アナキズム:過去と現在


COMMENT誌掲載の以下の論争は、元々、1980年5月29日にカリフォルニア大学、ロスアンジェルス校における批判理論セミナーでの講演であった。私の批判は、現代という変化しつつある社会文脈でアナキズムを見つめることの究極的重要性を強調しようと意図したものであり、欧州思想家のあれこれに属している硬直した教義としてのアナキズムではない。もっとも、それらの観点は、様々な時代や場所によっては価値があるものとされていたのだろうが。米国におけるアナキズムの実行可能性は、これまで以上に今日、直接的に語る能力−−米国人の言語で、米国人の抱える生き生きした諸問題に付いて−−に依存しているのであって、思想・表現・スローガン・過去の時代に属している退屈な言葉を復活させることにではない。だからといって、アナキズムのインターナショナリスト精神を否定しているわけでも、その歴史的連続性を否定しているわけでもない。むしろ、リバータリアンの伝統・諸概念を連帯させる必要性を強調しているのである。それらの伝統・諸概念は、リバータリアン運動が機能する−−場所・時間・組織という点で認められる−−領域において、支配される側の人々と明らかに関連しているのである。

本論文は、1980年のComment誌、第一巻第六号に発表された。原文は、Anarchism: Past and Presentで読むことが出来る。(訳者)


現在、アナキズムが、大部分の急進的「主義」が今日扱われているようなやり方で簡単に扱われてしまうかもしれない、という重大な危険がある。丁度、社会主義をマルクス・エンゲルス・その弟子どもの著作に還元してしまうことの多い、融通のきかない理論と実践のようになってしまうかもしれないのだ。だからといって、私は「社会主義」のような言葉の総称的意味合いを否定しようとは思っているわけではない。社会主義にはユートピアンからレーニン主義まで、倫理的社会主義から科学的社会主義まで数多くのタイプがある。私は単に同じことをアナキズムに対しても主張したいだけである。アナキズムにも多くの形態があるということは、いつも思い起こされねばならない。アナルコサンジカリズム・無政府個人主義・無政府集産主義・無政府共産主義・そして、私がスペインのアナキズム運動史を正しく読み取っているのなら、驚くべきことにアナルコボルシェビズムまである。こうしたアナキズム諸理論と諸運動は、社会主義者の間で現れている、血生臭くも致命的でもない、全くの同一派閥内の闘争によって重荷を負わされてきたのだ。

だが、広範囲にわたるアナキズムについて私が本当に懸念していることは、その言葉が持つ総称的特徴をはるかに越えている。アナキズムは、強調してもし足りないぐらい、幅広く多様な理論と運動を包含しているだけでなく、もっと重要なことには非常に芳醇な歴史的起源と発展を持っているのだ。私が述べねばならないことを理解するためには、このことが重要である。私たちが慣れ親しんでいる急進主義運動以上に、アナキズムは重大な社会運動なのであり、左翼と関連付けられている通常の政治運動とは区別されるのである。その活力・その理論形態・実際その正に存在理由は、一千年にもわたる民衆の大望を表現するアナキズムの能力から生じているのである。民衆自身の平等主義的社会構造、少なくとも自主管理型社会構造を、民衆が自分の生活に対する制御力を行使できる民衆自身の人間的コンソシエーション形態を、創造するという大望を表現するのである。この意味で、アナキズムは、言葉の最も芳醇な意味で民族や民衆の社会哲学・社会実践を実際に構成しているのである。丁度、フォークソング(民謡)が、美的・精神的に深く、民族の感情表現となっているのと同じである。anarche、つまり「無支配」という言葉の起源はギリシャにあるが、それがたやすく社会思想の学問的スペクトルに位置付けられるなどという考えに騙されてはならない。歴史的に、アナキズムは、非権威主義的一族・部族・部族連合に、アテネ型ポリスの民主的諸制度に、中世初期のコミューンに、清教徒革命の過激なピューリタン集会に、1760年以降ボストンからチャールストンまで広がった民主的タウンミーティングに、1871年のパリ=コミューンに、1905年と1917年のソヴィエトに、1936年のスペイン革命におけるアナキスト=プエブロ・バリオ・労働者管理型工場に出現してきたのだ。つまり、人間性が持つ自己指導(self-directed)型(古典的・現代的)社会形態の中に出現して来たのであり、それは直接民主主義・自主管理・能動的市民性・個人の参画に基づいた顔を付き合わせた諸関係に民衆を制度的に巻き込んでいたのだ(原注1)。直接行動というアナキズム信条が本当にアクチュアルになるのは、このスリリングな民衆領域の中でなのである。実際、直接行動は原子力発電所の占拠だけなのではない。それほどドラマティックでもなく、多くの場合平凡で、退屈な形態の自主管理には、忍耐力・民主主義手続きへのコミットメント・長期にわたる対話・同じコミュニティにいる他者の意見の寛大な尊重が含まれているのだ。

