。確かに、政治的に実行可能な都市の規模は、取るに足らないことではない。ギリシア人、特にアリストテレスにとって、都市つまりポリスは、顔をつきあわせてその事柄を扱うことができないほど大きかったり、市民の間にある、ある程度の親しさを考慮しない(訳注:原文では eliminate が使われているが、それでは意味が通らないので、eliminates の意味で訳しておいた)ほど大きかったりしてはならなかった。こうした基準は、固定したものでも神聖不可侵なものなどでは決してなく、出現しつつある国家に直接対抗する方向に沿って都会の発展を促すことを意味していたのだった。中規模ではあるが、決して小規模ではないことを考えれば、ポリスは、注意深く監視された最小限の代表制を使い、円熟し、公的に雇われた男性がその事柄を実行できるように、制度を整えることができたのである。

政治的個人になるためには、ある種の物質的前提条件が必要だとされていた。少量の自由時間は、政治的事柄に参画するために必要だった。全ての能動的ギリシア市民は奴隷所有者だったということは決して真ではないが、余暇は奴隷労働によって供給されていたのであろう。余暇時間よりももっと重要なことは、私的訓練、つまり人格形成−−パイディア(paidaeia)というギリシアの概念−−の必要性だった。この概念は、理性的に考えられた制限を教え込み、そのために、民衆集会を実行可能にし続けるために必要な礼儀正しさを市民が維持していたのだった。公的サービスの理想は、狭量でエゴイスティックな衝動に優っていなければならならず、一般的利益という理想を発展させねばならなかったのである。このことは、誠実な友人関係−−フィリア(philia)というギリシア概念−−から都市のフェスティバルと兵役における共有経験までの、複雑な諸関係ネットワークを確立することで達成されたのだった。

だが、この意味での政治は、絶対的に古代ギリシアだけの現象ではなかった。同様の諸問題と必要性が、地中海海域だけでなく、中央ヨーロッパ・イングランド・北米の自由都市において様々なやり方で生じ、解決されたのだった。こうした諸都市のほぼ全てが、長期にわたり様々な度合いで民主的だった公的領域と政治を創造した。中央集権国家に対して深く敵対しながら、自由都市とその連合は、歴史の重要な分岐点のいくつかを形成したのである。そこでは、人間性が、自治体連邦か国民国家のいずれかに基づいた社会を構築する可能性に直面したのだった。

国家も、歴史的発展を持ち、単純主義的な非歴史的イメージに還元することなどできない。古代国家の後には、歴史的に、疑似国家(quasi-states)・君主制国家・封建制国家・共和制国家が続いた。今世紀の全体主義国家は過去の最も粗野な暴政をも無力にしている。だが、国民国家の勃興にとって本質的なことは、都会・町・村落構造の活力を弱め、その機能を官僚制度・警察・軍事力に置き換える中央集権国家の能力だったのだ。むき出しの対決で爆発することも多い自治体と国家との微妙な相互作用は、歴史を通じて生じており、今日の社会的眺望を形成してきたのだった。しかし、その莫大な権力を行使する国家の能力は、自治体による妨害に国家が直面することで制限されたものだった、という事実に対しては、不幸にして、これまで充分な注目が集まることはなかったのである。

国粋主義が、国権主義同様、あまりにも深く近代的思考に刻印されてきたため、社会組織に関する一選択肢としての自治体政治というまさにその考えは実質的に帳消しにされてきたのだった。例えば、既に強調したように、最近、政治は完全に治国策、権力の専門化、と同一視されている。政治的領域と国家が互いに激烈な闘争に−−実際、血生臭い市民戦争で爆発した闘争に−−あることが多かったということは、ほとんど完全に見落とされてきたのだ。1640年代の英国革命から今世紀のものまで、過去の偉大なる革命運動は、いつも、地域の強力な高揚を特徴とし、その成功を地域の強力な結びつきに依存していたのだった。自治体の自律の恐怖が国民国家にいまだにつきまとっていることは、自治体の自律に反対して持ち出される終わりのない主張に見ることができる。自由地域や参加型民主主義と同じぐらい「死んだ」現象は、恐らく、我々が出会い続けているものよりも遙かに少ない反論を引き起こすに違いない。

多国籍企業の勃興は、近代のアジェンダから国粋主義の問題を取り除きはしないのと同様、巨大なメガロポリスの勃興は、地域と都市の政治の歴史的探求を終わらせはしない。ニューヨーク・ロンドン・フランクフルト・ミラン・マドリーのような都市は、その大きな構造的規模と内部の相互依存関係にも関わらず、隣近所ネットワークによってであれ地区ネットワークによってであれ、制度的に政治的な権力分散を行うことができる。事実、もし都市が構造的に権力分散されないのならどれほどうまく都市は機能するのか、という疑問は、大気汚染・不適切な上水道・犯罪・生活の質・移動手段といった諸問題が示しているように、最高位の重要性を持った生態学的問題なのだ。

歴史は、ほぼ100万人の人口を持ち、原始的なコミュニケーション手段しか持っていないヨーロッパの主要都市が、うまく調整された権力分散型諸制度の凄まじい政治的活力を使って機能していたことを、非常に劇的に示している。1500年代初頭にコミュネーロ(Comunero)叛乱において爆発したカスチリア諸都市から1790年代初頭のパリの諸地区や諸集会、そして1960年代のマドリー市民運動(ほんのいくつかだけを挙げておくが)まで、大都市における自治体運動は、権力はどこに集中されるべきか、そして、社会生活はどのように制度的に管理されるべきかという重要な問題を提起しているのである。