(原注1:現時点では、上記した社会諸形態の制度構造を私は議論しているのだ、ということを強調しておけば充分であろう。そうした社会諸形態は、奴隷や財産を持たぬ人々は言うに及ばず、女性・異邦人・多くの場合には様々な宗教的民族的背景を持った非国教徒が数多く排除されていたのだが、だからといって、それらが、その制度構造をさらに進歩したレベルにまで改造するという人間の能力を低めているわけではない。むしろ、その歴史的制限にも関わらず、こうした諸構造は可能であり、なおかつ、機能する、それも非常にうまくいく場合が多い、ということを示しているのである。

自由社会は、過去に存在していた「モデル」からではなく、高い理性と道徳の規範からその内容を導き出さねばならないだろう。過去が復元し、妥当だと示していることは、自由に近づく人間の能力であって、人間の可能性が十全なものとなった自由のアクチュアル化ではないのである。)

この制度的枠組みと感性とが本物のアナキズム環境、アナキズムの原形質そのものなのだ。この原形質の活動から生じる諸理論が、原形質に一貫性と意識性を与える自省的理性諸形態なのである。私の考えでは、「炭坑夫」ウィンスタンレー・アンラージュのヴァルレ・職人プルードン・労働者Pelloutier・ロシア知識人バクーニンとクロポトキンは、自由に向かう人間性の有機的進化の異なる段階、多くの場合明確に輪郭を描くことのできる段階について、様々な意識レベルで声にしているのである。こうした人物やその人たちが発展させた思想を、その思想が出現することとなった民衆社会の現実的発展や、その思想にイデオロギー的一貫性を与えた民衆社会の現実的発展と関連付けることは、多くの場合可能である。つまり、ウィンスタンレーの思想を17世紀イングランド自作農の地域社会が持つ農民アナキズムと関連付け、ヴァルレを革命的区域が持つ隣近所アナキズムや1793年パリのアンラージュ運動と関連付け、プルードンを産業革命前のフランスにおける職人が持つ職人的アナキズムと関連付け、バクーニンの無政府集産主義をロシアとスペインにおける農村と関連付け、Pelloutierのアナルコサンジカリズムを産業プロレタリア階級と工場システムの出現に関連付け、さらには、多分最も予言的なのだろうが、クロポトキンの無政府共産主義を現代に関連付けることが正当にできるのだ。特に、クロポトキンの無政府共産主義は、現代社会生活の前面に現れている生態系・権力分散・科学技術・都市の諸問題にすぐさま役立つ理論体系だったのだ。

こうしたアナキスト思想家の見解が持つポジティヴな内容とそのルーツを、その反国権主義・反政治的観点のために見失ってはならない。「社会化」が最も進歩した歴史形態に到達するためには、ブルジョア社会−−人間に残っている生物社会的装飾をはぎ取った社会−−が必要だ、というマルクス主義概念は、社会を完全に変質することはできないという直感的基盤を持ってさえいれば、こうしたアナキストによって強く拒絶されたことだろう。他の場所で論じた(Telos、36号に掲載されている「新マルクス主義を越えて」を参照)ことだが、社会は、個々人の間の内的関係においてさえも、その自然の母体(natural matrix)から自由になることなどない。現代の生態系諸問題から何かを学ぼうというのであれば、実際の問題は、社会の根源である自然が持つ性質−−有機的(多くの前資本主義地域社会で事実だったような)か、無機的(市場社会で真であるような)か−−なのである。氏族・部族・ポリス・中世コミューン・パリの区画でさえも、コミューン−−過去においては確かに村落や権力分散型市街だった−−は生物・社会的諸関係にその根を持っているのだ。市場社会は原子化・競争・個人とその労働力の完全なる対象化である。この生命のない構造を一つにまとめている官僚制度的原動力、社会環境となっているコンクリート・鋼鉄・ガラスの都市や住宅地、社会活動の全側面に蔓延している数量化は言うまでもない。これら全ては、生物学的で有機的な意味での生を否定しているだけでなく、物理的で無機的な分子要素に生を還元しているのだ。社会による自然支配を確立したのはブルジョア社会ではない。ブルジョア社会は、むしろ、その社会を、無機的自然の、その内的存在・社会的存在であるブルジョアの横領対象にすることで、社会を文字通り脱社会化しているのだ。官僚制度は人間性の社会的諸制度を、コンクリートの都市は自然の有機的諸関係を、サイバネティックスとマスメディアは個人のパーソナリティを植民地化しているのだ。結局のところ市場「社会」が私的・社会的生活の全側面を植民地化しているのである。

私が記述していた意味での、そして、記述するときの条件つきでの有機的諸社会と、アナキスト諸理論・諸運動とを統合していたへその緒は、強調しすぎてもし過ぎることはない。また、マルクス主義が逆に、どれほどまで、人間構造の中で最も無機的なものである国家と−−そして、他のヒエラルキー階層においては、抑圧された階級の中で最も無機的なものであるプロレタリア階級と、さらには、工場・政党・官僚制度という制度化された中央集権諸形態と−−結びついているのかを示すことを止めることもできはしない。マルクスが、資本による脱人間化との関連、そして、中央集権・優越的支配・合理化に基づいたテクノロジー的枠組み(これが多分、革命的力へとプロレタリア階級を変えるのであろうが)との関連性を誉め称えているプロレタリア階級の正にその「普遍性」こそが、マルクス自身の理論的集成が、どれほどまでに、最小限の自己反省しかしないブルジョアイデオロギーにその根を持っているのかを明らかにしているのである。社会それ自体の「空洞化」を、そして、産業と政治において資本と労働組合が行っている官僚主義的操作に対して増加している弱々しさを賞賛しているのは、現在我々が見ることのできるこの「普遍性」なのだ。核家族・職場の管理者・ヒエラルキー的仕事場構造・労働の分断によって「教育される」ことで、プロレタリア階級の「普遍性」は、プロレタリア階級の無特徴になっているのだ−−社会主義に向かう進歩という一般的関心ではなく、ブルジョアエゴイズムの表現としての関心それ自体への特殊的関心の表現なのだ。仕事場は、プロレタリア階級を団結させない。定義するだけだ−−そして、プロレタリア階級の人間的希望も、一つを除いて明確に表現されることなどなくなるのだ。唯一の希望はといえば、仕事場から逃げ出そうという希望、ベルリンのダダイストが1918年に要求した「普遍的失業」を求めることだけなのだ。

II

社会運動としてのアナキズムと政治運動としてのマルクス主義とのこうした広大なる区別には更なる校訂を必要としている。私は、マルクスの著作、特に、彼の疎外・商品関係の分析・資本の蓄積に関する著作が持つ莫大な素晴らしさについて苦言を呈する気はない。彼の歴史理論は、マックス=ヴェーバーとカール=ポラニーの優れた研究で修正する必要がある。だが、アップデートすべきなのは、マルクスの著作ではないのだ。その限界を定義しているものは、本質的に、そのブルジョア的起源と、政治つまり国家志向的イデオロギーに対する信じがたいほどの感受性なのである。歴史的に見て、スペインとウクライナにおけるアナキズム・メキシコにおけるサパティスタが、その社会起源、つまり村落、の壊滅だけで崩壊したということは偶然ではない。敗北の経験に今も苦しんでいるマルクス主義運動は、単に党を破壊するだけで潰れてしまうのだ。アナキズムが持つ一見すれば「先祖がえり」的な特徴−−職人性・地域社会の相互扶助・自然との親密さ・啓蒙化された倫理的規範を保持しようという試み−−は、充分に理路整然と述べられ、協同的で、自己表現的な、人間的規模のコンソシエーションを保持しようとしている限り、アナキズムの美徳なのである。マルクス主義の持つ一見して「効果的」な特徴−−国家を政党で置き換えようという試み・政治的装置の強調・科学的推進力・予言的倫理ヴィジョンの否定−−は、ブルジョア国家を、破壊するのではなく、抗議行動・革命の正にその実体に組み込もうとしている限り、その悪徳なのだ。