自治体が部族と同じぐらい偏狭的になりうるということは、全く明らかだ−−そして、このことは過去に真だったように現在も真である。したがって、連邦的ではない−−つまり、同じ地方にいる町と都市に対する相互責任のネットワークに入っていない−−いかなる自治体運動も、ある隣近所が、同じ都市内にある別な隣近所と共に活動しないのと同じぐらい、伝統的な意味での真の政治的実体として見なすことはできないのである。責任の共有・自分の地域に対して連邦代表者が持つ十全なる説明責任・厳格に委任された代表者に基づいた連邦は、新しい政治に不可欠な部分を形成する。既存の町と都市は国民国家を地域レベルで再現するものだと要求するなど、社会変革それ自体に対するいかなるコミットメントをも放棄することなのだ。

実践的に莫大な重要性を持っていることは、前国権主義的な諸制度・諸伝統・諸心情が度合いは様々だが世界の大部分を通じて生き続けている、ということである。村落・隣近所・町の地域ネットワークが抑圧的国家の侵入に対する抵抗を促しており、それは南アフリカ・中東・ラテンアメリカにおける闘争で証言されている。ソヴィエト=ロシアを現在揺るがしている振動はより大きな自由の要求だけでなく、中央集権国民国家としてのその正なる存在に挑戦している地域自治・地方自治を求めた運動のためなのである。

この運動の共同体的基盤を無視することは、全ての国民国家に潜在する不安定さを無視することと同じぐらい近視眼的であろう。もっと悪い場合には、国民国家を当然のこととして受け取り、単にそれ自体の条件で国民国家を扱おうとするであろう。実際、国家が「より多く」国家であり続けるのか「より少なく」国家であり続けるのか−−バクーニンとマルクスのような本質的に異なる急進主義理論家にとってくだらないことではない−−は、国家に対抗し、望らくは国家に置き換わる二重権力(dual power)を構築する地方・連邦・地域の運動の力に大きく依存しているのである。ほぼ三十年前にフランコ政権を弱体化させる上でマドリー市民運動が主要な役割を果たしたことについて、この運動を正当に扱う優れた研究が必要であろう。

「賃労働と資本」との大きな経済優先主義的闘争というマルクス主義のヴィジョンにも関わらず、過去の革命的労働者階級運動は単なる産業上の運動ではなかった。例えば、爆発的なパリの労働運動は、特徴的に大きく職人的であり、街の地区を中心にし、芳醇な隣近所生活によって育成された地域運動でもあったのだ。17世紀ロンドンの平等主義者(Levellers)から、今世紀バルセロナのアナルコサンジカリストまで、急進的活動は、強力な地域の結びつき、街路・広場・カフェが提供していた公的領域によって維持されていたのだった。

新しい政治の必要性

この自治体生活を急進的実践の中で無視することなどできず、近代国家が浸食した自治体生活を再創造しさえしなければならないのだ。町・近隣世帯・都市・地方に根差した新しい政治は、様々な緑の党や同様の社会運動に浸透してきている無気力な国会主義−−つまり、より多くのブルジョア政党がいつもそれらを出し抜き、連合政権へと吸収すると期待できる純然たる堕落した治国策へのそれらの方向転換−−に対する唯一の実行可能な代替案を形成する。厳密なる単一問題闘争運動の持続期間はその運動が反対している問題に制限されている。そうした問題を中心とした戦闘的行動を、意識性を変化させ最終的には社会それ自体を変化させるために必要な長期にわたる急進主義と混乱してはならない。こうした運動は、成功したときであっても、ぱっと燃え上がって消えてしまうのだ。社会変革を求めた持続的な運動と、政治的闘争における永続的存在になり得る土俵を創り出すために非常に必要な制度的土台を欠いているのである。

したがって、真のリバータリアン諸制度へと進化しうる永続的で民主的な諸制度に定着し、連邦的に統一した本物の政治的草の根運動が莫大に必要なのだ。

我々が専門職や仕事を実践する上で必要な訓練・教養・スキル・精神的技量を持って生まれてくるなら、人生は、奇跡的ではないにせよ、確かに驚嘆すべきものとなろう。嗚呼、我々はそうした能力を獲得するために苦労をしなければならない。闘争を、対決を、教育を、発達を必要とする苦労をだ。急進的自治体連合論アプローチも、制度的変革を求める容易い手段としてのみ意味を持つことなど全く有り得ないのだ。それが育成されねばならないのであれば、戦い取らねばならないのだ。丁度、自由社会を求めた闘争それ自体が、自由社会の存在と同じぐらい解放的で自己変革的なものでなければならないように。

自治体は潜在的時限爆弾である。地方のネットワークを構築し、国家を再現している自治体諸制度を変革しようとすることは、数世紀にわたり存在してきた歴史的挑戦−−真に政治的な挑戦−−を拾い上げることなのだ。新しい社会運動が今日失敗しているのは、それらを公的土俵へと持ち込む政治的観点が欠落し、その結果容易く国会主義へとするりと入り込んでしまっているためなのだ。歴史的に、リバータリアン理論は、いつも、新しい社会の細胞組織を提供したはずの自由自治体に焦点を当ててきた。この自由自治体の潜在可能性を、それが未だに自由ではないという理由で無視することは、偉大なるリバータリアン的要求−−コミューン群からなるコミューン−−に対して生きた意味を与えることができる現在休眠中の政治領域を迂回することなのである。なぜなら、こうした自治体諸制度と、その構造において我々が成し得る変革−−そうした諸制度を新しい公的領域へとますます変化させること−−にこそ、中央集権的国民国家と中央集権的な経済団体が持つ権力の増大に対立できる草の根二重権力・市民権という草の根概念・自治体化された経済システムの永続的な制度基盤があるからなのだ。