マルクス主義が、マルクス主義自体から最も激しく疎外されている、ということは偶然ではない。マルクスの理論を「アップデート」し、学術学会と改良主義運動以上の今日的意味を与えようという試みは、そのイデオロギー的死体に、混乱した折衷主義的次元を与えるだけだった。1905年にロシアで起きたゼネストに対する反応として、ローザ=ルクセンブルグは、「大衆ストライキ」−−典型的なアナキスト「戦術」−−を第二インターナショナルに都合の良いものにせざるを得なかった。これは、この問題に関するアナキストの見解だけでなく、エンゲルスの見解をも莫大に歪めずにはなしえなかったのだ(原注2)。レーニンは、1917年の国家と革命で同じアクロバットを行った。様々な事件がパリ=コミューンをパラダイムとして支持していたときに、再びアナキストを非難し、マルクスが人生の後年でこの蜂起について評判の悪い判断を示していたことを覆い隠したのである。同様のアクロバットは、フランス全土がほぼ革命的状況に一掃された、1968年の5月〜6月暴動でもマンデールやゴルツなどによって行われたのだった。

(原注2:さらに嫌らしい歪曲は、社会民主党の普通の党員が、1905の出来事に、イデオロギー的にも情緒的にも、深く感動しているために生じている。『アナキストとサンジカリストは、正統派社会民主党によって地下に追いやられていたが、当時、SPDの周辺でキノコのように地表に現れたのだった。』とPeter Nettlは、ローザ=ルクセンブルグの伝記でどちらかと言えば軽蔑的に書いている。『「自分達の」ゼネストによく似たことが生じると、アナキストは自分達が再び正当なものに近づいたと感じていた。』実際、それにはもっともな理由があったのだ。『ここ数年ではじめて、アナキスト演説者が招待され、社会党の地方演壇に現れた。Vormartsが指導する正統派政党機関紙はもっと慎重だった。だが、これもまたロシアでの出来事に高位を(教義ではなかったかもしれないが:ブクチンの注)譲り、最初の数ヶ月間、ロシアの混乱とドイツの秩序との違いに対して率直で用心深い指を振る(非難する)ことを差し控えていたのだった。』(Peter Nettl著、ローザ=ルクセンブルグ、Oxford University Press, 1969, 短縮版, pp. 203-4))

ここで重要なことは、理論が、どの程度まで、本質的にその分析とは相容れない出来事をフォローしているのか、ということだ。1960年代後期のエコロジー運動・1970年代初頭のフェミニズム・さらに後年になれば、近年の隣近所運動の出現をマルクス主義理論家が歓迎すべき現象だと見なしたのは、こうした出来事が持つ純粋な力によって、出来事の出現が認知され、その後に経済主義的マルクス主義の基準に見あうように歪められ、究極的にはその力を吸収しようという試みがなされた後だったのだ。この点について、我々の時代の諸問題に対する関連性と正当性を主張することを許されているのは、これらの諸問題が文字通り土着のものとなっているアナキズムではなく、その大部分が世界の半分で国家資本主義イデオロギーとなり果ててしまったマルクス主義なのである。この混乱した発展が、革命的意識の進化を、その正に根源的に妨げ、真に内省的な革命運動の進化を重大にさえぎっているのだ。

その証拠に、アナキズムはそれ自体でマルクス主義の悪い習慣を獲得してきた。特に、自身の過去に対する非歴史的で非常に防衛的なコミットメントを獲得しているのである。60年代対抗文化がもっと制度化された形態へと移行し、新左翼が没落すると、コミットしたアナキストの多くの中で、多くのマルクス主義セクトが現在悩まされているイデオロギー的安定性と思想的系譜を求めた熱望が生まれたのだった。余り不名誉ではない過去に回帰するという憧れは、フランコ死後のスペインCNTの復活とあいまって、創造性の欠如という点でセクト主義的プロレタリア社会主義に、特にアナルコサンジカリズムに、寒気がするほどよく似たアナキズムを促したのだった。いずれの場合も、1848年〜1938年までの100年間を特徴づけていたプロレタリア階級と状況の歴史的組み合わせが、今は欠けているのだ。工場、つまり賃金労働者と資本との闘争に対するアナキストのコミットメントは、セクト主義的マルクス主義の俗悪さ全てを共有しているのだ。アナルコサンジカリストが、権威主義のマルクス主義と完全に同じものにならずにいられるのは、プロレタリア社会主義のリバータリアン変種が獲得している形態なのだ。倫理的社会主義・直接行動・下からの管理・非政治的立場を強調することが、アナルコサンジカリストの沈没を防いでいるわけだ。だが、工場の権威主義的性質・サンジカリスト理論が促しているピラミッド構造・アナルコサンジカリストがプロレタリア階級のユニークな役割と資本との闘争が持つ社会性質においている信頼が、その活動を腐敗させる傾向を持っているのである−−革命的力としての労働者運動の歴史的没落は全く脇においておくとしても。

幅広く見れば、アナルコサンジカリズム・プルードン主義・バクーニン主義は、後戻りできない過去に属している。私がこう述べるのは、こうした主義のイデオロギー的一貫性と意味が失われたからではなく−−実際、プルードンの連合主義の強調は、現在もその元来の妥当性を持っている−−、単に、歴史の中に消え失せた時代について言及しているからである。こうした主義は多くのことを私達に教えてくれる。だが、左翼全体が今扱わねばならない歴史的に新しい諸問題−−私の観点では、リバータリアンの含意においてもっと根本的なものだ−−が長い間、それらを超越してきたのだ。だからといって、我々が現在直面している諸問題は過去の時代においてそうであったものよりも遥かに社会的なのだという理由で、その総称的・歴史的意味でアナキズムという言葉を見て、アナキズムそれ自体が「死んだ」とかそれを「超越せよ」、などと述べているのではない。そうした諸問題は、国家とは全く異なる形態・制度・関係・感性・文化を持つ新たな公的領域の再創造を文字通り含んでいるのであり、この領域は全生命レベルにおいて脱社会化に直面している世界に特有のものなのである。マルクス主義にとって、こうした諸問題は致命的であり、実際、こうした諸問題が、マルクス主義それ自体を社会的に破滅的な意味でのイデオロギーにしているのである。

III

我々は、もはや、革命的意識が、賃金労働対資本の問題を中心に、主として顕著にすら、発展しうるといった世界に住んではいない。私は、今世紀に渡る闘争の重要性を否定しようとは思っていない。プロレタリア階級とブルジョア階級(どれほど幅広く「プロレタリア階級」という言葉を定義しようとしたところで)との間に階級闘争があることは、議論の余地などない。丁度、我々が資本主義社会に生きており、資本家階級(再び言うが、どれほど幅広く「資本主義者」という言葉を定義しようとしたところで)に支配されているという事実と同じである。本当に問題となっていることは、階級闘争が、革命的意味での階級戦争を意味してはいないということである。私は、前世紀が何かを教えてくれるとするなら、プロレタリア階級とブルジョア階級との闘争が、古代世界の平民と貴族の闘争や、封建社会での農奴と貴族との闘争と同じぐらい革命的ではなかったことはすでに明らかだ、と主張しているのだ。どちらの闘争も、袋小路で簡単に終わりはしなかった。だが、それらが生じた社会内部で社会的・経済的・文化的形態を超越する確固たる可能性を含んではいなかったのである。実際、歴史を階級闘争の歴史として見る観点は、非常に難解なものだ。葛藤する経済的利権によって、階級意識とアイデンティティによって、経済的還元主義もしくは酷い言いまわしだが「階級分析」なるもので社会主義とサンジカリズムのイデオロギー主義者に余りにも簡単に根をはった経済的動機に動かされた方法によって、論じ尽くすことなどできないのだ。

今世紀の残余の範囲内に存在していることは、プロレタリア社会主義という隠喩−−社会主義的であれアナキズム的であれ−−の中で我々がよく知っている階級闘争ではない。ブルジョア社会が人間性と自然との不均衡を創り出しているこの途方もない危機、たった一世紀で地質上の全時代にめりこんでしまった危機だ;様々な形態全てのフェミニズムを勃興せしめた人間的自由という拡大概念;ブルジョアの時代が進歩の原動力だとして突き進んでいる最大級の要求だと思われる個性・主観性・民主的意識の要求を脅かす人間的地域社会と市民性の空洞化;永久に拡大しつづける都市・企業・政治の巨大主義に直面している恐るべき無力感;制度的共和国主義が衰弱した時代における政治有権者の一貫した解散−−こうした徹底的逆行の全てが、社会事象の経済優先主義的解釈、つまり伝統的な「階級分析」と、選挙政治と政党構造という非常に慣例的な政治戦略を全く不適切なものにしているのだ。こうした諸問題をマルクス主義的カテゴリーに当てはめようとするのなら、諸問題を全く曲解し、完全に歪められた形へと大幅にねじ曲げてしまわねばならない。多分、同様に重要なことだが、経済それ自体を国家資本主義やその様々な近似物へと大幅に政治化し、高度に精巧な官僚制度を出現させたことが、いわゆる「支配階級の執行委員会」としての初期の役割をはるかに超えた莫大なる歴史的機能を国家に与えているのだろう。実際、恐ろしいほどの規模で、国家を社会それ自体の代替物へと転化させたのだ。

我々は、諸状況の組み合わせが急進主義に対して産み出している全く新しい諸条件、革命的プロジェクトを理論的・実践的に再定義するほどの諸条件、を実感しなければならない。社会主義が、自然に対する人間の支配にとって決定的であり、人間的自由の前提条件だと見なしていた科学技術の進歩は、今や、人間による人間の支配を洗練するのに必須のものとなっている。テクノロジーは、今や、支配の諸力に対して空前の統制・破壊手段を提供することで、階級支配とヒエラルキー支配を野蛮なほど強化している。経済と国家の婚姻は、エンゲルスが「反デューリング論」で素朴にも信じていたように革命プロジェクトを単純化せず、過去のいかなる独裁政体も思いのままにできなかった資源を持って、国家の諸権力を強化しているのである。プロレタリア階級は、その子宮の中で懐胎している革命的行為者ではなく、資本主義社会の手先になり果てた−−多分、今までもそうだったのだろうが−−という認識が増大することで、全く新しい非マルクス主義的形態の「革命的行為者」という問題が新たに生じている。最後に、人間の主体性・個人の権能・革命的理想の審美化(astheticization)を示している文化プロジェクト(お望みならば対抗文化でもよいが)として革命プロジェクトを見なす必要性は、次には、革命的運動の構造的性質・内部関連性・制度的形態を考える必要性を導いている。この必要性が、公的領域と私的領域が持つ文化的・主観的・社会的否定を、一部ではあったとしても、補うであろう。実際、我々は今日、「左翼」という言葉の正にその意味を再定義しなければならないのだ。我々は問わねばならない。急進主義は、多くの思慮のない選挙区民を獲得しようと既存秩序内部で運営される粗雑な社会民主主義に還元できるのだろうか?それとも、日常生活においてであれ、来たるべき歴史的時代のより幅広い社会的土俵においてであれ、支配のあらゆる側面と脱社会化に対する莫大な革命的挑戦を前進させねばならないのだろうか?

IV

アナキズムが過去に何を意味していようとも−−キリスト教の至福千年運動であれ、再洗礼論者の農民運動であれ、マフノ主義者やサパティスタの義勇軍であれ、パリの暴徒(アンラージュ)やコミューン支持者であれ、プルードン主義の職人であれ、フランスCGTやスペインCNTに加入した初期の産業労働者であれ−−、近代アナキズムは、最も洗練され、最も急進的な言葉を使って、その最も進歩した、そして私は誠実に信じているのだが、その最終的形態にある資本主義社会、実際ヒエラルキー社会を扱わねばならない、このことは私にははっきりしている。アナキズムを「自然人」とそれが持つ相互扶助傾向の美徳に基づいた非歴史的道徳運動へと追放することは、そして、すべての悪の源泉としての国家に対する反対という点でのみアナキズムを定義することは、さらに悪いことだが、アナキズムをその変種−−シュチルナー・プルードン・バクーニン・クロポトキンのアナキズム−−の一つという点だけで記述することは、歴史的運動としてのアナキズムを全く誤解することであり、特定の社会文脈における社会運動としてのその存在を無視することなのだ。アナキズムは、マルクス主義のように、決定的テキスト・解説者・その分派を伴う占有的性質を持ってはいない。政治運動ではなく社会運動として示すことで、人間性の発達に深く編みこまれているだけでなく、歴史的論述をも要求しているのだ。

ならば、私は、アナキズムは歴史の中に解消されており、理論的アイデンティティを持ってはいないのだ、と言いたいのだろうか?答えは、強い「ノー」である。全てのアナキズム理論とアナキズム運動を統合させているものは、国家に対する社会の擁護・政治的行動に対する直接行動の擁護だけではない。もっと根本的に、アナキズムは、定義により、階級搾取(この重要性をアナキズムが否定したことはない)を超えて、ヒエラルキー支配を扱うのだ、と私は信じている。アナキズムは、ヒエラルキー支配が持つ歴史的重要性を、権威それ自体の源泉として次第に分析するようになっているのである。部族長老支配における年長者による若年者の支配・家父長制家族における男による女の支配・自然の残酷な対象化(objectification)−−これら全ては、階級社会と経済搾取に先んじているのだ。事実、これら全ては、マルクス主義と社会主義がその階級の無い社会という概念の中で、あまりにも気楽に保持している権威の重大な残余領域に留まっているのである。アナキズムは、実際には、資本主義社会が持つ慣例的な経済優先主義的結合体を乗り越え、人間のコンソシエーションそれ自体の正にその感性・構造・性質を探究するのである。マルクスにとっては生物学の社会への不可避的拡充だったヒエラルキーの創世は、アナキズムの枠組みでは社会的現象として見られている。つまり、家父長性と、女性の家庭領域に対する男性公民領域の優越性に最も結びついている源泉を持つ現象なのだ。この奥深い変遷に付いて、ホルクハイマーとアドルノ著啓蒙の弁証法の最後の「動物」に関する一節ほど優れた論述はない。『数千年にわたり人間は、自然を絶対的に支配することを、宇宙全体を一つの莫大な狩猟場へと変換することを夢見てきたのだ。』(248ページ)ヒエラルキーと支配の発生は、必ず、単なる自然資源としての自然の、単なる人的資源としての人間の、単なる都市資源としての地域社会の対象化を産み出す。とどのつまり、世界を無機的技術へと還元し、単なる生産の道具として人間を見なすテクノクラート的感性を産み出すのだ。

マルクスが社会主義へとこの傾向を洗練し、拡張し、知らず知らずのうちに社会主義をイデオロギーへと還元してしまっていることを、私は別の論文で示そうとした(拙著「ブルジョア社会学としてのマルクス主義」、Our Generation、第13巻、第3号を参照)。現在私が関心を持っていることは、アナキズムが、多くの場合直感的にだが、より深遠で・より芳醇で・さらに重要なことだが幅広い洞察を求めて資料を集め、支配と自由の弁証法を掴み取ることなのである。このことは、工場を超え、市場さえをも超え、家族・教育システム・地域社会・そして実際、労働の分業・工場・人間の自然に対する関係−−国家・官僚性・政治政党は言うまでも無く−−の中に蔓延しているヒエラルキー諸関係に到達することでなされるのである。従って、生態学・フェミニズム・地域社会が持つ諸問題は、アナキズムに固有の関心事、社会的直接性を獲得する前でさえもアナキズムがその見解を提起することの多い諸問題なのだ−−その理論的死体に付随し、経済優先主義的で階級志向的な観点の基準に達するように歪められねばならない諸問題ではないのだ。だから、アナキズムは、こうした諸問題を社会分析と実践の中核にすることで、現在までのところ、現代社会主義の大多数の諸傾向に影を投げかけている関連性を獲得してきたのだ。実際、アナキズムは、社会主義が折衷的に「社会主義的フェミニズム」・「公害の経済学」・「アーバニズムの政治経済」という相反する食餌で成長しているときの、かいば桶となっているのである。

第二に、アナキズムは、それが創り出そうとしている正にその社会という形で、革命運動として自身を構造化するという緊急の課題に直面している。アナキズムは、ヒエラルキー的組織形態が組織それ自体と同じであるという馬鹿げた考えを破壊する必要などないし、同様に、国家はいつでも社会と同義であるという考えを破壊する必要もない。アナキズムを他の社会主義と驚くべきほど区別していることは、リバータリアン連合運動と文化に対するコミットメントなのだ。その運動と文化は、イデオロギー的合意だけでなく私的親和性によっても団結し・「上」からではなく下から管理し・自発的な直接行動にコミットしている、人間規模の諸集団の調整に基づいているのである。ここで、アナキズムは、命令と無機性の増大による官僚制度的成長とは異なる、いわば細胞一つ一つの、萌芽的成長を促しているのである。コンソシエーションが致命的な分離の予見に直面している時代に、アナキズムは政治ではなく社会に向き合い、官僚制度的代議制を通じた政治的無力ではなく直接行動を通じた個人の権能に向き合っているのだ。したがって、アナキズムは新しい公的領域内での市民性の実践だけでなく、革命的運動それ自体の自己執行(self-administration)でもあるのだ。下からアナキスト運動を構築するという正にそのプロセスが、コンソシエーション・自主活動・自主管理のプロセスとして見なされるのである。それは、究極的に、本物の社会に働きかけ、社会を変革し、管理できる革命的自己を産み出さねばならないのだ。

私は、ここまで、重要な理論的集成・批判があげている悲嘆の声を走り書きして来ただけである。これを詳細にわたり発展させようとすれば数巻の書物となるであろう。今日、最も進歩したアナキスト理論は「自然人」への神秘的回帰・粗雑な反国権主義・組織の必要性の否定・暴力とテロとしての直接行動のヴィジョン・洗練された理論の思慮のない拒絶・あらゆる社会主義理論の著作に潜んでいる不透明さなど含んではいないことを強調しておこう。アナキズム的批評と改造は、社会主義の伝統とブルジョアの伝統の奥底まで到達しているのである。アナキズムが、アドルノが主張したような、「亡霊の復活」ならば、何故この「亡霊」が我々に今日もつきまとい続けているのかを公正に問わねばなるまい。この現実に理性的に答えるためには、「亡霊」は、歴史的発展における現在のレベルでの社会・人間的コンソシエーションを保持する試み以外の何物でもないことを思いだすだけでよい。この現在のレベルは、あらゆるところに偏在する国家と官僚性・それに付随する個人の脱個性化(depersonalization)・民衆と公的領域の解消に直面しているのだ。同じ理由で、社会主義の、特にマルクス主義的なもののブルジョア的本質は、市民をプロレタリアにするという塊化(massification)の・公的領域としての工場の・「階級意識」として文化的貧窮の・社会から経済への退却の・自然に対する技術の大勝利の・倫理に対する科学の大勝利の不名誉な賞賛にあるのだ。アナキズムが「亡霊」ならば、それは人間のコンソシエーションそれ自体が幽霊になるように脅かされているからなのだ。マルクス主義が「生き生きとした存在」ならば、それは市場が社会生活を食い尽くすぞと脅かしているからなのだ。アドルノのメタファーは、誤った「歴史主義」の名で混乱を招くものだ。そこでは、過去が実際に現在よりももっと活力を、「亡霊」それ自体に生を授けずには復活できない活力を享受しているのである。国家・官僚制度・「大衆」が悪魔払いされるのなら、歴史のこの段階から引きはがされるのは、アナキズムではなく、中央集権型政党・ヒエラルキー・経済優先主義的感性・政治的諸戦略・階級神話を持っているマルクス主義なのだ。

V

私は多くのことを省略しなければならない。私に与えられた時間が短いため、次のような興味深い諸問題を扱うことはできない。例えば、今日の「革命的行為者」・政治領域に対するアナキスト実践の関係(アナキストが、モントリオール市民運動の選挙活動で重要な役割を演じたことを思いだせば、一般に思われているよりももっと複雑な問題だと分かるだろう)・アナキスト組織構造の詳細・対抗文化、フェミニズム、エコロジー運動、新マルクス主義の諸傾向などに対するアナキズムの関係である。

ただ、以下の非常に重要な考察で私の結論とすることをお許し頂きたい。革命的階級としての−−歴史的に、私は信じているのだが−−プロレタリア階級が無活動で、伝統的工場が技術的な消滅に瀕しているとき、アナキズムは、ほとんど独りで、今では有名な「社会問題」の前景にある、生態系諸問題・フェミニズムの諸問題・地域社会の諸問題・自己権能の諸問題・権力分散の諸形態・自己行政の諸概念を取り上げてきた。そして、アナキズムはこうした諸問題を、理論としてのその正なる実質の内部と、ヒエラルキーと支配に反対して向けられた実践の内部からもたらしたのであり、階級分析と、物質的搾取の諸問題に影響を受けやすい経済的解釈で対処したり、ねじ曲げられたりしなければならない外因性の諸問題からではないのである。